* * *
バレーをすること。思えばそれは俺にとって、〝生きること〟と同義だった。
バレーが好きだ。
それだけは、死んでも失くせなかった想いだった。
だからどうしても、最期にバレーがしたかった。
──球を拾う。どれだけ遠くに弾き飛ばされたものだって諦めない。
「カズっ!」
小久保一樹の名前が呼ばれ、セッターからトスが上がるのが見えた。
それを目の端で捉えた瞬間、身体は動き出していた。
助走を着け、強く踏み込む。脚が地面を離れ、宙に浮く感覚。久々のそれを噛み締めながら、俺は腕をしならせた。
掌がボールを捉え、それを打つ。刹那、それがエンドラインギリギリに着地したのが視界の隅に映った。
「──カズ、ナイス!」
小久保一樹に笑顔を向けられ、手が差し出される。──かつて、柿本信次の仲間ともよくやったその行為に、自然と右手が動いていた。
パチン、と手が打ち鳴らされたその音がコートに響く。
──同時に、カチリ、と自分の中で何かが動き出した音が聴こえた気がした。
* * *
部活が終わり、汗臭い練習着を脱ぐと、ベタついたその感触に懐かしくなった。手早く制服に着替え、体育館の出口に向かうと、黒髪の少女が相変わらずの目付きの悪さでこちらを見つめていた。この身体では見えないが、隣にミルクティー色の髪の少女も居るのだろう。
ああ、この身体ともお別れか。わかっていたはずのことなのに、惜しむ気持ちが湧いてきて苦笑する。
「お疲れ」
まったくもって感情の籠っていない言葉が俺に向かって投げられる。彼女の元に辿り着いた時、『出すぞ』と頭の中に声が響いた。その刹那、見えない引力に引っ張られるように身体から自分の精神が引き摺り出される。
「終わった、んだな……」
さっきまで借りていた身体ではない、慣れ親しんだ自分の手を見つめる。これで、思いがけない延長戦も終了。今度こそ俺の人生は終わったのだと、認めることができる気がした。
思わず感慨に耽っていると、後ろから鈍い音が響いた。
「──小久保君⁉」
再び視界に映ったツインテールの少女の叫び声に弾かれるように振り返ると、先程まで身体を共有していた筈の彼が、床に片膝をついて肩で息をしていた。俯いたその額には玉のような汗が浮かんでいる。
「おい、大丈夫か⁉」
思わず手を伸ばしたものの、俺の手は見事に彼の身体をすり抜けた。──そう言えば、もう俺は何にも触れないんだった、と今更ながらにそんなことに気付き、歯噛みする。
「大丈夫?」
仕方ない、と言わんばかりの態度で小松さんが俺の言葉を通訳すると、彼は無理に明るく笑ってみせた。
「平気だ。ちょっと疲れが出ただけだ。少し休めば治る」
それが強がりだということもすぐにわかった。その証拠にまだ息は整わないし、顔色は真っ青だ。
「──だから、『そう何度もはできない』と言ったんじゃ。この力は生きている側の肉体に負担がかかりすぎる」
いつの間にか現れた彼の祖父の言葉に動揺していると、不意にわしゃわしゃと頭を撫でられた。
「そんなに心配せんでも大丈夫じゃ。ワシの孫はこれしきのことでくたばりはせんよ」
優しい言葉と撫でられる感覚に安堵が押し寄せる。そうこうしているうちに彼は息を整え、立ち上がった。
「もう、大丈夫だ」
「良かった……。小久保君、元気になったみたいだね」
そう西村さんが小松さんに笑いかけるものの、彼女は一切反応しない。見事なまでの塩対応だ。
「──これで、未練、なくなりましたか?」
小久保君が空中にそう問いかけた。勿論彼の瞳には誰も映っていないけれど、それが俺への問いかけなのだとわかり、俺は彼の正面へと足を動かした。
「ありがとう。君のおかげで、もう一度バレーができた。本当に感謝している」
未練が完全になくなったか、そう問われればきっと答えは否だ。死にたくなかったし、もっとバレーがしたかったし、やりたかったことはたくさんある。でも漸く、前を向けた気がした。
「君とバレーができて、本当に良かった」
この声は彼には届かない。それでも、俺は彼に告げる。
「もうそろそろ、時間みたいじゃな」
小久保君の祖父──カズ爺がそう告げると共に、身体から色が抜け落ちていく。半透明になった俺は今にも空気に溶けてしまいそうだった。ああ、タイムリミットが迫っているのだと、否応なしにわからされる。
「ちゃんと、成仏できそう?」
小松さんの黒目が俺を真っ直ぐに捉えた。俺のことなどどうでもよさそうにしていた彼女の、意外にも真剣なその声音に、俺は彼女を真っ直ぐ見返した。
「ああ、できるよ。──本当に、ありがとう」
俺の時間は、止まったままだ。その時計が針を進めることはない。それでも、俺はもう前に進む。進むことのない不毛な時間に、終止符を打つ。
「……君は、後悔しないようにバレーをするんだ。いつ終わってしまうか、わからないから」
聴こえないとわかっていながら、彼にそう声をかけた、その時。
──まるで、声が聴こえたように、彼の瞳がこちらを見た。その瞳は確かに、俺を捉えていた。
「柿本、さん?」
どうなっているんだ、と息を呑むと、視界の端でカズ爺が片目を瞑るのが見えた。
「最期のプレゼントじゃ。言いたいことを言ってからいきなさい」
消えかかっていた身体が、金色の光で包まれていた。その好意に感謝して、彼に向かって言葉を紡ぐ。
「君とバレーができてよかった。本当に、ありがとう」
「こちらこそ、先輩と一緒にバレーができてよかったです」
嬉しいことを言ってくれる後輩に思わず顔が弛む。……彼と出逢えてよかったと、そう思った。
「──どうか、君は生きて。この先もずっと」
最期に、その言葉を紡ぐ。自分の分まで生きて、なんて言えない。でも、そうじゃなくても、彼には生きてほしかった。この先もずっと。
「じゃあな」
その言葉と共に、金の光が消えていく。そして自分の身体が揺らぎ出した。
「君たちも、お祖父さんも、本当にありがとう。俺、いくよ」
消えていく身体で、俺は笑った。目頭に熱く光るものを感じながら。
……格好悪いな、泣いちまうなんて。
自分の情けなさに苦笑する。
俺の時間は、あの日から止まったままだ。止まってしまった時計の針が、前に進むことはない。……それでも。
消えかけの拳でグイと涙を拭う。そして、顔を上げる。
過去に縋るのは、もう止めた。
──俺は、前に進んでいく。
* * *
「いっちゃったね……」
茜が少し寂しそうな顔で、もう今は誰の姿もなくなった空間を見つめた。
「……ねえ、カズ爺。あいつ、ちゃんと成仏できたのかな」
いつも幽霊は白い光に包まれていなくなるのに、柿本信次はそうじゃなかった。透明になって、空気に溶けるように消えていった。
「……さあな。ワシも四十九日を過ぎてから成仏した霊がどうなるかは知らんのじゃ。ワシのようにあの世にいくのか、それともそのまま消えてしまうのか……。わからんが、それでもワシは、あの坊主は成仏したんじゃと思うぞ」
「何で? どうして、そう思うの」
その問いかけに、カズ爺はくしゃりと笑った。
「霊の中には、負の感情に呑まれて悪霊になったり、絶望のあまり自ら消滅してしまう者もおる。じゃがな、自分の死を受け入れて笑える奴は、きっと成仏できる。ワシはそう思うんじゃ」
「そういう、ものなのかな」
柿本信次の最期を思い出す。目元に涙は光っていたけれど、彼は確かに笑っていた。
「──難しいな」
「……レイ? 何か言った?」
茜の不思議そうな顔がこちらを見る。
「いや、何でもない」
私は置いてきぼりになっていた小久保一樹の方を向いた。
「……もう、いったのか」
「うん。だからもう帰っていいよ」
「……俺は」
何かを噛み締めるように、小久保一樹が声を漏らす。
「俺は、あの人の分まで生きるなんて到底言えない。あの人の人生は、あの人しか生きることはできないから。でも俺、精一杯生きるよ。彼に恥じないような、そんな生き方をするって、そう決めた」
真剣な表情でそう宣言した小久保一樹が、なぜだか少しだけ眩しく思えて目を逸らす。
「じゃ、帰るかな。あ、協力してくれてありがとね、カズ爺……と、あんたも」
一応礼を言うと、カズ爺は「いいんじゃよ」と笑って姿を消した。恐らく、小久保一樹の中に戻ったのだろう。しかし一方、小久保一樹の方は目を大きく見開いていた。
……私は礼も言わないような失礼な奴だと思われていたのか。
苛立ってそのまま帰ろうとすると、「ちょっと待って」と引き留められた。思わず小久保一樹を睨み付ける。
「何なの」
「……俺、怜香が頼ってくれて嬉しかったんだよ。お前、いつも俺のこと避けるからさ、もう話してもらえないのかと思ってたんだ」
「別に。今回はたまたま未練を解消するのにあんたが都合良かっただけだし。もう今後話しかけることはないだろうし」
冷たく突き放して、私は奴に背を向けた。これ以上言うことなどない。あとは帰るだけだ。
「──それでもいいんだ。都合の良い時だけでも、便利屋みたいな扱いでも良い。俺にできることがあれば何でもする。だから、いつでも頼ってくれ。俺はいつでもお前の味方だから。それだけ、伝えておく!」
後ろから小久保一樹の声が追いかけてくる。「バッカじゃないの」、そう口の中で呟いてから足早にその場を立ち去る。
「……いいの? レイ」
心配そうに茜が私の顔を覗き込む。
「何が?」
茜の言いたいことがわからないふりをして、私はやり過ごす。
……わからないのは、茜の言いたいことじゃない。
死ぬことを受け入れて笑えるのも、精一杯生きようとするのも、誰かの力になりたいと思うことも。
──生きている人間の感情も、死んだ人間の感情も、私が理解するには、少し難しすぎるようだった。