私の腕が強い力で引っぱられる。

 きちんとしゃがんでいてよかった、なんて、頭の冷静な部分が場違いなことを考える中、私の上体は中水美衣奈に覆いかぶさりそうなほどに(かし)ぐ。

「お前、なに気安く触ってんだよ」

 女性の出したものとは思えないほど低い声が私の鼓膜を打く。

 いつもと同じく嘲りや憎悪で染まっていたのだが、極々わずか、それらの奥にほんの少しだけ違う感情があったことを、私は聞き逃さなかった。

 それは感謝とか反省とか、そういう類のものではない。

 私という矮小な存在なんかに助けられ、憐れまれたことに対する屈辱だった。

「どけ」

 私の心が冷たく凍り付いていく。

 私は私の心を殺す。

 痛まないように。

「……はい」

 左手で床を突き、中水美衣奈の邪魔にならないように立ち上がる。

 彼女はハッと一つだけ強く息を吐いてから立ち上がった。

「…………」

 顔は伏せている。

 しかし、視線だけは左右に動き、クラスメイト達を順に睨みつけていく。

 それはまるで、どう復讐してやろうかとでも考えているようだった。

「ついて来い」

 中水美衣奈の口から、私に対して命令が下される。

 彼女に私への感謝なんて、あるはずがない。

 そして、私に断る権利などなかった。

 ――ソレデモワタシハナニモカンジナイ。

「はい」

 今まで通り何も変わらない。

 正しく私たちの関係、だ。

 中水美衣奈は頷くことすらせず、ゆらゆらと歩き出す。

 私はその後ろを、ただ黙ってついて行った。





「失礼、します」

 私が保健室の扉を開けると、消毒液の香りと静謐な空気を感じる。

 部屋の中には誰も居らず、空のベッドが私たちを出迎えてくれた。

「うわぁ、先生の居ない保健室で女の子と一緒って、なんだがとってもえっちだね。胸がドキドキしちゃうよ」

「…………」

 夜見坂くんがまた心にもないことを言っているけれど、別に共感して欲しいわけではさそうだったので、私は少し小首を傾げるにとどめておく。

「先生、呼んで来るから」

 どこに居るのか分からないが、専門的な知識のない私が何か出来るわけでもない。

 そう思ったのだが――。

「アンタが準備して」

 中水美衣奈はそうは思わなかった様だった。

「え?」

「早く。タオルくらい準備できるでしょ」

 追い越し際、中水美衣奈が私の肩口にドンっとぶつかっていく。

 私に仕事を頼む人の態度には思えなかったが、彼女の中では私なんかその程度のものなのだろう。

 中水美衣奈は自分のした行動を一切気にすることなく治療用の椅子に腰を下ろす。

 怪我の治療と思いきや、彼女はポケットから赤いスマートフォンを取り出して弄り始めてしまった。

 内心、中水美衣奈の変わらなさに、呆れを通りこして感心すらしてしまったのだが、私はそんな事はおくびにも出さず、言われた通り治療の準備を始める。

 備え付けの瞬間湯沸かし器のスイッチを入れて蛇口を捻り、ぬるま湯くらいの熱さになるまで水を出しっぱなしにする。

 その間に所定の場所からタオルを取り出し、少し熱めのお湯をタオルに含ませてから緩めに絞った。

 これで清拭くらいは出来るだろう。

 あとは、打撲の部分を冷やしたりしながら先生を待てばいいのだろうか。

 特別な知識があるわけじゃないから何をすればいいのかよく分からなかった。

「あの、タオル……」

「準備しろって言ったはずだけど」

 わざとらしいため息の後に、「使えな」なんてひとり言が飛んできて私の胸に突き刺さる。

「はい、すみません」

 私はタオルを少し広げてから中水美衣奈に手渡す。

 彼女は礼など言うことなく、それが当然であるかのように受け取り――。

「とって」

「え?」

 なぜかスマートフォンを手渡してきた。

 取るって、なにをだろう?

 なにをすればいいのだろう?

 そう思考をクエスチョンマークで埋め尽くしていると、またも大きなため息が押し寄せて来た。

「私を撮れって言ってんの。馬鹿じゃないの?」

「撮る……」

 ニュアンス的に、今の中水美衣奈の状態を撮影しろと言われているのは何となく分かった。

 しかし、いいのだろうか。

 私の記憶では、中水美衣奈は比較的おしゃれに気を遣う方で、こっそり化粧をしたり、バレない程度に眉を剃ったり、爪にオイルだなんだと色々塗ったりしていたはずだ。

 今の彼女は頬や側頭部に青あざが浮かんでいるし、額には数センチほどの擦り傷がある。

 更にはつむじ辺りの髪の毛が一部抜けてしまっていたり、鼻血で顔面がどす黒く染まっていたりする。

 喜んで見返したい顔では決してない。

 そんなものを撮影して残しておくような性格ではなかったはずだ。

「早くしろよ! SNSにあげんだからさぁ!」

「SNS……」

 知識はある。

 何をしたいのかも気付いた。

 よくニュースで取り扱われている、炎上を起こして、誰か……いや、学校そのものに対して社会的制裁を与えようという腹積もりなのだろう。

 あの時、校長に対してなにも言い返さなかったのはこういった復讐を考えていたからだろう。

 ただ、私はスマートフォンを手にするのは初めてだ。

 期待には応えたかったが、どう操作すればいいのか分からなかった。

「急げっつってんだろ!」

「あ、あの……使い方、わ、分からない……です……」

 私が正直に告白すると、中水美衣奈はため息どころかわざとらしく声に出して「はぁぁ~あっ」と嘲る。

「まさかアンタが日本語も読めない馬鹿だとは思わなかった」

「……」

 お母さんが持っているのは古ぼけた携帯電話なため、そういうものに触れたことは一度もないのだ。

 家の経済的な余裕からいっても私がスマートフォンを持つことはできない。

 もしかしたらの話だが、宮苗瑠璃や中水美衣奈、それから崎代沙綾にお金を奪われなければ持つことも可能だったかもしれないけれど。

「画面見ればカメラって書いてあるでしょ。そこ触ればいいのよ。そんなことも分かんないの?」

「…………」

 私は言われた通りに操作してアプリを立ち上げる。

 細かい文字を丁寧に読みながら撮影を始めた。

 タオルを手に持って、悲しそうな顔をしている全身写真を一枚。

 それから青あざやグロテスクな傷口を、なるべく近くで撮影していく。

「ほかに傷口ある?」

「あ、頭の部分も皮膚が裂けてて……」

「それも」

 上良栄治が髪の毛をひっつかんで思いっきり振り回したからだろう。

 髪の毛がごっそり抜けるだけでなく、一部の皮膚が毛根ごとべろりと剥がれてしまっていた。

「はい」

 全ての撮影を終えてから、中水美衣奈へスマートフォンを返す。

 中水美衣奈はスマートフォンを片手で操りながら、ようやくタオルで顔を拭き始め――。

「冷たくなってるから温めなおして」

 私に向けてタオルを放り投げてくる。

 撮影している時間はさほどでもなかったが、確かにタオルは冷え切ってしまっていた。

 仕方なく私はもう一度タオルを温める作業を始める。

 話すことが無くなり、気まずい沈黙が訪れると思いきや……そうはならなかった。

「SNSで炎上させるのが目的ってことはさ、下手すると本名とかの身元がバレちゃう可能性があるよね。そういうの対策してる?」

 この部屋には夜見坂くんが居るのだ。

 彼は比較的おしゃべりが好きで、色々話し続ける人だ。

 特に、煽ったり誘惑したりするときには饒舌になった。

「……ちっ」

 全身を撮影した写真なんかは、中水美衣奈の顔がそのまま出てしまっている。

 インターネットに出回ってしまえば、それは一生残る事になるのだから迂闊なことは出来ないはずだ。

 実際、中水美衣奈は苦々しく舌打ちしたあと、スマートフォンをポケットにしまわざるをえなかった。

「編集しないとちょーっとヤバいよね。あと特定できそうなログも消しとかないとね」

「うっせえな、言われなくても分かってるっつーのっ」

 夜見坂くんは軽く肩をすくめると、うるさいと言われているのにも関わらず、再度口を開く。

「君の目的って、学校とかあの男への恨みだよね?」

「それがどうしたっ。てか、なれなれしい――」

「復讐されたらどうするの?」

 その一言で中水美衣奈は凍り付いた。

 彼女は確かに怒りを抱いているのだろう。

 だが同時に、上良栄治への恐怖も深く刻まれたはずだ。

 理不尽な暴力に曝されて心が折れてしまったはずだ。

 私にはよくわかる。

 傷ついた人間の気持ちが。

「社会的に殺してもさ、生きてるんだよ」

 SNSで罵倒されれば嫌な気持ちになるだろう。

 人によっては心を病んで自殺にまで追い込まれるだろう。

 しかし上良栄治はそんなタイプだろうか。

 宮苗瑠璃のために殺人まで犯すし、中水美衣奈にトラウマが出来るほど暴行を加える人間なのだ。

 十中八九、やり返すことを望むだろう。

 そうなればどうなるか、結末は決まっていた。

「絶対、君を殺しに来るよね」

「――――っ」

 中水美衣奈の呼吸が荒くなる。

 心の傷を抉られ、復讐すら出来ない。

 一生上良栄治に怯え続けなければならない。

 それを、はっきりと自覚してしまった。

 だからこそ――生まれる。

「ねえ、良い事教えてあげよっか」

 心の闇が。

 夜見坂くんが、つけ入る隙が。

「上良栄治を殺す方法、とかさ」