*      *       *

それからは、もうずっと最悪の気分だった。
茜は屋上にも、教室にも現れなかった。放課後になっても、いつものようにやって来る気配はなかった。多分、今日一日は絶対に姿を見せないだろう。
でもきっと、明日になったら、また「レイ、おはよう!」って何食わぬ顔で言ってくるんだ。自分が傷付いたことなんて、私に傷付けられたことなんて、尾首にも出さないで。
そうやって、茜は私を許す。ずっと前から知っていたことだ。優しい茜は、茜を傷付けた私を何事もなかったかのように許す。今までも、ずっとそうだった。──そして、あの日も。
でも、それでいいのだろうか。
「……なに、いい子ぶってんだろ」
──もっと酷いことを、私は茜にしているのに。今さら善人ぶるなんて、愚の骨頂だ。
そう自嘲して、不意に空を見上げると、清々しいくらいの青が視界に映った。
今日みたいによく晴れた日は、あの日のことを思い出す。空の青さに、あの日犯した罪を、私は何度も思い出す。
溜め息を一つ吐く。その拍子に視線が下がり、靴紐が解けていることに気が付いた。立ち止まり、しゃがみこんで靴紐を結び直す。
「──お前、今日は一人なのな」
──頭上から声が降ってきた。
反射的に降り仰ぐと、目の前で知らない男が私を見下ろしていた。
「あんた、誰」
立ち上がって男を睨み付ける。すると、男は「うわああっ」と悲鳴を上げて後退った。
「お、お前、オレが見えるのか⁉」
何言ってんだ、こいつ。
呆れながら「見えるに決まってるじゃん」と返すと、男はその顔を驚愕に染めた。
「な、何だって……⁉」
男は暫し固まっていたが、何か思い付いたようにぽんと手を叩いた。
「あ、そうか。お前も死んでんのか」
出会い頭に何てこと言いやがるんだ、この男。
「いや死んでないし。……てか、お前もってことは、あんた──死んでるの?」
ストレートに尋ねると、男は頭を掻きながらあっけらかんと答えた。
「ああ、どーやらそうみたいだな」
その返答は、死んだとは思えないほどの適当なものだった。

*      *       *

通り道にあったベンチに、私は見知らぬ幽霊()と二人腰かけていた。
ふ、と隣を見る。
──ヨレヨレの黒のTシャツ、緩く履かれたジャージのズボン、眠たそうな垂れ目に締まらない顔付き、顎には無精髭が生えていた。
この、私よりも五、六歳ほど年上に見えるいかにもだらしなさそうな男は、牧野(まきの)(ひろ)(まさ)と名乗った。生前は、二十五歳フリーター。定職に就かず職を転々としていたらしい。
酔っぱらって足を滑らせて階段から落ち、頭を打って死亡。こう言っちゃ何だが、何ともしょうもない死因だ。
「で、そんなフリーターが、何で私のことを知ってたわけ?」
「それは……オレ、死んでからいつもこの辺りをうろついてるんだけどさ、この時間帯はこのベンチに座ってぼーっとここを眺めてんだ。その時、いつもお前ともう一人の女の子がここ通ってるからさ。何となく気になって声をかけたら……まさかの幽霊が見えるんだもんなー。びっくりして腰が抜けそうになったわ」
「いや、こっちがびっくりしたっつーの」
牧野弘昌は急にこちらを見た。
「んで、いつも一緒にいるあの可愛い子は⁉」
「変態か」
思わず突っ込むと「変態じゃねぇ! 変態じゃねえけど、やっぱ可愛い子は目の保養になるっつーか? 見て損はないっつーか?」とゴニョゴニョと言い訳をし始めた。
「茜なら、今日は一緒じゃないよ。て言うか、あの子もあんたと同じく幽霊だけど、それにも気付いてなかった?」
「え、あの子も幽霊なの⁉ やりい、可愛い子と会話できるじゃん。じゃ、その茜ちゃんって子呼んでよ。どうせなら可愛い子とお喋りしたいわ」
「あんたさ……それ、普通に変態発言だからな。あんたなんかに茜を会わせるわけないでしょ」
「え~、ケチだなあ。ま、いいか。どちらにせよオレは死んでも女運がねえっつーことだな」
遠い目をし始めた奴が少々気の毒になったが、そこは全力で目を逸らさせて貰った。気の毒だが、この変態(仮)野郎に茜を会わせる気は更々ない。……まあ、そもそも今日は気まずくて呼べない、というのもあるが。
「そういや、あんたの未練って何なの? 死んでからそこそこ経ってるみたいだけど」
横目で牧野弘昌の背中を見る。うっすらと浮かんでいる半透明の数字は『12』。彼が成仏できるタイムリミットは二週間も残っていない。
しかし彼は、思いもかけない言葉を口にした。
「未練? そんなもんないけど」
「……は?」
「むしろ、未練がないことが未練っつーか。オレ、ぶっちゃけ死んだことに大して後悔とかないんだよな」
初めてのパターンに、思わず目を見開いた。
今まで私が会った幽霊は、多かれ少なかれ皆未練を抱えていた。だって、未練がなければ成仏できるのだから、この世に留まる理由がない。だからこそ彼らは死んでも尚この世を離れられなかったというのに、目の前の彼は未練を持たないと言いながら未だこの世に留まり続けているのか。
「何で、未練もないくせに成仏しないの? このまま成仏しなかったら、あんた、いつか悪霊になるんだよ」
成仏することができなくて、悪霊になりかけていた柿本信次を思い出す。悪霊になることの恐ろしさを知らないのならば、知らせておかなければならないと思った。
「それがどうした?」
予想外の言葉と共に、牧野弘昌の瞳が私を射抜いた。彼の瞳は、さっきまで冗談のような言葉を交わしていたとは思えないほど、冷たく、全てを諦めたかのような、そんな荒んだ色をしていた。だけど、その瞳は、私もよく知っているものだった。
「悪霊になって何が悪い。成仏しなきゃいけないなんて、誰が決めた? 世の中、正しく生きられる奴ばかりでも、正しく死ねる奴ばかりでもないんだよ」
ああ、と、その瞳を、その言葉を、受け止める。
──彼は、私によく似ているのだ。
「……そうだね。私も、あんたの言う通りだと思うよ。正解を選べない人生は辛い。でもだからって、誰かを傷付けたいわけじゃない。あんたも、そうなんじゃないの?」
問いかけると、牧野弘昌は少しの逡巡の後、ふっと薄く笑みを溢した。
「……そうだよ。別に、悪霊になって誰かを傷付けてやろうとか、そこまでは考えてない。そこまでするほど、オレは人生に執着してなかったからな。期限が来たら成仏するさ。ただそれまで、少しダラダラこの世ってものを眺めているだけだ」
そんなところだろうと思った。彼は私によく似ているけれど、多分根の部分は優しい。だから、自分勝手な気持ちで誰かを傷付けたりしない。……私とは、違って。
「で、お前は何でそんな暗い顔してんだ? ただでさえ怖い顔が更にヤバいことになってるぞ。仕方ねえから人生の先輩である弘昌サマが聞いてやるよ」
 そう言われ、はっとして牧野弘昌を見る。まさか、初めて言葉を交わした奴なんかに、私の気持ちが見透かされるとは思わなかった。それとも、今の私は、見てすぐにわかるほど酷い顔でもしているのだろうか。
 自業自得の癖に、と自嘲する。それでも、牧野弘昌が言葉をかけてくれたことに、ほんの少し救われた自分がいた。
「……人生の反面教師の間違いじゃないの」
そう毒吐くと「何だって~⁉」と騒ぎだす。やたらハイテンションな奴だな、と少しだけ笑えた。
「まあいいよ、反面教師でも。暇だからな、聞いてやる」
そう言ってくれる彼に、私は今日のことを話した。進路が決まらないことも、茜に応援されたことも、なのに八つ当たりして茜を傷付けてしまったことも、全部、全部。
「……うん、それは全面的にお前が悪いな。死にたくて死んだわけじゃない奴に『あんたは死んでて良いよね』的な発言は流石に酷えぜ。鬼かっつーレベルだな」
そう言われてしまい、ぐうの音も出なくて黙り込む。
……私だってわかってる。あれがどれだけ言ってはいけない言葉だったのか。あの言葉がどれだけ茜を傷付けたのか。
「──でも、お前の気持ちも、少しわかる」
「……え?」
思わぬ言葉に目を(しばた)いた。
牧野弘昌は、少し照れ臭そうに頬を掻いた。
「オレ、さ。頭も悪いし、運動もできないし、特技もねえし、親にも勘当されて、友達も恋人も、好きな女すらいなかったんだよ。何をやっても要領悪くて、仕事もすぐにクビになっちまうし。だから、正直、何でオレは生きてんのかなって、いっつもそんなことばっか考えながら卑屈に生きてた。何もかもが嫌でさ、自分とは何の関係もないのに、楽しそうに生きてる奴を見ると無性に憎くなってさ、〝クソヤロウ共め〟って勝手に恨んでたっけな。……だから、わかる。後ろ向きに生きてる奴にとって、前向きな奴の前向きな言葉は、結構キツイよな」
「──わかって、くれるの?」
自分が抱いたこの醜い気持ちを、理解してくれる人がいるなんて、思わなかった。
「まあ、お前が言ったことを肯定するわけじゃねえし、言ったことは相当酷いと思うけど……でも、全員が正しく生きられるわけじゃねえ。一生間違えずに生きられる奴なんて、きっとほんの一握りだ。──だから、間違えてもいいんじゃねえの? 大事なのは、間違いの後に何も変われずに腐っちまうか、それを少しでも正しく直そうと努力できるかどうかだ」
牧野弘昌はベンチから立ち上がり、私の方に振り向いた。
「──オレはずっと間違い続けて、何も変われずに腐ったまま死んじまった。死ぬほど格好悪いよな。だけど、お前はまだ死んじゃいねえ。オレには友達すら一人もいなかったけど、お前は傷付けちまったってそんだけ後悔できる友達がいるんだ。だったら、やることは一つじゃねえの?」
──フリーターの癖に、格好いいこと言ってくれるじゃないか。
「……そうだね。私、謝ろうと思う」
そして私も立ち上がった。
茜を傷付けたことは、どうしたってなかったことにはできない。だけど、謝ろう。間違いを、少しでも正解に近付けられるように。逃げずに茜に真っ直ぐ向き合えるように。
「……ありがとう」
「よせよ、お前の顔でお礼言われても怖えだけだ」
「あ?」
……目の前の男を心底殴りたくなったのは、至極全うな正解なのではないかと思う。

*      *       *

茜には明日朝一番で謝ることに決め、私は帰路に着いていた。……なぜか、牧野弘昌と一緒に。
「何で着いてくるんだよ」
「だって、お前に着いていけば〝茜ちゃん〟とやらに会えるかもしれないじゃん?」
「話を聞いてくれたことには感謝してる。でも茜には会わせないよ。今も家に帰ってるだけだし」
「えー、ケチ。ちょっとくらいいいじゃん」
「い・や・だ。それに、着いてこないでって言ってるじゃんか、このストーカー!」
「ええ~っ⁉ ストーカーじゃねえっつの! てか、幽霊になってからストーカーする奴なんていねーだろ」
「いたけど」
「──いたのかよっ⁉ え、何それ。超ヤベえ奴だったんだな……」
「あんたよりまともだったと思うけど?」
「え、オレ、ストーカー以下なの? オレの扱い酷くね?」
そんな会話をしながら歩いていたが、赤信号で立ち止まった。交差点の向こう側で、ボールを持った小学生くらいの男の子が歩いているのが見える。
「……じゃ、しゃーねーからオレはここまでにすっかな」
私の一歩後ろで、牧野弘昌が立ち止まる気配がした。
「……これから、どうすんの」
「ま、最初に言った通り、適当にぶらぶらして期限が来たらさっさと成仏してやるよ。あ、それまでにお前のこと見かけたら、また声かけるわ」
「かけてくんな、鬱陶しい」
「へいへい。たく、どれだけ塩対応すれば気が済むんだよ。こちとらお前より長く生きてる先輩なのに……」
「生きてた、の間違いでしょ。それに、先輩じゃなくて反面教師だわ」
「お前って奴は、本当に最後まで可愛くないな。……じゃあ、またな」
「……うん。さよなら」
その別れが少しだけ名残惜しいのを不思議に思いながらも、さよならを告げた、──その時だった。
交差点の向こう側、男の子が持っていたボールを取り落とした。ヤバい、と反射的に思った瞬間、その予感は現実になり、ボールを追って、男の子が道路へと飛び出した。──その車線には、目前に男の子に気付かずに走り続けるトラックが迫っていた。
危ないと、そんな叫びすらも声にならずに消えていく。身体は咄嗟には動かない。動いた所で、この距離からじゃ到底届きやしない。
ああ、あの子は死ぬのか。
公園の滑り台の上で座り込んでいた斎藤りゅうせいを思い出す。斎藤りゅうせいのように、あの子はきっと親を恋しく思いながら、それでも生きることを選べなくなる。それは、何となく、できれば見たくない光景だとぼんやりと思う。誰かが死ぬことなんて、当たり前だった。こんな感傷を抱くほど、特別なことじゃなかった筈なのに。
私があの子の代わりになれれば良い。あの子の代わりに、私が轢かれればそれで丸く収まる。そんなことを思っても、それが叶う筈もなく、私は目を大きく見開いたまま、その子がトラックにぶつかる寸前を眺めていた。あと数センチ、どうしたって避けられないその衝突。 
……だけど。
不意に、後ろの空気が揺れ動く気配がした。何が起こったのか、それを考える間もなく、──ヨレヨレの黒のTシャツが、目の前を駆け抜けた。