* * *
退屈な午前七時半。欠伸を噛み殺しながら私は学校までの道を歩いていた。
「ああ、学校行くの、面倒臭いな……」
このまま回れ右をして、家に帰って寝てしまえたらどんなにいいか。
「あ、ダメだよ、帰っちゃ。サボりはこの茜ちゃんの目の黒いうちはさせません!」
口煩いお節介がいるから、サボることは不可能なのだが。
「つーか、あんたもう目は黒くないじゃん。それに、自分で自分のこと『茜ちゃん』とか、マジでキモい」
「ちょっと、そんなこと言われたら、私傷付いちゃうんですけど⁉」
ミルクティー色の色素の薄いツインテールの髪をぴょんぴょん跳ねさせながら、茜は頬っぺたを膨らませた。
「というかさ、茜、着いて来なくてよくない?」
「私も同じ学校なんですけど⁉ 着いて来てるんじゃなくて普通に登校してるの‼」
「だって意味ないじゃん」
「そんなことないの! 学校は楽しいし、レイがサボらないか見張らなくちゃだし」
「うぜー……」
「何ですと⁉ レイ、口悪いぞーっ」
朝から喧しく騒ぎ立てる茜を横目に、私は歩くスピードを上げた。どうせ行かなきゃならないなら、さっさと学校に着いてしまおう。そうすれば、口煩い茜も少しは静かになるはずだ。
もわりとした湿気を纏った空気が立ち込める六月九日、溜め息と共に一日は始まった。
* * *
HR前の教室は、騒がしいから苦手だ。しかし、その喧騒も、ここ最近は重苦しい雰囲気を放っていた。
それはなぜか。一週間前、隣のクラスの生徒が事故死したからだ。
事故死したのは、夕方、帰り道の途中のことだったらしい。信号無視をした車に撥ねられて、即死亡。翌日にはそのセンセーショナルな訃報は校内中を駆け巡り、学校全体をお通夜みたいな雰囲気にした。そして、暫くの間は騒がしかったHR前の教室にもどこか湿った空気が漂っていたというわけだ。
まあそれも、数日前までの話だが。今ではすっかり元通り、煩くて敵わないほどの喧騒だ。耳を覆いたくなるけれど、さすがにそこまでやると当てつけになるので、ポケットからイヤホンを取り出して耳を塞いだ。
だけど、これはただのカモフラージュだから、別に音楽は流れていない。誰にも話しかけられないことが目的だし、私はたいして音楽に詳しくないし、好きでもないから。だから他人に話しかけられなければそれでイヤホンの役目は果たされる。
さらに、ダメ押しのように読みもしないミステリーの文庫本を鞄の中から取り出した。開いたページの文字を目だけで追うふりをして、いかにも「読書してます」的な雰囲気を醸し出す。まあ実際は視線が文字の上を滑るだけで、一文字たりとも脳味噌には入ってきていないのだが。
これで完全に声をかけにくい状態の完成だ。これで私に話しかけてくる奴がいたとしたら、そいつには「空気読めない王様」という称号を付けても文句は言えないだろう。
「はよ、怜香」
……そんなことを考えていた矢先、速攻で「空気読めない王様」の称号を付けられる行為をした愚か者がいた。
ちらり、と本から目線を上げると、そこには予想通り、見慣れた一人の男の姿があった。
刈り上げられた黒の短髪に、小麦色の肌。白のカッターシャツから覗く腕には、そこそこ鍛えられた筋肉がついている。そして懲りもせず、そいつは〝爽やか〟な笑顔を浮かべていた。
私は目線を本に戻す。勿論返事はしなかった。
「おい怜香、今日も無視かよ。おはようくらい言えっつーの」
「煩い黙れどっか行けこのカス野郎」
「相変わらず口悪っ! ま、そんだけ悪口言えれば元気だな。よかったよかった」
私の暴言をものともせず、そいつは明るく笑った。何が楽しいのかさっぱりわからん。
そしてガタン、と音を鳴らして前の席に座る。
──小久保一樹。
それが私の目の前の席に座った男の名前だ。
何の因果か小学校からの腐れ縁で、しかも同じマンションの隣の部屋に住んでいる。昔から無駄に明るくてお節介、そして馬鹿みたいに真っ直ぐな奴だった。大抵の人間は私と距離を置こうとするのに、むしろガンガン近寄ってきて、無視されても暴言を吐かれても懲りずに私に話しかけてくる変人。
クラスの女子たちには〝爽やか〟だか何だか騒がれているようだが、あれのどこが爽やかなんだ、と思う。私にはしつこくて暑苦しい熱血漢にしか思えない。
「おっはよーカズ。なに、今日も懲りずに愛しの小松さんに話しかけてたの? 毎度毎度あんだけ塩対応されてんのに、お前も懲りない奴だねー」
「うっせーな。てか、何だよ〝愛しの〟って。怜香はただの幼馴染だっつーの」
今日も今日とて友人とそんな会話をしている。もっとも、私にとっては雑音でしかないが。
その時、ふと気配を感じて顔を上げると、するりと茜が教室に入ってきた所だった。
茜は隣のクラスだから、一旦は別れて各々の教室に入ったのだが。にもかかわらず、茜は私の教室にやってくる。ここ最近はずっとそうだ。少しだけ暗い顔をして、私の所にやって来る。しょうがないな、と私は開いていた本を閉じ、イヤホンを取った。
「茜、あんた自分のクラス行ったんじゃなかったの?」
すぐ傍までやって来て、まだ空いていた私の隣の席に座った茜に、もはや何度目かわからないその問いかけを小声で投げかけた。その問いを受けて、茜もまた何度目かわからない少し困ったような曖昧な笑顔を浮かべた。
「あはは……。やっぱまだ雰囲気暗くてさ、逃げ出してきちゃった。もういつも通りに戻っていいよーって言いたいけどさ、私じゃ言っても意味ないもんね」
「ふーん……。ま、しょうがないか。他の人は私たちみたいに慣れてないもんね、人が死ぬことに」
彼らは人の死というものに慣れていない。だからこそ、まだ隣のクラスはお通夜の雰囲気を引き摺っているのだろう。それでも、放っておけばそのうちすぐにいつも通りに戻る。彼らは同情も人並みにするけれど、忘れるのだって人並みだ。そうして、死んだ奴のことは忘れていく。〝普通〟の人間とは、そんなもんなんだろう。
──人は毎日のように死んでいる。今ここで私が息をしている間にも、どこかで誰かの心臓が止まる。しかし、それをどれだけの人が認識しているのだろうか。隣のクラスの奴らが、たった一人のクラスメイトの死を七日経った今も悲しめるのは、きっと彼らに、毎日のように人が死んでいるという事実が見えていないからなのだろうと思う。私には理解できないけれど。
『42』
茜の背中に浮かぶ半透明の数字を横目に見ながら、私はくあ、と欠伸をした。
──西村茜。
それが、七日前に死んだ、隣のクラスの少女の名前だ。