ペタンペタンと、上履きの踵を引きずる気の抜けた足音が遠ざかっていく。
恐らくは、稲次浩太が男子トイレを確認しに行った音だろう。
なら次はこちらへ来る。
どこに隠れればいいんだろう。
個室……はダメ。
扉を閉めれば居ると教えているようなものだし、かといって開け放っていれば意味はない。
掃除用具入れは閉っているが、建付けが悪くて開ければギィギィと音がする。
私にできることは、扉の陰に隠れて中に入ってこないよう祈るだけだった。
「居ねえな。そっちは?」
「問題ないよ」
夜見坂くんにとっては問題なくても私にとっては大ありだ。
さっき、夜見坂くんは稲次浩太に見られないように私をトイレに突き飛ばしてくれた。
これは私を隠そうとしてくれたのか――。
いや、私があの場に居れば、稲次浩太は殺人を認めなかっただろう。
夜見坂くんのことだから、稲次浩太に罪を認めさせ、それを私に聞かせたかっただけかもしれない。
もしかしたらこのまま私の存在がバレて、殺されるのを望んでいるのかもしれなかった。
「見てねえじゃねえか」
私の祈りも虚しく、ペタンペタンと音を立てながら稲次浩太が近づいて来る。
お願いします、気付かないで。
お願いだからっ。
必死に祈りながら気配を殺す。
呼吸をできる限り遅くして、タイルの壁に体を押し付けた。
「さて」
背中にわずかな揺れが伝わって来る。
きっと、稲次浩太が壁に手を置いたのだ。
おそるおそる視線をズラす、彼の指先がドアと壁の隙間から顔を覗かせている。
その距離、わずか十数センチ。
吐息すら届いてしまうかもしれないほどの至近距離に、稲次浩太が、宮苗瑠璃を手にかけた殺人犯が――居た。
「んあ~?」
彼の一挙手一投足に、体が震えそうになる。
全身に力を入れて身震いひとつ起こらないように固くなり、歯を食いしばって悲鳴をかみ殺す。
両手で口を覆い、鼻をつまんで息すらも止める。
今、なにか音を立てて気づかれでもしたら、一巻の終わりなのだから。
――苦しい。
どれだけの時間こうしていればいいのだろうか。
分からない。
今、何分経ったのだろうか。
どうして何もしないのだろう。
そんな疑問が頭の中で渦を巻く。
時計代わりの鼓動の回数を、もう数えていられなくなった時、稲次浩太が「ああ」と頷いた。
「そっかそっか、小便用がないから違和感あったんだな」
「……君はトイレよりも使う人に興味があるタイプじゃないの?」
「便器に興奮する奴は……居ねえとまでは言わねえけど少数だろ。俺は興奮してねえよ」
ちょっと気になっただけだ、と言い捨てると私の視界から稲次浩太の指先が消えてなくなる。
どうやら入り口から中を確認するだけで十分だと考えたらしい。
……よかった、助かった。
ほっと胸を撫でおろし、そっと口から手を放す。
息を吐き出す前に大きく口を開いて、ゆっくり、静かに呼吸を始める。
新鮮な空気が喉を通っていくとき、わずかに震えが起きてしまったが、鼓膜に届くほどの音が出ることはなかった。
「んで、なんだって?」
稲次浩太は緊張感のない物音を立てながら離れていく。
極度の緊張から解放され、思わず目じりに涙が浮かんでしまった。
「君にして欲しいことだよ」
「それは分かってんよ。面白いものが見れそうだし、いくらでもやってやる」
稲次浩太がキシシッと意地の悪い笑い声を漏らす。
だがそれは、私にとって災厄の始まりを告げる鐘の音だった。
「……はやく。行くよ」
話し終わった夜見坂くんが、首だけをトイレの入り口から伸ばして囁きかけてくる。
稲次浩太は用を足していて見えないはずだ。
逃げるには今しかないのだが、夜見坂くんに呼ばれたことで不安になる。
もっとも、拒絶するなんてあり得ないのだけれど。
私は足音を忍ばせ、出来る限り早くトイレを出る。
1年2組の全員が静かに自習をしている教室の前を横切ると、夜見坂くんは何故か、その隣にある空き教室――普段は3年生が使っている――の前で立ち止まった。
「不思議だと思わなかった?」
「な、なにが?」
「おしっこ」
「え?」
夜見坂くんの言っていることは、私には理解できない。
また騙されてしまうかもしれないから、理解しない方がいいのかもしれないのだが。
「宮苗瑠璃が失禁してたことだよ。不思議じゃない?」
絞首刑になったら、筋肉が緩んで失禁するとかいう話は本で読んだことがある。
首を絞められて殺されたとしたら、別に不思議じゃないだろう。
そのことを夜見坂くんに告げると、彼は分かってないなぁとばかりに首を左右に振った。
「それはドラマなんかの俗説だよ。まあ、若い男性が絞首刑にされた時に射精しちゃうらしいけど、宮苗瑠璃は女の子だからね」
「だ、だったらなんで……」
「死んで筋肉が緩むまでは正解。そこから尿が漏れるには、腹部の圧迫が必要なんだよ。つまり……」
宮苗瑠璃は、殺された後に腹部を圧迫された。
……なんで?
「僕は終わった後に見ただけだからね。推測混じりになるけど、だいたい当たってると思うよ」
あ、今度こそ本当だから、なんて付け加えてから夜見坂くんは事件のことを語り始める。
宮苗瑠璃は、夜見坂くんから湯川大陽の浮気について話を聞かされた。
それで腹を立てた宮苗瑠璃が湯川大陽と中水美衣奈を電話で呼び出したのだが、ふたりは何時まで経っても姿を現さない。
イラついていた宮苗瑠璃が、ちょうど教室にやって来た稲次浩太へ罵声を浴びせると、稲次浩太は持ち前の短気を発揮する。
宮苗瑠璃に迫り、襟首を掴んで無理やり黙らせようとしたのだ。
しかし宮苗瑠璃は虫の居所が悪く、人間の急所である首の近くを掴まれているというのに暴れてしまう。
その結果、ふたりはバランスを崩して転倒。
宮苗瑠璃は、後頭部を強く机に打ち付けてしまった。
「机に頭が当たっているのに、首から下には稲次浩太の全体重がかかってしまったんだよ。そうなるとどうなるか」
夜見坂くんは自分の首に手を当てて、コキッなんて擬音を口にする。
「首の骨が折れたんだよ。脊髄損傷ってやつだね」
首の骨が折れたとしても、即死はしなかったかもしれない。
でも、脳という司令塔から筋肉への命令は一気に切断されてしまう。
ちょうど、コードを引っこ抜いた機械のような感じだ。
その状態で稲次浩太がのしかかったとしたらどうなるか。
腹部が圧迫され、中身が押し出されてしまうだろう。
吉川線――抵抗の際にできるひっかき傷が無かったのもそれで納得がいく。
「あとは絞殺だとチアノーゼが起きて唇が紫色になるとかあるんだけどねー。僕たちは知らないことが多すぎるんだよ」
全ては偶然から始まった。
たまたま稲次浩太が宮苗瑠璃を殺害してしまったのを、夜見坂くんが言葉巧みに関係のないことを意味ありげに語ってみせ、全てをぐちゃぐちゃにひっかき回したのだ。
その結果、湯川大陽という新たな犠牲者が生まれた。
これからも犠牲者は増えるだろう。
私に向かって殺意を向けた中水美衣奈が居る。
湯川大陽を殺した上良栄治が居る。
宮苗瑠璃を殺しても悪びれない稲次浩太が居る。
きっと、まだまだ死ぬ。
この学校という閉じた世界が壊れるまで。
「あー、いけないんだー」
夜見坂くんがあからさまな棒読み口調で私を非難する。
でも言葉の内容と違い、その口元はほころんでいた。
「そんな顔しちゃいけないんだよー」
「え?」
言われて私は自分の口元へと手を伸ばした。
そして、気付く。
口の端が少しだけ持ち上がっていることに。
「人の不幸を笑うなんて、君も人でなしの仲間入りだね」
私も夜見坂くんと同じように、嗤っていた
教室に一歩足を踏み入れた瞬間、私は慣れ親しんだ空気を感じ取った。
昏く、悪意に満ちていて、自分の意思ではしゃべることもままならない。
自分の全てを誰かが決め、一方的に奪われ、押しつぶされる。
そんな空気だ。
ただ、外面だけならばいつもとほとんど変わりはない。
全員が黙りこくって席につき、机に向かって問題を解いていた。
「すごいよね。殺人事件が起こったのにみんな勉強してるよ。こっちの方がよっぽど狂ってると思わない?」
常に普通であることを求められ、異常な状況であろうとそれを強要される。
正常性バイアスなんてそれらしい名前をつけられた、ただの現実逃避。
どんな人間の心であろうと存在する異常性だ。
「…………」
夜見坂くんの嫌味に背中を押され、私は自分の席へと向かう。
そして――。
「はぁ……」
目に入った光景を前に、私の口からはため息しか出てこなかった。
窓際、後ろから二番目にある私の席。
倒れた椅子の下に、机の中に入っていたはずの教科書、ノートなどがぶちまけられていた。
気持ち一か所にまとめられた跡が見えるのがまだ救いだろうか。
「さっき、上良栄治と稲次浩太が大ゲンカしたらしいよ」
「え?」
「よかったね、いつものいじめじゃなくて」
よかったと受け止めるべきなのだろう。
クラスの厄介者だった私の席を、こうして元の位置に戻してくれただけでも扱いは良くなったと言えなくもない。
「……そうだね」
私は虚無感を覚えながら、しゃがみこんで片づけを始める。
なにか無くなっている物はないか。
必要以上に汚されてはいないか。
壊されていないかといったことを確認しながら、机の中にしまっていく。
……先ほど海星さんや暮井刑事が気遣ってくれたのは、一時の夢だったと思う方が精神衛生上良さそうだった。
「ああ、プリントかな……」
片付け終わり、いつも通りに足りないものを発見する。
その呟きが聞こえたのか、前の席に座る女子生徒がちらりと私の方を見て「ふっ」と含み笑いをもらす。
彼女が私にそういった嫌がらせをするのはいつものことだった。
またゴミ箱にでも捨てているのかと思って立ち上がった瞬間、教室後方の扉がガラリと音を立てて開いた。
「おい、上良」
入って来るなりつっけんどんな物言いをしたため、声の主が稲次浩太であることを察した。
「こっち見ろよ」
上履きの踵を踏みつぶしているためか、スリッパでも履いているかのようなペタンペタンという足音を立てながら、稲次浩太が歩いて行く。
「聞こえてんだろ、シカトすんなよ」
「い、稲次くん、トラブルを起こしてもらっては困ります」
「うっせえよ。まだなんもやってねえだろ――上良っ」
響遊が震える声で注意をするが、ほとんど意味などなさなかった。
「黙れよ。殺すぞ稲次」
上良栄治が立ち上がった際に椅子でも蹴り倒したのだろう。
派手な物音が振動となって私の肌を震わせた。
「……あはっ、ざんね~ん。先生が居ないよ」
夜見坂くんが相変わらずふざけた口調で私に耳打ちしてくる。
今さらながらに気づいたが、彼の言う通り教室の中に先生の姿を確認することはできない。
恐らく中水美衣奈が私を襲撃した件で、校長先生にでも呼び出されたのだろう。
「誰にも止められないね」
言葉と違って夜見坂くんは全然残念そうではなかった。
むしろ誰よりも胸を躍らせているかもしれない。
「待てって。次、俺らがなんかやったら警察って言われてんだろ。いいからこれ見ろよ」
うすら笑いを浮かべている稲次浩太は、左手を振って上良栄治を宥めると、右手でポケットから赤いスマートフォンを取り出す。
「それがなんだっつーんだよ!」
本来、スマートフォンは登校直後に担任へ預け、下校時に返してもらう決まりになっている。
ルールを破ってこっそり持っている者も居るが、おおむね全員が従っていた。
ならばなぜ稲次浩太がスマートフォンを持っているのか。
そんなの、職員室から盗んで来たに決まっている。
先生たちは事件で手一杯で、本来教員室に詰めている先生も、今は中水美衣奈の指導で手が塞がっているのだ。
恐らく、稲次浩太は誰に見咎められることもなかっただろう。
「これ、中水のスマホだぜ」
「あぁ?」
稲次浩太が上良栄治にスマートフォンを投げ渡す。
上良栄治は何故それを渡されたのか分からなかったのか、険しい目で真っ黒な画面を睨みつけた。
「分かんねえのか? 崎代が言ってただろうが」
湯川大陽が浮気をしていた。
宮苗瑠璃はそれで悩んでいた、と。
上良栄治はそのことに思い至ったのか、ハッとした様子でスマートフォンを見つめなおす。
「んで、俺、中水と湯川がふたりだけで一緒に居たところ、何度も見たことあんだわ」
スマートフォンが小刻みに震える。
もちろん着信などではない。
上良栄治の湧き上がって来た激情故に、彼の手が震えているのだ。
「その中に当時のメールでも残ってるかもしれねえだろ。いいから早く起動してみろよ」
もはや稲次浩太から命令されていることも意識できない様で、上良栄治は急いでスマートフォンをいじり始めた。
だが、数秒もしないうちに操作をやめ、苛立たしそうに舌打ちをする。
「パスワードが分かんねえよ」
「誕生日とかは?」
「試した。でも開かねえ」
宮苗瑠璃を始めとした三人と、上良栄治たちは比較的行動を共にしていた。
だから誕生日だって覚えていたのだろう。
「ちげえよバーカ。湯川の誕生日を試したかって聞いてんだよ」
上良栄治が息を呑む。
彼は湯川大陽とは親友だったが故に、誕生日くらい覚えていたのだろう。
指先がタッチパネルの上で踊ると――。
「開いた……」
どうやら正解だったらしい。
それがいったい何を意味するのか、事情を知らない人にだって理解できるだろう。
湯川大陽と関係を持っていた相手は、中水美衣奈だという事を。
「メールだ、メール。電話はなにしゃべったか分からねえからな。もしくは――」
「うるせぇ、黙ってろ!」
上良栄治は必死になってタップを繰り返す。
今やクラス全員の視線が上良栄治の持つスマートフォンに集まっていた。
その中にはなにがあるのか。
どんな証拠が出てくるのか。
みんな固唾を呑んで見守っていた。
「あった…………」
何があったというのか。
誰もが説明を望んでいたが、直接その疑問を口にできる人間は、稲次浩太くらいのものだろう。
だが稲次浩太はニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべながら、スマートフォンの画面をめくるのに集中している上良栄治を見つめている。
やがて上良栄治の手が……止まった。
「――のやろうっ」
彼は歯を剥き出しにして怒りをあらわにする。
きっと、確信したのだろう。
中水美衣奈が宮苗瑠璃を殺したと。
でも本当は違う。
中水美衣奈も、湯川大陽も、宮苗瑠璃を殺してなどいない。
宮苗瑠璃を殺めたのは、上良栄治の目の前で愉しそうにニヤニヤと哂っている稲次浩太なのだ。
「よくできましたって針金くんを褒めた方がいいかな?」
スマートフォンを持ってくるように指示したのも、パスワードが湯川大陽の誕生日だと教えたのも、宮苗瑠璃から大量のSMSが送られていることを上良栄治に見せつけろと言ったのも、全部が全部、夜見坂くんの仕業だ。
夜見坂くんは全てを想定してシナリオを描き出し、稲次浩太の行動を操り、上良栄治の怒りの矛先を捻じ曲げた。
これから何が起こるのか。
どうなっていくのか。
私には想像も出来ない。
ただ、確実なことがひとつある。
「誰かが死ぬまでお預けがいいかな? ねえねえ、どう思う?」
もうすぐ、誰かが死ぬ。
スマートフォンを握りしめた上良栄治が、稲次浩太を押しのけようと腕を振るう。
だが稲次浩太は意地の悪い笑みを崩さないまま、重心を変えて上良栄治の行動を阻んだ。
「どけっ」
「まあ落ち着けって。先に何があったのか見せろよ」
「お前にゃ関係ねえだろうがっ」
上良栄治は感情が振り切れているのか、終始怒鳴り声を上げている。
しかし、対する稲次浩太はまったくの逆。
いつもの1に対して10は怒鳴り返すほど短気さは鳴りを潜め、冷静というよりは映画を見ている観客くらいにこの成り行きを楽しんでいるようであった。
「おいおい、そのスマホは俺が持ってきてやったんだぜ? 聞く権利ぐらいあるだろ。それにみんなも聞きたいよなぁ?」
稲次浩太がクラスメイトたちと視線を合わせ、同調を促す。
それに対する答えは、言葉という明確な形では返ってこなかったが、明らかに賛同を示す雰囲気を漂わせてはいた。
このままここで邪魔され続けるよりも見せた方が早いと判断したのだろう。
上良栄治が舌打ちをしてスマートフォンの画面を稲次浩太の眼前に突きつける。
「ん~……うっわ、宮苗ブチギレてんじゃん」
こんな時だというのに、稲次浩太は忍び笑いを漏らす。
「教室に早く来いっつってんだろ。証拠あんだよ……か。ほかには……?」
稲次浩太はスマートフォンを操作して、次々にメールの文面を読み上げていく。
それらにはことごとく、湯川大陽と中水美衣奈への憤懣と怨嗟がこめられていた。
こんなメールが送られていたと分かれば、誰であろうと確信するはずだ。
中水美衣奈と湯川大陽が、結託して宮苗瑠璃を殺したのだと。
「もういいだろうが」
「おっとぉ」
足早に立ち去ろうとした上良栄治を、稲次浩太はまだ引きとどめる。
「だから待てって」
「まだなんかあんのかっ」
「当たり前だろうが。お前、どうする気なんだ?」
一瞬、上良栄治が言葉に詰まったように見えたが、そうではないだろう。
殺意が高まりすぎて、感情に言葉がついて来なかっただけだ。
「――ぶっ殺す」
殺す。
普段からよく使われる言葉だ。
その意味は、脅し文句であったり、自分は不快であるからやめろという警告であったりするのがせいぜいである。
本気で相手の命を奪うという意味では無い。
でも今は、そういう意味にしか聞こえなかった。
「だから待てっつってんだろ」
「お前はそれしか言えねえのか!」
「お前はそれすら理解できねえだろうが。状況を考えろ!」
「あぁっ!?」
もはや一触即発といった雰囲気だ。
上良栄治はもちろん、稲次浩太の顔からも一切の笑みが消えている。
このふたりは私が暮井刑事たちと話をしている間に乱闘騒ぎを起こしていたらしいが、またもその二の舞になってしまいそうな雰囲気だった。
「やんのかオラ」
「っざけてんじゃねえぞ」
巻き込まれてはたまらないと、周りに居た生徒たちが次々と逃げ出していく。
なにかきっかけがあれば、このふたりはぶつかり合うだろう。
だというのに――。
「警察官、多いよね」
夜見坂くんは怖気づくことなく二人の間に割って入った。
「は?」
「中水美衣奈は今一階の指導室に居るんだよ。そこには生徒指導の先生とか校長先生も居る。それから一階の入り口付近には警官がわらわら居るでしょ」
殺人現場となったこの学校は、本来封鎖すべきである。
でも、学校に所属する生徒全員と、職員全員を警察署に入れることは出来ない。
なので仕方なく取調室を学校に設けて、事情聴取を行っていた。
その関係上、沢山の警察官がこの学校に配備されている。
例えばこの教室の直下。現場となった1年1組の教室前にふたり。
誰も逃げられないよう――不審者からの警護という名目だが――各入り口に複数人。
それから窓を見張れる位置や正門に裏門等に多数。
全員合わせればどのくらいになるのか見当もつかなかった。
「そんな中、トラブルを起こせばどうなるか。火を見るよりも明らかだよね」
怒声、罵声、悲鳴、物音。
なにかがあれば、誰かがすっ飛んでくるだろう。
そして警察官は暴力のプロなのだ。
多少スポーツをやっていて、体が大きくて力が強いだけでは太刀打ちなどできない。
例え女性警官であろうと、容易く人を組み伏せてしまう。
ちょうどその現場を目の当たりにしたばかりの私は、よくよく理解していた。
「だから、中水美衣奈が帰ってくるのを待ちなよってこと」
好きにできるよ、と夜見坂くんが付け加えると、稲次浩太を掴んでいた上良栄治の手からだんだん力が抜けていく。
冷静になった――いや、悪意が増した証左だ。
中水美衣奈に危害を加えるにはどうしたらいいかを考えているのだから。
「…………あぁ」
上良栄治の返答は、ずいぶんと簡素で穏やかなものであった。
ガラリと音がして教室前方のドアが開く。
私の時は誰も興味を持っていなかったが、今は違う。
とんでもなく大きな爆弾を抱えた存在が居る今、誰が帰って来たのか確認するのは死活問題であった。
私もみんなと同じく祈るような気持ちで入り口へと視線を向け――、
「なによ」
――帰ってきてしまった。
中水美衣奈が。
「早く教室に入りなさい」
ただ、下園先生とその背後に立つ校長先生は、教室内の異変に気づいてはいない。
不満そうな中水美衣奈を急かし、なんとしても平穏無事な学校を演出しようと躍起になっていた。
「ちっ」
「返事は?」
「ハイワカリマシター」
中水美衣奈の態度を見るに、反省はしていなさそうである。
ただ、暴れるのは己の利にならないことだけは理解した様だ。
「……みんなもこのまま静かに自習を続けていなさい、いいですね」
中水美衣奈は言われるがままに従い、自分の席へと戻っていく。
それを確認した下園先生はそのまま廊下に留まると、扉を閉め、校長先生と何事か話し始めてしまった。
せめてどちらか一人でも教室に入ってくれれば、なんて思ったけれど、先生方が頼りにならないのは身をもって知っている。
居ても居なくても、これから起こることは止められないだろう。
「…………」
そっと、上良栄治が席を離れて教室前方の扉へと向かうと、まるで示し合わせていたかのように稲次浩太も立ちあがり、上良栄治とは逆側の扉へと向かった。
ふたりの男子と中水美衣奈を除いた全員が、これから何が起こるのかは容易に想像がついているようで、しきりに視線を飛ばし合っている。
誰かが止めろよ。
そうやって責任を押し付け合っているのだが、貧乏くじを好んで引く者など居るはずがなかった。
やがて、カチャンと微かな音と共に錠が下ろされる。
それは処刑開始を知らせる鐘の音。
これでもう外から干渉することはできない。
もっとも、教室の鍵なんて人差し指一本で開いてしまうし、なんなら廊下に面している窓を開けてもこの密室は密室で無くなってしまう。
だが、いったい誰がそんなことをするのだろうか。
私を助けなかったクラスメイトたち。
面倒くさいことには関わるまいと私を見捨てた人。
消極的な態度で、直接的な危害だけは加えなかっただけの人。
進んで私をいじめ、優越感を得ていた人。
そんな彼らが中水美衣奈だけは助けるなんてことあるはずがない。
「な、何してるのよ、栄治」
不穏な空気を察したか、中水美衣奈は震える声で上良栄治へと問いかける。
しかし上良栄治は一言も言葉を口にせず、ポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと中水美衣奈へと歩を進めた。
「稲次っ。アンタなんで鍵かけて笑ってんのよ!」
稲次浩太も表情こそ違うものの、一切口を開かない。
中水美衣奈以外、全ての人たちが黙りこくって彼女を追い詰めていく。
周りに居る誰もが敵しかいない。
友人であったはずの者たちも、特に仲が良かったはずの崎代沙綾ですらも、敵。
どれだけすがっても、叫んでも、決して助けてもらえない。
それがどれだけの恐怖か。
私は良く知っていた。
「…………」
やがて、上良栄治は中水美衣奈の真正面に立った。
「なに……なんなのよっ」
中水美衣奈がヒステリックな叫び声をあげた瞬間――。
「てめぇが一番分かってんだろうがぁっ!!」
上良栄治の罵声が耳をつんざいた。
教室には机が等間隔で計6列になるように配されている。
中水美衣奈の席は中心列、窓側。前から3番目。
一番窓際、最後尾からひとつ前の席に座る私の位置からは中水美衣奈の表情をうかがい知ることは出来ない。
でも、私には彼女の顔が容易に想像できた。
「わ、分からないっ。分かるはずないでしょ!」
中水美衣奈は肩を震わせながら抗弁する。
「……あ?」
上良栄治はそれ以上怒鳴りつけはしなかった。
その代わり、自身の真横にあった机を蹴り飛ばす。
机はそのまま横滑りして、逃げ遅れていた響遊を、椅子との間に思い切り挟みこんでしまった。
不運な響遊は、まるで鶏が絞め殺されたような悲鳴をあげる。
しかし、上良栄治は響遊のことなど気にも留めない。
視線を中水美衣奈に固定し、1ミリたりとも動かさなかった。
「なんで、お前のスマホのパスワードが太陽の誕生日なんだよ」
中水美衣奈が息を呑む音が、離れたところに居る私の耳にまで届く。
「なんで瑠璃がこんなにブチギレながら、お前と太陽を呼び出してんだよ」
「それ……っ!」
上良栄治のポケットから取り出されたばかりの赤いスマートフォン。
まるでカードかなにかのように、ひらひらと揺らされるそれは、中水美衣奈に対して絶大な効果をもたらした。
それまで小刻みに震えていた彼女の全身が、一気に硬直する。
なぜ上良栄治がスマートフォンを持っているのかという疑問や、自分は殺人など犯していないという抗弁をする余裕すらなくしていた。
「お前たちしか居ねえんだよ……!」
地の底から湧き上がってきたのかと思うほど低い声。
恨み、呪い、怒り、悲しみ。ありとあらゆる負の感情を煮詰めたらこうなるのかというほど、上良栄治の言葉は怨嗟に満ちていた。
「お前たちが瑠璃を殺したんだろ」
中水美衣奈が頭を左右に振る。
自分は宮苗瑠璃を殺していないという意思を示す。
だが、それは絶対に通じない。
例え本当に中水美衣奈が無実であろうと、嘘などついていなかろうと、上良栄治の中で決まったことだからだ。
上良栄治は、親友であった湯川大陽を殺してから、もう何もかもが振り切れてしまっていた。
「答えろよ美衣奈ぁっ!!」
ドンドンと、教室の扉を叩く音が響く。
これほどの大声で怒鳴っているのだ。
さすがに下園先生たちも気づいたのだろう。
だが、教室には入れない。
先ほど上良栄治と稲次浩太が鍵をかけたから。
そして、誰もが彼らの不興を買うのを恐れて中水美衣奈を助けようとしないから。
「私やってないっ」
「嘘つくんじゃねぇっ!」
上良栄治の足が、中水美衣奈へと飛ぶ。
下腹部か、足か。彼女自身の体が壁となって正確な場所を見て取ることはできなかったが、苦痛で体を折るほどの威力であったことは確かだ。
「お前が、殺した! そうだな!!」
「違うぅぅっ」
否定しても無駄だった。
上良栄治の望む答えではない。
だから、上良栄治はもう一撃、前蹴りを中水美衣奈に叩き込む。
「ひぐぅぅっ」
中水美衣奈は引きつった悲鳴をあげながら、椅子ごと後ろへ転倒する。
「そうだろっ!?」
「ちがうのぉぉっ。やめてぇぇっ!」
「なら本当のことを言えっ!」
上良栄治は怒鳴り声と共に、中水美衣奈の腹部辺りを思い切り踏みつける。
一度だけではない。
二度三度と、何度も、何度も。
「美衣奈ぁぁっ!!」
「いやぁぁっ!!」
そのたびに中水美衣奈からは悲鳴があがり、まな板の上の魚のごとくのたうち回る。
耐えがたい苦痛と暴力に曝され、助けられることもなく、たったひとりで終わらない絶望に抗わなければならない。
それは恐らく、彼女の人生において初めてのことではないだろうか。
「ハハハハハハッ!!」
こんな状況だというのに、場違いなほど無邪気な声で嗤ったのは、稲次浩太だ。
「もっとやれっ! もっと強くだっ! ハハハハハッ!!」
ああそうだろう。
彼にとってはこれ以上ない喜劇なはずだ。
彼が宮苗瑠璃を殺した。
全ての元凶であり、始まりの一歩を踏み出したのは稲次浩太だ。
しかし、それによって責め苦を受けているのは中水美衣奈で、更なる罪を犯そうとしているのは上良栄治なのだ。
映画の観客――いや、最高の映画を撮影できた監督の気分の方が当てはまるのではないだろうか。
「るっせえぞ、外野ぁ!」
上良栄治は一喝してその嗤いを黙らせると、意識を中水美衣奈へと戻す。
彼はその場で屈み、中水美衣奈の髪の毛を掴んで勢いよく引きずり上げた。
「い――あああぁぁぁっ」
ぶちぶちっという髪の毛が引きちぎれる音と苦悶の声が合わさって、悪趣味な協奏曲を奏でる。
それでも上良栄治の心は動かない。
中水美衣奈に真実を吐かせるために問いを続ける。
「もう一度聞くぞ。お前がやったんだろ?」
これはもう尋問ではなく拷問だ。
望む答えを得るまで痛めつけ続けるだけ。
中水美衣奈が、私が殺しましたと白状するまでこの暴力は続く。
「ちが……っ。わたし、太陽と、ぞうだん、しでて――」
上良栄治が腕を振るって、中水美衣奈の顔面を床に叩きつける。
告白が途中で途切れ、ゴッと鈍い音がしてまた悲鳴があがった。
「嘘つくなって言ってんだろうがっ」
「ほんどっ。ほんどだからぁっ」
もう、暴力を前にまともに頭が働いていないのだろう。
ただ違うと抗弁するだけ。
「わだしっやってないっ!」
「証拠があんだろうがっ」
「わたしじゃないっ」
とめどなくあふれ出す、涙と鼻水と涎と鼻血で顔をぐしゃぐしゃに汚しながら、感情のままに違う違うと同じ言葉を繰り返し続ける。
そんな中水美衣奈へ与えられるのは、無慈悲な苦痛だけだった。
――唐突に、カシャンと、微かな金属音が教室中に響き渡る。
音の出どころは、教室後方の扉。
先生たちの侵入を阻んでいた鍵が開いた音だ。
「お前……」
稲次浩太が振り向いて、信じられないとばかりに呆然と呟く。
物音に気付いたクラス中の視線が私に突き刺さった。
ああ、そうだ。
私自身も、まさか私がこんなことをするなんて思ってもみなかった。
私は中水美衣奈から苦痛しか受け取っていない。
先ほども殺人犯だと言いがかりをつけられ、襲われたばかりである。
それでも私が中水美衣奈を助けるべく動いたのは、彼女の痛みが我が事のように感じたからだ。
孤独は怖い。
絶望は痛い。
苦痛は辛い。
よく、知っている。
嫌というほど、分かっていた。
「あーあ、開けちゃった」
いつの間に移動していたのだろう。
私のすぐ隣で夜見坂くんが呟いた。
「こらえ性が無いんだね、君。トラウマがうずいちゃった?」
私の行動理由が中水美衣奈への同情ではないことなど、夜見坂くんはお見通しのようだった。
「ま、今のところはこのくらいでやめとこうよ」
夜見坂くんは誰に言うともなくそう呟くと、派手な音を立てて扉を開けた。
大きな音で、教室前方の扉を叩いていた先生たちがこちら側からならば入れることに気づき、一気に走りこんで来る。
先生たちが大声を上げながら上良栄治に突進していくのをしり目に、夜見坂くんは稲次浩太の耳元に口を寄せ、
「もっと混乱させたほうが、もっともっと面白くなるからさ」
なんて、不穏なことを囁いたのだった。
いくら上良栄治が部活動で体を鍛えているとはいえ、大人ふたりを振り切って中水美衣奈への暴行を続けることは出来なかった。
しかし、ただでは止まるつもりはないとばかりに反抗し、先生であろうと殴りつける。
そんな折に息を切らせながら生徒指導の先生が教室へと入って来る。
「あいた……はぁ、のかっ……」
先生の手に鍵が握られているのを見るに、職員室へ鍵を取りに行っていたのだろう。
私がもう少し早く動けば無駄足を踏ませなくて済んだかもしれない。
「こっち! 早く手伝って!」
「は、はいっ」
校長先生が発した悲鳴混じりの要請に急かされ、生徒指導の先生も上良栄治へと組み付いていく。
右腕を校長先生が、背中には下園先生が乗り、左手と腰辺りにかけて生活指導の先生が抱き着いて封じる。
さしもの上良栄治も、大人の男性三人もの力を前にしては組み伏せられるほかなかった。
しばらくの間、教室の中はふぅふぅと荒い息づかいが渦巻く。
だがこれで、とりあえずは治まった、はず。
「どっちだ!」
上良栄治が叫ぶ。
組み伏せられ、床に這いつくばっているというのに彼の殺意は治まることを知らないらしい。
「どっちが開けやがった!」
首を捻り、私と稲次浩太へ刺すような視線を向けてくる。
彼の行動を止める、直接の原因を作ったのだから、恨みをぶつける対象になって当然だ。
こうなることは分かっていたのに、私は……。
「コイツ」
「…………」
稲次浩太が、いささか白けた目を私に向ける。
夜見坂くんが擁護してくれたからって、納得はしていないのだろう。
「お前っ」
照準は、私に定まった。
「白山っ!」
「やめなさいっ」
ただ、更なる被害の拡大は、先生たちが望むところではなかったのだろう。
上良栄治への拘束が強まり、彼の言葉は途中で途切れてしまった。
「みんなはもう一度掃除と片づけをして、終わったら静かにしてなさい。それから……」
下園先生は額の汗を拭ってから、床の上で仰向けになって顔面を押さえている中水美衣奈へと視線を向ける。
「誰か彼女を保健室まで連れて行ってあげてくれ」
中水美衣奈を保健室へ連れて行く。
いったい誰がそんなことをするのだろうか。
そして中水美衣奈がそれを許すのだろうか。
ここに居る全員が、彼女のことを見捨てたというのに。
「ほら、立ちなさい。……タイミングを合わせて」
校長先生、下園先生、生徒指導の先生が、上良栄治の拘束を緩めないまま立ち上がっていく。
なにをするつもりなのか。
……そんなの、決まっている。
更生、だ。
「そいつ、警察に突き出せよ!」
中水美衣奈が恨み言を漏らす。
ああ、そうだろう。
その通りだ。
加害者なのだから、罰せられるべきだ。
誰だってそう思う。
私だってそう思った。
法律にだって書いてある。
でも、この人たちの考えは違うのだ。
「中水」
校長先生が、思わずゾッとするような猫なで声を出す。
慈愛に満ちていて、慈悲の心で味付けされた、傲慢で一方的な声を。
「警察に言ったらどうなるか分かっているだろう?」
「だからどうしたってんだよっ。私は殺されそうになったんだっ!」
そうだね、と返す校長の言葉は……『甘い』。
「でも、人は必ずやり直せるはずだ。そうだろう? だって君たちには未来があるんだから」
校長先生の表情。
瞳。
言葉。
それら全てが私の中に記録されていた。
「上良にチャンスをあげられる人間になりなさい。きっとそれは君の糧になる。成長として君に返ってくるんだ」
「はぁ?」
正しい。
限りなく正しい。
過剰で極端な正論は何の役にも立たないのだけれど、先生たちはずっとこの幻想にすがって、学校という世界を保ってきた。
これからも絶対に、この虚構にまみれた正論を曲げないだろう。
例え、どれだけ傷つく人が出ようとも。
「中水もさっき白山からチャンスを貰っただろう?」
「…………」
私は過去に、この校長から一字一句違わない、まったく同じ言葉を言われた経験がある。
その結果がこれ。
いじめは止まず、更には棍棒で殴りかかられ、殺されかけた。
今の状況と、中水美衣奈の立場とほとんど一緒。
違うのは、中水美衣奈が被害者でもあり加害者でもあるということ。
皮肉にも中水美衣奈という存在そのものが校長先生の理論を破綻させる証拠になっていた。
そんなこと、どちらも気づいていないだろうが。
「……よし、それじゃあ中水は怪我の治療をしてもらいなさい。いいね?」
沈黙を肯定と受け取ったのか、校長先生はにこやかに笑って話を終わらせる。
中水美衣奈は別に肯定などしていないだろう。
要求が通ることは無いと諦めたのだ。
私もそうだったから分かる。
生徒いち個人という小さくて弱い存在は、学校という大きな世界に立ち向かうことなど出来ない。
一方的に蹂躙され、飲み込まれてしまうだけだ。
「ほら、暴れるなって!」
「退いて、退いてっ」
上良栄治と3人の先生は、押し合いへし合いしながらひと塊となってこちらへと向かってくる。
このまま扉から出て、生徒指導室か校長室にでも行こうというのだろう。
私は彼らの進路を阻まないようにその場を譲る。
だが、身がすくむほどの殺意が籠められた視線を向けられた。
罵倒されなかったのは、上良栄治が口を押さえられているからにすぎない。
彼のやりたかったことを阻むきっかけを作ったのは私なのだから、この結果はなるべくしてなったことだ。
心づもりは出来ていたはずだったが、それでも鳥肌が立つほどの恐怖を感じた。
そうして嵐の去った教室に、静寂が帰ってくる。
陰鬱で、息苦しく、暗然たる静寂が。
「先生に言われたこと、やりませんか」
重苦しい空気に耐えられなかったのか、響遊が真っ先にそう提案する。
それに賛同したい者の方がきっと多いだろう。
こんな重圧からは、誰だって逃げ出したいくらい嫌だ。
例え上っ面だけであろうと、取り繕われた雰囲気の方がまだマシなはずだ。
しかし、その取り繕うのでさえ、ある問題――教室の真ん中辺りで顔面を押さえて寝転がっている、中水美衣奈という最大の爆弾を解決しなければ出来はしなかった。
「…………」
クラスの誰もが視線で問いかける。
彼女をどうするのか、と。
もちろん進んで解決しようと動く者は居ない。
見捨てたという事実は、恨まれているという自覚を生み、余計に中水美衣奈を遠ざけようとする行動に繋がる。
そうなると、自然と他人に押し付けようという雰囲気が生まれてしまう。
生け贄を、求めるのだ。
「お前が行けよ。お前のせいで終わったんだからよ」
稲次浩太は不満をあらわにしながら、私に押し付ける。
言葉を使わずに責任をなすりつけあっていた教室に、その言葉はひどく響いた。
「――――っ」
「…………」
案の定、非難にも思える視線が集まる。
お前が鍵を開けたんだから、責任をとってお前が保健室まで連れていけ。
言葉こそ無かったが、みんなの瞳は間違いなくそう言っていた。
「あはっ」
ただ、夜見坂くんだけは、いつもと変わらず意図の読めない笑顔を浮かべていたが。
「じゃあ行こっか。あ、でも僕は壁にはなれないよ。もやしよりも弱いからさ。そこは期待しないでね」
きっと夜見坂くんには私を守る意思もないだろう。
もし私が殺されることになっても、あのニヤニヤとした笑みを浮かべながら傍観していると思う。
それでも一緒に居てくれることは、私にとって救いに感じた。
「……分かってる」
みんなが見つめるなか、一歩、前へと踏み出す。
誰も助けてはくれない。
こんなにも人が居るのに、私はひとりぼっちだった。
「中水、美衣奈……さん」
歩み寄りながら、彼女の名前を呼ぶ。
彼女の肩が、ぴくりと反応したのは気のせいではないだろう。
あれほどの大声を出せたのだから、まだ私を襲うくらいの余力はあるはずだった。
「保健室、行こう」
私は中水美衣奈のすぐ隣に膝をつき、肩に手をかけて揺さぶる。
その瞬間、中水美衣奈の瞳がギラリと光った。
私の腕が強い力で引っぱられる。
きちんとしゃがんでいてよかった、なんて、頭の冷静な部分が場違いなことを考える中、私の上体は中水美衣奈に覆いかぶさりそうなほどに傾ぐ。
「お前、なに気安く触ってんだよ」
女性の出したものとは思えないほど低い声が私の鼓膜を打く。
いつもと同じく嘲りや憎悪で染まっていたのだが、極々わずか、それらの奥にほんの少しだけ違う感情があったことを、私は聞き逃さなかった。
それは感謝とか反省とか、そういう類のものではない。
私という矮小な存在なんかに助けられ、憐れまれたことに対する屈辱だった。
「どけ」
私の心が冷たく凍り付いていく。
私は私の心を殺す。
痛まないように。
「……はい」
左手で床を突き、中水美衣奈の邪魔にならないように立ち上がる。
彼女はハッと一つだけ強く息を吐いてから立ち上がった。
「…………」
顔は伏せている。
しかし、視線だけは左右に動き、クラスメイト達を順に睨みつけていく。
それはまるで、どう復讐してやろうかとでも考えているようだった。
「ついて来い」
中水美衣奈の口から、私に対して命令が下される。
彼女に私への感謝なんて、あるはずがない。
そして、私に断る権利などなかった。
――ソレデモワタシハナニモカンジナイ。
「はい」
今まで通り何も変わらない。
正しく私たちの関係、だ。
中水美衣奈は頷くことすらせず、ゆらゆらと歩き出す。
私はその後ろを、ただ黙ってついて行った。
「失礼、します」
私が保健室の扉を開けると、消毒液の香りと静謐な空気を感じる。
部屋の中には誰も居らず、空のベッドが私たちを出迎えてくれた。
「うわぁ、先生の居ない保健室で女の子と一緒って、なんだがとってもえっちだね。胸がドキドキしちゃうよ」
「…………」
夜見坂くんがまた心にもないことを言っているけれど、別に共感して欲しいわけではさそうだったので、私は少し小首を傾げるにとどめておく。
「先生、呼んで来るから」
どこに居るのか分からないが、専門的な知識のない私が何か出来るわけでもない。
そう思ったのだが――。
「アンタが準備して」
中水美衣奈はそうは思わなかった様だった。
「え?」
「早く。タオルくらい準備できるでしょ」
追い越し際、中水美衣奈が私の肩口にドンっとぶつかっていく。
私に仕事を頼む人の態度には思えなかったが、彼女の中では私なんかその程度のものなのだろう。
中水美衣奈は自分のした行動を一切気にすることなく治療用の椅子に腰を下ろす。
怪我の治療と思いきや、彼女はポケットから赤いスマートフォンを取り出して弄り始めてしまった。
内心、中水美衣奈の変わらなさに、呆れを通りこして感心すらしてしまったのだが、私はそんな事はおくびにも出さず、言われた通り治療の準備を始める。
備え付けの瞬間湯沸かし器のスイッチを入れて蛇口を捻り、ぬるま湯くらいの熱さになるまで水を出しっぱなしにする。
その間に所定の場所からタオルを取り出し、少し熱めのお湯をタオルに含ませてから緩めに絞った。
これで清拭くらいは出来るだろう。
あとは、打撲の部分を冷やしたりしながら先生を待てばいいのだろうか。
特別な知識があるわけじゃないから何をすればいいのかよく分からなかった。
「あの、タオル……」
「準備しろって言ったはずだけど」
わざとらしいため息の後に、「使えな」なんてひとり言が飛んできて私の胸に突き刺さる。
「はい、すみません」
私はタオルを少し広げてから中水美衣奈に手渡す。
彼女は礼など言うことなく、それが当然であるかのように受け取り――。
「とって」
「え?」
なぜかスマートフォンを手渡してきた。
取るって、なにをだろう?
なにをすればいいのだろう?
そう思考をクエスチョンマークで埋め尽くしていると、またも大きなため息が押し寄せて来た。
「私を撮れって言ってんの。馬鹿じゃないの?」
「撮る……」
ニュアンス的に、今の中水美衣奈の状態を撮影しろと言われているのは何となく分かった。
しかし、いいのだろうか。
私の記憶では、中水美衣奈は比較的おしゃれに気を遣う方で、こっそり化粧をしたり、バレない程度に眉を剃ったり、爪にオイルだなんだと色々塗ったりしていたはずだ。
今の彼女は頬や側頭部に青あざが浮かんでいるし、額には数センチほどの擦り傷がある。
更にはつむじ辺りの髪の毛が一部抜けてしまっていたり、鼻血で顔面がどす黒く染まっていたりする。
喜んで見返したい顔では決してない。
そんなものを撮影して残しておくような性格ではなかったはずだ。
「早くしろよ! SNSにあげんだからさぁ!」
「SNS……」
知識はある。
何をしたいのかも気付いた。
よくニュースで取り扱われている、炎上を起こして、誰か……いや、学校そのものに対して社会的制裁を与えようという腹積もりなのだろう。
あの時、校長に対してなにも言い返さなかったのはこういった復讐を考えていたからだろう。
ただ、私はスマートフォンを手にするのは初めてだ。
期待には応えたかったが、どう操作すればいいのか分からなかった。
「急げっつってんだろ!」
「あ、あの……使い方、わ、分からない……です……」
私が正直に告白すると、中水美衣奈はため息どころかわざとらしく声に出して「はぁぁ~あっ」と嘲る。
「まさかアンタが日本語も読めない馬鹿だとは思わなかった」
「……」
お母さんが持っているのは古ぼけた携帯電話なため、そういうものに触れたことは一度もないのだ。
家の経済的な余裕からいっても私がスマートフォンを持つことはできない。
もしかしたらの話だが、宮苗瑠璃や中水美衣奈、それから崎代沙綾にお金を奪われなければ持つことも可能だったかもしれないけれど。
「画面見ればカメラって書いてあるでしょ。そこ触ればいいのよ。そんなことも分かんないの?」
「…………」
私は言われた通りに操作してアプリを立ち上げる。
細かい文字を丁寧に読みながら撮影を始めた。
タオルを手に持って、悲しそうな顔をしている全身写真を一枚。
それから青あざやグロテスクな傷口を、なるべく近くで撮影していく。
「ほかに傷口ある?」
「あ、頭の部分も皮膚が裂けてて……」
「それも」
上良栄治が髪の毛をひっつかんで思いっきり振り回したからだろう。
髪の毛がごっそり抜けるだけでなく、一部の皮膚が毛根ごとべろりと剥がれてしまっていた。
「はい」
全ての撮影を終えてから、中水美衣奈へスマートフォンを返す。
中水美衣奈はスマートフォンを片手で操りながら、ようやくタオルで顔を拭き始め――。
「冷たくなってるから温めなおして」
私に向けてタオルを放り投げてくる。
撮影している時間はさほどでもなかったが、確かにタオルは冷え切ってしまっていた。
仕方なく私はもう一度タオルを温める作業を始める。
話すことが無くなり、気まずい沈黙が訪れると思いきや……そうはならなかった。
「SNSで炎上させるのが目的ってことはさ、下手すると本名とかの身元がバレちゃう可能性があるよね。そういうの対策してる?」
この部屋には夜見坂くんが居るのだ。
彼は比較的おしゃべりが好きで、色々話し続ける人だ。
特に、煽ったり誘惑したりするときには饒舌になった。
「……ちっ」
全身を撮影した写真なんかは、中水美衣奈の顔がそのまま出てしまっている。
インターネットに出回ってしまえば、それは一生残る事になるのだから迂闊なことは出来ないはずだ。
実際、中水美衣奈は苦々しく舌打ちしたあと、スマートフォンをポケットにしまわざるをえなかった。
「編集しないとちょーっとヤバいよね。あと特定できそうなログも消しとかないとね」
「うっせえな、言われなくても分かってるっつーのっ」
夜見坂くんは軽く肩をすくめると、うるさいと言われているのにも関わらず、再度口を開く。
「君の目的って、学校とかあの男への恨みだよね?」
「それがどうしたっ。てか、なれなれしい――」
「復讐されたらどうするの?」
その一言で中水美衣奈は凍り付いた。
彼女は確かに怒りを抱いているのだろう。
だが同時に、上良栄治への恐怖も深く刻まれたはずだ。
理不尽な暴力に曝されて心が折れてしまったはずだ。
私にはよくわかる。
傷ついた人間の気持ちが。
「社会的に殺してもさ、生きてるんだよ」
SNSで罵倒されれば嫌な気持ちになるだろう。
人によっては心を病んで自殺にまで追い込まれるだろう。
しかし上良栄治はそんなタイプだろうか。
宮苗瑠璃のために殺人まで犯すし、中水美衣奈にトラウマが出来るほど暴行を加える人間なのだ。
十中八九、やり返すことを望むだろう。
そうなればどうなるか、結末は決まっていた。
「絶対、君を殺しに来るよね」
「――――っ」
中水美衣奈の呼吸が荒くなる。
心の傷を抉られ、復讐すら出来ない。
一生上良栄治に怯え続けなければならない。
それを、はっきりと自覚してしまった。
だからこそ――生まれる。
「ねえ、良い事教えてあげよっか」
心の闇が。
夜見坂くんが、つけ入る隙が。
「上良栄治を殺す方法、とかさ」
「ころ……す?」
中水美衣奈はその言葉を初めて聞いたかのように口の中で転がす。
普段どころか先ほど私に向かってその言葉を使ったばかりなのに。
彼女は殺すという言葉の意味を本気で考えてはいなかった。
だから、殺人という状況を前にして戸惑っているのだ。
――なんで今さら、と私は思う。
私はずっと、中水美衣奈たちに殺されると思ってきた。
私の心は彼女たちによって殺されてきた。
それなのに中水美衣奈は、今初めて殺すことを意識したのだ。
私に対してずっとやって来たことだろうに。
「そうだよ。上良栄治を殺してしまえば、君はもう殺されなくて済むよ、やったね」
夜見坂くんの言い方はとても軽い。
だけど、彼が殺意を持っているのは伝わってくる。
だからこそ、中水美衣奈は一度言われた程度では受け止めきれなかったらしい。
「……な、なに、言ってんの?」
「だから、殺すんだよ。命を奪うんだよ。分からない?」
「そ、そんなことできるはずないでしょ!?」
できる。
夜見坂くんは、分かっているだけでふたり――宮苗瑠璃と湯川大陽という名前を持った人間を殺している。
原因を作り、理由を与え、人を操って殺させているのだ。
夜見坂くんなら出来る。
中水美衣奈に他人を殺させることが、出来る。
「もしさ、バレなかったらどうする?」
「え?」
証拠が無ければ罰されない。
警察に逮捕されることも、人生に汚点が残ることもない。
誰だって自分の不利益に繋がることはしたくないが、それが存在せずに利益だけ享受できるのだ。
もしそれが本当ならば、殺人への抵抗は大きく下がるだろう。
「君の手で殺さなくてもいいとしたら、どうする?」
「意味……分かんないんだけど……」
今、夜見坂くんは中水美衣奈を利用して上良栄治を殺そうとしているのだ。
上良栄治を使って湯川大陽を殺したように。
「上良栄治が誰かに殺されたら、証拠は残らないし手も汚れないってことだよ。分からないかな?」
「…………」
中水美衣奈は夜見坂くんの問いかけに答えられず、その場で黙り込んでしまう。
しかし、彼女は否定をしない。
殺人という、法や倫理で縛られた行為に対する忌避感が頷くことをためらわせているだけだ。
その証拠に、彼女の瞳は心の内を反映して小さく左右に揺れ動いていた。
「じゃあ君がどう思っているかを聞くね」
殺すかどうかを聞いても、いきなりは答えにくいだろうと考えたのか、夜見坂くんは話の方向性を変える。
「君は上良栄治が憎くないのかな?」
「それは……」
聞くまでもないだろう。
あれだけの暴行を加えられ、しかも上良栄治が掲げた理由は言いがかりなのだ。
「君が宮苗瑠璃を殺したから、アイツの怒りは正統なものだとでも言うのかい?」
夜見坂くんは、中水美衣奈の自尊心をくすぐり、怒りを煽る。
「君の自慢だった綺麗な髪を無茶苦茶にして、顔をボコボコにしたのが正しかった?」
「そんなわけないでしょっ!」
中水美衣奈の言葉は否定だ。
彼女が否定を重ねるごとに、歪な方向へとねじ曲がっていく。
「君は自分が正しいことを知っているよね? 宮苗瑠璃を殺していないことを知っているよね?」
「そうよ、私は殺してない! 私は間違ったことしてないっ!!」
「間違ってるのはアイツであって君じゃない。悪いのはアイツだよね?」
「当たり前よっ! 私は悪くないっ!」
そして――。
「なら君は正しいんだよ。君がやることは正しいんだよ」
「何度も同じようなこと言わせないでよっ。当然でしょっ」
中水美衣奈の心は――。
「そうだよ、君が正しいことは僕が分かってる。だから君に協力するんだ」
夜見坂くんの望む通りに――
「正しいから君はアイツを否定するべきなんだよ」
――裏返る。
「憎いよね? ムカつくよね?」
「当たり前でしょ!」
中水美衣奈が、自分の正義を認めた。
義憤を、怒りを認めた。
そして……憎悪を認めた。
「大丈夫、君の怒りは正当なものだよ。だから――」
夜見坂くんが、にいっと口を歪めて嗤う。
「分からせてやろうよ、上良栄治に」
一度目は首を横に振った。
中水美衣奈の中にあった倫理観が殺人を拒んだ。
でも二度目は――。
学校の階段は、日が差し込んできていてもいっさい温もりを感じられない。
暗くて、冷たくて、怖い。
実際には違うのかもしれないが、私の記憶の中にはそんな場所でしかなかった。
先ほど別れたばかりの中水美衣奈が原因の一端だったのだけど、きっと彼女はそんなこと意識もしていないだろう。
だから彼女は被害者になって、これから加害者になることを、あんなにも簡単に受け入れたのだ。
「夜見坂くん、さ」
一段目の階段に足をかけて、止まる。
それと同時に、一段だけ先を行っていた夜見坂くんも歩みを止めた。
「な~に?」
わざとらしい作った小声で返事が来る。
階段はちょっとした音でも遠くまで響く。
足音も、話し声も、もしかしたら誰かに聞こえているかもしれない。
私は小さくため息をつくと、階段から足を離して廊下へと戻る。
「聞かれたらまずいでしょ」
夜見坂くんが指さす方角、ほんの2、3メートル離れた所に校舎から外へと出るための扉がある。
扉の外には私たちに背を向けるようにして警察官が2名も立っていた。
ささやき声程度であれば防音の施された扉が防いでくれるだろうが、普通に話せば確実に聞かれてしまうだろう。
どこへ行っても他人の耳と目があり、内緒の話なんてできそうになかった。
「そんなのじゃないから」
私は頭を振って彼の言葉を否定する。
別に私はこれから起こる事件のことを話したいんじゃない。
「ただ、夜見坂くんが私のことをどう思ってるか気になっただけ」
「僕が?」
夜見坂くんは一瞬不思議そうな顔をして、いつもの軽薄な笑みを浮かべる。
「体つきがとってもえっちだよね、君」
「つまりなんとも思ってないってことだよね……」
否定はない。
それで正解なのだろう。
だけどそれでもかまわない。
私が一方的に夜見坂くんへの感情を持っているだけだから。
「私は、夜見坂くんのことが怖かった」
「過去形?」
ほんの少しの差異にも夜見坂くんは敏感に反応する。
彼はそこまで人を見ているからあれだけのことができるのだろう。
人の心を誘惑して、操り、他人を殺させることが。
「うん、怖かったよ」
夜見坂くんは人を殺す殺人鬼だ。
なによりも恐ろしいのは、彼の武器が人間だという事。
武器を持って追いかけてくるのなら、走って逃げればいい。
誰かに守ってもらえばいい。
たったそれだけのことで身を守ることができる。
でも、夜見坂くん相手にはそれが通じない。
そばに居る人間が、突然牙をむくかもしれないのだ。
防ぎようがない。
だから、私が殺されるんじゃないかと思って怖かった。
私自身が壊されてしまうかもしれない、武器として使われるかもしれないから、怖かった。
そう、怖かったのだ。
「今は違うんだ」
私は首を縦に振ってから、夜見坂くんの瞳をまっすぐ見つめる。
そして、
「夜見坂くん、私を殺してください」
私は今一番叶えて欲しい私の願いを口にした。
「うん?」
言葉の意味が理解できないのか、夜見坂くんの眉毛が片方だけ跳ね上がる。
夜見坂くんは人が殺したいのだから、喜んで受け入れてくれると思ったのだけど、気が急いていたかもしれない。
「ごめん、なさい。えっと、考えた上での結論なの」
「うんうん、そうなんだろうけど、さすがに順序立てて説明してくれないと分からないかな。僕は別になんでもいいってわけじゃないんだ。特に満たされてる今はね」
ライオンは満腹だと目の前を草食動物が通り過ぎても襲わないっていうのと同じ感じなのだろうか?
私には夜見坂くんの思考が理解できないので想像だけど。
「……夜見坂くんは、鬼……だよね」
「うん」
夜見坂 凪は殺人鬼だ。
人を使って人を殺す、人でなし。
人間を堕落に誘う悪魔。
でも、それは夜見坂くんだけが悪いのだろうか。
悪魔が人間を誘惑するのが悪いのだろうか。
悪意という餌を以って、悪魔を誘惑する人間にも罪はないのだろうか。
宮苗瑠璃が殺されたのは、彼女自身の悪意と偶然、そして稲次浩太の短慮があったからだ。
湯川大陽が殺されたのは、彼自身の行動と上良栄治の嫉妬があった。
これから中水美衣奈が起こす事件にも、彼女の中に原因がある。
夜見坂くんは確かに背中を押したかもしれないが、動くのは全部当事者であって夜見坂くんじゃない。
責められるべきは夜見坂くんだけなのだろうか。
「鬼は、悪くないよ」
夜見坂くんからの返答はない。
黙ったまま、光の宿らない瞳で私のことを眺めている。
「悪いのは私たちだよ。理由を持っている私たちなんだよ」
みんながみんな、誰かに悪意を抱いている。
誰もが誰かを殺したいと考えている。
そして私だって同じだ。
宮苗瑠璃を。
崎代沙綾を。
中水美衣奈を。
ずっと心の中で殺してきた。
殺したいと願い続けて来た。
それは、とってもとっても、目を背けたいほど醜悪で、目を覆ってしまいたくなるほど下劣な感情。
「……そっか」
ああ、勘違いしていた。
夜見坂くんは、ずっと私のことを利用して人を殺していたんじゃない。
私が夜見坂くんを利用して、クラスメイトを殺していたんだ。
そしてこれからも……その継続を望んでいる。
なんて、なんて醜い存在なんだろう、私は。
「そうだったんだ……」
私は世界が嫌いだった。
生きるのが苦しかった。
助けてといくら叫んでも助けてくれない世界が憎かった。
どれだけ頑張ったところで報われない世界に絶望しか抱いていなかった。
こんな悪意にまみれている世界に生きていたくなかった。
だから都合よく現れてくれた殺人鬼である夜見坂くんに殺してもらいたかったんだ。
でもよく考えたら――。
「私も、何もしない世界そのものだったよ」
「…………」
夜見坂くんは、嗤わなかった。
いっさい表情を変えずに私の話を受け止めてくれて、その上で、
「ふ~ん」
と、つまらなそうに呟いた。
「君のその死んだ魚みたいな目は素敵だと思うよ」
「……うん」
夜見坂くんは褒めてくれているのだろうけど、まったく褒められているようには思えなかった。
「でも、自分から望んでくる態度が気に喰わないな」
ぞくりと、総毛立つ。
私は今、初めて夜見坂くんの悪意を向けられた気がしていた。
「なに? 僕の興味を無くそうっていう作戦?」
「……そんな、ことは」
ない、はずだ。
私は文句ばかり垂れ流して何もしない私と、助けてと叫んでも何もしてくれないこの世界が嫌になっただけ。
だから夜見坂くんという都合のいい殺人鬼を利用して、死体というなにも感じない存在になりたかった。
「僕は目の前に料理を出されたら食べる気が無くなるんだよ。ほかの人が持ってるから美味しそうなんだよ。特に大事にしてるからこそ輝いて見えるんだよ」
「……それは本当にろくでもない考え方だね」
「ありがとう。そんなに褒めなくてもいいよ」
褒めてないけど。
ただ、夜見坂くんのことは嫌いじゃない。
夜見坂くんは自分がねじ曲がっていることを自覚して、人でなしとして存在しようとしている。
人を殺すのは彼にとっての生態で、彼は彼なりにまっすぐ生きているのだ。
それに対して私たちは違う。
ねじ曲がっているのに、汚れているのに取り繕って、綺麗なふりをする。
人によってはねじ曲がっていることを自覚しようとすらしない。
無自覚なまま、他人を殺していく。
なんて汚いのだろう。
自分に正直な夜見坂くんと比べると、よっぽど私たちの方が穢れていた。
「ダメだよ~、命は大切にしなきゃ。ひとつしかない、かけがえのないものだからね」
夜見坂くんの言葉には、いつものような軽薄さは無かった。
言っていることは薄っぺらなのに、それを殺人鬼である夜見坂くんが言葉にすると、全然重みが違った。
「ん~、誤解されてるかもしれないけどさ。僕は結果が欲しいわけじゃないんだよ。経過が欲しいんだよ」
私はなにも理解していなかった、理解しようとすらしていなかったんだと気づかされる。
私は夜見坂くんが殺人鬼であるというだけで思考停止して、彼がなんのためにそれを求めるのかを知ろうともしなかった。
……本当、私ってバカだ。
「上良栄治の行動は、彼が生きたいから行ったことだよ。方向性はどうあれ、その輝きは尊いものなんだよ」
それに対して私はどうだろう。
考えるまでもない。
真逆だ。
「ほかの人たちだってそうだよ。みんなみんな、生きたいからなんだよ。選ばれたい選びたい好きなことをしたい嫌われたくない面白い嬉しい楽しい悔しい妬ましい憎い苦しい悲しい……」
生きたいなんて思ったこともなく、ただ逃げるだけの毎日だった。
生きることが辛いから死んだ方がマシだなんて考えたから、夜見坂くんに殺してほしかった。
楽になりたかった。
きっと、こんなのは生きているとは言わない。
心臓が動いているだけの形骸。
生きる価値も、生きる意味すらない。
だから、殺す価値も無いんだ。
生きていないから、殺せない。
ただ命を奪うことが、殺すことではないから。
「ま、もし僕に責任をとってほしいなら……」
夜見坂くんがいつもの軽薄な笑みを浮かべる。
「もっと魅力的な娘になってよ。ね?」
今の私は殺すに値しない。
そう言われて残念な気持ちが大半だったけれど、ホッと胸を撫でおろしている自分も確かに存在していた。
「……努力するって、応えればいいのかな?」
「あっは~~」
答えを言ってくれないのは実に夜見坂くんらしかった。
そのかわりとでもいうかのように、夜見坂くんはうっすらと微笑みの形に歪んだ唇を私の耳元によせ、
「それじゃあさ。にんげん、殺してみよっか」
誘惑の言葉を口にした。
1年1組のクラスは殺人事件の現場となってしまったため、使う事ができなくなっているため、いつもと違う3階の部屋を臨時の教室としてあてがわれていた。
そこは本来なら3年生が使っている教室なので、当然棚は荷物で埋まっている。
だから私たちは全ての荷物を学校指定のショルダーバッグに入れ、机の横に吊るしていた。
その状態だからこそ出来る嫌がらせというものがある。
「なに見てんだよっ」
治療を終えて教室に戻って来た中水美衣奈は、先生たちが居ないのをいいことに、入り口から二列目、後方から数えて二番目の席――持ち主である上良栄治のいない、からっぽの席へと近づいた。
「私のこと、チクるなよ。チクったらあとでぶっ殺すからな」
中水美衣奈はそう言って周囲のみんなを威圧した後に、机の横に引っかけてある上良栄治のカバンに手をかけた。
そのままジッパーを開いて中の物を取り出しては机の上に並べていく。
彼女はなにかを盗もうとしているわけではない。
目的は――。
「チッ、無事だったか」
青いきんちゃく袋に包まれた、上良栄治の弁当だ。
学校で取り調べが行われるとあって、今日は購買が閉まっている。
だから生徒全員が昼食を用意して登校していた。
中水美衣奈はもう一度周囲に睨みを利かせてから、弁当箱のロックを外す。
誰一人として喋ることのない静かな教室に、バコッという弁当箱の蓋が外れる音が響いた。
彼女がしたかったことは単純だ。
弁当の中身をカバンに直接注ぎ入れること。
子どもかと言いたくなるほど単純で悪質な嫌がらせ。
きっとクラスのみんなは思っただろう。
なんだ、こんなことか……と。
恐らくこの程度であれば、上良栄治に告げ口をする者は居ないだろう。
なにせこの教室内では二度ほど騒動が起きている。
その際には机が倒れたり、荷物が蹴飛ばされたりと、惨憺たる有様であった。
弁当箱の中身がこぼれる程度のことは、十分に起こりえる出来事だろう。
全員が黙っていれば、暴れまわった上良栄治自身の自業自得として処理されるはずだ。
わざわざ中水美衣奈の不興を買う理由はない。
私へのいじめを見て見ぬふりをし続けたこのクラスメイト達ならば、絶対にその選択肢を選ぶはずだった。
――それこそ、夜見坂くんの予想した通りなのだけれど。
これは一歩目。
中水美衣奈が自分の手を汚さずに上良栄治を殺す、その一歩目なのだ。
だから誰にも気づかれてはいけない。
理解されてはいけない。
それは今のところ、成功していた。
「――ハッ」
中水美衣奈は嫌がらせを実行し、全ての荷物をカバンの中に詰め込んでいく。
教科書やノートは米やおかずで彩色され、見られたものではないだろう。
ものの数十秒もしないうちにことは終わり、中水美衣奈はついでとばかりにカバンを蹴りつける。
上良栄治の席にぶら下がっているカバンが大きく揺れ、やがて止まった。
急に、バンッと教室前方の扉が叫び声をあげる。
原因となったのは、上良栄治。
ガラスの向こうで彼は、とても不服そうな表情をしていた。
――帰って来た。帰って来た。帰って来た。
私たちが仕掛けた罠の中に、上良栄治が飛び込んで来る。
それを意識しまった私の心臓は、ドラムロールのように脈打ち始める。
緊張だけで押しつぶされてしまいそうだったけれど、今更やめることは出来ない。
彼らの命を奪うまで終わらないのだ。
「あ~、クソが……」
教室に入って来た上良栄治が、わざと大声でそう呟くと、これ見よがしに頭を回らせ、中水美衣奈、それから稲次浩太と順番に睨みつけていく。
まだわだかまりは残っているのだろう。
いや、解消されるはずがない。
押し込められて心の奥底で渦を巻き、解き放たれる時を今か今かと待ち望んでいるのだ。
「みんな、静かに自習できているね。そのまま続けて」
そんな上良栄治の頭越しに、下園先生の声が飛び込んで来る。
努めて冷静を装ってはいるが、誰にだって仮面であることが察せられるほど薄弱な上っ面であった。
ただ――。
「それじゃあ、お願いします」
下園先生の声に促され、青い制服を身にまとった大柄な警官が姿を現す。
警官は口をへの字口に曲げ、しかつめらしい表情を浮かべている。
もともと厳つい顔立ちであることも相まって、見るからに恐ろしい存在感を放っていた。
「こちらの方は先生がいない間、トラブルが起きないように見ていてくださるそうだ。警察がみんなを疑っているとかそういう風には取らないでくれよ」
つまり、下園先生は諦めたのだ。
次から次に起こる諍いを前に、自らが解決することを放棄し、警察という抗いがたい力で以って押さえつける方法をとることにしたのだ。
「みんなを守ってくださる方だ、いいね?」
首輪をつけてくれるご主人様だと紹介されて、いい印象を持つ方がおかしいだろう。
それが分かっているからか、みんなの反応は鈍かった。
「……お願いしますと言おうか」
みんなの不満を見て取った下園先生は、そんな提案を押し付けてくる。
「礼節は大事だからな。――響、起立と礼の号令を」
「……僕、ですか?」
「ああ、やりなさい」
なぜ今、こんな状況でそんなことをやらなければならないのか。
そんな疑問さえ抱いてはいけないという有無を言わせぬ態度に、一瞬だがめまいを覚えそうになる。
結局のところ、下園先生はそういう人だったのだ。
なにか異常事態が起こっても、それに対処するよりは逃走を選ぶ。
異常を通常に戻すよう努力するよりも、日常で上塗りすることで何も起きていないことにしてしまった方が楽だからだろう。
だから私がいじめられていたとしても、我慢するように言うだけで何もしてはくれなかった。
「…………き、起立」
響遊の号令で、ためらいこそあったもののクラス全員が席を立ち始める。
その間に強面の警察官は、下園先生の誘導で教壇へと上がっていた。
「礼!」
無言でみんな体を倒す。
しかしそれでは不満があったようで、下園先生は「お願いしますと言いなさい」なんてやり直しを要求してくる。
殺人事件が起こって、容疑者が殴り合いの喧嘩や暴行事件を起こした。
私なんてこん棒で殴りかかられ、助けてもらわなければ今頃病院のベッドの上だっただろう。
それでも私は襲撃者である中水美衣奈と一緒になって警察官へと頭を下げている。
学校とはいったいなんなのだろうか。
この、世間から隔離された世界は正常なのだろうか。
本当に頭がおかしくなりそうだった。
「……よ、よろしくお願いします!」
響遊の号令に従い、もう一度頭を下げながら彼と同じ言葉を口にする。
みんながそうすることで下園先生は満足したのか「よし」なんて小さく呟きながら頷いた。
「それじゃあ、先生は会議があるから静かに自習を続けるように。……あ、こちらへ座ってください」
警察官のためにパイプ椅子を開いた後、下園先生は忙しなく教室の外へと出て行ってしまう。
それから私たちは先生の言葉に従って、静かに自習を続ける――しかなかった。
恐らく外見にどれほど威圧感があるかという基準で以ってこの警察官は選ばれたのであろう。
強面の警察官は顔も怖いがガタイもよくて、逆らおうとすら思えなかった。
そして平和――といえば聞こえのいい、抑圧された時間が過ぎ去り、昼休みの開始を告げる鐘の音が鳴り響いた。
日直の号令が終わると、教室中の空気が弛緩していく。
昼休みともなれば、多少は解放された気分になれるし、実際多少ならば会話をすることも出来る。
しかし私はそんな気分にはなれない。
なぜなら上良栄治がカバンを開ける時間が来たのだ。
それは、私たちが人を殺す時間が来たということでもあった。