午前の授業が終わって昼休憩に入るのと同時に、多くの生徒が足早に教室を出ていった。購買に向かうのだ。購買には日替わりの目玉商品があり、毎日それを楽しみにしている生徒も多い。
 今日の目玉は特製クリームパンだった。クリームパンは定番商品としても存在するのだが、目玉商品のクリームパンは特製と冠するだけあってひと味違う。まず、カスタードクリームの量が桁違いだ。ずっしりと重量を感じるほど贅沢に入ったカスタードクリームは、しかし甘すぎず、パン生地ともほどよく調和している。パン生地も軽やかで、口当たりがよい。それでいてお値段は定番のクリームパンと変わらないから、お得感が半端ない。特に女生徒に人気の商品だが、かくいう僕もこのクリームパンは好きだった。
 もしかすると高森も今日、特製クリームパンを買うつもりでいたのかもしれない。今にも教室を出て、購買に向かおうとしている。
「高森」
 僕はその背中に声をかけて呼びとめる。呼ばれた高森は教室を出る直前で立ち止まると、振り返って僕を見た。
「今日は購買には行かない」
 そう言うと少し意外そうな顔をして小首を傾げた。僕も高森もふだんは弁当ではないから、昼になるとまず購買に行くのが常だった。
「持ってきてるの?」
「まあ、そんなところ」
「珍しいな。じゃあ、おれだけ買ってくるよ」
 高森は僕から離れて再び教室の外に向かおうとする。僕はすぐさまその腕を引っ張った。話がうまく伝わっていないようだ。
「いや。違う。高森も行かなくていい」
「でもおれ、お昼持ってきてないんだけど」
 怪訝そうに眉根を寄せる。僕は高森に事情を説明するために口を開きかけた。そのあいだにもまた多くの生徒が談笑しながら僕たちの脇をすり抜け、教室から廊下へと流れていった。購買に向かう生徒のほか、教室以外の場所で食べるグループもあるだろう。
 出入り口付近で立ち止まっていたせいで、向こうからやってきた男子生徒数人のグループのうちの一人と高森がぶつかりそうになった。男子生徒ははしゃいだ様子でバラエティ番組か何かの話題に夢中になっていて、よそ見をしていたためにそこに立つ高森に気がつかなかったのだろう。接触する寸前で、高森が慌てて体を横にずらして何とか避けた。
「あ、わりぃ」
 ぶつかりそうになった男子生徒がようやく気がついて、片手を顔の前で手刀のかたちに挙げて謝る。高森もひらひらと手を振ってそれに応じた。
 佐宗という名前の男子生徒だった。
 硬そうな髪の毛を短く刈っていて、いかにもスポーツマン然としている。上背もある。サッカー部か野球部だったと思う。クラスのなかでも目立つ部類の生徒だ。佐宗は足早に廊下に出ると、少し先を歩いていた自身のグループの男子と合流してそのまま歩き去った。購買に向かったのだろう。
 高森は佐宗の後ろ姿をしばらく目で追っていたが、やがてその視線は廊下を行き交うほかの生徒の波に移った。目玉の特製クリームパンに限らず、人気の商品は早めに行かなければすぐに売りきれてしまう。おそらくそれを気にしているのだろう。それでも僕を振りきって出ていかないあたりが高森らしい。
 購買の事情はもちろん僕も承知しているが、何も意地悪で高森を呼びとめたわけではない。今日は事情が違うのだ。
「いいから。飲み物だけ用意しろよ」
 僕は自分の席から通学鞄を持ってきて肩にかけた。ずしりと重い。
「……帰るの、」
 ふだんは昼に鞄まで持っていくことはないからだろう。高森はいよいよ不審そうな顔になった。僕は首を振ってそれを否定し、それからここでこれ以上の説明をするのが急激に億劫になる。とにかく一刻も早く教室から離れたい。
 僕は高森の腕を掴むと、無理遣り引っ張ってそのまま教室を出た。手を引いたまま、廊下を歩く生徒のあいだを縫ってずんずんと進む。
 急に腕を引っ張られた高森は足を縺れさせて転びそうになっていた。それでも僕は立ち止まらなかったし、高森を気にかけることもしない。高森は何度か転びそうになりながらも、何とか不安定な体勢を立て直した。
「織部。ちょ、ちょっと待って、」
 背後から抗議の声を上げてくるが、それも無視する。僕の意識は、肩から提げた通学鞄に向けられていた。鞄のなかにあるものの存在が、朝からずっと気懸かりでしかたがなかった。万が一にも誰かに見られたりしたら面倒だ。
 廊下を歩いている途中で、飲み物を調達していないことに今さらながら気がついた。ちょうど隅のほうにある自動販売機が目に入って思いだした。僕は一度立ち止まって財布から小銭を取りだすと、自動販売機でペットボトルのお茶を買った。
「高森も買ったら? 飲み物」
 僕の少し後ろに困惑顔で立っている高森を振り返る。高森は無言でポケットから財布を取りだすと、小銭を入れて僕と同じお茶を購入した。機械的に僕と同じものを選んだあたり、もはや考えることを放棄したのかもしれない。何の説明もしない僕におとなしくただ従っている。
 購入したペットボトルのお茶を鞄にしまい、僕は再び歩きだした。高森もあとからついてくる。行き場のない感情を僕の代わりにペットボトルにぶつけているのか、手にしたお茶を緩く上下に振っている。お茶が盛大に泡立っているがいいのだろうか。僕のお茶ではないので、僕はいっこうにかまわないのだが。
 校舎から中庭に出る。
 そのあいだも、通学鞄はしっかりと肩にかけたままだ。ときどき中身を確かめるように外側から触れた。布越しに固い手触りがある。
 中庭もまた、昼食をとる生徒たちで賑わっていた。ふだんなら僕もこのあたりの空いている場所に混じるところだが、今日は楽しそうな彼らを尻目にそのまま通りすぎる。できるだけひと気のない場所を探していた。しかし昼休憩ということもあり、どこもかしこも人が多い。
 人目を避けて最終的にたどり着いたのは、校舎裏だった。
 校舎裏にはまるで人影がなかった。外はいい天気だったが校舎の陰になっているためにその恩恵はまったくもって受けられず、頗る陰気な感じがした。ここまでは整備もあまり行き届いていないのか、雑草も鬱蒼と繁り放題だ。
 昼食をとる場所として不人気なのも頷ける。おそらくここならばトイレの個室に籠もったほうがまだ快適だろう。ただし特有の淀んだ空気には目をつぶる必要がある。
 校舎裏の惨状は、今日の僕が求めていた最適の環境だった。
 雑草に覆われるなか、何とか座れそうな石段があったのは助かった。僕は迷いなく歩いていって、すとんとそこに腰を落ち着ける。ようやく人心地着いた気分だ。目の前に胡乱な表情で立ち尽くしている高森を見上げる。
「座れば」
「ここに?」
「ここに」
 高森は僕の座っている石段に視線を落とし、わずかに眉をひそめた。手に持ったペットボトルのお茶の泡立った部分がゆっくりとはじけて崩れていく。
「制服汚れないかな」
「そりゃあ多少は汚れるだろうな。でも濡れてるわけでもないし、そんなに気にするほどでもないだろう。けっこう神経質なんだな」
「そういうわけじゃないけど。むしろ織部がまったく頓着しないほうが意外……、ああ、でもそうでもないのか。わりとそういうところあるもんな」
 ぶつぶつと独りごちながら、諦めたように結局はすとんと僕の隣に座る。それでようやく落ち着いたのか、まだ少し泡立ったままのペットボトルの蓋を開けてひと口飲んだ。
 僕はもう一度周囲を見渡して、ほかに人がいないことをじゅうぶんに確かめるとようやく通学鞄をそろそろと開けた。ずっと肩からかけていたせいで重みの名残がまだ肩に残っている。
 なかからサッカーボールほどの大きさの包みを取りだし、それを僕と高森が座る石段のあいだに置いた。固く結ばれた風呂敷の結び目をほどく。はらり、と風呂敷が地面に広がる。
「お弁当?」
 なかから現れたそれを見て高森が言う。僕は頷いた。
「今朝は余裕があったとかで、母さんがな」
 今日は直接客先に出向くとかで出勤時間がいつもより遅めだったためだろう。それでも早くから起床して準備をしていた様子だった。
「それにしても、何でこんなひと気のないとこに」
「人の多い場所で堂々と広げたくなかったからだよ。こんなでかいの」
 僕は顎をしゃくって風呂敷包みの上のそれを示す。
 一般的な弁当箱というより、重箱だった。漆塗りで赤杢目の三段重だ。そう、三段重だった。蓋に桜の模様の蒔絵が金色で描かれている。
「高森と一緒に食べろって。鞄のなかを占領して、まったく今朝から邪魔でしょうがない」
 溜息と一緒に僕はぼやいた。
 今朝から鞄を開けるたびに、我が物顔で鞄のなかを占領する重箱の風呂敷包みが真っ先に目についた。それだけ存在感の主張が激しかった。おかげで教科書やノートなどの必要なものが鞄の隅に追いやられる始末だ。学生の本分は勉強のはずだが。
「おれのぶんまで作ってくれたんだ」
 購買に行く必要がないと僕が言ったその理由を高森はここで理解した。おれのぶん、と繰り返して嬉しそうに瞳をきらきらさせている。ようやく思考が働きはじめたらしい。
「母さん、高森のこと気に入ってるからな。あれからしょっちゅう、高森くん、高森くんって言ってて正直うるさい」
 言わずもがな高森が僕の家で晩ごはんを食べて帰った日のことだ。
 高森は顔を上げて重箱から僕へと視線を移すと、へらっと締まりのない笑みを浮かべた。
「織部のお母さん公認になれて嬉しいよ」
「……そうかよ」
 相変わらず冗談なのか何なのかよくわからないことを言う。
「今度母さんに連絡先教えてやれば。きっと喜ぶんじゃないか」
「それはさすがにちょっと緊張するな」
「まあ、慣れだろう。あんなんだけど、害はない」
「ずいぶんな言いようだな。いいお母さんだったじゃないか」
「それならなおさら高森が相手してやれよ。高森のほうが僕よりちゃんと話を聞くから、張り合いがありそうだったし」
「……いや。やっぱりおれは織部にメッセージ送るから、織部からお母さんに伝達してよ」
「面倒だから嫌だ。何で僕がそんな七面倒くさい仲介をしなくちゃならないんだよ」
 そんな伝書鳩みたいな役割はご免だ。最初から素直に高森と母親でやりとりをすればいいじゃないか。高森と母親が「おともだち」になろうが、僕はいっこうにかまわない。いつも僕に送ってくる猫のスタンプでも送ってやれば母親も喜ぶだろうに。
 高森は曖昧に笑ってお茶を濁した。
 長々と引っ張るような内容でもなかったので僕もその話題を深追いはせず、目の前の三段重に意識を戻した。昼休憩の時間は限られているのだから、よけいなことで時間を潰している場合ではない。
 桜の蒔絵が描かれた蓋を開け、石段の空いた場所に一段ずつ並べていった。重箱は一段目に俵型に握られた具材のさまざまなおにぎり、二段目に卵焼きやプチトマト、ポテトサラダや豆類などの野菜、三段目に唐揚げやウインナーなど重めのおかずが詰められていた。
「おいしそう」
 並べられた三段ぶんのおかずを眺めながら、はしゃいだ声で高森が言う。先ほどから思っていたが、どうやら相当に弁当が嬉しいらしい。
 どうせならふつうの弁当箱に一人分ずつ分けて作ってくれれば、僕もまだここまで苦労しなかったのだが。弁当を作ろうと思い立って、よりにもよってなぜ重箱をチョイスしたのか理解に苦しむ。運動会でもないのにこれを持たせる母親も母親だ。何でもない平日なのにイベントごとが待ちきれないイベント大好き野郎みたいじゃないか、僕が。
 朝、母親から、今日はお弁当を作ったからとうきうきとした声で言われてテーブルの上に置かれたこれを見たときに僕はだいぶ絶望的な気分になった。作ってくれたことじたいはありがたいが、これとそれとは話が別だ。こんなものを誰かに見られるわけにはいかない。絶対に死守しなければと誓った。
 中身の詰まった重箱は重いし鞄のなかで幅をとるし、少しでも傾けると中身がこぼれてしまいそうで学校に持ってくるまでに実に神経を使った。最悪だった。僕はひいひい言いながら登校した。遅刻したら母親のせいだと思ったが、こんなときに限って遅刻はしなかった。
「ほら」
 僕は重箱と一緒に風呂敷のなかに包まれていた箸のうちの一膳を高森に渡した。さすがに割り箸だった。高森は礼を言ってそれを受け取ると、袋から出してきれいにふたつに割った。
「どれ食べてもいいの」
「好きに食べろよ。だいたいおかずは偶数個ずつ入ってるし」
「じゃあ、遠慮なく。いただきます」
 両手を合わせて小さく頭を下げる。唐揚げをつまんで口に入れ、咀嚼する。次にポテトサラダを取った。レタスも取って口に入れる。すべて飲みこんでから、嬉しそうに僕を見た。
「何かピクニックみたいだな」
 弁当に浮き足立っていた理由はこれだったのだろう。ピクニックで喜ぶのか。
「そうだな」
 僕はまだ弁当には手をつけない。箸も用意していない。その前にやることがあった。
 重箱と反対側に置いてあった鞄を探り、スマホを取りだした。画面を操作してカメラを起動する。それを顔の前で構えてレンズを高森のほうに向け、弁当を食べているところを写真に撮った。カシャリ、と音が鳴った。
 急に写真を撮られた高森は動きを止めて、怪訝そうな視線を僕に向けた。
「何で急に写真なんか」
「母さんに、僕がちゃんと高森と一緒に食べてるか証拠の写真を送れって言われてるんだ」
 説明しながら、今しがた無断で撮った高森の写真をメッセージアプリを開いて母親に送る。面倒なので文章はつけない。写真だけを送りつける。まあ文章がなくても見れば状況はわかるだろう。高森が唐揚げを頬張った瞬間の一枚だった。まあまあよく撮れていると思う。
 高森くんを誘わないで一人で食べちゃうかもしれないし、と母親は言っていたが、さすがにこの量を一人で食べきるのは無理がある。僕もそこまで大食いではない。母親に言われるまでもなく、ぜひとも高森に協力を仰ぎたい。
 それから、それが母親の作戦だったのかもしれないとふいに思い至る。個別の弁当ふたつであれば、分けやすい。つまりどうしても一緒に食べる必要性のある状況とはなりにくい。だからあえてひとつの重箱なのか。
 僕はすっと合点がいったが、そうかといってそれを粋な計らいとは言ってやらない。理由がわかったところではた迷惑なことに変わりはないのだ。
 高森は一度箸を置いた。ズボンのポケットから自分のスマホを取りだす。
「おれも織部の写真撮っていい?」
 そう許可を求めてくる。
「……僕は関係ないだろう」
「でもおれだけ撮られるのも何となくフェアじゃない気がするんだけど。不意打ちだったし」
「無断で撮ったのは悪かったけど、しょうがないだろ。無視するとあとで母さんがうるさくて面倒なんだ。わかるだろ。それなら最初から素直に従っておいたほうが後々面倒にならなくていい。諦めておとなしく被写体になってろよ」
「じゃあ、二人で一緒に撮ろうよ。ちゃんとお弁当も入れて。さっきの、あんまりお弁当写ってなかったんじゃない? それにきっとおれ一人より、織部と二人で一緒に写ってたほうがお昼の証拠写真として織部のお母さんも納得するんじゃないかな」
 高森はそう言うと僕の返答を待たず、体を傾げてこちらにすっと上半身を寄せてきた。突然の至近距離に僕は少し面食らう。きゅっと全身に力が入る。
 嗅ぎ慣れない洗剤のにおいが一瞬ふわりと鼻先を掠めた気がした。僕の家とは違う、高森の家の洗剤のにおいだ。着崩さずに着た制服の白いシャツから香ってくるのだろう。
 高森と僕の制服の肩口がわずかに触れていた。密着したその部分から、高森の体温が僕に移る。布越しだというのにそれは思いのほか熱かった。その熱さの一点に意識が集中して、少しのぼせたような感覚に陥る。高森の静かな呼気が頬を撫でた。血の通った生き物、僕とは違う一個体なのだと当たり前のことを再認識する。
 こうやって互いに体を寄せなければフレームに収まりきらないのは理屈として理解はしているが、他人の熱をここまで近くに感じとれるほど誰かと体を触れ合わせた経験は僕にはなかった。ばかみたいに動揺する。地面に置いた指先に力が籠もり、砂の粒を潰してちりっと痛んだ。
 高森はまるで気にかけたふうもない。内部カメラに切り替え、少し高い位置でスマホを構えている。角度や位置を何度も変えた。そのたびに唇を噛んで、喉の奥で小さく唸る。弁当と僕たち二人がうまく収まる絶妙な構図を探すほうに余念がないようだ。
 悟られないように高森のほうを横目で盗み見ると、つるりとした白い頬が間近にあった。そこに長い睫毛の影が落ちている。校舎裏はほとんど陽射しが入らないが、それでも真上からわずかな光が射していた。
 そういえばこいつ睫毛長いんだよな、これだけ長いと空中の埃とかしょっちゅう絡まってそうだな、などと何だかどうでもいいことを僕は終始考えていた。
 それからしばらくのあいだ、僕は高森が瞼を動かすたびに一緒に動くふさふさと長い睫毛を観察していた。ふわふわと空中を舞う埃がその睫毛の先に音もなく着地する瞬間を目撃してやろうと真剣だった。
「やっぱりお弁当を置いたままじゃうまく入りきらないな」
 突然、高森がぱっとこちらを見る。いつもよりも近い位置から薄緑色の瞳に見つめられる。ふだんよりも距離が近いぶん、その色によけいに目が眩み、平衡感覚を失った。自分の座っている場所にきちんと地面があるのかどうかすらわからなくなる。
「織部、悪いんだけどお弁当を手に持っててもらえない? 下に置いたままだとうまく写真に入りきらない」
「……わかった」
 言われたとおり、僕は三段あるうちのひとつを手に持って胸の前で抱えた。視線は高森の持つスマホのカメラに向けなければならないので、手元が見えずに万が一斜めになってもいちばん中身がこぼれにくそうなおにぎりの段を選んだ。ほかのおかずの段のほうが彩りもあり見映えもするだろうが、このさい気にしていられない。高森も弁当の内容については特に注文をつけなかった。
 そもそも僕にはさほど注意を払っていない。目の前に翳したスマホの角度を数ミリ単位で微調整している。意外にこういうことにまめなのだ。
 ようやく納得のいく構図が決まった様子で、高森はボタンを押して写真を撮った。パシャリ、と軽い音が鳴って一瞬が切り取られる。笑顔をつくりきれていないぎこちない顔をした僕と、対照的に楽しげな表情の高森が写る。
「どう?」
 高森は撮ったばかりの写真を僕に見せてくる。どうと言われてもどうなんだ。
「……いいんじゃないのか」
 よくわからないので適当に答える。
 正直にいえば写真のなかの僕は真顔とも笑顔とも形容できずどっちつかずの途轍もなく微妙な顔をしているわけだが、だからといってリテイクする気にはならない。何度やり直したところで結果は何も変わらないように思えた。
 僕はいきなり笑えと言われて笑えるタイプではない。上辺だけの笑顔もつくれない。だから集合写真などこの手のものはいつも能面のような無表情で写っている。今までそれを悪いと思ったこともなかった。
 しかし高森の横に並ぶと僕のぎこちなさがよく目立ち、今日ばかりはなぜだかそれを疎ましく感じた。
「気に入らなかったらもう一枚撮るけど」
「だからそれでいいって」
「そう?」
 僕は撮影会はもうこれで終いとばかりに、手にしていた重箱をさっさと置いた。もう一枚撮るとなれば、また高森と至近距離に寄って、カメラのシャッターが切られるまでじっとしていなければならない。忘れていた熱を思いだして眩暈のように一瞬視界が揺れて明滅する。あれをもう一度繰り返す気力は僕にはなかった。
 高森はスマホの画面をいじり、撮った写真の出来映えを確かめている。
「待ち受けとかにするのか」
「待ち受けにはしないけど」
「……そうか」
「織部にも送るよ」
 そう言って高森はメッセージアプリで僕に写真を送ってきた。すぐに僕のスマホが振動する。僕はスマホを開くと、高森から送られてきた写真を改めて確認してみた。
 見る機種が変われば発色も多少異なるだろうから、もしかしたら写真の印象も違うのではないかと淡い期待を抱きもしたが、やはり何も変わらなかった。どっちつかずの表情を浮かべた僕と、楽しそうな表情の高森。
 そのまま画面を操作して写真を母親に転送する。それから自分のスマホの画像フォルダにも保存した。あまり写真を撮る習慣はないので、僕のスマホのフォルダの中身は数えるほどしかなかった。
 スマホをしまい、僕たちは昼食を再開した。高森は置いていた箸を手に取って弁当に向き直り、僕もようやく割り箸を袋から出す。箸はいっぽうに偏って少しいびつに割れた。指で触れるとささくれだった繊維が指の腹をちくちくと刺す。こういうのは不得手だ。
「織部のお母さん、さっきの写真で満足してくれるかな」
 おかずをつまみ、お茶を飲みながら高森が言う。
「見るのは仕事の合間か終わってからだろうから、すぐには反応がわからないな。でもまあ大丈夫なんじゃないか。やるだけのことはやったし」
「何だか重要任務を終えたみたいな言い回しだな」
 高森はそう言っておかしそうに肩を揺らしたが、僕にとっては実際そのとおりだった。全身を覆っているのはひと仕事終えたあとのじわじわとした疲労感だ。まさかこれほど高難易度になるとは思わなかった。母親には高森の写真を適当に何枚か撮って送りつけるつもりでいたのだ。高森から一緒に撮ろうと提案されるのは、僕にとってだいぶ想定外だった。
 高森は重箱のなかのおかずを均等に食べていった。その様子を眺めながら、やはり箸の使いかたがきれいだなと感じる。つい眺めてしまう。
「織部? どうかした?」
 僕がろくに手も動かさずあまりに高森の手元を見ていたせいだろう。不思議そうな様子でそう訊ねられる。何ごとか考えてぼうっとしていると思われたのかもしれない。
 少し時間を気にするそぶりを見せた。僕もスマホで時刻を確認する。昼休憩が終わるまで残り二十分くらいといったところだ。早く食べなければ時間がなくなってしまう。重箱を片づけ、校舎裏から教室まで戻る時間も勘定に入れる必要がある。
 僕は慌てて手を動かして唐揚げを頬張ると、ごくりと喉を鳴らしてお茶を飲んだ。それからウインナーを口に放り、プチトマトを食べる。どんどん咀嚼する。食べながら、高森の質問にも答える。
「いや。この前うちでごはん食べていったときも思ったけど、食べかたがきれいだなと思って」
「ああ」
 高森は得心がいったように小さく何度か頷いた。
「そういうのは、小さいころにわりと厳しく躾けられたから」
 僕が予想していたとおりの答えが返ってくる。
「特にお母さんがね。作法には全般厳しかったと思うけど、箸の使いかたはとりわけ厳しかったかな」
「へえ」
「確か家にそういう作法の本がいっぱいあった。それ熟読しておれに教えてたんだ。必死だったんだと思う。もちろん知ったのはある程度大きくなってからだけど」
「そうなのか」
「織部のところはそうでもなかった?」
「どうだろうな。まったく注意されなかったわけじゃないけど、そんなに口を酸っぱくして言われた覚えはないかもな」
 外に出て恥ずかしくない範囲でできていればそれでいい、という程度だろうか。少なくとも作法の本はうちにはないだろう。
「ふうん。まあたいていはそれくらいなんだろうな。おれのところは事情が違うだけで」
 高森はきれいな箸使いで重箱のなかのだし巻き卵をつまみ、口に入れた。ぱっと表情を明るくする。
「このだし巻き卵、すごくおいしい」
 それから続けざまにもうひとつつまんだ。
「おれ、甘くないやつのほうが好きなんだ。織部んちの味付けすごく好みだな」
「そうか。それはよかったな」
 僕もつられてだし巻き卵を食べる。食べ慣れた味なので、高森のような感動はない。ただ僕も、だし巻き卵は甘くないほうが好みだ。
 確か昔は母親も甘いだし巻き卵を作っていたのだ。単純に、子供の口ならばそちらのほうが好きだろうと思っていたのかもしれない。甘いものは好きだが、おかずに関してはそうではない。子供といえどやはり好みは千差万別なのだ。
 僕が甘くないほうが好みだと言ったら、母親は「そうなの?」と意外そうに目を見開いた。それから我が家のだし巻き卵はずっとこの味だ。
「お母さんに伝えておいてよ」
「連絡先教えてやる」
「それはまた別で」
「……まあいいけど、また調子に乗って晩ごはん食べていけとか言われるぞ」
「いいよ。織部がかまわないんだったら、おれはまた一緒に食べたいし」
「そうかよ」
 僕は高森の言葉が冗談なのか本気なのか慎重に見極めようとしたが、結局わからずに諦めた。高森はふだん明朗にしているが、掴みどころのない部分も多い。ただ誰かを傷つける嘘を言うようなやつではないとは思っている。
 そうこうしているうちにあれだけあった重箱の中身はすぐに空になった。重箱が嵩張ることに変わりはないが、中身がなくなって軽くなったぶん持ち帰るのも少し楽だ。
 僕は晴れ晴れとした気持ちで空になった重箱を風呂敷で包み直し、通学鞄にしまった。これで本当に今日の僕の任務は終了した。まだ午後の授業が残っているが、もはや今の僕にとってはどうでもよかった。適当にやりすごすだけだ。
「ご馳走さま」
 高森はそう言って両手を合わせた。
「何かこのあいだから織部のお母さんにご馳走になってばかりだな」
「母さんが好きでやってるんだから、別に遠慮する必要はないだろう。この前も言ったけど、素直に受け取っておけよ」
「うん。ありがとう」
 高森は嬉しそうに笑った。昼休憩も残り少なくなってきたので、僕は高森と並んで少し足早に教室に戻った。高森は立ち上がったあと制服のズボンを念入りにはたいていた。やっぱり気にしていたんじゃないか。



 それからその日の夜、仕事から帰ってきた母親に「送ってくれたあの高森くんとのツーショット写真、待ち受けにしちゃった」といかにも浮かれた調子で報告されて、僕は送ったことをとても後悔する羽目になるのだった。