*      *       *

「じゃあ、行きましょうか」
「じゃ、ここからは別行動ってことで」という黒髪の少女──借りている身体の持ち主(小松怜香)の言葉を合図に、私は小久保一樹(デート相手)にそう呼び掛けた。
「ああ、そうだな。どこから行きたい、ええと、倉橋さん?」
 どう呼ぼうか悩んで、少しの躊躇いと共に告げられた自分の名字に、あたしはくすりと笑った。
「由利香、でいいですよ。あたしも一樹さんって呼ぶんで」
「そうか。──じゃあ、由利香ちゃん」
 優しい声音で呼ばれた名前が少し擽ったくて、胸が高鳴った。
「あたし、ジェットコースターに乗りたいです」
「わかった。じゃあ、行こうか」
「あっ、ちょっと待ってください」
 あたしは恐る恐る彼に手を差し出す。
「──手、繋いでもいいですか?」
「……えっ」
 一樹さんは戸惑ったように声を上げた。
「あたし、高校生になる前に死んじゃったから、彼氏の一人もできなくて、男の人と手を繋ぐこともなかったんです。だから、デートしてくれるなら、その間、手を繋いでほしいなーっ、て」
 ダメですか、と駄目押しのように涙目になって言うと、一樹さんはうっ、と言葉に詰まった。
「……初めてが俺で申し訳ないけど、それでもいいなら」
 一樹さんはそう言ってそっとあたし──身体は小松怜香のものだが──の手を握った。
 久しぶりに感じた温もりと、父親くらいでしか味わったことのなかった男の人の大きな手。その感触に胸がドキドキと高鳴った。
 でも、その握り方は恋人繋ぎなどではなく、まるで兄が妹の手を引くような、幼稚なもので、こんなにイケメンなのに、本当に女の子の扱いに慣れていないのだな、と思う。
 ──そして、それが恋人繋ぎではないことが、少しだけ残念だった。

*      *       *

「あーっ、楽しかった!」
「俺はヘトヘトだけどね……。由利香ちゃんは絶叫とか平気なんだな。お化け屋敷はあんなに怖がってたのに」
 ジェットコースターを乗り継ぎ、途中でクレープとかも買い食いし、ついでにお化け屋敷まで回ったあたしたちは、いい感じに遊園地を満喫していた。
「ジェットコースターは楽しいじゃないですか。でも、お化け屋敷は女の子は怖いんです」
 いけしゃあしゃあとそう言ってみせるが、嘘である。元々心霊ものは得意だったし、人が作った人工的なお化けなんてどこが怖いのかと冷めた目で見たこともある。
でもそこは、女子として怖がらなきゃダメだろう。何てったってお化け屋敷なんて絶好の男女のイチャイチャポイントだ。ここで可愛い子ぶらないでいつ可愛い子ぶるのだ、と言わんばかりにキャーキャー悲鳴を上げ、役得と思いながら腕にしがみついた。結果、人のいい一樹さんは見事に騙され、「大丈夫、怖くないよ」と優しく導いてくれたのだが。
「でも、一樹さんはジェットコースターは苦手なのにお化け屋敷は平気なんですね」
「あはは……。絶叫系はちょっと、戦う術がないというか……。お化け屋敷はさ、平気なんだよ。なんせ、昔から幽霊を平然と見てた奴が近くにいたからな」
 そう可笑しそうに言う彼に、チクリと胸が痛んだ。
 ──この人にとって、小松怜香はきっと特別な存在なのだろう。彼の瞳は、そう思わせるような優しい眼差しをしていた。
「……あの、最後に一つだけいいですか」
 少しだけ、痛んだ胸に気付かないふりをして、あたしは一樹さんに言う。
「観覧車、一緒に乗ってくれませんか」
 夕暮れの迫る空の下、最後のお願いだった。

*      *       *

 夕暮れは、嫌いだった。
 昔から嫌いだったわけじゃない。でも、ある時を境に好きじゃなくなった。夕日を見るのも嫌になって、カーテンを閉め切ったこともあった。
 でも今は、そんな夕暮れが美しく思える。観覧車の中、夕日に照らされて橙に染まった彼の整った横顔に、あたしは見惚れていた。
 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
 そんなこと、土台無理な話だが、そう思ってしまうくらいには、この時間が終わってほしくなかった。
「……あの」
「どうかしたか?」
 外の景色を見ていた一樹さんがこちらを向く。
「──キス、してもいいですか」
「…………………は」
 突然の言葉に、一樹さんはぎょっとしたように目を見開いた。十秒、二十秒、三十秒。重い沈黙の後に、彼は口を開いた。
「……ごめん、それはできない」
 突き放すでもなく、茶化すでもなく、真剣な瞳が、あたしを真っ直ぐに捉える。
「由利香ちゃんがそういうことをしてみたかったってのはわかる。成仏しなきゃいけないんだったら、誰でもいいから最期にやってみたいっていう気持ちも、否定する気はないんだ。……だけど」
 彼は、泣きそうに顔を歪める。まるで自分が悪いとでも言うような表情だった。
「──そういうのは、本当に好きな人にしかしちゃいけないと思う」
 君の好きな人じゃない、こんな間に合わせのデート相手でごめんな。
 彼が落とした申し訳なさそうなその言葉に、「……本当、鈍感なんだから」と心の中だけでぼやいた。
「──冗談ですよ。からかってみただけです。それにあたし、負け試合って嫌いなんですよね」
「負け試合?」
「だって一樹さん、この人のこと好きなんでしょ?」
「はっ⁉」
 ぐい、と親指であたしの身体(小松怜香)を指し示すと、彼は一気に狼狽えて顔を赤く染め上げた。
「そっ、そんなんじゃ……」
「隠しても無駄ですよ。バレバレですもん」
 あっけらかんと言うと、彼は誤魔化せないと悟ったのか片手で顔を覆った。
「……別に、好きとか、そういうんじゃないんだ。ただ、怜香はずっと昔から友達で、危なっかしいし、心配だったし、またいつか昔みたいに話せたらいいなって、そう思ってただけなんだ」
 言い訳のようなその言葉に、「それを好きって言うんだよ」と心の中で突っ込む。……まあでも、あの女子力ゼロハイパー鈍感女には、一ミリも気持ちは伝わっていないと思うが。
「まあ、せいぜい頑張って下さい。正直、女のセンスはどうかと思いますけど」
「由利香ちゃん、結構毒舌だな……」
 へへっと笑って、あたしは景色を見るふりをして横を向く。気が付かれないように必死に瞬きをして、浮かんでくる涙を散らした。
 天辺まで来た二人きりの箱が、ゆっくりと終わりに向かって降下し出す。
 夕日が、ゆっくりと沈んで──あたしの苦い初恋が、そっと終わりを迎えた。