規則正しい機械音と、なにやら慌ただしそうな雰囲気を感じて目が覚めた。
 まだ重たい瞼を、うっすらと開けてみる。ぼやける視界に映るのは白い天井。どうやら、眠っていたらしい。

「……か……うかちゃん……」

 重苦しい体はぴくりとも言わないけれど、ようやく視界が見えてきて、耳元の声が聞こえる方へ視線を動かした。

「涼風ちゃん!!」

 あたしの名前を叫ぶように呼ぶこの声は、おばあちゃんだ。

「涼風ちゃん! 先生、涼風ちゃんが目を覚ましました!」

 しきりにあたしの名前と先生を呼ぶ声に、ここが病院であることがなんとなく分かった。
 嗅覚が家とは違う匂いを感じる。視界に入ってきた長い管と、それを辿っていくと点滴のようなものを見つけた。
 あたしは、どうしたんだっけ?
 おばあちゃんの呼びかけには、まだ反応する気力がない。だけど、思考は徐々に戻ってくる。

『なぁ、涼風、俺ら別れよう?』

 夏休み直前の帰り道、あたしは古賀くんにフラれたんだ。鮮明に、あの時の記憶が蘇ってくる。
 自分から勇気を出して告白して、初めて出来た彼氏。夏休みにはたくさんやりたいこともあった。それなのに。
 つんざくようなクラクションと車のタイヤが擦れる音が頭の中に響いてきて、真っ暗になる。

 それ以降は、何も思い出せない。
 今、目覚めてここにいるのは、きっとあたしが事故に遭って病院に運ばれたからなんだろう。

 だけど、なんでだろう。
 なんだか気持ちは、軽いような気がする。
 事故に遭って、いろんな蟠りが吹き飛んでいってしまったのだろうか?

 おばあちゃんの呼びかけに出来る限りの笑顔で応えると、ぼやけた視界がゆっくりと見え始めた。泣きながら、おばあちゃんは安心したようにあたしの手を握って、「生きていてくれてありがとう」と笑ってくれた。

「……涼風」

 ふいに、聞きなれない女性の声があたしの名前を呼んだ。おばあちゃんから視線をずらして、後ろを伺う。思うように体が動かせないから、声の主が誰なのかなかなか姿を捉えることができなかった。だけど、おばあちゃんがあたしの手をそっと離すと、入れ替わるように誰かと交代した。
 まだ鮮明ではない視界に、四十代くらいだろうか。目元が赤く涙を拭うような仕草をする女性が映り込む。

「良かった涼風、無事で……」

 小さな声で呟いて鼻を啜ると、女性はすぐにあたしから顔を背けた。

『泣いたってなんにもならない』

 顔を背けて涙を拭うように目元を擦る女性を見て、あたしは母のことを思い出した。
 もしかしたら、この人。
 頭がようやく働くようになって、一瞬だけ見えた顔。歳をとってしまっているけれど、幼い頃にあたしを置いていなくなった母じゃないかと感じた。すぐにおばあちゃんに頭を下げて、女性は行ってしまった。
 泣き顔を、見られたくなかったのかもしれない。だって、もしあの人が母だとしたら、「泣いたってなんにもならない」って思っているはずだから。だけど、一瞬だけ見えてしまった赤く潤んだ瞳。あたしのことを心配して泣いてくれたのかな? なんて、そんなことあるはずないのに、勝手にいいように解釈してしまう。あたしは、とっくに見捨てられたんだもん。今更心配だなんて。おかしいよね。

 意識が戻った次の日、あたしは順調に回復していて、二、三日様子を見て問題がなさそうだったら退院できると言われた。
 幸い、事故の怪我も頭を打ったことによる軽い脳震盪と、まだ痛むけれど手足の擦り傷程度の軽傷だった。ただ、一ヶ月も眠り続けたことが心配された。先生との話し合いで、今後も定期的に病院へ通うことになって、退院の運びとなった。
 まだ大きな絆創膏を貼った手足は周りから見たら痛々しいかもしれないけれど、あたしとしてはもうほとんど痛みも感じないし、傷を隠すために貼っているようなものだった。


「涼風ぁ~!!」

 久しぶりの教室に入ると、真っ先に駆け寄ってくれたのは友達の葉ちゃんだ。

「大丈夫だった!? 涼風が事故に遭ったって聞いて、あたし心配で心配で……」

 うるうると涙を溜め込んだ葉ちゃんの瞳が、あたしの全身を隈なく見る。

「わーん! 痛いよね、怖かったよね! でも無事で良かったー!」

 ついには泣き出してしまって、あたしに抱きついてくる。よしよしとあたしよりも背の高い葉ちゃんの頭を子供みたいに撫でると、他にも周りで見ていたクラスメイトが「良かった」「大丈夫?」と話しかけてくれた。
 みんなが優しいのは知っているけど、今はもう少しそっとしておいてほしい。とは言えずに、あたしは今日もみんなに愛想を振り撒く。

 先生が入ってきてようやく解放されると、ふと視線を感じて、あたしは机の列の一番前を見た。
 そこにいるのは、サッカー部の西澤くん。泣きそうに眉を下げながら、あたしに微笑んでくれる。だから、つられてあたしもぎこちなく微笑んだ。
 西澤くんも、もしかして心配してくれていたのかな?
 そのまま席に座った彼の後ろ姿を視界に入れたまま、あたしも自分の席に着いた。
 西澤くんとは、あまり……と言うか、全然話したことがない。きっと、クラスメイトが事故に遭ったからだよね、心配してくれているのは。きっと、優しい人なんだろうな。
 そう思いながらも、あたしは先生の見えないところでスマホを取り出してメッセージアプリを開く。
退院して家に帰ってから、気になっていたことがあった。

 スマホには、一ヶ月前から着信や未読のメッセージがたくさん溜まっていた。
 葉ちゃんや先生。おばあちゃん。他にも友達や先輩だったり後輩だったり。一番ほしいはずの古賀くんからのメッセージは一つもなくて落ち込んでいると、一番新しいメッセージの履歴に西澤くんの名前を見つけた。
 そして、西澤くんが送ってきたメッセージに、どうしてこんなことを送ってきたんだろうと、あたしは不思議に思った。
 唐突なメッセージ。クラスのメッセージグループには西澤くんも入っていたことは知っている。だけど、個人でのやり取りはしたことがなかった。と、言うか、本当に教室でも西澤くんはサッカー部の男子と常に一緒にいて、あたしがそこに交わることなんてなかったし、だから、話をすることだって思い返してみても挨拶とか授業の連絡とか、それくらいしかない。だから、こんなメッセージが送られてくることが、なんだか、不思議と言うか……怖いと思った。

「え? 西澤くん?」

 お昼休みに、葉ちゃんと一緒に机をくっつけてお弁当を食べながら聞いてみた。

「葉ちゃん、前に西澤くんのことかっこいいって言ってたよね」
「うん。サッカー命ですって堂々と言っちゃうくらい、真っ直ぐで真面目な感じがカッコいいよね。絶対浮気とかしなそう!」

 力強く頷きながら葉ちゃんは答えてくれる。かと思えば、しゅんと落ち込むみたいに視線を下げて手にしていた箸をお弁当箱の中に下ろした。

「でもねー、西澤くん夏休み中の練習試合で足怪我しちゃったんだよー。だからね、もうサッカー出来ないらしい。辛いよね……なんか気の利いた言葉でもかけてあげたいけど、普段からあまり話したことないし、こんな時だけ優しい言葉かけても響かないよなって、諦めてる」

 綺麗に何層も円を描いた卵焼きを箸で掴むと、葉ちゃんはパクりと口にした。

「……そう、なんだ」

 西澤くんも夏休み中にそんなことがあったんだ。
 確かに、サッカー大好きな西澤くんにとっては重大事件だろうな。あたしの彼氏にフラれる、なんて事件とは訳が違う。まぁ、そのあとの事故に遭ったことの方が大事件だったけれど。
 西澤くんから届いていたメッセージは、夏休み最終日には『生きていてほしい。頼むから』と、その二日前には『古賀と気まずくなったら何でも言って。力になりたい』と二回だった。
 西澤くんとメッセージIDのやりとりをした覚えがない。むしろ、するタイミングさえなかった。だって、まともに話したことがないのだから。それなのに、どうして? あたしが古賀くんと付き合っていることは噂で聞いたとしても、気まずくなったらって、それって、どう言うことなんだろう。あたしが古賀くんにフラれたことを、知っているってこと?
 考えすぎて頭が痛くなってくる。

「涼風大丈夫? 頭痛いの?」

 頭を抱え込むように俯いたあたしに、葉ちゃんが心配する声をかけてくれるから、ハッとして首を振った。

「あ、ごめん。大丈夫だよ」
「辛いならすぐ言ってね、無理しないで保健室で休ませてもらっても良いんだから」
「うん、ありがとう」

 葉ちゃんは高校に入ってからの友達。背が高くて美人で、最初は近寄りがたいクールな印象を持っていた。だけど、同じクラスで近い席になると、周りを巻き込んで次から次へと話題を持ち出し笑わせているし、美人なんて言葉はどこへ行ってしまったのかと思うくらいに、大口を開けて笑ったり、大袈裟な身振り手振りで話す姿は誰もの第一印象を覆した。

「葉ちゃんー、数学わかんないとこあったんだけどあとでノート貸してー」
「オッケーまかしとけぃ」
「葉ちゃん、俺の彼女なんか浮気してるっぽいんだけど」
「は!? まじ? ってかさ、ちゃんと彼女と話してる? 勝手に色々悪いこと考える前に本人と話し合いなよー」

 わいわいと、いつの間にかあたし達の周りには数人のクラスメイトが集まりだす。葉ちゃんはとても人気者だ。その影響で、みんなはあたしにまで優しくしてくれる。でもね、あたしは葉ちゃんと二人きりが良いんだ、本当は。
 同じ様にみんなに当たり障りなく相槌打って、話に合わせて。すっごく疲れるけど、そうしているほうが、みんなが近くなってくれて寂しくないから。あたしにはこんなに親しくしてくれる友達がたくさんいるんだって、安心出来るから。だから、あたしも葉ちゃんみたいに「明るくて親しみやすい」をどこか演じている。特別扱いする様な友達は作りたくないし、葉ちゃんだって、一緒にいる時間は他の子と比べたら多いけど、あたしはまだ心を開いている訳じゃない。
 だって、父や母みたいに、いつかあたしのことを置き去りにして、どこかへ行ってしまうんじゃないかと、たまに怖くなるから。
 こんなに優しくて、たくさん話してくれるのに、突然、あたしの前から消えていなくなってしまうかもしれないんじゃないかと思うと、怖いから。だったら、最初から期待しないほうがいい。最初から、特別だなんて思わないで、みんなと平等に、話もなるべく合わせて、平穏に暮らしていきたい。来るものは拒まず、去るものも追わず。ここに今いてくれる人に、合わせておけばそれでいい。
 結局、古賀くんだってあたしの前からいなくなった。もう、誰のこともあたしは一番にしたくない。

「帰りは古賀くんと帰るの?」
「……え」

 お昼休みを終えてみんながそれぞれ席に戻っていくと、葉ちゃんが当たり前の様に聞いてきた。だから、なんだか言い出せなくなった。古賀くんのことも、西澤くんのことも。
 小さくため息を吐き出す。窓から流れ行く雲を眺めた。夏はまだまだ終わらないぞと、今日も太陽はギラギラと地上を焼くように照らしている。眠っていた一ヶ月間。みんなが夏休みを満喫していた間、あたしはただひたすらに眠り続けていたのかと思うと、なんだかもったいないと同時に、寂しく思った。

「でもさ、なんで急に西澤くんのこと聞いてきたの?」
「え……なんで、だろ?」
「えー、なにそれ」

 あたしがとぼけた様に首を傾げると、葉ちゃんは、あははと笑った。

「あ、でもさ古賀くんの方が断然カッコいいと思うよ? めっちゃ優しいし気が利くし。最高の彼氏じゃん」

 西澤くんのことをカッコいいと葉ちゃんが思っているのは前から知っていたから、だから話を振っただけだった。それなのに、何故か古賀くんのフォローをする葉ちゃんに、まだフラれたことを伝えていないあたしは、なんと返したらいいのか言葉に詰まる。
 そもそも、あたしは本当にフラれちゃったのかな? なんだかそれすら記憶が怪しい。だけど、本人にあたしのことフッたよね? なんて、自爆するようなことは聞きたくないし。いくら優しい古賀くんでも、フッたことが事実なら、素直に「うん」と答えるだろう。
 それに、なんであたし、フラれたのかな。それすらも分からない。

「ねぇ、涼風」
「ん?」
「古賀くんってさ、涼風と付き合ってるんだよね?」
「……え?」

 声のトーンを落として、確かめる様に聞いてくるから、あたしは葉ちゃんをじっと見つめた。

「あの、ね。あたしの勘違いとか見間違いだったら申し訳ないんだけど、花火大会の日、古賀くんが涼風じゃない女の子と二人で歩いてるの見たんだよね……まさか、涼風が大変な時に浮気とかじゃないよなぁって思ったんだけど、確かめることもできなくて。だから、涼風が元気になったら聞こうと思っていたんだけど」

 周りに聞こえない様に注意を払って、葉ちゃんが眉を顰めて聞いてくる。
 それって、やっぱり、あたしフラれてる。
 古賀くんがあたしをフル理由は、一つしかない。
 告白をした日、『傷心中だけどいい?』そう聞かれて、『うん』と答えたんだ。古賀くんは彼女と別れたばかりで傷心中だった。そこに、あたしが付け込んだんだ。
 もしかしたら、元カノとよりを戻したのかもしれない。

「誰といたのかは、あたしにも分からないけど。もしかしたら元カノ……かなぁ?」
「え!? なにそれ! だったら最低じゃん!」

 急に立ち上がって大きな声を出す葉ちゃんに、あたしも周りのクラスメイトも驚いて一気に注目が集まった。
 葉ちゃんはハッとしてすぐに周りのみんなの視線に、乾いた笑いで明るく誤魔化している。

「どう言うこと?」

 かと思えば、あたしに向き直ってちゃんと説明してと真面目な顔をするから、思わずため息が漏れた。

「あたしね、事故に遭った日に古賀くんにフラれたの」
「え?」

 真顔になる葉ちゃんに、あたしはそれ以上話すことはない。
 だって、フラれて事故に遭って、今ここにいる。それだけから。
 葉ちゃんはあたしを見て、言葉を探しているみたいに瞳をウロウロさせる。

「たぶん、元カノのことが忘れられなかったんじゃないかな」

 きっとそうだと思う。古賀くんに告白したあの日、悲しそうに歪んだ表情であたしにそばにいてほしいって言ったのは、元カノのことを忘れるためだったのかもしれない。あたしの告白を受け入れたのは、決して前向きなんかじゃなく、ただ、悲しみを埋め合わせるのにちょうどいいと思ったからなんじゃないかなって、今なら感じる。

「なんか、やっぱり涼風って大人だよね」

 感心する様に頷きながら、葉ちゃんが深いため息を吐き出すみたいに言った。

「……え?」
「いっつも思う。何事にも落ち着いてて、あたしが騒いでいても一歩引いて見ていてくれるし、現実をしっかり受け止めてるよね。偉いなぁ、涼風は」

 優しく葉ちゃんが言ってくれるけど、あたしは偉いなんて思ってもいないし、大人なんかじゃない。
 どうしようもないことだと、諦めているからだ。仕方がないって、自分に言い聞かせているから。泣き喚いたところで、古賀くんは戻ってこないし、それが原因であたしのことを嫌いになってしまったらと思うと、怖いから。臆病なだけ。

『泣いたってどうしようもない』

 その通りだから。

「古賀くんとは、ちゃんと話したの?」

 葉ちゃんが心配そうに聞くから、あたしは首を横に振る。

「入院中もなんのメッセージもなかったし、きっともう、あたしとは話したくないのかも」

 あたしだって、悲しいけど、今更古賀くんと会って何を話したら良いのかわからない。
 どうしてあたしはフラれたの? 元カノの方が良かった? あたしの何がいけなかった? きっと、あたしが思う疑問は、古賀くんにとったら面倒なだけだ。だから、どんなに聞きたいことがあったとしても、聞いたりしたくない。だって、これ以上嫌われたくない。

「もう、いいんだ。忘れるから」
「……涼風ぁ。うん、古賀くんだけが男じゃないし! きっと運命の人は他にいるんだよ! きっとすぐに現れるはず!」

 意気込んで立ち上がる葉ちゃんにあたしは笑った。

「葉子ー、部活行くよー」
「あ! オッケー、今行くっ!」

 葉ちゃんが隣のクラスのバスケ部仲間に呼ばれると、すぐに手を振ってあたしに「また明日ね」と行ってしまった。
 あたしも帰ろうとカバンの中にしまっておいたスマホを取り出してみると、メッセージが届いている。

『図書室で待ってます』

 一言だけ。差出人は、西澤くんだ。
 なんで? 頭の中でまず先に浮かんだ疑問。西澤くんに呼び出される理由が分からない。どうしようかと悩んでいると、誰もいなくなった教室に先生が入ってきた。

「お、杉崎。体調は大丈夫か?」
「はい」

 何かを取りに戻って来たのか、先生は教卓の辺りを探りながら声をかけてくれた。

「それにしても、杉崎は友達関係幅広いよな。親しみやすい性格は男女問わず仲良くて先生も安心するよ」

 ようやく探し物を見つけて顔を上げると、先生は笑ってくれる。

「西澤なんか、俺と一緒に杉崎が目を覚ましたこと泣いて喜んでくれてさ。あんまり西澤が女子と接してるの見たことなかったから、杉崎は凄いなって驚いたよ」

 はははと、笑いながら話す先生に、西澤くんが泣いていたと聞いてあたしの方が驚いてしまう。

「まぁ、無理はするなよ、少しでも体調変だなと思ったら周りのみんなを頼るんだぞ。じゃ、また明日な」
「あ、はい。さようなら」

 先生が教室を出ていくと、シンとした空気に閉まっている窓の隙間からわずかに蝉の鳴く聲が聞こえた気がした。
 残暑残る夏の終わり。命短い蝉は、なおも鳴き続けている。きっと、蝉には「諦める」なんて言葉も、「仕方がない」なんて言葉も通用しないのかな。だって、限られた時間しかないんだもん。ひたすらに、鳴くしかない。それしかないんだもんな。
 つい、ため息を吐き出してしまう。

 図書室、か。今は、行きたくないな。だって、図書室は、古賀くんとの思い出がたくさんあるから。きっと、色々思い出すと辛くなりそうだ。だからと言って、無視をするわけにもいかないから、あたしは西澤くんからのメッセージに『ごめんね、今日はもう帰らないといけないから』と、嘘をつく。
 スマホを制服のスカートのポケットに突っ込むと、鞄を肩にかけて教室を出た。


 事故に遭った交差点は、なるべく通らない様にしたいから、あたしは遠回りをして家までの道を歩いた。いつもと違う風景は、なんだか新鮮な気がして、嫌なことも考えずに済む様な気がした。
 茶色の猫が気だるそうに歩いている。暑さに参っているんだろうなと思うと、可哀想にも感じる。住宅が続いて、しばらく歩くと並木通りに公園が見えてきた。
 こんなところに公園なんてあったんだ。そんなことを思って、立ち止まる。小学生くらいの小さな子供たちが、集まって遊んでいるのが見えたから、その子たちの動きを目で追っていた。
 小さなサッカーゴールが置かれている広場で、サッカーをしている。ボールを取り合って喧嘩するみたいに男の子たちが騒いでいると、ボールがあたしの方に転がってきた。

「へたくそ大地(だいち)ー! 早く取ってこいよー!」
「うるせえっ、大海(たいかい)が下手なんだろ!」

 文句を叫びながら、真っ黒に日焼けした男の子があたしの足元に転がってくるサッカーボールを追いかけてこちらに走ってきた。
 これ以上転がってしまったら道路に出てしまうと思って、あたしはしゃがんでボールを両手で止めた。

「あ! 大空(たいく)兄!」

 目の前まで来た男の子は、ボールを持っているあたしじゃなくて、嬉しそうに瞳を輝かせてあたしの後ろに視線を送っているから、つられて振り返った。

「また喧嘩しながらやってるのか?」
「むーっ! だって俺の方にボール寄越さない大海が悪いんだよ!」

 怒りながら、男の子はあたしからボールを奪う様に取るから、呆気に取られる。

「こら! 大地。ボール、拾ってくれたんだから、お姉さんに言うことあるだろ?」

 男の子の頭をポンっと撫でると、怒った顔で言うのは、西澤くんだ。
 頬を一瞬膨らませて眉を顰めてから、男の子はあたしに向き合う。

「ありがとう……でもこれは大海が下手だからだよ……」

 ぶつぶつと腑に落ちない様に言い訳をする男の子に、西澤くんがしゃがんで目線を合わせると、微笑んだ。

「いつも言ってるだろ? サッカーはチームワークなんだから。自分ばっかり上手くなっても意味がないんだよ。喧嘩するならサッカーはやるな。そんなのやってる意味がない。ちゃんと、みんなのこと考えてボールを運ばないと」

 真剣な目で真っ直ぐに伝える西澤くんの言葉に、あたしまでなんだか胸がギュッとなる。
 ただ怒るわけじゃなくて、ちゃんとどうしたら良いのか考える様に伝える西澤くんの言葉に、男の子は小さく頷いた。

「よし、じゃあ俺もまぜて」
「え! だって! 大空兄、足怪我してるでしょ?」
「まぁ、少しくらい平気だよ」
「ダメ!」
「……お?」

 今度は、男の子が西澤くんのことを怒り出した。

「病院の先生に、今サッカーしたらもう一生サッカーできないって言われたんだから! ダメだよ! 絶対!」

 小さな手で来ない様に押し返しているから、思わず西澤くんもよろめいている。

「仲良くやるから! 兄ちゃんは足を労って!」

 ボールを脇に抱えて、男の子は走って戻って行ってしまった。

「……労ってって、どっからそんな言葉覚えたんだろ」

 立ち尽くす西澤くんの後ろ姿に、しゃがんだままだったあたしはそっと立ち上がった。
 このまま黙って立ち去るわけにもいかずにどうしようかと思っていると、西澤くんが振り返った。

「ごめんね、杉崎さん。今の俺の弟」
「……え、あ、そう、なんだ」

 前から親しかったように近づいて来て言われるから、あたしは驚きつつも歯切れ悪く笑顔を作る。

「ほら、この前話したじゃん? あのちょっと髪の長めなヒョロイ奴が、小ニの大海で、さっきの短髪でちびっ子なのが小一の大地」

 サッカーをしに戻ったさっきの男の子たちのいる方を指さして、西澤くんが当たり前のように教えてくれる。
 だけど、あたしはそんな西澤くんの弟たちのことよりも、その前の言葉の方が気になった。

『この前話したじゃん?』

 この前……? って、いつ?
 楽しそうに向こうを眺めている西澤くんには、疑問しか感じない。

「それにしても、ほんと良かった。杉崎さんがちゃんと生きていてくれて」

 こちらを向いた西澤くんの瞳は、穏やかに細くなるけれど、なんだか今にも泣き出しそうだ。
 潤んでいく目に、きっと西澤くんも気がついて、こぼれ落ちないように空を見上げる。

 ようやく傾き始めた太陽は、優しく光を降り注ぐ。澄み渡る空の青は清々しくて、汗ばむ肌に感じる風が心地いい。
 西澤くんは、本当に心からそう思ってあたしに接してくれている気がした。
 だからよけいに、分からない。
 だけど、ここであたしが知らないと、冷たい態度を取ってしまったら、きっと西澤くんは悲しむのかもしれない。だから。

「……あの、古賀くんとのことって……」

 何を知っているの? とまでは聞けなくて、探る様に言葉を濁す。

「え? ああ、今日は大丈夫だった? 古賀がうちのクラス来ることもなかったし、移動の時とか嫌な思い、してない?」
「……え、ああ、うん。なにも」
「そっか、なら良かった。いつでも言ってよ。俺で出来ることなら助けになりたいし。あ、今日はメッセージに返信ありがと。なんか、返信が来てめちゃくちゃ嬉しかった。しかもここで会えちゃったし。また、送ってもいい?」
「え?」
「……迷惑、なら、やめるけど」

 目を伏せた西澤くんが寂しそうに笑うから、あたしは小さく頷く。

「大丈夫、送っても」
「まじ? 良かった! じゃあ、俺妹迎えにいかなきゃないからまた!」

 笑顔で手を振って、西澤くんは弟たちにも「ちゃんと時間なったら帰ってこいよー」と声をかけて、行ってしまった。
 妹も、いるんだ。
 何故かそこだけが頭の中に残って、あんなに親しく西澤くんと話したことが信じられなくて、よく分からない気持ちのままあたしは家に帰った。

 「ただいま」と玄関を開けると、おばあちゃんが夕飯の支度をしてくれているんだろう。香ばしい肉の焼ける匂いが漂って来た。

「涼風ちゃんおかえりなさい。体は大丈夫? 痛いとこや苦しいとこない?」
「うん、全然平気」

 痛みはないし、苦しいのは古賀くんとのことを思い出したことくらい。だけど、さっき西澤くんと話したことで、少しだけ気分は前を向いている。

 夕飯を済ませて部屋に戻ると、置きっぱなしにしていたスマホの通知音が鳴った。
 メッセージが届いている。
 古賀くんからかもしれないと、少しだけ期待をしながら画面を見ると、メッセージを送って来たのは西澤くんだった。
 落胆、とまではいかないけれど、期待した分少しだけガッカリしてメッセージの内容を確認する。

『明日の放課後は図書室来れる?』

 西澤くんは図書室が好きなのかな?
 率直に感じた疑問。そして、あたしには図書室は古賀くんとの思い出がありすぎるから、やっぱり行きたいとは思わない。
 西澤くんは足を怪我して部活は引退したと葉ちゃんが言っていた。弟くんも、怒るくらいに足のことを心配していたから、きっと大きな怪我なんだろう。
 もしかしたら、部活が出来ないから、放課後は図書室にいるのかな。西澤くんって、どんな人なんだろう。
 いつも自己紹介の時は決まって「サッカー命です」って言うくらいにサッカーが好きってことくらいしか知らない。あ、弟が二人いるって言うのはさっき知ったけど……あと、妹。

『うん、めっちゃ小さい。手とかぷにぷにしてて繋ぐと離してくれないし』

 ふいに、西澤くんのデレた笑顔が脳裏に浮かぶ。

「……二歳の、妹?」

 ポツリと言葉に出たから、自分で驚いてしまう。
 それ以上は思い出せないけれど、何故だろう。西澤くんには二歳の妹がいることをどこかで聞いたことがあった様な気がしてくる。
 いつ話したんだろう?
 一年生の時も同じクラスだったから、もしかしたら話の流れで聞いて知っていたのかもしれない。じゃなきゃ、やっぱりあたしは西澤くんとは話したこともないし、西澤くんも、あんな風に親しみやすく話す様な雰囲気の人ではないと思っていたから。
 メッセージの返信には、『行けるよ』とだけ送った。なんだか少し怖いけれど、あたしは何か忘れている様な気がする。


 次の日、葉ちゃんに西澤くんのことをまた聞いてみることにした。

「……また西澤くん? どうしたの、何度も」
「いや、昨日帰りに公園で偶然会ってね、その時にやけに親しく話しかけてきたから、驚いて」
「え、あの西澤くんが?」

 葉ちゃんも驚いたように目を見開いて聞いてくるから、頷いた。

「あたし、事故に遭う前、西澤くんと仲よかった……とかってことは、なかった、よね?」

 自分で言っておいて自信がなさ過ぎて、だんだんと声が小さくなっていってしまった。

「それはないんじゃないかなー、だって涼風、古賀くん古賀くんって、そればっかりだったよ? ようやく彼女になれたって教えてくれた時二人でめっちゃ喜んだじゃん」

 確かに。葉ちゃんの言うように、図書室に現れる古賀くんに毎日想いを募らせていたあたしは、葉ちゃんに「古賀くんのことが好きなんでしょ?」と言われて想いを自覚した。彼女と別れた情報を仕入れた周りの友達と、葉ちゃんからの後押しで、今しかないと想いを伝えたんだ。
 すぐに行動できたのは、本気で古賀くんの彼女になりたかったから。好きな人が欲しかった。自分が大好きだと思える人が。そして、あたしのことも好きだと言ってくれる人に、そばにいて欲しかった。いろんなことを共有して、気持ちをわかり合って、そばにいていいんだよって、安心できる場所が欲しかった。
 だけど、傷心中の古賀くんじゃ、最初からそんなあたしの願いは叶うはずがなかったのかもしれない。なのに、告白の返事をもらえた時、もう色々考えることを辞めちゃったんだ。
 今が幸せならそれでいいって。後からのことなんて、後回しにしてしまった。
 考えればすぐに分かったことだったかもしれないのに。あの時はただ嬉しくて、舞い上がっていたんだ。
 そうやって、あたしは後悔を重ねていく。だけど、仕方ないんだ。うん、しょうがない。

「ねぇ、涼風。昨日ね、男バスが話しているの聞いちゃったんだけどさ」

 なんとなく、言いずらそうな雰囲気で話し出す葉ちゃんに、あたしは息を呑む。

「古賀くん、涼風が事故に遭ったの知ってて逃げたって。噂になってる」
「……え?」
「その上、涼風が入院してるのをいいことに、元カノとも遊んでるって。三年の先輩がやっかみみたいに噂してた」
「……古賀くんは?」
「ああ、なんか、全然気にしてない感じ。あたしさ、そっちの方がはぁ? って感じで。古賀くんのことなんか軽蔑しちゃった」
「え……」
「だってひどくない? いくらフったとは言え、全然涼風のこと気にしてなさすぎる。お見舞いにも行かなかったみたいだし、人としてどうなのって思ったんだけど」

 腕を組んで、怒っている葉ちゃんに、あたしは言葉が出てこない。

『全然涼風のこと気にしてなさすぎる』

 きっと、葉ちゃんは話の流れであたしのために思ったことを言っただけなんだと思うけど、なんだかその言葉は、あたしの存在なんてないみたいに聞こえて、悲しくなる。

「……古賀くんは、悪くないよ」
「もぉー、どうして涼風はそうやって優しいの! 悪いってば! 絶対!」
「葉ちゃんが怒ってくれるのは嬉しいんだよ」

 だけどね、そうだとしても、しょうがないでしょ? どうしようもないよね?
 胸の中に悲しみがまどろむ渦が出来始める。渦巻いて濃くなっていくのを感じて、あたしは大きく息を吸い込んだ。たっぷりの新しい空気と渦を誤魔化すみたいに中和する。

「古賀くんのこと、悪く言わないであげてね」

 精一杯の笑顔を作って、平気なフリをする。胸のまどろみがゆっくりと体の底に沈んでいく気がした。いや、沈めておきたかった。

「もうー! 悲しそうに笑わないで、涼風ぁ。あたしは絶対涼風の味方だからね!」

 ギュッと抱きしめてくれる葉ちゃんに、沈んだはずのまどろみが湧き上がってきそうになるのを必死に我慢して、あたしは何度も頷いた。

 部活に行った葉ちゃんと別れると、あたしは図書室に向かった。
 教室にはもう西澤くんの姿はなかったから、きっともう図書室にいるんだろうと思った。何度か立ち止まっては気持ちを落ち着かせて、ようやく辿り着く。
 部活動の盛んなうちの学校では、テスト前とかじゃない限り、放課後はほとんど図書室には人がいない。部活に所属していない人はすぐに帰ってしまうし、一人になりたい時にはもってこいの場所だった。
 カラリと引き戸を開ける。ひんやりとした空気と一緒に、まだ生ぬるい外からの青い空気が体に絡み付いてきた。小さく深呼吸をして、中に踏み入る。
 一箇所だけ窓が開いていて、カーテンが揺れている。そこに、西澤くんの姿を見つけた。

「……あ、杉崎さん。良かった、来てくれて」

 こちらに気がついた西澤くんが嬉しそうに微笑むから、なんだか胸がぎゅっと詰まる。

「立ち位置がなんか前と逆だね。変な感じ」

 ははっと笑った西澤くんの言葉には、やっぱり引っかかるものがある。
 西澤くんの言う、《《前》》とは、いつの事なのか。あたしにはなにも身に覚えがないから、合わせる様に笑うしかない。
 ぎこちなく距離を詰めて、西澤くんから少し離れた椅子に手をかけて座る。すると、窓を閉めてカーテンをタッセルで纏めた西澤くんが、ゆっくりあたしの前の席に座った。
 スローモーションのように見える動きの一つ一つに、なんだか見たことがある様な気がして、あたしの胸がざわめく。

「杉崎さんさ、もしかして忘れちゃった?」

 悲しそうに眉を下げて、西澤くんが泣きそうにこちらを見るから、あたしまでつられて泣きそうになってしまう。

「……え?」
「杉崎さんが学校に来る様になって、もしかしたらまた話しかけてもらえるかなって、期待していたんだけど……そんなことなくて。自分からメッセージ送ったりして、昨日は嫌な思いさせちゃったんじゃないかなって、ちょっと反省してた」

 ごめん。と、頭を下げる西澤くんに、あたしは驚いてしまう。
 あたしには、西澤くんに呼び出される理由も、親しく話す理由も、謝られる理由も全部わからない。

「……本当に全然、覚えてない?」

 少しの希望を抱くみたいに、確かめるように聞いてくるけど、あたしには本当に西澤くんの言いたいことが、分からない。悲しませたくないのに、言葉が見つからなくて視線を下げたまま黙っていると、また、西澤くんが小さく謝った。

「ごめん、困らせるつもりはないんだ……ただ、やっぱり俺だけなんだなって思ったらちょっと、悔しいなって。はは、何言ってんだコイツって感じでしょ? 杉崎さんと会えていたあの日々は、俺は忘れたくないんだけど……」

 ついに、シンっとしてしまった図書室には、空調の音だけが静かに聞こえる。窓から差し込む陽射しが、木の葉に揺られて不器用にあたし達を照らす。

「でも、俺はしょうがないとか思って、諦めたくないんだよね」
「……え?」
「足怪我してサッカーは出来なくなっちゃったけど、俺はサッカー諦めてないし、だから、杉崎さんのことも諦めたくない」

 真っ直ぐにあたしに向き合って、西澤くんが真剣な顔をしている。
 いつもの西澤くんなら、もっともっと陽に焼けて、焦げたみたいに真っ黒なはずなのに、今年の夏は、きっと怪我でサッカーが出来なくて外に出ている時間も短かったからだろう。元々きっと色白な西澤くんの肌は、うっすらと日に焼けて色づいているだけな気がする。そんな表情が、今は日焼けとは違うけど、頬と鼻が赤く色付いている。

「杉崎さんに、思い出してもらいたい。だから、俺、杉崎さんのこと、好きになっても良い?」
「……え?」

 真っ直ぐに揺るがない視線に捉われると、逸らせなくなった。
 陽射しを受けた瞳が煌めいている様で、吸い込まれそうで、徐々に、あたしの胸が高鳴っていくのを感じる。

「古賀のことまだ好きでも良い。杉崎さんが古賀のこと諦められないって言うなら協力もする。だから、俺が杉崎さんのことを想っててもいいかだけ、聞いておきたかったんだ」

 ──どうして?
 なんで、初めから想いが叶わないようなことを言うんだろう。あたしが古賀くんのことを好きなのは本当だけど。
 フラれてしまってもどうして? と諦めきれずにいるのも事実だ。だけど、あたしはこれ以上古賀くんには近寄る気はない。突き放されるのが怖いから。だから、好きだけど、仕方ないって、諦めるんだ。
 西澤くんだって、ここであたしが無理ですって断ったら、すぐに諦めるんでしょ。
 なんだか今のあたしは、中途半端だ。

 古賀くんのことは好きだけど追いかけない。西澤くんの気持ちにはよく分からなすぎて答えられない。中途半端にするくらいなら、初めから要らない。
 後で後悔するなら、初めから関わったりしたくない。

「……あたしは、もう誰とも付き合う気、ないかな」

 苦しいのを押し込んで唇を噛んだ。精一杯に笑顔を向けて、西澤くんの気持ちに断りを入れる。

「仕方ないって、思ってない?」
「……え?」
「泣いても仕方ないって、思ってない?」

 どうして、西澤くんがそれを言うんだろう。

「良いんだよ、泣いたって。辛いこと溜め込まなくたって。諦めなくてもいいんだよ」

 なんで? どうして、西澤くんはあたしのほしい言葉をそんなふうに真っ直ぐに並べるの?
 そんなこと言われたら、ずっと蓋をしてきた気持ちが、また溢れてしまう。溢れないように気をつけながら、そっとそっと抱えてきた気持ちが。

「……ほんと、ごめん」

 震える声と、涙がこぼれ落ちる寸前の瞳を西澤くんから背けて、あたしは図書室から飛び出した。
 誰にも打ち明けたくなかった。
 あたしが諦めれば、仕方がないって思いとどまれば、物事はうまく行っていた。
 なのに、西澤くんの言葉に、全部吐き出してしまいそうになった。
 仕舞い込んでいたこれまでのことが、溢れ出てしまうところだった。

 誰もいない薄暗い廊下の壁に、あたしは寄りかかってようやく、止めていた息を吐き出す。
 「はぁ」と、たっぷりのため息と感情が外に吐き出るのと同時に、ボロボロと涙が頬を伝った。

 病院で目が覚めた時、今更心配そうにあたしの名前を呼ぶ母がいた。何の未練もなく別れを告げて元カノと花火大会を楽しむ古賀くんがいた。慰めてくれる葉ちゃんがいた。あたしのそばにいて欲しい人が放つ言葉全部に、あたしは泣き叫びたいくらい苦しかった。
 なんにも知らないはずの西澤くんの告白が、あたしの地雷を思い切り踏んだ。

 声を殺して必死に泣くのを堪えた。溢れてしまった分は仕方がない。グッと手の甲で拭い去って、残りの悲しみにはしっかりと蓋を閉めた。そして、心の奥底にまたしまい込んだ。

 腫れてしまった目を、道ゆく人に見られないように視線を地面に落としながら家路を歩く。きっと、誰もあたしのことなんて気にも留めないだろうに。それでも、あんなに涙をこぼしたのは久しぶりだったから、まだ堪えていた小さなしゃっくりが止まらないでいる。続け様に二回しゃっくりが出て顔を上げた瞬間、道の向こう側に、古賀くんの姿を見つけた。
 あたしの胸は、素直にトクンと温かく脈打つ。
 遠目にしか見ていることができずに立ち止まっていると、「あきくんっ」と言って走ってくる女の子が視界に入った。
 小柄で髪の毛を後ろで低い位置に一つに結んだだけの、眼鏡をかけたどこか垢抜けないような女の子。転びそうになった所を、古賀くんが駆け寄って支えていた。
 二人の笑顔がすごく幸せそうに見えて、ズキリと胸が痛む。
 少しだけ距離をとりながら歩いていく二人の後ろ姿に、あたしはため息をついた。

 古賀くんに好かれたくて、毎朝艶々にアイロンで髪の毛を伸ばした。メイクもナチュラルに、校則に引っかからない程度に覚えた。毎日毎日、どうやったら古賀くんに振り向いてもらえるんだろうって、考えるのが楽しかった。
 そっか、古賀くんのタイプって、あんな感じの守ってあげたくなるような、普通の子だったんだ。気がついたら、ふふっと声を出して笑っていた。
 もう居なくなっただろうと思っていたひぐらしが、カナカナと遠くに鳴いているのが聞こえた気がした。学校の裏の山で、まだ蝉が短い命に抗って最後の聲を振り絞っているのかもしれない。
 どうして、そんなに苦しそうなんだろう。
 なんだか、今のあたしみたいだ。
 そんなに苦しいなら、しょうがないって、もう、諦めたら良いんだよ。

 おばあちゃんに泣いた顔を見られるのが心配になったあたしは「ただいま」といつもよりも小さな声で、そっと玄関の扉を開けた。
 見慣れないスニーカーが綺麗に揃えて置いてあるのが目に入った。おばあちゃんはまだあたしが帰ってきたことに気が付いていない。静かに扉を閉めて、ゆっくり中に入る。
 居間から話し声が聞こえてきて、声の感じから、そこに居るのが女の人であることが分かった。そして、なんとなく弱々しく泣いているような気もする震える声には、聞き覚えがある気がした。

「大事に至らなくて、本当に良かった……」
「そうだねぇ。学校もちゃんと行けているから、何も心配することはないですよ」
「……はい。本当に、お義母さんには何もかも任せてしまって、申し訳ないと思っています。だけど、私にはまだあの子と向き合う自信がないので、もうしばらく様子を見させてください」
「……そうかい。うん、うん、大丈夫だよ。私もまだこの通り元気だし、気持ちの整理をつけてからで構わないからね。雄介は帰ってくる気はないだろうし、来たところで涼風ちゃんのことは任せられない。だから、ゆっくり、考えておいてほしいの。いつかは、あなたに涼風ちゃんのことをきちんと親として迎え入れてほしいから」
「…………はい」

 聞こえてきた二人の会話に、あたしはよろめいた体を起こし、必死に保った。もう一度玄関へ向かう。脱いで置いていたローファーを手に取り、気が付かれないように静かに二階の部屋の階段を上がった。
 荷物をテーブルの上に無造作に置く。ローファーも床が汚れないように、要らない紙袋の上に置いた。
 スウっと小さく息を吸い込んでから、ベッドに寝転んで天井を仰ぎ見る。
 おばあちゃんと話していた人は、きっと病院で見たあたしの母だ。

 どうして?
 おばあちゃんは、あたしのことを、あの人に渡すのだろうか? あたしを捨てていなくなったのに。今更出てきて、あたしとおばあちゃんを引き離すんだろうか。
 そんなの、嫌だ。
 あたしは、おばあちゃんが居たからここまで来れたんだ。ずっとそばにいてくれるって、小さい頃に言ってくれたのに。

 苦しくなる胸に手を当てて、あたしはベットの上で膝を抱えるみたいに小さくうずくまった。
 ピコン。スマホが鳴る。
 なぜか、あたしの頭の中には西澤くんの顔が浮かんだ。スカートのポケットに入っていたスマホを取り出すと、そっと画面を見つめた。
 メッセージは、やっぱり西澤くんからだった。
 潤んでいた視界をクリアにするために手の甲で一度だけ拭う。流れるまでじゃなかった涙は容易に無くなった。

》明日、デートしよう
「……は!?」

 思わず出てしまった声に、手で口元を塞いだ。

 え? なに? どういうこと?

 一気に頭の中が混乱し始める。さっきまで悲しみに暮れていた気持ちもすっ飛んで、あたしは体を起き上がらせてスマホを食い入るように見つめた。どう読んだとしても、西澤くんからのメッセージの内容は変わらない。
 西澤くんが……分からなすぎる。
 小さくため息を吐き出すと、なんだかもうおかしくって笑ってしまった。もう、色々考えるのは一旦やめよう。
 玄関のドアが開いて閉まる音が聞こえてきたから、あたしは制服を脱いで部屋着に着替えた。

 西澤くんにはまだ、返事を送っていない。メッセージの内容は見たから、既読が通知されているはずだし、あたしがメッセージを確認したことはきっと伝わっている。だけど、なんて返信したら良いの? これは、行くか、行かないかの二択しかない気がする。

 階段を降りて、おばあちゃんに「ただいま」と声をかけた。

「涼風ちゃんおかえりなさい。今日は夕飯まだなの、ちょっと待っててね」

 さっきまでいた母のことには何も触れずに、慌ててエプロンを巻いてキッチンに入っていくおばあちゃんに、あたしも「手伝うよ」とついていった。

 「大根をおろしてくれる?」と、おろし器と大根の首の方を切って皮を剥くと、テーブルの上に置いてくれた。
 おばあちゃんは何も言わない。さっきのことを立ち聞きしてしまったのは悪かったけれど、もしかしたら、おばあちゃんは今までも母と会ったりしていたのかもしれない。知らないところで、あたしのことを話していたのかなって思うと、なんだか、一番近い存在だったおばあちゃんのことまで、信用できなくなりそうだ。
 思わず深いため息が出る。

「疲れた? 向こうで座ってて。後はおばあちゃんがやるから」
「……あ、うん」

 微笑んでくれるおばあちゃんに、あたしは半分おろした大根をそのままおろし器の上に置いて、リビングに座った。
 ポケットの中のスマホを何の気無く眺めていると、また、通知が届く。

『かき氷と花火、どっちが良い?』

 また、西澤くんだ。
 さっきのメッセージにはまだ返信していなかったのに。かき氷……と、花火?
 どちらも夏の風物詩だ。もう九月を過ぎて夜は秋の虫の鳴く声が増えたと言うのに、夏の思い出でも作るみたいな質問に、あたしは思わずまた笑ってしまう。
 しかも、どっちもあたしが古賀くんと夏休み中にやりたかったことだ。
 学校帰りにかき氷を食べたり、夏休みにはプール行ったり、花火したり、花火大会に行ったり……
 これから始まる彼氏との楽しい夏休みが全て打ち砕かれたことを思い出して、ガッカリしてしまう。元カノとの花火大会、楽しかっただろうな、古賀くん。
 一度だけ、古賀くんが元カノの話をしたことがあった。付き合いをオッケーしてくれてすぐに。

『杉崎も本好きなの?』
『え?』

 《《杉崎も》》って、聞き方が、なんだか腑に落ちなかった。

『あ、あたしは、本が好きっていうよりも、図書室が好きで』
『え? そうなの? へぇ。てっきり本が好きだからここにいるんだと思ったけど。違うんだ』
『……あ、うん。ごめん』
『はは、なんで謝んの? 全然だよ。俺も本のことはよく分かんないけどさ、でも、図書室は好きだよ』

 真っ直ぐに、手元の本を見つめながら話す古賀くんが穏やかに愛おしそうに笑うから、そんな笑顔も含めて好きだなぁって、その時は感じた。

『……本が、好きな子だったんだ』
『……え?』
『元カノ。本が好きで、真面目でさ。俺とは正反対。だからかな、フラれたの』
『え、フラれた?』
『あ……、これも内緒な。杉崎だから話すんだよ』

 人差し指を立てて、また困ったように笑うから、その笑顔だけはあたしに向けてくれてるって、二人だけの秘密だよって、なんだかすごいことみたいに感じてしまって。嬉しかったのに。
 あの時も、今も、古賀くんの中には元カノへの気持ちがあり続けたんだろうなって思うと、あたしは本当に古賀くんと付き合っていたと言えるのかどうかも、分からなくなる。

 帰りに見た、あの子が古賀くんの元カノだってことは、間違いないかもしれない。
 もう、どう足掻いたって無理な片想いだ。諦めるしかない。膝を抱えて顔を埋めた瞬間に、また、ピコンと通知が鳴る。
 忙しいスマホだなと、顔を膝に乗せたまま横向きに画面を確認した。

》弟たちも花火したいって言うから、良かったらうちの庭でやらない?

 え? 西澤くんの家?

》家は無理です

 思わず、あたしは無意識に素早く返信を打ってしまった。ハッとして取り消そうにも、送ったメッセージにはすでに既読の文字がついている。

》じゃあ、かき氷で決まりね!

 今までは割と淡白な文字だけのやり取りだったのが、初めてにこちゃんマークの絵文字が添えられてくる。だからかな、西澤くんのニヤリとした笑顔が浮かんでしまったのは。

「は? なぜそうなる……」

 言葉に出てしまったけど、何でだろう。
 古賀くんのことを考えて澱んでしまっていた気持ちが、少しだけ、晴れていく。

》また明日! おやすみ

 イメージとしては、友達以外には無口な西澤くん。だけど、公園で話した時とか、図書室で話した時と、メッセージの感じは似ている気がする。気さくで、実は親しみやすい人なのかもしれない。西澤くんと関わったとしても、今までの友達みたいに一線を引いて接することにすれば、そこまで深く考えることもないかもしれない。

 だけど、一つだけ問題がある。
 西澤くんが、あたしのことを好きだと言うこと。そんな感情、もしかしたら一時的だけなのかもしれないし、そこにはまだ、こたえられない。
 悩み始めると頭が痛みだす。
 焼き魚のいい匂いがしてきて、テーブルの上には夕飯が出揃った。
 おばあちゃんには落ち込んでしまっていることを見せたくなくて、きつね色に焼き目のついた秋刀魚に大根おろしを添えて、「美味しい」と笑顔で頬張った。