私がその質問を口にした瞬間、周囲の空気が氷点下にまで下がったのかと錯覚してしまった。

 原因はもちろん夜見坂くん。

 彼の顔から一切の表情が消え失せ、あの軽薄な雰囲気も、嘘くさい言葉もなくなってしまう。

 完全な無。

 それがこんなに怖いだなんて、私は知らなかった。

「…………」

「…………」

「………………」

「………………ごめんなさい、なんでもな――」

「あっはぁ~」

 夜見坂くんが、(たの)しそうに、わらった。

 好奇心はネコを殺す、なんて言葉が脳裏に浮かぶ。

 こんなこと、聞かなきゃ良かったのだ。

 気づいても素知らぬふりを決めこんで、納得したと頷いて、騙されたふりを貫くべきだったのだ。

 ああ、私は本当に馬鹿なことをしてしまった。

「気付いちゃった?」

 夜見坂くんが再び仮面を被りなおす。

 浅薄(せんぱく)で、軽薄(けいはく)で、軽佻浮薄(けいちょうふはく)な仮面を。

 でも今はその隙間から少しだけ本心を覗かせていて、私はそれに心の底から恐怖を覚えた。

「…………」

 私は俯き、床を見つめる。

 このまま誤魔化すことはできるかもしれない。

 まだ言葉を聞いていないのだから、先ほどの質問はなかったことにして、やっぱりなんでもない、勘違いだったと嘘をつけば――いや、無理だ。

 夜見坂くんはそんなことで見逃してくれるような存在じゃない。

 そう、私の直感が告げていた。

「夜見坂くんは、正義の味方だって言ってたから……」

「うんうん、そういえばそんなことも言ってたね」

「なにも行動しないのはおかしいかなって」

 私の選択は間違っていなかっただろうか。

 今すぐ顔をあげて夜見坂くんの顔を見ればその答えが分かるのだけれど、それをする勇気が私にはなかった。

 夜見坂くんが「うーん……」と唸ってからため息をつく。

 その間、私は夜見坂くんがいったい何を言うのか、私になにをするのか、戦々恐々としていた。

「バレてたのなら仕方ないかぁ」

「…………」

「知りたい?」

 別に知りたくない。

 怖かったから、本能のままに行動してしまっただけのこと。

 ホラー映画でなにかを探しに行って、まっさきに殺されてしまう馬鹿なキャラクターと全く同じ行動をしてしまっただけ。

「昨日、企業秘密って言ってたから、別に、いい」

「あー、さっきからよく覚えてるね。僕は忘れかけてたのに」

 夜見坂くんが頬を掻くために上げた腕に、私はびくりと反応してしまう。

「……そう、かな」

「そうそう」

 私の怯えが見抜かれてしまったのか、夜見坂くんの声には呆れの色が混じっている。

 ただ、私が思っていたほど危険ラインを踏み越えてはいなかったのかもしれなかった。

「まあ、この死体ちゃんの彼氏が他の女と浮気してる現場写真を見せてあげただけなんだけどね」

「え……?」

 背筋にぞくりと冷たいものが走る。

 そんなもの、昨日今日で手に入れられるものじゃない。

 何日も何日も張り込んで、ストーカーもように付きまとって、ようやく手に入れられるものだ。

 つまり夜見坂くんは、それだけ以前から誰かを殺すために行動してきたということ。

 彼はそれほどまでに、誰かを害したいと思っているのだ。

「いやー、まさかこれほど早く、こんな結果が出ちゃうなんて思いもしなかったよ」

 先ほど夜見坂くんは、宮苗瑠璃の身長を正確に155センチと知っていた。

 恐らくみんなの情報全て、知り尽くしているのだろう。

 だからこんなに朝早く登校して来たのだ。

 私が朝一番に登校してくることを知っていて。

 宮苗瑠璃がなんらかの事件に巻き込まれたことを知っていて。

 もしかしたら、私が校舎裏でお金をたかられていることも、知っていたのかもしれない。

 なんでそんな情報を持っているのか。

 そんなことを知ってどうするのか。

 その答えは多分、始めから誰かを壊すつもりで行動していたというだけ。

 私の前に現れたのは、動く動機が欲しかっただけじゃあないだろうか。

「すごいよね~、人間って」

「…………」

「面白くなるのはこれからだと思ってたらもうこんなになっちゃってさ。おかげさまでいい所を見逃しちゃった」

 これが夜見坂くんのやり方なのだ。

 人を煽り、そそのかし、焚きつける。

 これから先、いったいどのくらいの人が傷つけられるのだろう。

 いや、はたして傷つくだけで終わるのだろうか。

「……ねえ」

「な、なに?」

 顔を伏せていた私の視界の中で、夜見坂くんがゆっくりとしゃがんでいって……。

 目が、合ってしまった。

 夜見坂くんは嗤うような、怒っているような、呆れているような、そんな曖昧な表情で私の瞳を見つめてくる。

 見たくない。

 目を逸らしてしまいたい。

 なのに、私はそれができないでいた。

 ――カクっと、壊れた人形の様に夜見坂くんの顔が(かし)ぐ。

 そして唇に、指が当てられた。

「…………あはっ」

 顔は斜めで指はまっすぐ。

 それは本当に黙っていろと言いたいのだろうか。

 ちぐはぐなサインで意味をわざと間違えさせて、私を壊す理由が欲しいんじゃないだろうか。

 分からない。

 分からないけれど……怖い。

「ところで君も大変だね」

「……え?」

「だって、第一発見者でしょ」

 そうだった。

 私が一番最初に死体を見つけたんだ。

「け、警察に通報しなきゃ……!」

 慌てた私は、職員質へ向かおうとして――気付いた。

 私はなにを通報すべきなのか、と。

 死体を見つけた。

 教室は密室だった。

 そのふたつは言っても構わないだろう。

 だが、私は今、もう一つ違う情報を知ってしまっていた。

 夜見坂くんが、その原因を作ったんだっていうとんでもない情報を。

 このまま言われるがままに通報していたら、事情聴取を受けた時に話さざるを得なくなっていただろう。

 果たしてそれを夜見坂くんが許すのか。

「…………あっ」

 ああ、今私は殺されかけてたんだ。

 気づかなかったらきっと、私は夜見坂くんに殺されていた。

 だから、

「ねえ」

 今度は私から夜見坂くんへと声をかける。

「私は警察に何を言えばいいの、かな」

「――――っ」

 きゅうっと、夜見坂くんの瞳孔が縮まる。

 それで、私の事も獲物のひとりだったんじゃないかって、思い知らされた。

「普通に言えばいいんじゃないの?」

 ――まだ、試されている。

「……どこまで、言っていいの?」

「ん~?」

 にやぁ、という粘着質な笑みを、夜見坂くんが浮かべた。

「それってさ、僕の共犯者になりたいってことでいいのかな?」

 私は一瞬ためらった後に……頷く。

「そうなんだ」

 今、物語は私の知らないところで勝手に進み、その結果宮苗瑠璃が何者かに殺された。

 私は正義の味方に助けられる顔のないわき役みたいなものだった。

 けれど夜見坂くんは正しく正義の味方じゃあない。

 一方的に利を与えて去っていく都合のいい存在なんかじゃない。

 正義の味方のふりをした悪魔なのだ。

 目的は誰かを傷つけて、壊して、殺すこと。

 私の味方をして一通りクラスのみんなを殺しつくせば、次は私の番。

 そもそもクラスのみんなと私の違いも分かっていないかもしれなかった。

「じゃあさ、君は宮苗瑠璃を殺したも同じってことは理解してるかな?」

 また私はうなずく。

 そんな事、当たり前に理解しているからだ。

 私が夜見坂くんの背中を押して、夜見坂くんが宮苗瑠璃の背中を押して、宮苗瑠璃が誰かの背中を押した。

 そしてこれから夜見坂くんは、更に多くの背中を押すだろう。

 止まらないし止められない。

 私が、始めた。

 こんな風になると思わなかった、なんて言い訳は通じない。

 だって私は確かにあの時、クラスメイトみんな、生きている価値なんかないと……死んでしまえと思ってしまったから。

「あはっ」

 夜見坂くんがわらう。

 私は、わらえない。

「じゃあ、次は誰を殺す?」