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倉橋由利香が成仏した、その後。
夕闇が迫る中で、小久保一樹は黙りこくっていた。俯いた彼の瞳に映っているのは、乾いたアスファルトだろうか、それとも、消えていった倉橋由利香の残像だろうか。
──まさか、小久保一樹と倉橋由利香が知り合いだったとは思わなかった。でも、知り合いであったのならば、時々あった倉橋由利香の不自然な言動も説明がつく。
倉橋由利香が成仏できたのは、デート相手が小久保一樹だったからだ。彼女が正体を明かしたのは、〝火事場の馬鹿力〟が最期に作用した不可抗力で、倉橋由利香自身も想定外だったのだろう。彼女の最期の表情を思い出す限り、小久保一樹とのデートは本来の未練ではなく、倉橋由利香が倉橋由利香として小久保一樹と再会することこそが、彼女の本当の未練だったのだろう。……まあ、本当のことは、もう誰にも分らないけれど。
「……なあ、怜香」
長い長い沈黙を破り、小久保一樹が呻くように名前を呼んだ。
「俺、あの子に何にもしてやれなかった。元気になったら一緒に遊ぼうなんて無責任な約束なんてした癖に、彼女があの子だってことに最後の最期まで気付けなかった。きっと、あの子を傷付けた。──俺、最低だ」
小久保一樹はぐっと掌を握り込んだ。爪が食い込むほど、強く、強く。懺悔のようなその告白に、私は返す言葉を探した。でも、こういう時に何を言えばいいのか、私にはさっぱりわからなかった。
「小久保君……」
茜が心配そうな声で呟き、カズ爺も眉を下げて自分の孫を見つめた。
「……別に、最低とか思わなくてもいいんじゃないの」
気付けば、そんな言葉が零れ落ちていた。
「倉橋由利香は未練がなくなったから成仏したんだよ。それは、間違いなくあんたがデートをしたからでしょ。できなかったことを悔やむより、してあげれたことを数える方が、よっぽど建設的だと私は思うけどね」
ぼそりと、素っ気なく言葉が口をついて出た。自分がなぜそんなことを言ったのか、理由もわからないまま。
小久保一樹は驚いたようにこちらを見て、その後、握り込んでいた拳をふっと緩めた。そして少しだけ微笑む。
「──ありがとな」
まだ無理はしているだろう。それでも少しは明るくなった小久保一樹の顔に、私は安堵して──安堵、して?
ギリ、と胸に締め付けられるような痛みを感じる。頭が、痛い。身体が、鉛のように重いことに、今さら気付いた。そして、何よりも。
何で自分があんなことを言ったのかが、わかってしまった。
──小久保一樹のことを、まるで友達のように心配していた自分に気付いてしまった。
ぐらり、と身体が傾ぐ。
「怜香⁉」
「レイ‼」
──気付きたく、なかったのに。
微かに聴こえる茜と小久保一樹の声を最後に、私の意識は闇に途絶えた。