* * *
生きている意味なんて、わからなかった。
生まれてからずっと、糞みたいな人生を送ってきた。
両親は仮面夫婦で、二人の間に愛なんてなかった。じゃあ、そんな二人の間に生まれた子供はどうなる。愛のない二人の愛のない行為で産まれたオレは、きっと、産まれ落ちたその瞬間から、〝間違い〟のような存在だった。
もしもオレが優秀だったら。時折そう考えた。何か才能を持って生まれたとしたら。
きっとあの父と母は、オレのことを見てくれただろう。なんて優秀で自慢の息子なんだろうと、仮初めだったとしても褒め称えただろう。張りぼてだったとしても、オレに愛をくれただろう。そしてそれが、たとえ偽物だったとしても、オレの生きる意味になっただろう。
でも、そんなことはなかった。頭もよくない、運動もできない、何の才能もないオレには、彼らは見向きもしなかった。失敗作のオレは、生まれた意味も、生きている意味もわからないまま、ただただ惰性で生を貪っていただけだった。
大学入試に落ちたオレは、両親から遂に勘当された。失敗してしまったオレは、出来の悪い息子から、完全なる彼らの汚点に成り下がり、彼らの子供として生きることを許されなかった。もう二度と帰ってくるな、この恥さらし。そう罵られ、着の身着のままで家を追い出されたあの日、オレは心の底からこの世に生まれてきたことを後悔したのだ。
その後は、生きていくために必死だった。別に生きる意味なんて何一つ持ち合わせていなかった。それどころか、友達も、恋人も、好きな女すらいない。ないもの尽くしの人生だった。オレという人間は、多分、空っぽだった。それでも、生存本能が死ぬことを良しとしなかったがために、オレは必死に働いて、どうにかこうにかギリギリ生きていけるだけの金を稼いだ。
でも、すぐにクビになる。オレは才能がないどころか、人よりも数段要領が悪かった。折角受かったバイト先もへまを犯してすぐにクビになった。何をしても、どこに行ってもその繰り返し。遂には定職には就けず、オレは立派なフリーターとなっていた。
クビだと言われる度に、お前は不要なのだと、この世界に必要のない人間なのだと言われているような気がした。お前が生きている価値なんてないのだと、そう言われているような気がした。
結局オレは生まれてから死ぬまで、ずっと間違い続けたのだろう。正解なんて一つも選べないまま、〝間違い〟のままで死んでいった。
でなければ、酔っ払ったまま酒を買いに行こうとして、その足を滑らせて階段から落ちた、なんていう、自分でも嘲笑っちまうような間抜けな死に方なんてしない筈だ。
死んで幽霊になった後も、自分が生きていないことを何一つ悲しく思わないまま、『未練なんてない』とあっさりと言えてしまうような、そんな糞みたいな人生にはならなかった筈だ。
オレは、〝間違い〟として産まれて、〝間違い〟のままで死んでいった。生きている意味も、生きる価値もわからないままで、ただ呆気なく死んでいった。そういう、人生だった。
* * *
その光景が目に入った時、咄嗟に身体が動いていた。
別に、正義感の強い人間だったわけでも、優しい人間だったわけでもない。だから、見知らぬ子供が死のうが、どうでもいい筈だった。……筈だった、だけど。
それでも、無意識にオレの身体は動いていた。届いた所で触れられない相手を助けられる筈もないのに、そんなことはすっかりと頭の中からすっぽ抜けていた。尋常じゃないスピードで道路に飛び出し、ガキの方へと向かっていく。どう考えても間に合わない距離が一気に縮まり、トラックと子供が、目の前に現れる。
(届け──)
ただ、それだけを考えていた。
──気付けば、触れられない筈のその子供の身体を腕の中に抱え込み、そのまま歩道に身体を投げ出していた。子供を抱えたままコンクリートの歩道を転がり、勢いのあまり向かいの店の壁に背中を打ち付ける。痛みに息が詰まり、身体を強張らせた。が、死んだ時に比べればこれくらいどうってことない、と心の中で一人強がっていると、腕の中の身体がモゾモゾと動いた。慌てて力を緩め、中の子供の状態を確かめる。
「おい、大丈夫か⁉」
子供がこくり、と頷くのを見て、オレはようやく起き上がった。赤信号が青に変わり、黒髪の少女が慌ててこちらに向かってくるのが見えた。
くい、と服の裾を引っ張られ、視線を子供の方に戻すと、無邪気な二つの目がこちらを見上げていた。
「ねえ、おじさん」
無邪気な瞳のまま繰り出されたその呼び方に、思わず顔を顰める。
「おじさんはねーよ、せめてお兄さんにしろよ……」
いくら童顔ではないとは言え、オレはまだ二十五だ。このくらいのガキからしたら十分おじさんなのかもしれないが、その呼び方はやめてほしい。
「じゃあ、おにーさん」
素直な子供はすぐに呼び方を改めた。今時の子供はこんなにも純粋なのか、と自分の幼い頃と照らし合わせながら考える。
「おにーさん、ぼくのこと、たすけてくれてありがとう!」
──そう言われた瞬間、オレは息を呑んだ。
ずっとずっと空っぽだったオレの中に、歪なピースがカチリと填まった気がしたのだ。
「おにーさん?」
声をかけられてはっとする。危うく滲みそうになっていた涙を堪え、オレはにっと笑った。
「お前も、もう危ない真似するんじゃねーぞ。あと……ありがと、な」
お礼を言われたことに、子供は不思議そうに首を傾げた。
「なんで、ありがとう?」
「ま、細かいことは気にすんな。ボール遊びは安全な場所でしろよ。──じゃあな」
ざざーっと、一陣の風がオレたちの間に吹き付けた。子供が瞬きをした、次の瞬間。
「あれ……? おにーさん?」
──子供の視界から、オレは消えていた。
それを確認すると、オレは子供に背を向けた。刹那、オレを待ち構えるように立っていた黒髪の少女と視線が交わる。
「……あんた、自分のこと『死ぬほど格好悪い』って言ってたけど、そんなことない。さっきのあんたは、凄く格好よかった」
真顔でそんなことを言ってくるもんだから吹き出しそうになったけど、どこか擽ったいようなそんな感覚が胸に満ちた。──嬉しいのだ、と一呼吸遅れて気付く。
「オレ、未練なんてないって言ったけどさ、本当はあったのかもしれない。ずっとずっと、オレは何のために生まれてきたんだろうって、そう思ってた。オレの人生に、何の価値があるんだろうって」
生きている意味なんて、わからなかった。
自分の生まれてきた理由が、ずっとわからなかった。
「でもさ、さっきあのガキを助けて、『ありがとう』って言われてさ、オレ、やっと生まれてきた意味がわかった気がしたんだ」
──あの子を、助けられた。それだけでも、オレの人生に価値はあったんじゃないかって、そう思えた。
死んでから自分が生きていた意味を見つけるなんて、何だかおかしな話だけど、オレにとっては十分すぎるくらいの解答だった。
ああ、オレは。
──最後の最期に、〝正解〟を掴み取れたんだ。
真っ白な光が、オレの身体を包んでいく。
「……いくんだね」
そう呟いた少女の声が、少しだけ寂しそうに聴こえた。
「どうした? もしかしてオレに惚れちゃったか?」
「それだけは絶対にない」
即答だった。最期まで辛辣な女だ。
「ま、お前もちゃんと茜ちゃんに謝れ。間違いばっか選ばずに、たまには正解を選んでみろ。きっとお前ならできる」
そう念押しすると、「……わかった」とぼそりと返した。
光が強まっていく。もうきっとタイムリミットはすぐそこに迫っているのだ。オレは最期に世界を眺めた。生まれでてきたことすら間違いだと思ったこの世界は、案外綺麗なものだった。
──もし生まれ変われるのなら、今度は生きているうちに正解を選びたい。
そんなささやかな願いを胸に、オレはこの世界からいなくなった。
「……羨ましい、な」
──取り残された少女が、泣きそうな声でそう呟いたことも知らずに。