ばたん、と大きな音を立てて玄関の開く音がした。その瞬間、僕は思いきり顔を顰めた。面倒なことになったなと思う。
「あら」
どたどたと騒がしい音を立ててリビングに入ってきた母親が、そう言ってぴたりと動きを止める。僕の向かいに座っていた高森が顔を上げて母親と僕の顔を交互に見比べ、少し戸惑ったように二、三度瞬きをした。
「……お友達?」
今日は珍しく仕事を早く上がると連絡があったが、予想以上に早かったようだ。早いといってもどうせ一時間かそこいらくらいだろうから支障はないだろうと踏んでいた僕は、母親からのメッセージに了承の返信だけをして、高森にはそれを伝えていなかった。
高森は今日も放課後僕の家にやってきて、僕たちは二人でいつもどおり宿題などをして過ごしていた。
「お邪魔してます」
高森はその場に立ち上がると、母親に向かって礼儀正しくぺこりと頭を下げた。
「真咲くんのクラスメイトの、高森総一郎です」
たどたどしく自己紹介をする。声音が硬い。いきなりの母親の登場でおおいに緊張しているのだろう。何か助け船を出すべきだろうかと思いつつ、それも何だか少し億劫に感じて、結局僕は事の成り行きを静観することにした。テーブルに片肘をつき、手に顎を載せて二人の様子を生温く見守る。
母親は僕と高森を茫然とした様子で見比べながら、実にたっぷり一分間は沈黙していた。そのあいだ一度も瞬きをしなかった。仕事用のバッグの肩紐を握る手にやや力がこもっている。今日も仕事が忙しかったのか、朝きちんとセットしていったはずの髪の毛は少し乱れていた。
高森は緊張した面持ちでその場に棒立ちになったまま、母親が何か喋るのをじっと待っていた。高森にとっては長すぎる沈黙だったろう。
「お友達!」
やがて母親は悲鳴に近い声を上げて、どたどたと僕たちの傍まで駆け寄ってきた。高森がびくりと小さく肩を震わせた。無理もない。僕だって、たとえば外を歩いていていきなり向こうから見も知らぬ大型犬が僕めがけて全速力で突進してきたとしたらおおいに驚く。今の母親はそれと似たようなものだ。
ふだんのどこか飄々とした態度と違い、母親の前で緊張して縮こまっている高森の様子に僕は憐憫と愉悦を同時に覚える。可哀想だが面白い。まあ、こうなったのはそもそも僕が母親のことをきちんと高森に伝達していなかったからで、つまりは全面的に僕のせいなわけだが。
「こんにちは、高森くん? 真咲と同じクラスなのね」
「はい」
「今日は真咲がうちに呼んだの?」
「あ。何回か遊びにこさせてもらっています」
「そうなの。家、近いの?」
「最寄り駅は同じです」
母親の質問に、高森はひとつひとつゆっくりと答えていく。
何回かどころじゃなくてほとんど毎日入り浸っているけどな。昨日も一昨日もその前の日も来たし。僕は心のなかで突っこみつつ、口には出さずにおく。
「一緒に勉強してたのね」
母親はテーブルの上に広げられた教科書とノートに視線を落とした。高森はこくこくと小さく何度か頷いた。まるで疚しいことは何ひとつしていないと主張しているかのようだ。
「あ、立ってないでどうぞ座って、座って」
はっとしたように母親が身振りで椅子を示す。促されて、高森はようやくすとんと椅子に座った。糸の切れた人形のようだった。安堵したように小さく細い息を吐いたのが僕の位置から聞こえた。
「やだ、もう。真咲ったら何も話してくれないんだから」
恨めしげな声と咎めるような母親の視線を、僕は無言で受け流す。
たしかに僕は、これまでずっと母親に高森の話をする機会を逸していた。そもそも僕のなかでは改まって話をするようなことでもないだろうという位置づけだった。だから食事のときに最近どうだというようなことを訊かれてもすぐには思い至らず、たとえあとから思いだしたとしてもわざわざ話題を蒸し返すまでもないと判断した。結果そのまま今日まできた。
「そう。高森くんね」
母親はしっかりと頭に叩きこむように高森の名前を反芻する。それから急ににやにやとひどく気持ちの悪い笑みを浮かべて僕を見てきた。何ごとかと思っていると、わざとらしく何度も大きく頷いて、ばしばしと音が鳴るほどの力で思いきり僕の肩を叩いてくる。ものすごく痛い。何なんだ。
僕が抗議の目を向けると、母親の笑みはさらににやついたものになった。僕は思いきり唇をひん曲げた。だから何なんだ、その反応は。絶対に間違っている。高森だぞ。別に恋人を家に連れてきたわけじゃないんだぞ。
「着替えてくるから、ちょっとだけ失礼するね。あ、私のことは気にしなくていいから、どうぞゆっくりしていって」
高森に満面の笑みを向けると、母親はくるりと向きを変えてどたどたと二階に上がっていった。相変わらず動作が騒がしい。ありがとうございます、と高森がその背中に律儀に声をかける。
母親の上機嫌な鼻歌が、どたどたという足音とともに階段の向こうへ遠ざかっていった。急に頭が痛くなり、僕は指の腹でこめかみを揉んだ。
高森はしばらく母親が消えていった二階のほうをじっと見つめていたが、やがてゆっくりと視線を僕に移した。
「……びっくりした」
「ああ。今日は仕事から早く帰るってちょっと前に連絡があったんだけど、ここまで早いとは思わなかったんだ。どうせ高森が帰ったあとだろうから支障はないだろうと思ってた。伝えてなくて悪かったな」
高森は眉根を寄せて、咎めるような上目遣いになった。
「……あんまり悪いと思ってなさそうな感じだけど、」
悪いとは思っている。僕にだっていちおう良心はある。だが、母親相手にまごついている高森を見るのが思いのほか面白く、うっかり楽しんでしまったのは事実だ。それを言うとさらに批難されそうだったので、口には出さないでおく。あくまで殊勝な態度を貫く。
高森は全身の力を抜くようにもう一度ゆっくりと大きく息を吐いた。ようやく緊張がほぐれてきたのだろう。
「まあ、でも織部んちにはしょっちゅう来てるし、挨拶するいい機会だったかもな」
「立ち直りが早いな」
「……やっぱり織部、さっきの楽しんでただろ、」
「まさか。人聞きの悪い」
高森が薄緑色の瞳で胡乱げに僕を見てくる。僕の言葉をいっさい信用していない目つきだ。ここまで露骨だといっそ清々しい。
そこで、場違いに上機嫌な様子の母親がどたどたと階段を鳴らして戻ってきた。
仕事用のパンツスーツから部屋着に着替えているのはいつもどおりだが、何だかいつもよりきれいめの服を着ている気がする。ふだんはたいていTシャツにウエストがゴムになっているズボンを穿いているし、上下の組み合わせにすら頓着せず上も下も柄物という目に痛い仕様の日もあるくらいなのに、今日はロング丈のワンピースだった。乱れていた髪の毛もしっかりとセットされ、化粧もばっちりと直してある。さっきまでテカテカにおでこを光らせていたくせに。あとは食事と風呂を済ませて寝るだけだというのに、何をそんなに浮かれているのだろう。また頭が痛む。
「ねえねえ。私、この部屋にいても大丈夫かな? 邪魔? 違う部屋に行ってたほうがいい? あ、お菓子。お菓子食べる? お茶も淹れようか?」
矢継ぎ早に質問をしてくる。高森はそれに無言で微笑み、ゆっくりと僕に視線を向けた。僕の判断に委ねるということだろう。僕は溜息をついた。しかたがない。
「別にリビングでテレビ観ててもかまわない。お菓子と飲み物はあるから大丈夫」
「そう?」
母親は少し不服そうに唇を尖らせた。
それからいったんは引き下がり、リビングのソファに座ってリモコンを取り上げるとテレビをつけた。しばらくザッピングしていたがあまり興味の惹かれる番組はなかったようだ。テレビを消してリモコンを置いた。
次に新聞を広げて読みはじめたのだが、それも飽きたのかすぐにやめて放りだす。合間にちらちらとこちらに視線を投げてくる。どうやらよほど僕たちの様子が気になるらしい。本人は僕たちに気づかれないようにさりげなさを装っているつもりのようだが、どう見ても不自然でばればれだった。
僕は宿題の続きを再開しようとしたものの、母親の行動にどうにも気が散ってしまい集中できない。高森も苦笑している。……やっぱり違う部屋に追いやればよかった。
「あ。そうだ」
突然、母親がそう言って胸の前で両手を合わせてぽんと叩いた。少し芝居がかったしぐさだった。立ち上がると、何かとびきりいいことを思いついたというような表情を浮かべて再びいそいそと僕たちの座るテーブルの前までやってくる。悪い予感しかしない。
笑顔で僕たちの顔を交互に見ると、テーブルに両手をついて高森のほうにぐいっと身を乗りだした。高森が少し驚いたように肩を竦めた。
「ねえ、高森くん。よかったら、晩ごはんうちで食べていったら?」
うきうきとした調子で言う。言われた高森はぽかんとした顔になった。僕もまじまじと母親の顔を見つめる。いったい急に何を言いだしているんだ。
「え。でも……、」
「うち、お父さんは仕事が多忙でいつも深夜近くまで帰ってこないから平日はほぼ家でごはん食べないの。だいたい私と真咲の二人きりの食事だし、真咲はこんなであんまり喋らないから物足りなくて。だからもしよかったら、高森くんも一緒にどうかな。今日は金曜日だし、明日はゆっくりできるでしょ? それとも何か用事があるかな。もし無理そうだったら、遠慮なく断ってくれて全然かまわないから」
「……ちょっと家に連絡してみます」
何かしら理由をつけて断るかと思いきや、意外にも高森はそう言うとスマホを操作して電話をかけはじめた。
……ほら、やっぱり面倒なことになった。
僕は二人のやりとりを眺めながら唇を噛む。母親と高森が鉢合わせた最初から、このまま何ごともなく終わるわけがないと思っていたのだ。僕と違って母親は社交的だし、もっと言うならお節介だ。物事に介入しすぎるのだ。そしてさっきさり気なく僕のことをこき下ろした気がする。物足りない息子で悪かったな。
「あの、」
電話をしていた高森が顔を上げ、母親に声をかける。
「母が、電話を代わってほしいって」
持っていたスマホを差しだす。
高森からスマホを受け取った母親は電話口から顔を背けてごほんと一度咳払いをし、声の調子を万全に整えてから電話に出た。
「もしもし」
いつもより二段階くらい高いトーンで電話口の向こうに話しはじめる。しばらく高森の母親と何ごとか話していた様子だったが、いえいえこちらこそ、だの何だの言っておほほほほと笑った。
「母さんに付き合って無理しなくていいんだぞ。強引だろ。嫌だったら断れよ。もしも断りづらかったら僕から言ってやる」
僕はテーブル越しに少し身を乗りだすと、電話をしている母親に聞こえないように声を低めて高森に耳打ちした。高森は小さく微笑んで首を振った。
「全然、嫌じゃないよ」
「……ならいいけど、」
それじゃあ失礼します、と母親が電話口の向こうに言って、スマホを高森に返した。高森はそれを受け取ると再びスマホを耳に当て、うんうんと何度か相槌を打ってから電話を切った。
母親の顔を見上げる。
「母が、くれぐれもよろしくって言ってました」
「私こそ急に誘っちゃってごめんなさいね。そうと決まったらすぐに準備するから、高森くんは真咲と一緒に向こうで待っててくれる?」
「はい。ありがとうございます」
ぺこりと高森が会釈する。
どうやら高森は今日、うちで晩ごはんを食べていくことになったらしい。二人の会話を聞きながら僕はそう察した。本当に面倒なことになったものだ。伝達を怠った自分自身の行動を今さらながら後悔する。
母親はキッチンに向かい、ふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開けて食材を確認した。
「今日はポークジンジャーにするね」
振り返り、にこにことした笑みで僕たちに言う。
「……客がいるからって何を恰好つけた言い回ししてるんだよ。いつもそんなふうに言ってないだろ。豚肉の生姜焼きだろ」
「高森くんはポークジンジャー好き?」
「あ、はい。好きです」
僕の話なんか聞いちゃいない。
僕と高森はテーブルに広げていた教科書とノートを片づけるとソファに移動した。ふだんであれば僕も夕食の準備を多少手伝うのだが、今日は高森がいるのでおとなしく一緒に待つだけだ。母親からもそうするように言われたし、高森を一人ほったらかしにしておくわけにもいかないだろう。テーブルの上を台ふきんで拭いて人数分の箸を並べるところまではやった。
宿題がまだ途中だったが、何だか気もそぞろになってしまったので中断することにする。
「どうする。何かテレビでも観てるか?」
高森はふるふると首を振った。
「大丈夫」と言う。
「観たい番組とかないのか」
「特に決まって観てるようなのはないよ。織部こそ何かないの」
「僕も別に」
空いた時間は読書をしていることが多い。しかしそれでは結局高森をほったらかしにすることになる。
それで僕たちは何をするでもなく、母親が料理をする音を聞きながらぽつぽつと取り留めもないことを話して待った。会話はときおり途中で途切れて長い沈黙を挟んだりもしたが、けっして気詰まりではなかった。母親はいつにも増して張りきって食事の準備をしていた。
家族や親戚以外の誰かと家で食事をともにした経験など、これまで僕にはなかった。誰かの家に招待されたり、反対に誰かを家に招待したりなど考えたこともなかったし、今後あるとも思っていなかった。高森と関わるようになってから、僕にとって今まで想像もしていなかったような初めての経験ばかりだ。
食事ができあがると、僕と母親はいつもどおり定位置に座った。定位置は、キッチン寄りの二席に向かい合わせだ。高森はというと、僕の横の席に着いた。ここはふだんから空いている席だった。父親が一緒に食事をするときは母親の横の席に座る。だから僕は両親と一緒の場合、二人からの視線に晒されながら食事をとることになる。もっとも父親は平日ほぼ不在なのでそれは休日に限った話で、言ってみればそこも空席のようなものだ。休日にしてみても突然の出勤などがあり、毎回必ず三人揃っているというわけでもなかった。
高森はふだんはだいたい両親と揃って三人で夕食をとるのだと、さっき待っているあいだに話していた。
いつも二人きりの夕食の席に高森が加わっているのは何だか不思議な光景だった。少し夢うつつのような気分がする。生姜焼きと茄子の味噌汁、胡麻ドレッシングをかけた野菜サラダとひじきの小鉢が食卓に並ぶ。箸は客用にしまってあった新しいものを下ろした。
「ご飯、おかわりあるから遠慮なく言ってね」
白米を多めに盛った茶碗を高森に渡しながら母親が言う。茶碗も食器棚の奥から引っ張りだしてきたものだった。白地に紺色の唐草模様が入った、少し地味めの茶碗だ。来客用に五客揃えてあるうちのひとつだった。高森は礼を言って両手でそれを受け取った。
食事のあいだじゅう母親はいつになく上機嫌で、饒舌だった。高森は母親の話を何でも楽しそうに笑顔で聞いて、常に相槌を打っていた。母親にしてみても話していて張り合いがあるのだろう。
僕は母親の話をいつも話半分にしか聞いていないし、目線もほとんど合わせない。見かねた母親が話を中断して「今の聞いてた?」と訊ねてくることもしょっちゅうだった。そのたびに僕はまた適当な返事をする。おそらくこのへんが物足りない所以だろうか。
母親は僕が趣味で熱帯魚を育てていることや、このあいだまで飼っていたネオンテトラがいつの間にかすべて死んでしまったのだという話をした。
「五匹くらいいたんだけどね。何かこう、一匹ずつちっちゃいボトルに入れてて。ああいうインテリアみたいにするの流行ってるの? それがみるみる減っちゃってねえ。元気そうに見えたのに、みんな病気だったのかな。小さい魚って弱いの?」
そう言って僕のほうを見る。
「……別に、そんなことはないけど」
生姜焼きを食べながら、僕は答える。
「ちっちゃくてきれいで可愛かったんだけどねえ」
「そう」
「真咲、あれはもう飼わないの?」
「しばらくはいい」
「今いるのは水槽のやつ一匹きりで。……あれは何ていうんだっけ?」
「エンゼルフィッシュ」
「そうそう、それ」
高森はその話も終始笑顔で聞いていた。合間にへえ、そうなんですね、などと興味深そうに相槌を打ってきて実に白々しい。高森はその一連の出来事の当事者の一人なわけだが。
水槽のなかのエンゼルフィッシュは今日も変わらず悠々と泳いでいた。今日、僕の家にやってきてエンゼルフィッシュにフードを与えたのも高森だ。
「それにしても、真咲にこんな仲良しの友達がいたなんて知らなかった」
感慨深そうに母親が言う。箸を置き、少しとろんとした目で僕と高森を見た。高森は母親の言葉に無言で微笑を返した。「仲良しの友達」を否定も肯定もしない。
僕たちは自然と馬が合って仲良くなったわけではなく、正確には高森が強引に僕の家に上がりこんで、なし崩し的に現在に至る。母親が思っているような関係とは言いがたい。
だが僕も黙っていた。高森が僕にとってどういう存在であるのか、実のところ僕にもまだはっきりとはわかっていなかった。友達、と言われればそうなのだろうし、そこを否定するつもりはなかった。ただ、それでは僕のなかで「友達」とはどういうものなのかと問われると、忽ちわからなくなる。高森はクラスのほかの連中とはほんの少しだけ異なる存在、というのがきっと今の僕に言えるすべてだ。
母親がご飯のおかわりを高森に勧め、高森が礼を言って茶碗を差しだした。
「どれくらい食べる?」
「半分くらいでお願いします」
母親が茶碗半分のご飯をよそい、高森がそれを受け取る。箸を持つとていねいな所作で生姜焼きを食べ、味噌汁を啜った。僕はちらりと横目でその様子を眺め、少し見入った。
学校で昼食を食べるとき、高森はたいてい購買でおにぎりやサンドイッチを買っている。弁当を食べることがないため、箸を使っているところを見る機会が今までなかった。箸の持ちかたから、口元に運ぶ一連の所作のひとつひとつが洗練されていて美しく、小さいころからきちんと教えこまれたのだろうという印象があった。これは僕の知らない高森の一面だ。
生姜焼きを口に運ぶ高森の様子を、母親がじっと見守るように眺めていた。視線に気がついた高森が顔を上げ、母親に向かってにこりと笑いかける。
「おいしいです、ポークジンジャー」
「そう。そう。気に入ってもらえたみたいでよかった、ポークジンジャー」
少しはしゃいだ様子で母親が言う。それから二人は顔を見合わせてふふっと笑った。
生姜焼きだろ、と笑いあう二人の横で肉を頬張りながら僕は思う。茶碗が空になったのでご飯をおかわりしたかったが、母親が高森にばかりかまけているので僕は席を立つと自分で釜からごはんをよそった。
食事を終えるころには高森と母親はだいぶ打ち解けていた。食後の緑茶を飲みながら母親と談笑する高森はもうずいぶんとリラックスしていて、ふだんどおりの調子だった。適応力が高い。
高森は僕と一緒にキッチンに立つと、食器の後片づけを手伝った。
「ゆっくりしてて大丈夫なのに」
「いえ。ご馳走になったので」
僕が洗い上げた皿を布巾で拭いていく高森に母親が声をかけたが、高森はそう言って首を振った。あきれるほどしっかりしている。
食器類を洗い終え、炊飯器の内釜を洗う。今日はいつもより多めにご飯を炊いたのだと母親が言っていたが、きれいに食べきって残らなかった。一人人数が増えるだけでこうも違うのだ。テーブルを拭いた台ふきんを洗って絞り、広げてシンクの傍に置く。
「それじゃあ、そろそろお暇します」
後片づけがすっかり終わると、高森はソファに置いてあった通学鞄を手に持った。母親に向かって深々と頭を下げる。
「今日は本当にご馳走さまでした。すっかり長居してしまって」
「いえいえ、こちらこそありがとうね。楽しかった。よかったら、また遠慮なくいつでも遊びに来て」
「はい。ありがとうございます」
高森はもう一度頭を下げた。僕は二人のやりとりを無言で見つめていた。まあ、誘わずとも高森は来週の月曜日になればどうせまた来るだろう。
僕は高森を駅まで送っていくことになった。
三和土で靴を履いている高森を玄関先で見送ろうとしていると、傍に母親がやってきた。そうしてまた何やらにやついた顔で、途中まで一緒に行ってくればいいのではないかと提案してきたのだった。
徒歩で帰れる距離なこともあって、高森は最初その提案を固辞した。僕もわざわざ高森を送っていく必要性を感じなかったのだが、「お互いまだ話し足りないこともあるんじゃないの」と母親は言った。お互い、と口にしながらなぜか視線は僕のほうを向いていた。
僕が素直に母親の提案に従うことにしたのは、少し外の空気を吸いたい気分だったからだ。どうせ家にいても部屋で本を読むか宿題の残りをするかくらいだったし、その宿題にしてみてももうあらかたは済んでいる。
「いいの?」
靴を履く僕に、高森がそう声をかけてくる。
「まあ、気分転換にもなるだろうから」
そう答えると、高森は納得した様子でそれ以上はもう何も言わなかった。僕が靴を履いているあいだに母親は一度リビングへ消え、それから大量のお菓子を持って戻ってきた。戸棚にしまってあったものだろう。
「これ、お土産」
高森が肩にかけている通学鞄の口を開け、持ってきた大量のお菓子をぎゅうぎゅうと詰めこむ。瞬く間に鞄がぱんぱんに膨れあがる。まるでお菓子の詰め放題を見ているかのようだ。
「ありがとうございます」高森は頻りと恐縮していた。
上機嫌な母親に見送られて、僕たちは夜の住宅街に出た。あたりはすっかり陽が落ちている。さすがに昼間と比べると少し肌寒いが、上着が必要なほどではない。春の陽気だった。玄関のドアが閉まる直前、高森は母親に向かってもう一度ぺこりと頭を下げた。
伸びをして夜空を見上げる。今日は雲もなく、星がよく見えた。
駅に向かって高森と並んで歩く。
高森の家は駅を挟んで反対側のマンションが林立した地区だ。そのマンションのひとつに高森は住んでいる。駅からは徒歩で十五分くらいだと、歩きながら高森は話した。
マンションの名前を訊ねると、何ちゃらレジデンスだかハウスだか洒落た感じの横文字を答えたが、それがどのマンションであるのかは僕にはわからなかった。あのあたりは似たような外観のマンションが多く、記憶とすぐに結びつかない。
「煉瓦色っぽい外壁のやつだよ」
「そんなのいっぱいあるだろう」
「まあ、それはそうなんだけど」
高森はポケットからスマホを取りだすと画像検索をして、表示されたマンションの写真を僕に見せた。見たことはあると思う。
「ここの六階」
「ふうん。高層階じゃないんだな」
「お母さんがあんまり高いのは苦手みたいで。それにもともと、おれのところのマンションは十五階までしかないから。織部、高いところ好きなの?」
「僕はずっと一軒家だからな。マンションにはちょっと憧れる。四十階くらいに住んでみたい」
一軒家はマンションに比べて部屋数が多く空間も広いので、一人でいると家のなかの静寂がよけいに際立つ。マンションのようにどこかの部屋の生活音が近くから漏れてくることもなく、一人きりなのだということをことさら痛感する瞬間があった。過去形なのは、最近は高森がいるため一人の時間が減ったからだ。
「へえ」
「ばかにしてるのか?」
「……何でそうなるんだよ。そんなことひと言も言ってないだろ。ただ相槌打っただけなのに。織部って、ポジティブなんだかネガティブなんだかときどきよくわからないよね」
僕は高森めがけて肘を突きだしたが、高森はすんでのところでそれを躱した。
「織部の暴力は、少し学習した」
得意げに笑う。僕は学習されたことが少し癪だ。高森のくせに。少し歩調を速めると、高森が慌ててあとをついてくる。
「食べる?」
がさがさと鞄を漁って飴玉の包みを取りだし、機嫌を取るように僕に渡してくる。包装紙を剥いてぽんと口に放った。酸っぱい。檸檬味の飴だった。舐めながら舌先で球体を左右に移動させると、歯に当たって口のなかでカラコロと音が鳴る。高森も飴玉の包みをひとつ開いて口に含んだ。
「これ、もともと僕んちのお菓子だろ」
「うん。織部のお母さんに貰ったやつ」
「まったく、調子いいんだからな。母さんは」
あきれて吐いた息から檸檬のにおいがする。
「気のいいお母さんじゃないか」
「お節介が過ぎるんだ。何にでも首を突っこみたがる」
「でも織部のお母さん、おれのことあんまり訊いてこなかったな。どこに住んでるのかとか、そういうのは訊かれたけど」
おれのこと。高森の言うそれがどういう意味合いを含むのかはわかるつもりだ。
僕は口のなかの飴玉を少し噛んだ。表面が割れて、ざらりとした感触を舌に感じる。そのまま破片を飲みこんだ。喉元がちくちくする。
「僕に友達がいたことのほうが衝撃だったんだろ。それに母さん、高森のこと気に入ったみたいだった」
帰りぎわのお菓子責めを見ればあきらかだ。おかげで家のお菓子のストックが著しく減った。
「……返そうか?」
ぱんぱんになった鞄に視線を落として高森が言う。僕は首を振った。
「別にいい。一度あげたんだからそれはもう高森のものだろう。それに母さんが高森にあげたくてあげたんだから、それは素直に受け取っておけよ」
お菓子はまた買えばいい。高森はこくりと頷いた。
「友達審査に無事合格したみたいでよかった」
「何だ、それ。大仰だな」
僕は少し笑って、横を歩く高森をちらりと見た。高森は笑わなかった。視線を前に向けたまま、何ごとか考えるそぶりをしていた。街灯の薄暗い明かりのなかで、その表情は少し読み取りにくい。
しばらくそのまま、黙々と歩いた。僕と高森の二人分の足音が夜道に響いている。すれ違う人はあまりいなかった。
高森は数回口を開きかけ、そのたびにまた逡巡して引き結んだ。僕に何かを話そうとして迷っているのだろう。僕はただ高森が話しだすのを待った。
「中学のころは、」ようやく口を開く。
その先を少し言い淀み、すぐにもう一度喋りだした。決心が鈍る前にすべてを吐きだしてしまおうとでもいうように。
「……中学のころは、そういうのにあまり恵まれなかったんだ」
交友関係、ということだろう。ほんの少しだけ意外に思う。高森は要領がいいし、高校のクラスでは誰とでもそつなく接している。誰かと衝突するようには見えなかった。高森に問題があるようには思わない。
高森はこちらを向き、少し濡れた瞳で僕を見た。薄緑色の、僕にとってはもうずいぶんと見慣れた瞳だ。くしゃりと顔をゆがめる。口元がぴくりと引き攣った。笑おうとしたのかもしれない。
「異物を絶対に認めたがらないやつもいるんだよ」
「へえ、」がりっと口のなかの飴玉を歯で砕く。「くだらないな」
高森は一瞬虚を突かれたような顔になった。それからぱっと俯く。やがて小刻みに肩を震わせはじめた。泣いているのかと思いあせったが、違う。俯かせて影になった口元から、くつくつと押し殺したような声が漏れてくる。今度こそ笑っているのだった。
しばらくのあいだ、高森はそうやって声を押し殺して笑っていた。少し苦しそうに咳き込み、脇腹を押さえる。やがて笑い疲れたのか顔を上向け、はーっと長く息を吐いた。それから眦に溜まった涙を指先で拭った。
僕のほうを見てふわりと目を細める。
「おれ、織部のそういうところ好き」
「お前の好きの基準はよくわからない」
「いいよ、それでも」
高森は満足そうにしている。さっきの答えの何がそんなに気に入ったのかはわからないが、高森がいいと言うのならいいか、と思う。
そもそも僕は家に友達を連れてきた経験が皆無だったので、母親は僕に友達がいたという事実だけで小躍りしていた。仮に母親のなかで高森の言うような審査があったとしても、ハードルは頗る低いと思う。
「どちらかというと僕が高森の親の友達審査に落ちそうだけどな」
「織部は大丈夫だよ」
「何を根拠に」
「根拠はないけど」
「適当だな」
僕のぼやきは夜の闇に溶けた。
審査に落ちたとしても高森との付き合いは切れないだろうし、今のところ切るつもりもないのだが、わざわざ口にするのも何だか癪なので黙っておく。
やがて前方が目に見えて明るくなってきて、駅に着いたことに気がついた。住宅街と比べて一気に賑やかな空気になる。つい話に夢中になってしまった。何だか駅までの道のりがいつもより早く感じた。
駅にはこれから帰宅するのだろう人たちが多く行き交って混雑していた。ちょうど電車が駅に到着し、改札からたくさんの人が吐き出されてくる。僕たちはその人の波を避けるように縫って歩き、駅のなかほどの柱の前にたどり着くとそこでいったん立ち止まった。
僕たちはしばらく向かい合って俯き、何も話さずにぼうっとしていた。別れがたいというほどでもないのだが、何となくどちらからもそれを切りださなかった。
やがて高森から顔を上げた。その気配を感じて僕も倣うように高森の顔を見る。駅の明かりにくっきりと照らされた高森には、先ほど薄暗い夜道を歩いていたときのような憂いを孕んだ雰囲気はどこにもなかった。いつも学校で逢っているときと同じような、飄々とした、どこか掴みどころのない感じがした。
「今日はご馳走さま」
「ああ」
「生姜焼きおいしかった」
「ああ」
「じゃあ、また月曜日に」
少し名残惜しそうにそう続けて、ひらひらと手を振った。僕も小さく手を振り返す。
「ああ。じゃあな」
高森は頷くとくるりと僕に背を向けて歩きだした。途中で一度振り返り、僕がまだそこにいることを認めると嬉しそうにもう一度手を振ってきた。僕ももう一度手を振り返す。高森は駅を抜けると左に曲がり、やがてその姿は見えなくなった。
僕は高森の姿が見えなくなってからもしばらくそこに立っていた。じゅうぶんに間を置いてから、大きく息を吸って吐き、くるりと踵を返す。
来た道をなぞって歩きながら、少し感傷的な気分になる。胸のなかを何だかいろいろな感情が渦巻いていて、整理するのに少し時間を要しそうだった。ただ高森と一緒に夕飯を食べて少し会話をしただけだというのに、なぜこんな気持ちになっているのかまるでわからない。高森の存在が、僕のなかに何か細い傷跡を刻んでいくかのようだ。
夜空を見上げる。星がきれいだなと思う。それから、あいつ最後ポークジンジャーって言わなかったな、とも思った。
「あら」
どたどたと騒がしい音を立ててリビングに入ってきた母親が、そう言ってぴたりと動きを止める。僕の向かいに座っていた高森が顔を上げて母親と僕の顔を交互に見比べ、少し戸惑ったように二、三度瞬きをした。
「……お友達?」
今日は珍しく仕事を早く上がると連絡があったが、予想以上に早かったようだ。早いといってもどうせ一時間かそこいらくらいだろうから支障はないだろうと踏んでいた僕は、母親からのメッセージに了承の返信だけをして、高森にはそれを伝えていなかった。
高森は今日も放課後僕の家にやってきて、僕たちは二人でいつもどおり宿題などをして過ごしていた。
「お邪魔してます」
高森はその場に立ち上がると、母親に向かって礼儀正しくぺこりと頭を下げた。
「真咲くんのクラスメイトの、高森総一郎です」
たどたどしく自己紹介をする。声音が硬い。いきなりの母親の登場でおおいに緊張しているのだろう。何か助け船を出すべきだろうかと思いつつ、それも何だか少し億劫に感じて、結局僕は事の成り行きを静観することにした。テーブルに片肘をつき、手に顎を載せて二人の様子を生温く見守る。
母親は僕と高森を茫然とした様子で見比べながら、実にたっぷり一分間は沈黙していた。そのあいだ一度も瞬きをしなかった。仕事用のバッグの肩紐を握る手にやや力がこもっている。今日も仕事が忙しかったのか、朝きちんとセットしていったはずの髪の毛は少し乱れていた。
高森は緊張した面持ちでその場に棒立ちになったまま、母親が何か喋るのをじっと待っていた。高森にとっては長すぎる沈黙だったろう。
「お友達!」
やがて母親は悲鳴に近い声を上げて、どたどたと僕たちの傍まで駆け寄ってきた。高森がびくりと小さく肩を震わせた。無理もない。僕だって、たとえば外を歩いていていきなり向こうから見も知らぬ大型犬が僕めがけて全速力で突進してきたとしたらおおいに驚く。今の母親はそれと似たようなものだ。
ふだんのどこか飄々とした態度と違い、母親の前で緊張して縮こまっている高森の様子に僕は憐憫と愉悦を同時に覚える。可哀想だが面白い。まあ、こうなったのはそもそも僕が母親のことをきちんと高森に伝達していなかったからで、つまりは全面的に僕のせいなわけだが。
「こんにちは、高森くん? 真咲と同じクラスなのね」
「はい」
「今日は真咲がうちに呼んだの?」
「あ。何回か遊びにこさせてもらっています」
「そうなの。家、近いの?」
「最寄り駅は同じです」
母親の質問に、高森はひとつひとつゆっくりと答えていく。
何回かどころじゃなくてほとんど毎日入り浸っているけどな。昨日も一昨日もその前の日も来たし。僕は心のなかで突っこみつつ、口には出さずにおく。
「一緒に勉強してたのね」
母親はテーブルの上に広げられた教科書とノートに視線を落とした。高森はこくこくと小さく何度か頷いた。まるで疚しいことは何ひとつしていないと主張しているかのようだ。
「あ、立ってないでどうぞ座って、座って」
はっとしたように母親が身振りで椅子を示す。促されて、高森はようやくすとんと椅子に座った。糸の切れた人形のようだった。安堵したように小さく細い息を吐いたのが僕の位置から聞こえた。
「やだ、もう。真咲ったら何も話してくれないんだから」
恨めしげな声と咎めるような母親の視線を、僕は無言で受け流す。
たしかに僕は、これまでずっと母親に高森の話をする機会を逸していた。そもそも僕のなかでは改まって話をするようなことでもないだろうという位置づけだった。だから食事のときに最近どうだというようなことを訊かれてもすぐには思い至らず、たとえあとから思いだしたとしてもわざわざ話題を蒸し返すまでもないと判断した。結果そのまま今日まできた。
「そう。高森くんね」
母親はしっかりと頭に叩きこむように高森の名前を反芻する。それから急ににやにやとひどく気持ちの悪い笑みを浮かべて僕を見てきた。何ごとかと思っていると、わざとらしく何度も大きく頷いて、ばしばしと音が鳴るほどの力で思いきり僕の肩を叩いてくる。ものすごく痛い。何なんだ。
僕が抗議の目を向けると、母親の笑みはさらににやついたものになった。僕は思いきり唇をひん曲げた。だから何なんだ、その反応は。絶対に間違っている。高森だぞ。別に恋人を家に連れてきたわけじゃないんだぞ。
「着替えてくるから、ちょっとだけ失礼するね。あ、私のことは気にしなくていいから、どうぞゆっくりしていって」
高森に満面の笑みを向けると、母親はくるりと向きを変えてどたどたと二階に上がっていった。相変わらず動作が騒がしい。ありがとうございます、と高森がその背中に律儀に声をかける。
母親の上機嫌な鼻歌が、どたどたという足音とともに階段の向こうへ遠ざかっていった。急に頭が痛くなり、僕は指の腹でこめかみを揉んだ。
高森はしばらく母親が消えていった二階のほうをじっと見つめていたが、やがてゆっくりと視線を僕に移した。
「……びっくりした」
「ああ。今日は仕事から早く帰るってちょっと前に連絡があったんだけど、ここまで早いとは思わなかったんだ。どうせ高森が帰ったあとだろうから支障はないだろうと思ってた。伝えてなくて悪かったな」
高森は眉根を寄せて、咎めるような上目遣いになった。
「……あんまり悪いと思ってなさそうな感じだけど、」
悪いとは思っている。僕にだっていちおう良心はある。だが、母親相手にまごついている高森を見るのが思いのほか面白く、うっかり楽しんでしまったのは事実だ。それを言うとさらに批難されそうだったので、口には出さないでおく。あくまで殊勝な態度を貫く。
高森は全身の力を抜くようにもう一度ゆっくりと大きく息を吐いた。ようやく緊張がほぐれてきたのだろう。
「まあ、でも織部んちにはしょっちゅう来てるし、挨拶するいい機会だったかもな」
「立ち直りが早いな」
「……やっぱり織部、さっきの楽しんでただろ、」
「まさか。人聞きの悪い」
高森が薄緑色の瞳で胡乱げに僕を見てくる。僕の言葉をいっさい信用していない目つきだ。ここまで露骨だといっそ清々しい。
そこで、場違いに上機嫌な様子の母親がどたどたと階段を鳴らして戻ってきた。
仕事用のパンツスーツから部屋着に着替えているのはいつもどおりだが、何だかいつもよりきれいめの服を着ている気がする。ふだんはたいていTシャツにウエストがゴムになっているズボンを穿いているし、上下の組み合わせにすら頓着せず上も下も柄物という目に痛い仕様の日もあるくらいなのに、今日はロング丈のワンピースだった。乱れていた髪の毛もしっかりとセットされ、化粧もばっちりと直してある。さっきまでテカテカにおでこを光らせていたくせに。あとは食事と風呂を済ませて寝るだけだというのに、何をそんなに浮かれているのだろう。また頭が痛む。
「ねえねえ。私、この部屋にいても大丈夫かな? 邪魔? 違う部屋に行ってたほうがいい? あ、お菓子。お菓子食べる? お茶も淹れようか?」
矢継ぎ早に質問をしてくる。高森はそれに無言で微笑み、ゆっくりと僕に視線を向けた。僕の判断に委ねるということだろう。僕は溜息をついた。しかたがない。
「別にリビングでテレビ観ててもかまわない。お菓子と飲み物はあるから大丈夫」
「そう?」
母親は少し不服そうに唇を尖らせた。
それからいったんは引き下がり、リビングのソファに座ってリモコンを取り上げるとテレビをつけた。しばらくザッピングしていたがあまり興味の惹かれる番組はなかったようだ。テレビを消してリモコンを置いた。
次に新聞を広げて読みはじめたのだが、それも飽きたのかすぐにやめて放りだす。合間にちらちらとこちらに視線を投げてくる。どうやらよほど僕たちの様子が気になるらしい。本人は僕たちに気づかれないようにさりげなさを装っているつもりのようだが、どう見ても不自然でばればれだった。
僕は宿題の続きを再開しようとしたものの、母親の行動にどうにも気が散ってしまい集中できない。高森も苦笑している。……やっぱり違う部屋に追いやればよかった。
「あ。そうだ」
突然、母親がそう言って胸の前で両手を合わせてぽんと叩いた。少し芝居がかったしぐさだった。立ち上がると、何かとびきりいいことを思いついたというような表情を浮かべて再びいそいそと僕たちの座るテーブルの前までやってくる。悪い予感しかしない。
笑顔で僕たちの顔を交互に見ると、テーブルに両手をついて高森のほうにぐいっと身を乗りだした。高森が少し驚いたように肩を竦めた。
「ねえ、高森くん。よかったら、晩ごはんうちで食べていったら?」
うきうきとした調子で言う。言われた高森はぽかんとした顔になった。僕もまじまじと母親の顔を見つめる。いったい急に何を言いだしているんだ。
「え。でも……、」
「うち、お父さんは仕事が多忙でいつも深夜近くまで帰ってこないから平日はほぼ家でごはん食べないの。だいたい私と真咲の二人きりの食事だし、真咲はこんなであんまり喋らないから物足りなくて。だからもしよかったら、高森くんも一緒にどうかな。今日は金曜日だし、明日はゆっくりできるでしょ? それとも何か用事があるかな。もし無理そうだったら、遠慮なく断ってくれて全然かまわないから」
「……ちょっと家に連絡してみます」
何かしら理由をつけて断るかと思いきや、意外にも高森はそう言うとスマホを操作して電話をかけはじめた。
……ほら、やっぱり面倒なことになった。
僕は二人のやりとりを眺めながら唇を噛む。母親と高森が鉢合わせた最初から、このまま何ごともなく終わるわけがないと思っていたのだ。僕と違って母親は社交的だし、もっと言うならお節介だ。物事に介入しすぎるのだ。そしてさっきさり気なく僕のことをこき下ろした気がする。物足りない息子で悪かったな。
「あの、」
電話をしていた高森が顔を上げ、母親に声をかける。
「母が、電話を代わってほしいって」
持っていたスマホを差しだす。
高森からスマホを受け取った母親は電話口から顔を背けてごほんと一度咳払いをし、声の調子を万全に整えてから電話に出た。
「もしもし」
いつもより二段階くらい高いトーンで電話口の向こうに話しはじめる。しばらく高森の母親と何ごとか話していた様子だったが、いえいえこちらこそ、だの何だの言っておほほほほと笑った。
「母さんに付き合って無理しなくていいんだぞ。強引だろ。嫌だったら断れよ。もしも断りづらかったら僕から言ってやる」
僕はテーブル越しに少し身を乗りだすと、電話をしている母親に聞こえないように声を低めて高森に耳打ちした。高森は小さく微笑んで首を振った。
「全然、嫌じゃないよ」
「……ならいいけど、」
それじゃあ失礼します、と母親が電話口の向こうに言って、スマホを高森に返した。高森はそれを受け取ると再びスマホを耳に当て、うんうんと何度か相槌を打ってから電話を切った。
母親の顔を見上げる。
「母が、くれぐれもよろしくって言ってました」
「私こそ急に誘っちゃってごめんなさいね。そうと決まったらすぐに準備するから、高森くんは真咲と一緒に向こうで待っててくれる?」
「はい。ありがとうございます」
ぺこりと高森が会釈する。
どうやら高森は今日、うちで晩ごはんを食べていくことになったらしい。二人の会話を聞きながら僕はそう察した。本当に面倒なことになったものだ。伝達を怠った自分自身の行動を今さらながら後悔する。
母親はキッチンに向かい、ふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開けて食材を確認した。
「今日はポークジンジャーにするね」
振り返り、にこにことした笑みで僕たちに言う。
「……客がいるからって何を恰好つけた言い回ししてるんだよ。いつもそんなふうに言ってないだろ。豚肉の生姜焼きだろ」
「高森くんはポークジンジャー好き?」
「あ、はい。好きです」
僕の話なんか聞いちゃいない。
僕と高森はテーブルに広げていた教科書とノートを片づけるとソファに移動した。ふだんであれば僕も夕食の準備を多少手伝うのだが、今日は高森がいるのでおとなしく一緒に待つだけだ。母親からもそうするように言われたし、高森を一人ほったらかしにしておくわけにもいかないだろう。テーブルの上を台ふきんで拭いて人数分の箸を並べるところまではやった。
宿題がまだ途中だったが、何だか気もそぞろになってしまったので中断することにする。
「どうする。何かテレビでも観てるか?」
高森はふるふると首を振った。
「大丈夫」と言う。
「観たい番組とかないのか」
「特に決まって観てるようなのはないよ。織部こそ何かないの」
「僕も別に」
空いた時間は読書をしていることが多い。しかしそれでは結局高森をほったらかしにすることになる。
それで僕たちは何をするでもなく、母親が料理をする音を聞きながらぽつぽつと取り留めもないことを話して待った。会話はときおり途中で途切れて長い沈黙を挟んだりもしたが、けっして気詰まりではなかった。母親はいつにも増して張りきって食事の準備をしていた。
家族や親戚以外の誰かと家で食事をともにした経験など、これまで僕にはなかった。誰かの家に招待されたり、反対に誰かを家に招待したりなど考えたこともなかったし、今後あるとも思っていなかった。高森と関わるようになってから、僕にとって今まで想像もしていなかったような初めての経験ばかりだ。
食事ができあがると、僕と母親はいつもどおり定位置に座った。定位置は、キッチン寄りの二席に向かい合わせだ。高森はというと、僕の横の席に着いた。ここはふだんから空いている席だった。父親が一緒に食事をするときは母親の横の席に座る。だから僕は両親と一緒の場合、二人からの視線に晒されながら食事をとることになる。もっとも父親は平日ほぼ不在なのでそれは休日に限った話で、言ってみればそこも空席のようなものだ。休日にしてみても突然の出勤などがあり、毎回必ず三人揃っているというわけでもなかった。
高森はふだんはだいたい両親と揃って三人で夕食をとるのだと、さっき待っているあいだに話していた。
いつも二人きりの夕食の席に高森が加わっているのは何だか不思議な光景だった。少し夢うつつのような気分がする。生姜焼きと茄子の味噌汁、胡麻ドレッシングをかけた野菜サラダとひじきの小鉢が食卓に並ぶ。箸は客用にしまってあった新しいものを下ろした。
「ご飯、おかわりあるから遠慮なく言ってね」
白米を多めに盛った茶碗を高森に渡しながら母親が言う。茶碗も食器棚の奥から引っ張りだしてきたものだった。白地に紺色の唐草模様が入った、少し地味めの茶碗だ。来客用に五客揃えてあるうちのひとつだった。高森は礼を言って両手でそれを受け取った。
食事のあいだじゅう母親はいつになく上機嫌で、饒舌だった。高森は母親の話を何でも楽しそうに笑顔で聞いて、常に相槌を打っていた。母親にしてみても話していて張り合いがあるのだろう。
僕は母親の話をいつも話半分にしか聞いていないし、目線もほとんど合わせない。見かねた母親が話を中断して「今の聞いてた?」と訊ねてくることもしょっちゅうだった。そのたびに僕はまた適当な返事をする。おそらくこのへんが物足りない所以だろうか。
母親は僕が趣味で熱帯魚を育てていることや、このあいだまで飼っていたネオンテトラがいつの間にかすべて死んでしまったのだという話をした。
「五匹くらいいたんだけどね。何かこう、一匹ずつちっちゃいボトルに入れてて。ああいうインテリアみたいにするの流行ってるの? それがみるみる減っちゃってねえ。元気そうに見えたのに、みんな病気だったのかな。小さい魚って弱いの?」
そう言って僕のほうを見る。
「……別に、そんなことはないけど」
生姜焼きを食べながら、僕は答える。
「ちっちゃくてきれいで可愛かったんだけどねえ」
「そう」
「真咲、あれはもう飼わないの?」
「しばらくはいい」
「今いるのは水槽のやつ一匹きりで。……あれは何ていうんだっけ?」
「エンゼルフィッシュ」
「そうそう、それ」
高森はその話も終始笑顔で聞いていた。合間にへえ、そうなんですね、などと興味深そうに相槌を打ってきて実に白々しい。高森はその一連の出来事の当事者の一人なわけだが。
水槽のなかのエンゼルフィッシュは今日も変わらず悠々と泳いでいた。今日、僕の家にやってきてエンゼルフィッシュにフードを与えたのも高森だ。
「それにしても、真咲にこんな仲良しの友達がいたなんて知らなかった」
感慨深そうに母親が言う。箸を置き、少しとろんとした目で僕と高森を見た。高森は母親の言葉に無言で微笑を返した。「仲良しの友達」を否定も肯定もしない。
僕たちは自然と馬が合って仲良くなったわけではなく、正確には高森が強引に僕の家に上がりこんで、なし崩し的に現在に至る。母親が思っているような関係とは言いがたい。
だが僕も黙っていた。高森が僕にとってどういう存在であるのか、実のところ僕にもまだはっきりとはわかっていなかった。友達、と言われればそうなのだろうし、そこを否定するつもりはなかった。ただ、それでは僕のなかで「友達」とはどういうものなのかと問われると、忽ちわからなくなる。高森はクラスのほかの連中とはほんの少しだけ異なる存在、というのがきっと今の僕に言えるすべてだ。
母親がご飯のおかわりを高森に勧め、高森が礼を言って茶碗を差しだした。
「どれくらい食べる?」
「半分くらいでお願いします」
母親が茶碗半分のご飯をよそい、高森がそれを受け取る。箸を持つとていねいな所作で生姜焼きを食べ、味噌汁を啜った。僕はちらりと横目でその様子を眺め、少し見入った。
学校で昼食を食べるとき、高森はたいてい購買でおにぎりやサンドイッチを買っている。弁当を食べることがないため、箸を使っているところを見る機会が今までなかった。箸の持ちかたから、口元に運ぶ一連の所作のひとつひとつが洗練されていて美しく、小さいころからきちんと教えこまれたのだろうという印象があった。これは僕の知らない高森の一面だ。
生姜焼きを口に運ぶ高森の様子を、母親がじっと見守るように眺めていた。視線に気がついた高森が顔を上げ、母親に向かってにこりと笑いかける。
「おいしいです、ポークジンジャー」
「そう。そう。気に入ってもらえたみたいでよかった、ポークジンジャー」
少しはしゃいだ様子で母親が言う。それから二人は顔を見合わせてふふっと笑った。
生姜焼きだろ、と笑いあう二人の横で肉を頬張りながら僕は思う。茶碗が空になったのでご飯をおかわりしたかったが、母親が高森にばかりかまけているので僕は席を立つと自分で釜からごはんをよそった。
食事を終えるころには高森と母親はだいぶ打ち解けていた。食後の緑茶を飲みながら母親と談笑する高森はもうずいぶんとリラックスしていて、ふだんどおりの調子だった。適応力が高い。
高森は僕と一緒にキッチンに立つと、食器の後片づけを手伝った。
「ゆっくりしてて大丈夫なのに」
「いえ。ご馳走になったので」
僕が洗い上げた皿を布巾で拭いていく高森に母親が声をかけたが、高森はそう言って首を振った。あきれるほどしっかりしている。
食器類を洗い終え、炊飯器の内釜を洗う。今日はいつもより多めにご飯を炊いたのだと母親が言っていたが、きれいに食べきって残らなかった。一人人数が増えるだけでこうも違うのだ。テーブルを拭いた台ふきんを洗って絞り、広げてシンクの傍に置く。
「それじゃあ、そろそろお暇します」
後片づけがすっかり終わると、高森はソファに置いてあった通学鞄を手に持った。母親に向かって深々と頭を下げる。
「今日は本当にご馳走さまでした。すっかり長居してしまって」
「いえいえ、こちらこそありがとうね。楽しかった。よかったら、また遠慮なくいつでも遊びに来て」
「はい。ありがとうございます」
高森はもう一度頭を下げた。僕は二人のやりとりを無言で見つめていた。まあ、誘わずとも高森は来週の月曜日になればどうせまた来るだろう。
僕は高森を駅まで送っていくことになった。
三和土で靴を履いている高森を玄関先で見送ろうとしていると、傍に母親がやってきた。そうしてまた何やらにやついた顔で、途中まで一緒に行ってくればいいのではないかと提案してきたのだった。
徒歩で帰れる距離なこともあって、高森は最初その提案を固辞した。僕もわざわざ高森を送っていく必要性を感じなかったのだが、「お互いまだ話し足りないこともあるんじゃないの」と母親は言った。お互い、と口にしながらなぜか視線は僕のほうを向いていた。
僕が素直に母親の提案に従うことにしたのは、少し外の空気を吸いたい気分だったからだ。どうせ家にいても部屋で本を読むか宿題の残りをするかくらいだったし、その宿題にしてみてももうあらかたは済んでいる。
「いいの?」
靴を履く僕に、高森がそう声をかけてくる。
「まあ、気分転換にもなるだろうから」
そう答えると、高森は納得した様子でそれ以上はもう何も言わなかった。僕が靴を履いているあいだに母親は一度リビングへ消え、それから大量のお菓子を持って戻ってきた。戸棚にしまってあったものだろう。
「これ、お土産」
高森が肩にかけている通学鞄の口を開け、持ってきた大量のお菓子をぎゅうぎゅうと詰めこむ。瞬く間に鞄がぱんぱんに膨れあがる。まるでお菓子の詰め放題を見ているかのようだ。
「ありがとうございます」高森は頻りと恐縮していた。
上機嫌な母親に見送られて、僕たちは夜の住宅街に出た。あたりはすっかり陽が落ちている。さすがに昼間と比べると少し肌寒いが、上着が必要なほどではない。春の陽気だった。玄関のドアが閉まる直前、高森は母親に向かってもう一度ぺこりと頭を下げた。
伸びをして夜空を見上げる。今日は雲もなく、星がよく見えた。
駅に向かって高森と並んで歩く。
高森の家は駅を挟んで反対側のマンションが林立した地区だ。そのマンションのひとつに高森は住んでいる。駅からは徒歩で十五分くらいだと、歩きながら高森は話した。
マンションの名前を訊ねると、何ちゃらレジデンスだかハウスだか洒落た感じの横文字を答えたが、それがどのマンションであるのかは僕にはわからなかった。あのあたりは似たような外観のマンションが多く、記憶とすぐに結びつかない。
「煉瓦色っぽい外壁のやつだよ」
「そんなのいっぱいあるだろう」
「まあ、それはそうなんだけど」
高森はポケットからスマホを取りだすと画像検索をして、表示されたマンションの写真を僕に見せた。見たことはあると思う。
「ここの六階」
「ふうん。高層階じゃないんだな」
「お母さんがあんまり高いのは苦手みたいで。それにもともと、おれのところのマンションは十五階までしかないから。織部、高いところ好きなの?」
「僕はずっと一軒家だからな。マンションにはちょっと憧れる。四十階くらいに住んでみたい」
一軒家はマンションに比べて部屋数が多く空間も広いので、一人でいると家のなかの静寂がよけいに際立つ。マンションのようにどこかの部屋の生活音が近くから漏れてくることもなく、一人きりなのだということをことさら痛感する瞬間があった。過去形なのは、最近は高森がいるため一人の時間が減ったからだ。
「へえ」
「ばかにしてるのか?」
「……何でそうなるんだよ。そんなことひと言も言ってないだろ。ただ相槌打っただけなのに。織部って、ポジティブなんだかネガティブなんだかときどきよくわからないよね」
僕は高森めがけて肘を突きだしたが、高森はすんでのところでそれを躱した。
「織部の暴力は、少し学習した」
得意げに笑う。僕は学習されたことが少し癪だ。高森のくせに。少し歩調を速めると、高森が慌ててあとをついてくる。
「食べる?」
がさがさと鞄を漁って飴玉の包みを取りだし、機嫌を取るように僕に渡してくる。包装紙を剥いてぽんと口に放った。酸っぱい。檸檬味の飴だった。舐めながら舌先で球体を左右に移動させると、歯に当たって口のなかでカラコロと音が鳴る。高森も飴玉の包みをひとつ開いて口に含んだ。
「これ、もともと僕んちのお菓子だろ」
「うん。織部のお母さんに貰ったやつ」
「まったく、調子いいんだからな。母さんは」
あきれて吐いた息から檸檬のにおいがする。
「気のいいお母さんじゃないか」
「お節介が過ぎるんだ。何にでも首を突っこみたがる」
「でも織部のお母さん、おれのことあんまり訊いてこなかったな。どこに住んでるのかとか、そういうのは訊かれたけど」
おれのこと。高森の言うそれがどういう意味合いを含むのかはわかるつもりだ。
僕は口のなかの飴玉を少し噛んだ。表面が割れて、ざらりとした感触を舌に感じる。そのまま破片を飲みこんだ。喉元がちくちくする。
「僕に友達がいたことのほうが衝撃だったんだろ。それに母さん、高森のこと気に入ったみたいだった」
帰りぎわのお菓子責めを見ればあきらかだ。おかげで家のお菓子のストックが著しく減った。
「……返そうか?」
ぱんぱんになった鞄に視線を落として高森が言う。僕は首を振った。
「別にいい。一度あげたんだからそれはもう高森のものだろう。それに母さんが高森にあげたくてあげたんだから、それは素直に受け取っておけよ」
お菓子はまた買えばいい。高森はこくりと頷いた。
「友達審査に無事合格したみたいでよかった」
「何だ、それ。大仰だな」
僕は少し笑って、横を歩く高森をちらりと見た。高森は笑わなかった。視線を前に向けたまま、何ごとか考えるそぶりをしていた。街灯の薄暗い明かりのなかで、その表情は少し読み取りにくい。
しばらくそのまま、黙々と歩いた。僕と高森の二人分の足音が夜道に響いている。すれ違う人はあまりいなかった。
高森は数回口を開きかけ、そのたびにまた逡巡して引き結んだ。僕に何かを話そうとして迷っているのだろう。僕はただ高森が話しだすのを待った。
「中学のころは、」ようやく口を開く。
その先を少し言い淀み、すぐにもう一度喋りだした。決心が鈍る前にすべてを吐きだしてしまおうとでもいうように。
「……中学のころは、そういうのにあまり恵まれなかったんだ」
交友関係、ということだろう。ほんの少しだけ意外に思う。高森は要領がいいし、高校のクラスでは誰とでもそつなく接している。誰かと衝突するようには見えなかった。高森に問題があるようには思わない。
高森はこちらを向き、少し濡れた瞳で僕を見た。薄緑色の、僕にとってはもうずいぶんと見慣れた瞳だ。くしゃりと顔をゆがめる。口元がぴくりと引き攣った。笑おうとしたのかもしれない。
「異物を絶対に認めたがらないやつもいるんだよ」
「へえ、」がりっと口のなかの飴玉を歯で砕く。「くだらないな」
高森は一瞬虚を突かれたような顔になった。それからぱっと俯く。やがて小刻みに肩を震わせはじめた。泣いているのかと思いあせったが、違う。俯かせて影になった口元から、くつくつと押し殺したような声が漏れてくる。今度こそ笑っているのだった。
しばらくのあいだ、高森はそうやって声を押し殺して笑っていた。少し苦しそうに咳き込み、脇腹を押さえる。やがて笑い疲れたのか顔を上向け、はーっと長く息を吐いた。それから眦に溜まった涙を指先で拭った。
僕のほうを見てふわりと目を細める。
「おれ、織部のそういうところ好き」
「お前の好きの基準はよくわからない」
「いいよ、それでも」
高森は満足そうにしている。さっきの答えの何がそんなに気に入ったのかはわからないが、高森がいいと言うのならいいか、と思う。
そもそも僕は家に友達を連れてきた経験が皆無だったので、母親は僕に友達がいたという事実だけで小躍りしていた。仮に母親のなかで高森の言うような審査があったとしても、ハードルは頗る低いと思う。
「どちらかというと僕が高森の親の友達審査に落ちそうだけどな」
「織部は大丈夫だよ」
「何を根拠に」
「根拠はないけど」
「適当だな」
僕のぼやきは夜の闇に溶けた。
審査に落ちたとしても高森との付き合いは切れないだろうし、今のところ切るつもりもないのだが、わざわざ口にするのも何だか癪なので黙っておく。
やがて前方が目に見えて明るくなってきて、駅に着いたことに気がついた。住宅街と比べて一気に賑やかな空気になる。つい話に夢中になってしまった。何だか駅までの道のりがいつもより早く感じた。
駅にはこれから帰宅するのだろう人たちが多く行き交って混雑していた。ちょうど電車が駅に到着し、改札からたくさんの人が吐き出されてくる。僕たちはその人の波を避けるように縫って歩き、駅のなかほどの柱の前にたどり着くとそこでいったん立ち止まった。
僕たちはしばらく向かい合って俯き、何も話さずにぼうっとしていた。別れがたいというほどでもないのだが、何となくどちらからもそれを切りださなかった。
やがて高森から顔を上げた。その気配を感じて僕も倣うように高森の顔を見る。駅の明かりにくっきりと照らされた高森には、先ほど薄暗い夜道を歩いていたときのような憂いを孕んだ雰囲気はどこにもなかった。いつも学校で逢っているときと同じような、飄々とした、どこか掴みどころのない感じがした。
「今日はご馳走さま」
「ああ」
「生姜焼きおいしかった」
「ああ」
「じゃあ、また月曜日に」
少し名残惜しそうにそう続けて、ひらひらと手を振った。僕も小さく手を振り返す。
「ああ。じゃあな」
高森は頷くとくるりと僕に背を向けて歩きだした。途中で一度振り返り、僕がまだそこにいることを認めると嬉しそうにもう一度手を振ってきた。僕ももう一度手を振り返す。高森は駅を抜けると左に曲がり、やがてその姿は見えなくなった。
僕は高森の姿が見えなくなってからもしばらくそこに立っていた。じゅうぶんに間を置いてから、大きく息を吸って吐き、くるりと踵を返す。
来た道をなぞって歩きながら、少し感傷的な気分になる。胸のなかを何だかいろいろな感情が渦巻いていて、整理するのに少し時間を要しそうだった。ただ高森と一緒に夕飯を食べて少し会話をしただけだというのに、なぜこんな気持ちになっているのかまるでわからない。高森の存在が、僕のなかに何か細い傷跡を刻んでいくかのようだ。
夜空を見上げる。星がきれいだなと思う。それから、あいつ最後ポークジンジャーって言わなかったな、とも思った。