開けられた襖から廊下に出る。

 いない。
 外に行ったのか。

 玄関を見る。
 やっぱり、まりかさんのバレエ・シューズがない。

 急いで部屋に戻り、スマホを拾う。
 まりかさんに通話をかける。
 出ない。

「くそ」
 小さく毒づく。

 つんのめりながらスニーカーを履き、家を出る。

 外は本当の暗闇だった。
 はるか遠くには灯かりも見えるし、空は晴れて月も明るいけれど、それらの光に闇をはらうだけの力はない。

 あたりを見回す。
 近くに光は見つからなかい。
 まりかさんがスマホを使ってくれていれば、すぐ見つけられたのに。

 スマホで足もとを照らしてみるが、そうすると今度は足もと以外がまるで見えない。
 暗闇に目を慣らしたほうがよさそうだ。
 灯かりを消して歩きだす。

 とりあえず庭に出てみるが、まりかさんはいなかった。
 こんな暗いなかどこまで行ったんだろう。
 ひょっとして、魔族は夜目もきくのか? ちゃんと聞いておけばよかった。

 そうだ。
 ちゃんと聞いて、ちゃんと話していれば、こんなことには。

 なんであんな言いかたをしてしまったのか。
 それこそまりかさんにとっては命と引き換えにするだけの価値がある願いだっていうのに。

 そして気づく。
 まりかさんを見つけるための手段はここにある。
 僕の手もとに。
 スマホの向こうに。

 『条件法の魔女』のアカウントを開き、DMを送る。

『探している人がいます。見つけさせてください』

 送信してから、ふと我にかえる。
 たしかに魔女は本物かもしれない。
 でも、いますぐに願いをかなえてくれる保証なんてない。
 こんな夜中に、こんな片田舎で、すぐに願いをかなえてくれるはずが。

 と、目の前を白いものが横ぎった。
 ひらひらと舞う、小さな白いもの。
 それは桜の花びらのようだった。

 じゃり、と足音。
 スマホから顔をあげる。

 いつの間にか、人が立っていた。
 つい一瞬前まで、そこには誰もいなかったのに。

 月灯かりが照らしたのは、桜のように淡くかがやく灰色の髪。
 身にまとっているのはもこもこした和服。

 どこかで見たことがある。
 教科書。
 マンガ。
 ゲーム。
 歴史。
 平安時代とかの貴族。

 いや、実物もどこかで見た。

 神社か。
 神職の人が着ていた。

 なんだっけ。
 水干?
 狩衣?

 その人は、手に花の咲いた枝を持っていた。

 前に見たツイートを思い出す。

『魔女は銀髪でいつも桜の枝を持っているらしいね。花が散るとき依頼人も死ぬんだとか』

 Twitterなんて嘘とネタとデタラメだらけだと思っていた。
 でもいま目の前に、書かれていたとおりの光景が広がっている。

 その言が正しいとすれば、いま目のまえにいるこの人は魔女で、手に持っているのは桜。
 そして桜の花が示しているのは、まりかさんの……。

「キミの願いはかなえられぬものだ」
 その人は、魔女はそう言った。

「どうすればかなえてもらえますか?」

 設定も、背景も、理由も、条件も、全部どうでもいい。
 ただ願いをかなえてさえくれれば、他はどうでもいい。

「命と引き換えなんですよね? だったら!」

 魔女は桜の枝を口もとへやり、ふうと息をついた。

「そは風説にすぎぬ。流布されるなかでついた尾ひれである。わたくしは命を奪うことはしない」

「じゃあ、どうすれば……?」

「そも前提から違えている。わたくしには、生者の願いをかなえることはできない。キミは、これを知っているか」

 と、魔女が手を掲げると、手のひらのうえ、宙空にぼんやり光る提灯が現れた。

 いや、提灯とは微妙にちがう。
 木組みの直方体。
 側面に張られた白紙のスクリーンに、ちらちらと舞う花びらの影が映しだされている。

 影は回っている。
 くるくる、くるくると回っている。

「……走馬燈」

 前に科学館でゾートロープを見たとき、まりかさんはつぶやいていた。
 走馬燈みたい、と。

 僕はそのときまで走馬燈というものを知らなかった。
 だから調べた。
 走馬燈というのは灯籠の一種である。
 中心に立てたろうそくの光で、外側の紙に影絵を映すものだ。
 紙とろうそくの間に切り絵などをつるし、ろうそくの上昇気流で風車を回して切り絵を動かす仕組みになっている。

 そして、走馬燈という言葉には、別の意味もある。

「そういうこと、なんですか?」

 わかってしまった。

「キミは賢い」

 走馬燈とは、死に瀕した人が見る過去の情景のことをもさす。
 死ぬ間際、人は、過去に経験したあれやこれやの情景を次々に思い出すという。

 連続写真のように。
 つぎはぎした動画のように。
 走馬燈のように。

 目前に迫る死を避けるための手段を探すため、過去の知識を手当たりしだいに思い出している、などとも言われている。

「わたくしにできるのは、走馬燈に影を映すことのみ」

「じゃあ、まりかさんは、もう……」

 魔女は命を奪わない。
 生者の願いをかなえることはできない。
 かなえるのは最期の願い。
 死にゆく者が走馬燈で見たいものを、用意する。

「わたくしは、花散らす者を安らげることを(つとめ)としている。逝く前に、せめて夢のなかで願いをかなえられるように。……彼女はわたくしに願った。『もしあたしが魔族の令嬢だったなら』と。キミも中学生であるならば、英語の授業で習ったであろう。仮定法は反実仮想なのだ」

「いま僕が見ているこの世界は、まりかさんの見ている走馬燈のなか、ということですか?」

 うなずく魔女。

「然様。仮定のうえに成りたつ架空の世界だ。わたくしはいま麻布まりかの願いをかなえている。重ねて、キミの願いは応えることはできない。それにだ、キミは彼女に会うてなんとする?」

 魔女は、くるくると回る走馬燈を見つめながらそうたずねてきた。

「責める? 理由を問う? 理解する? 共感する? それとも世界を滅ぼすのをやめさせる? 何を驚く。まこと、麻布まりかには世界を滅ぼす力がある。わたくしが与えた。彼女は反実仮想であるこの世界を滅ぼすことができる。最期の夢を見るのを、途中でやめることができる」

 僕は。
 僕は……どうする?

「いずれにしろ彼女に残されている時間は少ない。十九分と五十二秒のあと、走馬燈は動きを止める。麻布まりかは時計の針を自ら止めた。走馬燈に未来は映らない」

 走馬燈は、死に瀕した者が見るもの。
 走馬燈が止まるということは。
 そして、時計の針を自ら止めたということは。

「つまり現実では今日の二十分後に、まりかさんは……」

「キミは本当に賢い」

 そんなことはない。
 絶対にない。

 僕は賢くなんかない。
 だっていま、どうしたらいいかわからない。
 まりかさんのために何ができるのか、まるでわからない。

 でも。

「それでも、まりかさんに伝えたいことがあります」

 魔女は無言のまま目を閉じた。

「先にも申したが、わたくしの務は花散らす者に夢を見せること。生者の願いをかなえることはできない」

 僕に背を向け、歩きだす魔女。

「待ってください。待って! 僕が死ねばいいんですよね? 死者の願いをかなえてくれるというなら、いますぐ死ねば!」

 僕が追いかけようと一歩踏みだすと、彼女は手に持った桜の枝を横に向けた。

「これはただのひとり言だ。先刻、あちらの森へ駆けていく人影を見た」

 その枝は、鎮守の森をさしていた。

「……っ。ありがとうございます!」

 それだけ告げて、僕は走りだした。
 月灯かりの照らす夜のなか、ひときわ暗く浮かぶ森を目ざして。

 今夜は月が明るい。
 でもその光も、森のなかまでは届かない。

 お祖父ちゃんの家の裏手には鎮守の森がある。
 というより、鎮守の森の裏に家があるというほうがたぶん正しい。
 先にあったのは神社のほうだろう。

 神社への参道は家から見て反対側にある。
 そこまで回りこんでいると時間がかかるので、まっすぐ森へつっこむ道を選ぶ。
 もちろん舗装なんてされていない。
 言われなければ道と気づかないような草むらの切れ目を進む。
 まりかさんが迷わず道なりに進めていればいいんだけど。

 二、三分で草むらが開け、神社の境内に出た。
 本殿の裏手から前のほうへ回りこむと……よかった、まりかさんはそこにいた。
 賽銭箱の向こう、拝殿の階段に、まりかさんは座っていた。
 ひざを抱えてうずくまっている。

「……急にいなくならないでよ」

 まりかさんは顔をあげなかったが、「だって」とこたえてくれた。

「だって魔族は誇り高いから、ナキガラをノニサラサナイんでしょ」

 思わず笑ってしまいそうになった。
 そんな場合じゃないのに。

 まりかさんは、僕がでっちあげた設定を覚えてくれていた。
 それが嬉しくて、でもやっぱり笑えなくて。

 だってその言葉は、十五分先の未来に起こることを示していて。

「……さっきはごめん」

 まりかさんの隣に腰をおろす。

「あのあと魔女に会ったよ。いろいろ聞いた。まりかさんの願いを、そんなこととか言って、ごめん」

「いいよ。くだらないのは本当だから」

 まりかさんが顔をあげる。
 メイクをしていない無防備な目もとが、少し赤くなっていた。

「魔女が言ってたよ。まりかさんは、時計の針を自ら止めたって」

「うん。……どこか行きたいな、空を飛べないかなって思って試してみたんだけど、そのときはまだ羽がなかったから」

 ふと思い出す。
 七階建てのマンション。
 学校が見える、何もない屋上。
 まりかさんが魔族の力を見せてくれたあの場所を、思い出す。

「……あたしがさ、ママとパパのこと、うらやましいって言ったら変だと思う?」

「ううん。ちょっとわかるよ。まりかさんのご両親は、お互いのことをちゃんと考えてるよね。ケンカって相手がいないとできないから。……たぶんケンカができなかったから、うちの両親は別れたんじゃないかなって、いまは思う」

「うちのパパとママは、どこまでいっても夫婦なんだよね。夫婦って二人じゃん。二人で成り立ってて、浮気してるのもヤキモチやいてほしいからで、お互いしか見てなくて、そこに他の人は入るすきがないっていうか……何言いたいのかわかんなくなっちゃった」

 まりかさんは、えへへと笑いながら立ちあがった。参道を歩くまりかさんについていく。

「今日、めっちゃ月きれいだね」

 手をかざして空を見あげるまりかさん。

 たしかに今日の月はきれいで……まぶしすぎた。

 こんな暗い田舎の夜だ。
 もっと星が見えてもいいはずなのに。
 月が明るすぎて、小さな星の光は塗りつぶされている。

 まるで僕たちのようだ。

 教室の真ん中で笑う同級生。
 外で遊んでいた淳くんとその友人。
 廃墟で楽しそうに写真をとる人たち。
 家族をかえりみず新しい恋を始めた僕の元・父親。
 いつまでもラブコメを続けているまりかさんのご両親。

 世界の中心は眩しすぎて、僕たちみたいな小さな光は、あってもなくても誰も気づかない。

「世界ってきれいだね。佳くんの言ってたこと、いまならあたしにもわかるよ。どっちかが消えなくちゃいけないなら、そりゃもう決まってるよね」

『僕と世界、どちらかが消えない限り相互不理解は続く。だから、迷うことなんてないはずなのに』

 世界はきれいだから、どちらかが消えるしかないのであれば、自分が消えるほうがいい。

 まりかさんは、僕をわかってくれている。
 理解してくれている。
 それはとても喜ばしいことだ。

 僕は、僕たちはいつも求めている。
 理解を求めている。
 共感を求めている。

 もちろんどちらをより求めるかは人それぞれだ。
 僕が『いいね』とか『わかる』とかいうのは、理解できるということだ。
 まりかさんがそういうときは、共感できるということを意味している。

 発音が同じだけの異邦の言葉のように、きっと意味がちがっている。
 でも根っこにあるものはきっと同じだ。
 僕は、僕たちはいつも求めている。
 認められることを求めている。
 誰かに気づいてほしいと、ただそれだけを求めている。

「まりかさん。僕にはわからない」

 僕が首を振ると、まりかさんは「なんで!」と目を見開いた。

「こないだ言ってたじゃん! 世界とわかり合えないなら自分が消えるほうがいいって!」

「言ったね。でもあのときとは考えが変わったんだ」

「ひどい! 勝手に変えないでよ!」

 まりかさんは地団駄を踏んだあと、すんっと動きを止め、「なんで」と今度は静かにつぶやき、天を仰いだ。

 月を見あげる彼女の顔は穏やかだった。
 何もかもを諦めたように、何らの表情もうかべず、きっと現実でも今日の五分後、彼女はこんな表情で月を見あげ、それから足を虚空に踏み出して。

「……まりかさん。消えたほうがいいだなんて、いまの僕は理解できないし、共感できない」

 大きく息を吸って、吐き、僕は彼女の手をつかんだ。

「僕はまりかさんがここにいるって、知ってるよ」

 握った彼女の手は、熱かった。

「まりかさんはここにいる。ここにいていい」

 小さくて、細くて、折れそうで、でも握るとしっかりそこにある、まりかさんの手。

 わかる必要なんてない。
 理解できなくていい。
 共感できなくていい。
 ただ、認めること。

「ここにいてくれればいい」

 君がいる。
 僕が知っている。

 僕がいる。
 君が知っている。

「ここに、いてほしい」

 そして願うこと。
 それだけでいい。

「……佳くん」

 手に、感触がかえってくる。

「ここにいてくれて、ありがとう」

 まりかさんが手を握りかえしてくる。

 僕たちにはそれぞれ二本の手があって。
 片手はお互いをたしかめるために。
 もういっぽうの手は頬をぬぐうためにあった。



 風で樹々がざわめく。
 頬が乾いていく。

 残ったのは、あと一分。

「そういえば、どうして魔族になろうなんて思ったの?」

「だって悪魔っ子ってかわいいじゃん。佳くんだって好きでしょ。前に言ってたじゃん」

「え? そんなこと言ったかな」

「言ってたって! 自分のツイート忘れないでよ」

 空いたほうの手で、短パンからスマホを取りだすまりかさん。

『僕はひととちがうのに、どうして見た目はひとなのだろう』

『見た目がちがえばわかるのに。ひととはちがうとわかるのに』

『ツノがのびて、尻尾があって、羽がはえていれば、人とはちがうとわかるのに』

「ほら!」

「この人やっぱりわかってなかった!」

「え、これ悪魔っ子になりたいって意味じゃないの?」

「僕たち、理解も共感もできなかったね」

「最期くらい嘘でも『いいね』って言ってよ!」

 まりかさんがつないだ手をぶんぶんと振る。

「よくない。わからない」

「なんで!」

 と、そのとき。

 空から何かが舞ってきた。
 広げた手にひらりと舞い落ちたのは、桜の花びらだった。

「わからないけど、でも、まりかさんがいたことは忘れない」

 花びらの向こうでまりかさんが笑う。

「それ、いいね!」

***

 とある夜のことだった。
 なんでもない夜だった。

 僕は自分の部屋で動画を見ていた。
 SCP財団に関わる都市伝説の動画だ。

 悲しいわけでもなく、感動したというわけでもない。
 なのにとつぜん涙がこぼれた。

 なんだろうと袖でぬぐい、またしばらく動画を見ていると、家に電話がかかってきた。
 階段を登ってきたお母さんは、同級生の急死を告げた。



 出棺が終わり、先生が解散を告げる。
 同級生たちは二人、三人とつれだって散っていく。

 お通夜は各ご家庭ごとに、葬儀はクラス全員で、と学校からは通達があった。
 お通夜のときも、今日の葬儀も、けっこうな数の女子が泣いていた。
 これまで、あまり親しくしているようには見えなかったけれど、でも泣いていた。

 なんとなく帰る気になれなくて、僕はひとり高台の公園にやってきた。
 ブランコからは、火葬場の屋根が見えた。

「麻布まりかさんとは親しかったのかい?」

 いきなり声をかけられた。

 いつの間に現れたのか、ブランコの脇に女の人が立っていた。

 横顔に見覚えはないが、着ている制服には見覚えがあった。
 僕の通う中学に併設されている高校の制服だ。

「わたくしは、ネットで彼女とつながっていた。ある日DMをもらってね。そのあとオフでも顔をあわせた。お行儀はいい子だったが……ふふ、悪い子でもあったな」

 高校生のお姉さんは、大事な思い出をそっと撫でるような声音でそう語った。

「……僕は、同じクラスでした。話したことがあるかないか、くらいの関係です」

「そうかい」

「それなのに、麻布さんが亡くなったという夜、涙が出てきたんです。彼女が亡くなったと知るのより前に、ひとしずくだけ。今日もここをはなれがたくて。……変ですよね」

 指で頬をぬぐう。
 いまこのとき涙が流れているわけではないけれど、あのときの感触が蘇ったような気がして。

「何もおかしくなどない。キミたちはどこかでつながっていたのだろう。そして認めあっていたのさ」

 お姉さんはスカートのポケットからスマホを取りだし、何か操作をしながらこちらへ歩いてきた。

「せっかくだ。麻布まりかさんのアカウントを教えておくよ。別に隠しているわけではないと言っていたから、彼女も許してくれるだろう」

 そういってお姉さんが見せてくれたアカウントは、見覚えのあるものだった。
 自分のスマホを取りだし、急いで確認する。

「……僕は、このアカウントを知っています。『いいね』をくれたり、僕のツイートをリツイしてくれたりしていました」

「ほれ見たことか。縁とは奇なるもの。思わぬところでつながっているのだよ」

「もし、もっと話していたら、僕も麻布さんと理解しあえていたのかもしれませんね」

「そうかもしれない。そうではないかもしれない。わたくしとて、彼女とわかりあえていたかというと、確信はもてない」

 お姉さんが首をふる。

「しかしだ。いや、だからこそ、彼女がいたことを覚えていようと思うよ」

 そうだ。
 いまさら理解も共感もない。

「僕も、忘れません」

 そう告げると、お姉さんは「いい子だ」と微笑んだ。

 前を見る。
 いつの間にか、火葬場からは煙が出ていた。
 煙は、まっすぐ天に向かって昇っていった。

***

 来しかたを振りかえる。

 少年はブランコに座ったまま、まんじりともせず空を見あげている。

 煙は、たゆたうこともなくまっすぐ天に向かっていく。

 堰き止められていたものが流れだしたように、迷うことなく、まっすぐに。

 天に向け、一礼する。

 花は散る。
 然らばせめて安らかに。



 坂を下る。

 黒髪の高校生という擬態を解く。

 視界の端に映る銀髪。
 身にまとうは狩衣。
 やはり常の装いのほうが気が休まる。

 しかしこの姿は如何せんひと目につく。
 人の目に映らぬよう、神業(みわざ)を用い姿を隠す。

 と、カラスが飛んできた。

「空、ただいま」
 カラスがわたくしを呼ぶ。

 わたくしはいま、(さくら)(そら)と名乗っている。

 カラスは高度を落としていき、しだいしだいに文字どおりの濡羽色から灰白へと姿を変じ、そしてわたくしの肩に舞い降りた。

 このカラス、名をばツクネという。

 ツクネは参謀である。
 依頼人を募るためTwitterのアカウントを開設する、風説を流布し人口に膾炙させるなどの手練手管はすべてツクネによるものだ。

 そしてまた、ツクネはわたくしの共犯者でもある。

 我らは多くの罪を重ねてきた。
 人の命を失わしめてきた。

 運命とはいうまい。
 己の選んだことだ。

 わたくしとツクネは、互いを補いあいながら歩んできた。
 我らは共に手を汚し、共に罪を雪がんとしている。

 我らの務は、花散らす者の最期の願いをかなえること。
 我らの望みは、より多くの願い持つ者の最期を安らげること。

 故に我らは願いを募っている。
 願いを書いてよこした者を見守っている。
 もしその願いをかなえることなく花散らしてしまったらば、そのときはせめて末期の夢を授けられるように。
 カラスが如く、獲物の死期はまだかと見守っている。

「今回もメモリ・リークが起きていたね」

 ツクネがわたくしに告げる。

「そうだな。水窪佳も自ら言うていた。麻布まりかの最期の夜、訃報を耳にするより先に、ひとしずくの涙がこぼれたと」

 走馬燈は夢幻である。
 反実仮想であり、架空であり、最期には何らの跡も残さず消える。
 夢は醒め、幻は消え、なべて世はこともなし。

 となるはずなのだ。
 だがしかし、然にあらず。
 どうしたことか、走馬燈は現の世にわずかながらの跡を残してしまう。
 涙ひとしずくのぶんだけ、現実に残ってしまうのだ。

 ツクネはそれをメモリ・リークと呼んでいる。
 なんでも、現実という基盤のうえで作動させた仮想環境がメモリの解放もれを起こしてしまうのだとか。

 知らんわ。
 ツクネは、わざとわたくしにわからないような言葉をつかう。

 彼のおかげで携帯電話を使えるようになったし、インターネットを通して広く願いを募ることができるようにもなった。
 だが、もう幾ばくなりと手心があってもよかろうよ。

「僕が思うに、メモリ・リークは、特に強い感情が解放されずに残ってしまうのが原因だね。怨念を晴らせず世にとどまる地縛霊や、有機ELディスプレイの焼きつきと同じだ」

「そうだな」

「空、絶対わかってないよね」

「わからないように話すほうが悪い」

「ごもっとも」

 ひとしずくの涙は、どれだけ稀少であってもしょせんはひとしずく。
 世を変じるだけのものではないし、人ひとりの定めを動かすこともない。

 それでも、麻布まりかのもたらしたひとしずくが、水窪佳の胸に残るといい。

「いい子たちであった」

「いい子だったかな? 世界滅亡を願って、家出して」

「然様。悪い子でもある」

 思いかえすと、笑みがこぼれる。

「……ねえ、空。前にも言ったけど」

「わかっているさ」

「なら、いいけど」

 ツクネはわたくしに繰りかえし忠告する。
 あまり深く関わるな、と。

「ああ。わかっている」

 とはいえそれは、むずかしい。

 第一話 了


 春だ。
 年度末だ。
 作戦開始だ。

 さささと駆け、電信柱の陰にかくれる。
 半身でのぞきこむ。
 夜の学校は、さながら監獄のようにそびえたっていた。
 いまからあそこに忍びこむのだ。

「腕がなるぜ……」

 そうつぶやくと「これ」と頭をこづかれた。

「不審者まる出しの動きをするでない」

 振りむくと、そこには純度一〇〇パーセントの不審者が立っていた。
 白いタキシードにマント、シルクハット。
 顔にはモノクル。
 手には桜の枝。
 挙動どころか全存在が不審者だ。

「俺いまこの人に注意されたの……?」

「中途半端に身をかくすな。のぞき見するな。もっと自然にふるまえ」

「いや、まず自然な装いをしたほうがいいんじゃないすか」

 いくらなんでも夜中に真っ白な礼服と長い銀髪はまずい。
 輝きがやばい。
 存在感がえぐい。
 濃紺の制服を着た俺をひとかけらでいいから見習ってほしい。

 と、凄惨な笑みを浮かべた不審者が俺の頭をつかむ。

「誰のせいでかくもあやうい装束をまとうているかわかるか、夏焼(なつやけ)宏樹(ひろき)くん? キミの想像力が乏しいせいで、わたくしはこんなはずかしめを受けているのだ」

「痛い痛い痛い! ごめんなさい! だって怪盗っていったらこの格好でしょう!」

 そう、この人は怪盗さん。
 俺の親友だ。

 俺たちは今夜、この学校からあるものを盗みだそうとしている。
 あるもの、それはテストの正答だ。

 高校一年生の学年末テストという人生で一番大事な勝負で、俺はライバルに勝たねばならない。
 そのためには、どうしても正答が必要なのだ。

「で、どうするんすか。校門、思いっきり監視カメラついてますけど。でもまあ、こんな夜中に張りつきで監視してないっすかね?」

「いや、あの機種には動き検知機能がついておる。撮影範囲に動くものがないときは録画の頻度を落とすが、逆に動くものを検知したらば警報をあげ監視員に注意をうながす仕組みだ」

「じゃあ逆に誤検知させまくったら、うっとうしくなってアラートを切るかもですね!」

 ほう、と感心したそぶりを見せる怪盗さん。

「一案ではある。だがいま採れる策ではないな。実際に何度も警備員を駆けつけさせねば、アラートを切ってはくれぬ。時間がかかりすぎよう」

「てか、別にバレてもいいでしょ。どうせ最期なんだし、捕まる心配したってしょうがない!」

 俺が勢いこむと、怪盗さんは苦笑いをうかべて首を振った。

「警備員に捕まり、期限内に目的を達成できなくなる可能性もある。校門の突破はあきらめよう」

 と、怪盗さんはマントをひるがえして校門をあとにした。

 あまりにも格好よすぎて、めちゃくちゃまぬけだった。

 これは自慢だが、俺はけっこう体力があるほうだ。
 毎朝のランニングは欠かさないし、夜は早く寝るし、ヤクルトも毎日飲んでいる。

 それでも制服で山登りはきつい! 滑る! 暗い! 怖い!
 どんなに腸が元気でも夜の山にはかなわない。

「滑り落ちるなよ。落ちても助けんからな」

 なぜあの人は正装にマントに革靴でするすると山を登れるのか。
 怪盗だからか。

「というかですよ。さっき俺たち校門の監視カメラ映ってましたよね? だいじょうぶかな」

「校門の前に不審者がいたからといって、それだけで出動はせんよ。不法侵入も未遂では如何ともしがたいだろう」

「いやー、夜の公道にその格好は一発レッドだと思うけどな」

「きさまを通報してやろうか」

「すんませんっした」

 稜線をこえたのか、道は下りにさしかかった。

 いや、嘘だ。
 嘘というか言いまちがえた。

 道なんかない。
 樹々のすき間をぬい、草むらをかきわけていく怪盗さんの足跡を、俺は道と呼ばされているだけだ。

 しかし、怪盗さんがいなかったらどうなっただろう。
 たぶん俺はいっぺんの躊躇もなく校門を乗りこえて、遠くからサイレンが聞こえてきて、いまはこれまでと腹を切っていた。

 あのとき『条件法の魔女』は俺に短冊を差しだした。
 『もし~したら』という形式で願いを書けと言った。

 俺はそこに『もし俺に怪盗の親友がいたら』と書いた。
 受けとった彼女は、最初怪訝な顔をしていた。
 まさかその魔女さんご本人が怪盗になって現れるとは思わなかった。

 ようやく草むらの向こうに学校のグラウンドが見えてくる。

「げ」

 森を抜けると、目の前にはゆるい斜面も階段もなかった。
 俺たちのいる高台からグラウンドまで、およそ三メートルの法面はしっかりコンクリートで舗装されていた。
 補強しないと崩れるような勾配ということだちくしょう!

「よ」

 怪盗さんは法面に並ぶひし形の出っぱりを足場に、ひょいひょいと軽快にグラウンドまでとび降りた。

 同じことをしたら死ぬというたしかな予感が俺にはある。

「この高さなら死なん。早く降りてこい」

 おかしい。
 魔女さんには怪盗の『親友』を所望したのに、この人俺に冷たくない?

「南無三! うおおおおおおお!」

 覚悟を決めた俺は、学校前の住宅街までは届かない程度の音量で叫びながら、法面にへばりついて一歩一歩慎重に出っぱりをつたって降下した。

「勇敢なことだ。『なむさん、うおおおおお』」

 怪盗は声まねで俺をばかにしたあと、マントをひるがえして校舎へと歩いていった。

 あのとき短冊に書いた願いを、いまからでも変えられないだろうか。
 いまの俺のこころからの願いは『もし怪盗が滑ってころんで鼻血ぶーしたら』だ。

 夜が怖いのは、光と闇があるからだ。

 昼間は閉じこめられていた暗がりが表に出てきて、明るみのすぐそばまで侵食している。
 もし見えるところ全部が真っ暗だったら、感じるのは恐怖以外の別の感情になる。
 そんなことを考えながら俺は学校の構内を歩いた。

「正答は職員室のなかだ」
 怪盗さんが、手に持った桜の枝で校舎の西端をさす。

「日中のうちに調べはつけた。正答は金庫のなかにしまわれておる」

「それなら俺も確認ずみっす。実際に先生が金庫に入れるところを見ましたよ」

 怪盗さんはうなずき、職員室へ向かい歩いていった。

「どうやって入るんすか? 職員室の窓から?」

「いや、それはむずかしい。校内で一番セキュリティが厳重なのが職員室だ」

 校舎の西端、職員室の前にたどりつく。
 窓からのぞきこむと、部屋のすみに金庫がどっしりかまえているのが見えた。

「現金や登記簿などはもちろん、生徒や教員の個人情報などもすべてこの部屋のなかだからな。もちろん試験問題や正答もだ。逆にいえば、セキュリティにかける費えを減らすべく、守るものを集約させているともいえる」

「どういうこと?」

「この広い学校すべてを最高級のセキュリティで守ろうとしたら、予算がいくらあっても足りん。大事なものは一箇所に集め、そこだけを特に固く守るのが最も効率がよいのだよ。選択と集中だな」

「じゃあ職員室以外の警戒は、意外とあまかったり?」

 怪盗さんは「然様」とうなずいた。

「現にこうして構内に侵入できておる。校舎も同じく。もちろん警戒はされておるだろうが、職員室に比ぶればまだあまい」

「でも結局は職員室に入らないと目的は達成できないわけじゃないっすか。校舎に入ってもしかたないんじゃ?」

「然にあらず」

 とこたえ、怪盗さんは校舎にそって歩きだした。

「ほれ、あそこ。廊下から職員室に入るドア、あれは窓ほど厳重には警戒されておらん」

「うっそ、一番警戒しなくちゃいけないとこじゃないっすか!」

「利便性のためだ。セキュリティはいつだって利便性と二律背反。あそこの壁を見よ。配電盤のようなものがあろう? あのパネルを開けると、中に警戒装置の起動スイッチがある」

「帰るときに先生があそこで警戒装置をオンにするってこと?」

「然様。一番遅くまで残った教職員が暗証番号でパネルを開き、警戒装置を起動させてから帰るわけだ」

「……あ。そういうこと? 職員室のパネルで警戒装置をオンにしたあとで、先生や職員さんは校舎を出なくちゃいけないから」

「察しがよいな。あの起動スイッチから外に出るまでのルート、つまり職員室のドアと教職員用の通用口は警戒がうすいということだ。厳しくしすぎると、退出時に警戒にひっかかってしまうからな。実際ドアにも通用口にもセンサがしかけられてはいるが、どちらも作動はしておらん。おそらく、セキュリティ設置直後に誤検知の事故が相次いだのであろうな」

 校門前の監視カメラに対して考えた策を思いだす。
 まさにその実例だ。
 誤検知が繰りかえされたせいで、検知そのものを諦めてしまったと。

「それって欠陥じゃないっすか?」

「うむ。警戒スイッチを職員室のなかに設えたのが悪い。他に事務室があるのだから、そちらに置けばよいものを。運用を考えない設計になっているというわけだな。我々としてはありがたいことだ」

「じゃあ、さっそく通用口に行きましょう!」

 と一歩踏みだした俺を、怪盗さんは「待て」と肩をつかんで引きとめた。

「通用口からは入らん。センサ類は切られているが、監視カメラは起動している。校門前ならまだしも、通用口前のカメラに人影があれば、即座に警備員が駆けつけてこよう」

「警備員さんが来る前に職員室に入って、金庫を開けて脱出すればよくないっすか?」

「不可能ではないが、勝算は薄い。警備員は異常検知から二十五分以内に現着すると、現代の法律では定められておる。警備員のチームは複数箇所の警備を担当し、警備時間中は待機所に詰めているか巡回しているわけだが、いずれにしろ二十五分以内に現着できるような場所には必ずおるというわけだ」

「二十五分もあればなんとかなりませんかね?」

「分の悪い賭けだな。二十五分というのは、遅くともその時間内には現着するという上限だ。いま警備員がどこにいるか次第で現着までの時間は大きく変わる。最悪、巡回でいまここに向かっている途上という可能性すらある」

「なるほど。で、いま警備員さんたちはどこにいるんすか?」

「知らぬ」

「怪盗ならそのくらい調べておいてくださいよ!」

「巡回の経路と時間は毎日無作為に決められるのだ。我らのような輩に対策されないためにな。故に居場所はわからぬ。分の悪い賭けという意味がわかったろう。他に手があるなら避けるべきなのだよ」

「ということは、他に手があるんすね?」

「しばし待て。いま仲間に探らせている」

 そう言って、怪盗さんは職員室からはなれていった。

 することもないので職員室をのぞき見しながら歩いていると、掲示板の前まで来てしまった。

 ガラスの引き戸のなかに、緑色のでこぼこしたシート。画鋲で刺された紙。
 そこには俺の恥がさらされている。

 掲示板に貼られた何枚もの大きな模造紙には、縦書きでこう記されている。

『二学期 期末考査 一年生』

 そして右から順に成績上位者の名前があげられている。

『一位 佐久間(さくま) 三智(みち)
 二位 夏焼 宏樹
 三位 ……』

 小学校のとき、俺は一位以外をとったことがなかった。
 さすがにいつも満点とはいかなかったけれど、俺以上の点数をとれるやつなんていなかった。

 中学校は私立の中高一貫校に進学した。
 そこで俺は順位をひとつ下げることになった。

 三年間、俺の右隣にはずっと同じ名前があった。
 佐久間三智は、俺にとって目のうえのたんこぶなのだ。

***

「くっそ!」

 掲示板前のガラスを両手でなぐると、がしゃんと不穏な音がした。

 二学期の期末テストの結果が貼りだされた日。
 俺は友だちとその結果を見に職員室の外までやってきていた。

 ここまで見に来ているのは俺たち二人だけだった。
 わざわざ下靴に履きかえて、外まで見に来るやつはそうそういない。
 順位表は教室前の廊下にも貼りだされる。
 みんなそっちを見ているはずだ。

「あんまり強くたたくと割れちゃうよ」
 と、(けい)は俺の肩に手を置いた。

 水窪(みさくぼ)佳は、高校になってからつるむようになった友だちだ。
 中学のときはずっと別々のクラスだったこともあって、ほとんど話したことがなかった。
 佳はもの静かだが、話してみるとおもしろいヤツだった。

 実のところ、掲示板に来るまえから結果は知っていた。
 テスト返却が終わったあと、先生が順位についてふれていたからだ。

 それでも敢えて掲示板を見にきたのは、この屈辱を胸にきざみ忘れないようにするため。
 ひと気のない職員室まえまできたのも、思いっきり悔しがるためだ。

「佐久間さんは、ずっと定位置から動かないね。泰山北斗みたいだ」

 佳はときどき変な言葉をつかう。
 成績は上の中くらい。
 トップではないけれど、学校の勉強とはちがう世界を持っている。
 順位と点数の世界に生きている俺とはちがう人種で、だからこそ仲よくできているのかもしれない。

 佳は、中学三年のとき佐久間と同じクラスだったという。
 佳もそうだが佐久間も孤独をいとわないタイプだ。
 最初はまったくの相互不干渉だったが、秋ごろからぽつぽつとしゃべるようになったらしい。

 佐久間は弁護士の父と大学教員の母との間に生まれ育った。
 呼吸をするのと同じレベルで勉強が習慣として身についている。
 将来のキャリアを築くためにも勉強は続けて損はない。
 そんな習慣と価値観の持ち主、それが佐久間三智である。

 佳から佐久間のそうした話をきいて、俺はやべーヤツに挑もうとしてるんだなと思った。
 生きる=勉強みたいなマシーンにどう勝てというんだ。

 答えは簡単。
 呼吸より勉強を優先すればいい。

「今回の敗因はあきらかだ。俺は呼吸をがまんできなかった……!」

「宏樹くんを見ていると、勉強しすぎるとバカになるって本当なんだなと思うよ」

「次に向けて、この反省を活かさないとな」

「次まで息が続くといいね」

「命をかけるさ。何しろ次は人生でいちばん大事なテストだ」

「高校一年の学年末テストが?」

「二年生になると文系と理系にわかれるだろ」

「そっか。佐久間さん、文系だもんね」

 うちの高校では、二年生になると文理にわかれ、それぞれ別の授業を受けることになる。
 英語なんかは文理共通だが、数学や理科系、社会科系の専門科目は別になる。
 当然、文系と理系とでは受けるテストの科目も異なってくる。

「次が最期なんだ。自分の全部で勝負できるチャンスは、これきりなんだよ」

 と、そのとき。

「水窪くん、夏焼くん。そこ、いいかな?」
 背後から声をかけられた。

 声の主は、誰あろう佐久間三智そのひとだった。
 まっ黒なストレート・ヘアをぴっしりくくり、ふちなしのメガネをかけた彼女は、何らの感情もうかべないまま、俺たちの後ろに立っていた。

「お、おう」

 俺と佳が左右によけると、佐久間は「どうも」と間に入りこみ、掲示板を一瞥するとすぐにどこかへ行ってしまった。

「……あれだもんな。俺のことなんて歯牙にもかけてない」

 颯爽とした後ろ姿を見て、ため息をつく。

 いや、もったいない。
 ため息をつくと幸せが逃げるとよくいうが、それはため息をしている間も勉強していれば一点はとれるという意味だ。
 ため息なんてついている暇はねえ!

「よし、学年末テストに向けて勉強だ! 戻るぞ、佳!」

 俺が歩きだすと、後ろから佳がついてくる。

「宏樹くんと佐久間さんの関係って文学的だよね」

「どうした急に」

「点数と順位、その数字だけで競いあう。純度の高いライバル関係だと思うよ」

「一生わかりあえないと思うけどな」

「わかりあう必要なんてないよ。ライバルというのは、ただお互いを認めあっていればいいんだ」

「つってもさ、ライバルだと思ってんのはこっちだけだろ」

「そうかな。佐久間さんも、宏樹くんのことは意識していると思うよ」

「いまのを見て、どうしたらそんな感想が出てくるんだ」

「だって、わざわざ外の掲示板まで来て、わざわざ僕らをどかせるなんて普通しないよ。とっくに順位は知ってるだろうし、掲示だって僕らの横から見られるんだからさ」

***

 それからおよそ二ヶ月。

 二学期の期末テストの結果は、いまもまだ掲示されつづけている。
 次にここの掲示物が差しかえられるのは、学年末テストの結果が出たときだ。

 二ヶ月間、ずっと俺の恥が晒されつづけている間、佐久間とはひと言も交わしていない。
 機会もなかったし、そもそも話をするつもりもない。
 そして向こうも俺には目もくれない。

 佳。
 あのときはおまえの言にも一理あると思ったけれど、やっぱり俺は佐久間の眼中にはないと思うぞ。

 と、そのとき。
 白い影が空から舞いおりてきた。

 鳥……カラスか。
 真っ白なカラスが高度を下げ、グラウンドに立つ怪盗さんの腕にとまった。

「え、ひょっとして仲間ってそのカラス?」

 俺が指さすと、白いカラスは人間みたいな声で「カー」と返事をした。

「僥倖だ。入り口があったぞ、夏焼宏樹くん」

 怪盗さんが歩を進めると、カラスは静かに飛びさった。

「行くって、どこに?」

 横にならびかけながら問いかけると、怪盗さんは親指でうえをさした。

「屋上だ」