*      *       *

 君枝さんとの出逢いは、レイと喧嘩した日まで遡る。
 レイと喧嘩して気まずくなった私は、だらだらと自分の家までの道を歩いていた。その時、ある家の前で、見覚えのある少年とお婆さんが話しているのを見つけたのだ。
「あれ、小久保君──じゃなくて、カズ爺?」
 そう呼ぶと、クラスメイトにそっくりな少年──中身は彼の祖父──は振り返った。
「おお、茜ちゃんか。元気にしておったか?」
「う、うん。まあ。それより、そちらの方は?」
「彼女は三津下(みつした)君枝(きみえ)さんじゃ。ワシの将棋仲間のかみさんでの、ちょっくら世間話をしとったんじゃ」
「え、でも、カズ爺と話せるってことは──」
「そうよ、お嬢さん。わたしも幽霊よ」
 鈴の音を転がすような声でお婆さん──君枝さんは答えた。
「それよりも、あなたみたいな若い人まで幽霊だなんて、悲しいわね。それとも、一正さんみたいに若くなっている守護霊の方なのかしら?」
「いえ……、私はただの幽霊ですよ。そういう君枝さんは?」
「わたしはただの里帰りよ。今日が命日なの」
 そう言って家の方を少しだけ切なげに眺めた彼女の背中には、銀色の『1』の数字が浮かんでいた。
 私は知らなかったけど、その話しぶりから察するに、命日に現世に帰ってきた幽霊、ということだろうか。命日に一日だけ帰って来れるとするならば、背中に浮かんだ『1』の数字も納得がいく。
「主人が元気にしてるか、一年に一回確かめに来るの。あの人は、見かけに寄らず寂しがり屋だったから」
「でも……それって、辛くないですか?」
 思わず、言葉が溢れ落ちた。──それは、私自身の本音だった。心の奥に、押し込めていた本音。
 だって、大好きな人と離れるのは辛い。苦しい。それを、私はよく知っていた。
 硬く唇を噛んだ私に何かを察したのか、君枝さんはそっと微笑んだ。
「……大丈夫よ、茜ちゃん。確かに、離ればなれになるのは辛いかもしれない。でも、またいつか逢える、そう信じているから、寂しくないの」
 優しく、私の頭を撫でた君枝さんは、ふと、遠い目をして彼女の家の庭先を眺めた。
「だから、わたしはずっと笑顔で待っているわ。あの人が命を全うして、こっちに来た時に、笑って逢えるように」

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 あの人は、無口な人だった。
 お見合い結婚をする人がほとんどだったその時代、わたしとあの人は珍しく恋愛結婚をした。
 とはいっても、恋愛結婚とは名ばかりだった。だって、お情けであの人はわたしと結婚してくれたのだから。
 出逢ってからずっと、わたしばっかりがあの人のことを好きだった。あの人は多分、わたしの勢いに押されて告白を受けたのだろう。その後はとんとん拍子に、流されるように人生が進んでいった。結婚して、子供を産んで、定年になって。特にこれといった特別なこともなく、平凡な、でも幸せな人生だった。
 だけど、わたしは病に倒れ、あの人よりも先に逝ってしまった。子供も独り立ちしていたし、これと言って心残りはなかったけれど、やはり遺してしまったあの人だけが気がかりだった。
 いや、本当は、ただわたしがあの人の傍にいられなくなるのが悲しかっただけなのだと、今なら素直に思える。あの人は何も変わらなかった。悲しみに暮れるわけでも、絶望に打ちひしがれるわけでもなく、ただわたしのいない日常を、淡々と過ごしていた。
 だから、やっぱりわたしばっかりが好きだったのね、と、年甲斐もなく拗ねるような気分にもなったけれど、安心して成仏できた。ああ、あの人はきっと、わたしがいなくても大丈夫ね、と。
 それでも、年に一回、命日だけはあの人に逢いに来ていた。あの人の顔を、声を、少しでも見ておきたかったから。そして今年はたまたま、馴染みの顔にも逢ったのだけれど。
 その馴染みの顔──あの人の数少ない友人の一人である一正さんと、その知り合いの幽霊の少女の茜ちゃんと共に、わたしは一年ぶりの我が家を訪れていた。
「さあ、入って入って。狭い家で申し訳ないけど」
「いえ、そんなことありませんよ。……でも、本当にいいんですか? 関係のない私までお邪魔しちゃって」
「いいんじゃよ、君枝さんらはそんな心の狭い人らじゃないからな」
 なぜか家主でもない一正さんが我が物顔して我が家を進んでいく様子に思わずフフッと笑みが零れた。一正さんは生前と全く変わらない。心を許した相手には遠慮せずに真っ直ぐに突き進む。そんな性格だから、無口なあの人の友人を何年も続けてこれたのだろう。
 「それじゃあ、お言葉に甘えて……」となお遠慮がちに、茜ちゃんは家の中に入った。とりあえずあの人の顔を見ようと和室へ向かった。
 部屋の戸を摺り抜けて辿り着いた和室には、案の定あの人がいた。縁側で将棋盤に一人向かうあの人は、去年より少しだけ痩せたようだった。
 その顔をしばらく眺めた後、ふと仏壇を見ると、去年はなかった紫色の花が供えられていた。去年はどこかで買ってきたのだろう仏花の詰め合わせのようだったけれど、今回のそれはまるで意図的かのように紫色の花だけだった。星のようにも見えるその花は、生前わたしが好きだと言った覚えもなければ、あの人が好きだと言っていた記憶もなかった。
「なんでこの花ばかりなのかしら……?」
 思わず口から疑問が零れ落ちた。すると、その呟きを聞いていた茜ちゃんが、「君枝さん、ちょっとこっち来てください」とわたしの手を引いた。仏壇から少し離れると、茜ちゃんは和室にあるちゃぶ台の上に開かれたまま置いてあった本を指差した。
「ここ、見てください」
 茜ちゃんが指差したのは、その本のページの一箇所だった。そこには、仏壇に飾られていた花が載っていた。その花の名前はアスター、和名はエゾギク。だからどうしたのか、と首を傾げていると、茜ちゃんは更にその一部分を指で指し示した。その部分は、目を引かれる黄色の蛍光ペンで塗られていた。
「ここ、読んでください。アスターの花言葉は、変化・追憶・同感・信じる恋。英語の花言葉は、〝私はあなたを想うでしょう〟。そして、紫色のアスターの花言葉は──」
 茜ちゃんに誘導され、その続きを視線で追う。蛍光ペンで塗られたその文字は、鮮やかにわたしの脳に飛び込んできた。紫のアスターの花言葉は──
〝私の愛はあなたの愛より深い〟
 その意味を、わたしはゆっくりと脳で咀嚼した。ゆっくりじゃないと、その言葉の意味を理解できなかった。いや、ゆっくりでも理解し難かった。だってそんなの、まるで──
「──愛の告白、みたいじゃのぉ」
 思っていたことを、一正さんに言い当てられた。そう、まるでそれは、「自分の方がお前を愛しているんだ」とでもいうような、そんな言葉。そんな、まるで私の願望が生み出したかのような、愛の言葉。
「こいつは、言葉に出すのも態度に出すのも苦手な奴じゃったからなあ。口下手なこいつには、花で表すのが精一杯じゃったんだろ」
 ──こいつはずっと、君枝さんのことを愛していたから。
 語られた知らなかった事実に、年甲斐もなく胸が高鳴った。
 ──ずっとずっと、自分だけが好きなのだと思っていた。
 だけど、本当にあの人もわたしのことを想っていてくれたのだとしたら。
「……待つわ。ずっと、ずっと」
 いつかあの人がこちら側に来るまで。そして、もう一度逢えたなら。
〝わたしの方が、あなたのことが好きなのよ〟
 そう、もう独りよがりでなくなった想いを、あの人に告げられるだろうか。