生温い夜風に当たりながら、道すがら目に付いた安価な自販機の前で足を止める。絶妙に購買意欲を唆らないラインアップの中から果汁1%の清涼飲料水を惰性で選ぶと、それを喉奥へと流し込んだ。不自然な香料の味は何だか妙に安心する。自然の味とは程遠い。自分の持つ歪な気持ちが全肯定されたような、そんな気分だった。こんな気持ちが、自然発生して良いはずがないのだ。「男が男」に。更に罪深いことに、三歳から家族同然に過ごしてきた幼馴染相手になんて。
 約束の場所には、件の男が眼前に広がる河川を眺めながらだらしなく胡座をかいているのが見えた。丁度毒々しいくらい鮮やかな青色の炭酸飲料を飲み干すところだったようで、俺の気持ちなどお構い無しといった態度が癪に障った。
「なぁ、俺のこと好きってさぁ。恋愛的な意味での、ってことで合ってる?」
開口一番、光太郎(こうたろう)ははっきりとした声でそう問うてきた。川向いに聳え立つ街灯が川面を介して反射し、こちらを照らしている。お陰様で見たくもないのに嫌でも相手の表情が目に入る。ぼうっと惚けた面に反して、投げかけられた言葉は矢のように鋭い。黙っているわけにもいかず「おん、そうやで」と消え入りそうな声で辛うじて返事をすると、俺は誤魔化すようにペットボトルの蓋を緩めたり閉めたりした。
「ほんまに言うてる?」
「ほんまに言うてる」
「お前、男が好きやったん?」
「いや、別に男は好きちゃうよ。コタが好きなだけで」
「はぁ……なぁ、俺のどこが好きなん?」
「どストレートに聞くなぁ。まぁ、いっぱいあるけど」
「い、いっぱいあるんか…」
「めっちゃ引くやん。いっぱいあるやろ、普通に。言ってもいいけど夜明けるんちゃうか」
「そこは手短に」
「無理言うなよ」
「……じゃあ、いつから?」
「ははははは」
「誤魔化すなや!」
「いやぁ、めっちゃ質問するやん思て」
「だってそりゃ気になるやろ。ってかお前さ、その……俺で勃ったりとか……するん?」
「……コタくんは母胎にデリカシー置いてきたんでちゅかぁ?」
「男なんかだいたいノンデリやろ」
「でっかい主語で話すのやめや。俺はデリカシーあんねん」
「コンビニで立ち読みしながら告るやつにデリカシーなんかないやろ!」
「うっさいわ、夕焼けキラキラのベストタイミングやったやろが」
ベストタイミング、ではなかった。こんな空気になる事なんて分かりきっていたのだから、告白なんか本当はしたくなかったのだ。ただーー。ただ、この無神経な男に無性に腹が立った、アンガーマネジメントの敗北。それだけの話だ。

 遡ること放課後。いつも通りの帰り道。いつも通りに二人で同じ団地へ帰るはずだった。西陽の茜色が一等眩しく、それから逃れるように二人で駆け込んだコンビニエンスストア。それが全ての元凶だった。特に買いたいものはないが、身勝手な幼馴染の、光太郎の空腹の穴埋めに付き合う為に自動ドアを同時に潜る。奴は浮足立ちながら、一目散にアイスクリーム売り場へ突進して行った。一方俺は雑誌コーナーへゆっくり向かうと、読みたくもない週刊誌に手を伸ばし、取り敢えずそれをパラパラとめくってみる。上の空で指を滑らせていたせいで思った以上に勢い付いてしまい、その風圧で前髪が仄かに揺らめいた。慌てて雑誌の隙間に指を挟み込む。止まったページを覗くと、こちらに向かって色っぽく笑う新人グラビアアイドルの姿が目に飛び込んできた。クラスの男子どもが可愛い可愛いと色めき立っていた子か。確かに可愛い、とは思う。小動物のような、握れば折れてしまいそうな華奢さも、雑誌越しに見ても分かる柔らかそうな白い肌も、くるっと大きくて愛嬌のある瞳も、可愛いとは思う。女が苦手な訳ではない。興味がないわけでも、ないのだと思う。
「なぁなぁ、郁人(あやと)ぉ!家にあずきのアイスあるねんけどさぁ!それ溶かしてな、中にこのアイスの大福ぶち込んだら絶対にウマイと思わん?」
世紀の大発見!みたいに誇らしげな顔をして、光太郎がこちらに駆け寄ってきた。いや、そんなまどろっこしいことせんと素直にぜんざい食うとけよ、と言おうとしたまさにその時だった。光太郎は俺が手に持った雑誌に顔半分をめり込ませると、そこに写ったグラビアアイドルの名前を呼び、ニタニタとだらしなく鼻の下を伸ばした。
間野(まの)ちゃんやん!まっじで可愛いよなぁ!付き合いたい!付き合うの無理やったら結婚したい!!」
「なんで無理やったらの後の願望の方が強欲やねん」
「ええやん、夢ぐらい見してぇやぁ」
「お前な、そんなん前世で一国救ってるぐらい徳積んどかんな不可能なんやで」
「えぇ……俺たぶん前世では串刺しの刑に処されてるからなぁ。前世罪人では無理かなぁ」
「なんで串刺しの刑?」
「ほら俺、先端恐怖症やん」
「あぁ……え?」
「だ〜か〜ら〜!前世の処刑の名残で先尖ったもんに恐怖心芽生えてるんやって。にっぶいなぁ郁人は」
お前のその謎の確信はどっからきてんねん、と思いながらも今日も幼馴染が馬鹿で可愛くて「お前の方が鈍いやろ」と小さく笑った。
「はぁ?どの口が言うねん!お前特進クラスの女子に告られた時もアホみたいな顔しながらびっくりしたぁ言うてたやんけ」
「あぁ、あったなぁそんなことも」
「なんで棒読みやねん。腹立つわぁ。なんでこんな奴がモテんねん!俺のが男前やろ」
「そやなぁ、お前の方が男前やなぁ」
「思ってもないこと言うなや、嫌味か!」
「思ってるよ」そう言って光太郎の瞳をじっと見つめた。陽の光で大きくて丸い黒目の部分が、チラチラと時折茶色く輝いている。眩い眩い、俺の特別な子。
「なんやねん、ガン垂れんなや。お前ズルいねん!背高いし、運動も勉強も出来てさ。塩顔イケメンかなんか知らんけど、女子にも好かれてさぁ」
「俺、塩顔イケメンなんや」
「知らんわ。けど、たまに女子がコソコソ言ってんの聞こえんねん。俺なんかそんなん一個もないわ。背も大して高くないし、いっつも赤点との戦いやしさぁ。誰かに告られたこともない童貞やし。お前は俺に無いもんぜーんぶ持ってていいよなぁ!」
「……持ってないよ。一番欲しいもんは手に入らへんもん」
「え、何か欲しいもんあんの?」
「コタ」
「へ?」
「俺、コタが欲しい」
「は?」
「だーかーらぁ!一番欲しいもん、好きな人、コ・ウ・タ・ロ・ウ!お・ま・え!」
「は?すっ?!」
さっきまで意気揚々と持っていた大福のアイスのパッケージは、光太郎の手の中でこれでもかというぐらい原型を崩していた。マナーとして絶対に買って帰れよ、と心の中で説教しながら指でピースサインを作ると、その二本の先端を光太郎の両目に刺さるギリギリのところまで持っていく。光太郎はギョッとして後退りすると、テンパった動きに更に磨きをかけ、「スー」と連呼しながら、死にかけの虫みたいにバタついていた。"俺の好きなお笑い芸人のギャグを虫がやったら"みたいなタイトルが頭の中に浮かぶ。俺は小さく笑うと「解ったらそれ以上俺と俺の好きな子の悪口言うのやめてな」と呟きながら一人で店を後にした。人の気も知らんと言いたい放題言いやがって。あーあ、俺()うてもうたかぁ。告うてもうたなぁ。
「郁人ー!!!」
背後から光太郎がこっちへ向かって叫んでいる。
「夜の八時!河川敷で待つ!」
果たし合いの誘い文句か?古めかしいな。くっくっと笑いながら振り向きもせず、俺はひらひらと光太郎の方へと手を振った。

 夜の河川敷は、人気が無く気味が悪いほど静かだ。光太郎にデリカシーのない質問をされてから、いつの間にか随分と黙り込んでしまっていたらしい。
「なぁ、郁人。黄昏てるとこ悪いけど、なんか言うてくれよ」
静寂を破った光太郎の声が暗闇に吸い込まれていく。取り敢えず座れば?と促されるがままに、俺は光太郎の隣にゆっくりとしゃがみ込んだ。
「あずきのアイス溶かしたやつにアイスの大福入れて食べたん?」
「……食った」
「美味かった?」
「まぁ、うん」
「なんか歯切れ悪ない?」
「あー、想像の域を超えんかったし、大福の餅が全然仕事せぇへんかった。アレは絶対別々に食った方が美味い」
「大福への期待の負担エグない?そういうのって連帯責任なんとちゃうの?あずきのアイスだってただ溶けただけでなんの仕事もしてないやん」
「……お前は優しいな」
「今の話聞いたら誰でも大福の肩持つやろ」
「いや、違うやん。郁人は優しいねん」
似つかわしくないしおらしい声がしたので、改めてしっかりと光太郎を見た。視界に映る光太郎は、三角座りをした膝の隙間に顔を埋め、ぎゅっと小さく纏まっていた。俺の好きな男は、色んな形になる。
「なぁ、郁人……」
「勃つで」
「ん?」
「さっきの質問の答え。俺、お前で勃つで」
「お!?おぉ……そりゃ、どうも」
「お前の一人称が"吾輩"でも勃つ自信ある」
「はぁ?」
忽ち怒気を帯びた声と共に光太郎は膝に埋めていた顔をこちらへ向けた。眉間は見る見る内に深い皺を刻んでいく。流石にこれはふざけすぎたか。でもまぁ、本当にそれぐらい対光太郎への俺の気持ちは、例えば光太郎が厳つい中二病を患おうとも、いつだって臨戦態勢なのだ。
「お前さぁ……」
流石の光太郎もこの発言には呆れただろうか。いや、揶揄うなと怒るだろうか。
「それって、めちゃくちゃ好きってことやんなぁ……」
そう言うや否や、再び元の小さな三角形に戻って行った。トランスフォーム光太郎。なんかよく分からんがうまい塩梅に刺さったらしい。棚ぼた。いや、通じんの?俺の愛。通じちゃってんの?自分で言っといてアレやけど、俺の方がちょっと引いてる。俺の好きな男は、俺が思っているより何倍も高次元を生きているのかもしれない。こんなに近くにいるのに、やっぱり俺たちは遠くに生きているんじゃないか。そんなことを、思った。
 三角形で硬直した光太郎の様子がおかしくなるのに、幾許の時間もかからなかった。もぞもぞと体を揺らしたかと思うと、ひょっこり顔だけを持ち上げ、くるりとこちらを見た。これに似たのを以前どこかで見たなと記憶を手繰り寄せる。あ、あれだ。ショート動画で見た風船から顔だけ出した芸人だ。アレみたいになっている。エア風船光太郎はこちらを見つめながらパクパクと口を小さく動かしている。ずっと様子がおかしい。
「コタ、どないしたん?」
「あかん……」
「え?何が?」
「無理や……」
あ、これは俺振られるのか。長年燻った片思いというのはこんなに呆気なく終わるものなんだな、と感傷に耽ける間も無く、突然の衝撃が俺を襲った。光太郎が俺の腕を掴んでいる。もの凄い強さで。肉が千切れそうなくらいに。
「郁人……」
余裕のない声で名前を呼ばれると、ドコドコドコドコと心臓が体を打ち付ける感覚で目が眩みそうになった。痛い、苦しい、好きだ、好きだ、好きだ。ずっと、変わらず側に居たい。
「郁人……」
お前は、俺と同じ気持ちにはならん?ちょっとでも、1ミリでも好きやって思ってくれる可能性はない?
「……郁人!!!」
もう明日からはいつもみたいに接することは出来へんのか?お前と冗談言うこともなくなるんか?
「郁人!あかん!!俺、漏れる!」
はっとして光太郎を見ると、暗闇でも青い顔をしているのが分かった。
「……トイレ行けばいいやん」
くいっと親指で後方に鎮座する仮設トイレへと促す。
「いや、無理やろ!昼でも入りたないのに、夜は絶対あかんやろ!」
光太郎の主張も分からなくはない。河川敷にいつから備え付けられているかもわからない仮設トイレなんて臭い・汚い・怖いの立派な3Kである。俺なら入らない。
「ほんじゃもう、その辺の茂みでしろや」
「はぁ?そんなん環境汚染やろが!」
変なところ真面目で頭を抱える。この状況で尿意と環境汚染を天秤に掛けられるものだろうか。掛けられちゃうんだよな。俺の好きな男は、やっぱりちょっと変わっている。
「なぁ、郁人」
「んー?」
「付いてきて」
「あ?嫌じゃ」
「まじで漏れそう、早く」
「いや、俺が行ってもなんも変わらんって」
「お前俺のこと好きなんちゃうんか!」
「はぁ?お前開き直んなや!行くぞ」
乱暴に光太郎のTシャツの襟首を掴むと、俺は仮設トイレの方へとズンズン歩いて行った。無造作に生えた混沌とした雑草の中に、無機質な個の空間が薄気味悪く存在している。
「ほら、早よしてこいや」
「中までついて来てや」
「は?お前どういう神経しとんねん」
「俺のこと好きなんちゃうんか!」
「お前それ言いたいだけやろ」
「ちゃうやん。だって……絶対お化けでるやん……」
お化けて。ずっと拒絶してた理由がお化けて。庇護欲というのは、こういう場面に相対した人間によって生み出された言葉なのだろうか。
「あんな狭いとこ、男二人で入られへんやろ。外で待っといたるからさっさとしてこいよ」
「ほんじゃあさ、手貸してくれへん?」
「手?」
「俺のチンチン握っといてや」
「はぁ?!」
「いや、怖いからさぁ。だから俺が両手で目塞いで見えへんようにするから郁人が俺のチンチン握って便器に小便(しょんべん)入るようにコントロールして欲しいねん。手だけ支えてくれたら外おってくれていいし」
「お前、よう俺と同じ高校入れたな」
「あん?俺のこと馬鹿にすんなよ」
「いや、お前今日一日ずっとアホやで。というか出会ってからずーっとアホ。」
「ほんっまに!俺が漏らしそうちゃうかったらどついてるからな!」
「いや、チンチン握れって言われてる俺の方が殴る権利あるやろ」
「あかん、まじで漏れる……」
光太郎は小便暴発対策でクロスにした足を更に締め付けて、生まれたての子鹿の様に震えていた。
「はぁ…しゃあないな、わかった。一緒に入ったるわ。ほんで俺がお前の目隠したらええんやろ?その間に済ませろや」
「俺、今から郁人のこと神様って呼ぶわ」
「郁人大権現様って呼べや」
「郁人大権現様、あっしみたいな下々のもんとぉ連れションたぁ頭が下がりますぜ、へへっ」
「やっぱ呼ばんでええわ」
俺を弄ぶなよ、とプリプリしながら震える子鹿は仮設トイレの扉を恐る恐る開けた。
「よっしゃ郁人ぉ!奇跡の洋式や!」
珍妙な体制で振り向きながら小さくガッツポーズをしてみせたその姿に、普通はこういうところで百年の恋も冷めるんだろうなとしみじみ思った。
「俺からしたら和式でも洋式でも同じくらいの最悪さやで」
「はぁ?難易度が違うやろ。跳ね返りの恐ろしさをお前はなんもわかってへんな。これやから素人は」
「プロの癖に人に頼らんとダメな人に言われたないです〜とっとと終わらしてください〜」
「よっしゃ任せろ!ほんじゃ入るで」
「おう、入れ入れ」
人一人入るのがやっとのスペースに、育ち盛りの男が二人。完全に定員オーバーしている。
「なぁ、やっぱ二人で入るの無理やって。ドア開けといたるからさ、俺外で待ってたらあかん?」
「俺は繊細やねん!ドア開けたままできるわけないやろ!」
「人にチンコ握れって命令してくるやつ、繊細なわけないやろ」
「うるしゃい!」
「めっちゃ噛むやん」
「……お願いします郁人様、一緒に入ってください」
これ以上問答して繊細ボーイをお漏らしボーイにするのも可哀想なので、しぶしぶ体全てを小さな個室に押し込めた。古い設備だからか、手入れが行き届いていないからなのか、若しくは初めから灯りの点らない仕様なのかはわからないが、中は完全なる黒そのものだった。お化け云々は置いておいて視界が遮られる恐怖というものはこんなに恐ろしいものなのかと実感する。光太郎の目を覆い無事に用を足させるというミッションは、このままでは完全に失敗に終わるだろう。好きな男と密室で密着できるという好機が、こんなにも嬉しくない事態になるとは。世界はなんて残酷なんだろう。
「コタ、ごめんやっぱりドア開けたままして。暗くてなんも見えんから手伝われへん」
「嫌や!誰かに見られたらどうすんねん!」
「俺しか見てへんよ」
「それはそれで嫌や」
「ほんだらお前一人で勝手にせえよ!」
「俺を見捨てんのか!薄情やぞ!お前の愛はそんなもんか?」
俺の愛?舐めんなよ。こちとら十年近く拗らせとんねん。全部わからしたる。
「俺がお前の真後ろに立ったら壁になるやろが!外からの目、俺が全部遮ったる。俺がドアの代わりする。だから安心して全部出せや!」
「……それなら、まぁ」
ようやく納得したのか、光太郎はしぶしぶ俺の提案を了承した。手探りで仮設トイレのドアを開けると、月明かりの自然光だとか対岸の街灯のおこぼれだとかのおかげで、何とか中の様子が見えるくらいの状態になった。光太郎の膀胱も、もう限界に近いだろう。
「ズボン下ろしぃ」
「セクハラやめて」
「アホか。目隠す前にズボン下ろして便器に的絞れ言うとんねん」
「あ、なるほど」
自分の事に対してぼっさりしすぎではないだろうか。こいつ高い壺とか買わされるんじゃないのか。不安を感じる俺をよそに、光太郎は素早くズボンのファスナーを下ろすと発射準備を整えた。
「ほな、目隠すで」
「お願いします」
そっと光太郎の目元を覆う。薄々感じていたが、もう目を隠す必要などないのだ。散々怖がっていた空間で一通りギャアギャア騒いでいたくせに、小便する時だけ目を隠すとは?全く意味の無い行動。でも俺にとっては、意味のある行動。束の間、この距離で好きな人に触れていられる。嬉しくもあり恐ろしくもあるけれど。折角ならもっと日の当たるところで、清潔な場所で、なんの後ろめたさもなく触れることが出来ればどんなに幸せなんだろう。そう願わずにはいられないと、掌から感じる光太郎の体温を知って思った。
「郁人!おい郁人!!ありがとう!全部出たで!」
「報告どうも」
さぁ出た出たと言いながら、光太郎によって仮設トイレから押し出される。真っ暗で小さな世界から、少し、ほんの少しだけ明るい場所に出た。地続きのグラデーションが、心地良い。
「お前ちゃんと手洗ったんやろな」
「あんな汚いとこで洗うわけないやろ」
「ちんこ触りたての手で俺のこと押すなや」
怒る俺の言葉は無視して、光太郎はドタドタと川辺の方へと走って行くと、その場にしゃがみ込んだ。後ろからそっと覗いてみると、手の平を川の中に浸けて水流に身を任せている。
「何してんの?」
「手洗い」
「……それ、環境汚染なんとちゃうの?」
「はぁ?俺の手が汚染源になるわけないやろ」
失礼な、と怒りながら手をグーパー交互に握って水の感触を確かめている光太郎を見て、排尿にも賢者タイムが存在するのだなという所感を得た。
「なぁ、郁人」
「ん?」
「俺な、お前のこと好きやで」
「ありがとう」
「え、リアクション薄ない?」
「気遣ってくれてんのやろ?」
「まぁ、そうやけど。そうじゃない」
どっちやねんとツッコむ俺の方を光太郎はゆっくりと振り返る。こんなに真剣な表情をしているとは思ってもいなくて、少し驚いた。
「俺さ。ここ来る前、お前にどう断ろうかずっと考えてて」
「おう」
「お前の事は大事やし、お前が男を好きって言ったとしても"そうなんや〜"ぐらいにしか思わんかったと思う。時代が〜とか偏見が〜、とか関係なくさ。でもお前の好きな奴が俺なんやったら話変わってくるやん。どうやったって俺女の子が好きやしさ」
「うん、わかってるよ」
妥当で真っ当、至極健康的。
「だからごめんなさいって。郁人のことは大事やけど、そういうのは無理やって言おうと思ってたんやけど」
「うん」
「今日郁人がここ来た時な、お前遠目から見ても死にそうな顔しててさ」
「そういうの、言わへんのが優しさなんとちゃうんか」
「俺、郁人が俺のこと好きって全然知らんかったわけやん」
「そりゃあ、必死に隠してたからな」
「そう、ずっと隠してたわけやろ。一人で抱えてたわけやろ、爆弾みたいなもんを」
「いや、まぁそれは俺が勝手に抱えてただけやからええねんけど」
「いや、良くはないやろ。なんか俺それにだんだん腹立ってきてさ。振った後キレたろうと思ってて」
「えぇ……俺振られた上に説教されんのか。可哀想すぎるやろ……」
「でもさ、お前死にそうな顔してんのに、ずっと俺を見る目が優しくてさ。トイレ着いてきてくれたときも文句言いながらずっと俺のこと好きや〜って顔で見てて」
「おい、マジで勘弁してくれ。恥ずい恥ずい!」
「郁人はずっとこんな風に俺を見てたんかって。お前ってさ、思った事結構はっきり言うやん?そのお前がずっと黙ってたってことは、絶対に言いたくなかった事なんやろ?それを俺が言わせたんかって。めちゃくちゃ苦しくなった。でもな、トイレで目隠されたとき、モヤモヤとか苦しさとか一旦全部ふっ飛んで行ってん。お前にドキドキして。なんかわからんけど、心臓がめっちゃこそばくなって、頭バーン!や」
「は?」
「俺、女の子が好きやねん。絶対。何があっても。でもな、あの時郁人にドキドキした」
「恐怖の動悸と間違ってるんじゃなくて?吊橋効果ってやつなんちゃうん?」
「いや、なんかわからんけどさ。今までお前が近くにおってもなんも感じんかったのに、無駄に良い匂いするやん!とか、俺の体にお前の声響くな!とか。そんなん考えてたら心臓バクバクしてきて、訳分からんようになってきて、頭バーン!や。だからもう一回!もう一回確かめてみたいねん!」
そう言って光太郎はこちらまでやってくると、おずおずとぎこちなく腕を伸ばし、それを俺の背中に回した。吊り橋効果万歳!なんて思う間もなく、触れた体の前面が一気にカァっと熱くなっていくのがわかる。細胞が潰れては生まれ、潰れては生まれるような。落ち着きがなく、高揚し続けている。血液がギュッと集まってくる感覚が、鮮烈に痛くて堪らない。
「ごめん光太郎」
「あ、嫌やった?」
「いや、そうじゃなくて。ごめん、普通に勃った」
「お、おう……お前も男の子やもんな」
「あかん、気持ち追いつかへん」
「いやぁ、ははっ。君はほんまに吾輩が好きなんやなぁ」
「フォローしてくれてるとこ悪いけど、今の吾輩で完全に萎えたわ。ありがとー」
「おい、この嘘つき!俺の一人称が吾輩でも勃つ言うたんはどこのどいつや!俺で遊んでるんか?」
まぁまぁ本気で怒っている光太郎を見て、自然に笑顔が溢れてしまう。
「うそうそ、萎えへんよ。萎えるわけないやん」
そう言いながら、今度はこちらから光太郎を思いっきり抱きしめ返した。柔らかそうなデコの生え際に触れてみたくて、そこへそっと唇を付けた。どこまでなら、許されるのだろう。もう少し、もう少しだけ許されたい。
「なぁ郁人。俺な、今すぐお前と同じ気持ちは返されへんと思う。でもな、今二人でこうしてるの、やっぱりドキドキするし、ほんでなんか結構落ち着くねん。それってさ、それもさ、好きってことになれへんのかな。愛ってやつとは違うんかな」
そう言うと光太郎は抱きしめた腕に更に力を込めた。背中にじっとり、光太郎の指の感触が伝わってくる。
「光太郎……」
前髪の生え際に埋めた唇を離すと、俺は光太郎の顔を覗き込んだ。
「おまえ、どさくさに紛れてこっそり俺の服で手拭いてるやろ」
「お、バレたか」
「さっきから背中びっちゃびちゃやねん」
「良い感じの話で流してもらえると思ったんやけど」
「お前のそういうところ、マジでどうかと思うで。ってかさっきの話、まさか嘘ちゃうよな?」
「嘘であんな恥ずかしい事言うか、阿呆。まぁアレや。どの位かかるかわからんけど、気長に待ってくれたら助かる」
「おうおう、じじいになっても待っといたんで」
「ほんまに言うてる?」
「俺の一途舐めんな。死ぬまでは有効期限な」
「健気すぎて胸痛いわ」
「ほんだらお詫びにチューしてや。がっつりベロ入れた濃厚なやつ」
「今日で絶交な、このドスケベ」
「うそ!うそうそうそ、待って待って待って!」
情けない俺の遠吠えが、静かな夜の一部となって消えていく。ロマンチックとは程遠く、恋と呼ぶにもまだ早い。そんな不恰好で未熟な青春の煌めきに、二人で声を上げて笑った。