エスコートされたまま連れていかれたのは、雑草がボーボーに生えている殺伐としたグラウンドでした。そして、到着するなり、茶髪先輩は、こう訊いてきたのです。

「ねね、名前何て言うの?」

今度は子犬のような甘くて可愛らしい声でした。チャラそうな見た目と、自在に操る声色とのギャップにやられた僕は、悶え続けていました。表情や体に出さないように。バレないように。

「柿田那月です」と名乗ると、茶髪先輩はふっと表情筋を綻ばせ、「俺は丹羽神楽。神楽くんって呼んでよ」と言ってきたのです。名前のカッコよさに、僕は思わず「カッコいい」と呼吸するように呟いていました。すると、神楽くんは「俺は那月って名前も顔も、気に入ったぜ?」と、両目を瞑って不格好なウインクをしてきたのです。可愛すぎて、その瞬間に心臓がぎゅっと掴まれました。

 野球部が練習を始めたタイミングで、遅れてグラウンドにやって来た部長は、受験勉強があるからと言って早々に帰りました。だから、僕らは古びたサッカーボールの上に腰を降ろし、特に会話を交わすことなく、視線を逸らしながらも神楽くんのことを見続けていたのですが、野球部の誰かが打ったボールがこちらに飛んできたのです。

「那月、危ない!」

低く大きな声と一緒に、不意に近づいて来た神楽くんの顔。シャンプーの爽やかな香りと甘い吐息とともに、こう言われました。「死ぬなよ」と。そのまま後ろに倒れたのですが、神楽くんが僕の後頭部を手で押さえて守ってくれたおかげで、怪我をすることはありませんでした。しかし、倒れたときに小さな砂で擦れたのか、神楽くんの手の甲からは少量の流血があったのです。

「だ、大丈夫ですか?」
「あははは、大丈夫大丈夫。よくあることだから」

そう言って笑って、野球部に対しても両腕で丸を作って、「大丈夫でーす!」と叫んでいたのです。それを見て、野球部も「ごめんな」と言いながら、何食わぬ顔で練習に戻っていきました。

「ったく、んー、とりあえず手洗うか」
「あ、あの、ぼ、僕は、えっと、どうすれば・・・」
「あとで保健室、一緒に行かない?」
「え、あとで、ですか?」
「もうちょっと那月と2人だけで一緒にいたいって言うか、ね」
「えっと・・・」
「俺、那月のこともっと知りたいから。駄目、かな?」

 こう言われたあと、僕は神楽くんと一体どんな話をしたのか、全く覚えていません。保健室へ一緒に行ったのかも、不明です。当時の僕は男の先輩と2人きりでいるということに対して、あり得ないほど高揚していたために、正常な判断をしたのかも、それすらも分からないのです。

ただ、その中でも覚えていること、と言うよりも、一生忘れることができない思い出があります。それは、神楽くんと小指を絡め合ったことです。そして、僕らはある約束を交わしました。そして、別れ際には頭の上で神楽くんは手をポンと軽く跳ねさせて、「また会おうな」と言って満面の笑みで手を振ってくれたのです。僕はまだ別れたくなかったのですが、時間というものに残酷さを感じた初めてのときでした。しかも、それだけではありません。僕がこのとき神楽くんに抱いた感情が、好き、だということに、このときはまだ気付いていませんでした。