始めは他愛もない会話を時々交わす程度だったはずだけど、近寄りがたいと思われていた印象に反して、志麻くんはずっと話しやすい人だった。

 話しかければ応じてくれるし、面倒くさそうな素振りを見せることもない。

 むしろ、志麻くんの方から話しかけてくれることも増えてきて、クラスメイトたちも少しずつ彼と打ち解けられているように思えた。

「あれ、志麻くん眼鏡は?」

「コンタクトにした」

 ある朝、登校してきた志麻くんはあの分厚い眼鏡を身につけていなかった。それどころか、もっさりとしていた髪の毛も整えられている。

 とはいえ、長めの前髪で目元は少なからず隠れてはいるのだけど。それでも大きすぎる変化だった。

「コンタクトか~。コンタクトって入れる時怖くないの?」

「最初は違和感あったけど、すぐ慣れた。視界も広くなったし」

「ふふ、それは髪の毛がさっぱりしたからじゃない?」

「それもある。スゲー久しぶりに美容院行った」

 志麻くん自身も、いい加減に髪の毛が鬱陶しいと感じていたらしい。どうしてそんな風にしていたのか、その理由までは聞いたことがないけれど。

 話しながら昇降口で靴を履き替えていた私は、足元から顔を上げると同時に動きを止めてしまう。

 予想外に近い場所に、志麻くんの顔があったからだ。

「……ん。こっちの方が、見たいものがちゃんと見える」

 はっきりと目が合うようになった志麻くんの視線に、妙にドキドキしてしまう。想像していた以上に顔立ちが整っているせいもあるのだろうか?

「えっ、ちょっと待って。あれって藤岡くん……!?」

「うわ、マジかよ藤岡、お前イケメンだったのか!? 裏切り者ー!!」

 彼の変化に気がついたのは、もちろん私だけではない。

 そこに立っているのが志麻くんだと認識したクラスメイトたちは、瞬く間に彼の周りを取り囲んでしまった。

 人の波から弾き出される形になった私は、集団を避けてこちらにやってきた眞白と合流する。

「眞白、おはよう」

「おはよ。……なにあれ、藤岡くん? 超人気者じゃん」

「うん、みんなびっくりしたみたい」

 しばらくその光景を眺めていた私たちは、一足先に教室へと向かうことにした。

 その日は休み時間の度に志麻くんが取り囲まれていて、たまに面倒くさそうにしている時もあったものの、楽しそうな彼の姿に私も嬉しくなる。

 一人でいたいタイプなのかと思ったこともあったけれど、やっぱり話してみなければわからないこともあるのだろう。

「みんな高校デビューってやつかぁ。あたしもイメチェンしよっかな」

「眞白はもう十分かわいいと思うんだけど」

「……あたしかわいい?」

「うん」

 私も前髪を切ったからだろうか、眞白のイメチェン欲を刺激したらしい。

「千綿がそう言うならこのままでいっかぁ」

 けれど、その考えはあっさりと現状維持に落ち着いてしまった。

 髪形を変えるのだとしたら、眞白がどんな風にするのかは当然興味がある。眞白はかわいいし、どんな風にイメチェンをしてもきっと似合うだろう。

 なにより、本気で変えるつもりなら私の言葉ひとつで決定が覆ったりはしない。彼女はそういう人間だ。

 そんなやり取りをした日の午後、私は別のことで頭がいっぱいになっていた。

 この日が来ることは前々からわかりきっていたというのに、いざその時を迎えると悪い考えが脳内に渦を巻くのは不思議なものだ。

「千綿、どれ参加するか決めたか?」

「志麻くん」

 半ば自由時間となっている教室の中。うんうんと頭を悩ませていた私のところに、志麻くんがやってきた。

 黒板には白いチョークで大きく『体育祭 種目一覧』と書かれている。そう、私はまさに参加種目について悩んでいたのだ。

「いや、私は……」

 強制参加の種目以外は、無理に参加をする必要はない。

 人数制限もあるし、決して運動が得意とはいえない私が手を挙げる理由もないのだけど。

(ムカデ競争……やってみたいな)

 五人一組となって他のクラスと順位を争うムカデ競争。

 中学の時には無かった種目で、クラスメイトに話を聞いて大きく興味を惹かれていたのだ。

 ただしこれは個人競技とは違って、仲間の足を引っ張ることにもなりかねない。本来なら、自信のある人間に任せるべき種目だと思う。

「なんかやってみたいやつあるんだろ?」

「え……?」

 そんな私の心境を知ってか知らずか、志麻くんはそんな風に私の背中を押そうとする。

 そうこうしている間にも、早い者勝ちの競技の下にクラスメイトの名前が並んでいく。私が声を上げなくても、悩むうちにメンバーは決まっていくだろう。

「いいじゃん、やってみれば」

「でも……」

「試してみなきゃ何も始まんないし、口に出さなきゃ誰も気づかない」

 今この場で、私を無理矢理参加メンバーに加えることだって志麻くんにはできてしまう。

 実際に、参加をするつもりはないのに友人の悪ノリによって、種目に強制参加させられているクラスメイトの姿もあった。

 だけど、志麻くんは私自身の意思を尊重してくれようとしている。

「言葉ひとつで、世界って案外変わるもんだよ」

 優しく落とされた言葉が、私の視界を広げた気がした。

 やってみたいと思ったことを飲み込んでしまうのは、私自身の悪い癖だ。

 前髪を切った日のように、踏み出してみるのは何も悪いことばかりじゃない。

「わ、私……ムカデ競争やりたい!!」

 想像以上に大きな声が出てしまって、教室内の視線が一気に私に集まったのがわかる。

 恥ずかしくて顔が熱くなる。けれど板書を担当していた小畑くんがすぐに、ムカデ競争の文字の下に私の名前を書いてくれた。

「よーし、ムカデに嶋千綿な」

「……あ、じゃあ、わたしもやってみたい」

「お、そんじゃ西崎ムカデ追加~」

 続いて手を挙げたのは、クラスの中でも大人しいイメージの西崎さんだ。

 彼女が参加をするとは思わなかったけれど、どうやら私が立候補をしたことで勇気を出してくれたらしい。

「千綿はムカデか。俺は別だけど、お互い頑張ろうな」

「うん……! ありがとう、志麻くん」

「なんのありがとうだよ、千綿が決めたことだろ」

「そうだけど……ありがとう」

 私が一歩を踏み出せたのは、紛れもなく志麻くんのお陰だ。そんなことわかっているはずなのに、彼は素知らぬ顔をする。

 だからせめて感謝はしっかり伝えようと思ったのだけど。

(っ…………いつも、そんな顔してたのかな)

 分厚いレンズに阻まれていない、少し眩しそうな目をした笑顔。

 誰にも見えない向こう側でそんな顔をしていたのかと思ったら、私の心臓が一気に騒ぎ出してしまった。

 こんなのは生まれて初めてで、そういうものなのかはわからないけれど。

(これが恋なら……相手が志麻くんで良かった)





 志麻くんの周りに人が集まるようになって、一緒の時間は必然的に減ってしまう。……と思っていたのだけど、全然そんなことはなくて。

 二年生になってクラスが分かれてからも、志麻くんは何かと私に声を掛けてくれた。

 私はそれが嬉しかったし、志麻くんのことを知る度に、ますます彼のことが好きだという気持ちが胸の内側を占めていく。

 志麻くんにとって私と過ごす時間がどんなものだったのかはわからないけれど、簡単に無かったことにできてしまうほど、私の中の『好き』は小さくなかった。

 だから、結局また志麻くんに告白をさせてしまっていることに絶望するしかなくて。

(……どうして志麻くんは、私を嫌いになってくれないのかな)

 胸が痛むだなんて、そんなことを言い訳に『好き』を殺せないでいる自分はずるい。

 私は志麻くんの命より、自分の恋心の方が大切なのかな?

 分厚い防火扉に挟まれて動かなくなった彼を見下ろしながら、私は世界が振り出しに戻っていくのを止めることもできない。

 あんなに必死だったのに、すっかり思考が停止してしまったみたいに、次の手段を考えることができなかった。

 私の努力に最初から意味なんてなかったのかもしれない。

 ただ次の学園祭までの日々を過ごして、志麻くんが死んでしまう日を迎えるだけの無意味な一週間を噛みしめる。

「千綿、あたしに何か隠してない?」

 そんな私の顔を覗き込んできた親友は、まるで情けない心の中を読んでいるみたいだと思った。