スイーツが並べられた一角に立ち、陳列された商品を眺めながら僕は先ほどからずっと悩んでいた。抹茶のシフォンケーキと宇治抹茶どら焼き、どちらを買うべきだろうか。実に悩ましい問題だ。
放課後、僕の家に向かっている途中で、コンビニに寄っていいかと高森が切りだしたのだった。
「シャーペンの芯を買いたいんだけど」
今日の授業中に最後の一本を使い果たし、それから予備がないことに気がついたらしい。
あとでもかまわないが、できるなら忘れないうちに買ってしまいたいのだという。コンビニは帰路に何軒かあるので、ついでだと思えば手間でもないしべつだん断る理由もない。
「別にいいけど」
僕は承諾し、そのときいちばん手近にあったコンビニに入った。高森が話を切りだしたちょうどおりよく、コンビニが見えてきたところだったのだ。まあ、高森もコンビニの看板を見てシャーペンの芯を買わなければいけなかったことを思いだしたのだろう。
自動ドアが開き、ピロンピロンとよく馴染みのある音楽が流れてくる。それに被せるように、店員のいらっしゃいませー、という溌剌とした声が上がった。レジにいるのは恰幅のいい女性だった。
高森はまっすぐに文房具の置かれたコーナーへと歩いていった。僕はその後ろ姿を見送って、高森とは別の方向に歩く。何も買うところまでぴったりついていく必要もないだろう。高森が用事をすませるまでのあいだ、少し店内をぶらつくことにした。
ただ僕は特に買うものはない。シャーペンの芯はまだストックがある。消しゴムもあるし、ノートもある。ほかに切れそうな筆記用具も思い当たらない。
そもそも僕は自分の持ち物の状態は常に把握しているので、ストックを切らしたことはないのだ。予備の残りが少なくなってくると落ち着かなくなるたちだった。
雑誌棚から週刊の漫画雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくって読んだ。ひととおり目当てのものを読み終えてしまうと、今度はスイーツの並んだコーナーへと向かった。何か新作が出ているかもしれないと思いついたのだ。
そこで抹茶のシフォンケーキと宇治抹茶どら焼きを見つけたのだった。今の時期はちょうど抹茶を使ったスイーツが展開されているところだった。抹茶は好きだ。
「何かお菓子買うの?」
そのとき背後からいきなり声をかけられて、僕は驚いて思いきりびくりと肩を震わせた。高森はそれを見て、ごめん、と小さく謝った。僕が睨みつけるともう一度、え、ごめん、と言う。
もうとっくにレジをすませたものだとばかり思っていたのに、手にはまだ会計前のシャーペンの芯を持ったままだった。目当てのものがあったのに、レジにも行かずに何をちんたらしているんだ。
「……急に話しかけてくるなよ。しかも背後から」
「すごく真剣そうだったから、何してるのか気になって」
「真剣にお菓子選んでて悪いかよ」
「別に悪いとは言ってないだろ。……それで、お菓子買うの?」
「買うけど。あとで食べようと思って見てたからな」
「へえ。じゃあおれも買おうかな」
あとでというのが具体的にいつであるのかには言及していないのに、高森はもう僕と一緒に食べる気でいるらしい。あとで、は勉強の合間のつもりでいたので間違ってはいないのだが、何となく面白くない。
「高森は、何でまだ会計すませてないんだよ。シャーペンの芯はあったんだろう」
そう言って高森の手元を指差す。
「あったけど、ほかにも何か買うものがあるかもしれないと思っていろいろ見てたんだ。今、抹茶のフェアをやってるんだな。抹茶は好きだな」
意識はもう完全にスイーツに向いている。コーナーには抹茶特集のポップも掲げられていた。高森はそれを見て、どんな商品があるのかを確かめている。シフォンケーキやどら焼きのほかに、ミニパフェやババロアなどもあった。たくさんあって目移りしちゃうな、と笑って僕に言う。
それから僕が両手に持っているシフォンケーキとどら焼きに視線を向けた。
「織部はそれ、どっちにするか迷ってんの?」
「別に、もう決めた」
僕はそう言って手に持っていたシフォンケーキをさっと棚に戻した。高森を置いて、宇治抹茶どら焼きを持ってレジに向かう。高森は少し慌てた様子で、おれも選ぶからちょっと待ってて、と僕の背中に声をかけてくる。僕はそれには返事をしなかった。
レジは空いていた。お客は僕たち以外にも数人いたが、まだ弁当などを選んでいる様子なのでしばらくかかるだろう。レジの恰幅のいい女性と目が合い、僕は女性の立つレジに向かった。持っていた宇治抹茶どら焼きをレジの台の上に置く。レジ袋の有無を訊ねられていらないと答えた。財布から小銭を出して代金を払うと、購入した宇治抹茶どら焼きを通学鞄に放り込む。
それから雑誌棚に戻ると、今度は先ほどとは別の漫画雑誌を手に取った。ぱらぱらとめくる。あまり読んでいない雑誌のため知っている漫画が少ない。僕は巻末の作者コメントが掲載されたページを参考に、興味のありそうなものを選んで読んだ。
ちらりとレジの様子を窺ったが、今会計をしているのは弁当を選び終えたらしいサラリーマン風の男性で、高森はまだのようだ。
二冊目の漫画雑誌もあらかた読み終えた僕は、最後には週刊誌の下世話なゴシップ記事などを読んでいた。某清純派女優と人気絶頂の若手俳優の密会現場を激写した何とかかんとか。煽り文句と一緒に、信憑性があるのかないのかわからない画像の粗い写真が載っていた。とてもどうでもいい。
「お待たせ、織部」
やがてようやく高森が会計を終えて、僕に声をかけてくる。シャーペンの芯を買うために少し寄るだけだったはずが、予想外にずいぶんと長いことコンビニにとどまることになってしまった。
高森に返事をして下世話なゴシップ記事の載った週刊誌を棚に戻しながら、こいつふだんの買い物とかも遅いんだろうな、と思う。
高森が水槽の傍でゆらゆらと振った手に反応して、エンゼルフィッシュがゆっくりと体をこちら側に向けた。高森は相変わらずそれを嬉しそうに眺めている。エンゼルフィッシュは今日も異常なく、至って元気そうだ。
「餌、あげてもいい?」
高森は僕のほうを振り返りながらそう訊ねてくる。僕は答える代わりに、水槽の横に置いていたフードの容器を取って高森に渡した。
高森が容器の蓋に少量のフードを取り、水槽の上から落とす。エンゼルフィッシュは相変わらず悠然と泳いでいたが、ゆらゆらと落ちてきたフードが顔面に触れるとそれをぱくりと口にした。動作は緩慢で、自ら餌を探そうというそぶりはない。ただ泳いでいるときに自分の傍に降ってきた餌をもごもごと食べるだけだ。
高森はしばらく、エンゼルフィッシュがそうやってフードを食べるところを楽しそうに観察していた。
「やっぱり一匹だと水槽が大きくてちょっと寂しく感じるな。悠々と泳げていいのかもしれないけど」
水槽のほうを眺めたままそう言う。
「まあそのうちもう一匹くらいは増やすつもりではいるけど」
「やっぱり、同じエンゼルフィッシュ?」
「それでもいいけど、混泳できる別の種類のやつもありかなとは思ってる」
「ネオンテトラは買わないの」
「……買わない。わざと言ってるだろう」
ぶすっとした声で答えると、高森は少し笑ってこちらを見た。
「もしもう一匹増やすときは言ってよ。おれも一緒に見に行きたいから」
「わかってるよ」
「一人で勝手に行かないでよ?」
「行かない。わかってるってば」
僕と高森はもう何度かこの話題を繰り返している。そのたびに高森には念を押されていた。これで僕が一人で勝手に買いに行ったら相当にあとがうるさそうだ。ただ当面はまだしばらくこのままのつもりだった。エンゼルフィッシュはわりと気性が荒い魚なので、混泳には少し慎重になっていた。
僕は水槽の前にいる高森の傍から離れると、キッチンに向かった。冷蔵庫を開けてなかに入っていた林檎ジュースのペットボトルを取りだす。それから食器棚からグラスをふたつ出して注いだ。
冷蔵庫の横の戸棚を覗くと、ポテトチップスやら煎餅やらクッキーやら、あらゆる種類のお菓子がいっぱいに入っていた。もともと嗜好品は母親が好きでよく買ってきているのだが、高森がしょっちゅう遊びにきていることを認識してからその量が一段と増えた。
林檎ジュースも、僕たち二人のために母親が用意しておいたものだ。
「あとでさっき買ってきたやつ食べるだろうけど、どうする。何か少しつまめるもの出しておくか?」
高森に向かってそう声をかける。高森は水槽から僕に視線を向けた。ふるふると首を横に振る。
「大丈夫」
そう言われていったんはそのまま戸棚を閉めたが、思い直して結局ポテトチップスの袋を取ると中身を皿にあけ、林檎ジュースを注いだグラスと一緒にテーブルに置いた。
「大丈夫って言ったのに」
水槽の傍を離れてこちらに来た高森が、それを見ながら言う。高森の意見を無視したかたちになるが、その声音はべつだん不機嫌そうではない。
「用意した菓子が全然減ってなかったら、それはそれであとで母さんがうるさそうだって気づいた」
僕は高森にわけを説明する。
「おれに訊いた意味なかったな」
高森はふっと笑った。
それから僕たちは教科書とノートをテーブルに広げて、しばらくのあいだは真面目に勉強をした。我ながら実に勤勉な学生だと思う。僕たちの通う高校はこの辺りではそこそこの進学校なので、宿題の数もそれなりだった。
高森は相変わらず英語があまり得意ではないようだ。宿題に出されたプリントを前に、シャーペンを持ったまま動きが止まっていることが多かった。僕はもうそのプリントはすでにすませていて、今は違う宿題に取りかかっていた。先ほどコンビニで購入した芯は、早々にペンケースにしまっていた。
訴えるような目でちらりと僕を見てくる高森を最初のうちは無視していたのだが、あまりに悲痛そうな顔をするので、僕も根負けした。
「……どこがわからないんだよ」
そう言って少し高森のほうに身を乗りだすと、あからさまに表情を明るくする。プリントを僕のほうに押しやって、こことこことここ、と素早く指を差す。
思っていたよりも多かった。
「そういえばこのあいだ、廊下で狐先輩とすれ違ったら挨拶された」
少し集中力が切れてきて、世間話のつもりで、手に持ったシャーペンを弄びながら僕はそう口にした。高森は取りかかっていた英語のプリントから顔を上げてじっと僕を見た。
「狐先輩って?」
怪訝そうな顔つきになる。
そこで、それが失言だったことに気がついた。うっかりしていた。あまりに心のなかでそう呼びすぎていてすっかり定着してしまっていたが、僕が勝手に呼んでいるだけであってそれは本名ではない。ひそかにそう呼んでいることを高森に話したこともなかったのだ。
「……バスケ部の、」
「ああ」
僕が内心ひやひやしながら短くそう説明をすると、高森も誰のことかすぐに思い至ったようだ。何度か小さく頷いた。この説明だけで理解するあたり、やはり彼が狐に似ていると思うのは僕だけではないんじゃないだろうか。ほんの少し開き直ってそんなふうに思う。
高森は僕の顔を見て苦笑する。
「裏でそんなふうに呼んでるって知られたら、もう挨拶してくれなくなっちゃうかもな。せっかく織部のこと覚えてくれたみたいなのに」
「せっかく、って言われてもな。また勧誘されるくらいなら、覚えてもらわなくてもいい」
今後関わり合いになることはないだろうと思っていた手前、廊下で遭遇したときには驚いたし、挨拶されたのにはもっと驚いた。僕はまったく気がついていなかったのだが、あれ織部くんだよねこんにちは、と親しげな調子で声をかけられて顔を上げると糸目をさらに細くして微笑んでいる狐先輩が目の前にいた。
特に何かそれ以上の会話を交わしたわけではない。僕がしどろもどろになっているうちに、じゃあまたね、と手を振って狐先輩はすぐ去っていった。
「勧誘っていうより、ただ織部のこと見かけたから声かけてくれただけなんじゃないか。あの日はおれたちしかいなかったし、先輩も覚えやすかったんだろうな。気のいい先輩じゃないか」
僕の話を聞いて、高森はそう言った。それが何だか僕には意外に思えた。
「……意外だな。何となく高森は、あの先輩とは合わないんじゃないかっていう気がしてた」
「別にそんな敬遠する感じじゃないよ。いい先輩だと思う」
「まあ確かに悪い先輩ではなさそうだったけど」
それはそのとおりだったので、僕も同意する。話しやすい先輩ではあった。
「なら、なおさらちゃんと名前で呼べよ」
「でも、先輩の名前ちゃんと覚えてないんだ。何だったっけ」
今さらそれを佐宗に訊ねるのは気が引けるし、訊ねたところでバスケ部に入部するつもりはないのだからあまり意味がない。へたに部活に興味があると思われてもかなわない。
「おれも忘れた」
高森が覚えているのならちょうどいいと思ったのだが、予想に反してそんな答えが返ってくる。清々しいほどの笑顔だった。
「何だよ。僕と大差ないじゃないか。どの口で、ちゃんと名前で呼べとか言ってたんだよ」
「確かに、そのとおりだな」
あきれた声でそう言うと、高森はおかしそうにまた笑った。
それから僕たちはもう少しだけ宿題を進め、頃合いを見計らって休憩をとることにした。そのころには集中力もだいぶ散漫になって、効率も落ちていた。雑談も増えてくる。高森は何とか英語のプリントを終わらせたようだ。六割くらい合ってたらいいな、と言う。
ジュースを飲み干して空になったグラスを片づけ、飲み物を新しく用意する。やかんで湯を沸かしてインスタントのコーヒーを入れた。高森のぶんには少し多めに牛乳を入れる。僕はそのままだ。
通学鞄にしまったままだったスイーツを互いにテーブルに出してきて、そこで初めて僕は高森が購入したのが抹茶のシフォンケーキであったことを知った。僕がさんざんどちらにするか迷った、もう片方だ。
こういうのは人が手にしているとなぜだかことさらにおいしそうに見えてくるものだ。僕は高森のそれを眺めながら、やはりどら焼きじゃなくてシフォンケーキでもよかったな、と少し思った。
「ありがと」
牛乳入りのコーヒーのマグカップをテーブルに置くと、高森は礼を言ってそれを自分の傍に引き寄せた。僕も自分のぶんのコーヒーをどら焼きの傍に置く。
我が家の食器棚には、使っていないマグカップがたくさん眠っている。気づかないうちにいつの間にか増殖していたりもする。主に増やしているのは母親だ。僕はマグカップを自分で買ってくることはないし、父親も同じだろう。そもそも平日の父親に、どこかに寄り道してくるような余裕はないだろう。家と会社の往復の毎日だ。休日だってほぼ寝ている。
マグカップは母親が何かのキャンペーンで貰ったり、誰かから貰ったり、旅先の記念に購入したり、絵柄に一目惚れして衝動買いしてきたりしたものだ。腐るほどあるのだからもう必要ないとわかっているはずなのに、なぜだかつい集めたがるのだ。
だってたくさん並んでると可愛くない? というのが母親の主張だが、僕にはその感覚がちっとも理解できない。別にひとつだろうがたくさんあろうが可愛くない。マグカップが可愛いという感覚も不明だ。マグカップは、マグカップだ。
そもそも可愛いから使うのかといえばそんなこともなく、使うのはたいていいつも同じマグカップなのだ。結果、増えたマグカップはそのまま長いこと食器棚の肥やしになっていた。
高森にコーヒーを入れて出したのは猫が毛糸にじゃれている絵柄のマグカップだった。マグカップを使うとき、高森にはだいたいいつもこれで出している。グラスも決まって使うものがあり、グラスにしてもマグカップにしてみても、何だか高森専用のようなものができあがっていた。
使われないまま眠っているばかりだったものが、ほんの少しとはいえこんなふうに活躍する日が来るとは思いもしなかった。
高森はシフォンケーキの包装をぎざぎざとした端っこから縦に細く裂いて開けた。それから袋から出したそれを、両手で持って均等に半分に割る。ケーキが入っていたそのポリプロピレンの包装を皿代わりにしていた。取り皿は必要ないだろうと思い、出していなかった。
お上品にちぎって食べでもするのかと思いながら見ていると、割った半分を僕のほうに差しだしてくる。
「はい」
「……何だよ」
意味がわからずに、僕は少し不機嫌な声になる。何でちぎった半分を僕によこすんだ。
高森は僕の態度を気にしたふうもなく、ただ少しきょとんとした表情で僕の顔を見返した。
「何って、買うときそうとう迷ってるみたいだったから。半分こにしたらいいんじゃないかと思ったんだけど」
その言葉にぽかんとなる。
「……その発想はなかった」
もともと大人数を想定したものならまだしも、こういったコンビニスイーツのようなものを誰かとシェアして食べるなど思いつきもしなかった。迷ったらどちらかいっぽうか、いっそ両方買ってしまうか、僕の選択肢は今までそれだけだった。
世の中の友人や家族はみんなそうやってシェアしあっているものなのだろうか。目から鱗だ。
「まあ、織部ならそうじゃないかなとは思ってたけど」
高森は予想どおりとでもいうようにくつくつ笑った。それから僕のほうを見て少し小首を傾げる。
「どうする。シフォンケーキ、いる? いらない?」
「いる」
僕は高森の手からシフォンケーキを半分受け取ると、代わりに僕が買った宇治抹茶どら焼きも同じように半分に割って渡した。僕は高森よりも手先が器用ではないので、少しいびつな半分になったように思うが、まあ僕にしては及第点だろう。割ったときにあいだからクリームがはみだしたのには目をつぶる。
僕はまず、高森から受け取ったシフォンケーキを口にした。生地がふわふわとしていて見た目よりも軽やかな食感だった。空気をふんだんに含んでいるという感じがする。抹茶の味はそこまで強くない。おいしいが、何だか少し物足りない気もする。
いっぽう、どら焼きは生地がしっとりとしていて、少し苦みのある抹茶クリームもバランスがよくてあとを引いた。僕の好みは断然こちらだ。
高森もシフォンケーキとどら焼きを少しずつ順番に食べている。食べかけを包装紙の上に置いて、コーヒーを啜った。
「どう?」
マグカップを置くと、僕のほうを見てそう訊ねてくる。
「ん。僕が自分で買ったやつのほうが断然おいしいな」
素直な感想を僕が述べると、そのとたん高森はぶはっと噴きだした。腹を抱えて体をまるめ、しばらく声を上げて笑っていた。笑いすぎて呼吸が苦しくなったのか、げほげほと盛大に噎せ返っている。
……ちょっと笑いすぎじゃないのか。
僕は唇を尖らせる。何をそんなに笑うことがあるんだ。おかしなことは何も言っていないつもりだが。高森の笑いがおさまるまで、ぼんやりとその様子を窺う。
「ほんと、織部っていっさい遠慮がないよな」
笑いすぎて、涙で瞳を潤ませている。笑いはなかなかおさまる様子がなく、まだ少し声が震えていた。
「高森だって似たようなものだろう」
むっとして僕が言い返すと、高森は眦に溜まった涙を拭いながらふっと息を吐いた。
「おれの場合は、織部にだけだよ」
どういう意味だ。
とたんにこの応酬がばかばかしく感じて、僕は黙る。不機嫌は隠さないまま、残りのどら焼きを黙々と食べた。高森もようやく笑いがおさまった様子で、深呼吸を一度して呼吸を整えてからコーヒーをひと口飲んだ。それからどら焼きを頬張る僕のほうをちらりと見た。
「どら焼き、分けないで一人で全部食べたほうがよかった?」
高森に訊ねられて僕は少し考え込む。それから首を横に振った。
「……いや。分けるのは、それはそれで」
結果的にはどら焼きのほうが僕好みだったわけだが、抹茶のシフォンケーキも気になっていたのは事実だ。そういう意味でも、いっぺんに違う味を楽しめたのは悪くなかった。
「そっか」
「……何だよ」
僕を見る高森の口元が笑みのかたちにほころんでいるのを見咎める。またさっきのように大声で笑いだすのではないかと思った。高森の笑いのツボがどこにあるのか、僕には理解が不能だ。僕のことを面白いと高森は言うが、僕はそもそも笑わせようとは思っていないし、至って真面目なつもりなのだ。
「いや。織部といると本当に退屈しないなって思って」
「……ばかにしてるのか」
「してないよ。織部のいいところだって言ってるんだ」
高森は食べかけていたシフォンケーキを手に取った。少しずつ食べながらコーヒーを飲む。僕もまだシフォンケーキを少し残していた。どら焼きを食べ終えてから一度コーヒーを飲んで口のなかをリセットし、それから残っていたケーキを手に取って口に放る。
ふわふわの生地が口のなかで溶け、ほのかな抹茶のにおいが鼻を抜けた。
「……やっぱり、高森が買ったほうもおいしいかも」
僕がそう言うと、高森は一瞬きょとんとした顔をした。それからにやりと含みのある笑みをする。
「それならよかった」
僕たちはどら焼きとシフォンケーキをすっかり平らげると、ご馳走さま、と言ってどちらからともなく両手を合わせた。
***
それから数日が経って、僕はなぜだかまた高森と寄り道をすることになっていた。
駅に着いて改札を抜け、いつものように自宅方面に向かって歩きだしていた僕の制服の裾を、唐突にくいっと高森に引っ張られた。
「ちょっと寄り道していかない?」
何ごとかと思い振り返った僕に、高森は駅前のショッピングモールを指差しながらそう誘ってきたのだった。
「何か買うのか?」
また何か、文房具のストックが切れたことを思いだしたのだろうか。そう訊ねると、高森は首を振ってそれを否定する。
「アイス」
「アイス?」
「うん。アイス、今日はシングルの値段でダブルにしてもらえるんだよ。だからさ、食べてかない?」
僕も知っているアイスクリームショップの名前を口にする。
毎月決まった日にちにそのようなキャンペーンを行っていることじたいは僕も知っていた。ただそれを利用したことはなかった。アイスクリームを食べたいときはコンビニで買うことが多かった。それから冷凍庫には母親がスーパーで買ってきた箱入りのものがだいたい常備されているので、それでじゅうぶんだった。母親は風呂上がりにそれを食べるのを何よりも楽しみにしている。風呂でほかほかに温まった体で冷たいアイスを食べるのが至福だという。
僕は駅前のショッピングモールにはめったに行かないので、そもそもモール内にアイスクリームショップが入っていることすら知らなかった。高森は自宅マンションがこちら側なこともあり、モールもよく利用しているのかもしれない。
おりしも今日は初夏の陽気だった。まだ夏と言うには早いが、だんだんと近づいてきた気配がする。二十度半ばを超える日が増え、夕方近くなっても肌寒さはない。アイスを食べるにも打ってつけだった。一度それを意識すると、何だかとても喉が渇いているような気さえしてくる。
悪くない誘いだったので、僕は高森について寄り道をしていくことにしたのだった。
夕方のショッピングモールは僕が思っていたよりも賑わっていた。客層は僕たちのように学校帰りらしい女子高生や、主婦らしい年配の女性などが多めだった。
出入り口にあった館内案内を確かめると、目当てのアイスクリームショップはB館の地下のようだ。
A館を入ってすぐのところに下りのエスカレーターがあるのが見えた。それに乗ろうと歩きだしたところで、高森に腕を引かれて呼び止められる。地下ではなく、わざわざ上の階の連絡通路を通っていこうと言う。
「何でだよ。地下から行ったほうが早いだろう」
「せっかく一緒に来たんだし、ちょっとほかの店も見てまわろうよ」
ようするに遠回りしよう、と言っているのだ。
ふだん、僕はウィンドウショッピングはしないたちだ。寄り道はいっさいせず、目的の場所に直行する。目的の定まらない時間が無駄に思えて、好きではなかった。だが高森はそれを苦でなく楽しめるたちなのだろう。きっと無駄だとも思っていない。やはりふだんから買い物に時間をかけるタイプなのだろうと確信する。
僕はもうすっかりアイスクリームを食べる気分でいたため、出鼻を挫かれた気分だ。高森は僕の様子を気にも留めず、すうっと手近な店に吸い寄せられるように入っていってしまう。しょうがないので僕もそのあとを追う。
アジアン風の雑貨や服が所狭しとごちゃごちゃに置かれたショップだった。店内ではお香を焚いているのか、何やら独特のにおいが漂っている。何でよりにもよってこんな店に入ったんだ。
とにかく通路が狭く、ほとんど一方通行でしか通れない。こういう店は、火災が起きた場合にはどうするのだろうか。ぼんやりとそんなことを考える。
壁にはよくわからないお面がいくつも飾られていた。あれも商品なのだろうか。それともたんなる店のインテリアだろうか。もしかすると店長の趣味なのかもしれない。
レジにはおかっぱ頭をビビッドな緑とピンクに染めた大学生風の男性がいたが、僕たちにはあまり注意を払わず、ノートを広げて黙々と何かを書き込んでいた。在庫の管理か何かだろうか。僕としては買い物中にはできるだけ話しかけられたくないので、その点はありがたかった。
僕と高森はしばらく店内をぶらぶらと見て歩いた。そう広いスペースではないので、すぐに見終わる。僕たちのほかに客は見当たらなかった。
高森は雑貨の置かれた棚で立ち止まった。細長く削られた木に橙と緑で猫の絵が描かれた置物を手に取って、長いことまじまじと見つめていた。マジックペンで描いたような黒い目は左右の大きさが微妙に異なっていて、何となく狂気を感じさせる。
結局、「変なの」という感想とともに高森はそれを棚に戻した。買うのかと思った。買うと言いだしていたとしても止めはしないが。ただしセンスは疑う。
僕は高森が置いたそれを何となく手に取ってひっくり返し、底に貼られた値札を見た。思っていたよりもゼロの数が一桁多かった。物の価値というものはよくわからない。
それから高森は次に駄菓子屋を見つけ、また僕に何も言わずにすうっと店内に引き寄せられていく。こいつけっこうあちこちふらふらするやつだな。少しは僕のことも考えてほしい。口のなかで悪態をつきながらあとを追うと、これからアイスクリームを食べるというのにひょいひょいと駄菓子を手に取っている。
「駄菓子って、何だか見てるだけでテンションが上がらない?」
横に並んだ僕のほうを向き、そう言って笑う。
「まあな」
「いっぱい買ってもそんなに高くならないし」
言いながら高森は手のなかの駄菓子をどんどんと増やしていく。持ちきれなくなりそうだったので、僕は店の出入り口にあった小さなかごを取ってくると高森に渡した。
「ありがと」
にこりと笑って礼を言うと、高森は手に持っていた駄菓子をかごのなかに入れる。
「織部は何か買わないの?」
訊ねられて、僕も少し駄菓子を物色する。麩菓子や梅ジャムせんべいを見つけて手に取る。買うつもりはなかったのだが、見ているとつい、手が伸びてしまう。えびせんも好きだ。手に取る。
ひとつ手にしてしまうと、ほかにも気になるものが不思議とどんどんと出てくる。駄菓子は今すぐに食べるわけではないのだからまあいいかと調子に乗って、結局僕もかごを取ってくる羽目になった。アイスクリームを食べる前に、ひどく浪費している。
極めつけはゲームセンターだった。とはいえ、ここは高森よりも僕のほうが先に動いた。すっと歩きだした僕の後ろから、高森がついてきた。
「織部ってクレーンゲームとか得意なんだ」
先ほどまでと違ってあからさまに僕のテンションが上がっていたためだろう。高森は意外そうにそう言った。
「まあ、わりとよくやる」
「そうなんだ。おれ、こういうのは苦手なんだよな」
「僕もまあ、欲しいやつというよりかは、取れそうなやつを狙うけどな」
「へえ? 合理的っていうのかどうかよくわからないな。織部の場合は、景品が欲しくてやるっていうよりも、取るまでの過程を楽しんでるってこと?」
「まあそんなところかな」
高森とそんな会話を交わしながら、店内をぐるぐると一周して景品を物色した。すべて見終わってから、ひとつの台に狙いを定める。
「これにする」
僕がそう言って台の前に立つと、高森はなかに入っている景品を確かめて少し微妙な顔つきになった。
「……白菜だな」
ぽつりと言う。
「クッションだ」
「でも、白菜だろ」
僕は訂正したが、高森も譲らない。僕の言うことも高森の言うことも間違いではなかった。
それはとてもリアルなつくりをした、白菜のクッションなのだった。台の後ろに貼られた紙には、ポップな書体で野菜のクッションシリーズと書いてある。コンセプトはわからないが、よく見れば第三弾とあるのでそれなりに人気の高い品なのだろう。第三弾は人参と茄子と白菜で、今台に出ているのは白菜のみだった。第一弾と第二弾は何があったのだろう。少し気になるので、あとで調べてみようと思う。覚えていれば。
白菜のクッションはすでに誰かが数回挑戦したあとなのか、少しアームで寄せればすぐに落とせそうな位置にあった。ここまで動かしておいて、どうして途中でやめたのかが疑問だ。軍資金が尽きたのか、それとも正気に返って特に不要なものであることに気がついたのだろうか。
財布を確認すると百円玉が五枚あった。両替はしないでよさそうだ。僕は迷いなく台に小銭を投入すると、アームを動かして狙いを定めていく。高森は隣で僕がプレイするのをじっと眺めていた。特にミスもなく、アームは狙ったところに入って徐々にクッションを落下口に寄せていく。
数回目で、ぼとん、と白菜が落ちてきた。
台のランプが点滅し、獲得音が流れる。僕は取り出し口から白菜のクッションを取りだした。
「へえ、すごいな」
ずっと隣で息をひそめて僕がプレイする様子を眺めていた高森が、感心したような声を出す。
しまった。まだ目的も果たしていないのに、ついうっかり楽しんでしまっている。
そうこうして、僕たちはようやくB館地下のアイスクリームショップまでたどり着いた。何だかんだで三十分くらいは寄り道していたように思う。
アイスクリームショップは食料品売り場を抜けて少し先に行った、フードコートに近い位置にあった。突っ切ってきた食料品売り場は夕方の時間もあってかずいぶんと活気づいていた。おいしそうな惣菜がいくつも並んでいて少しだけ気になったが、そのまま通りすぎてきた。ここで立ち止まっていてはいつまでもアイスクリームショップにたどり着けない。
「すっかり遅くなっちゃったな。寄り道しすぎた」
アイスクリームショップの看板を眺めながら僕が呟くと、高森はゆっくりとこちらを向いて目を細めた。
「織部だって、けっこう楽しんでたじゃないか。手に白菜持ってるし」
「……クッションだから」
「でも、白菜だろ」
先ほどと同じやりとりを繰り返す。
ゲームセンターで取った白菜のクッションはそこそこの大きさがあり、通学鞄には入りきらなかった。そのためしかたなく僕は、ゲームセンターに置いてあった手提げつきのビニール袋に入れて持ち歩いているのだった。しかし微妙に袋のサイズが小さいせいで、白菜の頭の部分が袋からはみだしていた。通りすがりにちらちらと見られて少し恥ずかしい。
家に帰ったらさり気なくソファにでも置いておこう。クッションなのだからおかしくはないだろうし、マグカップを可愛いと言う母親ならば白菜のクッションだって可愛いと思うはずだ。
アイスクリームショップはこの時間でも混雑していた。今日開催のフェアにつられてやってきた客が多いのだろう。もちろん僕たちもその一人のわけだが。店の前にも大きくフェアの広告が貼られており、それを見て立ち止まる客もいた。
レジを待つ列はすでにずいぶんと長い。僕と高森はいそいそとその最後尾についた。順番を待ちながら、ショーケースのなかを確認する。
十種類以上のフレーバーが並んでいるのが見えた。少し距離が遠いので、それぞれのフレーバーがどんなものなのかは確認ができない。高森がお品書きの書かれたチラシを僕に渡してくれる。入り口付近にもお品書きの書かれた同じ看板が掲げられていたが、その下に取りつけられたボックスにチラシが入っていたのだ。いつの間にかそれを取ってきていたらしい。
それぞれのフレーバーの説明書きを読みながら、どれも気になって目移りしてしまう。さすがにコンビニのアイスとは比べものにならないくらい種類が豊富だ。今日はシングルの値段でここから二種類を選べるわけだが、どれとどれを組み合わせたらいちばんおいしいだろう。
店員の傍にある、減りの早いものがおそらく人気の商品のはずだ。一種類は王道にそれを選ぶべきだろうか。
「高森は、ここでよくアイス食べるのか?」
高森の意見も参考にしようと思い、僕はそう訊ねてみる。
「たまに食べるくらいかな。だからおれもそこまで詳しくはないけど。今日はフェアやってたから、織部と一緒に食べたいなと思って誘ったんだ」
「じゃあ、どれがお薦めとかは?」
「いつも選ぶのはこれかなあ」
僕が手に持っているチラシを覗きこみ、いちばん上のフレーバーを指差す。説明書きを読む。はじける飴が入っていて、口のなかに入れるとぱちぱちと爆ぜるようだ。ショーケースを見た感じ、いちばん減りが早そうだった。つまりいちばん人気ということだ。
「今日も頼むのか?」
「一種類はそのつもりだけど」
「じゃあ、だめか」
僕は溜息をついて、またチラシとにらめっこする。おいしそうだが、高森が選ぶというのならこのいちばん上のフレーバーは除外だ。
「……だめって?」
高森が不思議そうな顔をして訊ねてくる。
「食べたいんなら、織部も同じの頼んだらいいんじゃないの?」
「だって、同じやつ選んだら分ける意味がないじゃないか」
そう答えると、高森はまじまじと僕の顔を見てくる。僕はなぜそんな顔をされるのかがわからない。
「何だよ?」
「分けるの?」
高森が確かめるような口調で言う。
「分けないのか……?」
今度は僕がまじまじと高森の顔を見る番だった。
僕はすっかり高森と分けて四種類のフレーバーを味わうつもりでいたのだが、高森は違ったのだろうか。こんなにたくさんあるフレーバーのなかから二種類に絞るのはなかなか難しいのだが。
僕が戸惑っていると、高森はすぐに相好を崩してふっと息を吐いた。
「いや、分けるよ。ひと口ずつ分けよう」
織部の成長が見られて楽しい、と高森は言った。楽しいって、何だ。
放課後、僕の家に向かっている途中で、コンビニに寄っていいかと高森が切りだしたのだった。
「シャーペンの芯を買いたいんだけど」
今日の授業中に最後の一本を使い果たし、それから予備がないことに気がついたらしい。
あとでもかまわないが、できるなら忘れないうちに買ってしまいたいのだという。コンビニは帰路に何軒かあるので、ついでだと思えば手間でもないしべつだん断る理由もない。
「別にいいけど」
僕は承諾し、そのときいちばん手近にあったコンビニに入った。高森が話を切りだしたちょうどおりよく、コンビニが見えてきたところだったのだ。まあ、高森もコンビニの看板を見てシャーペンの芯を買わなければいけなかったことを思いだしたのだろう。
自動ドアが開き、ピロンピロンとよく馴染みのある音楽が流れてくる。それに被せるように、店員のいらっしゃいませー、という溌剌とした声が上がった。レジにいるのは恰幅のいい女性だった。
高森はまっすぐに文房具の置かれたコーナーへと歩いていった。僕はその後ろ姿を見送って、高森とは別の方向に歩く。何も買うところまでぴったりついていく必要もないだろう。高森が用事をすませるまでのあいだ、少し店内をぶらつくことにした。
ただ僕は特に買うものはない。シャーペンの芯はまだストックがある。消しゴムもあるし、ノートもある。ほかに切れそうな筆記用具も思い当たらない。
そもそも僕は自分の持ち物の状態は常に把握しているので、ストックを切らしたことはないのだ。予備の残りが少なくなってくると落ち着かなくなるたちだった。
雑誌棚から週刊の漫画雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくって読んだ。ひととおり目当てのものを読み終えてしまうと、今度はスイーツの並んだコーナーへと向かった。何か新作が出ているかもしれないと思いついたのだ。
そこで抹茶のシフォンケーキと宇治抹茶どら焼きを見つけたのだった。今の時期はちょうど抹茶を使ったスイーツが展開されているところだった。抹茶は好きだ。
「何かお菓子買うの?」
そのとき背後からいきなり声をかけられて、僕は驚いて思いきりびくりと肩を震わせた。高森はそれを見て、ごめん、と小さく謝った。僕が睨みつけるともう一度、え、ごめん、と言う。
もうとっくにレジをすませたものだとばかり思っていたのに、手にはまだ会計前のシャーペンの芯を持ったままだった。目当てのものがあったのに、レジにも行かずに何をちんたらしているんだ。
「……急に話しかけてくるなよ。しかも背後から」
「すごく真剣そうだったから、何してるのか気になって」
「真剣にお菓子選んでて悪いかよ」
「別に悪いとは言ってないだろ。……それで、お菓子買うの?」
「買うけど。あとで食べようと思って見てたからな」
「へえ。じゃあおれも買おうかな」
あとでというのが具体的にいつであるのかには言及していないのに、高森はもう僕と一緒に食べる気でいるらしい。あとで、は勉強の合間のつもりでいたので間違ってはいないのだが、何となく面白くない。
「高森は、何でまだ会計すませてないんだよ。シャーペンの芯はあったんだろう」
そう言って高森の手元を指差す。
「あったけど、ほかにも何か買うものがあるかもしれないと思っていろいろ見てたんだ。今、抹茶のフェアをやってるんだな。抹茶は好きだな」
意識はもう完全にスイーツに向いている。コーナーには抹茶特集のポップも掲げられていた。高森はそれを見て、どんな商品があるのかを確かめている。シフォンケーキやどら焼きのほかに、ミニパフェやババロアなどもあった。たくさんあって目移りしちゃうな、と笑って僕に言う。
それから僕が両手に持っているシフォンケーキとどら焼きに視線を向けた。
「織部はそれ、どっちにするか迷ってんの?」
「別に、もう決めた」
僕はそう言って手に持っていたシフォンケーキをさっと棚に戻した。高森を置いて、宇治抹茶どら焼きを持ってレジに向かう。高森は少し慌てた様子で、おれも選ぶからちょっと待ってて、と僕の背中に声をかけてくる。僕はそれには返事をしなかった。
レジは空いていた。お客は僕たち以外にも数人いたが、まだ弁当などを選んでいる様子なのでしばらくかかるだろう。レジの恰幅のいい女性と目が合い、僕は女性の立つレジに向かった。持っていた宇治抹茶どら焼きをレジの台の上に置く。レジ袋の有無を訊ねられていらないと答えた。財布から小銭を出して代金を払うと、購入した宇治抹茶どら焼きを通学鞄に放り込む。
それから雑誌棚に戻ると、今度は先ほどとは別の漫画雑誌を手に取った。ぱらぱらとめくる。あまり読んでいない雑誌のため知っている漫画が少ない。僕は巻末の作者コメントが掲載されたページを参考に、興味のありそうなものを選んで読んだ。
ちらりとレジの様子を窺ったが、今会計をしているのは弁当を選び終えたらしいサラリーマン風の男性で、高森はまだのようだ。
二冊目の漫画雑誌もあらかた読み終えた僕は、最後には週刊誌の下世話なゴシップ記事などを読んでいた。某清純派女優と人気絶頂の若手俳優の密会現場を激写した何とかかんとか。煽り文句と一緒に、信憑性があるのかないのかわからない画像の粗い写真が載っていた。とてもどうでもいい。
「お待たせ、織部」
やがてようやく高森が会計を終えて、僕に声をかけてくる。シャーペンの芯を買うために少し寄るだけだったはずが、予想外にずいぶんと長いことコンビニにとどまることになってしまった。
高森に返事をして下世話なゴシップ記事の載った週刊誌を棚に戻しながら、こいつふだんの買い物とかも遅いんだろうな、と思う。
高森が水槽の傍でゆらゆらと振った手に反応して、エンゼルフィッシュがゆっくりと体をこちら側に向けた。高森は相変わらずそれを嬉しそうに眺めている。エンゼルフィッシュは今日も異常なく、至って元気そうだ。
「餌、あげてもいい?」
高森は僕のほうを振り返りながらそう訊ねてくる。僕は答える代わりに、水槽の横に置いていたフードの容器を取って高森に渡した。
高森が容器の蓋に少量のフードを取り、水槽の上から落とす。エンゼルフィッシュは相変わらず悠然と泳いでいたが、ゆらゆらと落ちてきたフードが顔面に触れるとそれをぱくりと口にした。動作は緩慢で、自ら餌を探そうというそぶりはない。ただ泳いでいるときに自分の傍に降ってきた餌をもごもごと食べるだけだ。
高森はしばらく、エンゼルフィッシュがそうやってフードを食べるところを楽しそうに観察していた。
「やっぱり一匹だと水槽が大きくてちょっと寂しく感じるな。悠々と泳げていいのかもしれないけど」
水槽のほうを眺めたままそう言う。
「まあそのうちもう一匹くらいは増やすつもりではいるけど」
「やっぱり、同じエンゼルフィッシュ?」
「それでもいいけど、混泳できる別の種類のやつもありかなとは思ってる」
「ネオンテトラは買わないの」
「……買わない。わざと言ってるだろう」
ぶすっとした声で答えると、高森は少し笑ってこちらを見た。
「もしもう一匹増やすときは言ってよ。おれも一緒に見に行きたいから」
「わかってるよ」
「一人で勝手に行かないでよ?」
「行かない。わかってるってば」
僕と高森はもう何度かこの話題を繰り返している。そのたびに高森には念を押されていた。これで僕が一人で勝手に買いに行ったら相当にあとがうるさそうだ。ただ当面はまだしばらくこのままのつもりだった。エンゼルフィッシュはわりと気性が荒い魚なので、混泳には少し慎重になっていた。
僕は水槽の前にいる高森の傍から離れると、キッチンに向かった。冷蔵庫を開けてなかに入っていた林檎ジュースのペットボトルを取りだす。それから食器棚からグラスをふたつ出して注いだ。
冷蔵庫の横の戸棚を覗くと、ポテトチップスやら煎餅やらクッキーやら、あらゆる種類のお菓子がいっぱいに入っていた。もともと嗜好品は母親が好きでよく買ってきているのだが、高森がしょっちゅう遊びにきていることを認識してからその量が一段と増えた。
林檎ジュースも、僕たち二人のために母親が用意しておいたものだ。
「あとでさっき買ってきたやつ食べるだろうけど、どうする。何か少しつまめるもの出しておくか?」
高森に向かってそう声をかける。高森は水槽から僕に視線を向けた。ふるふると首を横に振る。
「大丈夫」
そう言われていったんはそのまま戸棚を閉めたが、思い直して結局ポテトチップスの袋を取ると中身を皿にあけ、林檎ジュースを注いだグラスと一緒にテーブルに置いた。
「大丈夫って言ったのに」
水槽の傍を離れてこちらに来た高森が、それを見ながら言う。高森の意見を無視したかたちになるが、その声音はべつだん不機嫌そうではない。
「用意した菓子が全然減ってなかったら、それはそれであとで母さんがうるさそうだって気づいた」
僕は高森にわけを説明する。
「おれに訊いた意味なかったな」
高森はふっと笑った。
それから僕たちは教科書とノートをテーブルに広げて、しばらくのあいだは真面目に勉強をした。我ながら実に勤勉な学生だと思う。僕たちの通う高校はこの辺りではそこそこの進学校なので、宿題の数もそれなりだった。
高森は相変わらず英語があまり得意ではないようだ。宿題に出されたプリントを前に、シャーペンを持ったまま動きが止まっていることが多かった。僕はもうそのプリントはすでにすませていて、今は違う宿題に取りかかっていた。先ほどコンビニで購入した芯は、早々にペンケースにしまっていた。
訴えるような目でちらりと僕を見てくる高森を最初のうちは無視していたのだが、あまりに悲痛そうな顔をするので、僕も根負けした。
「……どこがわからないんだよ」
そう言って少し高森のほうに身を乗りだすと、あからさまに表情を明るくする。プリントを僕のほうに押しやって、こことこことここ、と素早く指を差す。
思っていたよりも多かった。
「そういえばこのあいだ、廊下で狐先輩とすれ違ったら挨拶された」
少し集中力が切れてきて、世間話のつもりで、手に持ったシャーペンを弄びながら僕はそう口にした。高森は取りかかっていた英語のプリントから顔を上げてじっと僕を見た。
「狐先輩って?」
怪訝そうな顔つきになる。
そこで、それが失言だったことに気がついた。うっかりしていた。あまりに心のなかでそう呼びすぎていてすっかり定着してしまっていたが、僕が勝手に呼んでいるだけであってそれは本名ではない。ひそかにそう呼んでいることを高森に話したこともなかったのだ。
「……バスケ部の、」
「ああ」
僕が内心ひやひやしながら短くそう説明をすると、高森も誰のことかすぐに思い至ったようだ。何度か小さく頷いた。この説明だけで理解するあたり、やはり彼が狐に似ていると思うのは僕だけではないんじゃないだろうか。ほんの少し開き直ってそんなふうに思う。
高森は僕の顔を見て苦笑する。
「裏でそんなふうに呼んでるって知られたら、もう挨拶してくれなくなっちゃうかもな。せっかく織部のこと覚えてくれたみたいなのに」
「せっかく、って言われてもな。また勧誘されるくらいなら、覚えてもらわなくてもいい」
今後関わり合いになることはないだろうと思っていた手前、廊下で遭遇したときには驚いたし、挨拶されたのにはもっと驚いた。僕はまったく気がついていなかったのだが、あれ織部くんだよねこんにちは、と親しげな調子で声をかけられて顔を上げると糸目をさらに細くして微笑んでいる狐先輩が目の前にいた。
特に何かそれ以上の会話を交わしたわけではない。僕がしどろもどろになっているうちに、じゃあまたね、と手を振って狐先輩はすぐ去っていった。
「勧誘っていうより、ただ織部のこと見かけたから声かけてくれただけなんじゃないか。あの日はおれたちしかいなかったし、先輩も覚えやすかったんだろうな。気のいい先輩じゃないか」
僕の話を聞いて、高森はそう言った。それが何だか僕には意外に思えた。
「……意外だな。何となく高森は、あの先輩とは合わないんじゃないかっていう気がしてた」
「別にそんな敬遠する感じじゃないよ。いい先輩だと思う」
「まあ確かに悪い先輩ではなさそうだったけど」
それはそのとおりだったので、僕も同意する。話しやすい先輩ではあった。
「なら、なおさらちゃんと名前で呼べよ」
「でも、先輩の名前ちゃんと覚えてないんだ。何だったっけ」
今さらそれを佐宗に訊ねるのは気が引けるし、訊ねたところでバスケ部に入部するつもりはないのだからあまり意味がない。へたに部活に興味があると思われてもかなわない。
「おれも忘れた」
高森が覚えているのならちょうどいいと思ったのだが、予想に反してそんな答えが返ってくる。清々しいほどの笑顔だった。
「何だよ。僕と大差ないじゃないか。どの口で、ちゃんと名前で呼べとか言ってたんだよ」
「確かに、そのとおりだな」
あきれた声でそう言うと、高森はおかしそうにまた笑った。
それから僕たちはもう少しだけ宿題を進め、頃合いを見計らって休憩をとることにした。そのころには集中力もだいぶ散漫になって、効率も落ちていた。雑談も増えてくる。高森は何とか英語のプリントを終わらせたようだ。六割くらい合ってたらいいな、と言う。
ジュースを飲み干して空になったグラスを片づけ、飲み物を新しく用意する。やかんで湯を沸かしてインスタントのコーヒーを入れた。高森のぶんには少し多めに牛乳を入れる。僕はそのままだ。
通学鞄にしまったままだったスイーツを互いにテーブルに出してきて、そこで初めて僕は高森が購入したのが抹茶のシフォンケーキであったことを知った。僕がさんざんどちらにするか迷った、もう片方だ。
こういうのは人が手にしているとなぜだかことさらにおいしそうに見えてくるものだ。僕は高森のそれを眺めながら、やはりどら焼きじゃなくてシフォンケーキでもよかったな、と少し思った。
「ありがと」
牛乳入りのコーヒーのマグカップをテーブルに置くと、高森は礼を言ってそれを自分の傍に引き寄せた。僕も自分のぶんのコーヒーをどら焼きの傍に置く。
我が家の食器棚には、使っていないマグカップがたくさん眠っている。気づかないうちにいつの間にか増殖していたりもする。主に増やしているのは母親だ。僕はマグカップを自分で買ってくることはないし、父親も同じだろう。そもそも平日の父親に、どこかに寄り道してくるような余裕はないだろう。家と会社の往復の毎日だ。休日だってほぼ寝ている。
マグカップは母親が何かのキャンペーンで貰ったり、誰かから貰ったり、旅先の記念に購入したり、絵柄に一目惚れして衝動買いしてきたりしたものだ。腐るほどあるのだからもう必要ないとわかっているはずなのに、なぜだかつい集めたがるのだ。
だってたくさん並んでると可愛くない? というのが母親の主張だが、僕にはその感覚がちっとも理解できない。別にひとつだろうがたくさんあろうが可愛くない。マグカップが可愛いという感覚も不明だ。マグカップは、マグカップだ。
そもそも可愛いから使うのかといえばそんなこともなく、使うのはたいていいつも同じマグカップなのだ。結果、増えたマグカップはそのまま長いこと食器棚の肥やしになっていた。
高森にコーヒーを入れて出したのは猫が毛糸にじゃれている絵柄のマグカップだった。マグカップを使うとき、高森にはだいたいいつもこれで出している。グラスも決まって使うものがあり、グラスにしてもマグカップにしてみても、何だか高森専用のようなものができあがっていた。
使われないまま眠っているばかりだったものが、ほんの少しとはいえこんなふうに活躍する日が来るとは思いもしなかった。
高森はシフォンケーキの包装をぎざぎざとした端っこから縦に細く裂いて開けた。それから袋から出したそれを、両手で持って均等に半分に割る。ケーキが入っていたそのポリプロピレンの包装を皿代わりにしていた。取り皿は必要ないだろうと思い、出していなかった。
お上品にちぎって食べでもするのかと思いながら見ていると、割った半分を僕のほうに差しだしてくる。
「はい」
「……何だよ」
意味がわからずに、僕は少し不機嫌な声になる。何でちぎった半分を僕によこすんだ。
高森は僕の態度を気にしたふうもなく、ただ少しきょとんとした表情で僕の顔を見返した。
「何って、買うときそうとう迷ってるみたいだったから。半分こにしたらいいんじゃないかと思ったんだけど」
その言葉にぽかんとなる。
「……その発想はなかった」
もともと大人数を想定したものならまだしも、こういったコンビニスイーツのようなものを誰かとシェアして食べるなど思いつきもしなかった。迷ったらどちらかいっぽうか、いっそ両方買ってしまうか、僕の選択肢は今までそれだけだった。
世の中の友人や家族はみんなそうやってシェアしあっているものなのだろうか。目から鱗だ。
「まあ、織部ならそうじゃないかなとは思ってたけど」
高森は予想どおりとでもいうようにくつくつ笑った。それから僕のほうを見て少し小首を傾げる。
「どうする。シフォンケーキ、いる? いらない?」
「いる」
僕は高森の手からシフォンケーキを半分受け取ると、代わりに僕が買った宇治抹茶どら焼きも同じように半分に割って渡した。僕は高森よりも手先が器用ではないので、少しいびつな半分になったように思うが、まあ僕にしては及第点だろう。割ったときにあいだからクリームがはみだしたのには目をつぶる。
僕はまず、高森から受け取ったシフォンケーキを口にした。生地がふわふわとしていて見た目よりも軽やかな食感だった。空気をふんだんに含んでいるという感じがする。抹茶の味はそこまで強くない。おいしいが、何だか少し物足りない気もする。
いっぽう、どら焼きは生地がしっとりとしていて、少し苦みのある抹茶クリームもバランスがよくてあとを引いた。僕の好みは断然こちらだ。
高森もシフォンケーキとどら焼きを少しずつ順番に食べている。食べかけを包装紙の上に置いて、コーヒーを啜った。
「どう?」
マグカップを置くと、僕のほうを見てそう訊ねてくる。
「ん。僕が自分で買ったやつのほうが断然おいしいな」
素直な感想を僕が述べると、そのとたん高森はぶはっと噴きだした。腹を抱えて体をまるめ、しばらく声を上げて笑っていた。笑いすぎて呼吸が苦しくなったのか、げほげほと盛大に噎せ返っている。
……ちょっと笑いすぎじゃないのか。
僕は唇を尖らせる。何をそんなに笑うことがあるんだ。おかしなことは何も言っていないつもりだが。高森の笑いがおさまるまで、ぼんやりとその様子を窺う。
「ほんと、織部っていっさい遠慮がないよな」
笑いすぎて、涙で瞳を潤ませている。笑いはなかなかおさまる様子がなく、まだ少し声が震えていた。
「高森だって似たようなものだろう」
むっとして僕が言い返すと、高森は眦に溜まった涙を拭いながらふっと息を吐いた。
「おれの場合は、織部にだけだよ」
どういう意味だ。
とたんにこの応酬がばかばかしく感じて、僕は黙る。不機嫌は隠さないまま、残りのどら焼きを黙々と食べた。高森もようやく笑いがおさまった様子で、深呼吸を一度して呼吸を整えてからコーヒーをひと口飲んだ。それからどら焼きを頬張る僕のほうをちらりと見た。
「どら焼き、分けないで一人で全部食べたほうがよかった?」
高森に訊ねられて僕は少し考え込む。それから首を横に振った。
「……いや。分けるのは、それはそれで」
結果的にはどら焼きのほうが僕好みだったわけだが、抹茶のシフォンケーキも気になっていたのは事実だ。そういう意味でも、いっぺんに違う味を楽しめたのは悪くなかった。
「そっか」
「……何だよ」
僕を見る高森の口元が笑みのかたちにほころんでいるのを見咎める。またさっきのように大声で笑いだすのではないかと思った。高森の笑いのツボがどこにあるのか、僕には理解が不能だ。僕のことを面白いと高森は言うが、僕はそもそも笑わせようとは思っていないし、至って真面目なつもりなのだ。
「いや。織部といると本当に退屈しないなって思って」
「……ばかにしてるのか」
「してないよ。織部のいいところだって言ってるんだ」
高森は食べかけていたシフォンケーキを手に取った。少しずつ食べながらコーヒーを飲む。僕もまだシフォンケーキを少し残していた。どら焼きを食べ終えてから一度コーヒーを飲んで口のなかをリセットし、それから残っていたケーキを手に取って口に放る。
ふわふわの生地が口のなかで溶け、ほのかな抹茶のにおいが鼻を抜けた。
「……やっぱり、高森が買ったほうもおいしいかも」
僕がそう言うと、高森は一瞬きょとんとした顔をした。それからにやりと含みのある笑みをする。
「それならよかった」
僕たちはどら焼きとシフォンケーキをすっかり平らげると、ご馳走さま、と言ってどちらからともなく両手を合わせた。
***
それから数日が経って、僕はなぜだかまた高森と寄り道をすることになっていた。
駅に着いて改札を抜け、いつものように自宅方面に向かって歩きだしていた僕の制服の裾を、唐突にくいっと高森に引っ張られた。
「ちょっと寄り道していかない?」
何ごとかと思い振り返った僕に、高森は駅前のショッピングモールを指差しながらそう誘ってきたのだった。
「何か買うのか?」
また何か、文房具のストックが切れたことを思いだしたのだろうか。そう訊ねると、高森は首を振ってそれを否定する。
「アイス」
「アイス?」
「うん。アイス、今日はシングルの値段でダブルにしてもらえるんだよ。だからさ、食べてかない?」
僕も知っているアイスクリームショップの名前を口にする。
毎月決まった日にちにそのようなキャンペーンを行っていることじたいは僕も知っていた。ただそれを利用したことはなかった。アイスクリームを食べたいときはコンビニで買うことが多かった。それから冷凍庫には母親がスーパーで買ってきた箱入りのものがだいたい常備されているので、それでじゅうぶんだった。母親は風呂上がりにそれを食べるのを何よりも楽しみにしている。風呂でほかほかに温まった体で冷たいアイスを食べるのが至福だという。
僕は駅前のショッピングモールにはめったに行かないので、そもそもモール内にアイスクリームショップが入っていることすら知らなかった。高森は自宅マンションがこちら側なこともあり、モールもよく利用しているのかもしれない。
おりしも今日は初夏の陽気だった。まだ夏と言うには早いが、だんだんと近づいてきた気配がする。二十度半ばを超える日が増え、夕方近くなっても肌寒さはない。アイスを食べるにも打ってつけだった。一度それを意識すると、何だかとても喉が渇いているような気さえしてくる。
悪くない誘いだったので、僕は高森について寄り道をしていくことにしたのだった。
夕方のショッピングモールは僕が思っていたよりも賑わっていた。客層は僕たちのように学校帰りらしい女子高生や、主婦らしい年配の女性などが多めだった。
出入り口にあった館内案内を確かめると、目当てのアイスクリームショップはB館の地下のようだ。
A館を入ってすぐのところに下りのエスカレーターがあるのが見えた。それに乗ろうと歩きだしたところで、高森に腕を引かれて呼び止められる。地下ではなく、わざわざ上の階の連絡通路を通っていこうと言う。
「何でだよ。地下から行ったほうが早いだろう」
「せっかく一緒に来たんだし、ちょっとほかの店も見てまわろうよ」
ようするに遠回りしよう、と言っているのだ。
ふだん、僕はウィンドウショッピングはしないたちだ。寄り道はいっさいせず、目的の場所に直行する。目的の定まらない時間が無駄に思えて、好きではなかった。だが高森はそれを苦でなく楽しめるたちなのだろう。きっと無駄だとも思っていない。やはりふだんから買い物に時間をかけるタイプなのだろうと確信する。
僕はもうすっかりアイスクリームを食べる気分でいたため、出鼻を挫かれた気分だ。高森は僕の様子を気にも留めず、すうっと手近な店に吸い寄せられるように入っていってしまう。しょうがないので僕もそのあとを追う。
アジアン風の雑貨や服が所狭しとごちゃごちゃに置かれたショップだった。店内ではお香を焚いているのか、何やら独特のにおいが漂っている。何でよりにもよってこんな店に入ったんだ。
とにかく通路が狭く、ほとんど一方通行でしか通れない。こういう店は、火災が起きた場合にはどうするのだろうか。ぼんやりとそんなことを考える。
壁にはよくわからないお面がいくつも飾られていた。あれも商品なのだろうか。それともたんなる店のインテリアだろうか。もしかすると店長の趣味なのかもしれない。
レジにはおかっぱ頭をビビッドな緑とピンクに染めた大学生風の男性がいたが、僕たちにはあまり注意を払わず、ノートを広げて黙々と何かを書き込んでいた。在庫の管理か何かだろうか。僕としては買い物中にはできるだけ話しかけられたくないので、その点はありがたかった。
僕と高森はしばらく店内をぶらぶらと見て歩いた。そう広いスペースではないので、すぐに見終わる。僕たちのほかに客は見当たらなかった。
高森は雑貨の置かれた棚で立ち止まった。細長く削られた木に橙と緑で猫の絵が描かれた置物を手に取って、長いことまじまじと見つめていた。マジックペンで描いたような黒い目は左右の大きさが微妙に異なっていて、何となく狂気を感じさせる。
結局、「変なの」という感想とともに高森はそれを棚に戻した。買うのかと思った。買うと言いだしていたとしても止めはしないが。ただしセンスは疑う。
僕は高森が置いたそれを何となく手に取ってひっくり返し、底に貼られた値札を見た。思っていたよりもゼロの数が一桁多かった。物の価値というものはよくわからない。
それから高森は次に駄菓子屋を見つけ、また僕に何も言わずにすうっと店内に引き寄せられていく。こいつけっこうあちこちふらふらするやつだな。少しは僕のことも考えてほしい。口のなかで悪態をつきながらあとを追うと、これからアイスクリームを食べるというのにひょいひょいと駄菓子を手に取っている。
「駄菓子って、何だか見てるだけでテンションが上がらない?」
横に並んだ僕のほうを向き、そう言って笑う。
「まあな」
「いっぱい買ってもそんなに高くならないし」
言いながら高森は手のなかの駄菓子をどんどんと増やしていく。持ちきれなくなりそうだったので、僕は店の出入り口にあった小さなかごを取ってくると高森に渡した。
「ありがと」
にこりと笑って礼を言うと、高森は手に持っていた駄菓子をかごのなかに入れる。
「織部は何か買わないの?」
訊ねられて、僕も少し駄菓子を物色する。麩菓子や梅ジャムせんべいを見つけて手に取る。買うつもりはなかったのだが、見ているとつい、手が伸びてしまう。えびせんも好きだ。手に取る。
ひとつ手にしてしまうと、ほかにも気になるものが不思議とどんどんと出てくる。駄菓子は今すぐに食べるわけではないのだからまあいいかと調子に乗って、結局僕もかごを取ってくる羽目になった。アイスクリームを食べる前に、ひどく浪費している。
極めつけはゲームセンターだった。とはいえ、ここは高森よりも僕のほうが先に動いた。すっと歩きだした僕の後ろから、高森がついてきた。
「織部ってクレーンゲームとか得意なんだ」
先ほどまでと違ってあからさまに僕のテンションが上がっていたためだろう。高森は意外そうにそう言った。
「まあ、わりとよくやる」
「そうなんだ。おれ、こういうのは苦手なんだよな」
「僕もまあ、欲しいやつというよりかは、取れそうなやつを狙うけどな」
「へえ? 合理的っていうのかどうかよくわからないな。織部の場合は、景品が欲しくてやるっていうよりも、取るまでの過程を楽しんでるってこと?」
「まあそんなところかな」
高森とそんな会話を交わしながら、店内をぐるぐると一周して景品を物色した。すべて見終わってから、ひとつの台に狙いを定める。
「これにする」
僕がそう言って台の前に立つと、高森はなかに入っている景品を確かめて少し微妙な顔つきになった。
「……白菜だな」
ぽつりと言う。
「クッションだ」
「でも、白菜だろ」
僕は訂正したが、高森も譲らない。僕の言うことも高森の言うことも間違いではなかった。
それはとてもリアルなつくりをした、白菜のクッションなのだった。台の後ろに貼られた紙には、ポップな書体で野菜のクッションシリーズと書いてある。コンセプトはわからないが、よく見れば第三弾とあるのでそれなりに人気の高い品なのだろう。第三弾は人参と茄子と白菜で、今台に出ているのは白菜のみだった。第一弾と第二弾は何があったのだろう。少し気になるので、あとで調べてみようと思う。覚えていれば。
白菜のクッションはすでに誰かが数回挑戦したあとなのか、少しアームで寄せればすぐに落とせそうな位置にあった。ここまで動かしておいて、どうして途中でやめたのかが疑問だ。軍資金が尽きたのか、それとも正気に返って特に不要なものであることに気がついたのだろうか。
財布を確認すると百円玉が五枚あった。両替はしないでよさそうだ。僕は迷いなく台に小銭を投入すると、アームを動かして狙いを定めていく。高森は隣で僕がプレイするのをじっと眺めていた。特にミスもなく、アームは狙ったところに入って徐々にクッションを落下口に寄せていく。
数回目で、ぼとん、と白菜が落ちてきた。
台のランプが点滅し、獲得音が流れる。僕は取り出し口から白菜のクッションを取りだした。
「へえ、すごいな」
ずっと隣で息をひそめて僕がプレイする様子を眺めていた高森が、感心したような声を出す。
しまった。まだ目的も果たしていないのに、ついうっかり楽しんでしまっている。
そうこうして、僕たちはようやくB館地下のアイスクリームショップまでたどり着いた。何だかんだで三十分くらいは寄り道していたように思う。
アイスクリームショップは食料品売り場を抜けて少し先に行った、フードコートに近い位置にあった。突っ切ってきた食料品売り場は夕方の時間もあってかずいぶんと活気づいていた。おいしそうな惣菜がいくつも並んでいて少しだけ気になったが、そのまま通りすぎてきた。ここで立ち止まっていてはいつまでもアイスクリームショップにたどり着けない。
「すっかり遅くなっちゃったな。寄り道しすぎた」
アイスクリームショップの看板を眺めながら僕が呟くと、高森はゆっくりとこちらを向いて目を細めた。
「織部だって、けっこう楽しんでたじゃないか。手に白菜持ってるし」
「……クッションだから」
「でも、白菜だろ」
先ほどと同じやりとりを繰り返す。
ゲームセンターで取った白菜のクッションはそこそこの大きさがあり、通学鞄には入りきらなかった。そのためしかたなく僕は、ゲームセンターに置いてあった手提げつきのビニール袋に入れて持ち歩いているのだった。しかし微妙に袋のサイズが小さいせいで、白菜の頭の部分が袋からはみだしていた。通りすがりにちらちらと見られて少し恥ずかしい。
家に帰ったらさり気なくソファにでも置いておこう。クッションなのだからおかしくはないだろうし、マグカップを可愛いと言う母親ならば白菜のクッションだって可愛いと思うはずだ。
アイスクリームショップはこの時間でも混雑していた。今日開催のフェアにつられてやってきた客が多いのだろう。もちろん僕たちもその一人のわけだが。店の前にも大きくフェアの広告が貼られており、それを見て立ち止まる客もいた。
レジを待つ列はすでにずいぶんと長い。僕と高森はいそいそとその最後尾についた。順番を待ちながら、ショーケースのなかを確認する。
十種類以上のフレーバーが並んでいるのが見えた。少し距離が遠いので、それぞれのフレーバーがどんなものなのかは確認ができない。高森がお品書きの書かれたチラシを僕に渡してくれる。入り口付近にもお品書きの書かれた同じ看板が掲げられていたが、その下に取りつけられたボックスにチラシが入っていたのだ。いつの間にかそれを取ってきていたらしい。
それぞれのフレーバーの説明書きを読みながら、どれも気になって目移りしてしまう。さすがにコンビニのアイスとは比べものにならないくらい種類が豊富だ。今日はシングルの値段でここから二種類を選べるわけだが、どれとどれを組み合わせたらいちばんおいしいだろう。
店員の傍にある、減りの早いものがおそらく人気の商品のはずだ。一種類は王道にそれを選ぶべきだろうか。
「高森は、ここでよくアイス食べるのか?」
高森の意見も参考にしようと思い、僕はそう訊ねてみる。
「たまに食べるくらいかな。だからおれもそこまで詳しくはないけど。今日はフェアやってたから、織部と一緒に食べたいなと思って誘ったんだ」
「じゃあ、どれがお薦めとかは?」
「いつも選ぶのはこれかなあ」
僕が手に持っているチラシを覗きこみ、いちばん上のフレーバーを指差す。説明書きを読む。はじける飴が入っていて、口のなかに入れるとぱちぱちと爆ぜるようだ。ショーケースを見た感じ、いちばん減りが早そうだった。つまりいちばん人気ということだ。
「今日も頼むのか?」
「一種類はそのつもりだけど」
「じゃあ、だめか」
僕は溜息をついて、またチラシとにらめっこする。おいしそうだが、高森が選ぶというのならこのいちばん上のフレーバーは除外だ。
「……だめって?」
高森が不思議そうな顔をして訊ねてくる。
「食べたいんなら、織部も同じの頼んだらいいんじゃないの?」
「だって、同じやつ選んだら分ける意味がないじゃないか」
そう答えると、高森はまじまじと僕の顔を見てくる。僕はなぜそんな顔をされるのかがわからない。
「何だよ?」
「分けるの?」
高森が確かめるような口調で言う。
「分けないのか……?」
今度は僕がまじまじと高森の顔を見る番だった。
僕はすっかり高森と分けて四種類のフレーバーを味わうつもりでいたのだが、高森は違ったのだろうか。こんなにたくさんあるフレーバーのなかから二種類に絞るのはなかなか難しいのだが。
僕が戸惑っていると、高森はすぐに相好を崩してふっと息を吐いた。
「いや、分けるよ。ひと口ずつ分けよう」
織部の成長が見られて楽しい、と高森は言った。楽しいって、何だ。