私をいじめたクラスのみんながぐちゃぐちゃに壊されて殺されるまで

 1年1組のクラスは殺人事件の現場となってしまったため、使う事ができなくなっているため、いつもと違う3階の部屋を臨時の教室としてあてがわれていた。

 そこは本来なら3年生が使っている教室なので、当然棚は荷物で埋まっている。

 だから私たちは全ての荷物を学校指定のショルダーバッグに入れ、机の横に吊るしていた。

 その状態だからこそ出来る嫌がらせというものがある。

「なに見てんだよっ」

 治療を終えて教室に戻って来た中水美衣奈は、先生たちが居ないのをいいことに、入り口から二列目、後方から数えて二番目の席――持ち主である上良栄治のいない、からっぽの席へと近づいた。

「私のこと、チクるなよ。チクったらあとでぶっ殺すからな」

 中水美衣奈はそう言って周囲のみんなを威圧した後に、机の横に引っかけてある上良栄治のカバンに手をかけた。

 そのままジッパーを開いて中の物を取り出しては机の上に並べていく。

 彼女はなにかを盗もうとしているわけではない。

 目的は――。

「チッ、無事だったか」

 青いきんちゃく袋に包まれた、上良栄治の弁当だ。

 学校で取り調べが行われるとあって、今日は購買が閉まっている。

 だから生徒全員が昼食を用意して登校していた。

 中水美衣奈はもう一度周囲に(にら)みを利かせてから、弁当箱のロックを外す。

 誰一人として喋ることのない静かな教室に、バコッという弁当箱の蓋が外れる音が響いた。

 彼女がしたかったことは単純だ。

 弁当の中身をカバンに直接注ぎ入れること。

 子どもかと言いたくなるほど単純で悪質な嫌がらせ。

 きっとクラスのみんなは思っただろう。

 なんだ、こんなことか……と。

 恐らくこの程度であれば、上良栄治に告げ口をする者は居ないだろう。

 なにせこの教室内では二度ほど騒動が起きている。

 その際には机が倒れたり、荷物が蹴飛ばされたりと、惨憺(さんたん)たる有様であった。

 弁当箱の中身がこぼれる程度のことは、十分に起こりえる出来事だろう。

 全員が黙っていれば、暴れまわった上良栄治自身の自業自得として処理されるはずだ。

 わざわざ中水美衣奈の不興を買う理由はない。

 私へのいじめを見て見ぬふりをし続けたこのクラスメイト達ならば、絶対にその選択肢を選ぶはずだった。

 ――それこそ、夜見坂くんの予想した通りなのだけれど。

 これは一歩目。

 中水美衣奈が自分の手を汚さずに上良栄治を殺す、その一歩目なのだ。

 だから誰にも気づかれてはいけない。

 理解されてはいけない。

 それは今のところ、成功していた。

「――ハッ」

 中水美衣奈は嫌がらせを実行し、全ての荷物をカバンの中に詰め込んでいく。

 教科書やノートは米やおかずで彩色され、見られたものではないだろう。

 ものの数十秒もしないうちにこと(・・)は終わり、中水美衣奈はついでとばかりにカバンを蹴りつける。

 上良栄治の席にぶら下がっているカバンが大きく揺れ、やがて止まった。





 急に、バンッと教室前方の扉が叫び声をあげる。

 原因となったのは、上良栄治。

 ガラスの向こうで彼は、とても不服そうな表情をしていた。

 ――帰って来た。帰って来た。帰って来た。

 私たちが仕掛けた罠の中に、上良栄治が飛び込んで来る。

 それを意識しまった私の心臓は、ドラムロールのように脈打ち始める。

 緊張だけで押しつぶされてしまいそうだったけれど、今更やめることは出来ない。

 彼ら(・・)の命を奪うまで終わらないのだ。

「あ~、クソが……」

 教室に入って来た上良栄治が、わざと大声でそう呟くと、これ見よがしに(こうべ)(めぐ)らせ、中水美衣奈、それから稲次浩太と順番に睨みつけていく。

 まだわだかまりは残っているのだろう。

 いや、解消されるはずがない。

 押し込められて心の奥底で渦を巻き、解き放たれる時を今か今かと待ち望んでいるのだ。

「みんな、静かに自習できているね。そのまま続けて」

 そんな上良栄治の頭越しに、下園先生の声が飛び込んで来る。

 努めて冷静を装ってはいるが、誰にだって仮面であることが察せられるほど薄弱な上っ面であった。

 ただ――。

「それじゃあ、お願いします」

 下園先生の声に促され、青い制服を身にまとった大柄な警官が姿を現す。

 警官は口をへの字口に曲げ、しかつめらしい表情を浮かべている。

 もともと厳つい顔立ちであることも相まって、見るからに恐ろしい存在感を放っていた。

「こちらの方は先生がいない間、トラブルが起きないように見ていてくださるそうだ。警察がみんなを疑っているとかそういう風には取らないでくれよ」

 つまり、下園先生は諦めたのだ。

 次から次に起こる(いさか)いを前に、自らが解決することを放棄し、警察という抗いがたい力で以って押さえつける方法をとることにしたのだ。

「みんなを守ってくださる方だ、いいね?」

 首輪をつけてくれるご主人様だと紹介されて、いい印象を持つ方がおかしいだろう。

 それが分かっているからか、みんなの反応は鈍かった。

「……お願いしますと言おうか」

 みんなの不満を見て取った下園先生は、そんな提案を押し付けてくる。

「礼節は大事だからな。――響、起立と礼の号令を」

「……僕、ですか?」

「ああ、やりなさい」

 なぜ今、こんな状況でそんなことをやらなければならないのか。

 そんな疑問さえ抱いてはいけないという有無を言わせぬ態度に、一瞬だがめまいを覚えそうになる。

 結局のところ、下園先生はそういう人だったのだ。

 なにか異常事態が起こっても、それに対処するよりは逃走を選ぶ。

 異常を通常に戻すよう努力するよりも、日常で上塗りすることで何も起きていないことにしてしまった方が楽だからだろう。

 だから私がいじめられていたとしても、我慢するように言うだけで何もしてはくれなかった。

「…………き、起立」

 響遊の号令で、ためらいこそあったもののクラス全員が席を立ち始める。

 その間に強面(こわもて)の警察官は、下園先生の誘導で教壇へと上がっていた。

「礼!」

 無言でみんな体を倒す。

 しかしそれでは不満があったようで、下園先生は「お願いしますと言いなさい」なんてやり直しを要求してくる。

 殺人事件が起こって、容疑者が殴り合いの喧嘩や暴行事件を起こした。

 私なんてこん棒で殴りかかられ、助けてもらわなければ今頃病院のベッドの上だっただろう。

 それでも私は襲撃者である中水美衣奈と一緒になって警察官へと頭を下げている。

 学校とはいったいなんなのだろうか。

 この、世間から隔離された世界は正常なのだろうか。

 本当に頭がおかしくなりそうだった。

「……よ、よろしくお願いします!」

 響遊の号令に従い、もう一度頭を下げながら彼と同じ言葉を口にする。

 みんながそうすることで下園先生は満足したのか「よし」なんて小さく呟きながら頷いた。

「それじゃあ、先生は会議があるから静かに自習を続けるように。……あ、こちらへ座ってください」

 警察官のためにパイプ椅子を開いた後、下園先生は忙しなく教室の外へと出て行ってしまう。

 それから私たちは先生の言葉に従って、静かに自習を続ける――しかなかった。

 恐らく外見にどれほど威圧感があるかという基準で以ってこの警察官は選ばれたのであろう。

 強面の警察官は顔も怖いがガタイもよくて、逆らおうとすら思えなかった。

 そして平和――といえば聞こえのいい、抑圧された時間が過ぎ去り、昼休みの開始を告げる鐘の音が鳴り響いた。

 日直の号令が終わると、教室中の空気が弛緩していく。

 昼休みともなれば、多少は解放された気分になれるし、実際多少ならば会話をすることも出来る。

 しかし私はそんな気分にはなれない。

 なぜなら上良栄治がカバンを開ける時間が来たのだ。

 それは、私たちが人を殺す時間が来たということでもあった。
 私が顔をあげると、視界の端でその当人が罠の入り口へと手を伸ばして――開けた。

 その瞬間、上良栄治はウッと短く唸って顔を歪める。

 残飯がどんな状態だったのか、想像するだけで嫌な気分になってしまった。

「…………稲次っ、てめえか?」

 中水美衣奈でなかったのは、稲次浩太の席の方が近かったからだろう。

 ドスの利いた声で脅しつけた。

 だが、稲次浩太はそれを鼻で笑いとばすと、頭を傾けて背後を見やる。

「教室で暴れまわったお前の自業自得だろ」

「あぁっ!?」

 稲次浩太が中水美衣奈を売らなかったのには理由がある。

 休み時間が来るよりも前に、夜見坂くんがトイレへと行くふりをして稲次浩太に口止めをしておいたのだ。

 そちらの方が、面白くなるからと。

「…………」

「…………」

 そして、他の誰もが口をつぐんでいる。

 中水美衣奈が犯人であると告げ口する者は、居ない。

 必然的に上良栄治は納得せざるを得なかった。

 なにせ、一度ならず二度までも暴れたのは、ほかならぬ彼自身なのだから。

「くそっ。メシ抜きかよ……。つか掃除だりぃ……」

 自覚もあるが、教室内で待機している警官の存在も大きかっただろう。

 上良栄治は頭に手をやった後、盛大なため息を吐き出しながら机の上に崩れ落ちたのだった。

 そんな上良栄治をしり目に、稲次浩太は私の方へと視線を向けて、周りに気づかれない様ちょいちょいっと手で合図を送ってくる。

 いや、私じゃなかった。

 彼の視線は私から少し後ろ、夜見坂くんにずれている。

 肩越しに夜見坂くんを伺うと、彼も同じように小さく指を振って稲次浩太に応えていた。

 ふたりはいわゆる共犯関係にある。

 親近感のようなものを抱いていても不思議ではないだろう。

 稲次浩太の片思いかもしれないけれど。

「それじゃ、いこっか」

「え?」

 いつの間にか夜見坂くんの目は私を向いている。

 一瞬、なぜそんなことを言われたのか分からず困惑していたのだけれど……すぐに思い出した。

 私は、夜見坂くんに協力する約束を――結んでしまっていた。

 私は殺す。

 こんどは私の心じゃなくて、他人(ひと)を殺す。

 他人(たにん)のために私を犠牲にするんじゃなく、私のために他人(たにん)を犠牲にする。

 私は理解してしまったのだ。

 この世界に都合のいい勇者なんていない。

 黙っていても勝手に世界(わたし)を救ってくれる、正義のヒーローなんていない。

 だから、私が私を助けなきゃいけないんだって。

 たとえ、どんなことをしてでも。

 どれだけ自分の手が汚れようとも。

 他人を傷つけようとも。

「さあさあ早くしよう。()()()()()()

 出遅れるだなんてよく言う。

 予定通りなくせに。

「……うん」

 夜見坂くんの言う通り、クラスメイトたちは、各々が手を洗いに行ったりトイレに行ったりパンを食べ始めたりしている。

 まだ何もしていない人の方が少なかった。

 私は立ちあがると、机の横に吊るしてある私のカバンの中から、踏みつぶしておいたメロンパンを取り出す。

 白いビニール袋の中で粉々になっているそれは、多少我慢すれば食べられないこともないだろうが、好んで食べたい代物でもないように見えるだろう。

「ああっ、酷い。誰がこんなことをっ」

「…………」

 夜見坂くんが私にだけ聞こえるくらいの小声で、そんなふざけたことを言って来るが私はそれを無視して歩き出す。

 その目的は――。

「……あのっ」

「あぁ?」

 机に突っ伏していた上良栄治。

 彼の威圧的な言動と、凶器としか思えない筋肉質な体に若干怯んでしまう。

 でも、私は私のすべきことがある。

 下腹部に力をこめて、上良栄治の瞳を真正面から見据えて手に握りしめていた袋の口を広げて中身をみせる。

「わ、私も、ぐちゃぐちゃになっちゃったから……」

「俺が悪いってのか?」

「ち、違い……ます」

 本当に、自分の手で人を殺した上良栄治の殺意は、今までとは明らかに質が変わっているように感じられた。

「外に、買いにいっちゃダメなのか、先生に、聞きに行くのは、どうかな……と」

「ダメに決まってんだろ。警察が許すかよ」

 確かに、昼食を用意してくる必要があったのは、警察の事情聴取があるからだ。

 犯人に逃げられたくない警察が、学校の外に容疑者候補を出すことに同意する可能性は低いだろう。

「ひとりならダメでも、複数人なら違うかもよ」

「なんだテメェ、いきなり」

 夜見坂くんが、私と上良栄治の話に割って入って来る。

 やっぱり私は人と話すのは苦手だ。

 舌が何枚もある上に油まで注してある夜見坂くんに任せた方がよさそうだった。

「三本の矢は一本より折れにくい……ってのは少し違うかな。ま、とにかく行ってみようよ。監督者が居たら警察も首を縦に振るかもしれないからさ」

「……」

 上良栄治は体格も大きいため、昼食抜きは辛いのだろう。

 夜見坂くんから誘われれば断りはしなかった。

「じゃ、一応そこのおまわりさんから先生探しの旅に行く許可貰ってくるから待っててよ」

 沈黙を肯定とみなしたのか、夜見坂くんは手をひらひらさせてから離れていった。

 ……気まずい時間は長く感じる。

 特にそれがあまりいい感情を持たない上にこれから罠にはめようという相手ならなおさらのことだ。

 心臓が、痛い。

 呼吸が乱れる。

 夜見坂くんを見ると、まだ警察官のところにまで達してすらいなかった。

 私のせいでこれからすることを感づかれはしないだろうか。

 自分を殺さないで耐える時間はこんなに長かったのだと、今更ながらに思い出す。

 それから時計一周分もないはずなのに、体感ではその何千倍にも感じた時を耐え忍んだのだった。

「行こ、いいってさ」

 相変わらず軽薄な笑みを浮かべている夜見坂くんが帰ってきてそう言うのとほぼ同時、上良栄治は無言のまま立ち上がった。

「やっぱりお腹は減るよね~」

 夜見坂くんが話題を振ってくるけど、私は楽しくおしゃべりなんて出来ないしする気にもなれない。

 ただ黙って夜見坂くんの背中を追いかけることしかできない。

 これからすることを思うと、プレッシャーで心臓が爆発しそうだったからだ。

 上良栄治が黙っているのがせめてもの救いだった。

 夜見坂くん、私、上良栄治の順で一列になり、教室の後方から出る。

 そのまま右に折れ、冷たい階段を(くだ)り始める。

 緑色のゴムマットが貼られた階段を一段降りて、ベージュの手すりを掴む。

 プラスティック製の手すりは、思っていた以上に冷たかった。

「ねえ、そういえばさ」

 夜見坂くんは階段をおりながら、何気ない感じで切り出す。

「話があったんだよね」

 夜見坂くんがちらりと視線を背後へ送った。

 つられて私も一瞬だけ送ると、廊下の一番端には響遊が所在なさげに立ち尽くしている。

 他にも姿こそ見えないが、廊下に出ている生徒はたくさんいるだろう。

 つまり、なにか話せば聞かれてしまう事は必定と言えた。

「……なんだ」

「もう少し人目が無い所に行ってからね。でも君が一番気になる情報だってことだけは教えておくよ」

 上良栄治が気になることなんてひとつしかない。

 宮苗瑠璃。

 想いを寄せていた少女を殺した犯人について、だ。

「あぁ?」

 そのことに思い至ったのか、上良栄治の声に憤怒の色が混じる。

「てめぇ……今度はなんだ? なにを掴んだ?」

 彼の言葉で、私は察してしまう。

 夜見坂くんが、なにかをしたというのは本当だったのだと。

 確か、湯川大陽が中水美衣奈と一緒にいる写真を見せたのだったか。

 上良栄治はそのせいで湯川大陽を殺したのだ。

「おいっ」

「だから、誰にも見られない場所に行ってから。ね?」

 しかし、そんな言葉では上良栄治は止められないし、止まらない。

 私の二の腕辺りが掴まれ、強い力で横方向へと圧力がかかる。

「ざけんなっ! んなの――」

「警官、邪魔だよね?」

 ぞくりと、肌が泡立つ。

 夜見坂くんの声はいつもと変わらなかったが、彼が考えている事、それそのものが恐ろしかった。

 上良栄治も同じ考えに至ったのか、動きがピタリと止まる。

「なにかあったらすぐ駆けつけてきてさ。君がなにかをしても、すぐ止められちゃうでしょ」

 だから、という言葉と共に、夜見坂くんは振り返る。

 彼の口元には、いつも通りの笑みが張り付いていた。

「どうすれば邪魔されないかも教えてあげるよ」
 階段をおりて廊下を進み、中央階段の前も通り過ぎて職員室へと進んでいく。

 本来ならば、ここか校長室にでも入って、昼食を買いに行く許可をもらうべきなのだ。

 でも夜見坂くんはそこも通り過ぎて、用務員室へと入って行った。

 用務員室はせいぜい3メートル四方の小さな部屋で、奥の扉が倉庫へと繋がっている。

 部屋の壁にはカレンダーやメモ用紙が貼り付けられ、床には様々な道具が置かれて雑然としている。

 用務員さんが居ないのはいつものことなのだが、今日は外で仕事ができないのにも関わらず、この場所を空けているみたいであった。

「さって~、なにして遊ぼっか」

「おい、話をする約束だろうが」

「え~。こういう本来入っちゃいけない部屋に入ったらいたずらするのが常識でしょ」

「ざけんなっ」

 たまらず上良栄治は怒鳴り声をあげた。

 その声は低く、ドスが効いて本気と分かる殺意すらこもっていたため、私は思わず「ひっ」と短い悲鳴をあげてしまう。

 上良栄治は既に殺人を犯した。

 更には中水美衣奈を殺す気でいたぶった。

 そんな人間の殺意は本物なのだ。

 本当に殺すつもりなのだ。

 それなのに夜見坂くんは飄々とした態度を変えようとしない。

 口の前で人差し指を立て「し~っ」と上良栄治を茶化す。

「ダメだよ~、大声だしちゃ。外のおまわりさんに気づかれたら面倒でしょ」

「てめぇ……」

 いきり立つ上良栄治を無視して夜見坂くんはポケットから、ところどころ塗装のはげた銀色のスマートフォンを取り出して操作を始める。

 本来スマートフォンは学校に来た時に預けなければならないのだが、夜見坂くんはそうしていない様だった。

「湯川大陽ってかなり怪しかったよね」

「それがどうしたっ」

 唸り声かと思うほど、上良栄治の声は押し込められている。

「それで、ふたり以上に殺された可能性が高い」

 それは上良栄治を始め、クラスメイトたちに思いこませた嘘だ。

 そしてその嘘を信じた上良栄治は湯川大陽を殺害した。

 だからこそ、その嘘は上良栄治の中では絶対に崩れてはいけない真実だ。

 湯川大陽とその浮気相手が、宮苗瑠璃を殺した犯人でなければいけない。

「ここまではいいよね?」

「……ああ」

 操作を終えたのか、夜見坂くんが顔をあげる。

 彼の手の中に鎮座したスマートフォンの画面には、三角形の矢印マークが浮かんでいた。

「約束して。これを聞いても飛び出していかないって」

「…………」

 上良栄治は一も二もなく無言で頷いた。

 約束を守るという固い意思があるわけではなく、彼には聞くという選択肢しか残っていないだけ。

 そのためには何でもするというだけだ。

「……はぁ」

 聞いた後の結末を、容易に察せられたのだろう。

 夜見坂くんは上良栄治の後ろに回り込んで扉に背中を預け、簡単には出ていけないようにする。

「はい、聞いていいよ」

 夜見坂くんの親指が、画面の中央を叩く。

 その瞬間、最大にまで増幅されたノイズが、スマートフォンからあふれ出してきた。

『で、どうかな?』

『どうって何がだよ?』

 この会話は覚えている。

『うまくいっているかなってことだよ――』

 私がトイレで聞かされた、稲次浩太と夜見坂くんの会話だ。

 あの時の行動は、私を脅かすためじゃなかった。

 こんな意味を持っていたんだ。

 上良栄治を、極限まで狂わせる手段を作り上げるためにあったのだ。

『君が犯した宮苗瑠璃殺害の罪を、他人に押し付ける工作は、さ』

『くはっ。…………くっくっくっ…………』

 知っている。

 この後の言葉は一字一句違うことなく覚えている。

『大成功だよ』

 だが、私の予想に反して稲次浩太はすんなりと自分の罪を告白した。

 夜見坂くんは録音した会話を編集したのだ。

 全ての憎しみが、稲次浩太ただ一人に向くように。

「カマをかけたんだよ。そうしたら彼、自分の功績を誰かに話したくて仕方がなかったみたいでね。簡単に自慢してくれたよ」

「…………」

 上良栄治の表情は、聞く前と1ミリたりとも変わっていない。

 彫像のようにその場で固まっており、まばたきすらしていなかった。

 だというのに、彼の中から圧力とでも形容すべき気配があとからあとから湧き出してくる。

 まるで、噴火前の火山が大地を揺らし始めるかのように。

 大津波が押し寄せる前に、港がすべて干上がるかのように。

「あはっ」

 夜見坂くんにはそれがとてもとてもお気に召した様だった。

「ねえねえ、君はなにがしたいのかな?」

「…………」

 答えはない。

 答えられないほど怒り狂っているから。

 稲次浩太への殺意だけで頭の中が占められているから。

 しかし、それでもまだ足りない。

 夜見坂くんが求める殺戮には足りない。

 ひとりを殺すなんて、少なすぎる。

「君はきっと稲次浩太を殺したいんだよね。でもさ、その次はどうするのかな? 少年院に行く? したり顔で更生しましたなんて言う? そして狭苦しい社会で生きていくの? ねえ、ねえ、ねえ」

「っせぇ!!」

 もっともっともっと。

 この世界を焼き尽くすほどの悪意を。

 誰も彼もを飲み込むほどの害意を。

 何もかもをただの一色に塗りつぶすほどの殺意を。

 醜悪で、凄惨で、壮絶な願いを!

 夜見坂くんは望んでいた。

「君はさ、君自身が宮苗瑠璃にどう思われてたか知ってる? 中水美衣奈や崎代沙綾にどんなことを言われていたか知ってる?」

 また、スマートフォンをいじる。

『ねえねえ、ガッコ終わったらカラオケ行こ』

 また聞き覚えがあった。

 夜見坂くんはこんな手札も用意していたのかと戦慄を覚える。

『あっ、じゃあ大陽も誘っていい~?』

大陽(たいよう)誘ったら余分なヤツも着いてくんじゃね? 栄治(えいじ)のやつ、絶対瑠璃のこと狙ってるっしょ』

『べっつに~。あたし眼中にないし』

『あはは、ひっど。まあキモいからしょうがないけどね~』

『アンタも酷いじゃん。事実だけどさ~』

『見る目がいやらしいよね~。存在そのものがセクハラっていうかさ』

 宮苗瑠璃が、上良栄治が好意を寄せていた少女が、その実裏側でこき下ろして嫌っていた。

 その事実だけでも十分な傷を与えるだろう。

 でも今は状況が違う。

 上良栄治は宮苗瑠璃のために湯川大陽を殺した。

 彼女のために中水美衣奈を殺しかけたのだ。

 それなのに、その理由全てが根底から崩壊してしまった。

 更には傷口を踏みにじられ、抉られ、塩まで塗りたくられたのだ。

 上良栄治の心はもう……。

「ねえ、もう一度聞くけどさ。君はなにがしたいのかな?」

「…………」

 上良栄治の表情は、相変わらず一切の変化がない。

――痛い。

 しかし、物理的な圧力すら錯覚してしまうほどの、感情の奔流もない。

――――痛いっ。

 全くの虚無。 

――――――痛いっ!。

 怒りを、憎悪を通り越した先の感情。

――――――――痛いっ!!

 孤独と失意と絶望とがない交ぜになった、魂の死滅。

 今、彼の心は、魂は、完全な終焉(しゅうえん)を迎えた。

「……もう、いい」

「そうだね。何もかも終わらせようよ」

 夜見坂くんは今まで見たこともないほど素敵な笑顔を浮かべる。

 それはそれは楽しいだろう。

 上良栄治はきっと死ぬ。

 殺し合って。

 大勢を巻き込んで。

 ただひたすらに、地獄へと突き進んでいく。

 夜見坂くんの操り人形として、死ぬ。

 ああ、やっぱり夜見坂くんは人でなしだ。

「……どうやって」

 上良栄治は自首するとは言わなかった。

 殺人を止めるとも言わなかった。

 やはり彼は破滅をこそ望んでいる。

 自分の手でなにもかもを終わらせるつもりなのだ。

 夜見坂くんがゆっくりと手を動かし、部屋の奥、倉庫へと繋がる扉を指差す。

「そのための道具は、そこに揃ってるから――」

 倉庫の中には、用務員がこの学校を維持するために必要な道具――小刀やのこぎり、草刈り機にチェーンソーや鉈といった、人を殺しうる凶器になり得る道具が揃っていた。

「――好きなのを選んでね」
 準備は……恐らく整えているのだろう。

 私たちは何もしない。

 ただ誰かと話すだけ。

 話すだけで、だんだん歯車がズレていく。

 人の心が壊れて怪物へと変わっていく。

 ああ、きっとそれが人間なのだ。

 一皮むけば誰もがケダモノで、それを必死に取り繕っているだけなのだ。

 こんなことを考えている私だって、とっくの昔に壊れてしまっていた。

「たっだいま~」

 夜見坂くんが既に開いていた扉から教室へと足を踏み入れる。

 教室の中は、みんな思い思いの場所で食べ物を広げ、談笑を楽しんでいた。

 みんなは一瞬夜見坂くんの方へと視線を向けただけで、友達との会話に戻って行った。

「さって~……」

 夜見坂くんは鼻歌でも歌いだしそうな様子で顔を左右に振って、目的の人物を探す。

「あ、やっほ~」

 その人物、稲次浩太はすぐに見つけられた。

 彼は自分の席――廊下に面した列の前から2番目――に片膝を立てて座り、菓子パンを片手に不敵な笑みを浮かべていたからだ。

 周りに誰も居ないのは、やはりみんなも彼を恐れているからだろう。

「ねえねえ」

「んだよ」

 夜見坂くんは、なんの警戒心も見せずにぺたぺたと足音を立てて近づいて行く。

 そのまま稲次浩太の耳元に口を寄せ、

「始まるよ」

 と囁いた。

 ピクリと、稲次浩太の耳が動く。

 顔は夜見坂くんで隠れてしまっており、どんな表情を浮かべているのかまったく(うかが)い知ることはできない。

 しかし何となくだが、彼は(わら)っている様な気がしてならなかった。

「君は正当防衛が立証されるからさ」

 夜見坂くんの誘惑は終わらない。

「殺しちゃえよ」

「……ハッ」

 意図せずだろう。

 稲次浩太の口から笑い声が漏れる。

 上良栄治を殺す。

 人間を殺すという大罪が、稲次浩太にとってはその程度の反応で済んでしまうことなのだろう。

 一度その罪を犯してしまった彼にとって、殺人とは忌避感を抱く行為ではないのだ。

「そうしたら、警察は被疑者死亡として書類送検するしかなくなる。深く捜査はされないよ」

 これで稲次浩太には積極的に殺すべき理由が生まれた。

 死人に口なしとはよく言ったものだ。

 第一の容疑者である湯川大陽は既に上良栄治が殺した。

 その上良栄治が正当防衛で殺されたら、捜査は大きく混乱するだろう。

 彼らには殺すべき動機があり、状況証拠だって揃っている。

 もしかしたらという枕詞がつくけれど、夜見坂くんの言う通りに稲次浩太が逮捕されずに事件が終わる可能性だって十二分にあった。

「……仲間もいるから、頑張って」

 稲次浩太へ餌を与えて()()()()()()夜見坂くんは体を離すと私へ向き直った。

()()()()()()

 そうだ。

 私にも私の役目がある。

 私の悪意で人を傷つける――否、殺すのに手をかさなければならない。

 それが私の責任なのだ。

 本当は私がしなきゃいけないこと。

 私も、殺さなきゃ。

 殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ――。

 何度も何度も、呪文のように殺意を唱え、私は私に言い聞かせた。

「…………うん」

 上良栄治が殺戮を始めるためにはどうしても邪魔になる存在が居る。

 教室の左前方に居座る、巨体で、かつ強面の警察官だ。

 彼が居ては、上良栄治がいくら武装していようと容易く組み伏せられてしまうだろう。

 それでも排除したいのなら、方法は数少ない。

 私の役目は監視の目を私に向けさせて、上良栄治が警察官を殺しやすくすること。

 つまり、囮だ。

 さしもの警察官であっても、背後から襲い掛かられては無傷では済まない。

 あわよくば一撃で殺すことも可能だろう。

 ……なんの罪もないあの人には申し訳ないけれど、邪魔なのだ。

 そうだ。

 私の殺意は他人を犠牲にしても止まらないほど――根深い。

 小学校の頃からずっと虐げられて、中学でも踏みにじられ、高校に至ってもそれは続いた。

 私の人生のほとんどを、他人に捧げ続けた。

 もういいはずだ。

 私に、私の人生を返して!

「わか――」

「良かった……」

 ――え? と、思考に間隙(かんげき)が生まれる。

「怪我なんてしていませんよね――」

 その人は、今ここに居るはずが無くて。

 居る理由が分からなかった。

 だってそんなこと、在るはずが無いから。

 私が、助けてもらえるなんて。

「――白山さん」

 私の目の前には、柔らかい笑みを浮かべている女性刑事、海星さんが立っていた。

「な……ん……?」

 呆然としている私を他所に、海星さんは私の顔を検分しはじめる。

「あの子と保健室に行ったと聞いたので心配していましたよ」

「…………」

 私の前髪が優しくかき分けられ、額に温かい指先が触れる。

 その手つきはとても柔らかく、私のことを心から心配してくれていることが伝わって来た。

「見えるところは怪我をしていないみたいですね。――あ、ちょっとごめんなさい」

 なんで私なんかにそこまでしてくれるのだろうか。

 今までこんなことをしてくれるひとはただのひとりも居なかったのに。

 ずっとずっと、私は助けてって叫んでいた時は現れなかったのに。

 なんで今。

 なんで、私が他人(ひと)を殺してでも自分で自分を助けようとした時になってからやってくるんだろう。

 上良栄治が殺すために、私が囮となって気を引きつけようとしている対象が――。

「休憩時間です。一旦私がこちらの教室を受け持ちますから、少し早いですが貴方は休憩時間に入って下さい」

「はっ、了解です」

 ――なんでこの人に代わってしまうんだろう。

 なんで。

 なんで。

 なんで……!

 こんな皮肉が、こんなに救われないことが私の前に待ち構えている理由はなんなのだろう。

 私は、私を助けてくれる海星さんを、殺す手伝いをしなきゃいけない。

 選んだ路が悪意で染め上げられていたから、神さまが罰を与えているのだろうか。

 なら、私は助かってはいけないとでもいうのだろうか。

 私はずっと誰かに虐げられ、地面に這いつくばっていないといけないのだろうか。

「う……あ……」

 私の瞳から、熱い、火傷しそうなくらいに熱い涙が溢れ出す。

 胸が苦しくて、痛くて、私は私を抱きしめる。

 自分ではどうしようもない理不尽が私を縛り、不条理が覆い被さってきた。

 止めたくても自分の意思では止められない。

 左に視線を向ければ、夜見坂くんが私を見つめている。

 右に視線を向ければ、稲次浩太がいぶかしんでいる。

 変に思われてはいけないし、夜見坂くんの舞台を台無しにするのはもってのほかだ。

 でも、分かっていたところでどうしようもなかった。

「白山さん、どこかが痛むのですか?」

 私に触らないで。

「やはりなにかされたのですか?」

 私に関わらないで。

「一度、音楽室に行きますか?」

 優しくしないで。

「大丈夫ですよ、私はあなたの味方ですからね」

 あっちに行って。

 こんなに汚らわしい私に、海星さんが関わっちゃいけない。

 お願いだから、こんな私なんて気にしないで!

「あ……ふ……ぐ、んぅぅっ」

 これほど神さまに祈ったことは、人生で初めてだった。

 しかし、その願いが聞き入れられることは……ない。

 海星さんは少しだけ膝を曲げて私と目線を合わせ、落ち着いてという言葉をプレゼントしてくれる。

 私の頭を撫でてくれる。

 優しいから。

 私のことを心配すればするほど、海星さんは私から離れてくれない。

 そうだ。だから私は、逆のことをすればいいんだ。

 なんて、今更のように思いつく。

 目頭をこすって涙を拭い、視界の真ん中に海星さんを合わせる。

 今すぐ「関係ない」「あっちに行ってください」そう突き放せばいい。

 もう夜見坂くんからどんな制裁を受けてもいいや、なんて自暴自棄な考えも浮かぶ。

 私はそのぐらい、この人のことが――。

「逃げてぇっ!!」

 大切、だったのに――。

「はい――?」

 私の叫び声は、間に合わなかった。

 いつの間にか上良栄治が海星さんの背後に忍び寄っていて――。

「いやぁぁぁっ!!」

 私の視界は、赤く、ただ赤く染まった。
 振り下ろされたのは、刃の形をした絶望だった。

 既に返り血を浴びていた上良栄治が、もう一度、新たな赤で染まる。

 殺した。

 間違いなく、死んだ。

 つむじからまっすぐ、刃渡りが60センチ以上もある巨大な鉈を叩きこまれ、西瓜のように頭を割られて生きている人はいない。

 あんなにも私を守ろうとしてくれた海星(みほし)さんは、私のせいで死んでしまった。

「あ……あぁ、ぁぁぁ……」

 倒れ行く海星さんの体にすがりつく。

 命がこぼれ落ちないようにと願いを込めて抱きとめる。

 無駄だと分かっていても、都合のいい幻想だと頭で理解していても、感情が現実を拒んだ。

「邪魔だ」

 上良栄治は私に向けてそう呟くと、海星さんの背中を踏みつけて勢いよく鉈を引き抜く。

 所々に錆びの浮かんだ刃が去り際に海星さんの頭の中で暴れ、頭蓋骨をかみ砕いた。

「やめ、あ……」

 骨という支えを失った顔の右半分が、冗談のようにずるりと崩れ落ち始める。

 私は必死に海星さんの欠片を手で受け止めようと試みたのだが、温かい血と正体の知れない液体が、私の手を濡らして……伝って床に落ちるだけ。

 何も、意味のあることは出来なかった。

「――稲次。美衣奈。沙綾」

 上良栄治が順に三つの名前を口にする。

 時が動くことを忘れてしまったかのようにシンとした教室の中、その言葉は今この場に存在する全員の耳にも届いた。

「お前ら三人だけは、絶対に殺す」

 殺す。

 命を奪う。

 その行動を宣言することと、実行することには大きな隔たりがある。

 普通の人間にはそれを踏み越えることなどできない。

 しかし上良栄治はたったいま、自分は出来るのだと証明してみせた。

 常識の域から異常へと踏み入ってみせた。

 その事実がゆっくりと浸透していき――。

「うわぁぁぁっ!」

 まるで爆発でもしたかのように、生徒たちの肺腑(はいふ)から悲鳴が(ほとばし)った。





 誰もが慌てふためき、我先にと教室から逃げ出し始める。

 瀑布の如き人の流れが教室後方の出入り口、ただ一か所に集中し、お互いのことなど知ったことではないとばかりに死に物狂いで外を目指した。

「ハハハハッ! マジでやりやがった! 殺しやがった!!」

 そんな中、ただ一人喜色満面で笑い声をあげた者が居る。

 稲次浩太だ。

 ほんの数メートル程度しか離れていない上良栄治を指差し、歪み切った感情を瞳に宿して高笑いしていた。

「バカだコイツ。ハハハハッ!」

 上良栄治が殺人犯となり、凶器を手に稲次浩太の殺害を宣言した。

 例え返り討ちにしてしまったとしても、間違いなく正当防衛は成立するだろう。

 事態は彼にとって有利な方向へとばかりに転がっていた。

 もちろん、それは作られたものだ。

 夜見坂 凪の手によって描かれた残酷劇(グランギニョル)

 否、人形劇(グラン・ギニョール)と形容すべきかもしれない。

 如何なるルートを通ろうとも、全ての路は殺戮の結末へと到達するのだから。

 誰も彼もが夜見坂 凪の操り人形にすぎなかった。

「…………」

 上良栄治は嗤われているというのに反論すらしなかった。

 する必要を感じていないだけだろう。

 なぜなら今、彼の手に握られている鉈を、稲次浩太の頭目掛けて振り下ろせば、未来永劫に渡って黙らせ続けることができるからだ。

「死ね」

 上良栄治はそう短く告げると、血まみれの鉈を振り上げ稲次浩太へ突進する。

 大股でたった二歩。

 しかし稲次浩太がただ眺めているはずもなかった。

 稲次浩太は傍らにあった机を足で眼前へと引きずり出して壁にする。

 それと同時に一歩後退して鉈の届かない位置へ退避した。

「残念、マヌケ」

 結果、鉈は稲次浩太を捕らえられず、代わりに頑丈な机の天板を浅く削るにとどまった。

「お前がな」

 上良栄治が諦めるはずもない。

 鉈を手放し学ランの裾をめくる。

 そこにはベルトとズボンの間に挟んだ包丁がずらりと並んでいた。

 上良栄治が何を考えているのか察したのだろう。

 絹を引き裂くような悲鳴があがり、逃げだそうとしていた者たちは必死に目の前の背中を押す。

 やめて、早く前に行って、助けて、殺さないで……。

 救いを求める言葉が溢れ出す。

「せぇっ!」

 稲次浩太が片耳を押さえながら怒鳴りつけたところでパニックに陥った者たちにはなんの効果も及ぼさなかった。

 上良栄治が無言のままに包丁を引き抜くと、稲次浩太目掛けて力いっぱい投擲する。

「うおっ」

 稲次浩太が慌てて身を屈めるが、そもそも包丁はまっすぐ飛んですらいない。

 刃を上にして、稲次浩太から左に1メートルほどずれた辺りを通り過ぎていく。

 しかし、教室の後方で固まっている者たちは、それすら避けようがなかった。

 後方に居た女子生徒の二の腕辺りに、包丁が刃を3センチほども突き立つ。

 恐らく包丁が刺さった女子生徒の命に別状はないだろう。

 それでもパニックを加速させるには十分だった。

「やっ……きゃぁぁぁぁっ!」

「お願い、早く行って、行ってよぉぉっ」

「押すなって!」

「邪魔だ!」

 前に居る者を突き飛ばし、踏みつけ、脱出を試みる。

 上良栄治が二本目の包丁を投擲するよりも早くに、ほとんど全員が教室の外へと逃げ出していた。

「――らっ」

 呼気を漏らしながら、上良栄治がもう一本、包丁を投じる。

 それを稲次浩太は机の影に潜り込むことで回避した。

「っぶねぇ!」

 更にもう一本、二本と投げつけていくが、それらもかざした机で受け止められてしまう。

 あっという間に、上良栄治が用意していた包丁は、たった一本になってしまっていた。

「ちっ」

 効果が薄いと判断したか、上良栄治は舌打ちをひとつすると、机の上から鉈を拾い上げる。

「おい、崎代と中水はいいのか?」

「まずはお前からだ」

 嘲る稲次に対して冷ややかに言い返す。

 稲次浩太は宮苗瑠璃を殺した犯人である。

 上良栄治にとっては一番に殺すべき相手であった。

「そうか――よっ」

 いつの間に拾い上げていたのか、稲次浩太が下手(したて)で包丁を投擲(とうてき)する。

 今度は上良栄治が避ける番だった。

 上良栄治は大きな体を必死に縮めながら、右へと傾ける。

 しかし、虚を突いて投じられたために当たる部分をずらす程度の効果しか得られなかった。

 左の肩口あたりに包丁が突き刺さってしまう。

 ただ、頑丈な学ランを食い破ったところで力尽きたのか、上良栄治が身震いしただけで包丁が抜け、床へと落ちる。

 成果としては、包丁の先っぽ、わずか数ミリほど血が付いているくらいか。

 いずれにせよ、ダメージになっているとは言い難かった。

「おーおー、ウドの大木はおっせーな」

「そういうお前はもやしか?」

 乱れに乱れた机と椅子たちを間に挟んでふたりは対峙する。

 上良栄治が凍り切った瞳と表情で。

 稲次浩太が喜悦に満ちた瞳と表情で。

 互いに同じ殺意を湛えて。

「頭からっぽのお前よかマシだがな。サツだらけなのに殺せると思ってんのか?」

 稲次浩太の言う通り、この学校には現在何十人もの警察官が詰めている。

 逃げ出した生徒たちが通報すれば、大挙して押し寄せてくるだろう。

 いや、こう話している間にも駆けこんで来るかもしれなかった。

 だが――。

「ハッ」

 上良栄治は鼻で笑いとばす。

「そんなこと、考えてねぇと思うのか?」

 そもそも上良栄治がこんな行動に出たのは、夜見坂 凪のせいだ。

 綿密に計画して、予想外のことがあっても柔軟にそれを利用して人を操る殺人鬼だ。

 警察官なんて要素、考慮に入れていないはずがない。

 なんらかの手段を上良栄治に与えているに決まっていた。

「今頃、()()()()()()()()()

「ハハッ、サイコー」

 上良栄治は稲次浩太を怯えさせるために教えたのだ。

 それなのに引き出せた反応は恐怖とは真逆。

 当たり前だ。

 上良栄治が狂っている様に、稲次浩太も針が振り切れているのだから。

「お前を楽しませるためにやったんじゃねえっ」

「存在そのものが無様なんだよ、テメェは!」

 その一言が、上良栄治の逆鱗に触れた。

「――殺す」

 上良栄治は短く宣言すると、机を蹴り飛ばしながら稲次浩太へと迫っていった。
 響遊は、まっさきに教室を飛び出した。

 他のクラスメイトが上良栄治の暴走を始める前に動き出せたのは、幸運があったからではない。

 一度、上良栄治から暴行を受けていたというのもあったが、もっと決定的だったのは、()()()()()()()()()()

 中水美衣奈から、上良栄治がいつもと違う様子を見せたら逃げ出して2組から人を連れてきて欲しいと。

 ただ、響遊は人を呼ぶつもりなどさらさらなかった。

 あんなのは、同じ生徒に助けを求めてどうにかなるものではない。

 上良栄治は、鉈を手に教室へと入って来た。

 その目的は殺人以外ありえない。

 もはや銃で武装した警察でなければ上良栄治を止めることなど出来ないだろう。

「に、2組……!」

 2組には響遊の友人もいる。

 今すぐにでも逃げるべきだと伝えるつもりであった。

 しかし――。

「あ……?」

 駆けだそうとした瞬間、廊下でうずくまっている警察官の巨体が視界の中に飛び込んで来る。

 彼は確かに先ほどまで1組の教室で監視の任についていた警察官であった。

 それがなぜこんなところで、と疑問に思いつつも響遊は近づいて行く。

「あ、あの……どうかされまし――ひっ」

 小山のような背中に声をかけたところで、むせかえるほど濃密な血臭が響遊の鼻をつく。

 警察官の首筋には半ばまで切れ込みが入っており、傷口からはとめどなく血液があふれだして床に血だまりを作っている。

 うずくまっていたのは、血が流れ出てしまったが故に意識を失ってしまったからだ。

 誰にでも分かる。

 間違いなく致命傷であり、警察官の命は無いと。

 そして、それをやったのは上良栄治であると。

「なんでこんな――」

 混乱した響遊の足がもつれ、よろめいた瞬間、悲鳴と怒号と罵声がない交ぜになった轟音が、彼の背後から追い越し、追い抜いて行った。

 ちらりと視線を向ければ、1組の教室からは大勢のクラスメイトたちが我先にと逃げ出していく。

 響遊は想像するしかなかったが、その予想通り上良栄治が海星という女性警官を殺害したのだ。

 1組の生徒たちは、それに怯えて逃走を始めたのだった。

「――くっ」

 もはや一刻の猶予もないと判断したのか、響遊はためらいを捨てて走り出す。

 無人の教室を通り過ぎ、勢いそのままに1年2組が使っている教室の扉を開け放った。

「はぁっ」

 2組の生徒全員の視線が響遊に集まる。

 そのことに一瞬怯んでしまい、響遊は喉を鳴らす。

 ただ、コトは命に関わる。 

 なかなか形にならない声を置いて、響遊は腕をあげて1組を指し示した。

「どうした、響」

「か、上良、くんが……ひとを……こ、殺……した」

 友人に声を掛けられたことで、なんとか言葉が意味を結ぶ。

 しかし、あまりにも突飛だったせいか、友人は怪訝な顔をしているだけだった。

「だから、殺人ですっ。ひとっ――ふたりも殺されたんです! そこに警察官の死体もあります!!」

「……は?」

「逃げてくださいっ! 早くっ!」

 まだ、2組の者たちには自体が飲み込めていない。

 殺人という行為が、彼らには遠いところで起こる出来事であり、新聞やニュースサイトで見る事件でしかないのだ。

 自分たちに降りかかる現実だと理解できず、誰一人として動こうとしなかった。

「……いやでも、警察が居るだろ? 大丈夫だろ?」

 人間は、情報だけでは本質的に理解はできない。

 危ないと教えられても、それを信じて行動しようとしない。

「いつここに来るか分からないんですよっ! 早く逃げてくださいっ!」

 普段通りの日常が何時までも続くと根拠なく信じており、平穏を脅かそうとする情報を無意識のうちに排除してしまうのだ。

 正常性バイアスと呼ばれる心理。

 それに、2組全員が陥っていた。

 このままでは言うことなど絶対に聞いてくれない。そう悟った響遊は、迷うことなく身をひるがえす。

 今は一秒だって惜しかった。

 上良栄治が、今すぐにでも凶器を引っ提げて2組や響遊自身に襲い掛かってくるとも知れなかったから。

「この――」

 言葉で言っても通じないのなら、選択肢はひとつだけ。

 ――事実による脅迫、だ。

「ごめんなさいっ」

 死体のところにまで戻ると、落ちていた警帽を拾い上げ、謝罪しながらたっぷりと血を掬いあげてから教室にまで戻る。

 響遊自身も、自分のやっていることがえげつない行為であることは理解していた。

 でも、友人の命を守らねばならないという使命感を前にしては些細な問題であった。

「これでも信じないって言うんですかっ」

 べっとりと、滴るほど血を含んだ悪趣味な警帽(ふで)を、扉横の白い壁にべっとりと押し付け――

「ひっ」

 コンクリートの上に赤黒い線が描かれ、濃密な鉄さびの臭いが漂い始める。

「早くっ!」

 視覚と嗅覚。警告も足せば聴覚でも。

 今、この場所は命の危険すら在り得る場所なのだと、2組の全員がようやく理解した。

 ガタガタと音を立てながら、次々と立ち上がる。

 悲鳴は上がらない。それどころか一言だって声が漏れることは無い。

 全員が全員、口を引き結び、顔面を蒼白にして入口へと殺到する。

 2組に起きたのは1組のような騒々しいパニックではなかったが、決して冷静ではなかった。

 全員が生存するための最適解を、必死の逃走を導き出し、全員が一丸となってその答えに従った。

「急いで階下(した)にっ! 急いでくださいっ!」

 響遊に急かされ、十秒とかからず全員が教室を出る。

 そのまま1組の教室とは真逆に位置する中央階段へと急ぐ。

 響遊を一番後方に、2組全員がひとつの生物にでもなったかのようであった。

「――――っ」

 先頭の生徒たちが階段をおり始めるにあたって、少しスピードが緩む。

 それはほんの僅かであったが、空白の時間を生んだ。

 上良栄治がまだこちらに迫っていないか、そんな恐怖を払しょくするため、響遊はひとりだけ後ろへと振り向いて廊下を確認する。

「響っ!」

 中水美衣奈と崎代沙綾のふたりが、なぜか掴みあいをしながら響遊――中央階段の方へと走り寄りつつあった。

 なにをしているのかといぶかしむ間もなく、中水美衣奈が響遊の名前を呼び、こっちにこいとでも言うかのように手招きをする。

 その理由を問うためにというわけでもないが、響遊が足を止め――それが、彼を救う事になった。

「うわぁぁっ!!」

「ちょっ! すべっ!!」

「やめ――っ」

 一塊になっていたことが災いして、2組全員が地面ごと階段を滑り落ちていく。

 体をどこかにぶつける音。

 衣服が裂ける音。

 肉がひしゃげる音。

 骨が砕ける音。

 内臓が潰れる音。

 頭が割れる音。

 衝突する音。

 圧迫される音。

 破裂する音。

 そして、苦悶、絶叫、悲鳴、怨嗟、憤怒、うめき声。

 様々な音が、声が、十重二十重とかさなってこだまし、交響曲のように鳴り響いた。

「…………」

 響遊の体は凍り付いてしまったかのように動けなかった。

 階段の下を見てしまったら、なにが起こったのかを知ってしまうから。

 自分が2組のみんなに対してどれほど取り返しのつかないことをしてしまったのかを理解してしまうから。

 恐ろしくて恐ろしくて――。

「待ってって言ってんだろっ!」

「なんで邪魔すんのよっ!」

 中水美衣奈と崎代沙綾はいがみ合いながらも響遊の元にまで達して――絶句した。

 彼女たちの目下には、地獄のような光景が広がっている。

 血しぶきで彩られた壁に何本もの肉の筆で赤く塗りたくられた階段。

 踊り場には手足がねじれた人間が何人も転がり、その下には押しつぶされた人間の肉と皮で出来たマットが敷かれていた。

 いったい何人の生徒が命を落としただろうか。

 どれだけの生徒が生きているだろうか。

 分からない。

 分からないが、2組の生徒総数33人全員が何らかの傷を負ったことは確かだった。

「――あの性格悪い栄治がなにも仕掛けてないわけないじゃん」

 ぼそっと、中水美衣奈がこぼす。

 彼女はこうなることを予期していたからこそ、崎代沙綾の邪魔をしていたのだった。

 いや、予期ではない。

 中水美衣奈自身が、悪魔の立てた計画に組み込まれた存在だから、事実として知っていた。

 もちろん、中水美衣奈がそれを崎代沙綾に語ることなどないが。

「……だ、だからだったの?」

「ほかに何があると思ったの? ただ意地悪で邪魔したとでも思った?」

「…………」

 崎代沙綾は何も言い返せずに黙り込む。

 彼女は中水美衣奈が言っていた通り、そう思っていたからだ。

 崎代沙綾は中水美衣奈を見捨ててしまった。

 自分の身の安全を得るために、校長先生たちに告げ口をしてしまった。

 それは、崎代沙綾たちの尺度からすると許されない行いであったはずだったから、彼女は思い込んでいたのだ。

 中水美衣奈が自分を疎んじるが故に逃走の邪魔をしていると。

「トモダチのことくらい信じて欲しかったなぁ」

「ご、ごめん」

「いいけど。――で、響さぁ、どうすんの?」

「な、なにが?」

 響遊の声は震えている。

 その上、視線は未だ惨劇から逸らし続けていた。

「これ、アンタが原因でしょ」

「ち、違いますっ。僕は……僕は……」

 響遊は2組の全員を助けたいと思っていた。

 だから危険を伝えたし、彼らを急かしたのだ。

 しかしそれは、致命的な罠へと2組を追いこむ猟犬の役割を果たしてしまい、こうして上良栄治の狙い通りに災禍を招いてしまった。

「2組の連中もそう思ってくれるとか甘い事考えてない? ――なあ、そんなわけないだろ」

「――――っ」

 結果的にではあるが、彼らをこんな目にあわせたのは響遊である。

 例え、致死性の罠を仕掛けたのが上良栄治だとしても、響遊を恨まない人間が居るだろうか。

「お前が殺したんだよ、人殺し」

 ほとんどの恨みは上良栄治に向かうだろう。

 しかし、間違いなく響遊にも向かうはずだ。

 急がさなければ。

 中央階段から逃げる様に言わなければ、と。

 みんながみんな、響遊の友人ではないし、お人よしでもない。

 持て余した感情の先を響遊に求めることは十分にあり得た。

「ぼくは、ぼくは人殺しじゃ――」

「なんか臭わない?」

 響遊が反論しかけたところに崎代沙綾が割って入る。

「臭い?」

「なんていうかさ、プールみたいな……」

 今、考えられ得る中で一番最悪の可能性が頭をよぎる。

 もし、本当に人を殺したいとしたらどうするだろう。

 たったひとつの罠だけで、クラス全員皆殺しにできるはずがない。

 だが、複数をかけ合わせたらそれも変わってくる。

 一つ目で動けなくしておいて、ふたつ目でとどめをさしたら――。

「――塩素」

 塩素ガスは、日用品の組み合わせで簡単に作れる割に、とても強力な毒ガスである。

 その威力は、第一次世界大戦でも使われたくらいなのだ。

 致死性の罠として、威力は十二分にありすぎた。

「た、助けなきゃ……!」

「誰が?」

 響遊は持ち前の真面目さからそう言ったものの、未だ傷ついた生徒たちを見ることすらも出来ていない。

 そんな状態で助けるなど、出来るはずもなかった。

「私は助けるつもりないけど」

「で、でも……」

「沙綾は?」

「あそこに行くとか絶対無理」

「よね」

 中水美衣奈と崎代沙綾が特別薄情というわけではない。

 危険が大きいというのもあるが、そもそも上良栄治という人殺しから逃げることが目的なのだ。

 ここでもたついていたら、自分たちが殺される可能性もあり得た。

「ていうかさ、見捨てたらアンタがしたことバレないんじゃないの」

 中水美衣奈の提案は、抗いがたい甘美さを以って響遊を誘惑する。

「響アンタさ、医者になるとか言って内申点とか気にしてなかった?」

「それは……」

 危険を押してまで、助けに行く義理があるだろうか。

 それよりも、今ここで見捨ててしまった方が、響遊にとっては利になるのではないだろうか。

 死んでしまえば、恨まれることもない。

 悪い噂が立って、内申点が下がることもない。

 だいたい、殺人の起きた学校に通っていたというだけで、マイナスかもしれないのだ。

 殺人に関わっていたかもしれないとなると、将来すら危ぶまれてしまう。

「見捨てた方がイイでしょ」

「…………」

 響遊の返事は、ない。

 答えは決まっていた。

「……ねえ響」

 そんな響遊を見た中水美衣奈は、ニヤリと笑みを浮かべる。

「もうさ、3人いるんだし栄治を動けなくなるまで痛めつけた方がリスク小さくない?」
 上良栄治と稲次浩太は、互いに暴虐の限りを尽くした。

 憎悪をぶつけあい、本気の殺意でもって争った。

 殴り、罵倒し、持っていた凶器で互いの体を抉り、削り合った。

 上良栄治は右腕を骨が覗くほど深く抉られ、腹部には何か所か刺し傷がある。

 顔面には殴られて出来た青あざがいくつも浮かび、前歯が一本根元から折れて無くなっていた。

 一方、稲次浩太は喧嘩慣れしていたからか、そこまでの傷は負っていない。

 いくつかの打撲痕や擦過傷、衣服に何か所か切れ込みが入っているくらいだ。

 刃渡りが30センチはあろうかというバタフライナイフを隠し持っていたこともあり、上良栄治を返り討ちしそうな勢いであった――――先ほどまでは。

「こん……のっ……デカブツ!」

 上良栄治は、部活動で鍛えた高いスタミナと恵まれた体格を生かして、とうとう稲次浩太を組み伏せることに成功したのだ。

「邪魔なんだよっ」

 上良栄治は無事な左手を使ってバタフライナイフごと稲次浩太の右手を握りしめ、丸太のように太いももを使って稲次浩太の胴体と左腕を締め付けている。

 これでは稲次浩太がどれだけ俊敏性において優れていたところで役に立たない。

 そもそも身長だけで20センチ近く差があり、筋肉の量では倍近いため、力では絶対に敵わないだろう。

「どけっ!」

 稲次浩太は馬乗りになられながらも、必死に抵抗を試みる。

 なんとか動かせる足を使って上良栄治の背中を蹴りつけたが、痛痒は与えるには勢いが足りていなかった。

「稲次……」

「汚ぇケツを俺の上に乗っけてんじゃねえ、くせえんだよっ!」

 いくら罵倒したところで固定されてしまった状況は揺るがない。

 稲次浩太は殺される側。

 上良栄治は殺す側だ。

「死ね」

 上良栄治はこれから訪れるであろう未来を口にすると、左手に力を籠めた。

 稲次浩太が握っていたバタフライナイフの刃先がじりじりと角度を変え始める。

 上に向いていたのが水平に。

 水平から地面――すなわち稲次浩太自身へと。

 ゆっくり。

 ゆっくり。

「くそぉっ」

 確実に迫り始めた死に怯え、稲次浩太は悲痛な叫び声をあげる。

「白山ぁっ!」

 ――私の名前、だ。

 1組の使っていた教室には、殺し合うふたりのほかに私だけが残っている。

 他は逃げたか――死んでしまった。

 海星さんは、殺されてしまった。

「そこに落ちてる鉈ぁ拾ってコイツを殺せっ!」

 そんなことを言われたところで私は動かない。

 心に現実が入ってくるのを拒んでいるから、動けない。

「早くしろぉっ!」

 私の心はからっぽで、動かなくなってしまった海星さんの体を抱きしめて、ただ座っていた。

「この役立たずがっ! てめえがんな――」

「うっわ、稲次が殺されそうになってるとかマジ受けるんだけど」

 教室に居た三人以外の声がして、一瞬、全員の動きが止まる。

「――っ」

 私が顔を捻って視線を教室の入り口に向けると、中水美衣奈を先頭に、崎代沙綾と響遊が立っていた。

 彼女たちはそれぞれ手に箒や消火器などの凶器を持っており、なにをしに来たのかは一目瞭然である。

 逃げなかったのか、という疑問は湧いてこない。

 逃げられないことは、私自身がよく知っていたからだ。

 上良栄治がただ騒動を起こせば警察官が即座にやってくる。

 それを防ぐためには物理的な壁を作って足止めするか、警察官全員が持て余すほど大きな事件を起こすしかない。

 夜見坂くんは後者を提示して、上良栄治もそれを受け入れた。

 大勢を怪我させるための手段はとても簡単なものだ。

 階段に同色のゴムマット――これは補修用のものが用務員室にあった――を敷き、その下に洗剤を撒く。

 こうすれば、誰か一人が足を滑らせれば、そのマットの上に乗っている全員が巻き込まれる。

 そのうえ、中段以下に洗剤を撒いていれば、より多くの人が犠牲になるだろう。

 こうして多くの生徒たちを傷つけて移動力を奪ったところで本命の罠が発動する。

 マットの上に置いてあった塩素系洗剤がこぼれだし、あらかじめ踊り場付近に撒いていあった酸性洗剤と混ざって塩素ガスを発生させるのだ

 全員を必殺とまではいかないだろうが、それでも多くの犠牲者を生むだろう。

 そして、救助しようとする警察官が踏み込むことも難しくなる。

 つまるところ、罪を犯そうとしている上良栄治から見れば、それだけ長い時間的余裕を生む。

 今この瞬間、1年1組が使っているこの教室は、時間的な密室と化していたのだった。

「た、助けろっ!」

 稲次浩太が必死な声で中水美衣奈たちに泣きついた。

 死を前にして、助かる道筋が見えたのだから、必死ですがりつこうとするだろう。

 人間として当然の行いだ。

「ど、どうするんですかっ!?」

「どうするって言われてもさ~……」

 ――行いだけれど、ひとつ、とても大事なことを彼は忘れていた。

「なんで私がそんなことしなくちゃいけないのよ」

 中水美衣奈は細長い棒を肩に担いで首をかしげてみせる。

「コイツはお前を殺そうとしただろうが!」

「……アンタがしたこと、私は忘れてないんだけど」

 稲次浩太は嗤っていた。

 中水美衣奈が上良栄治に殺されそうになっていた時、稲次浩太は手を叩いてはしゃぎ、もっとやれと(はや)し立てていた。

 そんな相手を助ける気になるであろうか。

「いいから早く殺せば~」

「てめぇっ!」

「…………」

 背後から襲われる危険が無くなったからか、上良栄治が動き出す。

 人間とは思えないほどの膂力(りょりょく)を発し、稲次浩太の腕を()じっていく。

「くあぁぁぁっ」

 バキバキと骨の砕ける音が稲次浩太の手から響き、彼の指が抵抗する力を失ってしまう。

 ついに刃先は真下を示し――稲次浩太の心臓を射程に捉えた。

「こ・ろ・せっ。こ・ろ・せっ」

 逆の立場になったことがそれほど嬉しいのだろう。

 中水美衣奈は満面の笑みを浮かべ、手を打ち鳴らして音頭を取る。

 彼女の背後に居るふたりは対象的で、崎代沙綾は興味ないのか冷めた目で殺害現場を眺め、響遊は消火器を抱いたままおろおろと視線をさまよわせていた。

「ざけんなぁっ!」

 力を入れるために上良栄治が顔を近づけたことが仇となった。

 稲次浩太はナイフの刃先が胸先を抉ろうとも臆することなく体を曲げて、額を上良栄治の鼻っ柱に叩きつける。

 今できる唯一の抵抗。

 上良栄治はたまらず上体をのけぞらせる。

 それによってほんの少しだけ隙が生まれ――。

 稲次浩太はその隙を逃さなかった。

 固められていた左腕をするりと抜いて、ナイフを握る上良栄治の手を掴んだ。

「へっ。これで――」

 ――だが、出来たのはそこまでだった。

 稲次浩太は両手を使って動かそうとしているのに、ナイフの刃先は万力で固定されているかのように、1ミリたりとも動かない。

 死という未来は、揺らがない。

「ざ~んね~ん、無駄でした~」

「さっきからうっせえ!」

 いら立ち紛れに中水美衣奈へと罵声を浴びせ――迫り始めたナイフへ慌てて意識を戻す。

 少しでも気を抜けば、一瞬でナイフは稲次浩太の心臓を食い破るだろう。

 食いしばった歯の隙間からは音を立てて呼気が漏れ出し、顔は壮絶な形相の上、真っ赤に染まっていてまさに地獄の鬼もかくやという様相であった。

「づっ――うぅっ」

 無事な左手に加え、骨の砕けた右手をも使って懸命に耐える。

 複雑骨折した指がふたりの力で押しつぶされてしまっては、もう元に戻ることなどない。

 それでも、死ぬよりはましだ。

 死んでしまえば全てを失うのだから。

 だが、そこまでしても刃は稲次浩太に迫ってくる。

 終わりの(とき)は、もう目の前にあった。 

「くそっくそっくそっ!」

 ナイフの先が、稲次浩太の皮膚を浅く削り取る。

()ーれ、()ーれ! アッハハハハッ!」

「ああああぁぁぁぁぁっ!!」

 稲次浩太が叫ぶと同時に、白光りする牙がぞぶりと喰らいつく。

「ちくしょうっ! ちくしょうっ!! ちくしょうっ!!!」

 その後悔はいったいなにに対してだろうか。

 ここで殺されることに対してか。

 うまく殺せなかったことに対してか。

 不用意に夜見坂くんの言葉に乗ってしまったことに対してか。

 きっと、自分自身の素行を正すべきだったと後悔することは……ないだろう。

「くそおおぉぉぁぁぁぁ――」

 押し込まれた刃が1センチ、2センチと進むにつれて、後悔は悲鳴へ、そして苦悶の叫びに変わり、やがて肺に血が流れ込んだのかゴボゴボという不明瞭な物音へとなり果てていく。

 ふっと上良栄治が息を吐くと、一瞬ナイフが稲次浩太から抜ける。

 もちろん、意図してのこと。

 許そうという意志はない。

 ナイフはほんの少し横にずれ、更なる殺意を以ってもう一度押し込まれる。

 抵抗する力は、小さい。

 更にもう一度、もう一度と、致命傷を越えて。

「はぁっ」

 大きく一度息をついて、また一度。

 今までよりも力強く、上良栄治の全体重が籠められた一撃が襲い掛かり――。

 稲次浩太の体が大きく一度、びくりと痙攣して……止まった。

 稲次浩太が死んだのだ。

 終わったなんて思う間もなく、上良栄治の返り血で汚れた顔が、ぐりんとこちらを向いた。
「あ、もう殺し終わったんだ。もっと苦しめてから殺すかと思ったのに」

 中水美衣奈の言い方は、まるで普通のクラスメイト同士がする何気ない日常会話のようで、どこか現実感がなかった。

 今、ここで行われたのは殺人なのに。

 人間が社会生活を営む中で、決して行ってはならない行動なのに。

「で、次は私たちってわけ?」

 上良栄治からの返答はない。

 代わりとばかりに立ち上がり、稲次浩太の胸からバタフライナイフを引き抜き行動で応えてみせた。

「なんか言えよ」

 バタフライナイフの切っ先から、赤黒いねばついた液体が滴り落ちて床を汚す。

 一歩、また一歩と上良栄治が歩を進めるにつれて、点々と。

 彼の殺意は未だ萎えてはいなかった。

「あ、あの……上良、くん。け、怪我の手当てをするのは……」

 響遊の言葉は常識的だ。

 それ故に現状、ズレにずれてしまっている。

 今は異常こそが正常で、正常こそが異常なのだ。

「ばーか」

 そもそもを言うならば、中水美衣奈も崎代沙綾も、響遊でさえも凶器になり得るものを手にしている。

 上良栄治からすれば、今更なにを言っているのか、といったところだろう。

「や、やめましょうよ」

 響遊の静止を無視して上良栄治は三人組へと近づいて行く。

 目的は、中水美衣奈と崎代沙綾の殺害だろう。

 上良栄治は血まみれのナイフを逆手に持ち替え、肩の辺りにまで持ち上げる。

 彼の膂力(りょりょく)でもって振り下ろされれば、中水美衣奈のか細い体など柄まで貫通してしまいそうだった――が。

「響ぃ、さすがに空気読めし……」

 崎代沙綾が数メートルにまで迫った脅威を鼻で笑いとばす。

 数分前に大慌てで上良栄治から逃げ出したとは思えないほど強気だった。

 理由は、それこそ()()()()()()

「…………」

 上良栄治が持っていたナイフから滴り落ちていた血液。

 あれは稲次浩太のものだけではなかった。

 体のいたるところを刺された上良栄治自身の血液も混じっていたのだ。

 顔色は青を通り越して土気色になり、呼吸は肩を大きく上下させてもまだ間に合わないとばかりに荒く、激しい。

 踏み出す一歩も、いつもの半分以下と明らかに小さかった。

 もはや虫の息と言ってもいいだろう。

 上良栄治はなんとしてでも成し遂げたい復讐のために、文字通り自身の命を投げ捨てたのだ。

 気持ちは更なる殺戮を求めようと、体の方がついて行かない様であった。

「うっわ、受ける。そんなに瑠璃のことが好きだったの?」

「それで太陽まで殺してさぁ、次は稲次でしょ? ストーカーじゃん、キモっ」

 自分たちの方が優位な立場にあると自覚すれば、少女たちに怖がる理由はない。

 上良栄治への侮蔑を隠すことなくいつもの調子で嘲りだした。

「相手にされてないって分かってたでしょ。なのにあんなにみっともなく付きまとってさ~」

「なっさけな~」

「…………お前、らっ」

 腹に据えかねたのか、上良栄治は怒気を纏いながら大きく一歩踏み出した。

 しかし、中水美衣奈と崎代沙綾はネコのように素早く反応し、安全圏へと飛び退(すさ)る。

 体力のすり減っている今の上良栄治では距離を詰めるどころかむしろ双方の距離は開いてしまっていた。

「ま、待って……!」

 抱えていた消火器をその場に落とし、一拍遅れて響遊も後ろへとさがる。

 だが、そもそも響遊は上良栄治の獲物ではなく、視界に入れてすらいなかった。

「アハハッ、マジになるとか自分で認めたようなもんじゃん」

「動くんじゃ――」

 ねぇっ。と怒鳴りつけようとした瞬間、転がっていた消火器を踏んづけ、その場で転倒してしまう。

 上良栄治は先ほどまでは容易に人を殺せる存在であり、恐怖そのものであった。

 でも今は違う。

 少なくとも中水美衣奈と崎代沙綾はそう受け取ったのか、互いに目くばせを交わすと、どっと大声で笑いだした。

「ねえねえ栄治。今どんな気持ち? 凄んだのに馬鹿みたいにコケちゃってさぁ」

「プッ、惨め~」

 押し込められていた感情のタガが外れてしまうと、その反動で人はより大胆になる。

 ちょうど、今のふたりのように。

 中水美衣奈は笑いながら近づくと、上良栄治の頭をボールにみたて、無遠慮に蹴り飛ばす。

 弱った殺人犯になど、欠片も恐れを抱いていなかった。

「美衣奈やるぅ~。一応人殺しなのに」

 結局のところ、彼女たちはそういう存在なのだ。

 常日頃から私に対してそうであったように、弱者を踏みつけ、自分たちの優位性を確認するのが当たり前。

 例え相手が殺人犯であったとしても、弱いと思ったら平然と足蹴にできるのだ。

「……ねえ、栄治さぁ」

 中水美衣奈は上良栄治の後頭部を踏みつけ、そのままぐりぐりと顔面を床に擦なすり付ける。

「私にあんだけ暴力ふるったんだからさ、なんかないわけ?」

「こっ――のぉっ」

「そんな言葉が欲しいんじゃねえってくらい分かってんだろ」

 ペッと吐き捨てた唾が上良栄治の背中を汚す。

「早くしろよ。気に入ったらあんまり痛く殺さないでやるからさぁ」

 体を数回刺され、右腕を抉られ、うまく歩けないほど弱っていたとしても、まだ上良栄治には殺意が残っていた。

 不用意につつけば痛い目を見るのは簡単に予想がついたのに……。

 中水美衣奈は近づきすぎた。

「ざけんなっ」

 上良栄治は残る全ての力を振り絞って中水美衣奈の足を払い、引きずり倒す。

 そして体勢を崩した少女へと覆いかぶさるようにして、刃の先を遮二無二(しゃにむに)押し付けた。

 血風が舞い、血潮が跳ねる。

 また死んだ。

 殺した。

 そう、思ったけど――。

「ここまで執念深いとか、マジ異常者じゃん」

 いつの間に拾っていたのだろう。

 中水美衣奈は、上良栄治が投げ散らかしていた包丁を隠し持っていて、それで上良栄治の胸を刺し貫いたのだ。

 恐らく転んでみせたのも演技。

 近づいたのもわざとだろう。

「か……は……」

「これで正当防衛ってね」

 上良栄治が最期の力を振り絞って振るったナイフは、中水美衣奈の右二の腕あたりを浅く傷つけている。

 間違いなく、上良栄治は中水美衣奈を襲った。殺そうとした。

 中水美衣奈は反撃として包丁を拾って刺した。

 欲しかったのだ、理由が。

 過剰防衛とは判断されないだろう。

 崎代沙綾や響遊が有利な証言をすれば、中水美衣奈の正当性は確実に立証される。

「あ、それからこの傷の慰謝料、あんたの親に払ってもらうから」

「……な、に」

 まさかここで親の話が出てくるとは思わなかったのか、上良栄治の瞳に困惑の色が混じる。

「怖かったぁ、一生モノのトラウマだよね。金もらって当然だよねぇ」

「お……ま、え」

 夜見坂くんは人でない。

 上良栄治は人殺し。

 では、中水美衣奈はいったいなんなのだろうか。

 こんなにも浅ましく、見苦しいことを平然とできる強欲な彼女は、なんと例えればいい存在なのだろうか。

 もしこれが人間であるのならば、私は人間であることをやめたいと思うほど、中水美衣奈は醜かった。

「お前じゃねえよ、クソ野郎」

 中水美衣奈は手を捻り、言葉を使って傷口を抉る。

 ただ殺すだけでは足りないとばかりに、痛みと後悔を刻みつけた。

「いいから死ねよっ! 自分がとんでもなく頭の悪い間抜けだって自覚しながらなぁっ!」

「くそ……く……そ……」

 稲次浩太は後悔しながら死んだ。

 そして、上良栄治も。

 ただ、上良栄治についての後悔は、目の前の相手を殺せなかったことなのだろう。

 憎くて、憎くて、ただ憎くて。

 ああきっと、上良栄治の中身は私と似ているのかもしれない。

 周りの誰もかれもが憎かった。

 学校、社会が憎かった。

 理不尽を押し付けてくるこの世界が憎かった。

 私もそうだから。

 ……それだけ。

「うっわー……制服超汚れたわー……」

 ブツブツと文句を垂れ流しながら中水美衣奈が上良栄治の下から這いだしてくる。

 とにもかくにも全て終わった。

 夜見坂くんの仕掛けた通りにクラスのほとんどが死んだ。

 殺された。

 終わったのだ。

 もう私には、関係ない。

「あ、沙綾さー。頼みがあるんだけど」

「なに?」

「そこでボーっと死体抱えてる白山連れてきてくれない。殺すから」

 関係、ない。
 私がずっと捨て置かれていたのは、逃げる気力も、意思も一切見せなかったからだ。

 それくらい私は海星さんが殺されたことがショックで……生きることに絶望していた。

「響ぃ~。逃げられたら嫌だからアンタも捕まえといて」

「ちょ、ちょっと美衣奈! なに言ってんの!?」

 中水美衣奈の言っていることは、崎代沙綾にとっては突飛すぎたのだろう。

 もちろん、響遊にとっても。

「なんでいきなりそんな……」

「そ、そうですよ! これ以上人を殺す意味なんてありませんよ!」

 慌てふためき、ふたりがかりで反論する。

 しかし、理由を求めている時点で先は見えていた。

 私は、中水美衣奈から殺されるに足る理由がある。

「白山さあ、信じらんないんだよね。チクりそうじゃん」

 別に特別私がなにかをするわけではない。

 でも、それがまずいのだ。

 証言に綻びが出てしまえば、中水美衣奈は何かしら罪に問われるかもしれない。

 そのために口裏を合わせなければならないが、中水美衣奈から私へ対する信用は地の底を這いずっている。

 それに、口裏を合わせるならば人数は少ない方が矛盾の生まれる可能性は少ないだろう。

 殺すのが一番楽で確実なのだ。

「今なら殺しても――」

 中水美衣奈は死体となった上良栄治へ冷たい視線を向ける。

「コイツのせいに出来るでしょ。私が刺した後に、まだ死んでなくて襲い掛かったとかさ」

 あと、と続く内容は、私の常識からしたら信じられない考え方だった。

「三人で白山を殺したら、裏切ろうなんて思わないでしょ。全員が共犯者なんだからさぁ」

「…………」

「…………」

 新たに生まれた殺人鬼の感覚についていけなかったのか、崎代沙綾と響遊は顔を見合わせる。

 彼女たちはそのままでは中水美衣奈の要求通りに動くことなどないだろう。

 そんなことはもちろん織り込み済みだった。

「ねえ、響ぃ。アンタ、医者になりたいんでしょ」

「……そ、それがなにか」

 なぜ今その話題が出るのだろうか。

 響遊は震える手で眼鏡のツルを押し上げる。

「さっき、2組全員を見捨てたことバラしたらどうなると思う?」

「そ、そんな! あれはあなたが……! と言いますか、あなただって見捨てたじゃないですか!」

「お前と私じゃダメージが違うだろ。そもそもお前が2組を急かさなきゃああはならなかっただろうしさ」

 医者は曲がりなりにも命を扱う職業だ。

 その医者が、目の前で苦しんでいる存在を見捨てて見殺しにした。

 あまつさえその場に追い込んでしまった。

 罪にこそ問われることはないだろうが、きっと激しく恨まれる事だろう。

 そんな状態で、明るい未来が開けるはずがない。

「考えろよ。頭いいんだろ、お・い・しゃ・さ・ま」

 響遊はこれからの人生を、中水美衣奈という悪魔に握られてしまっていた。

 反論がないのを肯定と受け取ったのか、中水美衣奈は崎代沙綾へと矛先を変える。

「で、沙綾はさぁ白山の命が大事なの?」

 ひらひらと、これ見よがしに赤く染まった包丁をちらつかせる。

「また私を裏切るの?」

「そ、それは……」

 中水美衣奈と崎代沙綾の間にはしこりがあった。

 逆恨み、いや、自己保身から私を襲撃した時に、崎代沙綾は中水美衣奈の行動にはついていけないと、校長先生たちを呼んできてしまったのだ。

 今、ふたりは平然と友達を装っていた。

 ここでも崎代沙綾が断ってしまったら、恐らく決定的な別れとなってしまうだろう。

 中水美衣奈が人を殺すことに抵抗が無くなってしまったことも加味すれば――。

「分かった……はぁ……」

 崎代沙綾が断るはずがなかった。

 そもそも、彼女はリスクが大きかったから校長先生を呼んだのだ。

 本来、私の存在など彼女にとっては髪の毛一本ほどの価値も持たない。

 殺人がバレる心配が無く、断る方に危険があるならば、選択肢は決まっていた。

「響、アンタ左側ね」

 崎代咲綾は平然と私の隣までやって来ると、私の右腕を引っ張って無理やり立たせようとする。

 私に逆らう意思はない。

 そもそも、もう生きる気力がこれっぽっちも湧かないだけ。

 なにもしたくなかった。

「で、ですが……」

「じゃあ逆らえば? 私はごめんだけど」

 響遊はためらった挙句、やはり私を見捨てる選択をした。

 いそいそと私のそばまでやって来ると、左わきに腕を入れて私の体を持ち上げる。

 そのまま私は体を引きずられ、上良栄治の死体のそばまで連れていかれたのだった。

「で、どうすんの~」

 崎代咲綾の問いかけに、中水美衣奈がニヤリと口の端を吊り上げる。

「え~っと、最後の力を振り絞って襲い掛かったって形にしたいから……」

 中水美衣奈は、いまや物言わぬ物体と化した上良栄治の手を持って動かし、死んだことで取り落としていたバタフライナイフを握らせる。

「指紋は……付いたら付いたでいっか。また襲われるかもしれないから奪ったとか言えばいいし」

「じゃあ美衣奈がそのまま刺したら?」

「それはほら、栄治の腕に白山の血が付いてなかったら疑われんじゃん」

「なるほど~」

 中水美衣奈と崎代沙綾の会話は、彼女たち自身、おかしいとは思わないのだろうか。

 話す内容は明らかに非日常。

 しかし、彼女たちの態度はご飯を食べている時と変わらない、日常のそれだ。

 もはや彼女たちにとって、殺人という行為が日常の延長になってしまっているのだろう。

「うっわ、栄治のやつ重っ。ていうかほとんど届かないじゃん」

 中水美衣奈は、まるで人形遊びでもするかのように上良栄治の腕を持ち上げ、腕ごとナイフを左右に振ってみせる。

 刃先は床から3、40センチ辺りの空間をかきまぜるだけで、彼女の言う通り、私を殺すには色々ともの足りなく見えた。

「響、栄治の体持って。沙綾は白山をもっと近づけて」

「はいはい~」

 私の膝裏に圧力がかかり、視界がガクリと下がって膝頭に鋭い痛みが走った。

 体が右斜めに傾いだのは、響遊が離さなかったからだ。

「響~、早くしろよ。時間無いんだから」

「は、はいっ」

 左腕が解放されたことで私の視界が水平に戻った。

「起こせ」

 今にも倒れそうなほど青い顔をした響遊が、死体の傍らに跪く。

 ただ、非日常の塊である死体に直接触れることには抵抗があるのか、手をこまねいている。

「響ぃ~。私、今さっき早くしろって言ったよねぇ」

「――っ」

 響遊は恐怖で歯の根が合わないのか、カチカチと耳障りな音を立てる。

 指先は傍目にも分かるほどの大きさで震え、過呼吸かと思うほどの早さで肩が上下していた。

 それでも拒絶することは出来ない。

 中水美衣奈に人生を握られてしまったから。

「――ご、ごめんなさいっ」

 その謝罪は上良栄治に向けてのものだろうか。

 私には分からなかったが、とにかく響遊は上良栄治の両脇に手をいれ、上半身を力いっぱい持ち上げた。

「うわ~……」

 思わず崎代咲綾の口からため息と嫌悪が同時に漏れる。

 それもそのはず、上良栄治の顔は――死人の顔を、死を意識させる表情をしていた。

「ぷっ、馬鹿面」

 死んで全ての筋肉から力が抜け、頬が、首が、だらりと垂れ下がっているのに目は半開きで。開ききった瞳孔は共に虚空を映している。

 生きていた時の激しい憎悪も、狂的な光も無い。

 完全な無。

 死。

 それが今の上良栄治だった。

「笑ってないでさぁ。さすがにコレはキモイってばぁ~」

「分かった分かった」

 笑いはしたものの、中水美衣奈の行動は、上良栄治を嘲笑うためのものだ。

 決して楽しいわけではなかったのだろう。

 すぐに表情を引き締めると、ナイフを持たせている上良栄治の手を、両手で包むようにして持ち直す。

「白山の首を後ろから手で支えといて。頸動脈(けいどうみゃく)を切るから」

「おっけー」

 私の首に手が添えられて、少しずつ実感がわいてくる。

 私は殺されるのだ。

 話すことも出来なくなるし、触れてもらっても分からなくなる。

 何も感じなくなってしまう。

 でも、それが悪い事なんてこれっぽっちも思えなかった。

 ――こんな世界に、辛すぎるこの場所に存在しているよりは、よっぽどマシだと思えたから。

 ただひとつ、お母さんには悪いかなって、そう思うくらいだった。

「これでいい?」

「もうちょっと強くできない? わりとゆるゆるなんだよね」

「おっけーおっけーっと」

 私のすぐ隣で崎代咲綾が膝立ちになると、肩を右手で固定し、左手で後頭部を押さえる。

 それで満足したのか、中水美衣奈が首を縦に振った。

「これでいい?」

「うん」

「じゃあ、早く――」

 崎代咲綾がなにかを言いかけた瞬間、中水美衣奈の腕が伸びて、私の真横を通り過ぎる。

「ばーか」

 ほとんどの音が世界から欠落していく中、中水美衣奈の嘲る声だけがやけに近くで聞こえた。