*      *       *

〝ごめんね〟
 ずっと、そう言いたかった。
 でもそれを言わなかったのは、言うのが怖かったからだ。
 嫌われるのが、怖かった。
 もう、どうしようもないくらいに、君は大切な存在になってしまっていたから。
 ねえ、レイ。
 これは、罰なのかな。
 ──嘘を吐いた、私への罰。

*      *       *

 最初にレイに近付いたのは、高校生になってからだった。
 同じクラスの女子に、幽霊が見える子がいるらしい。
 その噂を聞き付け、私は即行動に移した。
「これからよろしくね、レイ」
 友達になろう、そう差し出した手は、きっと最初から汚れていた。
 彼女である必要はなかった。彼女が特別だから近付いたわけではなかったから。
「私も、幽霊が見えるの」
 そんなことを嘯いて、然もレイが自分に特別であるかのように振る舞った。
 けど、レイでなければいけないわけじゃなかった。
 私にとって、大切だったのは。
 ──レイに、自分には見えない霊が、見えることだったから。

*      *       *

 幼い頃から、私はよく黒い靄のようなものを見た。
 黒い、人間の形をした靄のようなものは、いたる所に存在していて、それを見るたびに私は泣きじゃくった。
「怖いよ──」
 黒い靄は、私にとって恐怖の対象でしかなかった。だけど、それ以上に怖かったのは、その靄が自分にしか見えないことだった。
 それを指差しても、「何もないじゃないか」と言われる。
 それが誰にも見えていないのだと気付いた時、全てが恐ろしくなった。自分の見ているものが、自分の恐怖が、誰にもわかってもらえないのだと絶望した。
 怖くて怖くて堪らなくて、何も信じられなくなりそうになった。
 でも、そんなある日。
 私は、特別な出逢いをしたのだ。

 それは、風邪をひき、嫌々ながらもお母さんに連れられて病院に行った時だった。
 私は泣きじゃくっていた。病院にはあの黒い靄が大量にいるからだ。怖くて仕方なくて、だけどお母さんに引き摺られるようにして病院に行った私は、顔をぐちゃぐちゃにして泣いていたのだ。
 しかし、お母さんはそんなことはいつものことだと全くもって気にしなかった。そして、文字通り泣く泣く診察が終わった後、言ったのだ。
「そう言えば、ここに茜の従兄弟のお兄ちゃんが入院してるのよ。重い病気でね、学校にもろくに通えていないの。迷惑になるかと思って茜を連れていくのは遠慮してたんだけど、叔母さんがね、その子が子供好きだから、機会があったら会いに行ってあげてって言ってたから、一緒に行きましょう?」
 従兄弟、という言葉にぴくりと反応した。叔母さんのことは知っていたけれど、その子供に会うことは今までに一度もなかったから、友達の話に登場したりする〝従兄弟とやら〟 に興味があったのだ。
「……うん、会ってみたい」
 靄は怖かったけれど、従兄弟への興味の方が勝った。そしてお母さんに連れられるままに従兄弟が居るという病室へと向かった。

 ノックの後、ゆっくりと開かれた病室のドアの向こうのベッドの上、一人の少年が居た。その頃小学生になったばかりだった私よりも随分歳上の少年で、色白の肌と優しそうな瞳が印象的だった。
 そして、もう一つ。彼の傍には大量の靄が蔓延っていた。普段なら恐怖で身が竦むはずなのに、彼の傍にいる靄は、何だか怖くなかった。
 話があるからと、母が叔母と連れだって病室から出ていき、彼と二人きりになる。何と切り出すべきか言葉を迷っていると、彼の方から話しかけてくれた。
「初めまして。君が茜ちゃん、かな。僕は涼原(すずはら)零仁(れいじ)。君の従兄弟です。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします……」
 彼の周りにいる靄に戸惑いながらそう答えると、彼は少し怪訝そうな顔をして、躊躇いながら尋ねた。
「もしかして……君も、彼らが見えるのかい?」
 彼ら、そう言われたのが黒い人形(ひとがた)の靄であることに気付き、目を見開いた。
「お兄ちゃんも、見えるの⁉」
「──ああ、彼らは、僕の友達なんだ」
 彼は、そう言って優しく笑った。
 それは、私にとって、世界を変える一言だったのだ。

*      *       *

 従兄弟の彼──レイお兄ちゃんは、私にいろんなことを教えてくれた。
「大丈夫、怖くないよ。幽霊も、普通の人と同じなんだ」
 私が人の形をした黒い靄のように見えているものは、亡くなった人間であること。レイお兄ちゃんには普通の人間と同じように見えていて、声も聞こえること。彼らには、成仏できるタイムリミットがあること。そんな彼らと、レイお兄ちゃんはよく友人になっていること。
「僕は学校にも行けないし、病院(ここ)で出逢う同い年くらいの子たちも、ずっと一緒にいられるわけじゃないからね。だから、彼らと友達になることが多かったんだ。病院だと、特に彼らは多いし。タイムリミットまでしか一緒にはいられないけれど、彼らのお陰でたくさんの人と友達になれたんだ」
 私には化け物に見えていたそれを、親しい友人として扱うレイお兄ちゃんには、今までの恐怖心をぶち壊された。今まで怖さしか感じなかったそれら──いや、彼らに、私は段々愛着のようなものを抱き始めたのだ。

 それからというもの、私は頻繁に病院に通うようになった。レイお兄ちゃんの元を訪れ、黒い靄──幽霊についてたくさん教えてもらった。彼らがどんな様子で、どんなことを喋って、どんな風にいなくなるのか。
 レイお兄ちゃんは幽霊の知識だけでなく、今まで出逢った幽霊との出来事も話してくれた。初めて逢った幽霊の話。幽霊たちと幽霊の見える女の子と一緒に病院を抜け出して花火を見に行ったこと。本当なら自分が行くはずだった高校の卒業生の幽霊から聞いた、屋上の鍵の開け方。
 幽霊のことを知る度に、今まであった恐怖心はなくなっていった。
 レイお兄ちゃんは、私の世界を変えてくれた人だった。私の恐怖を打ち砕いてくれた人。私の世界を広げてくれた人。だから、誰よりも特別で、誰よりも大好きな人だった。
 きっと、私の初恋は、レイお兄ちゃんだった。それは、恋というよりは、憧れに近いものだったけれど、それくらい、私はレイお兄ちゃんのことが大好きだったのだ。
 ……だけど。

 私が、中学生になった頃のことだった。
 ──レイお兄ちゃんが、死んだ。
 ずっと患っていた病気が悪化し、十九歳でその生涯に幕を閉じたのだ。
 ショックで、堪らなかった。
 大好きだったレイお兄ちゃんに、もう逢えない。せっかく幽霊が見えるのに、私の力じゃ黒い靄にしか見えないから、レイお兄ちゃんがどれかわからないし、声も聞けない。
 ──私が、レイお兄ちゃんと同じように、幽霊が見えたなら。
 そんなことばかりを考えて、レイお兄ちゃんに逢いたくて、逢いたくて。
 どうしようもない気持ちを抱えたまま、高校生になった。
 レイお兄ちゃんが死んでからずっと、胸にぽっかりと穴が空いたようで、何もままならなくなっていた。そんな時、私は噂を知ったのだ。
 ──同じクラスに、幽霊が見える子がいる。
 それは、私にとって朗報だった。その子に近付き、嘘臭い笑顔を貼り付けた。「友達になりたい」とか、「私も幽霊が見える」とか、心にもないことを嘯いて。
 私には黒い靄にしか見えない場所を言って信憑性を持たせた上で、私は彼女に手を差し出した。
「──私と、友達になってくれませんか」
 ……神妙な面持ちでそう言ったけれど、別に、彼女と友達になりたいわけじゃなかった。
 私にとって大事だったのは、レイお兄ちゃんと同じ、幽霊の見える人と友達になることだったから。
「私ね、怜香ちゃん。──君に出逢えたのは、運命だと思ったんだ」
 確かに、彼女の名前を知った時、運命だと思った。それは嘘じゃない。だけどそれは、そんな綺麗な理由じゃない。レイお兄ちゃんと同じ、名前に「レイ」がつく女の子。それだけで、レイお兄ちゃんと重ねることができたから。
「幽霊が見える私たちなら、きっといい友達になれると思うんだ。わかりあえるし、助け合えるし、──何より、同じ世界を見れるでしょ?」
 ──同じ世界を見れるなんて、真っ赤な嘘だ。私は彼女やレイお兄ちゃんのように、本当の幽霊の姿は見えないし、声も聴こえない。こんなの、見えてるなんて言わない。偽物の、嘘っぱちの力。それでも、嘘を吐いてでも、彼女と友達になりたかった。
 レイお兄ちゃんと同じ世界を見ている彼女に、少しでも近付きたかった。
 そうしたら、少しでも、レイお兄ちゃんに近付ける気がしたから。
 この胸の喪失感を、少しでも埋められる気がしたから。
 ──そう、私は、レイを、レイお兄ちゃんの代わりにしているだけだったのだ。

*      *       *

 それから、一年が経った。
 最初は、ただのレイお兄ちゃんの代わりとして、打算で近付いただけだったのに、いつの間にかレイが大切な友達のようになっていた。
 嘘を吐いて、代用として近付いたのに、レイとの日々は楽しくて、レイお兄ちゃんを亡くした痛みも薄れるくらい、幸せで。
 だから、言い出せなかった。今更、幽霊が見えるなんて嘘だ、なんて。私は、霊の見える従兄弟の代わりに、レイに近付いただけだなんて。絶対に、言えなかった。
 言ったらきっと、この関係は終わってしまう。レイに幻滅されて、嫌われて、友達ではいられなくなってしまう。それが怖くて、謝らなければいけないと思うのに、いつまでもズルズルと引き延ばしてしまっていた。
 今日もまた、言えなかった。仕方ない、明日こそ言おう。また言えなかった。じゃあ、明後日は言おう──。
 そんな風にどんどん先延ばしにして。自分の罪を見ないふりをして、何食わぬ顔で騙し続けているレイに笑顔を向けて。
 逃げて、逃げて、逃げて。
 ──そして、あの雨の降る放課後。
 レイと別れた帰り道で、私は車に轢かれて死んだのだ。
 薄れていく意識の中で、ああ、これは罰なのかな、と思った。
 レイに嘘を吐いた、私への罰。
 ──ごめん。ごめんね。
 降りしきる雨音の中で、私は声にならない懺悔を繰り返していた。