私が顔をあげると、視界の端でその当人が罠の入り口へと手を伸ばして――開けた。
その瞬間、上良栄治はウッと短く唸って顔を歪める。
残飯がどんな状態だったのか、想像するだけで嫌な気分になってしまった。
「…………稲次っ、てめえか?」
中水美衣奈でなかったのは、稲次浩太の席の方が近かったからだろう。
ドスの利いた声で脅しつけた。
だが、稲次浩太はそれを鼻で笑いとばすと、頭を傾けて背後を見やる。
「教室で暴れまわったお前の自業自得だろ」
「あぁっ!?」
稲次浩太が中水美衣奈を売らなかったのには理由がある。
休み時間が来るよりも前に、夜見坂くんがトイレへと行くふりをして稲次浩太に口止めをしておいたのだ。
そちらの方が、面白くなるからと。
「…………」
「…………」
そして、他の誰もが口をつぐんでいる。
中水美衣奈が犯人であると告げ口する者は、居ない。
必然的に上良栄治は納得せざるを得なかった。
なにせ、一度ならず二度までも暴れたのは、ほかならぬ彼自身なのだから。
「くそっ。メシ抜きかよ……。つか掃除だりぃ……」
自覚もあるが、教室内で待機している警官の存在も大きかっただろう。
上良栄治は頭に手をやった後、盛大なため息を吐き出しながら机の上に崩れ落ちたのだった。
そんな上良栄治をしり目に、稲次浩太は私の方へと視線を向けて、周りに気づかれない様ちょいちょいっと手で合図を送ってくる。
いや、私じゃなかった。
彼の視線は私から少し後ろ、夜見坂くんにずれている。
肩越しに夜見坂くんを伺うと、彼も同じように小さく指を振って稲次浩太に応えていた。
ふたりはいわゆる共犯関係にある。
親近感のようなものを抱いていても不思議ではないだろう。
稲次浩太の片思いかもしれないけれど。
「それじゃ、いこっか」
「え?」
いつの間にか夜見坂くんの目は私を向いている。
一瞬、なぜそんなことを言われたのか分からず困惑していたのだけれど……すぐに思い出した。
私は、夜見坂くんに協力する約束を――結んでしまっていた。
私は殺す。
こんどは私の心じゃなくて、他人を殺す。
他人のために私を犠牲にするんじゃなく、私のために他人を犠牲にする。
私は理解してしまったのだ。
この世界に都合のいい勇者なんていない。
黙っていても勝手に世界を救ってくれる、正義のヒーローなんていない。
だから、私が私を助けなきゃいけないんだって。
たとえ、どんなことをしてでも。
どれだけ自分の手が汚れようとも。
他人を傷つけようとも。
「さあさあ早くしよう。出遅れてるよ」
出遅れるだなんてよく言う。
予定通りなくせに。
「……うん」
夜見坂くんの言う通り、クラスメイトたちは、各々が手を洗いに行ったりトイレに行ったりパンを食べ始めたりしている。
まだ何もしていない人の方が少なかった。
私は立ちあがると、机の横に吊るしてある私のカバンの中から、踏みつぶしておいたメロンパンを取り出す。
白いビニール袋の中で粉々になっているそれは、多少我慢すれば食べられないこともないだろうが、好んで食べたい代物でもないように見えるだろう。
「ああっ、酷い。誰がこんなことをっ」
「…………」
夜見坂くんが私にだけ聞こえるくらいの小声で、そんなふざけたことを言って来るが私はそれを無視して歩き出す。
その目的は――。
「……あのっ」
「あぁ?」
机に突っ伏していた上良栄治。
彼の威圧的な言動と、凶器としか思えない筋肉質な体に若干怯んでしまう。
でも、私は私のすべきことがある。
下腹部に力をこめて、上良栄治の瞳を真正面から見据えて手に握りしめていた袋の口を広げて中身をみせる。
「わ、私も、ぐちゃぐちゃになっちゃったから……」
「俺が悪いってのか?」
「ち、違い……ます」
本当に、自分の手で人を殺した上良栄治の殺意は、今までとは明らかに質が変わっているように感じられた。
「外に、買いにいっちゃダメなのか、先生に、聞きに行くのは、どうかな……と」
「ダメに決まってんだろ。警察が許すかよ」
確かに、昼食を用意してくる必要があったのは、警察の事情聴取があるからだ。
犯人に逃げられたくない警察が、学校の外に容疑者候補を出すことに同意する可能性は低いだろう。
「ひとりならダメでも、複数人なら違うかもよ」
「なんだテメェ、いきなり」
夜見坂くんが、私と上良栄治の話に割って入って来る。
やっぱり私は人と話すのは苦手だ。
舌が何枚もある上に油まで注してある夜見坂くんに任せた方がよさそうだった。
「三本の矢は一本より折れにくい……ってのは少し違うかな。ま、とにかく行ってみようよ。監督者が居たら警察も首を縦に振るかもしれないからさ」
「……」
上良栄治は体格も大きいため、昼食抜きは辛いのだろう。
夜見坂くんから誘われれば断りはしなかった。
「じゃ、一応そこのおまわりさんから先生探しの旅に行く許可貰ってくるから待っててよ」
沈黙を肯定とみなしたのか、夜見坂くんは手をひらひらさせてから離れていった。
……気まずい時間は長く感じる。
特にそれがあまりいい感情を持たない上にこれから罠にはめようという相手ならなおさらのことだ。
心臓が、痛い。
呼吸が乱れる。
夜見坂くんを見ると、まだ警察官のところにまで達してすらいなかった。
私のせいでこれからすることを感づかれはしないだろうか。
自分を殺さないで耐える時間はこんなに長かったのだと、今更ながらに思い出す。
それから時計一周分もないはずなのに、体感ではその何千倍にも感じた時を耐え忍んだのだった。
「行こ、いいってさ」
相変わらず軽薄な笑みを浮かべている夜見坂くんが帰ってきてそう言うのとほぼ同時、上良栄治は無言のまま立ち上がった。
「やっぱりお腹は減るよね~」
夜見坂くんが話題を振ってくるけど、私は楽しくおしゃべりなんて出来ないしする気にもなれない。
ただ黙って夜見坂くんの背中を追いかけることしかできない。
これからすることを思うと、プレッシャーで心臓が爆発しそうだったからだ。
上良栄治が黙っているのがせめてもの救いだった。
夜見坂くん、私、上良栄治の順で一列になり、教室の後方から出る。
そのまま右に折れ、冷たい階段を降り始める。
緑色のゴムマットが貼られた階段を一段降りて、ベージュの手すりを掴む。
プラスティック製の手すりは、思っていた以上に冷たかった。
「ねえ、そういえばさ」
夜見坂くんは階段をおりながら、何気ない感じで切り出す。
「話があったんだよね」
夜見坂くんがちらりと視線を背後へ送った。
つられて私も一瞬だけ送ると、廊下の一番端には響遊が所在なさげに立ち尽くしている。
他にも姿こそ見えないが、廊下に出ている生徒はたくさんいるだろう。
つまり、なにか話せば聞かれてしまう事は必定と言えた。
「……なんだ」
「もう少し人目が無い所に行ってからね。でも君が一番気になる情報だってことだけは教えておくよ」
上良栄治が気になることなんてひとつしかない。
宮苗瑠璃。
想いを寄せていた少女を殺した犯人について、だ。
「あぁ?」
そのことに思い至ったのか、上良栄治の声に憤怒の色が混じる。
「てめぇ……今度はなんだ? なにを掴んだ?」
彼の言葉で、私は察してしまう。
夜見坂くんが、なにかをしたというのは本当だったのだと。
確か、湯川大陽が中水美衣奈と一緒にいる写真を見せたのだったか。
上良栄治はそのせいで湯川大陽を殺したのだ。
「おいっ」
「だから、誰にも見られない場所に行ってから。ね?」
しかし、そんな言葉では上良栄治は止められないし、止まらない。
私の二の腕辺りが掴まれ、強い力で横方向へと圧力がかかる。
「ざけんなっ! んなの――」
「警官、邪魔だよね?」
ぞくりと、肌が泡立つ。
夜見坂くんの声はいつもと変わらなかったが、彼が考えている事、それそのものが恐ろしかった。
上良栄治も同じ考えに至ったのか、動きがピタリと止まる。
「なにかあったらすぐ駆けつけてきてさ。君がなにかをしても、すぐ止められちゃうでしょ」
だから、という言葉と共に、夜見坂くんは振り返る。
彼の口元には、いつも通りの笑みが張り付いていた。
「どうすれば邪魔されないかも教えてあげるよ」
その瞬間、上良栄治はウッと短く唸って顔を歪める。
残飯がどんな状態だったのか、想像するだけで嫌な気分になってしまった。
「…………稲次っ、てめえか?」
中水美衣奈でなかったのは、稲次浩太の席の方が近かったからだろう。
ドスの利いた声で脅しつけた。
だが、稲次浩太はそれを鼻で笑いとばすと、頭を傾けて背後を見やる。
「教室で暴れまわったお前の自業自得だろ」
「あぁっ!?」
稲次浩太が中水美衣奈を売らなかったのには理由がある。
休み時間が来るよりも前に、夜見坂くんがトイレへと行くふりをして稲次浩太に口止めをしておいたのだ。
そちらの方が、面白くなるからと。
「…………」
「…………」
そして、他の誰もが口をつぐんでいる。
中水美衣奈が犯人であると告げ口する者は、居ない。
必然的に上良栄治は納得せざるを得なかった。
なにせ、一度ならず二度までも暴れたのは、ほかならぬ彼自身なのだから。
「くそっ。メシ抜きかよ……。つか掃除だりぃ……」
自覚もあるが、教室内で待機している警官の存在も大きかっただろう。
上良栄治は頭に手をやった後、盛大なため息を吐き出しながら机の上に崩れ落ちたのだった。
そんな上良栄治をしり目に、稲次浩太は私の方へと視線を向けて、周りに気づかれない様ちょいちょいっと手で合図を送ってくる。
いや、私じゃなかった。
彼の視線は私から少し後ろ、夜見坂くんにずれている。
肩越しに夜見坂くんを伺うと、彼も同じように小さく指を振って稲次浩太に応えていた。
ふたりはいわゆる共犯関係にある。
親近感のようなものを抱いていても不思議ではないだろう。
稲次浩太の片思いかもしれないけれど。
「それじゃ、いこっか」
「え?」
いつの間にか夜見坂くんの目は私を向いている。
一瞬、なぜそんなことを言われたのか分からず困惑していたのだけれど……すぐに思い出した。
私は、夜見坂くんに協力する約束を――結んでしまっていた。
私は殺す。
こんどは私の心じゃなくて、他人を殺す。
他人のために私を犠牲にするんじゃなく、私のために他人を犠牲にする。
私は理解してしまったのだ。
この世界に都合のいい勇者なんていない。
黙っていても勝手に世界を救ってくれる、正義のヒーローなんていない。
だから、私が私を助けなきゃいけないんだって。
たとえ、どんなことをしてでも。
どれだけ自分の手が汚れようとも。
他人を傷つけようとも。
「さあさあ早くしよう。出遅れてるよ」
出遅れるだなんてよく言う。
予定通りなくせに。
「……うん」
夜見坂くんの言う通り、クラスメイトたちは、各々が手を洗いに行ったりトイレに行ったりパンを食べ始めたりしている。
まだ何もしていない人の方が少なかった。
私は立ちあがると、机の横に吊るしてある私のカバンの中から、踏みつぶしておいたメロンパンを取り出す。
白いビニール袋の中で粉々になっているそれは、多少我慢すれば食べられないこともないだろうが、好んで食べたい代物でもないように見えるだろう。
「ああっ、酷い。誰がこんなことをっ」
「…………」
夜見坂くんが私にだけ聞こえるくらいの小声で、そんなふざけたことを言って来るが私はそれを無視して歩き出す。
その目的は――。
「……あのっ」
「あぁ?」
机に突っ伏していた上良栄治。
彼の威圧的な言動と、凶器としか思えない筋肉質な体に若干怯んでしまう。
でも、私は私のすべきことがある。
下腹部に力をこめて、上良栄治の瞳を真正面から見据えて手に握りしめていた袋の口を広げて中身をみせる。
「わ、私も、ぐちゃぐちゃになっちゃったから……」
「俺が悪いってのか?」
「ち、違い……ます」
本当に、自分の手で人を殺した上良栄治の殺意は、今までとは明らかに質が変わっているように感じられた。
「外に、買いにいっちゃダメなのか、先生に、聞きに行くのは、どうかな……と」
「ダメに決まってんだろ。警察が許すかよ」
確かに、昼食を用意してくる必要があったのは、警察の事情聴取があるからだ。
犯人に逃げられたくない警察が、学校の外に容疑者候補を出すことに同意する可能性は低いだろう。
「ひとりならダメでも、複数人なら違うかもよ」
「なんだテメェ、いきなり」
夜見坂くんが、私と上良栄治の話に割って入って来る。
やっぱり私は人と話すのは苦手だ。
舌が何枚もある上に油まで注してある夜見坂くんに任せた方がよさそうだった。
「三本の矢は一本より折れにくい……ってのは少し違うかな。ま、とにかく行ってみようよ。監督者が居たら警察も首を縦に振るかもしれないからさ」
「……」
上良栄治は体格も大きいため、昼食抜きは辛いのだろう。
夜見坂くんから誘われれば断りはしなかった。
「じゃ、一応そこのおまわりさんから先生探しの旅に行く許可貰ってくるから待っててよ」
沈黙を肯定とみなしたのか、夜見坂くんは手をひらひらさせてから離れていった。
……気まずい時間は長く感じる。
特にそれがあまりいい感情を持たない上にこれから罠にはめようという相手ならなおさらのことだ。
心臓が、痛い。
呼吸が乱れる。
夜見坂くんを見ると、まだ警察官のところにまで達してすらいなかった。
私のせいでこれからすることを感づかれはしないだろうか。
自分を殺さないで耐える時間はこんなに長かったのだと、今更ながらに思い出す。
それから時計一周分もないはずなのに、体感ではその何千倍にも感じた時を耐え忍んだのだった。
「行こ、いいってさ」
相変わらず軽薄な笑みを浮かべている夜見坂くんが帰ってきてそう言うのとほぼ同時、上良栄治は無言のまま立ち上がった。
「やっぱりお腹は減るよね~」
夜見坂くんが話題を振ってくるけど、私は楽しくおしゃべりなんて出来ないしする気にもなれない。
ただ黙って夜見坂くんの背中を追いかけることしかできない。
これからすることを思うと、プレッシャーで心臓が爆発しそうだったからだ。
上良栄治が黙っているのがせめてもの救いだった。
夜見坂くん、私、上良栄治の順で一列になり、教室の後方から出る。
そのまま右に折れ、冷たい階段を降り始める。
緑色のゴムマットが貼られた階段を一段降りて、ベージュの手すりを掴む。
プラスティック製の手すりは、思っていた以上に冷たかった。
「ねえ、そういえばさ」
夜見坂くんは階段をおりながら、何気ない感じで切り出す。
「話があったんだよね」
夜見坂くんがちらりと視線を背後へ送った。
つられて私も一瞬だけ送ると、廊下の一番端には響遊が所在なさげに立ち尽くしている。
他にも姿こそ見えないが、廊下に出ている生徒はたくさんいるだろう。
つまり、なにか話せば聞かれてしまう事は必定と言えた。
「……なんだ」
「もう少し人目が無い所に行ってからね。でも君が一番気になる情報だってことだけは教えておくよ」
上良栄治が気になることなんてひとつしかない。
宮苗瑠璃。
想いを寄せていた少女を殺した犯人について、だ。
「あぁ?」
そのことに思い至ったのか、上良栄治の声に憤怒の色が混じる。
「てめぇ……今度はなんだ? なにを掴んだ?」
彼の言葉で、私は察してしまう。
夜見坂くんが、なにかをしたというのは本当だったのだと。
確か、湯川大陽が中水美衣奈と一緒にいる写真を見せたのだったか。
上良栄治はそのせいで湯川大陽を殺したのだ。
「おいっ」
「だから、誰にも見られない場所に行ってから。ね?」
しかし、そんな言葉では上良栄治は止められないし、止まらない。
私の二の腕辺りが掴まれ、強い力で横方向へと圧力がかかる。
「ざけんなっ! んなの――」
「警官、邪魔だよね?」
ぞくりと、肌が泡立つ。
夜見坂くんの声はいつもと変わらなかったが、彼が考えている事、それそのものが恐ろしかった。
上良栄治も同じ考えに至ったのか、動きがピタリと止まる。
「なにかあったらすぐ駆けつけてきてさ。君がなにかをしても、すぐ止められちゃうでしょ」
だから、という言葉と共に、夜見坂くんは振り返る。
彼の口元には、いつも通りの笑みが張り付いていた。
「どうすれば邪魔されないかも教えてあげるよ」