*      *       *

 初めて怜香に出逢った時、不思議な少女だと思った。
「幽霊が見える」
 そう言った彼女のことを信じたのは、自分が見えたからでも、幽霊の存在を信じていたからでもない。
 ただ、そう言った彼女の瞳が、とても綺麗に澄んでいたから、俺は彼女が嘘を吐いていないと、そう思ったのだ。
 怜香と友達になって、じいちゃん()にも一緒に遊びに行くようになった。最初に出逢った時はあまり笑わなかったのに、よく笑うようになった。揶揄うと不機嫌になったり、拗ねたり、そういう人間らしい感情を、少しずつ見せるようになっていった。
 ──そんな、ある日だった。
 小学三年生の夏。
 俺はじいちゃんと一緒に散歩していた。いや、怜香が来る時用のお菓子の買い出し、の次いでの散歩だった。
 その、買い出し終わり。じいちゃんの家に帰る途中だった。
 なぜか、頭上が暗くなった。何だろう、と思って上を向く暇もなく、「一樹っ」と名前を呼ばれ、ドンと突き飛ばされた。
 突き飛ばされた衝撃でゴロゴロと地面を転がり、皮膚を擦り剥いた痛みに顔を顰めながら起き上がった──瞬間、視界に衝撃の光景が飛び込んできた。
 さっきまで自分が立っていた場所に積み重なる鉄骨と、その下敷きになっている人の姿。その人からは血が流れ、アスファルトが赤黒く染まっていた。
「嘘、だろ……」
 その人が誰か、なんて、すぐわかった。さっきまで隣を歩いていた、鉄骨が落ちてくる直前に自分の名前を呼んでくれた人。でも、わかりたくなんてなかった。
「──じい、ちゃん」
 そう呼んだ掠れた声は、けたたましいサイレンの音に掻き消された。

*      *       *

 じいちゃんが死んで、俺は部屋から出られなくなってしまった。
 食事も喉を通らず、学校に行くこともできず、ただ暗い部屋の中でぼうっと空を見つめて過ごした。
 最低限の栄養補給だけは両親に泣きながら頼まれてしたけれど、それも戻してしまうものだから、俺はどんどんと痩せ細っていった。友達も何人も訪ねてきてくれたけれど、その全てを拒否し、部屋に引き籠った。誰にも、逢いたくなかった。
 じいちゃんが死んだ光景を、何度も何度も夢に見た。
 あの日、俺が「お菓子を買う次いでに散歩しよう」なんて言わなければ、いつもと違う道を通らなければ、俺が、じいちゃんに庇われなければ。
 ──俺が、いなければ。
 グルグルと回る思考はいつもそこに行き着いて、自責の念と後悔に押し潰されそうになる。死んで、しまいたくなる。
 苦しくて、息ができない。溺れているような、緩やかに首を絞められているような感覚に、俺はまた膝に顔を埋めた。
 ──その時。
「カズ、開けて」
 凛とした声が耳に届いて、俺は水中から引き上げられるように顔を上げた。心配する風でも、気遣うようでもない、至って無機質な声音。だけど、わかりにくいだけで、彼女が普通の感情を持つことを、俺は知っていた。
 ベッドから降り、そっとドアを少しだけ開くと、それを逃さないというようにそのまま強引にドアが開けられた。そこにいたのは、思った通り怜香で、涙一つも流していなかった。
「カズ、なんで学校来ないの」
「……それは」
 じいちゃんが俺のせいで死んだから、とは言えなかった。喉が貼り付いたように、上手く言葉が出てこない。それを見かねたのか、怜香は矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「カズ爺が死んだから? カズ爺がいなくなっちゃったから? だから、学校に来ないの?」
 一番言われたくなかったことを、あっさりと言われた。
 そうだ。もう、じいちゃんはこの世にはいない。俺の大好きだったじいちゃんは、もう死んでしまった──俺の、せいで。
 胸が締め付けられるような痛みに、顔を歪ませた──その時。
「バッカじゃないのっ」
 パン、と頬を叩かれた。驚いて手を頬に当てる。叩いた本人である怜香は、俺のことを睨み付けていた。
「カズ爺はそこにいるのに、カズのことが心配で、ずっとあんたの傍にいるのに、気付かないで〝いなくなった〟とか、ふざけてる」
 俺の後ろを指差して、怜香は言った。その言葉に、俺は目を見開く。
「……いるのか?」
 すーっと、頬を熱い滴が伝った。
「じいちゃん、ここにいるのか? 俺の傍に、いてくれるのか──?」
 涙が次々と溢れ落ちる。じいちゃんが死んでからずっと、心が凍り付いたように泣けなかったのに、今はもう恥も外聞もなく、俺は啜り泣いていた。
 じいちゃんが俺のせいで死んでから、ずっとじいちゃんに恨まれているのではないかと思って怖かった。何より、誰よりも大好きだったじいちゃんが俺の(ここ)にいないことが、ずっと心細かった。
 だから、何よりも怜香のその言葉が嬉しかった。たとえそれが慰めだったとしても、それでもよかったけど、俺は彼女が決して嘘をつかないことをよく知っていた。
 俺には見えない、けれどそこにいるという誰よりも大切な人。
 その人のためなら、俺はもう一度立ち上がれる気がした。この暗い部屋から、一歩踏み出せる気がした。
「ありがとう、じいちゃん。俺、じいちゃんに助けてもらった命、ちゃんと生きる。じいちゃんに恥ずかしくないように、精一杯生きるから。だから、もう心配しなくていいよ」
 傍にいるというじいちゃんにわかるように、俺は精一杯笑った。涙で顔はぐちゃぐちゃだったけれど、それでも必死に笑った。だって、俺のせいで死んだじいちゃんを、これ以上俺のせいで不安にさせるわけにはいかないから。
 そんな俺に、怜香は何か思う所があったのか、少し顔を顰めた。そして、ふいとそっぽを向く。
「その笑顔、やめなよ」
「え……」
 唐突な言葉に、目を白黒させていると、怜香は「気持ち悪いから」と追い打ちをかけるように言った。突然の罵倒に内心傷付いていると、怜香は続けて言った。
「……〝ワシが死んだのは一樹のせいじゃないから、気にするな〟ってさ。──それは、私もそう思う。カズのせいなんかじゃない。カズは、悪くない」
 だから、無理に笑うの、もうやめな。
 ぶっきらぼうに告げられた伝言と、付け足された言葉。さっきからの言葉は、これを言いたかったがためだったのだと気が付いた。
 瞬間、必死に作っていた笑顔が崩れた。堪らずに片手で顔を覆う。酷い、とても酷い顔をしている自覚があった。嗚咽が止まらない。
 ああ、俺は。
 ──じいちゃんが死んだのは俺のせいじゃないって、ずっと誰かに言ってほしかったんだ。
 勿論、自分のせいじゃないなんて、そんなことはないこともわかってる。誰がなんと言おうとも、結局はじいちゃんは俺のせいで死んだのだから。
 それでも、〝俺のせいじゃない〟と言ってくれる誰かが居るのなら、俺は生きていてもいいのだと、そう自分のことを少しは赦せる気がしたんだ。
「あり、がとう、怜香……。本当に、ありがとう──」
 もう、顔を上げていられなかった。怜香に情けない泣き顔を見られないように下を向く。声を詰まらせながら、俺は縋るように怜香の服の袖口を掴んでそう言った。
 怜香は袖を掴まれたことに戸惑った様子だったが、おずおずと俺の頭を撫でた。
 その小さな手の温もりが、どれだけあの時の俺を救ってくれていたか、きっと怜香は知らないだろう。
 怜香は、俺が手を離すまでの間、ずっと黙って傍にいてくれた。
 ──それが、俺にとって、怜香が〝特別な友達〟に変わった瞬間だった。