* * *
──あれは、六月二日。
梅雨で雨の日が続いていた中、珍しくよく晴れた日のことだった。
それは、突然だった。本当に、何の前触れもなく、それは起こったのだ。
「昨日、隣のクラスの西村茜さんが、車に撥ねられて亡くなりました」
最初は、その言葉の意味を、理解することができなかった。
──嘘だろう、そんなはず、ない。
朝のHRで担任が告げた言葉に、私は、愚かにもそう思ったのだ。
だって、昨日の帰りも、私は茜に逢っていた。昨日、いつも通りの能天気で「バイバイ」と手を振った茜を、私は見ていたのに。
なのに、茜が死んだなんて有り得ない、と、そう思ってしまっていた。
あんなにも死んだはずの人間を、霊を見てきた癖に、茜が死ぬなんて有り得ないと、そう信じ込んでしまっていたのだ。
気付くと、私は立ち上がっていた。
「先生、ちょっと体調が悪いので帰ります」
そんな嘘を吐いて、教室を飛び出す。「おい、小松⁉」と担任が引き留めるように叫んだけれど、そんなものは無視した。
確かめたかった。本当に茜が死んだのかどうか。あの子が、もう存在していないのかどうか。
信じられない気持ちで、階段を駆け上がる。いるならば、屋上だと思った。茜は、青空が好きだったから。こんな天気の良い、青く澄んだ晴れの日には、屋上にいるに違いないと思った。
屋上の扉の前、立ち止まった私は息を整えた。本来なら開かない扉。それを何度開けて、何度ここで過ごしただろう。だから、私は知っている。この扉の開け方を。
かつて、彼女が教えてくれた擬音で塗れたコツを使って、その扉を開け放った。
風が、流れ込んでくる。その強さに、思わず顔を庇うように腕を翳した。目を、開けていられない。髪が風に舞い上げられて、視界を遮る。それでも私は、屋上へと一歩踏み出した。
バタン、と屋上の扉が閉じて、吹き付けていた風が止んだ。翳していた腕を下ろし、閉じていた目を開く。そして──。
「おはよう、レイ。逢いに来てくれたのは嬉しいけど、サボりは駄目だよ?」
視界に飛び込んできたのは、真っ白な夏用のセーラー服の背中。見慣れたツインテールが、緩やかな風に靡く。
背中を向けたままで、彼女はいつも通りの調子でそう言った。
──その背中には、『49』という半透明の数字が浮かび上がっていた。
「……茜」
彼女が死んだのだと、はっきりとわかった。それでも私は、彼女が死んだことにショックを受けるのではなく、彼女がまだこの世に存在していることに、成仏せずにいることに、安堵、してしまっていた。
「レイ、私、死んじゃった。死ぬって、幽霊って、こんな感じなんだね。何だか、全然実感わかないや」
振り返った茜は、ふわりと笑う。痛々しいその笑みは、何かを我慢しているようで。
きっと、彼女は泣いたんだと思う。私とは違って、人間らしい感情をちゃんと持っていたから。死んでから、一晩中泣いて、泣いて、泣いて。そうして泣き明かして、それでも青空の下で笑って見せる。私の前では、決して泣かない。笑っていようとする、そんな子だから。
「私、成仏しなきゃいけないんだろうな」
……だから、その言葉に、衝撃を受けた。きっとそんな茜なら、死んだって変わらずに笑ってくれる。私の隣で、ずっと笑っていてくれる。そう、身勝手にも思い込んでしまっていたから。
「……待ってよ」
茜のことを思えば、「そうだよ」って肯定して、成仏を促した方がいい。そんなこと、わかっているのに。
「レイ、どうしたの?」
困惑したような茜の声に、私は顔を俯かせる。
「茜、あんた、私のこと置いてくの?」
零れ落ちたそんな言葉に、思わずぞっとした。なんて独りよがりで、自分勝手な言葉なんだろう。死んで辛いのは、茜の方なのに。
「置いてくって、そんなつもり」
「ふざけないでよっ‼」
弁解しようとした茜の言葉を遮って、私は叫んでいた。
「そんな簡単に成仏なんてしないでよ! さっさといなくならないでよ! 私のこと置き去りにして、勝手に逝かないでよ!」
……私を、
「──独りぼっちに、しないでよ……」
すうっと、頬を生温い雫が伝っていく。口の中に流れ込んだ塩気に、その雫が涙だということに気付いた。
私は、泣いていたのだ。
涙が、溢れて止まらない。ぐちゃぐちゃの顔で、頭だけは冷静に考える。
ああ、なんて醜いんだ。
初めて、人が死んで泣いた。やっと、人間らしい感情を持てた。なのに、それが、友達を不幸に縛り付けるものだなんて、なんて皮肉だろうか。
自分の卑怯さに、絶望する。私は、何でこんなにも、最低なんだろう。
こんな汚い私は、もう茜の友達じゃいられない。こんな私は、見捨てていい。
そう、思ったのに。
──目の前に、白いセーラー服が広がっていた。触れない身体で、温度のないその腕で、形だけでも茜は私を抱き締めていた。
「わかったよ、レイ。大丈夫。私はレイを独りぼっちにしない。ずっと傍に、いてあげるから」
だから、泣かないで、レイ。
優しい、優しい声が、耳を擽る。
そうだ。優しい、優しすぎるほどの彼女は、その甘ったるい優しさで、私の傲慢を許す。
〝さよなら〟を言いたくないと、駄々を捏ねる私を許す。
正しいのは、そんな茜を手放してあげることだ。彼女の優しさに甘えて、彼女に縋り付くなんて、そんなのはきっと罪だ。
そんなこと、わかっていた。ちゃんと、わかっていたのに。
──それでも私は、彼女を手放せなかった。罪人でいいから、茜の傍にいたい。そう思ってしまったから。
だから私は、〝さよなら〟を言わないことを選んだ。それがどんな結末を生もうとも、私は私の身勝手を貫く。茜に抱き締められながら、止まらない涙の中で、そう誓った。
──それがあの日の、私の犯した罪だ。