「織部」
突然、背後から名前を呼ばれた。僕はそれにさっと警戒の色を滲ませる。いつもの聞き慣れた声ではなかったからだ。もっとがさがさとしていて、野太い声だった。
振り返ると、硬そうな髪を短く刈った男子生徒と目が合った。佐宗だ。
「ああ、」
僕は返事をしたつもりだったが、実際に喉の奥から絞りだされたのは呻きにも似たごく小さな声だった。その瞬間、佐宗はぎゅっと両目に力を込めて鼻の頭に皺を寄せ、何か特別渋いものでも食べたかのような表情になった。
目の前の僕が今何かを喋ったような気がするが確証が持てない、といったふうだった。もしかすると自分の空耳だったと思ったかもしれない。
僕はそれきり口をつぐんで、次に佐宗から何か話しだすのを黙して待った。
佐宗とは、登校したときに下駄箱で逢えば短い挨拶を交わす程度の間柄だった。それも毎度きちんと挨拶するわけでもなく、気が向いたときに向こうから声をかけられるくらいのものだった。もちろん僕から積極的に声をかけることはない。
その挨拶にしてみても、「おう」とか「ああ」とかいう唸り声みたいなもので、会話とも呼べない。もしかするとそれは僕の勘違いでもともと挨拶ですらなく、たまたま道端で出し抜けに野生動物に遭遇したときに思わず声が出る感じと近いのかもしれなかった。
周囲で楽しげに肩を叩き合ったりなどしながら交わされる、昨日観たテレビ番組の感想だとか、宿題の出来やテスト結果の予想だとかいう立派な会話と比べるとあまりに侘しい。
だから今回も僕は、佐宗に何を話すべきなのかわからなかった。佐宗が本当に僕に声をかけてきたのかすら疑わしい。挨拶すらただの唸り声でしかないのに。
名前を呼ばれたように思ったのは、聞き間違いだったろうか。ただ、佐宗の視線は先ほどからずっと僕に向けられている。
以前の僕であれば、もっと露骨に迷惑そうな態度をとったと思う。最近は少し周囲に対して当たりが柔らかくなったという自覚はある。
それでもやはり僕と二人きりというのは話しづらいものなのだろう。自分から声をかけてきておきながら、佐宗はずいぶんと居心地が悪そうに足をそわそわさせている。
何か用事があって僕に声をかけてきたわけではないのだろうか。やはり僕の勘違いだったのかもしれない。
「あー、その、高森は……?」
そう思ったところで、佐宗が後頭部に手をやって短い髪をがしがしと掻きながらそう訊ねてきた。どうやら用事があったのは僕ではなく高森だったらしい。
それにしても、なぜ高森の所在を僕に訊ねてくるのか。僕が高森の居所を把握していると思われているのだろうが、僕と高森を密接に結びつけたその扱いには若干の不満を覚える。
とはいえ高森が現在どこにいるのか、僕が知っているのもまた事実なのだった。さっきトイレに立ったのだ。だから待っていればじきに戻ってくるはずだった。
「織部?」
僕が佐宗にそう説明をしようと口を開いたところで、背後から今度はよく耳慣れた声が聞こえてきた。全体的に引っかかりがなく、まろみのある声だ。それに思わずほっとしてしまう。僕は声のしたほうに視線を向けた。予想どおり、薄緑色の瞳が僕を見ていた。
高森はそれからゆっくりと佐宗に視線を移した。小首を傾げて何度か小さく瞬きをする。少し席をはずしたあいだにできあがった、僕と佐宗が向かい合って一緒にいるというこの状況が何なのか理解できないのだろう。僕もわからない。
「佐宗。どうかしたの」
「探してたんだ、高森」
用向きを訊ねる高森に、佐宗が食いぎみにそう声をかける。あきらかに助かった、という雰囲気を醸しだしていた。僕と二人でいたさっきまでとはあからさまに態度も声のトーンも違う。僕と二人きりという重苦しい空気にいいかげん耐えきれなくなっていたのだろう。
高森は僕と違って誰とでも友好的に接している。当然、佐宗ともそれなりに話をしたことがあるのだろう。高森しか話す相手のいない僕とは違う。
「それから、織部も」
無関係の僕はこの場から退散しようかと思ったのだが、踵を返しかけたところで続けて佐宗にそう言われて足が止まる。何だ、やっぱり僕にも用事があるのか? 用があるのは高森一人だけではないのだろうか。
佐宗は怪訝そうにする僕たち二人の顔をゆっくりと交互に見た。
「今日ってさ、放課後何か用事あるか?」
「今日?」
例に違わず、高森は僕の家に来るつもりでいるだろう。毎度のことなので、言われずとも僕はもうその認識だった。ただそれはどうしてもはずせない用事というわけでもない。場合によっては佐宗の誘いを優先するかもしれない。いずれにせよ高森しだいだ。僕はどちらでもかまわない。
高森の意向を探ろうと僕がちらりと目配せを送っていると、佐宗がまた後頭部をがしがしと掻いた。
「いや、単刀直入に言うけど。お前らって部活入ってなかったよな? 実は先輩に、入部希望者がいないか声かけてくれって言われててさ」
僕たちに声をかけてきたわけをそう説明する。
確かに僕も高森も部活動には所属していない。高森はどうだか知らないが、僕はもともと何か部活に入部するつもりなど微塵もなかった。このまま三年間、帰宅部を貫くつもりだ。
ただ入学してからそこそこ経った今、まだ入部希望者を探しているとは思わなかった。佐宗はサッカー部だ。いや、野球部だったろうか。とにかくスポーツの部活で、それは僕からは最も縁遠い。
仮にどうしても部活動に所属しなければならなかったとして、僕は迷わず文化部を選ぶ。美術部とか一人で黙々と作業ができてよさそうだな。絵心はないが。
体を動かす部活動は最初から僕の選択肢にはない。何時間もあちこち駆けずりまわるなんて言語道断だ。想像しただけでげんなりする。なぜ好き好んでそんなことをする必要があるのか。運動部に所属する大半は僕にとってマゾにしか見えない。
佐宗だって僕がスポーツ向きであるとは微塵も思わないだろうに、こうして声をかけてくるのが疑問だった。手当たり次第なのだろうか。佐宗の部活の先輩とやらはそれほどまでに峻厳な人物なのか。それが運動部所以なのだとしたら、僕はますます遠慮願いたい。
高森は僕に比べれば運動はそつなくこなす。
それにしたって突出してスポーツが得意というわけではない。至って平均といったところだろう。体格が恵まれているというふうでもなくどちらかといえば細身だし、手足は長いが身長はそこまで高くはない。百七十センチ前後の僕とさほど変わらない程度だ。
「佐宗のとこ、そんな新入部員に困ってるようには見えないけど」
高森も僕と同じように疑問に思ったのだろう。そう佐宗に問い返す。
「まあ、それはそのとおりなんだけど」
佐宗は少し苦笑した。
「勧誘熱心な先輩がいてさ。ゴールデンウィーク明けてから、顔出す部員が少し減ったせいもあると思うんだけど。その先輩に、誰か入部希望者はいないかって、部活行くと毎日訊かれて。入部はしなくてもいいからさ。先輩の手前、見学だけでもしてってくれないか。そしたら先輩も少しは納得すると思うんだ」
拝むように両手を合わせる。合わせた両手の隙間からちらりと僕たち二人のほうを窺い見た。
佐宗はまさに恵体だった。身長はゆうに百八十センチを超えていて、背中や腕まわりにはがっしりとした固そうな筋肉が盛り上がっているのが制服の上からでもよくわかった。
僕たちと目線を合わせるためにその長身を折りたたみ、ひどく背中をまるめた前屈みの姿勢になっていた。そのしぐさが髪を短く刈り上げたスポーツマン然とした風貌と少し不釣り合いで、おかしみを誘う。
僕たちがうんと言うまで佐宗は梃子でも動かず、ずっとその姿勢を保って僕たち二人を拝み続けていそうな、そんな雰囲気があった。
僕は理解した。
僕と高森は、部活動に所属していない数少ないクラスメイトであったがために白羽の矢が立ったのだ。
佐宗はバスケ部だった。
まあ僕にとっては対象のスポーツがサッカーであれ野球であれバスケであれ、何ら変わりはないのだが。
放課後の体育館からは、そこここから活気のある声が響いてきていた。今日はバスケ部とバドミントン部で体育館を二分して使用しているようだ。ステージに近い側をバスケ部が使用し、後ろ側でバドミントン部が練習をしている。
体育館は体育会系のすべての部活が使用するには圧倒的にスペースが足りないので、日によってローテーションが組まれていた。バスケ部とバドミントン部のほかにバレー部もこのローテーションに加わっている。体育館が使えない部は校庭やほかの空いている場所を利用するか、その日は基礎トレーニングを重点的に行っているという。
高森は、佐宗の誘いを断らなかった。
最終的に入部は断るのかもしれないが、一応は見学して佐宗の顔立てはするつもりなのだろう。僕はそれすらも億劫で最初からきっぱり断る気でいたのだが、結果的に高森に付き合ったかたちになる。
もちろん高森が佐宗の誘いに応じたからといって、何も僕まで一緒に行く必要はなかった。佐宗は僕たちをセットのようにして扱っているきらいがあるので、高森だけでなく僕にも声をかけたのだろう。もちろん、見学する人数は多いほうがいいという理由もあるに違いない。
だからといって常に二人一緒に行動する必要はないのだから、僕はやめておく、とひと言言えばそれですむ。だが隣から食い入るような高森の視線を感じて、僕はそれを振りきれなかった。とにかく目力がすごく、見つめられた場所に穴があくのではないかとすら思った。こいつ何で僕に対してときどきこういう感じになるんだ。
一応見学だけはする、と佐宗に向かって答えると、高森は効果音が聞こえてきそうなほどあからさまに表情を明るくした。
僕と高森は体育館の隅に並んで座り、バスケの練習をする佐宗たちの様子をぼんやりと眺めていた。最初は少し見学をしているよう言われたのだ。あとで練習に参加する予定になっているので、ジャージには着替えている。
ジャージはベースが紺で、サイドに入ったラインが学年ごとに異なっている仕様だった。僕たち一年生は緑色のラインだ。二年生が青、三年生が赤だ。上履きのゴム部分などもそれで統一されていた。三年間で一巡する。
部活に勤しむ生徒のなかには佐宗のほかにも同じクラスの見知った顔が何人かあった。いずれも僕はほとんど話したことがない。ただクラスメイトとして顔を知っているだけだ。バスケ部に所属していることは知らなかった。高森はきっと彼らともそれなりに話したことがあるのだろうし、バスケ部であることも知っていたかもしれない。
みな、教室で見ているのとは違う活気に満ちあふれた明るい表情でバスケに打ち込んでいた。部活動を心底楽しんでいるふうだ。少なくとも僕にはそう見えた。
僕と高森は膝を抱えて座りながらそれをずっと眺めている。高森は先ほどから黙り込んでいて、何を考えているのかわからない。
佐宗に連れられて僕と高森がくだんの先輩に挨拶をしたとき、先輩は糸のような目を精一杯大きくして、「ああ」と無遠慮に高森を指差した。それからさすがにその態度はまずかったと思い直したのか、すぐにすっと指を下ろしてその後は何ごともなかったかのように振る舞っていた。
高森のことを「知っている」ということだったのだろう。「見かけたことがある」と言い換えてもいいかもしれない。高森は取り立ててそれには反応しなかった。表情もいっさい変わらない。
先輩は僕たち二人に部活動の内容について説明をはじめた。ジャージのラインは赤だ。今年最後の部活なこともあって、新入部員の勧誘にひときわ熱心なのかもしれない。おそらくこの人が部長なのだろう。
今日、僕たちのほかに見学者はいなかった。それは予想していたとおりだったので、驚きはない。なにぶん入学してから日も経って、中途半端な時期だ。僕たちのように特別な事情でもない限り、もうとっくに入部先を決めて部活動にせっせと励んでいるか、さもなくば帰宅部を貫いているかだろう。
顧問は今席をはずしていて、あとから様子を見にくるのだと説明された。僕はバスケ部の顧問教諭が誰なのかも把握していない。
くだんの先輩は真横にすっと線を引いたような糸目をしていて、髪の毛の先はあちこちバラバラの方向に散らばっていた。よく言えば無造作ヘアというやつだが、おそらくはほとんど寝癖だろう。顎がしゅっと細く、背はひょろりと縦に長い。高いというよりは長いと形容したほうがしっくりくる体型だった。
狐のような印象の先輩だなと僕は思った。
それからもう僕のなかで彼は狐先輩になった。苗字は最初に名乗っていたが、興味がないのでもう忘れた。どうせ今日限りの付き合いだ。入部はしないので、今後関わり合いになることはないだろう。
最初は少し見学してもらって、それからあとでちょっと練習に参加してみて。狐先輩はそれだけ説明をすると、ひょろひょろと長い体を揺らして小走りに部員の元に戻っていった。
どうせ入部はしないのだから無意味な行為であるのに、何だか滑稽だ。他人事のようにそんなことを思う。僕と高森は顔を見合わせて、練習している部員の邪魔にならないようどちらからともなく体育館の隅にひっそり座った。
他人が練習をしている風景をただ眺めているだけというのは少々退屈だ。僕は手持ち無沙汰に感じて、ジャージの上着のファスナーを上げたり下げたりする。ジャリジャリと小気味よい音がした。しばらく無心になってその遊びに興じた。
「暇だな」
やがてそれにも飽きて、僕は隣に座る高森に話しかけてみる。高森からの返事はなかった。膝を限界まで体に引き寄せてきつく抱えて座り込んだまま、じっと前を向いていて、僕の声が聞こえなかったのか、それともあえて答えないのかはわからない。
僕は高森の返答を待ったが、答えがないのならそれでもいいかと思い、前に向き直ってそのまま黙った。ジャージの上着のファスナーを襟元まで上げて、立てた襟に顎をうずめる。僕も取り立てて何かを期待して高森に話しかけたわけではなかった。
運動靴を履いた踵を床につけて立て、爪先をぱたぱたと動かしてリズムを取る。意外に熱中して、僕は今度はしばらくその遊びに興じていた。
佐宗が華麗なドリブルを披露している様子をぼんやりと眺めているところで、隣で高森が身じろぎ、ゆっくりとこちらを向いた気配があった。
「そうだな」
僕が声をかけてからずいぶんと間が空きすぎていて、それがさっきの問いかけに対する返答であることにしばらく気がつかなかった。
隣を向くと高森と目が合った。僕の顔を見返してふっと薄く笑う。それから高森のほうから喋りだした。
「やることがなさすぎてぼんやりしちゃうな」
「……あとで練習に参加するまで、しばらくはこんな感じかもな。眠くなりそうだ」
「うん。それにしても佐宗はさすがにうまいな。ボールってあんなふうな動きするもんなんだな」
「生き生きしてるよな。佐宗も、ボールも」
「でも織部が佐宗の誘いを断らなかったのはちょっと意外だったな。絶対、やめておくって言うと思ってた」
「途中までは言おうとしてたけどな。お前が何か訴えるような目でさんざん僕のこと見てくるからだ」
「あれ、おれに気を遣ってくれたんだ」
「僕だって気くらい遣える」
「最初話しかけたときは、それだけで邪険にされたのにな」
「あれは高森がエロい本読んでるのかとか訊いてくるからだろう。何だこいつとしか思わなかった」
「あれくらい言わないと関心持ってもらえないかと思って」
そうだとしたら、悪手だ。
はっきり言ってあれのせいで僕の高森への最初の印象は最悪だった。
まあ何だかんだあって高森は放課後僕の家に入り浸るようになり、学校でも話すようになり、今はこうして並んで一緒に部活動の見学までしているのだが。
もしもこのまま部活に入ったら、高森が放課後僕の家に来ることもなくなるのだろうか。ふと思う。僕が黙り込み、会話はやんだ。
そこで佐宗が練習を抜けて、狐先輩と連れ立って僕たちのほうへやってきた。これから少し練習に参加してみないかという。
狐先輩は僕たち二人の顔を交互に見ながら話をしていたが、佐宗はというと体の向きがあきらかに高森に寄っていて、僕のほうはときおりしか見ていない。僕は狐先輩が話すのを聞きながら、視界に映った佐宗の厚みのある背中をぼんやりと眺めていた。
ただ佐宗も、何も意地悪でそうしているわけではないのだろう。きっと無意識だ。ほとんど話をしたことのない僕よりも、高森のほうが断然話しやすい。人当たりもずっといい。狐先輩は僕のことをよく知らないし、同じように高森のことも知らない。だから僕たちを平等に、同等に扱う。
佐宗が高森に向かって何ごとか話しかけ、高森も笑顔でそれに応じた。それから高森は、僕に同意を求めてくる。
「いいよね、織部」
そう言われて僕は頷いたが、二人がいったい何の話をしていたのか実のところ少しも聞いてはいなかった。まったく別のことに注意が向いていた。そのため佐宗の言葉は、取り立てて何の意味もない音としてただ僕の耳元を緩く撫でていっただけだった。
僕が考えていたのは高森のことで、佐宗とも、狐先輩とも、もちろん僕ともそつなく会話をこなす高森は、人付き合いがうまく、中学のころは何かしらがあってうまくいかなかったのかもしれないが、そうだとしてもそのほうがまれなのであって、言うなれば誰とでも円滑にやっていける能力があるわけで、どういうつもりか僕にばかりかまってくるが、つまり僕じゃなくてもいいのだろうと思うのだ。
ウォーミングアップをすませたあと、ほかの部員に混じってシュート練習に参加させてもらった。レイアップシュートというやつだ。ゴールまでドリブルをしていってシュートを打つわけだが、ドリブルはすっぽ抜けて明後日の方向に飛んでいき、打ったシュートは百発百中でリングに当たって跳ね返された。こんなスポーツの何が楽しいんだ。
「織部、だいぶ運動音痴だな」
僕が舌打ちを喉の奥で必死に噛み殺しながらボールに遊ばれていると、すぐ傍で高森がおかしそうにくつくつと笑った。高森が放ったボールが吸い込まれるようにゴールに入り、パスッ、と小気味よい音を立てる。
高森は僕よりも断然うまかった。ドリブルは安定して続いていたし、シュートも三回に一、二回くらいは決めている。狐先輩からも褒められていたし、佐宗も感心した様子だった。ちなみに二人からの僕に対するコメントはなかった。ドンマイ、とだけ言われた。一生分のドンマイを聞いた気分だ。すでにドンマイに食傷している。
もう僕抜きで、高森はこのまますぐに入部すればいいんじゃないかと思う。
先ほど僕が同意を求められたのは、体験入部の練習メニューについてだった。これから行うレイアップシュートに参加してもらおうと思っているのだがどうか、と訊かれたのだ。僕は練習内容に口だしできるほどバスケに精通していないし、そもそも体験に来ている立場なのだからいいも悪いもない。言われたことに従うだけだ。
順番にシュート練習を行うため、並んで自分の順番を待ち、シュートを打ち終わったらまた列の最後尾に戻る。練習の流れとしてはそのような感じだった。それを延々と繰り返す。僕たちもほかの部員に混じってその列に加わっていた。
シュートを打ち終わった僕と高森は、また順番待ちのため列の後ろについた。部員は互いに声かけなどを行っていたが、高森はやや声を低めて僕との会話を続けてくる。
「織部、体育の授業のときもできるだけ動こうとしないもんな。すごい省エネだなって見てていつも思ってた」
「球技が嫌いなだけだ。ほかのスポーツならもう少しマシにやれる」
「たとえばどんな?」
「ひたすら、走るだけとか」
ただし持久力はそこまで続かない。省エネですませられるのならそうしたいのも事実だった。
高森は僕の言葉に納得したように何度か頷いた。
「まあ、織部はチームプレイよりも一人で黙々とこなすほうが性に合ってる感じはする」
「よくわかってるじゃないか」
だいたい僕は人付き合いが得意ではないのだから、チームを組むスポーツなどどう考えても不向きなのだ。考えなくても不向きだ。バスケもサッカーも野球も例外ではない。逆立ちしたってそれは変わらない。
なぜ僕はこんなところでバスケ部の練習に参加して、ボールに遊ばれ醜態をさらしているのだろうか。今さらながらものすごく疑問になる。とても無意味だ。少しむなしい。
「佐宗がボールを触ってたときは何だかボールが別の生き物みたいに思えたもんだけど、僕が触っても別の生き物だったな。気性は全然違うけど」
「織部のボールはじゃじゃ馬だな」
「うるさいな。ちょっと黙れよ」
「……自分から言いだしたんだろ」
まわりに聞こえないように声を低めているとはいえこんな話を狐先輩に聞かれたらことだと思ったが、真剣に練習に打ち込んでいる様子だったのでおそらく聞いてはいなかっただろう。僕たちが不真面目すぎるのだ。
狐先輩がシュートを打つと、部員がことさら沸いた。先ほど体育館の隅で練習風景を見学しているときに佐宗はうまいものだと思ったが、狐先輩はそれ以上だった。
ボールを手にすると少し人が変わったようになる気がする。糸目は開かれて、さながら獰猛な狐だった。そして正確に次々とシュートを決めていく。ふだんはあざとい狐といったふうだ。狐であることに変わりはない。
三十分くらいボールに遊ばれ続けて、僕のバスケ部への体験入部は終了した。途轍もなく長い時間のように思えたし、途中からはただの苦行だった。疲労感が半端ない。軽い気持ちで高森に付き合ってしまったことを後悔する。
「よかったらまた来てね」
狐先輩は人当たりのいい笑顔を向けて僕と高森にそう言った。獰猛な狐からふだんのあざとい狐に戻っていた。最初のころに比べて口調も少しくだけている。
「ありがとうございます」
明るい声で答える高森に合わせて、僕も隣で小さく頭を下げる。まあもう来ることはないだろう。高森にしてみても礼は言ったが、「はい」とは言わなかった。
邪魔にならないように体育館の隅に移動してジャージから制服に着替えた。佐宗からの誘いは突然だったのでタオルなどの用意がなく、僕は体操着の裾をつまんで上下に煽ぎ、風を送ってひとしきり汗が引くまで待った。
動きまわったためにずいぶんと汗を掻いた。ふだん体育の授業でもこんなに汗みどろにはならない。省エネで通しているからだ。僕にしては真面目に付き合ったものだと思う。こめかみをつうっと汗が伝い、ジャージの袖で拭った。
僕と高森が抜けたあとも部員たちは変わらずに練習を続けていた。僕は三十分ばかり運動しただけですっかりバテているが、部員たちの動きは少しも衰えていない。よくこれだけスタミナが続くものだなと感心する。これが運動部と帰宅部の違いなのだろう。
見学前に自動販売機で水を買っておいたのは正解だった。僕は蓋を開け、一気に半分くらいを飲んだ。鞄に入れたままの水はだいぶ温んでいたが、それでもカラカラに乾いた喉を潤すにはじゅうぶんだった。
高森もジャージから制服に着替え終わると、同じように購入していた水を喉を鳴らして飲んだ。
そこへ、佐宗が小走りにこちらに向かってくるのが見えた。
「今日はありがとうな」
僕たちの前で立ち止まり、胸の前で両手を合わせて拝むかたちをつくる。立ち止まったときに運動靴の底と床が擦れて、キュッと高い音が鳴った。視線を合わせるために背中をまるめて、やや前屈みの姿勢になっている。
「ほんと、助かった。先輩も機嫌よさそうだったし」
「それならよかったよ」
答えるのはやはり高森だ。楽しそうに笑顔で佐宗と話している。僕は高森の横で二人のはずむ話を聞きながら、ぼんやりとしていた。かたちだけは会話に参加しているていをとる。
「本当に入部してくれたらもっといいんだけどな」
佐宗はそう言ってにやりと笑った。高森はそれに対しては笑顔のみで返した。佐宗も本気で言っているわけではないだろう。それに高森はともかく、僕が入部したところでてんで役立たずだ。そもそも僕には言っていないのかもしれないが。
僕たちは佐宗に見送られて、体育館をあとにした。狐先輩も心やすげにひらひらと手を振ってくる。僕と高森はそれに会釈で応じた。
そういえば顧問教諭は僕たちが練習に参加しているあいだには来なかった。結局、誰が顧問なのかわからずじまいだ。
教師というのも重労働だなと思う。
「織部、部活入る?」
佐宗と別れ、校門を出たところで高森にそう訊ねられる。いつもよりも下校時間が遅いため、空はだいぶ暮れかけていた。それだけで何だか一気に気分が沈む。加えて全身のだるさもある。肩にかけた通学鞄のずっしりとした重みも相俟って、歩みは遅い。高森はまだ僕ほど疲れている感じはなかったが、歩む速度は緩やかだった。歩幅を僕に合わせてくれているのかもしれなかった。
「僕が部活動をやるように見えるのか?」
「いや、見えないな。特に運動部でアクティブに動きまわってる姿なんてまったく想像つかない」
「……何かいろいろと引っかかる物言いだけど、実際そうだな」
高森はおかしそうにくつくつ笑った。僕は肺に溜まっていた空気をすべて吐きだすように、大きく長い溜息をついた。
「取り敢えず、体験入部が無事に終わってよかった」
言葉にすると何だか本当に体が軽やかになった気がする。
「そうだな」
「実際は一時間かそこいらくらいだったけど、何時間も拘束されてた気分だ」
「拘束って言いかたが織部らしいな」
高森はそれから思いだしたように鞄をごそごそとあさりはじめた。飴の包みを引っ張りだしてくる。それを僕のほうに差しだした。
「食べる?」
僕は高森の手からそれを受け取った。檸檬味の飴だ。前にも同じシチュエーションがあったなと思いながら飴を受け取ったのだが、味まで同じだった。
「これ、前に母さんがあげたやつか?」
「同じやつだけど、さすがに貰ったやつは食べちゃったよ。それはおれが新しく買ったやつ。おいしかったから。でもなかなか売ってなくて、見つけるのに苦労した」
「そうなのか? 母さんは近所のスーパーで買ってたと思うけどな。確か山ほど置いてあった」
「うちのほうにはなかったんだ。入荷する商品がちょっとずつ違うのかもな」
包みを開いて飴玉を口に放りながら、僕はふうんと相槌を打った。ほのかな酸っぱさがわずかに舌を刺激する。僕の母親が買ったものを高森にあげ、それを気に入ってまた高森が買う。こうやって何か伝播していくのが何だか不思議な縁に思う。
「それで、高森はどうするんだ。部活に入るのか?」
高森も飴玉の包みを開くと口に含んだ。カラコロと飴玉を口のなかで転がす。ゆるゆると首を振った。
「入んない」
それは半ば予想していた返答ではあった。
高森は僕と違ってあからさまに態度に出すことはないが、佐宗の話に最初から興味がないのだろうことは見ていてわかった。佐宗の顔を立てるために一応は見学したまでだろう。本来、高森はそういう気遣いをする性格なのだ。僕といるときはなぜだか無遠慮なことが多く、そのことをつい忘れがちだが。
それから狐先輩ともあまり気が合わなそうに思う。悪い先輩ではなかったが、こればかりはしかたがないだろう。
「高森もスポーツ系は苦手なのか?」
高森が入部しない理由に半ばの予測をつけながらも、僕はあえて少し違うことを訊ねた。高森は飴玉を口のなかで転がしながら、少し唇を尖らせた。
「まあ、おれもスポーツはそこまで得意なわけじゃないけど。でもいちばんの理由はそこじゃなくて」
「何だよ」
「だって部活に入ったら、放課後織部んちに行けなくなっちゃうから」
その返答に僕は思わず面食らう。
先ほど僕もちらりと同じようなことを考えはした。もしも部活に入ったとしたら、高森が僕の家に来ることはなくなる。ただ高森の口からも改めてその話が出てくるとは思っていなかったし、それがいちばんの理由であるというのはなおさらだった。
単純に、部活動が億劫だとか、先輩との折り合いの問題ではないのか。
「……別に部活で一緒に過ごすのも放課後うちに来るのも似たようなものじゃないのか」
「織部、部活入らないんじゃなかったの」
「入らないけど」
「じゃあ、前提からしておかしいじゃないか。それに部活で一緒になるのと放課後織部んちに行くのとではずいぶん違うよ」
「どこが」
「おれは、織部の家で織部とゆっくり過ごすのが気に入ってるんだよ。織部の家で気儘に勉強したり、何かくだらないことをだらだら話したり、そういうのが好きなんだ。自分の家で勉強するより捗るし、あとエンゼルフィッシュの様子だって気になるし。部活に入ったら、そういうの全部できなくなっちゃうだろ。それが嫌なんだ」
「……ふうん、」
「気のない相槌だな」
高森は苦笑する。僕の態度が、高森の話にまるで興味がないように映ったのだろう。
だが僕が生返事だったのはけっして高森の話がどうでもよかったわけではなかった。僕は少し、違うことを考えていたのだ。
「……高森は、僕と二人でいて平気なのか」
ふいにそんな言葉が口を突く。言ってしまってから、言わなければよかったとすぐに後悔した。高森相手に僕はいったい何を口走っているのだろう。変なことを訊いた。
「……平気って、何。どういう意味?」
高森は案の定、怪訝そうに眉間に皺を寄せて僕を見てきた。
僕はためらった。ついうっかり口を突いて出てきてしまったものの、この話はできればもう掘り下げたくなかった。だが僕から切りだした手前、そうもいかないのだろう。
しょうがなく、口を開く。
「……気まずくなったりとか、」
「ならないよ。なってたらこんなにずっと一緒にいないだろ」
「それはまあ、そうなんだろうけど」
「織部、どうかした? 何か変じゃない?」
「……別に何も変なことはないけど」
僕は高森の問いを否定した。そうしてこのままここで強引に話を終わらせてしまいたかったのだが、高森はそれでは納得しなかった。
「何もないことないだろ。何かあったから、いきなりそんな話してきたんじゃないの」
執拗な追及に閉口する。こいつふだんは冴えるくらいに空気を読むくせに、何でこういうときに限って引き下がらないんだ。
「……佐宗は、僕と二人だと話しづらそうにしてたから」
観念して、僕はそう答える。
佐宗の、僕と高森に対するあきらかに異なる態度が先ほどからしこりのようになって引っかかり、僕を苛んでいた。こんなことが気にかかるようになるなんて、僕もおかしい。
「そんなの、まだあんまり話したことがないからただ慣れてないだけじゃないのか」
「でも、だいたいみんなそんな感じだろう。佐宗に限らない」
「おれは違うけど」
高森は即座に僕の言葉を否定する。
「おれは織部と一緒にいて気まずいと思ったことはないし、話しづらくもないよ。それじゃだめなの」
「だめってことはないけど」
「……けど?」
僕は黙った。自分のなかでもやもやと渦巻いているこの感情をどういうふうに形容すればいいのかがわからない。歯切れの悪い僕の返答に、高森はしばらく唇を噛んで僕の顔を眺めていた。
「おれ、織部とは抜群に相性がいいと思ってるんだけどな」
それからふいに、少しおどけた調子で笑ってそう口にする。
「おれほど織部と相性いいやつ、ほかにいないと思うんだ。絶対に骨抜きにする自信がある」
「……言ってろ」
冗談とも本気ともつかない高森のいつもの調子に、僕はあきれ声で返す。高森なりに場の空気を取り繕おうと気を遣った結果なのかもしれなかった。
「でも高森は、僕だけじゃなくて佐宗とだって楽しそうに話してたろう」
それから少し、やり返してやろうという気持ちが僕のなかで湧いてくる。いつもいつも振りまわされてばかりも癪だ。
「それなら案外、僕よりも佐宗のほうが相性がよかったりするんじゃないのか。よすぎて、やみつきになるかもしれないぞ」
とたんに高森の顔から笑みが消えた。すっ、と真顔になって、ほんの少し機嫌が悪そうに眉根を寄せる。その反応は予想外だったため、僕は戸惑った。唾を飲みこむと、体の内側からごくんと異様に大きな音が響いた。
自分からこういう話をするのはかまわないくせに、僕から言われるのは好まないのだろうか。何だか少し理不尽だ。
「……そりゃ、佐宗とも話くらいはするけど」
高森が口を開く。
声にも少し機嫌の悪さが滲みでている。高森がこんなふうに不機嫌をあらわにするのは珍しい。いつも捉えどころがない感じで飄々としているし、僕と違って感情のコントロールはうまいはずだ。
よけいなことを言うとまた高森の神経を逆撫でしそうで、僕はただじっと黙って高森の言葉を聞いていた。
高森は一度俯き、感情を落ち着けるようにふうっと息を吐いた。それから顔を上げて僕を見る。薄緑色の目がゆらゆらと揺れている。
「おれは、織部がいいんだよ。佐宗じゃなくて」
ゆっくりと、そう続けた。
背骨の中心をぞくぞくとした感覚が一瞬で駆け抜けていき、体じゅうに広がった。寒いわけでもないのに、全身がぶるりと震える。酸欠のように頭がくらくらした。
僕がいい。僕が。高森のその言葉はけっして僕を不快にはしなかった。今のは、そういう種類の感覚ではなかった。じゃあ何なのかと言われれば、わからない。ただ正体不明のぞくぞくがどうしようもなく僕の全身を駆け巡っている。
「飴、」
「ん?」
「飴、もう一個くれないか」
僕はわざと話題を変えた。そうやってそのぞくぞくを飲みこんで、正体を探るのを保留した。
「何個でも食べたらいいよ」
高森もべつだん僕に対して何かを言うことはなかった。わざとらしく急に話題を変えたことを咎めもしない。こういうとき、高森は無言で僕を赦すのだ。きっと僕はそれもわかっていた。
高森は鞄から檸檬飴の入った袋を取りだすと、笑って僕のほうに差しだす。機嫌はもう直っているようだった。僕は高森が差しだした袋のなかに手を入れると、指先に触れた飴の包みをひとつつまみとった。
包装紙を開いて飴玉を口に放る。檸檬味の飴は先ほど口にしたときよりもことさらに酸っぱく感じて、僕の舌をぴりぴりと痺れさせた。まるで毒を飲んだ気分だ。
痺れた舌の根を、奥歯で甘く噛む。舌を噛み切ったわけではないだろうが、わずかに血の味が混じって感じる。
高森も袋から包みをひとつ取りだすと、包装紙を開いて僕と同じように口に放った。毒のような飴玉は、高森の舌も痺れさせるのだろうか。僕はじっと高森の様子を観察していたが、もちろん高森は平然としていた。
「……今日はどうする。遅くなったけど、少しうちに寄ってくか? 母さんが帰ってくるまでには、まだもう少し時間があるだろうし」
さすがに今日はもうこのまま解散だろうと思っていたが、気が変わる。痺れた舌のまま高森にそう訊ねると、高森は嬉しそうに顔をほころばせた。こくりと頷く。
「じゃあ、エンゼルフィッシュの様子だけ見てく」
「ずいぶん気に入ってるんだな、熱帯魚」
「うん。懐いてて可愛い」
「じゃあ、餌やりをやったらいい」
「いいの?」
「やりすぎるなよ」
「わかってるよ」
そんなふうに会話を続けながら、僕と高森は並んでゆるゆると駅まで歩いた。
ぞくぞくはまだ僕の腹の底でくすぶっていた。高森に気取られないよう、僕はそれを飴玉と一緒に深く飲みこんだ。
突然、背後から名前を呼ばれた。僕はそれにさっと警戒の色を滲ませる。いつもの聞き慣れた声ではなかったからだ。もっとがさがさとしていて、野太い声だった。
振り返ると、硬そうな髪を短く刈った男子生徒と目が合った。佐宗だ。
「ああ、」
僕は返事をしたつもりだったが、実際に喉の奥から絞りだされたのは呻きにも似たごく小さな声だった。その瞬間、佐宗はぎゅっと両目に力を込めて鼻の頭に皺を寄せ、何か特別渋いものでも食べたかのような表情になった。
目の前の僕が今何かを喋ったような気がするが確証が持てない、といったふうだった。もしかすると自分の空耳だったと思ったかもしれない。
僕はそれきり口をつぐんで、次に佐宗から何か話しだすのを黙して待った。
佐宗とは、登校したときに下駄箱で逢えば短い挨拶を交わす程度の間柄だった。それも毎度きちんと挨拶するわけでもなく、気が向いたときに向こうから声をかけられるくらいのものだった。もちろん僕から積極的に声をかけることはない。
その挨拶にしてみても、「おう」とか「ああ」とかいう唸り声みたいなもので、会話とも呼べない。もしかするとそれは僕の勘違いでもともと挨拶ですらなく、たまたま道端で出し抜けに野生動物に遭遇したときに思わず声が出る感じと近いのかもしれなかった。
周囲で楽しげに肩を叩き合ったりなどしながら交わされる、昨日観たテレビ番組の感想だとか、宿題の出来やテスト結果の予想だとかいう立派な会話と比べるとあまりに侘しい。
だから今回も僕は、佐宗に何を話すべきなのかわからなかった。佐宗が本当に僕に声をかけてきたのかすら疑わしい。挨拶すらただの唸り声でしかないのに。
名前を呼ばれたように思ったのは、聞き間違いだったろうか。ただ、佐宗の視線は先ほどからずっと僕に向けられている。
以前の僕であれば、もっと露骨に迷惑そうな態度をとったと思う。最近は少し周囲に対して当たりが柔らかくなったという自覚はある。
それでもやはり僕と二人きりというのは話しづらいものなのだろう。自分から声をかけてきておきながら、佐宗はずいぶんと居心地が悪そうに足をそわそわさせている。
何か用事があって僕に声をかけてきたわけではないのだろうか。やはり僕の勘違いだったのかもしれない。
「あー、その、高森は……?」
そう思ったところで、佐宗が後頭部に手をやって短い髪をがしがしと掻きながらそう訊ねてきた。どうやら用事があったのは僕ではなく高森だったらしい。
それにしても、なぜ高森の所在を僕に訊ねてくるのか。僕が高森の居所を把握していると思われているのだろうが、僕と高森を密接に結びつけたその扱いには若干の不満を覚える。
とはいえ高森が現在どこにいるのか、僕が知っているのもまた事実なのだった。さっきトイレに立ったのだ。だから待っていればじきに戻ってくるはずだった。
「織部?」
僕が佐宗にそう説明をしようと口を開いたところで、背後から今度はよく耳慣れた声が聞こえてきた。全体的に引っかかりがなく、まろみのある声だ。それに思わずほっとしてしまう。僕は声のしたほうに視線を向けた。予想どおり、薄緑色の瞳が僕を見ていた。
高森はそれからゆっくりと佐宗に視線を移した。小首を傾げて何度か小さく瞬きをする。少し席をはずしたあいだにできあがった、僕と佐宗が向かい合って一緒にいるというこの状況が何なのか理解できないのだろう。僕もわからない。
「佐宗。どうかしたの」
「探してたんだ、高森」
用向きを訊ねる高森に、佐宗が食いぎみにそう声をかける。あきらかに助かった、という雰囲気を醸しだしていた。僕と二人でいたさっきまでとはあからさまに態度も声のトーンも違う。僕と二人きりという重苦しい空気にいいかげん耐えきれなくなっていたのだろう。
高森は僕と違って誰とでも友好的に接している。当然、佐宗ともそれなりに話をしたことがあるのだろう。高森しか話す相手のいない僕とは違う。
「それから、織部も」
無関係の僕はこの場から退散しようかと思ったのだが、踵を返しかけたところで続けて佐宗にそう言われて足が止まる。何だ、やっぱり僕にも用事があるのか? 用があるのは高森一人だけではないのだろうか。
佐宗は怪訝そうにする僕たち二人の顔をゆっくりと交互に見た。
「今日ってさ、放課後何か用事あるか?」
「今日?」
例に違わず、高森は僕の家に来るつもりでいるだろう。毎度のことなので、言われずとも僕はもうその認識だった。ただそれはどうしてもはずせない用事というわけでもない。場合によっては佐宗の誘いを優先するかもしれない。いずれにせよ高森しだいだ。僕はどちらでもかまわない。
高森の意向を探ろうと僕がちらりと目配せを送っていると、佐宗がまた後頭部をがしがしと掻いた。
「いや、単刀直入に言うけど。お前らって部活入ってなかったよな? 実は先輩に、入部希望者がいないか声かけてくれって言われててさ」
僕たちに声をかけてきたわけをそう説明する。
確かに僕も高森も部活動には所属していない。高森はどうだか知らないが、僕はもともと何か部活に入部するつもりなど微塵もなかった。このまま三年間、帰宅部を貫くつもりだ。
ただ入学してからそこそこ経った今、まだ入部希望者を探しているとは思わなかった。佐宗はサッカー部だ。いや、野球部だったろうか。とにかくスポーツの部活で、それは僕からは最も縁遠い。
仮にどうしても部活動に所属しなければならなかったとして、僕は迷わず文化部を選ぶ。美術部とか一人で黙々と作業ができてよさそうだな。絵心はないが。
体を動かす部活動は最初から僕の選択肢にはない。何時間もあちこち駆けずりまわるなんて言語道断だ。想像しただけでげんなりする。なぜ好き好んでそんなことをする必要があるのか。運動部に所属する大半は僕にとってマゾにしか見えない。
佐宗だって僕がスポーツ向きであるとは微塵も思わないだろうに、こうして声をかけてくるのが疑問だった。手当たり次第なのだろうか。佐宗の部活の先輩とやらはそれほどまでに峻厳な人物なのか。それが運動部所以なのだとしたら、僕はますます遠慮願いたい。
高森は僕に比べれば運動はそつなくこなす。
それにしたって突出してスポーツが得意というわけではない。至って平均といったところだろう。体格が恵まれているというふうでもなくどちらかといえば細身だし、手足は長いが身長はそこまで高くはない。百七十センチ前後の僕とさほど変わらない程度だ。
「佐宗のとこ、そんな新入部員に困ってるようには見えないけど」
高森も僕と同じように疑問に思ったのだろう。そう佐宗に問い返す。
「まあ、それはそのとおりなんだけど」
佐宗は少し苦笑した。
「勧誘熱心な先輩がいてさ。ゴールデンウィーク明けてから、顔出す部員が少し減ったせいもあると思うんだけど。その先輩に、誰か入部希望者はいないかって、部活行くと毎日訊かれて。入部はしなくてもいいからさ。先輩の手前、見学だけでもしてってくれないか。そしたら先輩も少しは納得すると思うんだ」
拝むように両手を合わせる。合わせた両手の隙間からちらりと僕たち二人のほうを窺い見た。
佐宗はまさに恵体だった。身長はゆうに百八十センチを超えていて、背中や腕まわりにはがっしりとした固そうな筋肉が盛り上がっているのが制服の上からでもよくわかった。
僕たちと目線を合わせるためにその長身を折りたたみ、ひどく背中をまるめた前屈みの姿勢になっていた。そのしぐさが髪を短く刈り上げたスポーツマン然とした風貌と少し不釣り合いで、おかしみを誘う。
僕たちがうんと言うまで佐宗は梃子でも動かず、ずっとその姿勢を保って僕たち二人を拝み続けていそうな、そんな雰囲気があった。
僕は理解した。
僕と高森は、部活動に所属していない数少ないクラスメイトであったがために白羽の矢が立ったのだ。
佐宗はバスケ部だった。
まあ僕にとっては対象のスポーツがサッカーであれ野球であれバスケであれ、何ら変わりはないのだが。
放課後の体育館からは、そこここから活気のある声が響いてきていた。今日はバスケ部とバドミントン部で体育館を二分して使用しているようだ。ステージに近い側をバスケ部が使用し、後ろ側でバドミントン部が練習をしている。
体育館は体育会系のすべての部活が使用するには圧倒的にスペースが足りないので、日によってローテーションが組まれていた。バスケ部とバドミントン部のほかにバレー部もこのローテーションに加わっている。体育館が使えない部は校庭やほかの空いている場所を利用するか、その日は基礎トレーニングを重点的に行っているという。
高森は、佐宗の誘いを断らなかった。
最終的に入部は断るのかもしれないが、一応は見学して佐宗の顔立てはするつもりなのだろう。僕はそれすらも億劫で最初からきっぱり断る気でいたのだが、結果的に高森に付き合ったかたちになる。
もちろん高森が佐宗の誘いに応じたからといって、何も僕まで一緒に行く必要はなかった。佐宗は僕たちをセットのようにして扱っているきらいがあるので、高森だけでなく僕にも声をかけたのだろう。もちろん、見学する人数は多いほうがいいという理由もあるに違いない。
だからといって常に二人一緒に行動する必要はないのだから、僕はやめておく、とひと言言えばそれですむ。だが隣から食い入るような高森の視線を感じて、僕はそれを振りきれなかった。とにかく目力がすごく、見つめられた場所に穴があくのではないかとすら思った。こいつ何で僕に対してときどきこういう感じになるんだ。
一応見学だけはする、と佐宗に向かって答えると、高森は効果音が聞こえてきそうなほどあからさまに表情を明るくした。
僕と高森は体育館の隅に並んで座り、バスケの練習をする佐宗たちの様子をぼんやりと眺めていた。最初は少し見学をしているよう言われたのだ。あとで練習に参加する予定になっているので、ジャージには着替えている。
ジャージはベースが紺で、サイドに入ったラインが学年ごとに異なっている仕様だった。僕たち一年生は緑色のラインだ。二年生が青、三年生が赤だ。上履きのゴム部分などもそれで統一されていた。三年間で一巡する。
部活に勤しむ生徒のなかには佐宗のほかにも同じクラスの見知った顔が何人かあった。いずれも僕はほとんど話したことがない。ただクラスメイトとして顔を知っているだけだ。バスケ部に所属していることは知らなかった。高森はきっと彼らともそれなりに話したことがあるのだろうし、バスケ部であることも知っていたかもしれない。
みな、教室で見ているのとは違う活気に満ちあふれた明るい表情でバスケに打ち込んでいた。部活動を心底楽しんでいるふうだ。少なくとも僕にはそう見えた。
僕と高森は膝を抱えて座りながらそれをずっと眺めている。高森は先ほどから黙り込んでいて、何を考えているのかわからない。
佐宗に連れられて僕と高森がくだんの先輩に挨拶をしたとき、先輩は糸のような目を精一杯大きくして、「ああ」と無遠慮に高森を指差した。それからさすがにその態度はまずかったと思い直したのか、すぐにすっと指を下ろしてその後は何ごともなかったかのように振る舞っていた。
高森のことを「知っている」ということだったのだろう。「見かけたことがある」と言い換えてもいいかもしれない。高森は取り立ててそれには反応しなかった。表情もいっさい変わらない。
先輩は僕たち二人に部活動の内容について説明をはじめた。ジャージのラインは赤だ。今年最後の部活なこともあって、新入部員の勧誘にひときわ熱心なのかもしれない。おそらくこの人が部長なのだろう。
今日、僕たちのほかに見学者はいなかった。それは予想していたとおりだったので、驚きはない。なにぶん入学してから日も経って、中途半端な時期だ。僕たちのように特別な事情でもない限り、もうとっくに入部先を決めて部活動にせっせと励んでいるか、さもなくば帰宅部を貫いているかだろう。
顧問は今席をはずしていて、あとから様子を見にくるのだと説明された。僕はバスケ部の顧問教諭が誰なのかも把握していない。
くだんの先輩は真横にすっと線を引いたような糸目をしていて、髪の毛の先はあちこちバラバラの方向に散らばっていた。よく言えば無造作ヘアというやつだが、おそらくはほとんど寝癖だろう。顎がしゅっと細く、背はひょろりと縦に長い。高いというよりは長いと形容したほうがしっくりくる体型だった。
狐のような印象の先輩だなと僕は思った。
それからもう僕のなかで彼は狐先輩になった。苗字は最初に名乗っていたが、興味がないのでもう忘れた。どうせ今日限りの付き合いだ。入部はしないので、今後関わり合いになることはないだろう。
最初は少し見学してもらって、それからあとでちょっと練習に参加してみて。狐先輩はそれだけ説明をすると、ひょろひょろと長い体を揺らして小走りに部員の元に戻っていった。
どうせ入部はしないのだから無意味な行為であるのに、何だか滑稽だ。他人事のようにそんなことを思う。僕と高森は顔を見合わせて、練習している部員の邪魔にならないようどちらからともなく体育館の隅にひっそり座った。
他人が練習をしている風景をただ眺めているだけというのは少々退屈だ。僕は手持ち無沙汰に感じて、ジャージの上着のファスナーを上げたり下げたりする。ジャリジャリと小気味よい音がした。しばらく無心になってその遊びに興じた。
「暇だな」
やがてそれにも飽きて、僕は隣に座る高森に話しかけてみる。高森からの返事はなかった。膝を限界まで体に引き寄せてきつく抱えて座り込んだまま、じっと前を向いていて、僕の声が聞こえなかったのか、それともあえて答えないのかはわからない。
僕は高森の返答を待ったが、答えがないのならそれでもいいかと思い、前に向き直ってそのまま黙った。ジャージの上着のファスナーを襟元まで上げて、立てた襟に顎をうずめる。僕も取り立てて何かを期待して高森に話しかけたわけではなかった。
運動靴を履いた踵を床につけて立て、爪先をぱたぱたと動かしてリズムを取る。意外に熱中して、僕は今度はしばらくその遊びに興じていた。
佐宗が華麗なドリブルを披露している様子をぼんやりと眺めているところで、隣で高森が身じろぎ、ゆっくりとこちらを向いた気配があった。
「そうだな」
僕が声をかけてからずいぶんと間が空きすぎていて、それがさっきの問いかけに対する返答であることにしばらく気がつかなかった。
隣を向くと高森と目が合った。僕の顔を見返してふっと薄く笑う。それから高森のほうから喋りだした。
「やることがなさすぎてぼんやりしちゃうな」
「……あとで練習に参加するまで、しばらくはこんな感じかもな。眠くなりそうだ」
「うん。それにしても佐宗はさすがにうまいな。ボールってあんなふうな動きするもんなんだな」
「生き生きしてるよな。佐宗も、ボールも」
「でも織部が佐宗の誘いを断らなかったのはちょっと意外だったな。絶対、やめておくって言うと思ってた」
「途中までは言おうとしてたけどな。お前が何か訴えるような目でさんざん僕のこと見てくるからだ」
「あれ、おれに気を遣ってくれたんだ」
「僕だって気くらい遣える」
「最初話しかけたときは、それだけで邪険にされたのにな」
「あれは高森がエロい本読んでるのかとか訊いてくるからだろう。何だこいつとしか思わなかった」
「あれくらい言わないと関心持ってもらえないかと思って」
そうだとしたら、悪手だ。
はっきり言ってあれのせいで僕の高森への最初の印象は最悪だった。
まあ何だかんだあって高森は放課後僕の家に入り浸るようになり、学校でも話すようになり、今はこうして並んで一緒に部活動の見学までしているのだが。
もしもこのまま部活に入ったら、高森が放課後僕の家に来ることもなくなるのだろうか。ふと思う。僕が黙り込み、会話はやんだ。
そこで佐宗が練習を抜けて、狐先輩と連れ立って僕たちのほうへやってきた。これから少し練習に参加してみないかという。
狐先輩は僕たち二人の顔を交互に見ながら話をしていたが、佐宗はというと体の向きがあきらかに高森に寄っていて、僕のほうはときおりしか見ていない。僕は狐先輩が話すのを聞きながら、視界に映った佐宗の厚みのある背中をぼんやりと眺めていた。
ただ佐宗も、何も意地悪でそうしているわけではないのだろう。きっと無意識だ。ほとんど話をしたことのない僕よりも、高森のほうが断然話しやすい。人当たりもずっといい。狐先輩は僕のことをよく知らないし、同じように高森のことも知らない。だから僕たちを平等に、同等に扱う。
佐宗が高森に向かって何ごとか話しかけ、高森も笑顔でそれに応じた。それから高森は、僕に同意を求めてくる。
「いいよね、織部」
そう言われて僕は頷いたが、二人がいったい何の話をしていたのか実のところ少しも聞いてはいなかった。まったく別のことに注意が向いていた。そのため佐宗の言葉は、取り立てて何の意味もない音としてただ僕の耳元を緩く撫でていっただけだった。
僕が考えていたのは高森のことで、佐宗とも、狐先輩とも、もちろん僕ともそつなく会話をこなす高森は、人付き合いがうまく、中学のころは何かしらがあってうまくいかなかったのかもしれないが、そうだとしてもそのほうがまれなのであって、言うなれば誰とでも円滑にやっていける能力があるわけで、どういうつもりか僕にばかりかまってくるが、つまり僕じゃなくてもいいのだろうと思うのだ。
ウォーミングアップをすませたあと、ほかの部員に混じってシュート練習に参加させてもらった。レイアップシュートというやつだ。ゴールまでドリブルをしていってシュートを打つわけだが、ドリブルはすっぽ抜けて明後日の方向に飛んでいき、打ったシュートは百発百中でリングに当たって跳ね返された。こんなスポーツの何が楽しいんだ。
「織部、だいぶ運動音痴だな」
僕が舌打ちを喉の奥で必死に噛み殺しながらボールに遊ばれていると、すぐ傍で高森がおかしそうにくつくつと笑った。高森が放ったボールが吸い込まれるようにゴールに入り、パスッ、と小気味よい音を立てる。
高森は僕よりも断然うまかった。ドリブルは安定して続いていたし、シュートも三回に一、二回くらいは決めている。狐先輩からも褒められていたし、佐宗も感心した様子だった。ちなみに二人からの僕に対するコメントはなかった。ドンマイ、とだけ言われた。一生分のドンマイを聞いた気分だ。すでにドンマイに食傷している。
もう僕抜きで、高森はこのまますぐに入部すればいいんじゃないかと思う。
先ほど僕が同意を求められたのは、体験入部の練習メニューについてだった。これから行うレイアップシュートに参加してもらおうと思っているのだがどうか、と訊かれたのだ。僕は練習内容に口だしできるほどバスケに精通していないし、そもそも体験に来ている立場なのだからいいも悪いもない。言われたことに従うだけだ。
順番にシュート練習を行うため、並んで自分の順番を待ち、シュートを打ち終わったらまた列の最後尾に戻る。練習の流れとしてはそのような感じだった。それを延々と繰り返す。僕たちもほかの部員に混じってその列に加わっていた。
シュートを打ち終わった僕と高森は、また順番待ちのため列の後ろについた。部員は互いに声かけなどを行っていたが、高森はやや声を低めて僕との会話を続けてくる。
「織部、体育の授業のときもできるだけ動こうとしないもんな。すごい省エネだなって見てていつも思ってた」
「球技が嫌いなだけだ。ほかのスポーツならもう少しマシにやれる」
「たとえばどんな?」
「ひたすら、走るだけとか」
ただし持久力はそこまで続かない。省エネですませられるのならそうしたいのも事実だった。
高森は僕の言葉に納得したように何度か頷いた。
「まあ、織部はチームプレイよりも一人で黙々とこなすほうが性に合ってる感じはする」
「よくわかってるじゃないか」
だいたい僕は人付き合いが得意ではないのだから、チームを組むスポーツなどどう考えても不向きなのだ。考えなくても不向きだ。バスケもサッカーも野球も例外ではない。逆立ちしたってそれは変わらない。
なぜ僕はこんなところでバスケ部の練習に参加して、ボールに遊ばれ醜態をさらしているのだろうか。今さらながらものすごく疑問になる。とても無意味だ。少しむなしい。
「佐宗がボールを触ってたときは何だかボールが別の生き物みたいに思えたもんだけど、僕が触っても別の生き物だったな。気性は全然違うけど」
「織部のボールはじゃじゃ馬だな」
「うるさいな。ちょっと黙れよ」
「……自分から言いだしたんだろ」
まわりに聞こえないように声を低めているとはいえこんな話を狐先輩に聞かれたらことだと思ったが、真剣に練習に打ち込んでいる様子だったのでおそらく聞いてはいなかっただろう。僕たちが不真面目すぎるのだ。
狐先輩がシュートを打つと、部員がことさら沸いた。先ほど体育館の隅で練習風景を見学しているときに佐宗はうまいものだと思ったが、狐先輩はそれ以上だった。
ボールを手にすると少し人が変わったようになる気がする。糸目は開かれて、さながら獰猛な狐だった。そして正確に次々とシュートを決めていく。ふだんはあざとい狐といったふうだ。狐であることに変わりはない。
三十分くらいボールに遊ばれ続けて、僕のバスケ部への体験入部は終了した。途轍もなく長い時間のように思えたし、途中からはただの苦行だった。疲労感が半端ない。軽い気持ちで高森に付き合ってしまったことを後悔する。
「よかったらまた来てね」
狐先輩は人当たりのいい笑顔を向けて僕と高森にそう言った。獰猛な狐からふだんのあざとい狐に戻っていた。最初のころに比べて口調も少しくだけている。
「ありがとうございます」
明るい声で答える高森に合わせて、僕も隣で小さく頭を下げる。まあもう来ることはないだろう。高森にしてみても礼は言ったが、「はい」とは言わなかった。
邪魔にならないように体育館の隅に移動してジャージから制服に着替えた。佐宗からの誘いは突然だったのでタオルなどの用意がなく、僕は体操着の裾をつまんで上下に煽ぎ、風を送ってひとしきり汗が引くまで待った。
動きまわったためにずいぶんと汗を掻いた。ふだん体育の授業でもこんなに汗みどろにはならない。省エネで通しているからだ。僕にしては真面目に付き合ったものだと思う。こめかみをつうっと汗が伝い、ジャージの袖で拭った。
僕と高森が抜けたあとも部員たちは変わらずに練習を続けていた。僕は三十分ばかり運動しただけですっかりバテているが、部員たちの動きは少しも衰えていない。よくこれだけスタミナが続くものだなと感心する。これが運動部と帰宅部の違いなのだろう。
見学前に自動販売機で水を買っておいたのは正解だった。僕は蓋を開け、一気に半分くらいを飲んだ。鞄に入れたままの水はだいぶ温んでいたが、それでもカラカラに乾いた喉を潤すにはじゅうぶんだった。
高森もジャージから制服に着替え終わると、同じように購入していた水を喉を鳴らして飲んだ。
そこへ、佐宗が小走りにこちらに向かってくるのが見えた。
「今日はありがとうな」
僕たちの前で立ち止まり、胸の前で両手を合わせて拝むかたちをつくる。立ち止まったときに運動靴の底と床が擦れて、キュッと高い音が鳴った。視線を合わせるために背中をまるめて、やや前屈みの姿勢になっている。
「ほんと、助かった。先輩も機嫌よさそうだったし」
「それならよかったよ」
答えるのはやはり高森だ。楽しそうに笑顔で佐宗と話している。僕は高森の横で二人のはずむ話を聞きながら、ぼんやりとしていた。かたちだけは会話に参加しているていをとる。
「本当に入部してくれたらもっといいんだけどな」
佐宗はそう言ってにやりと笑った。高森はそれに対しては笑顔のみで返した。佐宗も本気で言っているわけではないだろう。それに高森はともかく、僕が入部したところでてんで役立たずだ。そもそも僕には言っていないのかもしれないが。
僕たちは佐宗に見送られて、体育館をあとにした。狐先輩も心やすげにひらひらと手を振ってくる。僕と高森はそれに会釈で応じた。
そういえば顧問教諭は僕たちが練習に参加しているあいだには来なかった。結局、誰が顧問なのかわからずじまいだ。
教師というのも重労働だなと思う。
「織部、部活入る?」
佐宗と別れ、校門を出たところで高森にそう訊ねられる。いつもよりも下校時間が遅いため、空はだいぶ暮れかけていた。それだけで何だか一気に気分が沈む。加えて全身のだるさもある。肩にかけた通学鞄のずっしりとした重みも相俟って、歩みは遅い。高森はまだ僕ほど疲れている感じはなかったが、歩む速度は緩やかだった。歩幅を僕に合わせてくれているのかもしれなかった。
「僕が部活動をやるように見えるのか?」
「いや、見えないな。特に運動部でアクティブに動きまわってる姿なんてまったく想像つかない」
「……何かいろいろと引っかかる物言いだけど、実際そうだな」
高森はおかしそうにくつくつ笑った。僕は肺に溜まっていた空気をすべて吐きだすように、大きく長い溜息をついた。
「取り敢えず、体験入部が無事に終わってよかった」
言葉にすると何だか本当に体が軽やかになった気がする。
「そうだな」
「実際は一時間かそこいらくらいだったけど、何時間も拘束されてた気分だ」
「拘束って言いかたが織部らしいな」
高森はそれから思いだしたように鞄をごそごそとあさりはじめた。飴の包みを引っ張りだしてくる。それを僕のほうに差しだした。
「食べる?」
僕は高森の手からそれを受け取った。檸檬味の飴だ。前にも同じシチュエーションがあったなと思いながら飴を受け取ったのだが、味まで同じだった。
「これ、前に母さんがあげたやつか?」
「同じやつだけど、さすがに貰ったやつは食べちゃったよ。それはおれが新しく買ったやつ。おいしかったから。でもなかなか売ってなくて、見つけるのに苦労した」
「そうなのか? 母さんは近所のスーパーで買ってたと思うけどな。確か山ほど置いてあった」
「うちのほうにはなかったんだ。入荷する商品がちょっとずつ違うのかもな」
包みを開いて飴玉を口に放りながら、僕はふうんと相槌を打った。ほのかな酸っぱさがわずかに舌を刺激する。僕の母親が買ったものを高森にあげ、それを気に入ってまた高森が買う。こうやって何か伝播していくのが何だか不思議な縁に思う。
「それで、高森はどうするんだ。部活に入るのか?」
高森も飴玉の包みを開くと口に含んだ。カラコロと飴玉を口のなかで転がす。ゆるゆると首を振った。
「入んない」
それは半ば予想していた返答ではあった。
高森は僕と違ってあからさまに態度に出すことはないが、佐宗の話に最初から興味がないのだろうことは見ていてわかった。佐宗の顔を立てるために一応は見学したまでだろう。本来、高森はそういう気遣いをする性格なのだ。僕といるときはなぜだか無遠慮なことが多く、そのことをつい忘れがちだが。
それから狐先輩ともあまり気が合わなそうに思う。悪い先輩ではなかったが、こればかりはしかたがないだろう。
「高森もスポーツ系は苦手なのか?」
高森が入部しない理由に半ばの予測をつけながらも、僕はあえて少し違うことを訊ねた。高森は飴玉を口のなかで転がしながら、少し唇を尖らせた。
「まあ、おれもスポーツはそこまで得意なわけじゃないけど。でもいちばんの理由はそこじゃなくて」
「何だよ」
「だって部活に入ったら、放課後織部んちに行けなくなっちゃうから」
その返答に僕は思わず面食らう。
先ほど僕もちらりと同じようなことを考えはした。もしも部活に入ったとしたら、高森が僕の家に来ることはなくなる。ただ高森の口からも改めてその話が出てくるとは思っていなかったし、それがいちばんの理由であるというのはなおさらだった。
単純に、部活動が億劫だとか、先輩との折り合いの問題ではないのか。
「……別に部活で一緒に過ごすのも放課後うちに来るのも似たようなものじゃないのか」
「織部、部活入らないんじゃなかったの」
「入らないけど」
「じゃあ、前提からしておかしいじゃないか。それに部活で一緒になるのと放課後織部んちに行くのとではずいぶん違うよ」
「どこが」
「おれは、織部の家で織部とゆっくり過ごすのが気に入ってるんだよ。織部の家で気儘に勉強したり、何かくだらないことをだらだら話したり、そういうのが好きなんだ。自分の家で勉強するより捗るし、あとエンゼルフィッシュの様子だって気になるし。部活に入ったら、そういうの全部できなくなっちゃうだろ。それが嫌なんだ」
「……ふうん、」
「気のない相槌だな」
高森は苦笑する。僕の態度が、高森の話にまるで興味がないように映ったのだろう。
だが僕が生返事だったのはけっして高森の話がどうでもよかったわけではなかった。僕は少し、違うことを考えていたのだ。
「……高森は、僕と二人でいて平気なのか」
ふいにそんな言葉が口を突く。言ってしまってから、言わなければよかったとすぐに後悔した。高森相手に僕はいったい何を口走っているのだろう。変なことを訊いた。
「……平気って、何。どういう意味?」
高森は案の定、怪訝そうに眉間に皺を寄せて僕を見てきた。
僕はためらった。ついうっかり口を突いて出てきてしまったものの、この話はできればもう掘り下げたくなかった。だが僕から切りだした手前、そうもいかないのだろう。
しょうがなく、口を開く。
「……気まずくなったりとか、」
「ならないよ。なってたらこんなにずっと一緒にいないだろ」
「それはまあ、そうなんだろうけど」
「織部、どうかした? 何か変じゃない?」
「……別に何も変なことはないけど」
僕は高森の問いを否定した。そうしてこのままここで強引に話を終わらせてしまいたかったのだが、高森はそれでは納得しなかった。
「何もないことないだろ。何かあったから、いきなりそんな話してきたんじゃないの」
執拗な追及に閉口する。こいつふだんは冴えるくらいに空気を読むくせに、何でこういうときに限って引き下がらないんだ。
「……佐宗は、僕と二人だと話しづらそうにしてたから」
観念して、僕はそう答える。
佐宗の、僕と高森に対するあきらかに異なる態度が先ほどからしこりのようになって引っかかり、僕を苛んでいた。こんなことが気にかかるようになるなんて、僕もおかしい。
「そんなの、まだあんまり話したことがないからただ慣れてないだけじゃないのか」
「でも、だいたいみんなそんな感じだろう。佐宗に限らない」
「おれは違うけど」
高森は即座に僕の言葉を否定する。
「おれは織部と一緒にいて気まずいと思ったことはないし、話しづらくもないよ。それじゃだめなの」
「だめってことはないけど」
「……けど?」
僕は黙った。自分のなかでもやもやと渦巻いているこの感情をどういうふうに形容すればいいのかがわからない。歯切れの悪い僕の返答に、高森はしばらく唇を噛んで僕の顔を眺めていた。
「おれ、織部とは抜群に相性がいいと思ってるんだけどな」
それからふいに、少しおどけた調子で笑ってそう口にする。
「おれほど織部と相性いいやつ、ほかにいないと思うんだ。絶対に骨抜きにする自信がある」
「……言ってろ」
冗談とも本気ともつかない高森のいつもの調子に、僕はあきれ声で返す。高森なりに場の空気を取り繕おうと気を遣った結果なのかもしれなかった。
「でも高森は、僕だけじゃなくて佐宗とだって楽しそうに話してたろう」
それから少し、やり返してやろうという気持ちが僕のなかで湧いてくる。いつもいつも振りまわされてばかりも癪だ。
「それなら案外、僕よりも佐宗のほうが相性がよかったりするんじゃないのか。よすぎて、やみつきになるかもしれないぞ」
とたんに高森の顔から笑みが消えた。すっ、と真顔になって、ほんの少し機嫌が悪そうに眉根を寄せる。その反応は予想外だったため、僕は戸惑った。唾を飲みこむと、体の内側からごくんと異様に大きな音が響いた。
自分からこういう話をするのはかまわないくせに、僕から言われるのは好まないのだろうか。何だか少し理不尽だ。
「……そりゃ、佐宗とも話くらいはするけど」
高森が口を開く。
声にも少し機嫌の悪さが滲みでている。高森がこんなふうに不機嫌をあらわにするのは珍しい。いつも捉えどころがない感じで飄々としているし、僕と違って感情のコントロールはうまいはずだ。
よけいなことを言うとまた高森の神経を逆撫でしそうで、僕はただじっと黙って高森の言葉を聞いていた。
高森は一度俯き、感情を落ち着けるようにふうっと息を吐いた。それから顔を上げて僕を見る。薄緑色の目がゆらゆらと揺れている。
「おれは、織部がいいんだよ。佐宗じゃなくて」
ゆっくりと、そう続けた。
背骨の中心をぞくぞくとした感覚が一瞬で駆け抜けていき、体じゅうに広がった。寒いわけでもないのに、全身がぶるりと震える。酸欠のように頭がくらくらした。
僕がいい。僕が。高森のその言葉はけっして僕を不快にはしなかった。今のは、そういう種類の感覚ではなかった。じゃあ何なのかと言われれば、わからない。ただ正体不明のぞくぞくがどうしようもなく僕の全身を駆け巡っている。
「飴、」
「ん?」
「飴、もう一個くれないか」
僕はわざと話題を変えた。そうやってそのぞくぞくを飲みこんで、正体を探るのを保留した。
「何個でも食べたらいいよ」
高森もべつだん僕に対して何かを言うことはなかった。わざとらしく急に話題を変えたことを咎めもしない。こういうとき、高森は無言で僕を赦すのだ。きっと僕はそれもわかっていた。
高森は鞄から檸檬飴の入った袋を取りだすと、笑って僕のほうに差しだす。機嫌はもう直っているようだった。僕は高森が差しだした袋のなかに手を入れると、指先に触れた飴の包みをひとつつまみとった。
包装紙を開いて飴玉を口に放る。檸檬味の飴は先ほど口にしたときよりもことさらに酸っぱく感じて、僕の舌をぴりぴりと痺れさせた。まるで毒を飲んだ気分だ。
痺れた舌の根を、奥歯で甘く噛む。舌を噛み切ったわけではないだろうが、わずかに血の味が混じって感じる。
高森も袋から包みをひとつ取りだすと、包装紙を開いて僕と同じように口に放った。毒のような飴玉は、高森の舌も痺れさせるのだろうか。僕はじっと高森の様子を観察していたが、もちろん高森は平然としていた。
「……今日はどうする。遅くなったけど、少しうちに寄ってくか? 母さんが帰ってくるまでには、まだもう少し時間があるだろうし」
さすがに今日はもうこのまま解散だろうと思っていたが、気が変わる。痺れた舌のまま高森にそう訊ねると、高森は嬉しそうに顔をほころばせた。こくりと頷く。
「じゃあ、エンゼルフィッシュの様子だけ見てく」
「ずいぶん気に入ってるんだな、熱帯魚」
「うん。懐いてて可愛い」
「じゃあ、餌やりをやったらいい」
「いいの?」
「やりすぎるなよ」
「わかってるよ」
そんなふうに会話を続けながら、僕と高森は並んでゆるゆると駅まで歩いた。
ぞくぞくはまだ僕の腹の底でくすぶっていた。高森に気取られないよう、僕はそれを飴玉と一緒に深く飲みこんだ。