*      *       *

 夕暮れが嫌いになったのは、病院のベッドで、外から楽しそうな声が聴こえるようになってから。
 下校時間になって、自分と同じくらいの歳の子たちが友達とはしゃぎながら帰っていく、その声が、酷く耳障りだった。
 あたしだって、あそこにいたはずだった。友達は多い方だったし、顔も可愛い方だし、クラスでは上位カーストの方だった自覚がある。
 でも、今は、一人ぼっちだ。
 中学生になったばかりの頃、あたしはいろんなことを夢見ていた。いや、夢見ていたんじゃない、当たり前だと、そう思っていたのだ。
 当たり前に学校に行って、当たり前に勉強して、部活をして、恋をして、彼氏が出来て、充実した中学生ライフを送る。そんな未来が当然にあるものだと、思い込んでしまっていた。
 ──だけど、中学一年の夏、それが全て幻想だったのだと思い知った。
 病気になった。治すには、臓器移植が必要だった。学校に行けなくなって、最初は見舞いに来てくれていた友達も段々来てくれなくなった。いつ死んでしまうかわからない恐怖の中で、ひたすら孤独に、手術ができることだけを願っていた。
 だけどそれも、一年がたって、あたしは願うことをやめた。やめるしか、なかった。あたしは、きっともう助からない。手術できずに死んでいく。そう、生きることを諦めたのだ。
 だって、もう、何も生きる意味が見出だせなかった。両親は治療費と手術代のために昼も夜もなく懸命に働いている。あたしのせいで、だ。友達は、一人も見舞いに来なくなった。もうあたしのことなんか覚えていないのかもしれない。それに、一年生の後半、一度も登校できないまま、二年生になってしまった。今学校に戻っても、あたしはクラスに馴染めないだろう。
 一日一日が過ぎる度、どんどんあたしが生きる意味がなくなって、どんどんあたしが死んだ方がいい理由ばかり増えていく。そうしてあたしは、希望を見つけられなくなっていた。
 ──そんな、ある日だった。
 病院内を適当に彷徨っていた時、声をかけられたのだ。「大丈夫?」と。
 声をかけてきたのは、あたしよりも二つか三つほど歳上の男の人だった。近くにある高校の制服を着ていて、小麦色の肌と、整った顔立ちが印象的だった。
「何がですか?」
「いや……なんだか君、苦しそうだったから。何か抱え込んでるなら、話してみてよ。俺じゃ頼りないかもだけど、少しはすっきりすると思うしさ」
 普段なら、何なのよ、この変な人、と思ってしまうのに、素直にその言葉を受け取れたのは、あまりにも彼の瞳が誠実そうで、あたしを本当に心配しているように見えたからだろうか。
 気付くと、あたしはその彼に洗いざらい話していた。病気になったこと。臓器提供を受けなければ助からないこと。手術できる見込みもなく、両親にお金の負担ばかりかけてしまうこと。友達がいなくなったこと。生きる理由がわからなくなったこと。
「……今は、もう死んじゃってもいいかなって思います。やりたいこともたくさんあった気がするけど、できそうにないし、もうどうでもいいかなって。むしろ死んだらこんな辛い思いしなくて済むし、両親の負担にもならなくて済むから」
「──そんなの、嘘だろ?」
「は? 嘘なわけ……」
「じゃあどうして、そんなに泣きそうな顔してるんだよ。なんで、自分の感情を押し殺したみたいな笑い方するんだよ」
 え、と自分の顔に手を当てる。──あたしは、そんな顔をしていたのか。
「……俺の幼馴染にも、そういう奴がいるんだ。本当はいろいろ思ってるくせに、無理して感情を殺しちまう奴。辛くないって言い張って、大丈夫なふりをしてた奴。今の君は、そいつによく似てるよ」
 そう言って、彼は悲しそうに笑った。その幼馴染のことを思い出しているのかもしれない。
「だから君は、もっと本音を言っていいんだ。心の底からの願いを、隠さなくたっていいんだ」
 ……どうしてだろう、その言葉に、ずっと固まってしまっていた気持ちが溶かされたような気がした。
「……本当は」
 口から零れ落ちた、その言葉を皮切りに、ぼろぼろと本音が零れ出した。
「本当は、学校に行きたかった。部活だってしたかったし、球技大会とか、期末テストとかも受けてみたかった。友達とカラオケ行ったり、甘酸っぱい恋をしたり、青春したり、してみたかった。修学旅行だって行きたかったし、彼氏と遊園地デートもしてみたかった。……だけど、叶わないじゃん。もう無理だって、わかってるもん」
 わかってる、そんなことはわかってるんだ。でも。
 ──あたしだって、生きていたいよ。
 諦めたはずの本音が、心の底から零れ落ちた。
 嗚咽が漏れる。もう枯れているものだと思っていた涙も、まだまだ干上がってはいなかったようだ。
「でも、もうそんなのも全部ムダなの。だってあたし、友達いなくなっちゃったもん」
 ……そうだ、もしも奇跡的に手術が受けられたとして、病気が治って、退院できたとしても。
 ──あたしはもう、一人ぼっちだ。
 一年の頃の半年も一緒に過ごさなかった友達は、初めの頃はお見舞いに来てくれたけど、一ヶ月もすれば連絡一つ寄越さなくなった。
 二年生に上がってからは一回も登校していない。もう様子見もとっくに済んで、仲良しグループができあがっているだろう。そりゃあ、気を遣って話しかけてくれる子もいるだろうけど、同情でグループに入れてもらうなんて、あたしは嫌だった。
 あたしの居場所は、もうないのだ。
「だから、もういいやって。希望もなくなって、期待もしなくなった。生きたいって、思わなくなった」
 自嘲するように、あたしは笑った。
 ──その時。
「……だったら」
 ずっと黙って話を聴いていた彼が、口を開いた。真っ直ぐな眼差しが、私を射抜く。
「──俺が君の友達になるよ」
「……………………は?」
 予想の斜め上を行く意味不明な発言に、思わず声が漏れた。
「君の病気が治って、退院できたら、君のやりたかったこと全部、俺と一緒にやろう。カラオケも、遊園地も、なんだって付き合うからさ」
 バカみたい、と口の中で呟く。
「……それ、友達の押し売りじゃない。大体、何をどうしたらそんな発想になるのよ」
「だって、友達とやりたかったことができるって思えば、少しは生きる意味になるんじゃないかって思って……」
 彼は気まずそうに頭を掻いた。「やっぱ、俺なんかじゃ嫌だよな、ごめんな」と謝ってくる。そんな彼に、
「……そんなの、どうやって信じろって言うのよ」
 あたしは、情けなくもしがみついていた。彼の制服の袖を掴んで。
「友達も、皆、皆言ってたの。〝治ったら一緒に遊びに行こうね〟って。でも、皆来なくなっちゃった。メッセージも返ってこないの。仲良くしてた友達ですらそんななのに、なんで名前も知らないあんたみたいな人のこと信じられるっていうの⁉」
 それは、悲鳴に近い叫びだった。あたしはその時、確かな証拠がほしくて仕方なかったんだ。生にしがみつこうと思えるくらいの、確かな希望が欲しかったんだ。
 その叫びに圧倒されたのか、彼は黙って、しばらく沈黙の時間が続いた。
 流石に面倒臭い奴だと思われたかもしれない。生意気なことを言いながら、それとは裏腹に、彼の制服の袖に縋ってしまっているこの手を振り払われるかもしれない。嫌な想像だけが頭を支配していた。
「……ちょっと、ごめん」
 優しく、袖を掴んでいた手を引き剥がされる。──ああ、やっぱりか。そう落胆したけれど。
「……え?」
 足早にこの場を立ち去るのかと思いきや、彼はその場に留まった。そして、腕に持っていた鞄の中からペンケースとノートを取り出す。何をしようとしているのかさっぱりわからず、きょとんとしていると、彼はノートをビリッと豪快に破き、取り出したシャープペンシルでサラサラと何事かを書き記していく。
「はい、これあげる」
「──これって」
 書き終わると同時に押し付けられた紙片を広げると、そこには、〝小久保一樹〟という名前と、十一桁の数字が記されていた。
「俺の名前と、電話番号。これで、名前も知らない奴じゃなくなっただろ?」
 ──だから、俺と君はもう友達だ。そうおどけて言った彼に、私は目を見開く。
「君が話を聴いてほしい時や、辛くなった時、暇な時でもいい。一人ぼっちだって思ったら、いつでも電話してほしい。俺じゃ嫌かもしれないけど、話し相手くらいにはなれるからさ。──それで、君の病気が治ったら、やりたいことを一緒にやろう」
 バカだ。きっと、この人はバカだ。こんな面倒臭いあたし相手に個人情報を渡しちゃったりして、いつでも電話していいなんて言っちゃって、そして、叶わないだろう未来の約束をした。まるで叶うことを信じているように、当然のように治った未来の約束を口にした。
 普通だったら、こんな都合のいい話なんてない。大抵は口約束だけで、電話だって出ないし、やりたいことを一緒にやることなんてないだろう。
 ──それでも、この人は、嘘なんてついてないんだろうと思った。電話をかければ出てくれるし、退院できたら、それこそ本当にやりたかったことを一緒にやってくれるんだろう。まるで、本当の友達のように。
「……じゃあ、いつでも電話してきていいから。メッセージでもいいし。──君が元気になったら、遊園地にでも遊びに行こう」
 彼は笑って、その場を後にした。その背中を、あたしは目に焼き付けた。
「……遊園地、か」
 手の中にある紙の欠片を、宝物のようにそっと握る。いつの間にか涙は止まって、口許が弛んでいた。
 ──失くしかけていた生きる意味を、手に入れた気がした。

*      *       *

 彼のくれた約束は、あたしの生きる理由になった。
 看護士さんに、「なんだかご機嫌ね。何かいいことでもあった?」と勘づかれてしまうくらいにはあたしは彼との出逢いに浮かれていたのだ。
 ああ、いつこの電話番号に掛けてみようか。でも、すぐに掛けてしまったら、彼の思う壺みたいで癪だしな。
 そんなことを考えては、もらったノートの切れ端を眺めた。それこそ、電話番号を暗記してしまうくらいには。
 ──彼との出逢いは、あたしにとって、初めての恋だったのだ。ほんの一瞬、一度しか逢っていない癖にと言われればそれまでだが、それはあたしにとって、確かに初恋だったのだ。
 ……だけど。
 結局、彼の電話番号に掛けることは、一度もなかった。
 ──彼と逢った三日後、容態が急変し、あたしは死んでしまったから。

*      *       *

 幽霊になって真っ先にあたしがしたのは、彼を捜すことだった。
なぜか。
 ──未練が、あったからだ。彼に関する未練が、あたしを成仏することから遠ざけていた。
 幸い通っている高校は制服から割れていたから、三日も高校を張っていれば見つけることができた。
 だけど。
「……そりゃ、そうよね」
 ──幽霊になってしまったあたしの声が、彼に届くはずもなく。未練を果たすことのできないまま、あたしはただ高校の近くを彷徨っていた。
 諦めて、成仏した方がいいのかもしれない。そんな風にも思ったけれど、どうしても踏ん切りがつかなくて諦めきれずにいた。
 ──そんなある日、あたしと同じように背中に半透明の数字を浮かべた少女と並んで歩く女子高生を見つけた。その挙動から、彼女が幽霊が見える人間なのだとわかって、すぐにあたしは行動に移した。
『あんたが言うこと聞いてくれないなら、あんたとあんたの近くにいる人間、全員呪ってやるわよ』
 全くの嘘っぱちだったけれど、そんな脅しまで使っても、叶えたかった未練があった。
 たまたま彼女──小松怜香と彼が知り合いで、デートするところまで漕ぎ着けられたのはとても運が良かった。
 初めてのデートを、初恋の人とできる。なんて幸せなんだろうと、そう思った。お洒落のおの字もないような、女子力ゼロの小松怜香(身体)にならなければいけないのは不服だったが、それでも目一杯可愛い服装をして、メイクをして、一度きりのデートに臨んだのだ。
 幸せだった。何もできずに死んでいたはずなのに、好きな人と再会できて、もう一度言葉を交わせて、デートまですることができて。……確かに幸せだった、はずなのに。
 ──人って、どうしてこうも欲張りなんだろう。
 一つ願いが叶えば、もっと、と望んでしまう。もっとこの人と一緒にいたい、もっと彼といろんなことをしたい、──彼に、あたしのことを好きになって欲しい。
 それが無理だということは、再会してすぐにわかった。
 ──彼の瞳が誰を追っているのか、どれだけその人を大切に想っているのか、鈍感でないあたしは気付いてしまったから。
「……あたしの方がよっぽど可愛いのに、見る目ないなぁ」
 そんな負け惜しみを口にして、胸に巣食うやるせなさを誤魔化した。
 デートが終わる前に、彼の答えがわかっていながらもあんなことを聞いたのも、段々と生きることを諦めきれなくなっていたからだ。
 だけど、彼の答えは予想通りで、──あたしは、ようやく諦めがついた。
 たとえ見た目が小松怜香(彼の好きな人)だったとしても、彼はそんなもので相手を好きになったりしない。身体が同じでも、中身が小松怜香(彼の想い人)じゃないと意味ないんだって。
「……あーあ、終わっちゃうなぁ」
 もうすぐ観覧車は一周して、この身体も手放さなければならない。
「──本当に、好き、だったのになぁ」
一樹さんに聴こえないように、ぼそりと呟く。
 やってみたかったことはたくさんある。
 ──でも、失恋の痛みは知りたくなかったな、と終わりの近付く観覧車の中で思った。