いつも通りに教室に入って席に着いた。

「おはよう、杉崎さん」

 あたしに挨拶をしてくれるのは、決まって葉ちゃんが一番だった。それなのに、今日は目の前に西澤くんがいる。

「……あ、お、おはよう」

 驚きながらも返事を返すと、前の席の葉ちゃんが目を見開いて驚いた表情を全面的に出してしまっている。どうしようかとこの状況に困ってしまう。

「これ、杉崎さんが休んでた分の夏休みの課題。これだけやっておけば良いからって、さっき担任に渡すように頼まれたんだ」

 あ、なんだ。そう言うことか。
 差し出されたプリント数枚に、あたしがホッとしていると、葉ちゃんも苦笑いして笑っている。

「じゃあ、またね」
「あ、うん。ありがとう」

 すんなりと自分の席に戻って行った西澤くんの後ろ姿を見届けて、受け取ったプリントに視線を落とした。

『放課後楽しみにしてる』
 ふせんに書かれた文字に気が付いて、慌ててプリントをカバンの中にしまった。

「涼風? 急に慌ててどうしたの?」
「な、なんでもない」

 椅子に座って、深呼吸を一つした。

「西澤くんってさ、涼風のこと好きなのかな?」
「は!?」

 いきなり葉ちゃんがそんなことを言い出すから、あたしは思わず大きな声を出してしまう。

「だってさ、最近涼風、西澤くんの話ばっかりするじゃん?」

 それは、西澤くんがよく分からないことを言ってくるから、それで気になっているだけで。

「もしかして、告白とかされた? もしかして西澤くん、涼風が古賀くんと別れたの知って狙ってきたとか?」
「いやいやいや、そんなわけない」
「本当にぃー?」

 ジトーっと目を細めて疑ってくる葉ちゃんに、困ってしまう。
 西澤くんから告白された、なんて本当のことを言ったら、きっと葉ちゃんを悲しませてしまう。だから、これは葉ちゃんには内緒だ。言わなくてもいいことだって、知らなくてもいいことだって、あるんだし。
 だって、葉ちゃんは西澤くんのことが、好きなんだよね?

 ジッと葉ちゃんの横顔を見つめて、その視線の先を辿ってみる。やっぱり、サッカー部の仲間に囲まれている西澤くんの方を見ているから、思わず窓の外に視線を外して、小さなため息が溢れた。
 葉ちゃんとは気まずくなりたくない。

 放課後が近づくにつれて、憂鬱になる。
 鞄の中にしまったプリントに書かれていた文字を思い出して、あたしはもう一度深いため息をついた。

「ため息って、幸せ逃げるんだよ?」
「……え?」

 きっと、もう無意識のうちに今日は何度も出てしまっていたんだろう。
 何度目かもわからないため息を吐き出したあたしに、突然目の前にくるんっと綺麗に内側に巻かれた明るめの長い髪が揺れるのが視界に映り込んだ。

「あ! まりん! 今日こそ部活に顔出しなよー!」
「ごめぇん! これからデートなのっ♪」

 葉ちゃんが教室に入ってきたと思ったら、陽気な猫撫で声ですぐに返事をして、走り去っていく女の子の後ろ姿を見送った。

「もぉー、あの子全然部活する気ないでしょ。もうやめたらいいのに」

 怒り気味であたしの目の前まで来た葉ちゃん。

「今のって……」
「三組の高橋まりんだよ。一応バスケ部」
「だよ、ね」

 ちょっと混乱しているのは、あたしの知っている高橋まりんちゃんとは少しだけ……いや、だいぶ違うような気がしたから。

 喋り方は元々あんな感じでおっとりとしていたけれど、髪も真っ直ぐで黒かったし、眼鏡をかけていて真面目な、どちらかと言うとあまり目立たないような雰囲気の子だった気がする。だから、今目の前にいたのは一瞬、誰だろうかと疑問に思ってしまった。

「あー! そっか!」

 思い出したように、葉ちゃんが頷く。

「あの子、夏休み中に彼氏出来て変わっちゃったんだよ! そのせいで部活はまったく来なくなっちゃうし」

 はぁ、と呆れるようにため息を吐き出して、葉ちゃんは椅子に座った。
 やっぱり。あたしの知っているまりんちゃんとはイメージが違いすぎたから、さっきは混乱したんだ。
 だけど、たまにあたしを気にかけてくれる優しさは前から変わらない気がする。

『ため息って、幸せ逃げるんだよ』

 幸せなんて、あいにく持ち合わせていない。だから、逃げる幸せなんてものはない。あたしのため息は空っぽだ。失うものなんて何もないんだよ。

「彼氏出来て変わっちゃう典型だよ。友達付き合いも悪くなったし」
「……そう、なんだ」
「涼風は彼氏出来ても変わらずにあたしといつも通りに接してくれてたし、嬉しかったんだよー。こんな良い子フルとか、古賀くん見る目なさすぎ」

 何故か古賀くんへの暴言に変わって、葉ちゃんは「また明日ね」と教室を出て行った。
葉ちゃんの古賀くんへの評価が日に日に下がりすぎている気がする。まぁ、仕方ないのかもしれないけれど。

「あ! まーりーんっ! わりぃ、これから部活のミーティングだって! 待ってられる?」

 突然、廊下から男の子の大きな声が聞こえてきた。

「うん、大丈夫だよ。リュウくんのことなら、まりんいくらでも待てちゃうから」
「ぐはぁ! なにそれ! やば、可愛すぎるでしょ。抱きしめていい?」
「えっと、後でね。ミーティング頑張って!」
「うん! 頑張るー! 待っててー」

 なんとも甘いやり取りの一部始終が聞こえてきて、あたしは開いた口が塞がらないでいた。
 すると、教室にまりんちゃんがまた戻ってきた。

「あ、涼風ちゃん。今の聞かれちゃったね」

 恥ずかしそうに頬を染めて、まりんちゃんは可愛らしく笑った。

「……彼氏?」
「うん。サッカー部の隆大くん」
「……サッカー部?」
「うん。涼風ちゃん同じクラスだよ?」
「あ、うん」

 それは知ってる。来須(くるす)隆大(りゅうだい)くんが同じクラスでサッカー部なことは、もちろん知っている。
 あたしが気になったのは、サッカー部がミーティングをするってこと。たぶん、西澤くんもそこに参加するよね?これは、今日の放課後のかき氷はなしになるんじゃないかな? 
 そんな期待を持ち始めたあたしに、まりんちゃんが近づいてきて葉ちゃんの席に座った。

「ね、ね、涼風ちゃんって、古賀くんと別れたって本当?」
「……え」

 もともと下がり気味の眉をますます下げて、まりんちゃんは上目遣いをしてあたしのことを見る。本当にこの子はあのまりんちゃんなのだろうか、と思うくらいにぱっちりした目元のメイクに、固定されているみたいにパラリと揺れる前髪。女のあたしが見ても可愛いと思うから、彼氏の隆大くんには天使に見えてるんじゃないかなとか、思ってしまう。

「ごめんね、こんなこと聞いて。でも、あの時は古賀くんと付き合える涼風ちゃんがすごいなって羨ましく思ったんだよ。なのに、最近別れたって噂を聞いて、びっくりしちゃって……」
「あー……うん、そうだよ。別れた」

 隠していたって仕方ないし、ここで嘘をついたところで何にもならない。

「……そっかぁ」

 あからさまにガッカリとした顔をするから、困ってしまう。

「涼風ちゃんが古賀くんに想いを伝えるって聞いた時ね、あたしも好きな人に頑張って告白しようって思えたんだよ。だから、ありがとう」
「……え?」
「勇気を出せたのは、涼風ちゃんの勇気を見せてもらったからなんだ。可愛くなりたいって思ったのも、涼風ちゃんみたいになりたくて。あたしの憧れなの。涼風ちゃんは」
「……憧れ?」
「うん。きっと、今は次の恋とか考えられないかもしれないけど、あたし、涼風ちゃんの次の恋は全力で応援するからねっ!」
「……え?」
「あ! リュウちゃんのミーティング終わる前に課題やっちゃお。その前に何か飲み物買ってこよ。涼風ちゃんも何か飲む?」
「え? あたし?」
「うん。待ってるんでしょ? 大空くんのこと……っ!」

 立ち上がって、廊下へ駆け出そうとして振り向いたまりんちゃんの顔が、しまったと思い切りゆがんでいく。

「あー、いや、えっと、違う違う。忘れて、今のは」

 両手を大袈裟に体の前で振って誤魔化そうと笑うから、一気にあたしはまりんちゃんに対して不信感を募らせ始めた。

「……どう言うこと? 今の」

 どうしてまりんちゃんが西澤くんと約束していることを知っているの?
 眉間に力が入っているのを感じて、目の前のまりんちゃんが怯えるような目をしているから、あたしは肩の力を抜いた。
 一度ため息を吐き出す。

「あ! ほら、また!」
「……え?」
「ため息は良くないんだってば。ほらほら、吐き出したため息取り戻して! 早く吸い込めば戻ってくるよ! ほらほら」

 目の前に戻ってきたまりんちゃんがあたしの周りの空気を顔の近くにかき集めるみたいに手を動かすから、なんだか呆れてしまって、笑った。

「なんか、まりんちゃんって前から真面目だけど天然だよなーって思ってたけど、もうなんか、本物の天然だわ」
「……ん?」

 見た目が変わってしまったのに、中身は変わらない。

「あたし、幸せ持ち合わせてないからため息吐き出したって、なにも失うものないし大丈夫だよ」

 首を傾げられるから、はははと、笑いながら答えると、一気にまりんちゃんが真顔になった。

「何言ってるの? 幸せじゃない人間なんか居ないんだよ」
「……ん?」

 今度はあたしが首を傾げる。

「あ、ちょっと待ってて。今ね、幸せ運んでくるから」
「……え?」

 良いことを閃いたと、まりんちゃんは明るい笑顔を向けてくれると教室を出て行ってしまった。
 一人取り残された教室の中で、あたしはまりんちゃんが出て行った廊下を見つめていた。

 一息つくと、カバンの中からスマホを取り出して、届いていた通知を見てはまた落ち込む。
 古賀くんからは、やっぱりなんの連絡も来ていない。
 当たり前だよね。あたしからだって何も行動を起こしてないんだから。
 小さくため息を吐きかけて、まりんちゃんの言葉を思い出してそれ以上は吐き出さないように、唇をキュッと閉じた。
 机の上に置いたスマホに、通知が届く。

》ごめん、部活のミーティングあるみたいで少し顔出してかなきゃない。俺から約束したのにごめん。

 ごめんから始まって、ごめんで終わっている。そんなに謝ることなんてない。あたしが行きたくて誘ったわけでもないのに、西澤くんの都合が悪くなったことを、むしろあたしはラッキーだと思ってしまったんだ。だから、謝ってなんか欲しくないのに。

「たっだいまーっ!」

 元気よく大きな声が聞こえたかと思えば、まりんちゃんが教室に戻ってきた。スマホと睨めっこしていたあたしが驚いて振り返ると、「はいっ!」とペットボトルを差し出してくれる。

「幸せ、運んできたよ」

 ニコッと笑うから、つられてあたしまで口角が上がる。素直に目の前のペットボトルを受け取って視線を落として、驚いた。
 ?ラムネサイダー?と書かれたラベル。
まりんちゃんには、あたしの好きなものの話とか、したことあったかな。
 学校では基本、お茶しか飲まないから。たぶんこれを買ってきてくれたのは、単なる偶然だと思う。

「……あたし、炭酸苦手……」
「えええっ!!」
「……驚きすぎでは?」

 あまりにもガッカリするまりんちゃんの反応に、いちいちおかしくって笑ってしまう。
 そして、ごめん。あたし今嘘ついてる。本当はすごく嬉しい。だけど、知られたくないことだから。

「おかしいなぁ……大空くんにちゃんと聞いたのに」
「……え?」
「あ、いや、ごめんね! じゃあ、あたしのあげる」

 慌てて、まりんちゃんはもう片方の手に持っていたミルクティーのペットボトルを差し出してくるから、あたしはまたしても困ってしまう。
 今度は本当に苦手なんだ。
 暑い時に甘ったるい飲み物は、逆に喉が渇く気がして。でも、また嫌だなんてわがままも言えないから、仕方ない。

「あー……じゃあ、ラムネサイダーの方もらうね」
「え! いいの? 炭酸、大丈夫?」
「うん、たまには、大丈夫。全く飲めないわけじゃないから」

 決して、嫌いなわけじゃない。ラムネサイダーはあたしの数少ない思い出を思い出しちゃうから、苦手なだけ。
 ずっと、記憶の底に封印していた。
 お祭りで見かけるたびに、あのビー玉を弾いてしまったら、堰き止めていた悲しみが泡と一緒に溢れ出てしまうんじゃないかって、怖かった。
 これは大丈夫。堰き止めているものがないから。
 大丈夫。
 ゆっくりゆっくり、蓋を回す。
 炭酸が少しずつ抜けていく音を聞きながら、最後に慎重に蓋を緩めた。
 ホッとしてまりんちゃんに振り返ると、目を見開いているから驚く。

「もしかして! 開ける時のプシュッ! てやつが怖かったの!? 言ってよ! あたし全然開けられるから。一応バスケしてるから握力もあるし」

 全然的外れな心配をされて、あたしはおかしくてまた笑った。

「え? なんで? 違った?」
「違くないよ。開けるのめちゃくちゃ怖かった」

 うん、溢れ出てしまったらどうしようって怖かったのに、なんだか本気で心配してくれてるまりんちゃんの顔を見たら、安心してしまった。
 一口、飲んでみる。弾ける炭酸が喉を潤していく。うん、あの時の味とは少し違う気がするけれど、美味しい。

「……わぁ、やっぱり幸せ当たってた!」

 両手を万歳するみたいにあげて、まりんちゃんが喜んでいる。

「さっきね、こっそり大空くんに聞いたの」
「え?」
「涼風ちゃんの好きな飲み物ってなに? って」

 まりんちゃんもミルクティーの蓋を開けながら楽しそうに話してくれるのを聞いて、あたしは驚くしかない。

「ラムネが好きなんじゃないかなって教えてもらったんだー。だからあたし、これを渡したら少しだけ幸せになれるんじゃないかなぁって思ったんだよ。涼風ちゃんめちゃくちゃ美味しそうに飲んでくれたから、今きっと幸せゲージ上がってるよっ」

 クルクルと話すたびに表情が変わる。よく見ればまだまだ不慣れなメイクが施された表情は、幼顔のまりんちゃんには少し濃い気がする。長いまつ毛が上下に瞬きして、頬のチークが弾むように揺れる。それなのに、すごく幸せそうに笑うから可愛い。

「西澤くんに、聞いたの?」
「うん。あ、ここだけの話ね、大空くんとリュウちゃん仲良しだから、情報筒抜けなの。リュウちゃんなんでも教えてくれるし」

 誰もいない教室なのに、小声で慎重にまりんちゃんが話すから、あたしまで聞き耳を立ててしまう。

「……西澤くんが、あたしがラムネが好きって知ってたの?」
「うん。あれ? 大空くんと夏休み中に仲良くなったんだよね? 涼風ちゃん」
「……え、あー」

 そのことに、あたしは全く身に覚えがないから、なんと答えて良いのか分からない。

 夏休み中、あたしはずっと病院にいたから、西澤くんと仲良くなることなんて不可能だし、西澤くんどころか、誰とも接することなくあたしの高校二年の夏は終わってしまったんだ。

「ねぇ、涼風ちゃん!」
「え! な、なに?」

 急に大きな声をあげるまりんちゃんに驚いていると、スマホをこちらに見せてくる。

「見てみてー! これ、めちゃくちゃ美味しそうっ」

 画面の中には誰かがSNSにあげたかき氷が写っている。

「おしゃれなかき氷ー、食べたいー、でも今お金ない。バイトしたいー、あ、このコスメもかわいいー!」

 スマホを操作しながら、まりんちゃんは次々情報を眺めては声にしている。
 自由だな。そんな風に思ってしまう。
 でも、自分のやりたいようにやっているのは、少しだけ羨ましくも感じる。周りになんと言われても、この子は自分のやりたいことを貫くんだろうなって。

「決めた!あたしバイトする」
「え!?」
「テスト終わったらもう暇じゃん?」
「え、あ、まぁ」
「夏休み中に遊びすぎてもうお金ないし、親からはもらえないし。よし、バイト探そう」

 真面目にスマホ操作をし始めるまりんちゃんに、あたしはそろそろ帰ろうと、席を立った。

「先、帰るね」
「え! かき氷行かないの?」
「……え?」
「大空くんのこと、待ってるんじゃなかったの?」

 あ、そっか。まりんちゃんはあたしが西澤くんからかき氷に誘われているのも知っているんだ。
 どうしよう。なんて言おう。なんだか、面倒くさい。顔には出さずに言葉に詰まる。

「あ! ミーティング終わったって! 行こう、涼風ちゃん」
「え!?」
「ほらほら、早くー」

 なんで?
 断る間もなく、完全にまりんちゃんのペースに飲み込まれてしまっている自分に、またため息をついた。


 結局、あたしたちは今四人で学校の近くの昔ながらのかき氷屋さんの外ベンチに並んで座って、かき氷を食べている。

 まりんちゃんと隆大くんは二人で違う味を食べ比べっこしていて、その隣に西澤くんとあたしが並んで無言のままかき氷を食べる。
 きっと、西澤くんもこうなるとは思っていなかったのかもしれない。まりんちゃんと一緒に現れたあたしに、明らかに落胆したように肩を落としていた。
 二人きりよりは他にも誰かがいた方が気が紛れて良いかも、なんて思ったけど、完全に二人だけの世界を作っている右隣には、もう視線も向けたくなくて、ひたすら走りゆく車を眺めていた。

「……なんか、ごめん」

 ポツリと、西澤くんが謝るから、あたしはかき氷を食べるのをやめた。
 あんまり謝られると、なんだかあたしが悪いことをしたみたいで、少しだけ嫌な気分になる気がする。

「あたしはやっぱり、西澤くんの気持ちにはこたえれないよ。だから、ごめんはあたしの方」

 今は、誰かと恋なんてしたいと思わない。

 久しぶりに食べたいちご味のかき氷は、なんだか甘酸っぱかった。ブルーハワイのかき氷を食べていた西澤くんが、あたしの言葉に動きを止めた。

「ねぇねぇ! 見てー!」
「リュウくんの舌ヤバくない?」

 まりんちゃんのきゃははと弾けるような笑い声と一緒に、振り向いた隆大くんがべぇっと舌を出す。

「いちごとブルーハワイ食べたらやべぇ悪魔みたいな舌になった!!」
「あはは! あたしのまで食べて欲張るからだよぉ」
「まりんだってブルーハワイ食べたじゃん、舌見せろよ」
「え! 嫌だよぉ」
「いいから、ほら、こっち向いて」

 まりんちゃんのほっぺを両手で挟み込んで、顔を近づけてじゃれ始める二人のやり取りに、思わずため息が出てしまう。
 あたしは一体何を見せられているんだろう。勝手に二人きりでやってくれ、そう言うのは。

「あ! またため息!」

 すぐ様、まりんちゃんに突っ込まれるけど、あたしは苦笑いして立ち上がった。

「じゃあ、あたし、帰るね」
「え! じゃあ、俺も……」

 慌てて西澤くんが後ろからついてくる。
 溶けてしまったかき氷をストローで吸った。もう甘酸っぱさは感じない。ただの甘いシロップを飲み込んで、後ろを歩く西澤くんに歩く勢いのまま振り返った。

「わ!」

 急に振り向いたあたしに驚いて、かき氷のカップを落っことしそうになりながら、西澤くんは立ち止まった。

 西澤くんは、どうしてあたしの触れられたくない記憶の中の思い出を、心の奥に仕舞い込んでいる悲しみを、知っているの?

 声には出さずに、ジッと不信感を持って彼のことを見つめた。

「隆大と彼女には、杉崎さんと初めて図書室で会った日の帰りにたまたま会って、杉崎さんに勉強教えてもらうって話をしてたんだよ」

 首筋を掻きながら、西澤くんが俯きつつ、話してくれる。

「杉崎さんが事故に遭ったって話もその時はみんな知らなくて、学校が始まってからなんで杉崎さんと図書室で会えてたんだ? って聞かれてさ、隆大にだけは全部話したんだ。信用してたから。そしたらいつの間にか彼女にまで聞かれててさ、仕方ないから全部教えたんだよ。不思議な話だからバカにされるかと思ったけど、意外と二人とも真剣に聞いてくれて」

 また、西澤くんがあたしの知らない夏休みの間の出来事を話す。

「どうして、あたしがラムネが好きだって知ってたの?」
「え?」

 誰にも話したことなんてなかったのに。
 お父さんとお母さんの真ん中で手を繋いで、初めて夏まつりに行った記憶。人がたくさんいて、前が見えなくて。お父さんがラムネを買ってくれた。

『ほら、涼風。見てろよ』

 道の端っこで、お父さんがしゃがみ込むから、あたしも小さくしゃがんでラムネの瓶を覗き込んだ。
 グッと力を込めて上から瓶を押すと、プシュッ! と勢いのいい音がして、シュアシュアと泡が溢れて来た。
 驚いて尻餅をついてしまったあたしを、お母さんが慌てて抱っこしてくれて、『びっくりしたねー』って笑っていた。
 あの時だけだ、あたしが今思い返して家族で幸せだったって感じた瞬間は。

 だから、ラムネは好きだけど、苦手。どうしてあの時みたいに、三人でずっと一緒に居れなかったんだろうって思うと、悲しくなるから。
 久しぶりに心のずっと底の方に沈めていた数少ない良い記憶を思い出すと、西澤くんの表情に視線を戻した。

 なぜか、彼はきょとんとしている。

「……あー、なんとなく?」
「え?」
「なんとなくだよ。杉崎さん夏にやりたいことたくさんあるって言ってたから、夏が好きなのかなって。そしたら、夏といえばラムネだよなって。え? ってか、なんの話? 隆大の彼女に杉崎さんの好きな飲み物教えてって言われて、なんとなく答えただけだったんだけど」

 眉間に皺を寄せ、悩むように聞いてくるから、また、心の中の蟠りがシュワッと炭酸みたいに弾けて消えていく。

「……なんとなく? って、なにそれ、」

 別にあたしの知られたくない過去を知っているわけじゃないの? 西澤くんは、どこまであたしのことを知っているの? よくわからないけど、なんとなくであたしの良い思い出を分かってくれるって、なんか、少しだけ、嬉しいって思った。

「あ……杉崎さん笑ってる」
「……え」
「良かった。さっきまでずっとつまらなそうにして居たから、最後に笑顔見れて、良かった」

 安心したみたいに胸を撫で下ろす西澤くん。
 あたし、つまらなそうな顔、してたんだ。
 表情にはなるべく気持ちを出したりしたくないのに、気をつけていたはずなのに。気付かれてたんだ。

「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」

 もっと、まりんちゃんみたいに楽しそうにはしゃいであげられたら良かったのに。そんなことを今更思っても、仕方がない。
 それに、西澤くんとは、もう関わらない。
 さっきはっきり気持ちにはこたえられないって断ったし、きっとこうやって放課後に会うのも今日で終わりだ。

「ううん、来てくれて嬉しかった。ありがとう」

 素直に笑顔になる西澤くんに、なんだか安心する。夕陽が傾き始めて、風が冷たくなった。かき氷を食べるには、やっぱり少し季節がずれている。かと言って、そこまで寒いわけではないけれど。

「杉崎さんっ」

 当たり前のように帰ろうと踵を返したあたしに、西澤くんが引き止めるから、振り返った。

「また誘ってもいい?」
「……え?」
「まだまだ、杉崎さんとこうやって話したいんだ。だから、気持ちに答えられないならそれでもいいから……」

 西澤くんの声が徐々に小さくなる。
 眉間によった皺は、不安な表情を作り出す。なんだか、必死なその顔にあたしまで胸がギュッと苦しくなった。

 付き合うとか、彼氏になるとか、特別にそばにいてほしいとか、そんなわがままは言いたくない。
 だって、古賀くんみたいにいつか別れようって、言われるかもしれないから。「そばにいてほしい」なんて、嘘だった。
 いや、あの時だけは本当だったのかもしれないけど、結局はその時の一瞬を埋めるためだけに、あたしにそばにいて欲しかったんだと思うと、なんだか悲しくなる。

 きっと、西澤くんだって同じだ。
 サッカーが出来なくなって、放課後もやる事がなくて、これを機に誰かと付き合ったら良いんじゃないかとか思っているんじゃないのかな。あたしだったら、絶対にそうするし。
 たまたまよく分からない関わり合いがあったから、あたしに構ってくるだけだ。
 そんな、いつ終わるかも分からない恋愛は本物じゃないし、終わりだってきっとすぐ来る。
 その前に、本物の恋愛って、なんだろうな。また、小さくため息が仕方なく出た。

「……友達としてなら」

 不安が晴れるみたいに、西澤くんの顔が明るくなる。

「じゃあ、とりあえず友達として、よろしくっ」

 一歩近付き、スッと手を差し出されて西澤くんの顔を見上げると、照れ笑いしながら嬉しそうにあたしを見ている。

 恋に終わりはあっても、友情には終わりはないのかな。そうだったらすごく良いのに。そう思いながら、あたしはそっと西澤くんと握手をする。
 思ったよりも大きくて骨ばった指が、あたしの手を包み込むから、自分の手がこんなに小さかったんだ、なんて思ってしまった。

「……っうわ、やばい」

 頭上で焦り出す西澤くんの声に、あたしは繋がれた手から視線をあげた。

「めちゃくちゃ手汗かいてきたかも。ごめん。杉崎さんの手、意外とちっちゃくて細っ……」

 真っ赤になっている西澤くんの姿に、あたしまで恥ずかしくなってくる。

「あー、友達かぁ。でも、前進だよな。よし、じゃあこれからもよろしくお願いします。また明日ね」
「え、あ、」

 手を離すと、さっきまで繋いでいた手のひらを顔の前で開いたり閉じたりして嬉しそうに西澤くんは呟いた後で、笑顔を向けて手を振ってくれた。
 くるりとすぐに踵を返すから、「またね」が言えないまま後ろ姿を見送る。何度も振り返っては手を振ってくれるから、その度にあたしも小さく手を振った。
 曲がり角を曲がっていくのを見届けると、空を見上げた。
 秋の雲が、薄水色の空いっぱいに広がっている。沈んでいた心の波に、穏やかな風が吹き抜けていった。


 帰り道、この前と同じ交差点で古賀くんの姿を見つけた。
 すぐに目についてしまうのは、彼の背が高くて目立つことはもちろんだけど、周りにキラキラとオーラが出ているようにあたしの目には見えてしまうからなんだと思う。
 それって、やっぱりまだあたしは古賀くんのことが好きなんだろうなって実感してしまうから、なんだか切ない。

 向こうに渡らずに通り過ぎようと、古賀くんから目を逸らして歩き出すと、「涼風!」と名前を呼ばれて、全身が大きく飛び跳ねるみたいに揺れて立ち止まった。
 聞き間違えるはずもない、古賀くんの声。
 古賀くんが、あたしの名前を呼んでくれている。
 嬉しくてすぐに振り返ると、息を切らせて古賀くんが走ってきてくれた。

「……ごめん、涼風。俺、涼風が事故った時、怖くなって戻らないで逃げだしたんだ。本当に、ごめん」
「……古賀くん……」
「怪我、大丈夫か?」

 あたしの足と腕の絆創膏を見ながら心配そうに顔を歪めてくれるから、なんだかそれだけで嬉しくなってしまう。

「大丈夫だよ! もう痛みもないし」
「……そっか」

 どうして、別れようって言ったの? 元カノとよりを戻したから? あたしといても楽しくなかったから?
 喉の奥から、今にも出てきそうな言葉。

「……涼風、ちょっと今話せる?」
「……え? あ、うん」
「そこ、座ってて。飲み物買ってくる」

 公園のベンチを指差して、古賀くんは自販機に走っていってしまった。思わず頷いてしまったけど、今更、古賀くんが何を話すのかが怖くなる。
 やっぱり別れるなんて嘘だよ。なんて、そんな都合のいい話はしないだろうし、一体あたしになにを話したいんだろう。
 小さなため息を吐き出した後で、ハッとしてあたしはため息を取り戻すように、すうっと息を吸い込んだ。

「はいっ」

 戻ってきた古賀くんが差し出してくれたのは、あたしがいつも決まって飲んでいる緑茶のペットボトル。見ていてくれたんだなって思うと、やっぱり胸の中がじんわりとあったかくなる。

「ありがとう」

 お礼を言って受け取った。古賀くんがベンチの隣に座る。同じ緑茶のペットボトルの蓋を開けて、古賀くんが飲むのを見ていた。

「…… 涼風にはさ、話したことあったじゃん? 俺の元カノのこと」
「……うん」
「こんなこと話して、嫌な思いさせないかなってちょっと申し訳ないんだけど、色々考えてもやっぱり元カノのこと話せるのは涼風しかいないなって思ってさ」

 眉を下げて、困ったように笑うから、あたしだって困ってしまうのに、つられて笑ってしまう。
 元カノの話なんて、聞きたくない。
 だけど、そんな本音は言えない。

「……あたしね、事故に遭ったからか記憶がなんか曖昧なんだよね。古賀くんに別れ話をされたことが最後に鮮明に残っていて、それはやっぱり、本当なんだよね……?」

 ちゃんと確かめなきゃって、ずっと思っていた。古賀くんからなにか連絡があれば、聞こうと思っていた。だけど、待てども待てども、メッセージは届かないし、あたしから聞くのも怖かったから、確かめられずにいた。
 今、元カノの話をされている時点で、きっと別れは事実なんだろうけれど、ちゃんともう一度古賀くんの口から聞いて確かめたかった。

「あ、うん。ごめん、別れようって言ったのは本当だよ」

 やっぱり、デジャブでも無く夢でも無く、申し訳なさそうに笑う古賀くんの顔と別れ話は本当のことだった。
 聞かなきゃ良かった。一瞬だけそんなふうに感じて、あたしは視線を手元のお茶に落とした。

「……そっか」
「でさ、涼風ってけっこう男女関係なく人気あるし可愛いし、俺と付き合ってるって噂出た時もみんな案外すんなり受け入れてくれてたじゃん?」
「……うん」
「だからさ、俺とは元々友達だったってことにしといてくれない?」
「……え?」
「ちょっと訳あって付き合ってるフリしてたってことに、出来ないかな?」

 頼む、と手を顔の前で合わせて懇願してくるから、古賀くんが何を言っているのか分からなくなる。

「……え、なんで?」

 別れたなら別れたでもう諦めるから、あたしはそれで良いのに。なんで付き合っていたことを偽らなきゃならないの?

七美(ななみ)がさ……」
「……七美?」

 急に出てきた女の子の名前に、あたしはすぐに聞き返す。

「あ、俺の元カノ……人見知りでさ、あんまり友達多くなくて。俺と付き合うの自信ないとか言って、一度付き合いオッケーしてくれたのにやっぱり無理とか言われてフラれたんだ。でも、諦めたくなくて花火大会誘ったら来てくれたし、なのにまだ付き合うのはって一線引かれるから、なんか、どうしたらいいのか分かんなくなってさ」

 どんどん隣で落ち込んでいく古賀くんの姿に、あたしは困惑する。
 何言ってんの? この人。
 あたしだって今となっては元カノのポジションなのに。あたしの気持ちは無視なの? それどころか、恋愛相談? いや、意味がわからない。そんなん知らないよ、自分でどうにかしたらいいじゃん!
 心の中では思いっきり叫ぶけれど、口には出せずにまたため息に変える。

「あたしと友達だってことにして、その七美って子は救われるの?」
「え、あー……ちょっとでも別な子と付き合ったとかって知ったら、七美のこと傷つけちゃうなって思って。ますます俺の気持ち届かないよなって」

 古賀くんまでため息を吐き出すから、あたしは呆れてしまう。
 七美のことは傷つけたく無くても、あたしのことは傷つけてもいいんだ。
 自分勝手な考えに呆れてしまう。
 古賀くんって、こんな人だった?
 好きになる前や、想いを伝えた時の彼のことを思い出してみるけど、今隣で落ち込んで肩を落とす姿は想像もしなかった。もしかしたら、図書室で七美にフラれて落ち込んでいた姿も、今みたいにどんよりとしていたのかもしれない。
 どうして、あの時はあんなにも儚げでキラキラして見えていたんだろうと、自分の目を疑う。

「あたしが古賀くんの友達になったとして、七美って子は安心するの?」
「まぁ、友達だし? 彼女じゃないから大丈夫じゃないのかな」

 なんだか、その根拠もよく、分からない。
 きっと今までのあたしなら、古賀くんとだったら友達でも嬉しいと思って、すぐに良いよと返事をしたのかもしれない。
 だけど、なんかこの《《友達》》は違う。
 さっき、西澤くんと交わした友情こそが本物だと思う。
 誰彼構わず仲良くするのが一番楽だし、一人ぼっちにならないための予防線だとは思っているけれど、だけど、やっぱり古賀くんとのこの友達の在り方は偽りすぎてそんなの受け入れたくない。

「ごめん、あたしはもう古賀くんとは別れたんだから友達にもならないよ。元カノと頑張ってね。お茶、ごちそうさま」

 立ち上がって、笑顔も見せずにあたしは立ち去る。

 後味を悪くしないために、なるべく相手を不快にしないようにと、今までなら笑って頷いて話を済ませてきていたけど、なんでだろう。
 もう別に、相手に良く見られたいとかそんなこと考えなくても、言いたいこと言って生きてやるって頭の中で考えが働いてしまって、気が付いたら言葉も冷たく言い放っていた。


 しばらく歩いて、公園からだいぶ離れたところで今更心臓がドクドクと波打ち始めた。
 古賀くんに、ますます嫌われてしまったかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。あんな態度をとって、良かっただろうか、もっと上手く笑えば良かったんじゃないか、もう過ぎたことにどんどん後悔し始める。

 どうしちゃったんだろう、あたしは。

 今までは当たり障りなく、相手に合わせて相槌を打ってきたはずなのに。どうして、古賀くんの思いを受け入れてあげなかったんだろう。
 別れたとしても、古賀くんとこれからも友達でいられるなら、嬉しいことだったんじゃないのかな。また、そばにいられたかもしれないのに。

 赤信号で立ち止まる。夕陽が沈みかけて薄暗くなってきた空を見上げた。柔らかい風が吹きつけて、走り去る車の排気ガスを巻き上げる。
 鬱陶しい暑さはないけれど、まだ気温の高い夕方の空気が体全体に絡みつく。
 何かが、あたしの中で変わっている気がする。かすり傷のある右腕の絆創膏にそっと触れて、目を閉じた。

 うるさい蝉の聲。
 何も感じない真夏の図書室。
 西澤くんの、笑い声……

 ハッとして、あたしは目を開けた。
 信号は青を示していて、周りの人並みが流れていく。その先で、西澤くんが笑っている姿を見つけた。

「……あれ? 杉崎さん!」

 横断歩道を渡りきったあたしに気がついて、西澤くんが笑顔で手を振ってくれる。
 その隣には、小さな女の子がしっかりと西澤くんと手を繋いでこちらをジッと見ていた。

「また会えたねー! 杉崎さんってここの道帰ることもあるんだ」
「あ、うん……」

 本当なら、ここが一番近道。
 この前はこの交差点を通りたくなくて遠回りしたら西澤くんと会ったんだ。
 まさか、ここでも会うなんて思わなかった。しかも、さっきまで会っていたのに。

「あ、(はな)。ご挨拶して。兄ちゃんのお友達の杉崎涼風さんだよ」

 西澤くんが女の子をふわりと抱き上げて、あたしと向き合うように紹介してくれる。

「こんにちは、にしじゃわはなでしゅ!」

 まだ辿々しい言葉で一生懸命に瞳を輝かせて挨拶してくれるから、一気に心臓をきゅんっと鷲掴みにされた。

「花ちゃん、こんにちは」
「りょーちゃ?」
「うん、涼風です。よろしくね」

 首を傾げてきいてくる花ちゃんに、あたしは微笑んだ。

「はな、りょーちゃ、スキ!」
「え! あ、ありがとう」

 小さな両手を大きく広げて伸ばして来るから、あたしはそっと手を握ってあげた。
 小さくてぷにぷにしている。

「ほんとうだぁ、西澤くんの言った通りぷにぷにしてるね」

 柔らかくて可愛らしい手の感触に喜んでいると、西澤くんが目を見開いてこちらを見ているのに気が付いた。

「……杉崎さん、もしかして」
「え?」
「思い出した!?」

 勢いよく近づく西澤くんの表情はよく見れば嬉しそうな顔をしている。

「思い出した……って?」

 なんのことだろう?

「花のこと話したの、夏休み中の図書室でなんだ。それ以外では話した事ないし、だから、きっと杉崎さんの記憶に残ってるんだよ! 俺が言った、花のこと!」

 興奮気味に熱弁されるけれど、無意識に出ていた言葉だったから、記憶を辿ってみてもやっぱり何も思い出せない。
 きっと、歓喜する西澤くんに対して何も言わずに難しい表情をしていたからだろう。

「ごめん、ちょっと嬉しくなってはしゃいだ」

 西澤くんが謝るから、小さく首を振る。

「ケンカ、なの?」

 あたしと西澤くんの真ん中で、不安そうな小さな声が聞こえてきた。
 花ちゃんが泣きそうにあたし達を見ている。

「あ、違うよ」
「ごめんな、花。ケンカじゃないんだ。兄ちゃんと杉崎さんはお友達だから」
「なかよし?」
「うん、仲良しだよ」
「よかった」

 安心したみたいににっこり笑う花ちゃん。西澤くんがほっぺたの横からピョンとはみ出す二つ結びをした花ちゃんの頭を優しく撫でた。

「杉崎さんの家ってどっち?」
「え」
「ちょっと散歩。今日は母さんも帰り早いって言ってたから急ぐことないし。花も探検して行こうか?」
「たんけん!? いくー!」

 しゃがんで抱っこしていた花ちゃんを下ろすと、西澤くんがまたその手をしっかりと繋いだ。あたしを見上げる花ちゃんのパッチリとした大きな瞳がくるりと揺れた。

「いこ! りょーちゃ」

 にっこりと微笑んで、花ちゃんがもう片方の空いている手を差し出す。
 驚いたけれど、戸惑いながらもあたしはその手を優しく繋いだ。
 小さくて可愛い。
 斜め下で嬉しそうに歩き始める花ちゃんに、あたしも心が晴れていく。
 さっきの古賀くんとのことでモヤモヤしていた不安が少しだけ、薄くなった。
 こんな風だったのかなって、あたしは父と母と三人で歩いた夏祭りのことを、また少しだけ思い出した。幸せな思い出だから、嫌な気持ちにはならないけれど、ほんの少しだけ寂しい気はする。

 ご機嫌に鼻歌を歌う花ちゃんが可愛くて、西澤くんとも自然と話が出来た。
 学校の小テストの話や、サッカーのミーティングでの話。他愛無い会話だけど、なんだか話していて居心地がいい。
 だからかな、あたしも西澤くんに慣れてきてしまって、ついさっき握手したことを思い出したから聞いていた。

「花ちゃんとなら、手汗はかかない?」
「……は!?」

 急に驚いた反応を見せるから、あたしと花ちゃんは立ち止まって西澤くんをじっと見てしまう。

「か、かかないって。花の方がなんかしっとりしてるし」

 なんとなく、耳が赤くなってる気がして、照れているのが分かる。古賀くんみたいに女の子慣れはしていないんだろうけど、西澤くんだってサッカー部でけっこうモテているし、これまで彼女とかいなかったのかな。なんて考えていたら、あたしの心を読んだみたいに投げやりに言葉が返ってきた。

「彼女はいたことないからな」
「……え?」
「面倒くさいって言ったけど、それは本当。でもそれもこの前まで。今は面倒くさいとか、思ってないから」
「……ん?」

 花ちゃんと顔を合わせて、西澤くんが何を言いたいのか分からずに二人で首を傾げた。

「……あー、もう。ほんと早く思い出せって」

 落ち込むようにため息を吐き出す西澤くんに、あたしは「幸せにげてくよ!」とため息を取り戻すように空気を手で掬って西澤くんの方へ戻す。

「なにそれ!」

 ぶはっ、と吹き出して西澤くんが笑うから、あたしは途端に恥ずかしくなった。
 つい、まりんちゃんのあのノリを思い出してやってしまった。これは、まりんちゃんがやるからかわいいんだし、許されるんだ。あたしみたいなのがやっても、おかしいだけなのに。

「幸せになりたいって思ってる? 杉崎さん」
「……え?」
「ため息一つでも幸せ逃したく無いってことでしょ? 良いよね、その発想。俺も幸せでいたいから、ため息吐き出したら今度から吸い戻すよ」

 あははと、まだ笑いを堪えきれなくなって笑う西澤くんが、とても楽しそうで、花ちゃんまでため息を吐き出していないのに空気をほっぺたいっぱいに吸い込み出した。

「はなもすりゅーっ」

 パンパンに膨れてフグみたいになった顔でこちらを向くから、堪えきれずにあたしまで笑ってしまった。

「あははは! かわいいー、もう」

 お腹が痛くなるほどに楽しい。
 なんだろう、こんな感覚今まで感じたことがなかった。
 お腹の底から笑うなんて、今まで生きてきて、一度でもあっただろうか?
 思い返してみても、そんな記憶はないと思う。

 西澤くんとの夏休みみたいに、忘れているだけなのかな。そうだとしたら、楽しいことは思い出したい。そんな風に、なんだか気持ちが前向きになるような気がした帰り道だった。

「今度は、二人でかき氷行こうね」
「え……」

 家のすぐ手前まで西澤くんは送ってくれて、そっと照れた顔をしながらそんなことを言うから、あたしまで照れてしまった。

「じゃあまた明日」
「りょーちゃ、バイバイ」

 来た道を引き返していく二人に手を振った。

「バイバイ」

 見えなくなるまで見送ると、足取り軽く玄関のドアを開けた。

「ただいまー!」

 いつもよりもワントーン明るい声に、おばあちゃんが優しく「おかえりなさい」と微笑んでくれた。