* * *
五時を知らせるチャイムが辺りに鳴り響いた。とっくに夕方だけど、夏が迫ってきた六月の空はまだまだ明るい。
私たちは公園のブランコに腰かけていた。
「で、あんた、名前は?」
人間だと思っていた時は露ほども興味がなかったが、幽霊だとわかった今は俄然興味が湧いていた。茜が「現金な奴め」という視線を送ってくるが、さらりと受け流す。ただ、人間は私の専門外、幽霊は私の範囲内だったというだけだ。
「知らない人には名前を教えちゃいけないって、おまえ、習わなかったのか?」
不遜な態度でバカにしたようにこちらを見るガキにカチンときたが、それはそうかと思い直した。
「私は小松怜香」
「私は西村茜だよ、よろしくね。君の名前を教えてくれるかな?」
茜がにっこりと微笑みながら優しく尋ねると、彼はころりと態度を変えデレデレとした顔になった。
「おれは斎藤りゅーせい。よろしくね、茜お姉ちゃん」
「おいコラ私は無視かよ」
最初に挨拶した奴のことをガン無視するという暴挙に出たガキ。てかこいつ、私が初めに声をかけた時も「こっち来るな」的なことを言ってたっけ。
「斎藤りゅうせい、そういやあんた、何で私を見て逃げ出そうとしたの」
「だっておまえ、顔怖いもん!」
仏の顔も三度までという諺を知っているかこのクソガキ。
一瞬殴ってやろうかとも思ったが、ふう、と怒りを吐き出した。私は分別のある大人だ、こんなガキに本気でキレるような大人げないことはしない。
「それで、あんたは何で死んだの?」
「ちょ、ちょっとレイ、それは直球過ぎるでしょ!」
咎めるように茜が口を出したが、別にいいだろ、と思う。
「だってもうこいつ死んでるし、生き返れないんだしさ。オブラートに包んでも無駄でしょ」
茜はお人好しだから幽霊の気持ちまで慮っているんだろうけど、私にとって幽霊は日常の一部でしかない。日常でしかない死人にいちいち情をかけるほど、私は暇じゃないのだ。
「で、どうなのよ」
隣を見遣り、ブランコに座る斎藤りゅうせいの姿を捉えると、「……ああ、おれ、死んじゃったのか」とたった今気付いたような声で呟いた。
「りゅうせい君、その……死ぬって、どういうことかわかる?」
茜が聞きにくそうにそう尋ねると、
「うん、何となく、わかる。……前にね、一緒に住んでた犬のハチが死んじゃったから」
僅かに寂しそうな表情をして、斎藤りゅうせいは頬を掻いた。
「おれ、トラックにぶつかって、それから気付いたら誰に話しかけても無視されて、ママとパパもおれのことに気付いてくれなくて、それが悲しくてこの公園にいたんだけど……。そっか、おれ、死んじゃったから皆から気付いてもらえなかったんだね」
斎藤りゅうせいは少しだけ笑おうとして、だけど上手く笑えずに顔を歪めた。
「お、れ、死んじゃっ、たんだね。もう、ママにも、パパにも、見て、もらえないのかな。このままずっと、気付かれないまま、なのかなぁ……」
震えた声も、頬を濡らす涙の滴も、喉から漏れる嗚咽も、全身で〝死にたくなかった〟と訴えていた。
「りゅうせい君……」
泣きじゃくる彼を前に、茜でさえかける言葉が見つからないようだった。
……でも、私は。
「あんたがそう思ってんならそうなんじゃないの」
そんな泣き言には興味がない。
「私はあんたの泣き言とか一ミリも興味ないし、ウザいだけだからさっさと泣き止め」
そう言って、私はブランコから腰を上げた。じゃらりと揺れる銀の鎖を掴み、下方に視線を下げて斎藤りゅうせいをしっかりと見据える。
「斎藤りゅうせい、お前の未練は何だ」
私が幽霊に関わるわけ。知りたいのは、彼らが死んでも尚この世界に留まり続ける理由だ。
ひぐっ、としゃくりあげながら、「みれん?」と斎藤りゅうせいは首を傾げた。
「そう、未練。何であんたが成仏できないのか、成仏できないほどの心残りは何なのか。私が知りたいのはそれだけだ」
「……りゅうせい君は、何かやり残したこととかある? 最期にあれがやりたいとか、どうしてもこれがしたいとか」
茜が内容を噛み砕いて斎藤りゅうせいに尋ねる。
すると、彼はすんと鼻を鳴らした。
「──おれ、お星さまになりたい」
ん? と今度はこちらが首を傾げる番だった。
「それってどういう意味?」
「あのね、ハチが死んじゃったときね、パパとママが言ってたんだ。『ハチはお星さまになって、おれたちのことを見守ってくれてる。空を見上げればいつでも逢えるから、悲しくなんかないんだ』って。だからおれも、ハチみたいにお星さまになりたい。お星さまになれば、パパとママにまたいつでも逢えるし、悲しくなんてないんだから」
斎藤りゅうせいの涙はまだ止まらない。だけどぐいっと小さな拳でその涙を拭って、今度こそ笑ってみせた。
「家でね、おれに気付かないパパとママが、ずっとずっと泣いてたんだ。あの時はわからなかったけど、きっとパパとママはおれが死んじゃったから泣いてたんだね。二人とも、悲しそうで、どうしたらいいかわからなくて逃げ出してきちゃったけど。でも、でもさ」
斎藤りゅうせいは真っ直ぐ私の目を見つめ返した。
「おれがお星さまになったら、パパもママも、きっと笑ってくれるよね」
決めた。そう叫んで、斎藤りゅうせいは地面を蹴った。動き始めたブランコに助走をつけてぐんと揺らす。そうして十分な高さを持ったブランコから身を投げ出した。
繰り出された大ジャンプ。すたっと見事に着地を決めて見せた彼は、こちらを笑顔で振り返った。
「おれ、お星さまになってママとパパのこと守る。そんで、また笑ってほしい」
それが、おれの〝みれん〟だよ。
──父親と母親に、笑顔になってほしい、か。
心の中で、彼の未練を反芻する。彼が告げた成仏できない理由を、私は胸に刻み付けた。
「……未練を教えてくれたから、私もあんたにいいこと教えてあげる。もしかしたら、もう一度だけ、あんたのお父さんとお母さんに気付いてもらえるかもしれない」
「へ?」
「え?」
斎藤りゅうせいと茜の驚く声が重なった。ぱちぱち、と、斎藤りゅうせいが少し赤くなった目を瞬かせる。
「あれ、茜も知らないんだったっけ。ま、〝あれ〟は例外中の例外だから、知らないのも無理ないか」
私はブランコの鎖から手を離すと、斎藤りゅうせいの方へ向かった。そして、自分の右手を彼に向って突き出した。
「うわっ」
斎藤りゅうせいは驚いたように体を仰け反らせたが、その必要はなかった。──私の手は、彼の身体をすり抜けたからだ。
「ほら。こんな風に、幽霊は生きている人間や物には触れない。まあ、滑り台の上に座るとか、地面を歩くとかは、無意識のうちに当たり前だと思ってることだからできるけど。幽霊は、誰にも、何にも触れることができない。これが基本のルール。四十九日のタイムリミットを過ぎて悪霊化した霊は物を動かしたり人に触ったりできることもあるけど、それはあくまで暴走しているだけだから、この場合には含めない」
だけど、と私は続けた。
「幽霊が悪霊化していない場合でも、人間や物に触ったり、普通は幽霊が見えない人間に姿を見せたりできる例外のルールがある。それは、幽霊になってから大抵は一度しか使えない特別な力なの。〝火事場の馬鹿力〟って私は呼んでるけど、その力を使うことができれば、あんたも両親に何か伝えられるかもね」
これで私が教えられる〝いいこと〟は終わり。これ以上は何も知らないし、教えられない。
そう言い終わって斎藤りゅうせいを見ると、彼はポカンと口を開けていた。
「……ほん、とに? ほんとのほんとに、パパとママを笑顔にできる?」
「それはあんた次第だ。私は知らん。〝火事場の馬鹿力〟はよっぽど強い気持ちを持っていないと滅多に出せないらしいから、そこら辺も含めて、あんたが自分で頑張るしかないんだよ」
甘くない言葉を突きつけると、斎藤りゅうせいは「う……」と泣き出しそうになった。うわ、面倒臭いことになりそうだ、と逃げ腰になった時。
「──できるよ。りゅうせい君なら、きっとできる」
茜が斎藤りゅうせいの前にしゃがみこんだ。柔らかいミルクティー色の髪がふわりと揺れる。
「だから、お父さんとお母さんを、絶対に笑顔にしてあげて。茜お姉ちゃんとの約束」
ね、と小指を差し出して茜はにっこりと笑った。その優しい笑顔に絆されたように、斎藤りゅうせいも強張っていた顔を緩めた。
「うん、おれ、頑張るよ。お星さまになって、パパとママを笑顔にしてみせる!」
小さな小指と、茜の小指が繋がる。そして、斎藤りゅうせいは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「じゃあ、行ってくる!」
元気よくそう宣言すると、そのまま斎藤りゅうせいは駆け出した。一切振り返らずに、彼の目的地へと向かって。──彼の未練を、断ち切るために。
「……ああ、漸く面倒臭いのがどっか行ってくれたよ」
彼の後ろ姿が見えなくなった後、そう呟くと、茜はクスクスと笑った。
「何がおかしいのさ」
「いや、レイは素直じゃないなって。本当はりゅうせい君のこと、励まそうとしたくせに」
……何を言ってんだか、このお人好しは。
「別に、励まそうとなんかしてない。ウジウジしてるあいつが鬱陶しかっただけ」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる。……でも、〝火事場の馬鹿力〟って、本当に出せるものなの?」
茜は眉を寄せて首を傾げた。不安の色が見え隠れするその表情に、私は呆れて溜め息を吐く。大方このお人好しは斎藤りゅうせいのことを心配しているのだろう。
「〝火事場の馬鹿力〟はそんな簡単には出せないよ。一回も使えずに成仏する幽霊の方が多いらしいし。使えたとしても、よっぽど強い力を持っていないと一回しか使えない。しかも、大抵の霊はその一回を使ってから一日以内に霊としての力を使い果たして強制的に成仏することになるんだとさ。……だから、あいつが力を使えるかどうかはわからんけど」
私は立てた小指を茜に見せる。
「約束、したんでしょ。なら、信じてやりなよ」
「……うん、そうだね」
茜が柔らかい笑みを溢す。
公園を出る直前、ふと空を見上げた。紺色に染まりつつある空には、一番星が光りはじめていた。