いくら上良栄治が部活動で体を鍛えているとはいえ、大人ふたりを振り切って中水美衣奈への暴行を続けることは出来なかった。

 しかし、ただでは止まるつもりはないとばかりに反抗し、先生であろうと殴りつける。

 そんな折に息を切らせながら生徒指導の先生が教室へと入って来る。

「あいた……はぁ、のかっ……」

 先生の手に鍵が握られているのを見るに、職員室へ鍵を取りに行っていたのだろう。

 私がもう少し早く動けば無駄足を踏ませなくて済んだかもしれない。

「こっち! 早く手伝って!」

「は、はいっ」

 校長先生が発した悲鳴混じりの要請に急かされ、生徒指導の先生も上良栄治へと組み付いていく。

 右腕を校長先生が、背中には下園先生が乗り、左手と腰辺りにかけて生活指導の先生が抱き着いて封じる。

 さしもの上良栄治も、大人の男性三人もの力を前にしては組み伏せられるほかなかった。

 しばらくの間、教室の中はふぅふぅと荒い息づかいが渦巻く。

 だがこれで、とりあえずは治まった、はず。

「どっちだ!」

 上良栄治が叫ぶ。

 組み伏せられ、床に這いつくばっているというのに彼の殺意は治まることを知らないらしい。

「どっちが開けやがった!」

 首を捻り、私と稲次浩太へ刺すような視線を向けてくる。

 彼の行動を止める、直接の原因を作ったのだから、恨みをぶつける対象になって当然だ。

 こうなることは分かっていたのに、私は……。

「コイツ」

「…………」

 稲次浩太が、いささか白けた目を私に向ける。

 夜見坂くんが擁護してくれたからって、納得はしていないのだろう。

「お前っ」

 照準は、私に定まった。

「白山っ!」

「やめなさいっ」

 ただ、更なる被害の拡大は、先生たちが望むところではなかったのだろう。

 上良栄治への拘束が強まり、彼の言葉は途中で途切れてしまった。

「みんなはもう一度掃除と片づけをして、終わったら静かにしてなさい。それから……」

 下園先生は額の汗を拭ってから、床の上で仰向けになって顔面を押さえている中水美衣奈へと視線を向ける。

「誰か彼女を保健室まで連れて行ってあげてくれ」

 中水美衣奈を保健室へ連れて行く。

 いったい誰がそんなことをするのだろうか。

 そして中水美衣奈がそれを許すのだろうか。

 ここに居る全員が、彼女のことを見捨てたというのに。

「ほら、立ちなさい。……タイミングを合わせて」

 校長先生、下園先生、生徒指導の先生が、上良栄治の拘束を緩めないまま立ち上がっていく。

 なにをするつもりなのか。

 ……そんなの、決まっている。

 更生、だ。

「そいつ、警察に突き出せよ!」

 中水美衣奈が恨み言を漏らす。

 ああ、そうだろう。

 その通りだ。

 加害者なのだから、罰せられるべきだ。

 誰だってそう思う。

 私だってそう思った。

 法律にだって書いてある。

 でも、この人たちの考えは違うのだ。

「中水」

 校長先生が、思わずゾッとするような猫なで声を出す。

 慈愛に満ちていて、慈悲の心で味付けされた、傲慢で一方的な(せいろん)を。

「警察に言ったらどうなるか分かっているだろう?」

「だからどうしたってんだよっ。私は殺されそうになったんだっ!」

 そうだね、と返す校長の言葉は……『甘い』。

「でも、人は必ずやり直せるはずだ。そうだろう? だって君たちには未来があるんだから」

 校長先生の表情。

 瞳。

 言葉。

 それら全てが私の中に記録されていた。

「上良にチャンスをあげられる人間になりなさい。きっとそれは君の糧になる。成長として君に返ってくるんだ」

「はぁ?」

 正しい。

 限りなく正しい。

 過剰で極端な正論は何の役にも立たないのだけれど、先生たちはずっとこの幻想にすがって、学校という世界を保ってきた。

 これからも絶対に、この虚構にまみれた正論を曲げないだろう。

 例え、どれだけ傷つく人が出ようとも。

「中水もさっき白山からチャンスを貰っただろう?」

「…………」

 私は過去に、この校長から一字一句違わない、まったく同じ言葉を言われた経験がある。

 その結果がこれ。

 いじめは止まず、更には棍棒で殴りかかられ、殺されかけた。

 今の状況と、中水美衣奈の立場とほとんど一緒。

 違うのは、中水美衣奈が被害者でもあり加害者でもあるということ。

 皮肉にも中水美衣奈という存在そのものが校長先生の理論を破綻させる証拠になっていた。

 そんなこと、どちらも気づいていないだろうが。

「……よし、それじゃあ中水は怪我の治療をしてもらいなさい。いいね?」

 沈黙を肯定と受け取ったのか、校長先生はにこやかに笑って話を終わらせる。

 中水美衣奈は別に肯定などしていないだろう。

 要求が通ることは無いと諦めたのだ。

 私もそうだったから分かる。

 生徒いち個人という小さくて弱い存在は、学校という大きな世界に立ち向かうことなど出来ない。

 一方的に蹂躙され、飲み込まれてしまうだけだ。

「ほら、暴れるなって!」

「退いて、退いてっ」

 上良栄治と3人の先生は、押し合いへし合いしながらひと塊となってこちらへと向かってくる。

 このまま扉から出て、生徒指導室か校長室にでも行こうというのだろう。

 私は彼らの進路を阻まないようにその場を譲る。

 だが、身がすくむほどの殺意が籠められた視線を向けられた。

 罵倒されなかったのは、上良栄治が口を押さえられているからにすぎない。

 彼のやりたかったことを阻むきっかけを作ったのは私なのだから、この結果はなるべくしてなったことだ。

 心づもりは出来ていたはずだったが、それでも鳥肌が立つほどの恐怖を感じた。

 そうして嵐の去った教室に、静寂が帰ってくる。

 陰鬱で、息苦しく、暗然たる静寂が。

「先生に言われたこと、やりませんか」

 重苦しい空気に耐えられなかったのか、響遊が真っ先にそう提案する。

 それに賛同したい者の方がきっと多いだろう。

 こんな重圧からは、誰だって逃げ出したいくらい嫌だ。

 例え上っ面だけであろうと、取り繕われた雰囲気の方がまだマシなはずだ。

 しかし、その取り繕うのでさえ、ある問題――教室の真ん中辺りで顔面を押さえて寝転がっている、中水美衣奈という最大の爆弾を解決しなければ出来はしなかった。

「…………」

 クラスの誰もが視線で問いかける。

 彼女をどうするのか、と。

 もちろん進んで解決しようと動く者は居ない。

 見捨てたという事実は、恨まれているという自覚を生み、余計に中水美衣奈を遠ざけようとする行動に繋がる。

 そうなると、自然と他人に押し付けようという雰囲気が生まれてしまう。

 生け贄を、求めるのだ。

「お前が行けよ。お前のせいで終わったんだからよ」

 稲次浩太は不満をあらわにしながら、私に押し付ける。

 言葉を使わずに責任をなすりつけあっていた教室に、その言葉はひどく響いた。

「――――っ」

「…………」

 案の定、非難にも思える視線が集まる。

 お前が鍵を開けたんだから、責任をとってお前が保健室まで連れていけ。

 言葉こそ無かったが、みんなの瞳は間違いなくそう言っていた。

「あはっ」

 ただ、夜見坂くんだけは、いつもと変わらず意図の読めない笑顔を浮かべていたが。

「じゃあ行こっか。あ、でも僕は壁にはなれないよ。もやしよりも弱いからさ。そこは期待しないでね」

 きっと夜見坂くんには私を守る意思もないだろう。

 もし私が殺されることになっても、あのニヤニヤとした笑みを浮かべながら傍観していると思う。

 それでも一緒に居てくれることは、私にとって救いに感じた。

「……分かってる」

 みんなが見つめるなか、一歩、前へと踏み出す。

 誰も助けてはくれない。

 こんなにも人が居るのに、私はひとりぼっちだった。

「中水、美衣奈……さん」

 歩み寄りながら、彼女の名前を呼ぶ。

 彼女の肩が、ぴくりと反応したのは気のせいではないだろう。

 あれほどの大声を出せたのだから、まだ私を襲うくらいの余力はあるはずだった。

「保健室、行こう」

 私は中水美衣奈のすぐ隣に膝をつき、肩に手をかけて揺さぶる。

 その瞬間、中水美衣奈の瞳がギラリと光った。