1年1組、()()35()()

 そのうちのふたりは前日までに死んでいるため、学校に居たのは33人。

 それが、たった数時間で崩壊してしまった。

 死者18人。

 後遺症が残るほどの重症者9人。

 命に別条がないが回復に時間のかかる重症者2人。

 かすり傷程度の軽傷者3人。

 無傷、1人。

 もちろんこれは外傷だけ。

 心の傷を含めたら、本当の意味で深い傷を負わなかった人は夜見坂くんくらいのものだろう。

 誰もがぐちゃぐちゃに壊され、殺されてしまった。

 たったの、一日で。

 夜見坂(よみさか) (なぎ)

 言葉巧みに人を操り、他人に人殺しをさせる殺人鬼。

 私はもう、彼とは二度と関わり合いになりたくはなかった。

 しかしその願いは――叶わない。




「先生、正義のヒーローになろうよ」

 夢のようにふわふわした視界の中で、夜見坂くんがマンションのドアに向けて何事か話しかけている。

「先生の状況は最悪です。顔は晒され、個人情報はバラまかれ、SNSでは誹謗中傷の嵐。社会的に死んだと言っても過言じゃありません」

 ドアの向こうからは怒鳴り声ばかりが返ってきた。

「でも考えて下さい。先生が誰かを殺しましたか? いじめましたか? 僕は先生が悪いことをしなかったと知っています」

 夜見坂くんの言葉に相当怒っているらしい。

「告発するんですよ。校長の悪事を! 生徒たちの醜悪さを! あいつらはどうしようもないくらいにクズだったって! 本当は先生が正義だったと知らしめるんです! 先生は、悪くない」

 でも、夜見坂くんが何か言うごとに反発は減っていく。

 夜見坂くんの言葉は甘くて心地いいから、話し相手は少しずつ絆されているのだろう。

「はい。強い言葉を使ってすみませんでした。先生には分かってほしかったんです」

 最終的に、彼――1年1組の担任である下園勝正は、扉を開けて姿を見せた。

 事件から一度もひげを剃っていないのか、誰か分からなくなるほど無精ひげが顔の下半分を覆っている。

 そのくせ目だけは異様にギラついていて……。
 
「ああ、そうだ。その通りだ」

 下園先生も夜見坂くんの操り人形になってしまったのだ。

 先生はこれから人を殺すだろう。

 多くの人を巻き込んで、混乱させて、被害を拡大させる。

 学校、先生、保護者。

 きっと、終わりはない。

「俺は戦うよ。なにもやってないのに人生を失ってたまるか」

 お酒や汗のすえた臭いが鼻をつく。

「ありがとう、俺がやるべきことが分かったよ」

 そこで私は違和感を覚えた。

「今まで力になれなくてすまなかったな」

 いったい、どこで私はこの光景を見ているんだって。

「白上」

「――っ」

 急激に意識が覚醒する。

「じゃあ、ちょっとやることがあるから。ああ、証言は後で録音させてくれ」

 私の目の前には満面の笑みを浮かべた下園先生が居て、言いたいことだけ一方的に言うと部屋の中へと引っ込んでいく。

 私は、見覚えのないマンションの廊下で一人立ち尽くすしかなかった。

「あれ、これ……」

 私のポケットから夜見坂くんの古ぼけたスマートフォンが出てくる。

 画面を見れば今も録音が続いているようだった。

 とりあえず録音を止めて画面を見つめる。

 画面には、今まで録音してきたものと思しきファイル名がずらりと並んでいた。

 そのうちのひとつ、一番上のファイルがたった今録音したばかりのものなのだろう。

 現在の時刻が表記されている。

 無性に聞かなければならないという強迫観念に突き動かされて、微かに震える指先でファイルをタップした。

 わずかなノイズの後、スピーカーから溢れてきたのは――

『せんせ~、居ますよね~? あなたが担当する、かわいいかわいい1年1組の生徒がやってきましたよ~』

 私の声だった。

「…………え?」

 口調こそ夜見坂くんのものだけど、その声は私のもの。

 生まれてからずっと聞き続けてきたのだから聞き間違えるはずはない。

「なん……で?」 

 意味が分からなかった。

 困惑しかなかった。

 だって確かに彼は存在しているはずで――。

「してないけどね」

 私の背後で夜見坂くんの声がしたように思えたから、振り向いて確認してみたけれど……誰も居なかった。

「本当はもう気づいてるよね。でも認めたくないだけ。ねえ――」

 ああ、分かってる。

 理解している。

 だってさっきから――

白山菊理(ぼく)

 ――私の口が動いているんだから。

「あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁっ!!」

 私の口から悲鳴が迸る。

 肺腑の底から空気を絞り出すような大きくて、長い悲鳴が。

 否定したかった。

 認めたくなかった。

 気づきたくなかった。

 だって、だって。

 私が、白山菊理が、ひとを狂わせて操り、ひとにひとを殺させてきた殺人鬼だったなんて知りたくなかった。

「こんな、なんで!」

「君は無意識の内に僕という可能性を排除していた。だから気づけなかった」

「そんなの……」

 今なら思い当たる。

 違和感はそこかしこにあった。

 現場に夜見坂くんが居たことを警察に告げていないのに、警官は夜見坂くんに現場で見たことを口外しないよう注意した。

 35人居ると私は思っていたけれど、出席番号の最後は34番だった。

 五十音順で並ぶ出席番号の最後は湯川大陽だった。

 私以外、誰も夜見坂くんの名前を呼ばなかった。

 中水美衣奈への暴行を止めるべく私が教室の扉を開けた時、扉の前には私と稲次浩太と夜見坂くんの3人が居た。それなのに上良栄治は「どっちがやった」と叫んだ。

 稲次浩太は男である夜見坂くんが女子トイレから出て来たのに何も言わなかった。

 上良栄治に聞かせた音声は、私にしか録音できなかった。

 他にもまだ、まだまだ、たくさん覚えはある。

 私が無意識に目を逸らし、考えないようにしていただけ。

 あたかも夜見坂 凪という人間が存在しているかのように、私が私の認識をいじっていただけ。

「でもそれがいいんだよ。言ったよね、僕は」

 一字一句違わず覚えている。

「同情を買って、あいつらの印象を最低最悪にまで落とした? 警察が思わず君の味方をしてしまうぐらい、君のことを可哀そうな存在として認識した? 事件にかかわる人たち全てを公平公正な目で見るべき警察が、偏見を持ってしまうぐらいに印象操作をした?」

 それこそが私の役目。

 夜見坂くんの――私の関与を疑われないために一番効率がいいのは、私が純真無垢な被害者であることだ。

 『可哀そうな白山菊理』という仮面が、その下にある殺人鬼の顔を覆い隠してしまう。

 そのための私。

 そのための夜見坂くん。

 存在しない私の影にして、もうひとつの人格。

 都合のいい正義のヒーローなんかじゃない。

 私は私の意思に従い、私すらコマにしてクラスのみんなへと復讐をする、私だけの正義に味方してくれる存在。

 私が生んだ操り人形。

 夜見坂 凪。

「おめでとう、白山菊理(ぼく)。君は立派な殺人鬼だよ」

「違うのっ! 私は……私は……」

「否定するのは、あの女性警官のせいかな~?」

 海星さん。

 たったひとりの異物。

 在り得るはずのない、私を助けようとしてくれた存在。

「いい人だったね」

 きっと彼女が居たから、私は夜見坂くんを拒絶してしまったのだろう。

「でも、白山菊理(ぼく)のせいで死んじゃったけど」

 違う、違う、違うっ!

 死なせたくなかった。

 傷つけたくなかった。

 でも――

「そうだね、殺したんだった」

 私が殺してしまった。

 私は誰彼見境なく殺す存在に成り果ててしまった。

 見られた物じゃないくらい私の心は醜くて、歪んでいて、どうしようもないくらいに壊れていた。

 私は殺人鬼。

 私は人でなし。

 私は怪物。

 私は――。

「白山菊理を助けるためには必要な犠牲だったんだよ」

「――――っ」

「この世界は誰も他人を助けてくれない。誰も他人のことなんか気にしない。他人を踏みつけにして、自分だけが上がっていく。必要なんだ。生きるために」

 だから、海星さんは死んでしまった。

 でもそんな風に私は思えない。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。

 たまらず私は逃げ出してしまった。

 だけど夜見坂くんからは逃げられない。

 彼は私で、私は彼。

 同一人物なのだから、どんなに走ったところで距離を取ることも出来ない。

 ……生きている限り。

 だから私は、マンションの屋上に来ていた。

 お母さんがとか色んなことを私の口が喋っているが、私はそれらを無視して金網を登る。

 そして、

「殺してしまってごめんなさい」

 地面と空が反転している世界で、私は最期に迷惑をかけてしまった人たちへ向けて、謝罪の言葉を。

「助けてくれてありがとうございました」

 助けてくれた人たちにお礼の言葉を口にする。

「それから夜見坂くんも」

 最後は私自身の悪意に。

「ごめんね、ありがとう。私も一緒に消えるから」

 私は罰されなければならない。

 私は死ななきゃいけない。

 殺人鬼を止めるためにも。

 重力の手に引っ張られ、黒いアスファルトに全身を強く抱きしめられて――。

「でもさ。あの女刑事さんが死んでしまったからこそ僕らには責任がある。そうは思わない?」

 ――私の意識は闇に落ちた。





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 白一色に染められた世界。

 カーテン、床、壁、ベッド、シーツ、備え付けられたテーブルに至るまで、全てが真っ白で統一されている。

 そんな世界にただひとつ、色がついている存在があった。

 真っ黒な髪、日焼けを知らない(なま)(ちろ)い肌、薄桃色の唇。

 顔立ちからして地味な印象を受ける少女がひとり、ベッドに埋もれるようにして眠り続けていた。

 そんな世界に、瞳の黒が新たに加わった。

 少女は目を数度、ぱちぱちと瞬かせた後、上体を起こす。

 部屋を見回して状況を確認。次は己の体を下から順に触れて確かめていく。

 シーツで隠れた足、患者衣に包まれた腹部。

 右肩を抑えた瞬間わずかに顔をしかめたが、そのまま手を止めずに首筋、顔、頭頂部と撫でまわしていった。

 そして、体に異常を見つけられなかったからだろう。

 少女は口元を綻ばせて――

 軽薄な笑みを張り付けて――

「あはっ」

 (わら)った。