晩夏光、忘却の日々

 なんだか、普通の女子高生ってこんななのかな、なんて思うような放課後だった。
 まりんちゃんはあたしの行動や表情に対して、気にしたり問いかけてはくれるけど、深くまでは聞いてこないし、すぐに別の話題や目の前のことに興味が逸れて話が次々展開していって尽きることがない。
 色んなことに興味を持っているから、きっと一つのことにとどまってなんていられないのかもしれない。

 隆大くんの部活が終わるのを待って、学校へ引き返していくまりんちゃんと「またね」と言って手を振り別れた。
 直後、まりんちゃんが道路の反対側を歩く人に「おーい」と声をかけているから、つい、向こう側に誰がいるのか気になって視線を向けた。

「なーなみー!!」

 あたしの視線がその人を捉えるのとほぼ同時に、まりんちゃんが相手の名前を呼ぶ。
 制服はうちの学校のものではなくて、セーラー服だ。膝下のスカートにきっちりしたリボン。長めの黒い髪は後ろで一つ結びにしていて、眼鏡にかかるくらいの長さがある前髪が揺れたと思えば、まりんちゃんの方を向いて顔を上げた。
 照れているのか、大きく全身で呼び止めるまりんちゃんとは対照的に、控えめに小さく手を振っている。

「……あの子……」

 七美……?
 記憶の中の古賀くんの隣を歩く七美の姿を思い出す。そして、まりんちゃんに視線を戻してみると、なにやら親しげに話しかけている。
 どう言うこと?
 まりんちゃんと七美は知り合いなの?
 ものすごく気になるけれど、人の交友関係にあまり関わったりはしたくなくて、気が付かないふりをしたままゆっくり歩き出す。
 だけど、どうしたって気になる気持ちの方が上回ってしまって、あたしは踵を返した。七美に「またねー」と言ってまた学校へ向かい出すまりんちゃんを慌てて追いかけた。

「……ね、ねぇ、今の子、知り合い?」

 普段走ったり急いだりなんてしないから、突然誰かを追いかけるなんて自分でも驚いているし、運動なんてしないからほんの少し走っただけで息が思ったよりも上がってしまった。振り返ったまりんちゃんも驚いたように目を見開く。

「涼風ちゃん?」
「今、話しかけてた子って、七美って言うんだよね?」
「うん、そうだよ。小学校の時仲良かったの。すっごい久しぶりで思わず声かけちゃった」

 あははと笑うまりんちゃんは、きっとあの七美って子が古賀くんの元カノだと言うことは知らないのかもしれない。

「あの子、古賀くんの元カノだと思うんだけど」
「…………え?」

 うん、いい反応だと思う。
 まさかと苦笑いするまりんちゃんに、あたしまで苦笑いするしかない。
 それはそうだ。古賀くんは誰がどう見たってイケメンで、背が高くて顔面良すぎて、モテるけど近寄りがたくて、美人な先輩すらなかなか告白するのを躊躇うくらいに手が届かないで有名なんだ。
 あたしがそんな古賀くんと付き合えたのは、本当に今考えればタイミングや運が良かったとしか言えないかもしれない。

「そうなのー!?」
「うん……」
「あの古賀くんの、元カノが、七美?」
「うん」

 ぱっちりと開いた目元がまん丸くなる。そして、嬉しそうに細く弧を描いていく。

「へぇ、古賀くんって見る目あるね。七美に涼風ちゃんでしょ? なにそれ、やっぱり古賀くんって中身までイケメンなんじゃん! マジすごい!」
「……は?」

 まりんちゃんが興奮気味に古賀くんのことを褒め始めるから、あたしは何が何だかわからなくなる。
 だって、葉ちゃんと同じ反応をまりんちゃんもするんだと思ったから。
 それなのに、なんでこんなに嬉しそうなの?

「七美、めっちゃ良い子だよ。小学校の時の見た目からほぼ変わらないからすぐわかったし」
「よく、向こうはまりんちゃんのことが分かったよね?」
「え、ああ……だってあたしだって基本変わらないし」

 あははと笑うまりんちゃんに、充分変わったと思うんだけどと、あたしは首を傾げる。

「小学校の時はね、髪型もお母さんがツインテールとかお団子とか可愛くしてくれてたんだよ。けっこう目立つ子だったんだ実は。けどさ、中学では髪型も決まってたしみんなと同じようにしてたけど、やっぱり可愛くしてたいなって思ったから変わっただけ。だから、たぶん中学の頃のあたしを知らない七美にはすぐ受け入れられたのかも」

 嬉しそうに笑うまりんちゃんに、あたしはそうなのかと妙に納得してしまう。あたしは小学校の頃のまりんちゃんも七美も知らないから。

「でも七美が古賀くんとねー、どうやって付き合ったんだろ。で、もう別れてるってこと? 元カノだもんね、今度色々聞いてみようかな」

 楽しそうにスマホを弄りながらまりんちゃんが話すから、古賀くんがまだ七美に未練があることを話してしまってもいいだろうかと思って、口をついて出そうになってしまう。
 だけど、まりんちゃんはもちろん七美の応援をするんだろうな。あたしも古賀くんのことを応援するって言っちゃったし。言葉は萎んでしまって、また小さくため息が漏れた。

「あ、リュウちゃん部活終わったって。あたし、ちゃんと言ってくるね。涼風ちゃんまた明日ね」
「あ、うん」

 スマホの画面を見てから、まりんちゃんが嬉しそうに手を振るから、あたしも手を振り見送った。
 帰ろう。古賀くんのことはいい加減もう諦めなきゃ。
 七美が向かった方向とは逆に歩き出す。七美のことはあたしは知らなくてもいい。古賀くんの好きな子って情報だけでもう胸がいっぱいだ。
 やっぱりあたしは、どうしたってひとりぼっちなんだ。
 立ち止まって、スマホを手にする。メッセージの送信相手に古賀くんを表示した。

》さっきはありがとう。七美は良い子らしいね。古賀くん見る目あるよ。自信持って。古賀くんなら大丈夫だよ。

『見た目なんて関係なくない? 好きなら中身を見ればいいのに……』

 まりんちゃんに言っていた古賀くんの言葉に、七美の姿を思い出す。嘘偽りのない七美の中身が、きっと古賀くんは好きなんだろう。嘘や偽りだらけのあたしじゃ、空っぽのあたしじゃ、好きになんてなってもらえるはずがなかった。なんだか、よくわかった気がする。

 誰かを励ますなんて、そんなことをする日が来るとは思わなかった。それが、まさか好きになった人だとは皮肉だ。
 だけど、ちゃんと人を見る目のある古賀くんのことを好きになれたことは、嬉しいことかもしれない。古賀くんはあたしの見た目も中身もなんの魅力もないことに、気がついていたんだろうな。
 見透かされていた。そりゃそうだ。完璧なんてないんだもん。どこかで必ず綻びが出る。自分じゃ気が付かない。だけど、泣いたって、くよくよしていたって、仕方がない。

 夕空が雲にブルーとピンクをこぼしたように滲んで広がる。帰宅時間と重なるこの時間帯は、交通量も多い。普段はこんなに遅く帰ることなんてなかったから、夕日を映し出す空の色がこんなに綺麗なんだと初めて知った気がする。
 だけど、上手く混ざり合わずに滲むように個々を強調して溶けていく空の色を見届けていると、やっぱり自分がこれからどうしたいのかとか、どうなりたいのかとか、考えてしまっては気持ちが落ち込む。

 事故に遭って目覚めたあの日から、少しだけ前向きになれている気がしていたけれど、あたしはやっぱりまだ不安定だ。
 誰かにそばにいて欲しい。誰かに支えていて欲しい。

 ギュッとしがみついた母の背中。父が怒鳴り、母も叫ぶ。怒っている顔は怖くて見れないから、目を瞑って一番そばにいて欲しい母の背中に泣きついた。
 もうやめてほしい。
 いつかみたいに、三人で手を繋いで笑い合えていた日に戻りたい。そう願いながら、あたしは母に縋る気持ちでそばを離れなかった。
 わんわんと泣き喚くあたしを見て、ため息が吐き出されたのを感じた。

『泣いたってしょうがないでしょ!』

 勢いのまま、あたしにも母は叫んだ。
 ……怖かった。
 それは、いつも母が言っている言葉だった。だけど、その時は本当に、怖かった。
 近寄らないでと、突き放されてしまったような気持ちになった。
 ひどく、落ち込んだ。
 あたしには誰も居ないんだと。
 この先も、きっとあたしのそばにずっといてくれる人なんて、現れないんだと。絶望した。

「待ってよー!」

 不意に、遠くから聞こえてきた子供の声に顔を上げた。
 立ち尽くしていた場所から数メートル先。公園から、子供たちが一斉に出てくるのが見えた。夕方五時のチャイムが鳴っている。みんな家へと帰っていくんだろうと思って、自然と出てくる子供達を視線だけで見送っていた。

「大海! 置いてくなよぉー!」

 ほとんどの子供達が帰っていってしまった後に、まだ声が聞こえてくる。

「どうするんだよ! なんで置いてくんだよ!」

 叫びながらも、声が震えていて、泣いているように感じる。それも気になったけれど、男の子が叫んでいた名前に、聞き覚えがあった。もしかしたら、この前会った西澤くんの弟かもしれない。
 そう思って公園に足を向けた瞬間、一人の女の人があたしよりも先に公園内に入って行った。
 そっと、様子を伺うようにあたしは木の陰に隠れて立ち止まる。

「また大海は大地のこと置いて先に行っちゃったのね?」
「ママー! お迎えきてくれたの!?」
「うん、たまたま仕事が早く終わったから、まだ大海と大地公園にいるかなぁって思って。それなのに、置いていかれちゃったのね?」
「うん……ボール、あそこに行って分かんなくなったの。なのに、大海一緒に探してくれないで先に帰ったんだよー!」

 泣きそうだった声は、もう完全に泣いてしまっているように感じた。
 泣いたって仕方ないのに。
 不意に頭の中で冷静に考えてしまう。

「泣いても仕方ないでしょう?」

 体に、電流が走ったんじゃないかと錯覚するくらいにビリビリと指先まで震えた。
 女の人が声に出したのは、何度も聞いていた言葉だった。
 だけど、あたしの知っている強いあの言葉よりも、とても柔らかくて優しい。
 同じ言葉なのに、あの子に向けられたのは、包み込むような優しさがあるような気がした。

「大丈夫だよ。ママも一緒に探してあげるからね」
「うん! ママと一緒なら僕も探せる!」
「どの辺り?」

 手を繋いで、親子は茂みの中を探し始めた。

 *
 気が付いたら、全力で走っていた。
 息が切れて、呼吸が苦しい。

 あたしの周りだけ、空気が薄くなってしまったんじゃないかと思うほどに、息苦しくなっていく。
 あたしの知っている母は、いつだって怒っていた。
 あんな風に「大丈夫だよ」なんて、優しい言葉は聞いたことがなかった。
 それに、西澤くんの弟がどうしてあの人のことを「ママ」って呼んでいるの?
 あの人は、あたしの母、だよね?
 遠目からだったけれど、病室で見えたあの人と同じような気がした。うちに来て、おばあちゃんと話している横顔が、似ているような気がした。
 何よりも、あの人の口癖を聞いてしまった。
 だけど、あたしの知っている言葉とは、まるで正反対のように聞こえた。
 玄関のドアを勢いのまま開けて閉めた。
 靴を揃えることなく無造作に脱ぎ捨て、階段を駆け上がる。部屋のドアを音を立てて閉めると、ようやく息が吸えるような気がしてきた。
 ずっと止めていた呼吸を整えるために、息を吸っては吐く。
 当たり前のように出来ていたことが、出来なくなっていて、苦しい。

 ドアにもたれ掛かり、脱力して座り込んだ。ひんやりとしたフローリングの床が素足に触れて、少しだけ気持ちが落ち着きを取り戻す。
 まだ乱れたままの呼吸を懸命に整えようとしていると、物音に驚いたんだろう、おばあちゃんの声が聞こえてきた。

「涼風ちゃん、何かあったの?」

 不安そうに、だけど大きな声で心配しているように聞かれて、唇を噛んだ。
 ようやく上手に呼吸ができるようになって、あたしはふらりと立ち上がると部屋のドアを開けて階段の下にいたおばあちゃんに手を振った。

「ごめん、おばあちゃん。推しがSNSでライブ始めたから嬉しくって。うるさくしてごめんなさい」

 笑顔を作ってスマホをわざとかざして見せた。安心したような表情をしたおばあちゃんに、あたしもホッとしてドアを静かに閉めた。
 おばあちゃんに嘘をついたことなんてなかった。あたしのことを大切にしてくれて、ずっとそばで見守ってきてくれたから。心配かけたくなかった。何かあればすぐに伝えたし、相談もした。

 だけど、おばあちゃんはあたしに隠し事をしていることを知ってしまった。
 あたしの知らない所で、母と会っていたんだ。もう、おばあちゃんのことだって信用出来ない。あたしのことをわかるのは、あたししかいない。
 母が西澤くんともなにか関係があるとすれば、西澤くんは、もしかして母に頼まれてあたしに近づいてきていたりするんじゃないだろうか? なんて、疑ってしまう。
 考えれば考えるほどに、あたしはひとりぼっちになっていく。みんな信じられない。
 あたしの味方なんて誰もいない。
 もう、どうしたらいいのか、分からない。

 握りしめていたスマホに通知が届いた。
 一度深呼吸をしてから、床に座った。
 膝に頭を乗せて、横向きでスマホの画面を見る。

 》隆大の彼女とフレーバフル行ったんだって? 今度俺とも行こうね! あそこのナポリタン激うまだよ!

 テンションの高いメッセージに、落胆していた気持ちが少しだけ上がる。
 だけど、すぐに公園でのことを思い出して気分は下がった。
 返信はしないでスマホをテーブルの上に置いた。

 ──西澤くんのお母さんって、もしかして再婚?

 なんて、簡単に聞けるならどんなに良いだろう。
 なんだか一気に色んなことがありすぎて、頭の中が破裂してしまいそうだ。
 もう、何も考えたくない。
 ベッドに倒れ込んで、そのまま目を閉じた。

 今までにないくらいに人と接している。
 もちろん、うわべだけの付き合いとして友達は多い方だとは思っているけれど、きっとあたしのことをよく知っているって胸を張って言える人なんて、一人もいないと思う。
 それくらい、あたしは本当の自分を表に出すことをしてきていなかった。

 古賀くんのことを好きになったことが、大きかったかもしれない。好きな人のことを知りたいのはもちろんだけど、あたしのことも知って欲しいと思ったのは事実だ。だけど、古賀くんはあたしには、全然興味がなかったんだと思う。
 だって、何かを聞かれて困ったことなんてなかったから。
「今日はいい天気だね」「昨日は何食べた?」「授業つまんなかったね」
 古賀くんとの会話はその場限りで終わるものばかりだった。だから、あたしは彼の隣にいるのが居心地が良かったのかもしれない。見た目のビジュアルがカッコいい彼氏と並んで歩いているだけで、優越感に浸っていただけだ。楽だったんだ。あたしのことを詮索もしないし、ただ一緒にいてくれることが、嬉しかった。
 だから、失うことは寂しかった。
 まさかフラれるなんて、思ってもみなかったから。

 そして、あの日事故に遭ってからだ。
 少し、自分の中の考え方や行動が変わってきてしまったのは。
 友達なんてAやBで良かった。それなのに、西澤くんやまりんちゃんはその他大勢とは違くて、容赦なくあたしに入り込んでくる。

 真夏の照りつける太陽。開いた窓から流れ来る風。カーテンが、ひらひらと揺れている。耳を塞ぎたくなるほどに響いてくるのは、蝉の聲。
 うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。
 ちっとも鳴き止むことなく繰り返し、繰り返し大きくなっていくから、耳を塞いだ。
 覆った耳元に、カタンッと扉が開く音が聞こえた。

『杉崎さん』

 俯いていたあたしの瞳に、同じ学校の制服を着ている男子生徒の足元が見えた。誰なのか確かめるために視線をあげてみたけれど、顔が見える前にその姿は泡のように弾けたと思ったら、全部消えた。

 目が覚めたら、いつもの自分の部屋だった。
 だけど、最後に聞こえた声。あたしはあの声を、知っている。
 あれは──

「おはよう、杉崎さん」
「……西澤くん」

 教室に入る一歩手前で西澤くんに声をかけられた。廊下には登校してきたクラスメイトが何人も歩いている。

「なんか、元気ない?」

 心配するみたいに眉を下げてこちらの様子を伺うから、視線を床にそらした。
 そんなことないよ、大丈夫。
 いつもみたいに笑って交わせばいいんだ。
 そう思うんだけど、あたしは黙ったまま声も出せずに俯いた。
 これじゃあ、大丈夫じゃないみたいだ。だから、ちゃんと大丈夫って、こんなこと考えたって仕方ないって、笑って答えないと。

「ね、ちょっとだけ。悪いことしようか」
「……え?」

 ニヤリと笑う西澤くんの表情が悪巧みを考えている子供みたいだ。
 あたしが答える前に手を繋がれて、引っ張っていく。教室とは反対方向。今上がってきた階段を降りて、真っ直ぐに突き当たり目指して進む。途中ですれ違った他学年の先生や生徒に挨拶をしながら、繋がれた手を隠すみたいにして足は急ぐ。
 周りに人気が無くなって、たどり着いたのは図書室。特別急いだわけじゃないのに、なんだか突然のことに心臓が速くなっていた。

「開いてるかなぁ」

 ドアの真ん前に立って、西澤くんはボソリと呟く。そして、ドアに手を掛けると、鍵はかかっていなかったようで、軽くスライドしてドアが開いた。

「やった、開いた」

 繋がれたままの手。
 前に進む西澤くんに、あたしは当然のように引かれて中に入った。
 古賀くんと出逢った図書室。水曜日の放課後。それ以外の図書室は、あたしは一人で過ごす以外知らない。
 西澤くんと過ごした夏の日があったことを、あたしはなんにも、覚えていない。

 しっかりとドアを閉めて、図書室に誰もいないことを確認すると、西澤くんが繋いでいた手をようやく離した。
 あたしなのか、西澤くんなのか、滲んだ手のひらのお互いの湿度が解放されて、風をひんやり感じた。

「杉崎さんさ、授業サボったことある?」

 また、悪戯っ子みたいに笑う西澤くんは、公園でサッカーをしていた弟とどこか似ている気がした。

「ないよ」
「だよねー、俺もない。今頃教室の中は俺と杉崎さんの机だけ空席なんだろうね。皆勤賞の俺が珍しいって思われそうだなぁ」
「……皆勤賞なの?」
「え? うん。学校休んだことないよ」
「……あたしも」
「え?」
「あたしも、何気に皆勤かも……」

 おばあちゃんがバランスよく栄養を考えてご飯を作ってくれているし、少しでも体調が悪いと早めに病院に連れて行ってくれた。部活には特に入っていなかったけれど、運動が出来ないわけじゃないし、健康には自信があった。
 周りに合わせるのに疲れることはあっても、学校を休みたいとは思わなかった。たぶん、今のところあたしの人生で一番長い時間を過ごしているのが学校だから。もちろん一人になりたいと思うことはあっても、ひとりぼっちにだけはなりたくなかった。

 だから、学校に来れば葉ちゃんがいるし、声をかけてくれるクラスメイトがいるし、寂しくなかった。寂しく……

『もうずっと、このまま、ここにひとりぼっちなのかな?』

 ふいに、一ヶ所だけ開いていた窓際に、泣きそうに佇む自分の姿が一瞬見えた気がした。

「杉崎さん、ちょっと休憩。座って話そう?」

 夏の終わり。窓から入り込む風はすっかり秋の気配を連れてくる。
 冷房はついていないし、もうほとんど要らないほど体感的には涼しくなってきた。
 カーテンを引くと、柔らかいけれど、なんだか少しだけ寂しく感じる空気が体を掠めていった。

「杉崎さんとここで会った時、実は俺、サッカー諦めようとしてたんだ」
「……え?」

 椅子を引いて座ると、突然西澤くんが切り出してきた。
 あたしにも座って、と手を差し伸べるから、向かい側に向き合うように座った。
 西澤くんの言葉に、なぜか胸がぎゅっと絞られるみたいに苦しくなった。

「夏休み直前の練習試合で、体当たりに負けて怪我をしたんだ。三年の先輩が抜けて、これからだって時に」

 さっきまでの無邪気さなんて無くなってしまった西澤くんの表情は、徐々に固くなる。
 葉ちゃんが言っていた言葉を思い出す。

『西澤くん夏休み中の練習試合で足怪我しちゃったんだよー。だからね、もうサッカー出来ないらしい』

 本人から聞くと、本当だったことに確信を持てる。そして、サッカーの好きな西澤くんにとって、サッカーが出来なくなることが、どんなに辛いことなのか、目の前の彼の表情で痛いほどに伝わってきた。

「一応さ、夏休み中も練習には顔出したいなって思って学校に来てたんだ。だけど、部室に入ろうとして、チームメイトが俺のこと話してるの聞こえてきちゃって」

 はぁ、とため息を吐き出し、西澤くんは窓の外に視線を外した。

「ずっと一緒にやってきたのに、俺の抜けた穴をどうやって埋めるんだよって、言い争いになってて。仕方ないから、俺のいない体制に慣れるしかないだろって、揉めてて……小学生の時からお互いに信頼しあってたチームメイトだから、喧嘩なんてしたこと無かったんだ。なのに、俺のせいでこんなことになってしまうなんて、申し訳なくて……あの日、図書室に逃げてきたんだ」

 眉を下げて、西澤くんは小さくまた息を吐く。

「杉崎さんが突然現れた時は、めちゃくちゃビビったよ。俺、たぶんあん時腰抜かしてたと思う」

 泣きそうに眉を下げたかと思えば、今度はあたしに視線を戻して笑ってくれる。
 思い出すみたいに話す西澤くんの話は、あたしには身に覚えがなくて、やっぱり首を傾げたくなるけれど、西澤くんの話は最後まで聞いてあげたいと思った。

「杉崎さんとここで会えて、明日も来る? って聞いてくれてさ、俺、なんかすげぇ嬉しくなっちゃって。もちろん、落ち込んでく気持ちはあったんだけど、帰りに隆大と会って部室でのことを聞いたら、みんなが俺のこと慕ってくれてるし、頼ってくれてることを知ったんだ。きっと、杉崎さんとここで会えてなかったら、たぶん卑屈になって終わってたかもしれない。隆大とも口も聞かなかったかもしれない。サッカー部の奴らとも、距離置いてたかもしれない。そう思うと、杉崎さんがここにいてくれたのは、俺にとって奇跡だったんじゃないかなって、思うんだよね」
「……奇跡……」
「大袈裟? そんなことないよ。マジで奇跡だと思う。杉崎さんとのあの日々があったから、俺は今楽しいし、笑っていられるんだよ。だから、本当にありがとう」

 目を細めて満面の笑みを見せたあと、西澤くんが頭を下げる。

「忘れちゃってるならそれでも良いんだ。だって俺は覚えてるから。杉崎さんに救われて、杉崎さんのことが、好きになったんだよ」

 晴れやかに笑う西澤くんだけど、そんな西澤くんにとっての奇跡があったことを語られても、あたしの心までは晴れることはない。
 あたしが西澤くんのことを笑顔に出来たなら、それはそれで良いことだとは思う。
 だけど、あたしだって心から笑えたらいいのになって、思ってしまう。
 幸せが何なのかも、今はわからないけれど……

「杉崎さんはさ、なんかいっつも寂しそうな顔してるんだよね」

 目と目が合って、ジッと見つめられる。
 真っ直ぐな視線からは、逸らすことができなくて、困る。

「俺がそれをどうこう出来るなんて思ってないよ。だって、俺はまだ、杉崎さんのことなんにも知らないから。学校で見せている姿は、なんだか嘘くさいなぁとは思っていたんだ。ずっと」
「……え?」
「あ、ごめん。でもさ、ほんと。みんながみんな口を揃えて杉崎さんは可愛くて優しくて、勉強も出来て頼りになるって言ってたけど、確かにその通りなんだけどさ、俺にもよく分かんないんだけど、たまに寂しそうな顔してるのが、ずっと気になってたんだよね」
「……ずっと……って?」
「あー……入学した頃から? みんなに囲まれながらも、たまになんか暗い顔してるのが気になってた」

 あたし、顔には絶対に出していない自信があったのに。周りに合わせて笑顔を貼り付けるのが、もはや特技みたいになっていた。
 小さい頃から、自分が笑顔でいれば周りから寄って来てくれるんだということを、知っていた。
 楽しくなくたって笑って、嬉しくなくたって笑って、悲しみを誤魔化すために笑っていた。暗い顔なんて、一人の時くらいにしかしたことがなかったはずだ。
 それなのに……

「俺もさ、そんな感じの時期が、あったんだよな」

 躊躇いがちに、西澤くんがため息を吐き出すみたいに話し始める。

「親父が再婚相手を連れてきた時。全く知らない女の人を紹介されて、しかも、もうすぐ弟が産まれるって聞かされたんだ」

 ……再婚相手?
 すぐにその言葉に反応したあたしは、公園で見かけた母のことを「ママ」と呼ぶ西澤くんの弟を思い出した。

「母親がいないのは俺にとってはずっと当たり前だった。生まれてすぐに、両親は離婚。母親は俺を置いて出て行ったらしい。親父は優しくて頼りになって、だから、成長するにつれても、別に悲しいとかそういう感情にはならなかった。でもさ、突然知らない人が今日から母親ですって現れたら、誰だって戸惑うしよくわかんなくなるよね?」

 同意を求めて真剣な眼差しでこちらを見る西澤くんに、小さく頷いた。

「最初は、なんかすげぇ苦手な人だった。少しでも失敗すると泣いてさ、親父がその度に大丈夫だからって慰めるんだけど、頑なに泣いたってしょうがないのにごめんなさいって言いながらも泣くんだよ」

 はぁ、とまた大きなため息を吐き出した西澤くんに、あたしはやはり母のことを思い出す。
 泣いたってしょうがない。
 そうだよ。しょうがないんだよ。だから、泣かないように、笑顔で済ませようって、いつも思っていた。
 西澤くんだって、そんな母に呆れてしまったんでしょう? どうすることもできないなら、仕方がないって、諦めるしかないよね。
 
「でも、少しずつ母さん変わったんだ。泣きたいなら泣けば良いのにって」
「……え?」
「俺がサッカーで試合に負けて悔しくて帰って来ると、笑って言ってくれるんだ。悔しいなら泣きなさい! 思いっきり泣いて、そして前を向きなさいって」

 優しく、穏やかに西澤くんが真っ直ぐに言った言葉は、あたしの母が伝えた言葉なんかじゃないと思うくらいに前向きだった。

「だから、俺、あの日寂しそうにここにいた杉崎さんのことを救ってあげたくて、思いっきり泣けよって、自分の方が泣いちゃうくらいに叫んでた。杉崎さんのこと、失いたくなかった。消えてほしくなかった。夏の日差しに溶けるみたいに消えて行った君を見て、僕は一人で泣いたんだ。思いっきり泣いて、また前を向こうって決めて……」

 ふわりと、優しい風がカーテンを揺らす。

「だから、杉崎さんが目を覚ましたって聞いた時は、周りの目も気にしないでまた泣いちゃったんだよね。先生の涙につられたってことにしてたけど、本気で嬉しかった。また、杉崎さんに会えるんだって思ったら、本当に、嬉しかった」

 キラキラと、柔らかい日差しが窓の外から入り込んできて、西澤くんを照らす。

『泣けよ!!』

 頭の中に響いてきたのは、それまでは蝉の聲ばかりだった。
 うるさい、うるさいと、鬱陶しかった。
 きっと、あたしの心の中で堰き止めていた、我慢や悲しみが、限界を超えていたのかもしれない。ひとりぼっちが悲しくて泣いた。
 誰かにあたしという存在に気がついてほしくて泣いた。たくさんたくさん、今まで言えなかった気持ちを吐き出すことができた。

 でも、あたしは最後の最後で、仕方ないと諦めたんだ。
 諦めたから、西澤くんとの夏の日々を、忘れてしまっていたのかもしれない……

 徐々に、図書室の背景が動き出す。夜が来て、また朝が来て。
 あたしは一人図書室に閉じ込められたまま。このままひとりぼっちでいなきゃならないのかと思うと、寂しくてたまらなかった。
 だけど、そんなあたしを西澤くんが見つけてくれたんだ。
 いや、違う。
 あたしが、西澤くんに見つけて欲しかったんだ。
 一人で図書室に入ってきた西澤くんは、あたしのことなんて見えていないみたいにすぐ真横を通り過ぎたんだ。
 寂しかった。
 あたしのことを、見つけて欲しい。
 その一心で彼のことをジッと見つめて、彼の後ろ姿に祈った──あたしを見つけて

 世界が、ずっと薄暗い幕を纏って見えていたことに気が付けなかった。
 全てを思い出した瞬間に、眩しいほどに鮮明に明るさを感じ始める。

 西澤くんの笑顔が、驚いた顔が、真剣な顔が、冗談を言ったり悩んだりする顔が、次々と記憶の中から溢れ出てくる。
 寂しいのは、最初だけだった。
 あたしは、西澤くんに救われたんだ。
 西澤くんがあたしを見つけてくれたから。

「……西澤くんは、あたしの奇跡だよ」

 全部、思い出した。

 綺麗な星空も孤独な夜も、このままひとりぼっちで消えていくんじゃないかと怖くてたまらなかった時間を、西澤くんが埋めてくれたんだ。
 あたしのそばにいてくれたんだ。

 込み上げてくる涙が止められなくて、頬を伝っていくのも構わずに、あたしは西澤くんに微笑んだ。

「ありがとう、西澤くん。全部、思い出した」

 西澤くんは、あたしに言ってくれたんだ。

『泣けって!! 泣いて泣いて、うるさいくらいに泣き喚け! それしかないだろう? 気づいてもらえ! なんもしないで終わりを迎えるなんて、そんなの悲しすぎるだろ!』

 悲しみが、全部溢れ出ていく。
 もう、我慢なんてしなくて良い。
 泣いて、泣いて、泣き喚いて、そんなの虚しいだけだって思っていた。

「大丈夫だよ。杉崎さんの涙は、全部俺が受け止めるから、安心して」

 そっと、手を伸ばしてくれる西澤くん。
 涙で歪んでしまって、だけど、あたしも手をそっと伸ばして、繋いだ。
 安心する──
 ずっと、誰かに聞いてもらいたかった。こんなに我慢しているのに、どうしてあたしばっかりって。悪いことがあれば良いことがあるから、それまでは我慢しようって。悪いことばかりが気になって、ずっと気にして、良いことが何なのかも分からなかった。

 あたしの話を聞いてくれる西澤くんに出逢えた事が、最大の良いことなんだ。奇跡なんだ。
 それでも、この手の温もりは永遠なんかじゃないんだろうと、疑ってしまう。

「……西澤くん」
「ん?」
「……西澤くんのお母さんって、きっとあたしのことを捨てた人だよ」

 繋いだ手に視線を落としたまま、あたしはポツリとつぶやいた。一瞬、そっと握られていた西澤くんの手に力が入った気がした。

「…………え?」

 捨てた人。そんな言葉を放ってしまえば、きっと西澤くんじゃなくたって困惑するだろう。だけど、あたしはもうなにも隠したくなかった。
 全てを曝け出して、泣き喚いて、西澤くんに嫌われようが、なんと思われようが、もう今更、止められないと思った。

 太陽が雲に隠れて、図書室が薄暗くなる。
 外からの明かりで十分だった室内の蛍光灯はつけていない。もともと誰もいなかったから、つける必要もなかったし、秋の柔らかい日差しがちょうど良かったから。

 あたしが泣いて、全てを思い出して、それと同時にあたしの暗い過去も全部吐き出してしまいたくなる。西澤くんに知ってほしくなって、貪欲になる心と同じみたいに、空も翳りを増していく。
 入り込む風が、泣いたからかもしれない……体や頬に、ひんやりと感じた。



 授業の終わりを告げるチャイムが廊下側から鳴っているのが聞こえた。図書室内にはスピーカーは備え付けられていない。
 外の風の音や木の葉が擦れる音の方が、耳には届きやすかった。
 そんな中、また始まりを告げるチャイムがかすかに聞こえると、あたしは目の前の西澤くんのことを真っ直ぐに見つめた。

 そして、今まで誰にも打ち明けたことのなかった父と母のことを、胸の奥から湧き上がらせる。
 繋いだ手をそっと離して、小さく深呼吸をした。

「うちの両親は、あたしが三歳の時に離婚したの」

 西澤くんには、おばあちゃんと二人暮らしをしているってことは話していた。もっと、ちゃんとどうしてあたしには両親がいないのかを、どんどん、聞いてほしくなる。

「いつも喧嘩が絶えなかったって記憶がある。父なんて、顔は覚えていないけど、大きな声で怒鳴っている姿だけは覚えている。いつも母と言い合いになって、母も負けじと言い合って。間に入ろうとするおばあちゃんのことまで突き放すような言葉や態度をとっていたのを見てきたの……」

 怖かった。
 ずっと思い出すことをしてこなかった。心の奥底にしまいこんで、開けないように、触れないように、圧をかけるみたいに小さく小さく押し込んでいた。
 いつか、消えてなくなれば良いのにと、ずっと思いながら。だけど、消えてなんてなくならない。
 ふとした瞬間にたまに湧き上がってくることが、とても怖かった。

 冷たい風のせいにしたいけれど、きっとこれは、蓋を開けてしまった心の奥から湧き上がる気持ちの気泡が身震いを起こしている。
 そっと、自分を抱きしめるようにして両腕をさすった。

「そんな二人が、あたしの三歳の誕生日に突然、いなくなった」

 涙は、溜め込みすぎると簡単には出てこないものなのかもしれない。
 悲しみは湧き上がってきていても、涙はいっこうに瞳に溜まらない。

「捨てられたんだ、あたし」

 悲しいを通り越すと、なんでだろう?
 楽しくなんてないのに、口角が勝手に上がってしまう。苦しいくらいに胸が押しつぶされて、息ができなくなるくらいにひどく痛いのに、どうしてだろう?
 あたしはなんで、笑っているんだろう……

「母に、あたしは捨てられたの……要らなかったんだ……あたしのことなんて。ずっと、怖かった。だけど、あたしは……母にそばにいて、欲しかった……」

 震えていく声。先ほどよりも、指先に血が通わなくなるみたいに、腕をさする手もひんやりとしてくる。
『泣いたってしょうがないでしょ!』
 父と喧嘩をした母は、泣き喚いて縋り付くあたしにいつもそう怒鳴った。
 怖かった。
 泣くのをやめたかった。
 だけど、どうしたって泣くこと以外になにも出来なかった。
 母からは離れたくなかった。どんなに大きな声をあげられても、見上げてみれば、歯を食いしばって耐え凌ぐみたいに母が震えているから、なんだかその姿が今にも消えて無くなってしまいそうに見えて、もっと、怖かった。
 あたしが、母のそばにいてあげたかった。だから、泣いたってなんだって、必死にしがみついていた。
 それなのに──

 母はあたしを置いて、いなくなった。

 限界だった。必死で堪えていた涙はもうすぐそこまで湧き上がっていた。
笑っていた口角を、ぎゅっと結んで一文字に力を込めた。

「泣いて良いんだってば」

 ため息をするように、だけど、優しくて柔らかい言葉があたしを包み込む。西澤くんは立ち上がると、あたしの横まで移動して立ち止まった。

「いいんだよ、泣いたって」

 震えていた指先が、自然とゆっくり暖かさを取り戻していく気がする。

「たくさんたくさん、泣いていいんだよ。思う存分泣いたら、また、前を向けばいい。泣くのは、悪いことなんかじゃない」

 あたしの横にしゃがみこんで、「ね」と顔を覗き込んでくる西澤くんの笑顔が、一瞬だけ見えた。かと思ったら、目の前が波打ち始めて、視界がぐちゃぐちゃに混ざり込んでいく。一瞬にしてもう、何も見えなくなった。

 体が熱くなっていく。心の底の悲しみが、何度も何度も、押し寄せてくる。
 耐えきれなくなって、あたしは声をあげて泣いていた。
 もう、なにも我慢したくない。
 押し込んでいた悲しみは、いつか消えるだろうなんて、そんなことがあるわけなかった。
 全部、我慢しないで吐き出せていたら、こんなに辛くて苦しい思いなんて、しなくて良かったんだ。だけど、それがどうしてもできなかった。
 拭っても拭っても溢れ出てくる涙に、頬と目尻が痛くなった。
 西澤くんが隣の椅子を引いて座ると、あたしが泣き止むまで、ずっとそばにいてくれた。

 誰かにそばにいてほしい。
 あたしは、いつだって願っている。
 だけど、人は離れて行ってしまうものだ。それが怖くて、なるべく深く関わらないようにしてきた。
 離れてしまった時の悲しさが、どんなに悲しいか、あたしは知っているから。

「あはは、目、真っ赤」

 ようやく落ち着いて、ポケットティッシュを取り出したあたしが鼻をかんでいると、隣でけらけらと西澤くんが笑った。
 何も言わずにあたしは不服に頬を膨らませる。

「思い切り泣けたね」

 微笑む西澤くんに、あたしは重たくなった瞼を懸命に開きながら小さく笑った。

「……うん、スッキリした」

 なんだか、胸の中が空っぽになったみたいにスカスカだ。空気が、体の中を通り抜けていくみたいに清々しい気分。
 初めての感覚に、なんだか不思議に思いながらも嬉しくなった。

「ねぇ、杉崎さん。俺の母さんに会ってみない?」
「……え」

 突然、西澤くんが聞いてくるから、せっかくスッキリした気持ちにまた少しモヤがかかる。

「母さん……と、言うか、うちの家族に会ってみない?」
「……家族?」
「うん、俺の父さんと母さんと、大海と大地、そして花。みんなと、会ってみてよ。きっと、今たくさん泣けた杉崎さんなら、俺の家族のこと、受け入れてもらえる気がする」

 西澤くんの提案に頷けずにいると、西澤くんも困ったように首筋を掻く。

「まぁ、家族と会って、とか、ちょっとアレか。なんか、両親に会わせるってなると俺も緊張しちゃうけど、友達ってことで遊びに来てみてよ。花もまた会いたいって言ってたし」

 照れて、耳が赤くなる西澤くんに、あたしは小さく頷いた。
 だって、花ちゃんにはまた会いたいと思っていたから。
 あたしが頷くのを確認した西澤くんは、一気に表情が綻んでいく。嬉しそうににやけているから、なんだかあたしも照れてしまって、そっと視線を逸らして窓へと向けた。

 一瞬だけ、蝉の鳴く聲が聞こえた気がして、幻のように消えていく。窓からの陽射しも、じりじりと焼くように眩しく入り込んでいたかと思えば、夏の光が少しずつ弱まって、柔らかい温かさを感じる、晩夏光。

 初めて授業をさぼったあたしと西澤くんは、そのまま「かき氷を食べに行こう」と、学校を抜け出した。二人で別々の味を買って、分け合う。
 西澤くんはきっと、こう言うことには慣れていない。もちろん、あたしだって慣れてるはずもないから、この前のまりんちゃんと隆大くんみたいなじゃれあいなんて出来ないけれど、なんだかすごく、楽しい。

「このカップで目元冷やしたらいいんじゃない?」
「え!」

 かき氷のカップを目元に持ち上げて、西澤くんがニヤリと笑う。
 あたしはすっかり泣き腫らしてしまった目のことを忘れてしまっていて、慌ててスマホで自分の目元を確認した。

「うわ、やばい。酷すぎる……」

 思った以上に赤くなって腫れぼったくなっている瞼にまたしても泣きそうだ。

「大丈夫だって、かわいいから」
「え?」
「かわいいから大丈夫……!」

 パクリと掬った氷を口に運んで、西澤くんは目を見開いてあたしに振り返った。

「あ! いや、えっと……」

 一気にいちご味のかき氷みたいに真っ赤になっていく顔に、あたしはスマホをポケットにしまって、小さく「ありがと」と伝えると、ストローで溶けかけのかき氷を吸い込んだ。底に沈んでいたシロップの濃い味が冷たさと一緒に体に染み渡る。

 西澤くんは素直だ。そんなところが、あたしは好きかもしれない。

「かき氷の次は、花火だよね」

 ふと、そんなことを思って口にしてしまった。

「花火したいよね。俺の密かな夏の目標だもん」
「え?」
「杉崎さんと花火大会……は、叶わなかったけど、花火はまだ出来るよね。よし、食べたら花火買いに行こう!」
「え!?」

 急いでかき込むから、西澤くんは「うっ!」と言ってから、こめかみにグッと手のひらを当てて俯いた。
 どうやら、冷たさが頭に直にきたらしい。
分かっててやってんのかなぁ、西澤くんって、ほんと……
 唖然と見つめていたあたしに気が付いて、西澤くんが目を細めた。

「絶対俺のことバカにしたでしょ? 今」
「し、してないしてない……」

 慌てながら首を振るあたしに、ジト目をやめないから、苦笑いするしかない。

「いや、しました……」

 観念して、ごめんと謝ると西澤くんが吹き出して笑うから、あたしまでおかしくなった。やっぱり、西澤くんになら素直になれる気がする。
 あの日、忘れていた夏休みの日々が、なんだか懐かしく感じて、愛おしい。

 食べ終わったカップをゴミ箱に捨てて、西澤くんが歩き出す方向に着いていく。

「今日は花の迎えは母さんが行くから、花火買って、なんか食べない? お腹空いたんだけど」

 確かに。朝からサボってお昼も食べずに図書室で過ごしていたから、何も食べていなかった。しかも、たくさん泣いてしまってお腹は空いている。かき氷がこんなに美味しく感じられたのは、きっと空腹も相まってな気もする。西澤くんとコンビニに入っておにぎりとサンドイッチを買って食べた。
 図書室から抜け出してきたから、靴も上靴だし、鞄も教室だ。一度取りに戻らなくちゃいけない。

「学校、戻る?」
「そうだな、なんか、怖いけど」

 サボっていることは当然バレているだろうし、きっと担任と鉢合わせたら怒られる気がする。だけど、なんでだろう。西澤くんと一緒なら、あたしは怖くないと思っている。

「怖いの?」
「……いや、絶対俺が連れ出したんだろって言われそう。あ、いや、別にそれでも良いんだけどね、実際そうだし」

 言いながらため息をついて、足取りも心なしか遅くなっていく西澤くんに、あたしは笑った。

「怒られる時は一緒にだよ」

 軽く背中に手を置いて叩くと、落ちていた肩がシャキンっと上がった。眉が下がる笑顔で、「よろしく」と言われて、あたしは頷いた。
 さっきまで本当にあたしは泣いていたんだろうかと思うほどに、気持ちが軽くて、今なら何にでも耐えられる気がした。

 授業はとっくに全部終わっていて、校庭では部活動に励む生徒が見えた。
 昇降口から中に入る前に、掃除用のロッカーから雑巾を取り出して上靴の裏を拭いた。
 天気が良かったから、そこまで汚れることはなかったけれど、一応土足したことには変わりないから。学校内に足を踏み入れて、教室を目指そうとした瞬間、馴染みの声が聞こえてきた。

「涼風ー!?」

 あたしを呼ぶのは、いつも元気な葉ちゃんだ。声のする方に視線を向けると、バスケットボールを胸の前に持って手を振る葉ちゃんの姿が体育館通路の少し手前に見えた。

「今日どうしたの? 大丈夫?」

 心配そうに駆け寄ってきてくれた葉ちゃん。実はスマホに何件かメッセージを送ってくれていたのに気が付いていたけれど、開いて見ていなかった。

「……目、腫れてる?」

 するどい葉ちゃんには、やっぱりすぐに気が付かれてしまう。あたしが気を張っていた葉ちゃんとの友情も、もしかしたらここまでかもしれない。本当のあたしを知ったら、きっと葉ちゃんに嫌われる。

「ちょっと、色々あってな」
「あれ? 西澤くん!?」

 何も言えなくなってしまっていたあたしの後ろから、西澤くんが葉ちゃんに声をかけてくれた。
 目を見開いて驚いた顔をする葉ちゃんに、あたしはさらにどうしようかと不安になる。

「二人とも、いなかったよね? 今日」
「うん」
「もしかして、二人でどっか行ってサボってた?」
「……うん」

 担任に怒られた方が、よっぽどマシだと思った。
 頷く西澤くんに、もうそれ以上一緒にいたことを葉ちゃんにはバラさないでほしいと願う。
 西澤くんのことが好きな葉ちゃんに、二人でいたなんて知られたら、本当にもう、葉ちゃんとの友情なんて終わりだ。
 ドクドクと苦しくなる胸に、あたしは息をするのも忘れて黙りこむ。

「西澤くんが、涼風のこと、泣かせたの?」

 言葉の一つ一つが、重たく感じる。
 ゆっくりと、確かめるように聞いてくる葉ちゃんに、西澤くんは困ったような顔をした後で、「……うん」と頷いた。

 それは、違う。西澤くんがあたしを泣かせたわけじゃない。あたしの悲しみを解放させるために、泣いていいって、言ってくれたんだ。
 だから、西澤くんが悪いわけじゃない。
 全部、ずっと溜め込んで蓋をして、吐き出すことができなかったあたしが悪いんだ。
 だから、西澤くんを責めたりしないでほしい。

 葉ちゃんに、どうやってこの気持ちを伝えれば良いのか、一生懸命に頭の中でぐるぐると巡りながら考えるけれど、一向に答えが見つからない。
 何を言っても、あたしの言葉は言い訳だし、偽りになる。
 グッと、言葉の出てこない口元を結ぶと、目の前にいた葉ちゃんが急に笑い出した。

「やっぱり西澤くんってすごい!! さすがだわ。あたし、西澤くんにずっと頼りたかったの」
「…………え?」

 ボールを持ってる手に力を込めて、葉ちゃんが前のめりになって西澤くんに詰め寄った。
 その圧に負けてしまいそうになりながら、西澤くんは後ろに引いた足をまた元に戻した。

「あたし、涼風の友達だけど、涼風ってすごく考え方が大人で頑張り屋で、辛いこととかあってもすぐに蓋をしちゃうんだ。だから、あたしの方が勝手に辛くなったりしてた。古賀くんのこともなんだけどさ。だから、西澤くんが涼風のことで泣いてくれてるの見た時、この人本物だ! ってずっと思ってたの。西澤くんって、涼風のことすごくよく分かってくれてる気がしてた!」

 あたしと西澤くんを交互に見ながら、葉ちゃんがニコニコと笑顔をくれる。
 なんだか、胸の中の痛みが和らいでいく。
 だけど──

「……葉ちゃん、西澤くんのこと……」

 好きなんだよね?

「あたし、涼風も西澤くんも、人としてすごく好き。なんか、すごく真っ直ぐで、応援したくなっちゃうの」
「……真っ直ぐ……」
「うん。涼風は人を傷つけないようにっていつも周りを気遣ってくれるし、その代わり自分が傷つくのは見てみないふりするでしょ? あたし気が付いていたけど、なかなか助けにはなれなかった。でもね、西澤くんが涼風と接するようになってから、なんとなく、涼風が変わったような気はしてたの」

 葉ちゃんには、全部ばれていたの?

「涼風って全然悲しい顔を見せないの。泣くなんてもってのほかだよ。それなのに、こんなに目が腫れちゃうくらいに大泣きさせれるって、西澤くん、やっぱりすごいよ!」

 バスケットボールを足元に挟んで、葉ちゃんはあたしのほっぺを両手で挟み込んだ。
 唇が突き出るくらいに挟まれて、慌てるけど、離してくれないから、そのままじっとするしかない。

「良かったね、涼風、ちゃんと泣けて」

 きっと、今のあたしの顔は不細工だ。目の前の晴れやかに笑う葉ちゃんの笑顔と言葉に、またしても湧き上がってくる涙を懸命に堪えた。

「かわいいなぁ、涼風は。あたしの前でだって、泣いて良いんだよ。あたしのこの広い胸で受け止めるからっ」

 頬の手を離すと、今度はぎゅうっと、葉ちゃんの胸に包まれる。葉ちゃんはいつだって、あたしのことを大事にしてくれる。この手が、離れるなんて心配、要らないのかなって、すごく安心する。
 不安なんて、吹き飛んでいく。

「あー! 何やってんの!? そこっ」

 後ろから、今度は甲高い声が聞こえてきた。
 もうすっかり聞き馴染みのあるその声は、振り向かなくてもあたしには誰かわかった。

「……まりん」

 ボソリと葉ちゃんがあたしの耳元で呟くから、答え合わせをしなくても正解だ。

「大空くんもいるー! リュウちゃんがなんか心配してたよー?」
「あ、まじで? ちゃんと話してこないとな」
「で? どうだったの? 二人きりのデートは?」

 スキップするみたいに駆け寄ってきたまりんちゃんの前に、葉ちゃんが立ちはだかる。

「……まりん、今日こそは部活来な!」
「え!? なんで? 行かないってば。あたし二人の話聞きたいーっ」
「あんたさ、空気とか読まないの?」
「…………空気?」

 空中を見上げたまりんちゃんの目線が、うろうろと彷徨う。

「空気なんて読むもんじゃないでしょーっ! なんも書いてないもーんっ!」

 けらけらと笑い出すまりんちゃんに、葉ちゃんが怒ったように「もうっ!」と言って、腕を取る。

「いいから行くよ!」
「やだよー、行かないよー、あたしなんてもう居場所ないもん」

 ぐずりながらも葉ちゃんの力に抗えないのか、まりんちゃんが少しずつ体育館に引き摺られていく。

「あるから! ずっとあたし待ってるんだよ! まりんとバスケやりたくてあたしはバスケ部入ったのに、こんな中途半端で逃げ出すとか絶対許さないから! 居場所がないとかなにバカなこと言ってんの!? みんなずっと待ってるんだよ? 早く戻ってきて盛大に謝んなさい!」
「……え」
「みんなまりんがいないとチームが締まらないの! 自分の立場がどんなに大事な存在だったかちゃんと確かめなさい! それでも嫌なら辞めればいい。そこまでは引き留めたりしないから」

 一度立ち止まって、葉ちゃんがまりんちゃんと向き合っている。くるくると巻かれたツインテールが俯くまりんちゃんの顔を隠した。ぺたりと座り込んでしまったと思ったら、突然顔を上げた。

「…………うぇっ……うわーんっ! 葉ちゃーん! みんなー! ごめんなさーい! あたし、あたし……もうみんなからは見放されてるってずっと思ってて……別にいいもーんって開き直ってて、めちゃくちゃ最低だぁー!」
「マジ最低なんだからね! ちゃんと試合に貢献して償いな!」
「うわーんっ!!」

 大泣きをし始めるのも構わずに、葉ちゃんにズルズルと引き摺られていくまりんちゃんの姿を最後まで見届けると、体育館の扉がパタリと閉まった。
 なんだか、泣き喚くまりんちゃんの姿に、先ほどまでの自分もああだったのかと思うと、急激に恥ずかしくなってきた。

「ね、泣くのは大事」

 クスクスと、西澤くんはまりんちゃんの姿に唖然としながらも、おかしそうに笑っている。

「そうだね」

 我慢していたって、たまには吐き出さないと。

「蝉ってさ、七日間しか生きられないんだよ?」
「……え?」
「知ってた?」
「……知ってる……けど?」

 なんだか、このやりとりはした覚えがある。
 だけど、聞いたのはあたしの方だ。

「七日間のうちに、感情全部吐き出すんだよ。鳴いて鳴いて、鳴き喚いて。そして、生涯を終える。黙り込んだまま土に潜って、何にも吐き出さずに我慢ばかりしていたら、人生勿体なさすぎる」

 蝉は、鳴くのが当たり前だと思っていた。
 だけど、蝉にしてみたら、人生が、生まれてから死ぬまでの一生がかかっている。
 だったら、鳴いて鳴いて、泣き喚いて尽きるのが、本望なんだろう。

「やっぱり、俺の母さんと会って話をしてほしい。二人とも、今ならきっと、うまく泣ける気がするんだ」

 カバンを取りに教室に向かって、先生に見つからないように急いで学校を後にした。

 西澤くんがスマホで話をする横顔を眺めながら、隣を歩いていた。時折はははっと笑う笑顔は優しくて、柔らかい。
 通話の相手は、西澤くんのお母さんで、そしてきっと、あたしの母だ。

「夕飯? うーん、なんでもいいよ。え? あ、ごめん。でも、なんでもいい。母さんの料理みんな美味しいから。はは、うん、あ、花に花火やるからって伝えてて。うん、うん、じゃあよろしくね」

 通話を終えて、西澤くんがこちらを向く。

「夕飯用意して待っててくれるって。友達連れてくの初めてだけど、母さんなんか嬉しそうにしてくれた」
「え!? 初めて?」
「え? うん、初めて」
「隆大くんとか、サッカー部の人とかは?」

 慣れたように誘われたから、きっと友達が来ることは当たり前にあるんだと思った。

「ないよ。どっちかっていうと俺がみんなの家に行くことが多かったかな。うち、小さい子いるしあんまり騒ぐと母さんにも迷惑かけるかなって……やっぱ俺も今まで、何気に気を遣ってたのかも」

 腕を組んで考えるポーズをしてから、こちらに笑いかける西澤くんに、胸がきゅんと弾んだ。押し込んでいた苦しさから解放された心の中は、さっきから弾けるように心地いい感覚を与えてくれる。

「初めて家に連れてく友達が杉崎さんで良かったよ。なんか、嬉しい。あ、でも今更緊張してきた」

 胸に手を当てて苦しそうにする西澤くんに、あたしまで緊張が伝染する。
 ドキドキが高まっていく胸に、西澤くんと目が合うと一緒に笑い合った。
 心が軽いのに、満たされていく。
 まるで、無色透明なラムネサイダーみたいだ。
 透き通る中に気泡が弾けて、心地いい。

 これって、あたしの知っている幸せに、近い感覚だ。
 嬉しい。もっと、西澤くんを知りたい。そばにいたい。あたしの心の中が、西澤くんでいっぱいになる。
 忘れていた夏の日。あの日西澤くんに見つけて欲しくて願った想いが、今、満たされたような気がする。

 隣を歩く西澤くんの手が、触れそうなくらいに近い。そっと、あたしから近づけてみる。
 コツンっと当たった指先に、離れようとした瞬間、しっかりと繋がれたことに驚いて、あたしは西澤くんの顔を見上げた。

「……繋いでも、いい? ってか、もう、繋いじゃったけど」

 照れて、こちらを見てくれない西澤くんの頬が赤い。傾き始めた夕陽が赤さを増していくから、あたしもそんな夕陽のせいにして手を握り返す。

「うん、いいよ。あたしも繋ぎたかったから」

 大きな手に包まれると安心する。
 さっき葉ちゃんに包まれた優しさとも似ているけれど、それとはまた別に、ドキドキする。
 苦しいのに、それがとても、心地良い。
 いつまでも、この気持ちが続いてほしいと、願ってしまう。

 おばあちゃんに、夕飯をごちそうになってくることを話してくるからと、一度あたしは帰ることにした。西澤くんと家に曲がる手前の角で手を振って別れると、緊張してしまう体にすぅっと息を吸い込んでから、足を進めた。
 玄関を開けて「ただいま」といつも通りに家の中に入っていく。リビングからはテレビの音が聞こえていて、そっと中を覗くと、おばあちゃんが座って寛ぎながら、テレビに向かって笑っていた。

「おばあちゃん、ただいま」
「あら、涼風ちゃん、おかえりなさい」

 すぐにこちらを向いて、にっこりと笑ってくれる。かと思えば、おばあちゃんはまたテレビに向き直るから、あたしはカバンを足元におろして、ソファに座った。
 いつもなら帰ってきて部屋へ直行するあたしが、制服のまま座り込むから、おばあちゃんも何かを察してくれたみたいで、見ていたテレビの音量を低くしてからこちらを見た。

「……なにか、あったのかい?」

 心配そうに聞かれて、あたしは俯いていた顔を上げて、一呼吸置いてから話し始めた。

「おばあちゃん。おばあちゃんは、あたしのこと、捨てたりしないよね?」

 こんな聞き方をしたら、良くないってわかってる。だけど、こう聞くしか分からなかったから。
 あたしは、両親には捨てられたんだと思っている。たとえ本当の母だとしても、あたしを捨てたんだし、そんな人の所へはあたしは行きたくない。ずっと一緒にいてくれると思っていたのに。おばあちゃんは、違ったのかな。おばあちゃんのことは大好きだけど、捨てられるようなあたしが、悪いんだよね。

「何、言ってるの……」
「前にね、ここであたしのお母さんと話してたよね? あたしを、引き取って欲しいって」

 おばあちゃんの顔が、一瞬だけこわばるのがわかった。

「ごめんね。あたし、おばあちゃんが優しいからいつもたよっちゃって。わがまま言って、事故に遭ったりして心配かけて。もう、あたしのことなんて要らないよね」
「何言ってるの!?」

 今度は、戸惑いながらも強い口調でおばあちゃんがテーブルに乗り出して言うから、驚いた。

「なにを……そんなこと……」

 首を左右にゆっくり振りながら、おばあちゃんは悲しそうに眉を顰めた。

「隠れてお母さんと話していたことは、ごめんね。だけど、涼風ちゃんのことを捨てるだなんて、そんなものみたいな言い方、しないでほしい。涼風ちゃんはたった一人の大事な大事な私の孫なのよ。頼ってもらえるのが嬉しいの。わがままだって、かわいいものなのよ。そんな悲しいこと、言わないで……」

 眉を下げて、おばあちゃんの目元が潤んでいく。おばあちゃんはいつも父と母の喧嘩を泣きながら止めていた。
 おばあちゃんは泣き虫なんだ。だから、あたしはおばあちゃんのことを悲しませることはしたくなかった。

「おばあちゃんはね、涼風ちゃんと出来ることならずっと一緒にいたいよ。だけどね、やっぱり限界はあるのよ。それに、涼風ちゃんのお母さんは、涼風ちゃんのことを捨てたわけじゃない。それだけは、分かって……」

 分かんない。
 じゃあ、どうしてあたしを置いて今は別の家庭を持って幸せにしているの?
 あたしの存在なんてなかったみたいに。

「これから、お母さんに会ってくる」
「……え?」
「あたしのクラスメイトのお母さんが、あたしのお母さんなの」
「……そう、なのかい?」

 知らなかったらしい。あたしの言葉に、おばあちゃんは目を見開いて驚いている。

「ちゃんと、話してくる……」

 あたしのことを捨てたわけじゃないのなら、どうしてあたしを置いていなくなったのか、あたしのことが要らなかったからって理由しか思いつかないから、本当の母の気持ちを、怖いけれど、ちゃんと聞いてみたい。

 西澤くんのおかげで、気持ちがだいぶ前向きになれている。さっき繋いだ手から伝わった体温が、一人じゃないって、思わせてくれた。だから、きっと大丈夫。

「そうかい……うん。行っておいで。涼風ちゃんのお母さんは素敵な人だよ。ろくでもないのは、父親の方だ」

 深いため息を吐き出すおばあちゃんの隣に、あたしはソファーから立ち上がって座った。そして、落ち込む背中にそっと手を当てた。
 だいぶ丸くなった背骨、あたしよりずっと大きくて優しくてたくましかったおばあちゃんが、今はこんなに小さく見える。いつも笑顔を絶やさないおばあちゃんが、泣いている。
 おばあちゃんには、幸せでいてほしい。
 ため息なんて吐き出さないで、笑っていて欲しい。
 あたしは、おばあちゃんをギュッと抱きしめた。

「おばあちゃん、大好き」

 あたし、ちゃんと聞いてくる。怖くて蓋をしていた過去は、もう全部思い出したし、吐き出せた。聞いてくれて、受け止めてくれた西澤くんがいたから。
 だから、きっと今日だって大丈夫。
 あたしは、ちゃんと話をすることが出来るはず。
 父と母のことを知りたい。
 全部を受け止めて、前に進みたい……

「もう、いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだろうねぇ。ずっとちっちゃいままなら良いなってばぁちゃんはいつも思っていたよ。だけどね、そんなことは無理なんだよね。涼風ちゃんは毎日毎日一生懸命生きてるから。だから、こうやっていつの間にか、優しくて我慢強い子になったんだね」

 トントンと、ゆっくり優しく背中を摩ってくれる。
 小さかった頃を思い出す。おばあちゃんはいつもあたしが泣きそうになると、こうして大きな胸で抱きしめてトントンと背中をさすってくれた。
 とても安心した。今だって、安心感は変わらない。だけど、今は大きかった胸の中からはみ出てしまっている。今度はあたしが、おばあちゃんを守ってあげたい。

「いつまでもかわいい涼風ちゃんでいて良いんだからね」
「うん、ありがとう。着替えたら行ってくるね」
「うん、行っておいで。私は適当に食べるから、ゆっくりしておいで」

 笑顔で手を振り、おばあちゃんはテレビの音量を元に戻してまた見始めた。


 部屋に戻って制服を脱ぐ。改まった格好はしなくても良いとは思うけれど、あまり普段着すぎてもよくない気がして、クローゼットの前で悩んだ。ふと、ハンガーにかかって一番端っこにある浴衣が目に留まった。
 おばあちゃんが買ってくれた浴衣だ。


 高校に入学して最初の夏、葉ちゃんが誘ってくれた夏祭りに来ていくはずだった浴衣は、あいにくの雨模様で急遽私服に変えた。それ以来、ここにかけっぱなしだった。
 今年の夏も、古賀くんとこれを着て夏祭りに行けたらいいなぁ、なんて夢は見ていた。だけど、結局着れることはなかった。
 また、来年かな。そう思っていたら、カバンの中でスマホが鳴った。

 取り出して確認してみると、西澤くんから画像付きのメッセージが届いている。
 すぐに見てみると、ピンク色の浴衣を着た花ちゃんが決めポーズをして写っている写真だった。

「……かわいい……!」

 メインは花ちゃんだけど、後ろにお揃いの甚平を着た弟くんたちも映り込んでいる。

》花火するって言ったら、みんな浴衣着だしてさ、なんかすっかり夏祭りモードだよ。庭でバーベキューと焼きそばだって。フランクフルトも焼くって。もううちのお祭り会場整いつつあるからいつでも大丈夫だけど、迎えにいくから杉崎さんも準備できたら連絡ちょうだい。

 夏は終わったはずなのに。時間が巻き戻っていくみたい。
 西澤くんと出逢ってから、時間の感覚がおかしい。なんだか魔法にかかったみたいだ。なんだって叶えてくれる。
 忘れていたことも、忘れたかったことも、全部、思い出しては受け止めていく。

《みんな浴衣かわいい。準備したら連絡するね!

 返信をして、スマホをテーブルに置いた。
クローゼットの前に立って、一番端に手を伸ばす。紺地に白とピンクの牡丹が描かれた浴衣。それを手に取って部屋を出ると、リビングのおばあちゃんに見せた。

「おばあちゃん、これ着せて!」

 驚いた顔をしたおばあちゃんは、すぐに笑顔になって腰を上げてくれた。

「ちょっとタオルとか準備するから向こうで肌着着ててちょうだい」

 和室を指さされて、おばあちゃんは自分の部屋の方へと行った。言われた通りに和室で待っていると、戻ってきたおばあちゃんが手際よく浴衣を着せてくれる。

「ようやく着れたね」
「……うん」
「楽しんでおいでね」
「……お母さん、あたしが今日来ること、知らないんだよね……」

 きっと、西澤くんは母にあたしのことはただの友達がくるとしか伝えていないと思う。
 だって、こんなにスムーズにことが進むはずもない。あたしが夕飯を食べに行ったり、一緒に花火をするなんて、きっと嫌に決まってる。あたしだって分かったら、もしかしたら、押し帰されるかもしれない。
 キュッと両脇に降りた手を握った。
 俯くあたしの肩に、おばあちゃんは優しく触れてくれる。

「大丈夫だよ、いつだっておばあちゃんは涼風ちゃんの味方だからね」

 おばあちゃんがいつも言ってくれていた言葉。安心する。

「それにね、涼風ちゃんのお母さんはきっと、涼風ちゃんが来てくれたら喜んでくれるよ。泣いちゃうかもしれないね」
「……お母さんは、泣いたりしないよ」

 泣いちゃうのは、おばあちゃんだ。
 目の前で目を潤ませて鼻を赤くしているおばあちゃんに、あたしは困ってしまう。

「涼風ちゃんのお母さんの涼花(すずか)さんはね、誰よりも感情表現豊かな泣き虫なのよ。それをね、涼風ちゃんのお父さん……いや、私の息子が、あんなふうにしてしまったの。本当に、申し訳ないと思ってる」
「……あたし、お父さんのことは、あまりよく覚えてないの」

 お母さんやおばあちゃんに大声をあげる父の姿がぼんやりと見えるだけで、鮮明な記憶はない。お祭りの時に瓶入りのラムネを差し出してくれた姿はよく覚えているけれど、その顔にすら、靄がかかっている。

「うん、そのまま忘れてやってくれた方がいい。とにかく、今日は楽しんでおいでね」

 おばあちゃんは立ち上がると、キッチンに入って行った。
 母と対面することが、怖いと思っていた。だけど、もしかしたらあたしは、ずっと母に会いたいと思っていたのかもしれない。

 西澤くん宛てに「今から向かいます」とメッセージを送る。おばあちゃんがさっき用意してくれたんだろう。玄関には下駄がきちんと揃えてあって、鼻緒を指の間に押し込んだ。
 慣れない感覚にふらつくけど、「行ってきます」とキッチンに聞こえるように声をかけて、あたしは家を出た。

 カランカランと下駄を鳴らして歩く。いつもより歩幅が狭くて、急ぎたくても急げない。慌ててしまうとよろけそうになるから、ゆっくり進んだ。
 さっき西澤くんと別れた曲がり角まで来ると、息を切らせながら西澤くんが前から走ってきた。
 そして、あたしを見るなり立ち止まって、目が合うと固まったみたいに動かなくなってしまった。

「……西澤、くん?」

 そっと声をかけると、ようやく我を取り戻したように、西澤くんは瞬きを何度もしてから目を泳がせる。

「ゆ、浴衣で来るとか、聞いてないし……」

 先ほど合っていた目は、今度は合わそうとしてくれない。照れているのか、暗がりでも街灯の下だと耳が赤くなっているのがわかった。

「……ごめん」
「あ! いや、違う。ごめんとかじゃなくて。その……嬉しすぎると言うか、ありがとうと、言うか」
「え?」
「あー、いや、なんでもない。行こうっ」

 くるりと向きを変えて歩き出すから、あたしも慌ててついていこうとするけど、普段と同じペースで歩く西澤くんには、二歩、三歩とどんどん遅れていく。

「に、西澤くーんっ」

 さすがに距離が出来てしまったから、あたしは慌てて呼び止めた。
 不思議に振り返った西澤くんは、あたしとの距離が開いていたことに全く気がついていなかったんだと思う。
 大慌てで戻ってくるから、おかしくって笑ってしまった。

「ご、ごめんっ! こんな離れてるなんて気付かなくて」

 すぐ横まで戻ってきてくれた西澤くんの手を、あたしは迷いなく繋いだ。

「置いてかないでね」

 寂しさと恥ずかしさで俯いて言うと、しっかりと手を繋ぎ直した西澤くんが、今度はゆっくり歩き出す。

「置いてくなんて絶対しないから」

 繋がれた手から伝わる安心感は、信用しても良いのだろうか。あたしはまだ、心を完全には開けていない。頼り切ることが、出来ない。だけど、西澤くんには、そばにいてほしい。
 あたしはいつだってわがままだ。
 こうやってあたしのそばにいてくれる人を離したくないと、思ってしまうんだ。

 西澤くんの家は住宅地からは少し離れた河川敷の通りにある一軒家だった。
 広い庭には小さいながらに畑もある。

「ママー! 大空兄が友達連れてきたー!」

 庭で遊んでいた西澤くんの弟たちが、あたしと西澤くんが帰ってきたことにいち早く気がついて家の中に入っていく。
 玄関前までくると、「りょーかちゃ!」と、ふわふわの帯を巻いた花ちゃんが、蝶々みたいに駆けてきた。

「こんにちは、あ、もう、こんばんはかな」
「こんばちわー!」

 あたしが間違えたからか、花ちゃんまでこんにちはとこんばんはが混ざってしまっている。だけど、そのことには本人は気が付いていないで満面の笑み。抱っこをせがむように両手を差し出してくるから、とても愛おしくなる。

「ほら、花。兄ちゃんにおいで。杉崎さんは浴衣だから抱っこできないよ」

 すぐに、西澤くんがあたしの前に出て、花ちゃんを軽々抱っこする。

「りょーかちゃも花といっちょ!」

 自分の浴衣とあたしの浴衣を指さして、嬉しそうに笑う。

「そうだね、一緒だね」
「涼風……ちゃん?」

 花ちゃんと話しているのに夢中でいると、後ろから名前を呼ばれて心臓が飛び跳ねた。
母の声に、間違いなかった。

「あ、母さん。連れてきたよ。こちら、杉崎涼風さん」

 西澤くんが紹介してくれて、あたしはようやく顔を上げて母のことを見れた。

「こんばんは……いらっしゃい」
「こ、こんばんは」

 戸惑うように、だけど微笑んでくれた母の表情にホッとする。あたしも、ぎこちなかったかもしれないけれど、笑顔を向けた。

「わああ! ママ! マーマー! ちょっと助けてっ!」

 いきなり、庭の方から叫ぶように助けを求める男の人の声が聞こえてきた。あたしが驚いていると、西澤くんも母もやれやれと呆れ顔をしているから不思議に思った。

「またパパ、たすけてしてるー!」

 西澤くんの腕の中で、花ちゃんが楽しそうに足をバタバタさせた。

「花ちょっと降りて。俺助けてくるから」
「いや、待って。あの人あたしを呼んでるから大空じゃたぶん無理。お友達と紙皿とか用意するの手伝って」
「あー、分かった。じゃあ母さんに任せる」

 一方はいまだに騒いでいる声が聞こえてきているが、こちらは至ってと言うか、何も起きていないくらいに冷静だ。
 母が外に出ていくと、西澤くんが苦笑いして「とりあえず中入って荷物置いたら手伝って?」と家の中に入っていく。
 花ちゃんは、母を追いかけて外に飛び出していってしまった。

「ごめんな、騒がしい家族で」
「う、ううん」

 キャー、ははははっ、さっきから庭ではみんなの叫び声や笑い声が絶え間なく聞こえてきている。
 キッチンには食べやすく切られた野菜や串に刺さった肉、バーベキューの準備がテーブルの上にしっかりと整っていた。西澤くんが紙皿とコップを引き出しから取り出している。

「多分ね、火起こしで父さんがやらかしたから、まだ炭あったまってないと思うんだよね。お腹空いてない?」
「あ、まだ大丈夫」
「じゃあさ、先に花火やろうか」

 キッチンの窓から空を見上げて、西澤くんが笑う。夕空はもうすでに藍色に変わっていて、花火をするにはちょうどいい暗さだ。

「これだけ持ってくのお願いできる?」
「うん」

 紙皿とコップを渡されて、西澤くんは大量の花火セットと着火棒を持つ。

 外に出ると、汗を吹き出しながらタオルを頭に巻いた西澤くんのお父さんが一生懸命炭に火を起こしていた。
 隣ではテキパキと辺りを片付けたり、テーブルをセッティングしたりする母の姿。
 走り回っている弟たちに、寝転がる猫と戯れている花ちゃん。
 そんなみんなの前に花火を見せつけると、あっという間に西澤くんの周りに集まってきた。

「お、大空の彼女こんばんわー!」

 元気の良い声で西澤くんのお父さんがあたしに手を振る。

「え!? いや、彼女じゃなくって友達!」
「ええっ!? そうなのか? 彼女出来たお祝いのバーベキューじゃねーの?」
「は?! なにそれ、なんでそんなことになってんの?」
「なんだよー! 父さん嬉しくて高い肉買ってきたんだぞー! 友達だったら豚バラで良かったじゃねーかよ!」
「それ杉崎さんの前で言うのやめろよ!」

 腕を組んで、火おこしのやる気をなくしたように椅子に座り込んでしまったお父さんに、西澤くんが呆れたようにやりとりしている。

「だって豚の方がいっぱい食えるぞ? 食べ盛りに牛はたけぇんだよ」
「正直すぎんだろ。杉崎さん引いてるからマジでやめて?」

 弟たちに花火を開けて手渡しながら、西澤くんはあたしの前に立つ。

「あんな親父でごめん」

 頭を下げながら花火を差し出すから、あたしは笑って受け取った。
 火をつけた花火はシューっと勢いよく火花を散らす。大海くんと大地くんは両手に一本ずつ持って、きちんと誰もいない方向に向けてじっと終わるのを待って立っていた。終わるとすぐに先ほどみたいにはしゃぎ出してバケツの水に終わった花火を入れにくる。
 花ちゃんはまだ危ないからと、お母さんと一緒に小さめの花火を持ちながらたのしんでいた。

「これ、七色に変化するんだって!」

 さっき渡してくれた花火。持ち手の部分が虹の色をしている。

「付けるよ?」
「あ、うん」

 ぼぅとしていたあたしに、西澤くんが確認するように聞いてくれるから、あたしは花火を持つ手にしっかり力を入れる。
 シューっと白に近い金色が噴き出す。

「俺にも火わけて」

 すぐ隣に立って、西澤くんがあたしのと同じ虹色の花火を手にして火花に近づけた。
 すぐに同じ色が先端から放出される。赤、青、黄色と、どんどん彩りを変化させていく。

「綺麗」

 手持ち花火なんて、やったことあったかな。真剣に火花を見ていると、終わった瞬間に辺りが真っ暗になって、浮かぶ煙が寂しく見えた。

「涼風ちゃん……」

 顔を上げると、母が目の前に立っていた。

「少し、話をしない?」

 戸惑うように揺れている瞳。だけど、逸らすことなく真っ直ぐに向けてくれるから、あたしは隣にいる西澤くんに視線を送る。

「あいつらは俺が見てるから、ゆっくり話しておいでよ」

 微笑んでくれて、あたしの手元から終わった花火を取ると、「大丈夫。ちゃんとそばにいるから」と、小さく言ってくれた。
 キュッと握った手に力を入れて、あたしはもう一度母の方へと顔を上げた。
 優しく微笑む顔に、もうすでに泣きそうになる。グッと堪えて、並べられた椅子に座るように言われて、座った。

「はい、どうぞ」

 夜は少し肌寒い。渡されたのは、カップに入った暖かいスープ。

「ありがとう、ございます」
「もう、事故の怪我は大丈夫?」
「え……あ、はい」
「大したことなくて本当に良かった。涼風が交通事故に遭ったってお義母さんから連絡をもらった時は、気が動転しちゃって……」

 はぁ、とため息を吐き出して額に手を当てる姿に、本当に心配してくれていたんだと感じる。
 こんなに楽しそうな家庭を持って、母はきっと今、幸せなんだと思う。あたしの知っているあの頃みたいに、怒っている姿は全然見えないから。小さな子供たちと笑い合って、旦那さんとも呆れながらも楽しそうにしている。
 きっと、あの時あたしを捨ててここにいることを選んだのが正しかったんだ。だから、きっと今母は幸せでいるんだと思う。

 だけどさ、どうしても聞きたいことがある。
 お母さんは、なんで……

 カップを持つ手が震える。声も、震えているかもしれない。

「どうして、あたしのことを捨てたの?」

 コンソメスープの中の四角く揃って切られた野菜を見つめながら、あたしはゆっくり言葉を口にする。波紋を立てながら揺れる黄金色は透きとおるほどに綺麗だ。

「要らなかったから?」

 あたしが、泣いてばかりいたから?
 母の気持ちがなにも分からなかった。どうしたら、そばにいてくれたんだろうって、失ってからたくさんたくさん、考えた。
 でも、答えは見つからなかった。
 あたしが悪かったんだ。あたしなんて要らなかったんだ、だから捨てたんだ。
 そう思うしかなかった。

「ごめんなさい。ごめんね……ごめん。全部、あたしがちゃんと泣けなかったから……」

 隣で、母も震えた声を出す。
 もしかして、泣いているのかな? そんなことを思ったけれど、確かめるのが怖い。
 すでに目尻に涙を溜めて泣きそうになっているあたしに、またいつものようにあの言葉を吐き出されたらと思うと、怖くなる。

「なーにお通夜みたいに暗くなってんのー?肝試しでもやる気? 俺おばけ無理だからそれだけはやめてーっ!!」

 ケラケラと笑いながら、いきなり現れたのは西澤くんのお父さん。
 片手に缶ビールを持って、虚ろな目をしている。完全に酔っ払っているようだ。
 驚きすぎて、涙なんかなかったみたいに一瞬にしてどこかへ引っ込んでいってしまった。

「ママどうしたー? また泣きたくなってんじゃない? ほら、おいでー、泣きたくなったら泣いていいんだよ。俺がぜーんぶ、受け止めてあげるからね」

 両手を大きく広げて母の前に立つ姿は、本当に全てを受け止めてくれそうに大きくて広く見えた。そっと、隣に見上げた母の横顔は、困ったように眉を顰めつつも優しく微笑んでいる。
 西澤くんのお父さんは、なんだか、西澤くんみたいだ。親子なんだから似ていて当たり前なのかもしれないけれど……

「パパーっ」 

 後ろから聞こえて来た声に振り返ると、一気に走ってきて、ぽふんっと西澤くんのお父さんの足元に抱きつく花ちゃん。しゃがんで花ちゃんのことを抱きしめている。

 母は、バーベキューの準備を始めるようにと、みんなを促し始めた。
 座ったままでいたあたしのところへ戻って来ると、少しの沈黙の後に口を開いた。

「涼風のお父さんはね、どうしようもない男だったの。泣いたって許してくれないし、怒ったって悪いことを認めようとしなかった。離れるしか、なかったの……」 

 西澤くんたちを遠目に見守りながら、ゆっくり話す母の言葉に耳を傾けた。

* * *
 涼風の父は、浮気を繰り返すクズでダメな男だった。

 妊娠がわかって涼風がお腹にいた頃には、すでに他にも関係を持つ女がいた。
 浮気をしていることは気が付いていたけれど、どうすることも出来なくて、だけど、この子のためにもあの人のためにも、父親になってくれるように説得した。もしかしたら、我が子が産まれれば変わってくれるんじゃないかと一縷の望みをかけて。結婚を懇願した。

 だけど、あの人は子供が産まれても何も変わらなかった。

 お義母さんは「こんな息子と結婚させてしまってすみません」と何度も謝ってくれた。
 結婚後は、機嫌のいい時は一緒にいてくれたけれど、あの人が家にいることはほとんどなかった。

 泣きたくても泣けない。
 そんな状況が続いて、正直もう、耐えられなかった。苛立ちが募って、涼風にまでキツく当たるようになっていたのは、私自身がよく分かっていた。

『泣いたってしょうがないでしょ!?』

 その言葉は、自分への戒めみたいなものだった。
 もうずっと、こんなに我慢してる。なのにどうして?
 どうしようも出来ない感情の吐き口が、抜け出す場所がどこにもなくて、涼風が泣くと、苛立ちと共につい、口をついて出てしまっていた。
 またやってしまったと、何度も後悔に苦しんだ。
 震える体で、目にたっぷりと涙を溜めて、それでも「お母さん……」と言って縋りついてくる涼風のことを、抱きしめてあげる余裕すらなかった。もう、自分が母親である事にすら、自信を無くしていた。
 このままの感情で、ここから離れて一緒に涼風を連れて行ったとしても、きっとまた怖い思いをさせてしまうと思った。

 だから、一人で離れることを決めた。
* * *

 話し終えて、見上げた母は泣いていた。
 月明かりが照らす横顔は、悲しいほどに苦しそうに見える。
 そして、あたしの方を見て、まゆを精一杯に下げた。

「本当に、本当に、ごめんなさい……私は、あなたの母親失格だから……ずっと影から成長を見ていることしかできない、ズルい母親だった……」

 嗚咽が混じるほどに泣く母。
 もう、あの言葉は言わないんだろう。
 だけど、あたしは「ごめんなさい」がほしかったわけじゃない。
 あたしが一番欲しかったのは……

 椅子から立ち上がって、あたしはさっきの西澤くんのお父さんみたいに両手を広げた。

「あたし、ずっとお母さんに抱きしめて欲しかった。そばにいるからねって、言って欲しかったんだよ……」

 込み上げてきた涙が頬を伝う。
 もう、泣いていいんだ。泣くのは悪いことじゃない。西澤くんが教えてくれた。
 目の前が歪んで見えなくなっていく。と、同時に、体全体が柔らかく温かい体温に包まれた。

「涼風、たくさんたくさん、泣いていいんだよね。しょうがなくなんてない。泣きたいなら、泣きたい分だけ泣こう。そしたら、また、前を向いて歩けるから」

 ぎゅうぎゅうに抱き締めてくる母の力は、思ったより強くて。だけど、嬉しくて。あたしは声をあげて泣いた。

 秋の空に、花火の音とバーベキューの煙。そして、虫の鳴く声に混じって、あたしと母の泣き声が舞い上がり、溶けていく。

 花ちゃんや大海くん、大地くんが、「何してんのー?」と、あたしと母に同じように抱きついてくる。みんなでワーワー騒いでいるのを見兼ねた西澤くんとお父さんが、最後にみんなを包み込んだ。

「たくさん泣いたら、次はたくさん笑おうね」

 優しいのは、西澤くんだけじゃなかった。
きっと、母は西澤くんのお父さんに出逢えて、笑顔になれたんだ。
 幸せに、なれたんだ。

 夜空に星が煌めいていく。

 泣き顔なんて、暗がりではもう見えないし、あたしも母も泣いたからお腹が空いたと、みんなで高いお肉や野菜、焼きそばにフランクフルトと、お腹いっぱいになるまでたくさん食べた。

 時刻はあっという間に二十一時を過ぎていて、玄関のチャイムが鳴ったのが聞こえて、西澤くんのお父さんがそちらに向かって行った。
 しばらくして庭に入ってきたのは、おばあちゃんだった。
 嬉しそうな笑顔をしていて、あたしもその笑顔に笑って応えた。きっと、心配させてしまっていたのかもしれない。

「ごめんね、おばあちゃん一人にさせちゃって」
「良いんだよ。涼風ちゃんが楽しそうで安心したよ」
「……うん、みんないい人達だから」

 庭を駆け回っていた花ちゃんは、リビングに敷かれた布団の上で先ほど電池が切れたみたいにこてんっと眠りについてしまった。
 大海くんと大地くんも、そろそろ限界に近い。箸を持ちながら口に食べ物を運ぶけれど、何度もウトウトしては動きが止まっていた。

「じゃあ、そろそろお開きにしようか」

 西澤くんのお父さんが、あたしと西澤くんの前に来て微笑んだ。

「またいつでもおいでね、涼風ちゃん」
「……はい」
「杉崎さん、また明日学校でね」
「……うん」

 おばあちゃんの隣に並んで、あたしは二人に頭を下げた。片付けをしている母に視線を向けて、あたしは一歩を踏み出す。

「お母さん! また来るね!」

 精一杯の大声で伝えると、あたしは返事が返って来る前にと、急いでおばあちゃんの服の裾を引っ張った。

「行こう、おばあちゃん。ごちそうさまでした、おじゃましました!」

 早口で言って、あたしはくるりと踵を返す。
 ククッと後ろで笑う声がしたけれど、構わず歩き出した。

「あはは、涼風ちゃんって、涼花そっくり。さすが親子だわ」

 西澤くんのお父さんの声が聞こえて、立ち止まりそうになったけれど、あたしは足を止めなかった。
 だって、嬉しいと思ったから。あたしは、母の娘なんだ。だから、親子だと言われたことが、嬉しくて、たまらなかったんだ。


 あれから、あたしは大空くんの家に遊びに行くことが多くなった。

「ねぇ! 涼風、俺らのねぇちゃんなの本当!?」

 大海くんと大地くんが、パパに説明を受けたとあたしに詰め寄ってきた。

「大空兄の彼女じゃないの!?」
「え! 結婚するんでしょ!? ねぇ!」

 なんだか、西澤家では色々な誤解が広がっているらしい。大空くんは面倒くさがって「そうそう」としか言わないから、二人はどれが本当なのか混乱しているようだ。

「うるさいから今日は図書館でも行って静かに過ごそう」

 そう言って立ちあがると、大空くんが玄関に向かった。
 外に出ると、大きく伸びをして解放されたみたいに肩の力を抜く姿に、笑ってしまう。
 そして、くるりとこちらを向いてなにやら言いたげな表情をしている。

「本当に、……涼風って呼んでいいの?」
「え? うん、あたしも大空くんって呼ぶし」

 苗字呼びもなんだか友達なのに距離感あったし。あたしは全然構わない。大海くんや大地くんなんか、普通に「涼風」って呼び捨てだ。かわいいから許すけど。

 あの日、あたしが帰った後に、大空くんはお父さんに「なーんで大空だけ苗字呼びなんだよー? 距離感感じるぅ」と、いつものノリで言われたらしい。それを聞いたから、名前で呼び合おうってなったんだけど。

「……涼風……ちゃん」
「いや、《《ちゃん》》は要らないよ?」
「え、だってそっちだって大空くんって、《《くん》》付いてんじゃん」
「……あ、そっか。じゃあ、大空?」
「っ!!……い、いや、やっぱ……無……」

 秋の青空に、ふいっと背けた赤い顔がやけに目立つ。

「涼風ーっ!!」

 後ろから名前を呼ばれて振り返ると、古賀くんが女の子と一緒に歩いてくるのが見えた。
 あれは、間違いなく七美だ。古賀くんの一歩後ろをオーラ全消しで歩いてくるけど、あたしには分かる。

「あれ? やっぱ付き合ってんの? 二人」

 目の前まで来ると、大空とあたしを交互に見て首を傾げるから、あたしは返答に困って笑った。たぶん、今は微妙なラインだから。どちらとも言えない。

「そうだよっ! わりぃか。いくぞ、涼風!」
「え!?」

 いきなり、大空があたしの前に出て、古賀くんに噛み付く勢いで反応するから驚いてしまう。先に行ってしまうから慌てて追いかけた。

「あ、う、うん。じゃあね、古賀くん」

 手を振り、チラリと七美の表情を見ると、安心したようにホッとしているのが見えた。
 モテる人を好きになるって大変だよなぁ。なんて、他人事に感じる。
 でも、古賀くんは思っているより、きっと七美には好かれていると思う。
 だって、古賀くん。本はそれほど好きではないし、読んでると眠くなるって言っていた。それでも、七美が楽しそうに物語の内容を教えてくれる時間はすごく楽しいって言っていた。だから、毎回デートは図書館なんだと思う。
 古賀くんは七美の好きなことを尊重しているんだと思うし、なにより、はっきり好きだって気持ち聞いたしな、あたし。
 思い出して、少しだけ虚しくなる。

「ねぇ、俺今けっこう勇気出したんだけど。ちゃんと聞いてた?」
「……え?」

 先を進んでいた大空がくるりと向きを変えてあたしを覗き込む。
 勇気? ん? なんのこと?
 質問の意味がわからずに考え込んでいると、目の前の大空の顔がどんどん歪んでいく。

「まだ古賀のこと好きなの?」
「……え?」
「俺は、涼風の兄弟とか、なる気ないからな。母さんが同じでも血は繋がってないし! それに、俺は涼風の彼氏になりたいの。そこは覚えてろよ」

 言いながら、どんどん真っ赤になっていく大空の顔。
 あたしが驚いて目を見開くと、大空はくるりと踵を返しまた歩き出す。

「あ! 今、涼風って言ってくれた!?」

 名前で呼んでくれた! しかも何回も。

「いや、それもそうだけどさぁ!」

 隣に駆け寄るあたしに、肩を落とす大空に笑ってしまう。
 だけどね、さっきの言葉、ちゃんと聞こえていたし、伝わっているんだよ。そしてね、なんだかさっきからドキドキが止まらなくなっていて。今度はあたしの方が応える勇気が出ないんだよ。

 帰りまでには、ちゃんと答えるから。あたしも、大空の彼女になりたいって。だから、少しだけ、気が付かないフリをさせてね。



 晩夏光、あの夏の出逢いがきっとあたしの運命を変えてくれた。
 泣かないまま、土の中で一生を終えるところだった。あの日、大空があたしを見つけてくれたから、泣けよって、叫んでくれたから、今のあたしがいるんだ。
 出逢えて良かった。そして、忘れていた夏の日々を思い出せて良かった。

 あたしが君に気が付いて欲しかったんだ。
 願いが通じ合えたから、きっと──

 これから先も、ずっとそばにいてね。


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