俺、楠原(くすはら)光也(みつや)には子どもの頃に結婚を約束した幼馴染がいた。

「ユキちゃん、だいすきだよ。おおきくなったらけっこんしようね」
「うん、ユキもみっちゃんがだいすき」
 近所に住んでいた同い年の女の子、ユキちゃん。ふわふわとした栗色の髪、真っ白な肌、髪と同じ色のくりっとした大きな瞳……お人形のように可愛い子だった。三歳の俺はユキちゃんに一目惚れをして、仲良くなりたくてたくさん話しかけた。少し人見知りで引っ込み思案だったユキちゃんも、次第に心を開いてくれた。俺はユキちゃんを将来お嫁さんにするんだと決めて、五歳になる頃には結婚の約束をした。
 しかしユキちゃんは小学校に上がる前にお父さんの仕事の都合で遠くに引っ越してしまった。寂しくてたくさん泣いて、最後に「ぜったいけっこんしよう」ともう一度約束をしてお別れした。
 それから十年、高校生になった俺はいまだにユキちゃんのことを忘れられないでいた。ユキちゃんはもう俺のことなんて忘れてしまっているかもしれないけれど、俺は他の人を好きになることが出来なかった。子どもの頃の何の保証もない口約束に縛られ続けているなんて、自分でもどうかしていると思う。それでも俺にとってその約束はアイデンティティのようなもので、それを裏切ってはいけない気がしていた。



「光也、ユキちゃんのこと覚えてる?」
 高校二年へ進級目前の春休みのある日、母から突然そう言われた。母の口からその名前が出るのは久しぶりだ。
「覚えてるけど……急に何?」
「ユキちゃん、こっちに戻ってくるんだって」
「えっ!?」
「どうしてもあんたと同じ高校に行きたいって、ご両親説得して転校することになったらしいわよ。こっちのおばあちゃんの家で暮らすことになったみたい」
 ユキちゃんが帰ってくる!? しかも同じ高校に通うことになる!? 驚きすぎて状況が飲み込めない俺に向かって母は続けて言った。
「それで、明日早速うちに挨拶に来るから」
「あ、明日!?」
 打ち切り漫画並の急展開だ。ただし残念ながら俺には漫画の主人公になれるような突出した能力はない。背景のモブがいいところだろう。
 ユキちゃんとは十年前に離ればなれになったきり、一度も会っていない。飛行機の距離ほど離れてしまっては、子どもの力では会いたくてもなかなか会えないものだ。そもそも母親同士が連絡を取っていたことすら知らなかった。まあ、知っていたところでユキちゃんはどうしてるのかと親を通じて訊くのは何となく気恥ずかしくて出来なかっただろうけれど。
 そんなわけで俺は今の彼女がどんな女の子になっているのか、何の情報も持っていないのだった。
「とりあえず髪でも切ってきたら?」
「う、うるさいな……!」
 からかい半分にニヤニヤする母に背を向け、俺は急いで近場の美容院を検索した。


 翌日、俺は朝からそわそわしっぱなしだった。今日の昼頃にユキちゃんが来るらしい。
 髪は昨日切った。いつもの千円カットではなくてちょっとおしゃれな美容院に行ったらカットだけで四千円かかった。さよなら、今月の小遣い。
どれだけ髪型を変えても俺の平々凡々な顔つきは変わらないけれど、少なくともこれで清潔感は確保できたはずだ。
 ユキちゃんは子どもの頃から完成されているというか……とにかくめちゃくちゃ可愛かった。成長した今はどうなっているんだろう。相変わらず可愛い系か、それともキレイ系になっているか……どちらにしても顔面偏差値が高いことは間違いない。
 そこで俺はようやく気づいた。ユキちゃんはもしかして今でも俺のことが好きなのか? 同じ高校に行きたいというくらいだから、きっとそういうことなんだろう。でも十年も会っていないし、仮にまだ俺のことを好きだったとしても、冴えない俺の姿を見たら幻滅してしまう可能性だってある。
 気合いを入れて髪まで切ったのに不安になってきた。浮かれているのが俺だけだったらどうしよう……そんなことを考えていたらインターホンが鳴った。思わず肩が跳ねる。
「お、俺が出るから!」
 モニターも確認せずに母より先に玄関に向かい、ドアノブに手を掛ける。もうここまで来たらごちゃごちゃ考えている場合じゃない、とにかく会うしかない!もうどうにでもなれ!

 手に力を込めてドアを押し開ける。そして開いたドアの先、差し込む日の光とともに俺の目に入ったのは──全く見覚えのないイケメンだった。

「……?」
 あれ、ユキちゃんじゃなかった。早とちりしたのか。でもこのイケメン誰だ? ずいぶん背が高いな。
 どちら様、と訊こうとした瞬間、俺が口を開く前にそのイケメンの顔がぱっと明るくなった。そして彼は両腕を大きく開き──あろうことか、俺に抱きついてきた。
「みっちゃん!」
「……えっ、は!? なに!?」
「久しぶり!」
「えっ、えっ!? ちょっと待っ……なに!?」
 なんだこれ、どんな状況!? ていうか誰だよ怖い! 恐怖に身を固くしていると後ろから母の呑気な声が聞こえた。
「あら、久しぶり。大きくなったわね」
「あ、おばさん。お久しぶりです」
「……えっ!? なに!?」
 母さんはこのイケメンを知っているのか? まさかユキちゃんの兄弟とか……? いや、一人っ子だったはず……。混乱しまくっているとそのイケメンは身体を少しだけ離して俺の顔をじっと見つめた。
「みっちゃん、会いたかったよ」
「はあ……? いや、ていうか誰……?」
 そう言うとイケメンは悲しそうに眉を下げた。
「俺のこと忘れちゃった……?」
 彼の栗色の髪がふわふわと風に揺られている。俺を見つめる切れ長の瞳も髪と同じ色で、色白の肌は頬が少し上気していて……。
 その時、俺の記憶の中のユキちゃんとこのイケメンの姿が重なった。顔は全然似ていない、けれど、ところどころの特徴に面影があるような……。そしてなにより、俺のことを「みっちゃん」と呼ぶのはこの世で一人しかない。
 まさか、まさかまさか。
「……ユキちゃん……?」
 恐る恐るそう問いかけると、イケメンは嬉しそうに笑った。
「うん、ユキだよ。箭内(やない)雪成(ゆきなり)

 俺はこの時初めて知った。ユキちゃんのフルネームと、彼が正真正銘の男であることを。