スマホが振動してメッセージの新着を告げる。開いてみると高森からだった。もっとも家族以外で僕にメッセージを送ってくるような相手は高森しかいないのだから、開く前からわかっていたようなものだ。
僕は朝起きて身支度をすませてから絶賛朝食を食べている最中で、つまり家のなかにいるのだから家族であれば直接話せばすむ話だった。
父親は今しも家を出る直前で、母親は家事をすませるためにばたばたと忙しそうに家のなかを動きまわっていた。風呂場の掃除を終えたようで、濡れた手をタオルで拭きながら洗面所から出てくる。それから自分の身支度を整えるためにまたばたばたと二階へ上がっていった。
朝の時間は忙しない。
シンクには朝食を終えたあとの食器が重なって置かれていた。食器の後片づけは僕の担当なのだ。ただ僕が家を出るまでにはまだ余裕があった。そのため、慌ただしく家のなかを動きまわる両親を尻目に悠然と朝食を食べていた。
高森からのメッセージを読む。
内容は、熱が出たので今日は学校を休むというものだった。いつも必ずといっていいほど送ってくるスタンプもなく、文章も簡素だった。体調が悪くてそんな気力もないのかもしれない。昨日の放課後僕の家に来たときには特に具合が悪そうには見えなかったが、別れたあとに体調を崩したのだろうか。急に悪寒が走ることもあるだろう。
僕は左手にマーマレードジャムを塗ったトーストを持ち、ジャムがこぼれないように気をつけてひと口ずつ囓りながら、右手を使って「お大事に」とだけ返信した。スタンプはほぼ送らない。そのうちめぼしいやつを購入しようと思いつつ、まだ微妙なキャラクターの無料スタンプしか持っていないのだ。高森の使うスタンプに比べて見劣りする気がして、何となく送るのを控えているうちにどんどん送る機会がなくなっていった。
高森への返信をすませるとスマホを脇に置いて、僕はゆっくりとコーヒーを堪能した。
「それじゃあ行ってくるから、あとよろしくね、真咲」
ばたばたと階段を降りてきた母親にそう声をかけられて、僕はマグカップを手に持ったまま軽く頷く。ひらひらと僕に手を振って母親は出勤していった。ばたん、と大きな音を立てて玄関が閉まる。両親が出払って、急に家のなかが静かになった。
それから僕はトーストを平らげ、コーヒーを飲み干した。皿を下げて、シンクに溜まっていたほかの皿と一緒に洗い物をすませる。ふきんで拭いて食器棚に片づけ、使い終わったふきんも洗って干す。後片づけ終了だ。
忘れ物がないことを確かめてから、僕は通学鞄を持って家を出た。玄関にきちんと鍵をかけることも忘れない。
今日も天気はよさそうだ。陽射しが少し眩しく、目を細める。空を見上げながら、高森は律儀だな、などと考える。もしも僕が突然の体調不良で学校を休んだとしても、たぶん高森に連絡はしない。自分の体調のことで精一杯で、連絡しようとすら思い至らないかもしれない。
それにわざわざ連絡をしてくるようなことでもないんじゃないかと、そのときはそんなふうに思ったのだ。
登校して高森の席が空席なのを一応目で確かめてから、僕は自分の席に着いた。だいたいいつも高森のほうが早く登校している。だからふだんは僕が教室に入るころには高森はもう自分の席に座って、授業の準備をしたりしているのだ。僕はいつも来るのはわりとぎりぎりだった。そんなに早くから教室にいたくない。
僕とは無関係の教室内の喧噪にまぎれながら、鞄から教科書や筆記用具を取りだす。時間割を確認すると、一限目は数学だった。僕は教科書の束のなかから数学の教科書を探す。
SHRを終え、短い休憩を挟んですぐに数学の授業が始まった。今日の欠席は高森だけだった。高森の席は窓際寄りの、少し後ろ側だ。僕は廊下側の最後列なので、少し左に視線をやれば高森の席は確認できる。教室内の様子も見渡せた。
授業を流して聞きながら教室内の様子をちらりと確認すると、机に向かった生徒たちが真剣に板書をしているなか、高森の席だけがぽっかりと空いていた。それをしばらく眺めてから、僕も前に向き直って板書を写し、出題された数学の問題を解いていった。
今日の日付から導きだされた出席番号の生徒が問題を当てられ、数式の答えを解答していく。幸い僕は当たらなかったので、ただ黙々とノートをとってひたすら問題を解いた。
いつもと何ら変わりのない朝だった。
二限目も三限目も、特に何ごともなく過ぎていった。高森の不在は僕にたいした影響を与えなかった。休憩時間に邪魔が入らないぶん、むしろ静かで快適だとさえ思った。
いつもは休憩時間になるたび、僕の席に決まって高森がやってくる。そうして何かと僕に話しかけてくるので僕もしょうがなくそれに付き合うのだが、今日はその高森がいない。
僕は授業の合間の休憩時間を余すところなく読書に充てた。昨日から新しく読みはじめた小説がちょうど面白くなってきたところだった。別に高森が疎ましいわけではないのだが、やはりこうして一人で過ごす時間もいいものだと改めて思う。
読書に集中しはじめると、教室内の喧噪も一気にすっと遠くなる。自分だけの時間が流れる。その空間のなかで、僕は悠々と活字を追った。
何だか久しぶりに開放的な気分だった。たまにはこんな日があっても悪くないなと思った。
僕が一人であることに気がついたのは、昼休みになってからだった。もちろん僕は朝からずっと一人だったわけだが、改めてそれを自覚した。
チャイムが鳴って午前の授業が終わると、教室内はにわかに騒がしくなった。がたがたと机を寄せて弁当を広げはじめたり、人気の商品を求めて購買に駆けていったりと、忙しない。僕は取り敢えず財布とスマホと、それから食後に読むつもりの文庫本を持って教室を出た。廊下を行き交う人の波に混じってゆっくりと購買に向かう。
高森はいない。購買に行くのも一人だし、どこで食べるかを決めるのも一人だ。今日は何を食べようかと相談する相手もいない。
思えば僕は今日、学校でまだひと言も発していなかった。結局午前の授業では指名されることがなかったので、喋る機会は一度もなかった。購買に向かう途中の廊下で楽しげに話しながら歩く佐宗とすれ違ったが、僕から話しかけることはなかったし、もちろん向こうから声をかけてくることもなかった。
佐宗はもう購買に行って昼を購入して戻ってきたところのようだ。いつもどおり自身のグループの男子と一緒だった。おそらく話に夢中になっていて僕には気がついていなかった。そもそも気がついたところで、高森が一緒ならばともかく僕一人相手では喋りにくいだろう。
購買は相変わらず混雑していて、何度も人の波に揉まれて辟易した。ようやく昼を購入してその波を抜けたころには、まだ昼を食べるのはこれからだというのにひどく疲れきっていた。しかしその疲れを共有する相手はいない。自動販売機でお茶を購入し、その場で開けて半分くらい飲んだ。
中庭を覗くと空いているベンチがあったので、今日はそこで昼食をとることにする。購買で買ったサンドイッチの包みを開いた。少し遅れをとったせいでいちばん買いたかったカツサンドはすでに売り切れていた。しょうがなく選んだ、照り焼きチキンと野菜のサンドイッチだった。これは高森がよく食べているのを見るのだが、僕は初めて購入した。何となくチキンよりもカツサンドなどボリュームのあるほうを選んでしまう。おいしかったら、あとで高森に感想を伝えてやろうと考える。
中庭には、いつかも見かけた女生徒のグループがいた。スマホを見せ合いながら楽しそうにお喋りに興じているのも変わらない。僕はそれを尻目に一人でサンドイッチを頬張り、お茶を飲んだ。何だかお茶が少し苦い。
食事を終えると、余った時間は読書に充てた。話す相手もなくひたすら咀嚼するだけだったため、昼休憩の時間はじゅうぶんに余っていた。
高森がいるときであっても、僕はかまわずに読書をしていることがある。そんなとき高森は特に文句も言わず、ただ僕の隣で気儘にスマホをいじっていたりする。そうやって互いに一人の時間を過ごすのだった。
本を読み進めながら、何だか少し肌寒く感じて僕は洟を啜った。天気はいいし、風もそこまで冷たくはないのだが。女生徒のグループは今日も楽しそうに話に花を咲かせている。それが少し耳障りで、読書に集中できない。僕は小さく溜息をついて本を閉じた。それからスマホを取りだしてネットのニュースを読んだりしていたが、何だかそれにもすぐに飽きてしまう。結局、中庭を行き交う生徒や木にとまった小鳥をぼーっと眺めて残りの時間をやりすごした。
誰かが隣にいる一人と、完全に一人であることはこんなにも違うものだったろうか。調子が狂う。
午後に体育の授業があることをすっかり失念していた。昼に食べたサンドイッチはだいぶこなれてきたところで腹痛などの心配はなかったのだが、問題は別のところにあった。
今日の授業の内容は何だろうか。ジャージに着替えて体育館に向かいながら、僕は内心ハラハラとしていた。二人組を組め、などと言われたら面倒だ。
いつもは高森がいるので二人組を組まされてもあぶれることはない。三人以上で組めと言われたら、高森が誰かに声をかけて誘う。僕はいつも高森に任せきりで、ただそこにいるだけだった。
幸いにも今日の授業の内容はバスケの対抗戦だった。四チームをつくってのリーグ戦だったが、メンバーは出席番号順に機械的に振り分けられた。バスケ部員だけはばらけるように先生が最初に振り分けた。僕は佐宗と同じ組だった。
佐宗は体験入部のときに見たのと同じ華麗なシュートを何本も決め、結果的に試合は僕たちのチームが勝った。佐宗がいるんじゃなあ、と相手チームの誰かが苦々しい声で言うのがどこからか聞こえた。
シュートを決めるたびに同じチームの仲のよいクラスメイトとハイタッチを交わす佐宗の様子を僕は遠目からぼんやり見ていた。試合中は一応ボールを追って体育館の向こうとこちらを行ったり来たりした。ときどき僕にもボールがまわってきたが、目についた誰かにすぐにパスをした。一秒でも早く手放してしまいたかった。ドリブルはできるだけ避けた。そうしてただ時間が過ぎるのを息をひそめてひっそりと待った。
午後の残りの授業も僕はそうやって黙々とこなし、休憩時間になればまた読書をした。その繰り返しだった。
この段階になって、僕はおおいに戸惑っていた。
高森と関わるようになる前はずっと一人だったはずなのに、僕はもう、そのとき自分がどうやって過ごしていたのかがまるでわからなくなっている。
高森の不在は、僕に多大な影響を及ぼしていた。
結局僕は今日、学校ではひと言も喋らないまま終えた。ほとんど一人でひっそりと過ごしていたのでエネルギーもあまり消費していないはずなのだが、なぜだかいつもよりもどっと疲れていた。
家に着いたら少し仮眠でもしようか。瞼が重い。
駅の改札を出て家に向かって歩きながら、スマホを取りだす。ネットのニュースの見出しを眺めたが、興味の惹かれる記事はあまりなかった。ニュース記事を閉じてメッセージアプリを起動する。新着はない。画面を操作して、高森とのやりとり画面を出す。今朝、僕が送ったメッセージで終わっている。既読はついているので、読んだことは読んだのだろう。それから画面をスワイプして過去のやりとりを読み返した。僕の簡素な返信に対して、高森は長めのメッセージだったり、スタンプを送ってきたりと、ていねいだ。
……具合はどうか、訊ねてみようか。
僕はそう思い立って、家に向かって歩きながら高森に体調を訊ねる文章を打ち込んでいたのだが、途中で思い直してすべて消去した。いっそ、直接様子を見に行けばいいのではないだろうか。僕が見舞いに行っても、不自然ではないだろう。
僕は立ち止まると、自宅へ向かっていた帰路を引き返して足早に駅に戻った。それから高森のマンションがある反対側へと抜け、左に曲がる。
手ぶらで行くのは気が引けるので、見舞いの品を見繕うために途中コンビニに寄った。本当はもう少しちゃんとした店で購うべきなのかもしれないが、相手は高森だしそこまで気を遣わなくてもいいだろうと言い聞かせる。駅前のモールであればもう少し気の利いた品があったかもしれないが、なにぶん気づくのが遅かった。もうずいぶん前に通りすぎていた。わざわざまた戻るのも手間だ。
ピロンピロンという馴染みの音楽とともに入店する。この前、高森がシャーペンの芯を買ったのと同じ種類のコンビニだ。このへんでいちばん多く見るコンビニだった。僕の家側にも多いが、こちら側にも多いようだ。
入り口を入ってすぐ脇のところに設置されたコピー機を見て、ふと今日のぶんのノートをコピーして高森に渡したほうがいいのではないかと思い至った。それで僕は鞄からノートを取りだすと、一教科ずつコピーをしていった。吐きだされた紙を手に取り、端の文字が切れずにきちんとコピーされていることを確かめてから、いつも持ち歩いているクリアファイルに入れた。クリアファイルは、学校から配布された案内の書類や宿題のプリントを入れておくのによく使っている。
それがすむと、本来の目的であったスイーツの並んだコーナーへと移動する。このあいだ高森と一緒に食べた抹茶のフェアはもう終わっていた。今は次のフェアの準備期間中なのか、特に何のポップも掲げられていない。並んでいる商品を眺めながら、何を買うべきかを迷う。
ドーナツやクッキーなどは口内の水分も取られるし、特にクッキーはぼろぼろとした破片が喉に痞えて飲みこみにくいだろうから論外だ。具合が悪いのだから、消化のよいものを選ばなければならない。やはりゼリーかプリンが一般的だろうか。ヨーグルトでもいいかもしれない。
そこで、すりおろし林檎のヨーグルトという品が目に留まった。緩めのヨーグルトのなかにすりおろした林檎と、アクセントに小さくカットされた固形の林檎が入っているようだ。この組み合わせはスイーツとしても病床の食べ物としても鉄板だろうと思い、僕はそれを手に取ってレジに向かった。
高森はしょっちゅう僕の家に来ているが、僕が高森の家に行くのは今日が初めてだった。放課後に過ごすのはもう僕の家であることが当たり前になっていたし、僕もわざわざ高森の家に行きたいとは思わなかった。他人の家はテリトリー外だ。勝手知ったる自分の家がいい。
駅からしばらくはいろいろな店が連なって賑々しかった。飲食店から服飾店からクリニックまで、種類も豊富に揃っている。生活するうえで不自由はしなさそうだ。駅のこちら側にはあまり用事もなく来ることがないので、よく知らなかった。
それからさらに五分ほど歩いていると少しずつマンションが増えてきて、だんだんと住宅街の様相を呈してきた。高森の住むマンションは駅から十五分くらいの場所だと前に言っていたから、たぶんもう少しだろう。この辺りに林立したどれかがそれのはずだった。煉瓦色の外壁をしたマンションを探す。
やがてそれらしいマンションを発見して、僕は正面エントランスに立つ。マンション名を確認して記憶と照合する。外観も以前高森に見せてもらった写真と合致している。このマンションで間違いないだろう。
マンションはオートロックで、自動ドア脇に設置されたインターフォンに部屋番号を入力して呼び出す必要があった。高森の部屋は六階だ。僕は高森から聞いていた部屋番号を思いだしながら、頭のなかで反芻して呼び出しボタンを押した。
すぐに呼び出した部屋に繋がって、「はい」という女性の声が応答した。おそらく高森の母親だろう。僕が部屋番号を押し間違えてさえいなければ。
「織部と言います。た……、総一郎くんの、クラスメイトの」
僕がそう名乗ってからしばらくの間があった。その沈黙がとたんに不安になる。あんなに確かめたのに部屋番号が間違っていたのだろうか。それとも、僕のことを知らずに怪しんでいるのかもしれない。
「おりべ……、ああ、真咲くん!」
やがてインターフォンの向こうから嬉しそうな声が響いてきた。どうやら部屋番号は間違っていなかったらしい。加えて僕の下の名前まで把握しているとは驚きだ。高森が僕のことをどうやって伝えているのかがにわかに気になりはじめる。
どうぞ、という声とともにオートロックが解除される。僕はいそいそとエレベータに乗り込むと、六階のボタンを押した。
高森、と書かれた表札が出ていた。マンションでは表札を出していないところも多いように思うが、高森の家は違うようだ。実際、左右のドアに掲げられた部屋番号の下の表札は真っ白だった。
先ほどのやりとりでここが高森の家であることは疑いようがなかったが、それでも僕は部屋番号と表札を何度も読み返してからドア脇のインターフォンを押した。少し緊張している。
ドア越しに、はあい、という声が響いた。エントランスのインターフォンで聞いた声と同じだった。しばらくそのまま待っていると、ドアの向こうからぱたぱたという足音が近づいてくる。ガチャリ、と開錠する音が聞こえ、次いでドアが大きく開いた。
薄緑色の目と目が合った。
僕を出迎えた高森の母親は、髪の色も目の色もほとんど高森と同じだった。特に目の色はとてもよく似ていた。僕はドアが開いてその薄緑色の目と視線が合った瞬間、高森本人かと錯覚したくらいだ。長い髪の毛をサイドに寄せて緩くひとつに結わいて、肩に流している。ふわりとしたロングスカートを穿いていた。僕の母親とは雰囲気がまったく異なる。
「こんにちは。真咲くん、よね?」
ぼんやりと立ち尽くしていると、高森の母親からそう声をかけられる。僕は慌てて挨拶を返し、ぺこりと会釈をした。右手に持った、ヨーグルトの入ったコンビニ袋ががさりと音を立てて揺れた。
高森の母親はにこりと微笑んで僕を見た。
「わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」
「……いえ、」
どうぞ上がって、と促されて僕は靴を脱ぐ。玄関には高森の母親のものだろうヒールのある靴のほかに、高森のものだろう靴が並んでいた。学校で履いている黒のローファーのほか、休日に履いているらしい運動靴。サイズが大きめの革靴はおそらく父親のものなのだろう。
お邪魔します、と言って玄関を上がった。出されたスリッパを履く。
てっきり高森の部屋に案内されるのだとばかり思っていたのだが、最初に通されたのはリビングだった。対面式のシステムキッチンとダイニングテーブルがあり、その向かい側にソファとテレビが置かれている。壁際に置かれた棚の上には小物や花がきれいに飾られていた。
「今、お茶淹れるね。どうぞ座って」
高森の母親がそう言って僕に椅子を勧めてくる。
「いえ、おかまいなく」
僕は慌てて固辞したが、そのあいだにも高森の母親はポットからお湯を注いでお茶の用意をしている。淹れたお茶をテーブルに置き、もう一度促されて僕はおとなしく椅子に座った。通学鞄は椅子の横の床に置かせてもらう。コンビニの袋は通学鞄の上に載せた。淹れたてのお茶をひと口飲む。
高森の母親も僕の正面に座った。テーブルの上で腕を組み、お茶を飲む僕の様子をにこにことした笑みで眺めている。お茶は僕のぶんしか用意されていない。あえてリビングに通してこんなふうに正面の椅子に座ったのは、僕から学校での高森の様子を訊きたいからなのではないかと、何となくそんなふうに思った。
ところが予想に反して、高森の母親は僕に何の質問もしてこなかった。ただ薄緑色の目を細めてにこにこと僕の顔を見つめているだけだ。少しそわそわする。何も訊かれていないのに僕から高森の話をはじめるのも何となく不自然な気がして、僕はひたすらちびちびとお茶を飲んだ。この場をどうやりすごせばいいのかがわからない。
「真咲くん」
やがて、そう名前を呼ばれる。僕は湯飲みを置くと顔を上げて高森の母親を見た。ごくりと唾を呑む。
「真咲くん、総一郎と仲よくしてくれてありがとう」
高森の母親は、にっこりと笑んだままそう言った。何を質問されるだろうかと身構えていた僕は、予想外のその言葉に面食らう。
高森の母親はふっと瞼を伏せた。高森と同じように、濃く長い睫毛が目のまわりを縁取っている。それから数回瞬きをして、ぱっと顔を上げるとまた僕の目を見つめた。
「総一郎ね、中学のころに比べてすごく明るくなったの。真咲くんのおかげだと思う。だから、ありがとう」
「いえ、僕は何も」
慌てて否定する。
高森の母親はそれを謙遜と捉えたようだったが、僕は本当に何もしていない。自分で思った以上に何もしていなかった。僕は今日、それをまざまざと自覚したところなのだ。
僕は口をつぐんだ。高森の母親の勘違いを正すべきなのか迷ったし、それ以上に、このままここでこうして話を続けていていいものなのかがわからなかった。
僕がこのまま何も言わずに聞いていれば、高森の母親は中学のころの高森の話もはじめるかもしれない。でも、それを僕は聞いてもいいものなのだろうか。これ以上、本人のいないところで承諾もなしに高森の事情に踏み込んでいいものなのかどうか、戸惑った。
僕の逡巡が伝わったのか、高森の母親は小さく笑んで話題を変えた。
「総一郎の部屋、ここを出て左の、玄関に近いほうだから」
椅子から立ち上がり、リビングのドアを開けて指差す。
「もしかしたら今寝てるかもしれないけど、たぶんそろそろ起きると思うの。だから遠慮しないで入って大丈夫だと思う」
僕を振り返り、高森と同じ色の瞳を細めて言う。僕はそれに思わず魅入る。きれいな色だと、改めて思った。
「ごゆっくりね」
「あ、はい。ありがとうございます」
僕は残りのお茶を飲み干すと、はじかれたように立ち上がった。床に置いていた通学鞄と、コンビニの袋を手に持つ。
「お茶、ご馳走さまでした」
そう言うと高森の母親はにこりと笑った。おっとりした印象の人だなと思う。
僕は手に持ったコンビニの袋に視線をやって、少し迷った。見舞いの品だと言って今ここで高森の母親に託すべきだろうか。ただデパートの地下で買ったような箱入りの上等な品であればまだしも、たかだかコンビニで買ったヨーグルトだ。それも剥きだしのままコンビニ袋に入っている。恰好がつかない。今さらながら、もう少し気の利いた見舞いの品を用意するべきだったと後悔する。
結局僕はコンビニの袋も持って、廊下に出た。渡すなら直接高森に渡したほうがよさそうだ。ぱたん、と高森の母親の手によってリビングのドアが閉められた。
僕はぽつんと廊下に残される。
先ほど高森の母親から教えられたとおり、玄関に近いほうの部屋の前に立つ。茶色い木目のごくふつうのドアで、ドアの外に目印になるようなプレートなどはかかっていない。
軽くノックをしてみたが、返事はなかった。寝ているのかもしれない。迷ったが、リビングに引き返すわけにもかといってこのままずっとドアの前に立ち尽くしているわけもにいかず、僕はそのままゆっくりとドアを開けるとそろりとなかへ入った。
入ってすぐ、ベッドが目に飛び込んできた。布団が盛り上がっている。規則正しい静かな寝息も聞こえる。やはり寝ていたようだ。
部屋のなかをちらりと見渡す。あまり物はない。壁にもポスターのようなものはいっさい貼られておらず、壁紙の白さが際立っていた。
唯一、ベッドの反対側にある勉強机の上に本が積み上がっているくらいだ。参考書や漫画、小説とごちゃ混ぜだった。ぱっと見、漫画が少し多いだろうか。僕の部屋には大きな本棚があるが、高森の部屋にそれらしいものはない。ふだんからあまり本を読む習慣はないのだろう。
私服がしまってあるのだろう小さめのチェストと、アルミ製のラックにゲームやら雑誌やらが少し入っている。週刊漫画や、ゲームの攻略情報などの雑誌だ。制服は部屋のなかには見当たらないので、おそらく壁際のウォークインクローゼットのなかだろう。
いつぞやの仕返しにエロい本でもないか探してやろうかとちらりと考えもしたが、病人であることを考慮して自制しておくべきだろうと思い直す。
高森はよく寝ているように思ったが、僕がそろそろとベッドの傍に寄って床に座るとうっすりと目が開いた。薄緑色の瞳がゆらゆらと揺らいで僕のほうを見る。焦点が定まるのに少し時間がかかった。夢うつつなのかもしれない。
「……織部?」
細い息とともに僕の名前を呼んだ。
それからようやく意識がはっきりしてきたようで、その視線がしっかりと僕を捉えた。
「……よう、」
小さく声をかけてみる。高森は意外そうに何度か瞬きをした。瞳は表面に水を張って潤んでいる。まだ熱が高そうだ。汗ばんでいて、顔が全体的に赤い。亜麻色の髪が少し汗を含んで濡れ、額の上で縺れていた。その下には冷却ジェルシートが貼られている。
無理しなくていいと言ったが、高森はのろのろとベッドの上に上体を起こした。動作は緩慢で、熱のせいでいろいろな感覚が鈍くなっているようだ。少しふらついたのを支えると、熱っぽい感覚が手のひらを通して伝わってきた。想像していたよりもだいぶ熱い。
「熱は何度あるんだよ」
びっくりして、思わず訊ねた。
「……熱、」
高森は僕の質問を噛みくだくのに少し時間を要した。小さく乾いた声で僕の言葉を反芻する。熱のせいで思考がうまく働かないのだろう。
少し前屈みになって、ベッドの上に放ってあったカーディガンをずるずるとたぐり寄せると袖を通した。汗を掻いているので、そのままでは体が冷えるのかもしれない。
しばらく前方を見つめてぼうっとしている。瞬きというにはゆっくりとした動作で瞼を閉じ、それから開いた。僕は高森の横顔を眺めながらじっと待っていた。高森はそれからようやく僕のほうを向くと、一音ずつ確かめるように喋りはじめた。
「今朝測ったときは、たしか三十九度近くあったかな」
「……ずいぶん高いな」
「今は少し、下がったとは思うけど。昔から高熱が出やすいんだ」
「じゃあまだ寝てろよ」
起こしておいて僕が言う言葉でもないかもしれないが。
「大丈夫だよ。熱がある以外に体調は悪くないから」
「その熱が高いのが問題なんだろう」
「でも、せっかく織部が来てくれたんだし。……まさか見舞いにきてくれるとは思わなかったな」
へらり、と笑う。
それから、ちょっとごめん、と言ってベッドの枕元に置いてあった水のペットボトルを手に取ると蓋を開けて唇を湿らせる程度に飲んだ。蓋を閉めようとしてうまくいかず手間取っているので、僕は高森の手からペットボトルを奪いとるときっちりと蓋を閉めて返した。
「……ありがと」
高森は礼を言って、受け取ったペットボトルをまた枕元に置く。それから僕の顔をじっと見つめて、先ほどと同じようにまたへらりと笑った。
「……何なんだよ」
「織部が見舞いに来てくれたのが嬉しくて」
ぺらぺらとそんなことを口走るのは熱のせいなのだろうか。受け答えは一見しっかりしているが、この状態で思考が正常とは思えない。
「さっき織部がそこに座ったとき、最初夢見てるのかなって思ったんだけど、違った」
僕が思っていたよりもまだ相当に熱が高そうで、あまり長居をせずに辞去するべきだろうと考えていたのだが、そんなふうに言われては立ち去りにくい。取り敢えず迷惑ではなさそうだったことにほっとする。
「……僕が来たことがそんなに嬉しいのかよ」
「うん、嬉しい」
「変なやつだな」
「そう?」
こういうとき誰かが見舞いに来た経験はないのだろうか。中学のころはあまりそういうのに恵まれなかったのだと以前言っていたから、もしかするとそのせいかもしれない。
中学のころの高森のことを、僕はよく知らないのだ。今は、まだ。
「床、じかに座ってたら痛くない? 椅子の上にクッションあるから使ってよ」
そう言って勉強机の椅子を指差す。高森の部屋はカーペットなども敷かれていないので、フローリングが剥きだしだった。
「いや。大丈夫」
「なら、いいんだけど」
「そういえば今日のぶんのノート、コピーしてきた」
ふいに思いだして、僕は脇に置いていた通学鞄を開けるとなかからクリアファイルを取りだした。そこから先ほどコンビニでコピーしてきた束を抜きだす。
「ありがとう。助かるよ」
高森はそう言って笑った。高森に手渡そうとして、ベッドで寝ているのに渡されたところで処理に困るだろうと思い直す。どこかに置いておくべきだろう。どこに置くかを迷い、僕は立ち上がると結局それを勉強机の積み上がった本の上に置いた。
「ここに置いとく」
「うん。ありがとう」
それからまた、元の位置に座り直す。
「織部のノート、見やすいからありがたいな」
「そうか?」
「うん。すごい性格が出てる感じがする」
「高森のノートだって、見やすいだろう」
「織部のほうがちゃんと纏まってるよ」
「……今日は一日ずっと寝てたのか」
「うん。熱もずっと高かったし。朝、織部からのメッセージにも何か返そうと思ったんだけど、ぼーっとしてあんまり頭が働かなくて。ごめん」
「……別に気にしなくていい」
もう少し気の利いたことを送ればよかったと今さらながら思う。そもそも、お大事に、のひと言にわざわざ返信する必要なんてないだろうに。何で高森が謝るんだ。
メッセージのやりとりをするとき、僕はよく自分の都合で会話を切ることが多いのだが、高森はスタンプのひとつであったとしても何か返さないと落ち着かないたちなのかもしれない。だからいつも僕と高森とのやりとりは、たいてい高森のメッセージで終わっている。それがなかった今日は、やはり相当に具合が悪かったのだろう。
今も無理をしているのではないかと思うのだが、高森は楽しそうだし、もっと話をしたそうな雰囲気があった。僕が見舞いに来たことを嬉しいと言ったが、一日じゅうただ寝ていただけであればひどく退屈だったろうから、誰かと話したくもなるのだろう。それならば高森が満足するまで付き合おうと思った。
コンビニ袋のなかのヨーグルトが少しだけ気懸かりだった。見舞いとして持ってきたものの、僕はそれを渡すタイミングを完全に逸していた。少しもてあましはじめている。どうして僕はこんな適当な気持ちでヨーグルトなどを買ってきてしまったのだろう。つくづく、もっとちゃんとした品を用意すればよかったと後悔する。さっきから、そんなことばかりだ。
高森は僕が部屋に持って入ったコンビニ袋に気がついているのかいないか、それについては特に触れてこなかった。僕が自分の用事で購入した品だと思っているのかもしれない。
「学校はどうだった?」
高森は目を細めてそう訊ねてくる。
「つまらなかった」
「そっか。まあ、織部は学校楽しいタイプじゃなさそうだもんな」
間髪入れずに答える僕に、高森はそう言って少し笑った。僕は唇を噛んだ。とても反論したい。けれど会話はそのままするすると流れていってしまう。
「今日、体育あったよね。何やったの」
「……バスケ。四チームに分かれてのリーグ戦。バスケ部員以外は出席番号順でチーム組んだんだ。佐宗と同じチームになったから、勝った」
「そっか、よかったな。やっぱり佐宗はうまいよな、バスケ。おれも佐宗の活躍、ちょっと見たかったな」
「狐先輩はもっとうまかったけどな」
「うん、そうだな」
実力は認めているのに本名を忘れたために、結局あれからも僕はずっと彼を狐先輩と呼んでいた。高森ももうそれに慣れた様子だ。高森自身、ときどき狐先輩と呼ぶ。
「体育、二人組組むようなやつじゃなくてよかったな。ちょっと心配してたんだ」
「うるさいな。よけいなお世話だ」
高森はくつくつと笑った。
本当は僕も相当に内心ひやひやしていたわけだが、それは黙っておく。でもきっと、高森には何もかも見透かされているような気がした。しかしそうだったとしても高森はそれを僕に言わないだろう。
それから僕は何となく流れで、今日学校であったことを逐一高森に報告していった。高森も興味深げにそれを聞き、ときおり口を挟む。購買で買った照り焼きチキンと野菜のサンドイッチがおいしかったと言うと、自分で作ったわけでもないのに高森は得意そうだった。
「そうだろ。けっこういけるんだ、あれ。カツサンドとかのが人気だけどさ」
「鶏肉にかかってたタレがおいしかった。僕も今度から昼の選択肢に入れる」
「それは何よりだな」
一気に話し終えて、僕はふうっと息を吐いた。頭がくらくらする。急にたくさん喋りすぎたせいで酸欠のようになっていた。何しろ僕は今日一日、高森の家に来るまでほとんどひと言も喋っていなかったのだ。自分の唾を飲みこんで、急激に酷使した喉を労った。
何だか、ずいぶんとまったりしてきた。心地のよい雰囲気だった。高森も最初に顔を見たときよりもいくぶんかさっぱりした印象に思う。僕と話をして、多少は気がまぎれたのだろうか。そうであれば、見舞いに来た甲斐もあったというものだ。
「……さっきの、話だけど」
「さっきの?」
会話がやんで、少し静まったそのあいだを縫うように僕は切りだした。高森は不思議そうな顔をして僕を見てくる。どの話のことであるのか、すぐには思い至らないのだろう。
「今日、学校がどうだったかってさっき訊いてきただろ」
僕はゆっくりとそう説明する。高森は小さく頷いた。
「ああ、うん。つまらなかったんだろ?」
それがどうかしたの、と言う。
「今日はつまらなかった。……けど、いつもはそんなつまらなくもない」
先ほどから僕はずっとそれを訂正したかったのだ。確かに僕はいつも楽しんで学校に行っているわけではないのだが、そうかといってつまらないと思っているわけでもなかった。そこだけはどうしても訂正しておきたかった。
「そうなんだ?」
高森は意外そうに目を瞬き、小首を傾げた。
「じゃあ何で今日はつまらなかったの」
予想どおりの質問を返される。
僕はその顔をじっと見つめた。薄緑色の目と視線が合う。少しだけ、心臓がどきどきしている。
「……高森が、」
「うん?」
「高森がいなかったから、つまらなかった」
息を吸い、ひと息に言葉を続けた。
僕の言葉を聞いても、高森は黙ったままだった。黙ったまま、しばらくじっと僕の目を見つめていた。その沈黙は熱で思考が鈍っているせいだけではないだろう。
「……織部、」
やがておもむろに高森が僕の名前を呼んだ。僕は息を呑んで高森を見つめる。
「熱でもあるの」
……何だ、それ。
僕の顔を見る高森は真顔で、本気で僕に熱があるのではないかと心配している様子だった。何だか少し気が抜ける。僕としては、だいぶ思いきった告白のつもりだったのだが。こうしてどきどきしているのがばかみたいだ。
「……熱があるのは高森だろう」
「うん」
そう言えば高森は素直に肯定する。調子が狂い、僕はその勢いでコンビニの袋を右手に持って高森の鼻先にずいっと突きだした。ずっと横に置いたまま、渡すタイミングを逸していた見舞いのヨーグルトだ。
「じゃあ、これでも食べて寝ておけよ」
高森は一瞬面食らったように身を引いた。それからおずおずと受け取ってなかを確かめると、「すりおろし林檎のヨーグルトだ」と呟いた。ぱっと顔を上げて僕を見て、嬉しそうに笑う。
「おれ、これ好き」
「……じゃあ、よかった。本当はもうちょっと恰好のつく見舞いのほうがよかったのかもしれないけど」
「織部がそういうの気にするなんて珍しいな」
「うるさいな」
「でもおれは、こっちのほうがいいよ」
「……そうかよ」
高森のその言葉に少しだけ安堵する。ただ僕に気を遣ってくれただけかもしれないが、嬉しそうにしているので好物であることに違いはないのだろう。
「ありがと、織部」
「……どういたしまして」
高森はそれからすぐにヨーグルトを食べはじめた。長いあいだ常温に置いたままだったので冷蔵庫で冷やしなおしてからのほうがいいのではないかと言ったのだが、高森はすぐに食べるのだと言って譲らなかった。スプーンですくい、ひと口ずつゆっくりと食べていく。おいしい、と笑った。食欲はあるようだ。本人が言うように、本当に熱があるだけなのだろう。
高森が少しずつヨーグルトを食べているのを眺めながら、僕は高森に言いそびれていたことがまだあったことを思いだす。
「高森」
「何?」
名前を呼ぶと、高森はスプーンを片手に持ったままきょとんとした顔で僕を見た。
「早く治して学校来いよ」
ぶっきらぼうにそう言う。
何せ僕は、高森がいないと学校がつまらないのだ。
「うん」
高森は力強く頷く。それから、織部がいないとおれもつまらないからね、と言ってふわりと笑った。
僕は朝起きて身支度をすませてから絶賛朝食を食べている最中で、つまり家のなかにいるのだから家族であれば直接話せばすむ話だった。
父親は今しも家を出る直前で、母親は家事をすませるためにばたばたと忙しそうに家のなかを動きまわっていた。風呂場の掃除を終えたようで、濡れた手をタオルで拭きながら洗面所から出てくる。それから自分の身支度を整えるためにまたばたばたと二階へ上がっていった。
朝の時間は忙しない。
シンクには朝食を終えたあとの食器が重なって置かれていた。食器の後片づけは僕の担当なのだ。ただ僕が家を出るまでにはまだ余裕があった。そのため、慌ただしく家のなかを動きまわる両親を尻目に悠然と朝食を食べていた。
高森からのメッセージを読む。
内容は、熱が出たので今日は学校を休むというものだった。いつも必ずといっていいほど送ってくるスタンプもなく、文章も簡素だった。体調が悪くてそんな気力もないのかもしれない。昨日の放課後僕の家に来たときには特に具合が悪そうには見えなかったが、別れたあとに体調を崩したのだろうか。急に悪寒が走ることもあるだろう。
僕は左手にマーマレードジャムを塗ったトーストを持ち、ジャムがこぼれないように気をつけてひと口ずつ囓りながら、右手を使って「お大事に」とだけ返信した。スタンプはほぼ送らない。そのうちめぼしいやつを購入しようと思いつつ、まだ微妙なキャラクターの無料スタンプしか持っていないのだ。高森の使うスタンプに比べて見劣りする気がして、何となく送るのを控えているうちにどんどん送る機会がなくなっていった。
高森への返信をすませるとスマホを脇に置いて、僕はゆっくりとコーヒーを堪能した。
「それじゃあ行ってくるから、あとよろしくね、真咲」
ばたばたと階段を降りてきた母親にそう声をかけられて、僕はマグカップを手に持ったまま軽く頷く。ひらひらと僕に手を振って母親は出勤していった。ばたん、と大きな音を立てて玄関が閉まる。両親が出払って、急に家のなかが静かになった。
それから僕はトーストを平らげ、コーヒーを飲み干した。皿を下げて、シンクに溜まっていたほかの皿と一緒に洗い物をすませる。ふきんで拭いて食器棚に片づけ、使い終わったふきんも洗って干す。後片づけ終了だ。
忘れ物がないことを確かめてから、僕は通学鞄を持って家を出た。玄関にきちんと鍵をかけることも忘れない。
今日も天気はよさそうだ。陽射しが少し眩しく、目を細める。空を見上げながら、高森は律儀だな、などと考える。もしも僕が突然の体調不良で学校を休んだとしても、たぶん高森に連絡はしない。自分の体調のことで精一杯で、連絡しようとすら思い至らないかもしれない。
それにわざわざ連絡をしてくるようなことでもないんじゃないかと、そのときはそんなふうに思ったのだ。
登校して高森の席が空席なのを一応目で確かめてから、僕は自分の席に着いた。だいたいいつも高森のほうが早く登校している。だからふだんは僕が教室に入るころには高森はもう自分の席に座って、授業の準備をしたりしているのだ。僕はいつも来るのはわりとぎりぎりだった。そんなに早くから教室にいたくない。
僕とは無関係の教室内の喧噪にまぎれながら、鞄から教科書や筆記用具を取りだす。時間割を確認すると、一限目は数学だった。僕は教科書の束のなかから数学の教科書を探す。
SHRを終え、短い休憩を挟んですぐに数学の授業が始まった。今日の欠席は高森だけだった。高森の席は窓際寄りの、少し後ろ側だ。僕は廊下側の最後列なので、少し左に視線をやれば高森の席は確認できる。教室内の様子も見渡せた。
授業を流して聞きながら教室内の様子をちらりと確認すると、机に向かった生徒たちが真剣に板書をしているなか、高森の席だけがぽっかりと空いていた。それをしばらく眺めてから、僕も前に向き直って板書を写し、出題された数学の問題を解いていった。
今日の日付から導きだされた出席番号の生徒が問題を当てられ、数式の答えを解答していく。幸い僕は当たらなかったので、ただ黙々とノートをとってひたすら問題を解いた。
いつもと何ら変わりのない朝だった。
二限目も三限目も、特に何ごともなく過ぎていった。高森の不在は僕にたいした影響を与えなかった。休憩時間に邪魔が入らないぶん、むしろ静かで快適だとさえ思った。
いつもは休憩時間になるたび、僕の席に決まって高森がやってくる。そうして何かと僕に話しかけてくるので僕もしょうがなくそれに付き合うのだが、今日はその高森がいない。
僕は授業の合間の休憩時間を余すところなく読書に充てた。昨日から新しく読みはじめた小説がちょうど面白くなってきたところだった。別に高森が疎ましいわけではないのだが、やはりこうして一人で過ごす時間もいいものだと改めて思う。
読書に集中しはじめると、教室内の喧噪も一気にすっと遠くなる。自分だけの時間が流れる。その空間のなかで、僕は悠々と活字を追った。
何だか久しぶりに開放的な気分だった。たまにはこんな日があっても悪くないなと思った。
僕が一人であることに気がついたのは、昼休みになってからだった。もちろん僕は朝からずっと一人だったわけだが、改めてそれを自覚した。
チャイムが鳴って午前の授業が終わると、教室内はにわかに騒がしくなった。がたがたと机を寄せて弁当を広げはじめたり、人気の商品を求めて購買に駆けていったりと、忙しない。僕は取り敢えず財布とスマホと、それから食後に読むつもりの文庫本を持って教室を出た。廊下を行き交う人の波に混じってゆっくりと購買に向かう。
高森はいない。購買に行くのも一人だし、どこで食べるかを決めるのも一人だ。今日は何を食べようかと相談する相手もいない。
思えば僕は今日、学校でまだひと言も発していなかった。結局午前の授業では指名されることがなかったので、喋る機会は一度もなかった。購買に向かう途中の廊下で楽しげに話しながら歩く佐宗とすれ違ったが、僕から話しかけることはなかったし、もちろん向こうから声をかけてくることもなかった。
佐宗はもう購買に行って昼を購入して戻ってきたところのようだ。いつもどおり自身のグループの男子と一緒だった。おそらく話に夢中になっていて僕には気がついていなかった。そもそも気がついたところで、高森が一緒ならばともかく僕一人相手では喋りにくいだろう。
購買は相変わらず混雑していて、何度も人の波に揉まれて辟易した。ようやく昼を購入してその波を抜けたころには、まだ昼を食べるのはこれからだというのにひどく疲れきっていた。しかしその疲れを共有する相手はいない。自動販売機でお茶を購入し、その場で開けて半分くらい飲んだ。
中庭を覗くと空いているベンチがあったので、今日はそこで昼食をとることにする。購買で買ったサンドイッチの包みを開いた。少し遅れをとったせいでいちばん買いたかったカツサンドはすでに売り切れていた。しょうがなく選んだ、照り焼きチキンと野菜のサンドイッチだった。これは高森がよく食べているのを見るのだが、僕は初めて購入した。何となくチキンよりもカツサンドなどボリュームのあるほうを選んでしまう。おいしかったら、あとで高森に感想を伝えてやろうと考える。
中庭には、いつかも見かけた女生徒のグループがいた。スマホを見せ合いながら楽しそうにお喋りに興じているのも変わらない。僕はそれを尻目に一人でサンドイッチを頬張り、お茶を飲んだ。何だかお茶が少し苦い。
食事を終えると、余った時間は読書に充てた。話す相手もなくひたすら咀嚼するだけだったため、昼休憩の時間はじゅうぶんに余っていた。
高森がいるときであっても、僕はかまわずに読書をしていることがある。そんなとき高森は特に文句も言わず、ただ僕の隣で気儘にスマホをいじっていたりする。そうやって互いに一人の時間を過ごすのだった。
本を読み進めながら、何だか少し肌寒く感じて僕は洟を啜った。天気はいいし、風もそこまで冷たくはないのだが。女生徒のグループは今日も楽しそうに話に花を咲かせている。それが少し耳障りで、読書に集中できない。僕は小さく溜息をついて本を閉じた。それからスマホを取りだしてネットのニュースを読んだりしていたが、何だかそれにもすぐに飽きてしまう。結局、中庭を行き交う生徒や木にとまった小鳥をぼーっと眺めて残りの時間をやりすごした。
誰かが隣にいる一人と、完全に一人であることはこんなにも違うものだったろうか。調子が狂う。
午後に体育の授業があることをすっかり失念していた。昼に食べたサンドイッチはだいぶこなれてきたところで腹痛などの心配はなかったのだが、問題は別のところにあった。
今日の授業の内容は何だろうか。ジャージに着替えて体育館に向かいながら、僕は内心ハラハラとしていた。二人組を組め、などと言われたら面倒だ。
いつもは高森がいるので二人組を組まされてもあぶれることはない。三人以上で組めと言われたら、高森が誰かに声をかけて誘う。僕はいつも高森に任せきりで、ただそこにいるだけだった。
幸いにも今日の授業の内容はバスケの対抗戦だった。四チームをつくってのリーグ戦だったが、メンバーは出席番号順に機械的に振り分けられた。バスケ部員だけはばらけるように先生が最初に振り分けた。僕は佐宗と同じ組だった。
佐宗は体験入部のときに見たのと同じ華麗なシュートを何本も決め、結果的に試合は僕たちのチームが勝った。佐宗がいるんじゃなあ、と相手チームの誰かが苦々しい声で言うのがどこからか聞こえた。
シュートを決めるたびに同じチームの仲のよいクラスメイトとハイタッチを交わす佐宗の様子を僕は遠目からぼんやり見ていた。試合中は一応ボールを追って体育館の向こうとこちらを行ったり来たりした。ときどき僕にもボールがまわってきたが、目についた誰かにすぐにパスをした。一秒でも早く手放してしまいたかった。ドリブルはできるだけ避けた。そうしてただ時間が過ぎるのを息をひそめてひっそりと待った。
午後の残りの授業も僕はそうやって黙々とこなし、休憩時間になればまた読書をした。その繰り返しだった。
この段階になって、僕はおおいに戸惑っていた。
高森と関わるようになる前はずっと一人だったはずなのに、僕はもう、そのとき自分がどうやって過ごしていたのかがまるでわからなくなっている。
高森の不在は、僕に多大な影響を及ぼしていた。
結局僕は今日、学校ではひと言も喋らないまま終えた。ほとんど一人でひっそりと過ごしていたのでエネルギーもあまり消費していないはずなのだが、なぜだかいつもよりもどっと疲れていた。
家に着いたら少し仮眠でもしようか。瞼が重い。
駅の改札を出て家に向かって歩きながら、スマホを取りだす。ネットのニュースの見出しを眺めたが、興味の惹かれる記事はあまりなかった。ニュース記事を閉じてメッセージアプリを起動する。新着はない。画面を操作して、高森とのやりとり画面を出す。今朝、僕が送ったメッセージで終わっている。既読はついているので、読んだことは読んだのだろう。それから画面をスワイプして過去のやりとりを読み返した。僕の簡素な返信に対して、高森は長めのメッセージだったり、スタンプを送ってきたりと、ていねいだ。
……具合はどうか、訊ねてみようか。
僕はそう思い立って、家に向かって歩きながら高森に体調を訊ねる文章を打ち込んでいたのだが、途中で思い直してすべて消去した。いっそ、直接様子を見に行けばいいのではないだろうか。僕が見舞いに行っても、不自然ではないだろう。
僕は立ち止まると、自宅へ向かっていた帰路を引き返して足早に駅に戻った。それから高森のマンションがある反対側へと抜け、左に曲がる。
手ぶらで行くのは気が引けるので、見舞いの品を見繕うために途中コンビニに寄った。本当はもう少しちゃんとした店で購うべきなのかもしれないが、相手は高森だしそこまで気を遣わなくてもいいだろうと言い聞かせる。駅前のモールであればもう少し気の利いた品があったかもしれないが、なにぶん気づくのが遅かった。もうずいぶん前に通りすぎていた。わざわざまた戻るのも手間だ。
ピロンピロンという馴染みの音楽とともに入店する。この前、高森がシャーペンの芯を買ったのと同じ種類のコンビニだ。このへんでいちばん多く見るコンビニだった。僕の家側にも多いが、こちら側にも多いようだ。
入り口を入ってすぐ脇のところに設置されたコピー機を見て、ふと今日のぶんのノートをコピーして高森に渡したほうがいいのではないかと思い至った。それで僕は鞄からノートを取りだすと、一教科ずつコピーをしていった。吐きだされた紙を手に取り、端の文字が切れずにきちんとコピーされていることを確かめてから、いつも持ち歩いているクリアファイルに入れた。クリアファイルは、学校から配布された案内の書類や宿題のプリントを入れておくのによく使っている。
それがすむと、本来の目的であったスイーツの並んだコーナーへと移動する。このあいだ高森と一緒に食べた抹茶のフェアはもう終わっていた。今は次のフェアの準備期間中なのか、特に何のポップも掲げられていない。並んでいる商品を眺めながら、何を買うべきかを迷う。
ドーナツやクッキーなどは口内の水分も取られるし、特にクッキーはぼろぼろとした破片が喉に痞えて飲みこみにくいだろうから論外だ。具合が悪いのだから、消化のよいものを選ばなければならない。やはりゼリーかプリンが一般的だろうか。ヨーグルトでもいいかもしれない。
そこで、すりおろし林檎のヨーグルトという品が目に留まった。緩めのヨーグルトのなかにすりおろした林檎と、アクセントに小さくカットされた固形の林檎が入っているようだ。この組み合わせはスイーツとしても病床の食べ物としても鉄板だろうと思い、僕はそれを手に取ってレジに向かった。
高森はしょっちゅう僕の家に来ているが、僕が高森の家に行くのは今日が初めてだった。放課後に過ごすのはもう僕の家であることが当たり前になっていたし、僕もわざわざ高森の家に行きたいとは思わなかった。他人の家はテリトリー外だ。勝手知ったる自分の家がいい。
駅からしばらくはいろいろな店が連なって賑々しかった。飲食店から服飾店からクリニックまで、種類も豊富に揃っている。生活するうえで不自由はしなさそうだ。駅のこちら側にはあまり用事もなく来ることがないので、よく知らなかった。
それからさらに五分ほど歩いていると少しずつマンションが増えてきて、だんだんと住宅街の様相を呈してきた。高森の住むマンションは駅から十五分くらいの場所だと前に言っていたから、たぶんもう少しだろう。この辺りに林立したどれかがそれのはずだった。煉瓦色の外壁をしたマンションを探す。
やがてそれらしいマンションを発見して、僕は正面エントランスに立つ。マンション名を確認して記憶と照合する。外観も以前高森に見せてもらった写真と合致している。このマンションで間違いないだろう。
マンションはオートロックで、自動ドア脇に設置されたインターフォンに部屋番号を入力して呼び出す必要があった。高森の部屋は六階だ。僕は高森から聞いていた部屋番号を思いだしながら、頭のなかで反芻して呼び出しボタンを押した。
すぐに呼び出した部屋に繋がって、「はい」という女性の声が応答した。おそらく高森の母親だろう。僕が部屋番号を押し間違えてさえいなければ。
「織部と言います。た……、総一郎くんの、クラスメイトの」
僕がそう名乗ってからしばらくの間があった。その沈黙がとたんに不安になる。あんなに確かめたのに部屋番号が間違っていたのだろうか。それとも、僕のことを知らずに怪しんでいるのかもしれない。
「おりべ……、ああ、真咲くん!」
やがてインターフォンの向こうから嬉しそうな声が響いてきた。どうやら部屋番号は間違っていなかったらしい。加えて僕の下の名前まで把握しているとは驚きだ。高森が僕のことをどうやって伝えているのかがにわかに気になりはじめる。
どうぞ、という声とともにオートロックが解除される。僕はいそいそとエレベータに乗り込むと、六階のボタンを押した。
高森、と書かれた表札が出ていた。マンションでは表札を出していないところも多いように思うが、高森の家は違うようだ。実際、左右のドアに掲げられた部屋番号の下の表札は真っ白だった。
先ほどのやりとりでここが高森の家であることは疑いようがなかったが、それでも僕は部屋番号と表札を何度も読み返してからドア脇のインターフォンを押した。少し緊張している。
ドア越しに、はあい、という声が響いた。エントランスのインターフォンで聞いた声と同じだった。しばらくそのまま待っていると、ドアの向こうからぱたぱたという足音が近づいてくる。ガチャリ、と開錠する音が聞こえ、次いでドアが大きく開いた。
薄緑色の目と目が合った。
僕を出迎えた高森の母親は、髪の色も目の色もほとんど高森と同じだった。特に目の色はとてもよく似ていた。僕はドアが開いてその薄緑色の目と視線が合った瞬間、高森本人かと錯覚したくらいだ。長い髪の毛をサイドに寄せて緩くひとつに結わいて、肩に流している。ふわりとしたロングスカートを穿いていた。僕の母親とは雰囲気がまったく異なる。
「こんにちは。真咲くん、よね?」
ぼんやりと立ち尽くしていると、高森の母親からそう声をかけられる。僕は慌てて挨拶を返し、ぺこりと会釈をした。右手に持った、ヨーグルトの入ったコンビニ袋ががさりと音を立てて揺れた。
高森の母親はにこりと微笑んで僕を見た。
「わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」
「……いえ、」
どうぞ上がって、と促されて僕は靴を脱ぐ。玄関には高森の母親のものだろうヒールのある靴のほかに、高森のものだろう靴が並んでいた。学校で履いている黒のローファーのほか、休日に履いているらしい運動靴。サイズが大きめの革靴はおそらく父親のものなのだろう。
お邪魔します、と言って玄関を上がった。出されたスリッパを履く。
てっきり高森の部屋に案内されるのだとばかり思っていたのだが、最初に通されたのはリビングだった。対面式のシステムキッチンとダイニングテーブルがあり、その向かい側にソファとテレビが置かれている。壁際に置かれた棚の上には小物や花がきれいに飾られていた。
「今、お茶淹れるね。どうぞ座って」
高森の母親がそう言って僕に椅子を勧めてくる。
「いえ、おかまいなく」
僕は慌てて固辞したが、そのあいだにも高森の母親はポットからお湯を注いでお茶の用意をしている。淹れたお茶をテーブルに置き、もう一度促されて僕はおとなしく椅子に座った。通学鞄は椅子の横の床に置かせてもらう。コンビニの袋は通学鞄の上に載せた。淹れたてのお茶をひと口飲む。
高森の母親も僕の正面に座った。テーブルの上で腕を組み、お茶を飲む僕の様子をにこにことした笑みで眺めている。お茶は僕のぶんしか用意されていない。あえてリビングに通してこんなふうに正面の椅子に座ったのは、僕から学校での高森の様子を訊きたいからなのではないかと、何となくそんなふうに思った。
ところが予想に反して、高森の母親は僕に何の質問もしてこなかった。ただ薄緑色の目を細めてにこにこと僕の顔を見つめているだけだ。少しそわそわする。何も訊かれていないのに僕から高森の話をはじめるのも何となく不自然な気がして、僕はひたすらちびちびとお茶を飲んだ。この場をどうやりすごせばいいのかがわからない。
「真咲くん」
やがて、そう名前を呼ばれる。僕は湯飲みを置くと顔を上げて高森の母親を見た。ごくりと唾を呑む。
「真咲くん、総一郎と仲よくしてくれてありがとう」
高森の母親は、にっこりと笑んだままそう言った。何を質問されるだろうかと身構えていた僕は、予想外のその言葉に面食らう。
高森の母親はふっと瞼を伏せた。高森と同じように、濃く長い睫毛が目のまわりを縁取っている。それから数回瞬きをして、ぱっと顔を上げるとまた僕の目を見つめた。
「総一郎ね、中学のころに比べてすごく明るくなったの。真咲くんのおかげだと思う。だから、ありがとう」
「いえ、僕は何も」
慌てて否定する。
高森の母親はそれを謙遜と捉えたようだったが、僕は本当に何もしていない。自分で思った以上に何もしていなかった。僕は今日、それをまざまざと自覚したところなのだ。
僕は口をつぐんだ。高森の母親の勘違いを正すべきなのか迷ったし、それ以上に、このままここでこうして話を続けていていいものなのかがわからなかった。
僕がこのまま何も言わずに聞いていれば、高森の母親は中学のころの高森の話もはじめるかもしれない。でも、それを僕は聞いてもいいものなのだろうか。これ以上、本人のいないところで承諾もなしに高森の事情に踏み込んでいいものなのかどうか、戸惑った。
僕の逡巡が伝わったのか、高森の母親は小さく笑んで話題を変えた。
「総一郎の部屋、ここを出て左の、玄関に近いほうだから」
椅子から立ち上がり、リビングのドアを開けて指差す。
「もしかしたら今寝てるかもしれないけど、たぶんそろそろ起きると思うの。だから遠慮しないで入って大丈夫だと思う」
僕を振り返り、高森と同じ色の瞳を細めて言う。僕はそれに思わず魅入る。きれいな色だと、改めて思った。
「ごゆっくりね」
「あ、はい。ありがとうございます」
僕は残りのお茶を飲み干すと、はじかれたように立ち上がった。床に置いていた通学鞄と、コンビニの袋を手に持つ。
「お茶、ご馳走さまでした」
そう言うと高森の母親はにこりと笑った。おっとりした印象の人だなと思う。
僕は手に持ったコンビニの袋に視線をやって、少し迷った。見舞いの品だと言って今ここで高森の母親に託すべきだろうか。ただデパートの地下で買ったような箱入りの上等な品であればまだしも、たかだかコンビニで買ったヨーグルトだ。それも剥きだしのままコンビニ袋に入っている。恰好がつかない。今さらながら、もう少し気の利いた見舞いの品を用意するべきだったと後悔する。
結局僕はコンビニの袋も持って、廊下に出た。渡すなら直接高森に渡したほうがよさそうだ。ぱたん、と高森の母親の手によってリビングのドアが閉められた。
僕はぽつんと廊下に残される。
先ほど高森の母親から教えられたとおり、玄関に近いほうの部屋の前に立つ。茶色い木目のごくふつうのドアで、ドアの外に目印になるようなプレートなどはかかっていない。
軽くノックをしてみたが、返事はなかった。寝ているのかもしれない。迷ったが、リビングに引き返すわけにもかといってこのままずっとドアの前に立ち尽くしているわけもにいかず、僕はそのままゆっくりとドアを開けるとそろりとなかへ入った。
入ってすぐ、ベッドが目に飛び込んできた。布団が盛り上がっている。規則正しい静かな寝息も聞こえる。やはり寝ていたようだ。
部屋のなかをちらりと見渡す。あまり物はない。壁にもポスターのようなものはいっさい貼られておらず、壁紙の白さが際立っていた。
唯一、ベッドの反対側にある勉強机の上に本が積み上がっているくらいだ。参考書や漫画、小説とごちゃ混ぜだった。ぱっと見、漫画が少し多いだろうか。僕の部屋には大きな本棚があるが、高森の部屋にそれらしいものはない。ふだんからあまり本を読む習慣はないのだろう。
私服がしまってあるのだろう小さめのチェストと、アルミ製のラックにゲームやら雑誌やらが少し入っている。週刊漫画や、ゲームの攻略情報などの雑誌だ。制服は部屋のなかには見当たらないので、おそらく壁際のウォークインクローゼットのなかだろう。
いつぞやの仕返しにエロい本でもないか探してやろうかとちらりと考えもしたが、病人であることを考慮して自制しておくべきだろうと思い直す。
高森はよく寝ているように思ったが、僕がそろそろとベッドの傍に寄って床に座るとうっすりと目が開いた。薄緑色の瞳がゆらゆらと揺らいで僕のほうを見る。焦点が定まるのに少し時間がかかった。夢うつつなのかもしれない。
「……織部?」
細い息とともに僕の名前を呼んだ。
それからようやく意識がはっきりしてきたようで、その視線がしっかりと僕を捉えた。
「……よう、」
小さく声をかけてみる。高森は意外そうに何度か瞬きをした。瞳は表面に水を張って潤んでいる。まだ熱が高そうだ。汗ばんでいて、顔が全体的に赤い。亜麻色の髪が少し汗を含んで濡れ、額の上で縺れていた。その下には冷却ジェルシートが貼られている。
無理しなくていいと言ったが、高森はのろのろとベッドの上に上体を起こした。動作は緩慢で、熱のせいでいろいろな感覚が鈍くなっているようだ。少しふらついたのを支えると、熱っぽい感覚が手のひらを通して伝わってきた。想像していたよりもだいぶ熱い。
「熱は何度あるんだよ」
びっくりして、思わず訊ねた。
「……熱、」
高森は僕の質問を噛みくだくのに少し時間を要した。小さく乾いた声で僕の言葉を反芻する。熱のせいで思考がうまく働かないのだろう。
少し前屈みになって、ベッドの上に放ってあったカーディガンをずるずるとたぐり寄せると袖を通した。汗を掻いているので、そのままでは体が冷えるのかもしれない。
しばらく前方を見つめてぼうっとしている。瞬きというにはゆっくりとした動作で瞼を閉じ、それから開いた。僕は高森の横顔を眺めながらじっと待っていた。高森はそれからようやく僕のほうを向くと、一音ずつ確かめるように喋りはじめた。
「今朝測ったときは、たしか三十九度近くあったかな」
「……ずいぶん高いな」
「今は少し、下がったとは思うけど。昔から高熱が出やすいんだ」
「じゃあまだ寝てろよ」
起こしておいて僕が言う言葉でもないかもしれないが。
「大丈夫だよ。熱がある以外に体調は悪くないから」
「その熱が高いのが問題なんだろう」
「でも、せっかく織部が来てくれたんだし。……まさか見舞いにきてくれるとは思わなかったな」
へらり、と笑う。
それから、ちょっとごめん、と言ってベッドの枕元に置いてあった水のペットボトルを手に取ると蓋を開けて唇を湿らせる程度に飲んだ。蓋を閉めようとしてうまくいかず手間取っているので、僕は高森の手からペットボトルを奪いとるときっちりと蓋を閉めて返した。
「……ありがと」
高森は礼を言って、受け取ったペットボトルをまた枕元に置く。それから僕の顔をじっと見つめて、先ほどと同じようにまたへらりと笑った。
「……何なんだよ」
「織部が見舞いに来てくれたのが嬉しくて」
ぺらぺらとそんなことを口走るのは熱のせいなのだろうか。受け答えは一見しっかりしているが、この状態で思考が正常とは思えない。
「さっき織部がそこに座ったとき、最初夢見てるのかなって思ったんだけど、違った」
僕が思っていたよりもまだ相当に熱が高そうで、あまり長居をせずに辞去するべきだろうと考えていたのだが、そんなふうに言われては立ち去りにくい。取り敢えず迷惑ではなさそうだったことにほっとする。
「……僕が来たことがそんなに嬉しいのかよ」
「うん、嬉しい」
「変なやつだな」
「そう?」
こういうとき誰かが見舞いに来た経験はないのだろうか。中学のころはあまりそういうのに恵まれなかったのだと以前言っていたから、もしかするとそのせいかもしれない。
中学のころの高森のことを、僕はよく知らないのだ。今は、まだ。
「床、じかに座ってたら痛くない? 椅子の上にクッションあるから使ってよ」
そう言って勉強机の椅子を指差す。高森の部屋はカーペットなども敷かれていないので、フローリングが剥きだしだった。
「いや。大丈夫」
「なら、いいんだけど」
「そういえば今日のぶんのノート、コピーしてきた」
ふいに思いだして、僕は脇に置いていた通学鞄を開けるとなかからクリアファイルを取りだした。そこから先ほどコンビニでコピーしてきた束を抜きだす。
「ありがとう。助かるよ」
高森はそう言って笑った。高森に手渡そうとして、ベッドで寝ているのに渡されたところで処理に困るだろうと思い直す。どこかに置いておくべきだろう。どこに置くかを迷い、僕は立ち上がると結局それを勉強机の積み上がった本の上に置いた。
「ここに置いとく」
「うん。ありがとう」
それからまた、元の位置に座り直す。
「織部のノート、見やすいからありがたいな」
「そうか?」
「うん。すごい性格が出てる感じがする」
「高森のノートだって、見やすいだろう」
「織部のほうがちゃんと纏まってるよ」
「……今日は一日ずっと寝てたのか」
「うん。熱もずっと高かったし。朝、織部からのメッセージにも何か返そうと思ったんだけど、ぼーっとしてあんまり頭が働かなくて。ごめん」
「……別に気にしなくていい」
もう少し気の利いたことを送ればよかったと今さらながら思う。そもそも、お大事に、のひと言にわざわざ返信する必要なんてないだろうに。何で高森が謝るんだ。
メッセージのやりとりをするとき、僕はよく自分の都合で会話を切ることが多いのだが、高森はスタンプのひとつであったとしても何か返さないと落ち着かないたちなのかもしれない。だからいつも僕と高森とのやりとりは、たいてい高森のメッセージで終わっている。それがなかった今日は、やはり相当に具合が悪かったのだろう。
今も無理をしているのではないかと思うのだが、高森は楽しそうだし、もっと話をしたそうな雰囲気があった。僕が見舞いに来たことを嬉しいと言ったが、一日じゅうただ寝ていただけであればひどく退屈だったろうから、誰かと話したくもなるのだろう。それならば高森が満足するまで付き合おうと思った。
コンビニ袋のなかのヨーグルトが少しだけ気懸かりだった。見舞いとして持ってきたものの、僕はそれを渡すタイミングを完全に逸していた。少しもてあましはじめている。どうして僕はこんな適当な気持ちでヨーグルトなどを買ってきてしまったのだろう。つくづく、もっとちゃんとした品を用意すればよかったと後悔する。さっきから、そんなことばかりだ。
高森は僕が部屋に持って入ったコンビニ袋に気がついているのかいないか、それについては特に触れてこなかった。僕が自分の用事で購入した品だと思っているのかもしれない。
「学校はどうだった?」
高森は目を細めてそう訊ねてくる。
「つまらなかった」
「そっか。まあ、織部は学校楽しいタイプじゃなさそうだもんな」
間髪入れずに答える僕に、高森はそう言って少し笑った。僕は唇を噛んだ。とても反論したい。けれど会話はそのままするすると流れていってしまう。
「今日、体育あったよね。何やったの」
「……バスケ。四チームに分かれてのリーグ戦。バスケ部員以外は出席番号順でチーム組んだんだ。佐宗と同じチームになったから、勝った」
「そっか、よかったな。やっぱり佐宗はうまいよな、バスケ。おれも佐宗の活躍、ちょっと見たかったな」
「狐先輩はもっとうまかったけどな」
「うん、そうだな」
実力は認めているのに本名を忘れたために、結局あれからも僕はずっと彼を狐先輩と呼んでいた。高森ももうそれに慣れた様子だ。高森自身、ときどき狐先輩と呼ぶ。
「体育、二人組組むようなやつじゃなくてよかったな。ちょっと心配してたんだ」
「うるさいな。よけいなお世話だ」
高森はくつくつと笑った。
本当は僕も相当に内心ひやひやしていたわけだが、それは黙っておく。でもきっと、高森には何もかも見透かされているような気がした。しかしそうだったとしても高森はそれを僕に言わないだろう。
それから僕は何となく流れで、今日学校であったことを逐一高森に報告していった。高森も興味深げにそれを聞き、ときおり口を挟む。購買で買った照り焼きチキンと野菜のサンドイッチがおいしかったと言うと、自分で作ったわけでもないのに高森は得意そうだった。
「そうだろ。けっこういけるんだ、あれ。カツサンドとかのが人気だけどさ」
「鶏肉にかかってたタレがおいしかった。僕も今度から昼の選択肢に入れる」
「それは何よりだな」
一気に話し終えて、僕はふうっと息を吐いた。頭がくらくらする。急にたくさん喋りすぎたせいで酸欠のようになっていた。何しろ僕は今日一日、高森の家に来るまでほとんどひと言も喋っていなかったのだ。自分の唾を飲みこんで、急激に酷使した喉を労った。
何だか、ずいぶんとまったりしてきた。心地のよい雰囲気だった。高森も最初に顔を見たときよりもいくぶんかさっぱりした印象に思う。僕と話をして、多少は気がまぎれたのだろうか。そうであれば、見舞いに来た甲斐もあったというものだ。
「……さっきの、話だけど」
「さっきの?」
会話がやんで、少し静まったそのあいだを縫うように僕は切りだした。高森は不思議そうな顔をして僕を見てくる。どの話のことであるのか、すぐには思い至らないのだろう。
「今日、学校がどうだったかってさっき訊いてきただろ」
僕はゆっくりとそう説明する。高森は小さく頷いた。
「ああ、うん。つまらなかったんだろ?」
それがどうかしたの、と言う。
「今日はつまらなかった。……けど、いつもはそんなつまらなくもない」
先ほどから僕はずっとそれを訂正したかったのだ。確かに僕はいつも楽しんで学校に行っているわけではないのだが、そうかといってつまらないと思っているわけでもなかった。そこだけはどうしても訂正しておきたかった。
「そうなんだ?」
高森は意外そうに目を瞬き、小首を傾げた。
「じゃあ何で今日はつまらなかったの」
予想どおりの質問を返される。
僕はその顔をじっと見つめた。薄緑色の目と視線が合う。少しだけ、心臓がどきどきしている。
「……高森が、」
「うん?」
「高森がいなかったから、つまらなかった」
息を吸い、ひと息に言葉を続けた。
僕の言葉を聞いても、高森は黙ったままだった。黙ったまま、しばらくじっと僕の目を見つめていた。その沈黙は熱で思考が鈍っているせいだけではないだろう。
「……織部、」
やがておもむろに高森が僕の名前を呼んだ。僕は息を呑んで高森を見つめる。
「熱でもあるの」
……何だ、それ。
僕の顔を見る高森は真顔で、本気で僕に熱があるのではないかと心配している様子だった。何だか少し気が抜ける。僕としては、だいぶ思いきった告白のつもりだったのだが。こうしてどきどきしているのがばかみたいだ。
「……熱があるのは高森だろう」
「うん」
そう言えば高森は素直に肯定する。調子が狂い、僕はその勢いでコンビニの袋を右手に持って高森の鼻先にずいっと突きだした。ずっと横に置いたまま、渡すタイミングを逸していた見舞いのヨーグルトだ。
「じゃあ、これでも食べて寝ておけよ」
高森は一瞬面食らったように身を引いた。それからおずおずと受け取ってなかを確かめると、「すりおろし林檎のヨーグルトだ」と呟いた。ぱっと顔を上げて僕を見て、嬉しそうに笑う。
「おれ、これ好き」
「……じゃあ、よかった。本当はもうちょっと恰好のつく見舞いのほうがよかったのかもしれないけど」
「織部がそういうの気にするなんて珍しいな」
「うるさいな」
「でもおれは、こっちのほうがいいよ」
「……そうかよ」
高森のその言葉に少しだけ安堵する。ただ僕に気を遣ってくれただけかもしれないが、嬉しそうにしているので好物であることに違いはないのだろう。
「ありがと、織部」
「……どういたしまして」
高森はそれからすぐにヨーグルトを食べはじめた。長いあいだ常温に置いたままだったので冷蔵庫で冷やしなおしてからのほうがいいのではないかと言ったのだが、高森はすぐに食べるのだと言って譲らなかった。スプーンですくい、ひと口ずつゆっくりと食べていく。おいしい、と笑った。食欲はあるようだ。本人が言うように、本当に熱があるだけなのだろう。
高森が少しずつヨーグルトを食べているのを眺めながら、僕は高森に言いそびれていたことがまだあったことを思いだす。
「高森」
「何?」
名前を呼ぶと、高森はスプーンを片手に持ったままきょとんとした顔で僕を見た。
「早く治して学校来いよ」
ぶっきらぼうにそう言う。
何せ僕は、高森がいないと学校がつまらないのだ。
「うん」
高森は力強く頷く。それから、織部がいないとおれもつまらないからね、と言ってふわりと笑った。