昼ごろから天気が崩れてくるでしょう、と、朝家を出る前にテレビで見た天気予報のお姉さんは言っていたが、そんな気配は露ほどもなく空はからりと晴れていた。夕方にずれこんだのかもしれない。いずれにしても、天気予報ははずれた。
 そよ吹く風と柔らかな陽射しをぬくぬくと浴びて心地よい気分に浸りながら、購買で買ったサンドイッチを食べ、ペットボトルのお茶を飲む。ときどき近くで上がる女生徒の疳高い笑い声や間延びした鴉の鳴き声でさえも、今日はよいBGMだ。
 気持ちのよい陽気だったので、僕は中庭で昼食をとることにしたのだった。
「何見てんの」
 サンドイッチを食べながらスマホを眺めていると、横から高森がそう声をかけてくる。訂正。僕と高森は、中庭で昼食をとることにした。
 最近僕は、学校でも高森と過ごすことが増えていた。高森は休み時間になれば僕の席まで来て臆面もなくがんがん話しかけてくるし、昼食は当然のようについてくるし、放課後は僕の家に来るので帰りも一緒だ。そのへんはもう僕も諦めた。まあ、嫌ではないし。
 昼食のあとは決まって読書をしている僕が珍しくスマホを見ていたので、興味が湧いたのだろう。読みさしの文庫本も持ってきてはいるが、ベンチに置いたままだった。
 僕は高森にも見えるように、持っていたスマホの画面を高森のほうへ傾けた。高森が少し僕の傍に寄って、画面を覗きこむ。亜麻色の髪が僕の眼前できらきらと陽の光に照らされていた。
「マフィンの移動販売?」
 高森はゆっくりと画面内に表示された文字を読み上げる。
 僕が見ていたのはこの市内を回るマフィンの移動販売の情報だった。おいしいと評判で最近SNSを中心に話題になっているのだが、店舗を構えておらず現状キッチンカーの移動販売のみのため、いつどこで買えるのかもわからないのだ。自由気儘な店主なのか、決まった曜日や場所に来るのではなく、日によってあちこちを転々としている。神出鬼没なのだ。
 店舗の公式ページもないから、こうして不特定多数のSNSをチェックして情報を得るしかない。店主は機械にも疎いのかもしれない。
 マフィンはいわゆるプレーンやチョコチップのようなオーソドックスなものもあるが、オレンジピールをふんだんに使用してさらに表面にもオレンジスライスを贅沢に載せたものや、ココア生地にバナナチップを合わせたもの、ホイップなどで派手なデコレーションを施したものなど豊富な種類があり、むしろ独創的で見た目に華やかなそちらのほうがメインとも言えた。SNSでも、可愛いしおいしい、という感想が多い。
 神出鬼没とはいえ市内を中心に回っているようなので、この付近に来る望みもあると思うのだが。直近ではどこで目撃されたのか、次はどのあたりに来るのが濃厚か、最近僕はこまめにチェックして情報を割りだしているところだった。
「織部って、そういう俗っぽいのに興味あったんだ」
 僕の説明を聞いた高森はツナマヨネーズのおにぎりを頬張りながら言った。僕の熱弁に対してあまりに反応が薄い。自分から訊いてきたくせに。そもそも僕のこと何だと思ってんだ。甘いものは好きだし俗っぽいものにも人並みに興味はある。霞食って生きてんじゃないんだぞ。
「お昼の組み合わせが壊滅的なやつにとやかく言われたくないな」
「返しがキレキレだな」
 高森はおにぎりを食べ終え、飲み物をひと口含んで笑った。飲んでいるのはいちごミルクだ。
「これは、食べたいものと飲みたいものを特に考えずに買ったらこうなったんだ。おれも今ちょっと後悔してる」
「後先を考えないやつだな。ご愁傷様」
「そこまで言われるとは思わなかった」
 高森はふっと息を吐き、いちごミルクのパックを脇に置いた。それからきゅっと口を引き結んで、スマホをいじる僕のほうをじっと見つめる。薄緑色の目。
「……何だよ」
 僕は引き続きキッチンカーの情報を調べていたのだが、高森のその視線に居心地の悪さを覚えてぶっきらぼうに訊ねる。高森は少し間を置いて考えるそぶりをしてから、おもむろに口を開いた。
「いや、あのさ。おれたちそろそろいいと思うんだけど」
 そう言って僕の反応を窺う。僕には高森の言うことにちっとも見当がつかなかった。おれたち? もちろん僕と高森のことなのだろう。じゃあ、そろそろいいって?
「何が?」
 高森は制服のズボンのポケットからすっと自分のスマホを取りだした。
「連絡先、交換しない?」
 真剣な口調で言う。
「……学校で逢ってるしそのあとうちにも来るだろ。わりと僕の家に入り浸ってるじゃないか」
「だから、そろそろいい距離感じゃないかって言ってるんだけど」
 たしかにその事実だけを聞けば、僕と高森は親密と言える間柄ではあるのだろう。それでも僕は高森と連絡先の交換をしていなかった。高森は今までそれを切りださなかったし、もちろん僕から提案するわけもない。そもそも連絡先を交換しようという考えすら僕にはなかった。僕にとってスマホは誰かと連絡を取る手段ではなく、情報を調べる便利なツールだ。高森のほうは、タイミングを計っていただけだったのだろう。
「必要性を感じない」
「でも、火急に連絡が必要になるときがあるかもしれないだろ?」
「いや。ないだろう」
 僕はすぐさま首を振った。ばっさりと切り捨てる僕の態度に、高森は納得のいかない様子でちょっと恨めしげに僕を見た。
「ないとも言いきれないと思うけどな……。おれと連絡先交換するの、そんなに嫌?」
「別に高森に限った話じゃない」
「じゃあ、何をそんなに渋ってるの」
 高森が疑問に思うのももっともだとは思う。しかしあまり説明したいものでもなかった。僕はちらりと高森に視線を向けた。食い入るように僕を見ていて、どうにも引き下がりそうにもない。
 僕は小さく溜息をついた。ぼそっと呟く。
「……だって、四六時中行動を把握されたくないし」
 高森は一瞬虚を突かれたようにぽかんとなった。それから深く眉根を寄せて、わけがわからないという顔をする。
「そんなメンヘラみたいなことしないけど。織部ってほんと面白いな」
 今度は僕が高森にばっさりと切り捨てられる番だった。ぐっと言葉に詰まる。何だ、面白いって。ちっとも面白くなんかないし、僕は至って真剣だ。
 憮然とした表情で高森を睨みつける。高森は戸惑ったように何度か目を瞬いた。
「まあ、無理にとは言わないけど」
 僕の不機嫌を感じとったのか、小さくそう言って引き下がり、スマホをズボンのポケットにしまった。それから前を向き、飲みさしのいちごミルクのパックを手に取って飲みはじめた。飲みながら、つまらなそうにぼんやりと中庭を行き交う生徒を眺めている。口に咥えたストローを舌で少し弄ぶ。
 どっ、と女生徒の疳高い笑い声がまた近くで上がった。僕たちと同じように中庭で昼食をとっている数人のグループだ。互いのスマホの画面を見せ合いながら、何か楽しげにお喋りに興じている。漏れ聞こえてくる会話の内容から察するに、今期やっているドラマの話題のようだ。好きな俳優が出演しているようで、頻りとやばい、やばい、と繰り返していた。いったい何がそんなにやばいというのか。そもそもどういう種類の「やばい」なのだろう。
 話が白熱し、声量がどんどん大きくなってくる。先ほどまで心地のよいBGMだったそれが、今は何だかひどく煩わしく感じた。
 中庭で昼食をとっているほかのグループもさすがに目に余るのか、何ごとかとちらちらと彼女たちを見ている。そんななか、高森は一人無反応だった。相変わらずつまらなそうな表情で前方を見つめている。いちごミルクはとっくに飲み終わっている様子だが、空のパックを持ってずっとストローを口に咥えたままだ。ふてくされているのか、落ちこんでいるのか。どちらにせよ、間違いなく先ほどの僕の返しが原因だろう。
 僕は全身のむずむずとした感覚に少し身を捩った。何なんだ。これじゃあまるで、僕が悪いみたいじゃないか。批判されるようなことは何もしていない。連絡先の交換を受けるのも断るのも僕の自由だ。そうじゃないのか。……僕が悪いのか?
 ああ、もう。
「……わかったよ」
 しょうがなくそう言うと、高森はゆっくりと顔をこちらに向けて不思議そうに僕を見た。僕は持っていたスマホをその鼻先に突きだした。
「ほら」
 それだけ言う。
 高森は理解が追いついていない様子で、僕の顔と突きだされた手元を怪訝そうに見比べた。僕は姿勢を崩さず、ただ黙っていた。僕からは絶対に連絡先を交換しようとは言ってやらない。
 それからややあって、高森はようやくさっきの話の続きだと思い至ったようだ。ふっと息を吐いて小さく笑った。
「ほらって、何だよ。変なの」
 ズボンにしまったスマホをもう一度取りだす。家族以外皆無と言っていい僕の連絡先リストに高森の連絡先が追加される。その場でスタンプのひとつでも送ってくるかと思いきや、高森は「ありがと」と嬉しそうに言うとそのままスマホをポケットに戻した。


 もちろんその日の放課後も高森は僕の家にやってきて、僕たちはいつもどおり一緒に宿題などをして過ごした。
 高森が家に来たらまず水槽のエンゼルフィッシュの様子を見るのも、もう習慣になっている。ネオンテトラはすべていなくなってしまったので、空になったボトルアクアリウムは五つとも片づけた。今後使う機会があるかはわからない。ボトルアクアリウムぶんの空きができた棚の上は、少し簡素だ。
 エンゼルフィッシュは特に変わった様子もなく至って健康で、今日も悠々と水槽内を泳いでいた。水槽の傍に近寄ってゆらゆらと手を振ると、動作は鈍いがいちおうは反応を示してこちらを向く。高森はそれが嬉しいようだ。僕の家に来ると毎度のようにやっている。
 一匹きりの水槽は少し広く感じる。もう一匹くらい増やそうかと思いつつ、ずるずるとそのままになっていた。新しい熱帯魚を買うなら一緒に見にいきたいと高森は言う。僕はそれに曖昧な返事をしたが、そのうちに高森を連れてペットショップへ行くことになるかもしれない。
 僕たちはまず真面目に宿題を済ませ、それが終わるとたわいもない話をぽつぽつとしたり菓子をつまんだりしながらゆっくりと過ごした。そうやって二、三時間あまりが経ち、じきに高森は帰っていった。僕は玄関先で高森を見送った。じゃあまた明日ね、という高森に短く相槌を打つ。これがもういつもの見慣れた光景になっていた。高森はいつの間にか僕の日常に当たり前のように入りこみ、すっかり溶けこんでいる。
 高森が帰宅したあと、母親が仕事から帰ってくるまでのあいだ手持ち無沙汰だった僕は、自室で読書をすることにした。母親はフルタイムで働いているため帰宅はいつも遅い。だから夕食の時間も自然と遅くなる。父親の帰りはさらに遅いので、あまり一緒に夕食をとることはない。顔を合わせるのは朝のほんの少しの時間くらいだ。家にはほとんど寝に帰ってきているようなものである。いずれは僕もそういう大人になるのだろうか。
 ベッドに寝転がって小説を読み進める。きりのよいところでいったん中断し、ふと思いついて横に投げだしてあったスマホを確認した。高森からの連絡はなかった。今日の礼とか送ってきてもよさそうなものだが。代わりに母親から、仕事を上がったのでじき帰宅するとの連絡があった。
 ご飯を炊いておいてほしいと頼まれ、僕は米を研いでタイマーをセットすると炊飯器のスイッチを押した。冷蔵庫を開けてみたが、今日使う食材がどれかよくわからなかったのでよけいなことはしないでおく。そもそも献立を知らない。そうかといって、わざわざ母親に連絡をして訊くつもりもなかった。扉の横のポケットから水のペットボトルを取りだし、コップに注いで飲んだ。
 それからしばらくしてから母親が帰宅した。僕は自室からまたリビングに移り、ソファに寝そべって小説の続きを読んでいた。玄関のドアが開き、次いでどたどたと床を鳴らす大きな足音が響いてきて、母親が帰ってきたことに気がついた。母親はいちいち動作が大きく、いつも何かと騒がしい音を立てながら行動するのですぐにわかる。
「ただいまー」
 少し疲れたような声とともに母親がリビングに入ってくる。僕は読んでいた文庫本を置いて顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま。ごめんね、真咲。遅くなっちゃった」
「いや。大丈夫」
 母親はまたどたどたと音を立てて部屋を移動すると、荷物を置いて着替えを済ませた。忙しなくすぐに食事の準備に取りかかる。僕も母親と並んでキッチンに立つ。ニラを洗って切り、卵を溶く。今日の献立はニラ玉炒めだった。僕がニラと卵を炒めているあいだに、母親は手早く味噌汁を作っていた。
 食事の準備が終わると、二人で食卓に着いた。
「今日はどうだった?」
 ごはんを食べながら、母親がそう訊ねてくる。何が、とは言わない。それでも僕は、それが学校の首尾であることは承知している。
「別にふつう」ニラ玉炒めを食べながら僕は答える。
「そう」
 母親は短くそれだけ言うと、また食事に戻った。
 昔はもっと根掘り葉掘り学校のことを訊ねてきていたのだが、僕があまりに話そうとしないのでいつの間にか深くは訊いてこなくなった。
「真咲の学校のお友達は、」という母親の言葉に、「そんなものはいない」と答えてからかもしれない。あのとき母親は何か傷ついたような顔をして黙りこんだ。僕ではなく母親が傷つくのだな、と、どこか他人事のように僕は思った。
 母親は、今も食事のたびにいちおうは学校のことを訊ねてきて、それに対して僕はいつも「別にふつう」と答えるのだ。そういえば僕は、まだ高森のことを母親に話していない。
 僕のことを深く訊いてこなくなった母親は、代わりに自分の職場での出来事をよく話すようになった。
「そういえばね、」と思いだしたように明るい声を出して今日も話をはじめた。
 母親は広告関係の会社に勤めている。次のプロジェクトのチームリーダーになったとかどうとかいう話は、このあいだの食事のときに聞いていた。今日はそのプロジェクトの進捗具合についてを熱心に話し、僕は味噌汁を啜りながらそれに小さく相槌を打った。はっきり言ってそこまで興味のある話題ではなかったが、半分くらいは真面目に聞いた。やがて食事を終えて僕が席を立つと、母親の話も途切れた。
 食べ終わった食器を下げ、シンクへ置く。母親が食べ終わったら、あとでまとめて後片づけをしなくてはならない。
 仕事が忙しいようなら弁当でもかまわないと僕は毎度言うのだが、育ち盛りなんだからちゃんと食べなさいと言って母親は毎度キッチンに立つ。食後はソファでうたた寝をしていることが多い。今日もそうだった。ちょっと休憩、と言ってずるずるとソファに寝そべったかと思うとすぐに意識を手放した。リビングに響く母親の高い鼾を聞きながら僕は食器を洗って拭いて、食器戸棚に片づける。疲れたような姿しか見ないが、仕事は楽しいらしい。
 食後の後片づけを一段落させると、僕はテーブルの端に置いていたスマホを確認した。インストールしているアプリゲームのイベント開催のお知らせなどがきていたが、高森からの連絡はなかった。
 ふごっ、と母親が突然大きな鼾を掻き、僕は驚いてびくりと肩を震わせた。しばらく様子を観察していたが母親が起きる気配はなく、気持ちよさそうに口元をもごもごさせながら眠っている。僕は深く溜息をついた。
 就寝前にも僕はスマホを確認した。しかしやはり高森から連絡はなく、僕のスマホはしんと沈黙したままだった。


「何で連絡してこないんだよ?」
 翌日。登校すると真っ先に高森の席に行き、僕はそう言い放った。鞄から取りだした筆記用具を机の抽斗にしまっていた高森は、手を止めて僕の顔を見上げると少しきょとんとした顔をした。
「何でって、何で?」
「昨日、送ってくるかと思って待ってたのに」
 昨日ベッドに入ってからも僕は目が冴えてなかなか寝つかれず、布団のなかでスマホをいじり、開催されたアプリゲームのイベントを緩くプレイしていた。その合間に何度かメッセージを確認した。何度確認しても、新着はなかった。
「連絡先の交換を渋ったり連絡しろって言ってきたり、織部は忙しいな」
「うるさいな。僕は理由を訊いてるんだ」
「だって昨日は学校で話したしその後も織部の家に行ったし、あとは特に用事もなかったから……、」
 高森はそこで一度、言葉を切る。それからゆっくりと確かめるような口調で続けた。
「何か織部、メンヘラみたいになってない?」
 心外だ。
「知るか。僕はそんなんじゃない。連絡してこないなら交換した意味がないじゃないか。交換したならとりあえずでもいいから何か送ってこいよ」
「横暴だな」
 のらりくらりとした高森の受け答えにだんだんと頭に血が上っていったが、高森は僕のそんな反応をどこか楽しんでいる様子だった。口角が笑みのかたちに緩んでいる。ときおり唇が震えるのは、声を上げて笑いださないように堪えているせいだろう。それがまた腹立たしい。
「送ってくるタイミングだって、いくらでも、あっただろう」
 のぼせたようになっているせいで少し呂律が怪しい。僕は一音ずつ確かめるように口にする。高森は椅子の上で体勢を変え、体を少しこちら側に向けた。
「最初、連絡先交換するの渋ってたくらいだし、何でもないことでメッセージ送るのも嫌がるかなと思ったんだ」
「それとこれとは別だろう」
「別なのか」
「別だろう」
「何でもないことでメッセージ送ってもいいの?」
「別にかまわない」
「そうなんだ。基準がよくわからないな」
「わかれよ」
「難しいな、織部は」
 高森は唇に指を当てて少し考えこんだ。それから何かを思いついたように急にぱっと顔を上げて僕を見る。
「じゃあ、そんなに言うなら織部からおれに何か送ってよ。おれ、それまで送らないからさ」
「……は?」
 楽しげな高森の言葉に一瞬で頭が冷える。どうしてそういう方向の話になるのだ。おかしいだろう。反論しようとしたが、高森はもう僕にかまわず授業の準備に戻っている。どうやら高森のなかでもうこの話は終わったようだ。僕はもう一度口を開きかけたが、そこで予鈴が鳴ったので渋々自分の席に戻った。
 納得のいかないまま、僕から高森に連絡をすることでどうやら話は決定してしまった。


 憂鬱だった。ここ最近、ずっと憂鬱だ。
 高森は自分で言ったとおり、本当に僕に連絡をしてこなかった。連絡先を交換してから、あきらかにメッセージを送ってきたほうが早いだろうと思うような場面は何度かあった。しかし高森はそれをせず、わざわざ翌日になってから、「そういえば昨日訊こうと思ってたんだけどさ」などと切りだしてきたりする。
 僕は何度か高森に連絡をしようと試みたもののなかなかできなかった。スマホを開いて高森の連絡先を呼び出すところまでいって、そこで指が止まる。画面の上でうろうろと指がさ迷う。
 何を送ればいいのか迷った。
 高森にはああ言ったものの、毎日顔を合わせている相手に改まって何を送ればいいのかいざとなるとわからない。これが家族であればそんなことは気にも留めないのだが。誰かの意見を参考にしようにも、僕は家族以外では高森くらいしか付き合いがない。母親に意見を乞うのは癪だ。
 スマホの画面と何度もにらめっこする。長い時間をかけて文章を打ちこみ、送信ボタンを押す直前で思いなおして消去する。そんなことの繰り返しだった。
 高森は学校ではふつうに僕と会話をし、放課後はふつうに僕の家に入り浸り、そして何ごともなかったかのように帰っていく。僕はなかなか高森にメッセージを送れないでいるが、そんな話題などおくびにも出さなかった。忘れているのではないかと思うほどだ。本当に忘れていてくれればどんなにかよいのだが。
 時間が経てば経つほど僕は高森に連絡ができなくなっていった。送る内容のハードルも上がる。さんざん待たせておいて無難な挨拶文ひとつというわけにもいかないだろう。高森はそれでも気にしないかもしれないが、僕が気になるし、それはそれで気を遣われているようで腹立たしい。
 いっそ当たり障りのないスタンプで済ませてしまうのも手だろうか。いや、それだと妥協して負けた気がするし、無難な挨拶文よりもっとひどい。勝ち負けではないのはわかっているが。
 何か送れと言われたときにその場の勢いで送ってしまえばよかったのだ。だが今さら悔やんでもしょうがない。……何で僕が高森のことでこんなに頭を悩ませなくちゃならないんだ。焦燥はだんだんと怒りに変わる。この軽薄野郎。ど変態。この場にいない高森に対して、僕は頭のなかでありったけの罵詈雑言を浴びせた。
 そうして一週間が過ぎ、週末になった。


 鬱屈とした僕の気分と相反するように朗らかな天気だった。実に行楽日和だ。世の中の仲睦まじい家族はこんな日には喜色満面で揃ってどこかへ出掛けるのだろうが、僕は特に用事もなかったので自室のベッドで横になって読書の続きをしていた。
 両親は揃っていたが、父親はリビングで気だるげにテレビを観ていて、母親は何か持ち帰った仕事の続きをしている様子だった。仕事用の眼鏡をかけてノートパソコンの画面を凝視していた。団欒する雰囲気でもなく、僕にしてみても取り立てて話す内容もなかったので、朝食を済ませたあと僕は早々に自室に籠もった。休みだからと外出せずにいられない人種の気が知れない。
 文庫本のページをめくる。読み進めていた物語はすでに佳境だったが、何だか身が入らずにあまり内容が頭に入ってこない。目下の悩みの種は高森だった。どうやって連絡をしようか、そればかりが脳裏にちらつく。
 本の内容がわからなくなってページを戻る。さっきからそんなことの繰り返しで、全然先に進まなかった。物語の同じ展開を何度もなぞっていると、ふいに横に置いていたスマホが振動した。新着メッセージを告げる。見ると、高森からだった。
 僕は本を閉じてスマホを取り上げ、戸惑いながら画面をタップした。そこに表示されたメッセージを繰り返し読みなおす。何の変哲もない、短い文章。
『今って暇? 家?』
 僕が送るまで送ってこないんじゃなかったのか。その疑問を呑みこんだまま、僕はそれに何ごともなかったかのように返信する。
『そうだけど』
 文字を打って送信ボタンを押すと、僕のメッセージがあっさりと画面上に表示される。すぐに既読がついた。それから、ポコン、と高森からの新しいメッセージが表示される。
『じゃあ今から少し出てこられる? 駅まで』
 何なんだいったい。
 僕は戸惑いながら、それに了承の返信をした。高森から、両手を挙げて万歳をしているファンシーな猫のスタンプが送られてくる。こいつこういうの使うのか。僕も何かスタンプを返そうとして、思いなおして結局そのままメッセージ画面を閉じた。僕は微妙なバランスをした、お世辞にも可愛いとは言いがたいキャラクターの無料のスタンプしか持っていない。


 出掛けることを両親に伝えるためリビングに出向く。部屋のなかを覗くと母親はまだ仕事が片付かないのか難しい顔をしてノートパソコンを覗きこんでいて、父親はいつの間にかテレビの音をBGMにソファで寝ていた。上下する腹の上でテレビのリモコンがぐらぐら揺れている。
 出掛けてくると声をかけると、母親は睨みつけていたノートパソコンから顔を上げて僕を見た。かけた眼鏡のせいでいつもより少し老けて見える。
「え、なぁに」
 そう言って眼鏡をはずした。僕が声をかけたことには気づいたが、何と言ったのかまでは聞こえなかったらしい。
「ちょっと出掛けてくる」
 僕はもう一度そう繰り返した。
「出掛けるの」と母親は僕の言葉を反芻した。
「うん」
「わかった。いってらっしゃい。どこまで?」
「駅」
「そう。気をつけてね」
 それから思いだしたように、昼ごはんはどうするのかと訊ねてくる。僕は少し考えてから、そう遅くはならないと思うと返した。
 外に出ると陽射しが暖かく、歩いていると少し汗ばむくらいだった。こんな日にどこか遠くへ出掛けたら、やはりきっと楽しいのだろう。駅に向かう途中、よそゆきの装いをした親子連れや、中高生のグループとすれ違った。彼らはみな僕と違って一様に浮かれて見えた。
 駅に着いて高森を探す。探すまでもなかった。改札のすぐ前の柱に凭れるようにして立ち、スマホを眺めているのをすぐに見つけた。ジーンズに無地のTシャツというシンプルな服装だったが、遠目からでもやはり高森は目立った。黒のショルダーバッグを斜めにかけている。僕はスマホに財布と定期券だけをジーンズのポケットに突っこんで出てきた。
 僕が近づくと高森は顔を上げ、薄緑色の目を細めてにっと笑った。
「こっち」
 何の説明もなく歩きだす。さっさと歩いていってしまうので、僕はしかたなくそれについていった。高森は改札には入らずに、そのまま駅の反対側へと抜けた。こちら側はマンションが多く立ち並ぶ住宅街だ。高森の家もこちら側のはずだ。駅前にある大きなショッピングモールは、僕はあまり利用したことがない。
 駅を出てすぐの場所に何やら人だかりができていた。最後尾、と書かれたプレートを持った従業員らしき人が見える。僕は眉をひそめた。嫌な予感がした。
「もしかしてこれに並ぶのか?」
「そうだよ」
 おずおずと訊ねると、高森は悪びれたふうもなく頷いた。
 お一人様一個の限定品を買うための頭数にでもされたのか。高森はまたさっさと歩いていってしまい、そのまま最後尾につく。ちょいちょいと僕を手招きした。僕はいろいろと文句を言いたい気持ちを抑えて高森のあとを追うと、おとなしく一緒に列に並んだ。わけもわからないまま帰るのも癪だった。暖かい陽気と人いきれが混ざって気持ちが悪く、少し不快になる。人の多い場所は好きではない。
 列の進みは遅かった。数センチずつじりじりとしか動かない。それでも五分ほど並んでいると、行列の先にあるものが僕の目にもようやく見えてきた。
「あれ、」
 僕がそれが何であるかに気がつくと、高森はふっと笑った。
「この土日はここに来てるらしいよ」
 マフィンの移動販売だ。そういえば最近は高森に連絡するほうに気をとられて、キッチンカーの目撃情報のチェックが疎かだった。ここ最近ずっと、僕は高森に振りまわされっぱなしだ。
 それにしてもそうならそうと何ではっきり言わないんだ。僕の反応を楽しんでいるのか。意地が悪い。僕は無言で高森を睨む。高森は楽しそうに僕の顔を見返した。腹が立って、勢いをつけて高森の足を蹴る。いてっ、と小さく呻いて高森は僕から少し距離をとった。ほんの少し溜飲が下がる。高森は僕に蹴られた足をさすった。
「すぐ暴力に訴えるのよくないと思う」
 うるさい。
 ただこの先に何があるのかがわかったことで、僕の気持ちはずいぶんと穏やかになった。ごちゃごちゃとした列の待ち時間も苦痛ではない。
 やがて僕たちの順番がまわってきた。
 いらっしゃいませー、と店員に明るく挨拶される。僕は目の前のショーケースを覗きこんだ。オレンジピールやバナナチップ、抹茶生地にホイップとラムレーズンをトッピングしたものなど、とりどりのマフィンが並んでいる。ネット上で見ていた写真と同じだった。見た目に鮮やかなそれらを目の前にして気分が高揚する。高森も隣で興味深げにショーケースのなかのマフィンを眺めていた。
「へえ。ずいぶんいろいろな種類があるんだな」
 感心したように独りごちている。
 僕たちがマフィンを眺めているあいだ、店員はにこにことした笑みを終始絶やさずに僕たちの様子を見守っていた。
 さんざん迷い、僕はラズベリーリコッタマフィンをひとつ購入した。マフィン生地にラズベリーとリコッタチーズをたっぷり混ぜこみました! と値札のポップに手書きで書かれている。手作り感満載だ。
「じゃあおれもそれにしよ」
 そう言って高森も僕と同じものを購入した。店員が紙箱にひとつずつ入れて僕たちに渡してくれる。紙箱の蓋を留めているシールにはコック帽を被った熊がマフィンを食べている絵柄がプリントされていた。店のオリジナルのシールなのだろう。
「ありがとうございましたー」
 店員の明るい声を背に僕と高森は列を離れた。僕はほくほくとした気持ちで手に持っていた紙箱を胸元に引き寄せた。


 僕たちは購入したマフィンの紙箱を持って近くの公園に移動した。僕としてはこのまま解散してしまってもよかったのだが、高森に誘われてそこでマフィンを食べることにしたのだった。考えてみれば自分のぶんしか買っていないので、家に持ち帰るよりはここで食べて隠滅してしまったほうがいいかもしれない。父親はともかく母親に見つかったらうるさそうだ。高森も買ったのはひとつきりなので、もともと家に持ち帰るつもりはなかったのだろう。
 公園は数組の親子連れで賑わっていたが、ちょうどよく空いているベンチがあり、僕たちはそこに並んで座った。
「何か飲み物買ってくる」
 高森はそう言って近くの自動販売機に向かい、紅茶を二本購入して戻ってきた。一本を僕に差しだす。僕はそれを受け取って代金を払おうとしたが、「おれの奢りでいいよ」と高森は笑ってベンチに座りなおした。
「マフィンに合うようにちゃんと紅茶にした」
 蓋を開けてひと口飲みながら言うので、お礼を言おうとしていた僕の言葉は引っ込んだ。……こいつけっこう根に持つタイプか?
 きゃあきゃあと子供のはしゃぐ声が公園じゅうに響き渡っている。賑やかだ。ブランコに乗った子供の背中をゆっくりと押している母親がいる。ボール遊びをしている親子がいる。楽しそうに追いかけっこをしている小さな兄弟を眺めている父親もいる。追いかけていた弟だろう子供が転び、父親が慌てて傍に駆け寄った。暖かな陽射しと相俟って、実に長閑な風景だった。
 僕はコック帽を被った熊のシールを剥がして紙箱を開けた。蓋を開けた瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってくる。ていねいに詰められたマフィンを慎重に取りだしてひと口囓ると、ラズベリーの甘酸っぱさとリコッタチーズの濃厚さが口のなかで絡んだ。紅茶をひと口飲む。ほっとした。
「おいしいな」
 思わずそうこぼすと、隣で同じようにマフィンを食べていた高森もうんうんと頷いた。
「甘酸っぱいのとチーズがすごく合ってるな」
「これにして正解だった」
「うん。これは当たりだな。まあ、ほかのもきっとおいしいんだろうとは思うけど」
「行列ができるのもわかる」
「そういえば織部って、行列とか並ぶんだな」
「あれは、高森に無理遣り並ばされたようなもんだろう。僕だってふだんはああいうのにはあまり並ばない。……まあ、例外はあるけど」
 人混みは好きではないしふだんはできるだけ避ける僕だが、本当に買いたいものや食べたいものであれば厭わない。今日だってあの行列が予めマフィンの移動販売だとわかっていれば、最初からもっと気持ちよく並べていただろう。
 皮肉を込めてそう言えば、高森は苦笑した。
「それもまあ、さっきの蹴りで帳消しだろ」
 そう言いながら、先ほど僕が蹴ったほうの足をぶらぶらさせる。
「もう一発蹴ってもいいくらいだ」
「だからすぐ暴力に訴えるのやめろよ」
「うるさい」
「ひねくれてるなあ」
「よけいなお世話だ」
 僕の言葉に高森は目を細めてくつくつ笑った。
「でもまあ、連絡先交換してていいこともあっただろ?」
「……まあな」
 素直に頷く。マフィンを買えたのが高森のおかげであることは否定しない。
 僕はもうひと口、マフィンを囓った。目の前で、転んで泣いている子供をどうにか泣き止ませようと父親が四苦八苦している。しかし子供はなかなか泣き止まず、困り果てた父親は終いに子供を抱きかかえて公園から出ていった。ぽんぽんと背中を叩いてあやしている。小さな兄が少しおぼつかない足取りでそのあとをついていった。
 高森はその様子を微笑ましそうに眺めていた。それからまたマフィンを口に運んだ。
「でも、結局おれから連絡しちゃったなあ」
 前を向いたまま、独りごちるように言う。僕は高森のその横顔をじっと見つめた。ぼそりと口のなかで小さく言葉を呟く。
「ん。何か言った?」
「……別に」
 こちらを向いて不思議そうに訊ねてくる高森に僕は首を振って、残りのマフィンをぽんと口に放りこんで紅茶を飲んだ。高森はしばらくそんな僕の様子を怪訝そうに眺めていたが、やがて公園の風景に視線を戻すと残りのマフィンを食べ進めた。僕も公園の風景に目をやる。もうすぐ昼どきになるからだろう、公園で遊んでいたほかの親子連れもぱらぱらと帰りはじめている。
 昼ごはんは食べると母親に言ってあるから、僕もそろそろ帰らなければならない。高森がマフィンを食べ終わったら今日はもうぼちぼち解散だろう。
 そんなことを思いながら、ちらりと横目で高森を見る。高森は僕の視線に気がつかない。
 次は絶対に僕から連絡してやるから覚悟しろよ。高森に聞こえないくらいの声で、僕はもう一度そう呟いた。