* * *
彼は、柿本信次という名前らしい。
恐らくこの学校の元生徒で、背中の数字からすると死んでから5年ほど経っている。
しかし、亡くなった経緯と、四十九日を過ぎても成仏できなかった原因は、ぼんやりとしていてはっきりとは思い出せないらしい。
「確かあの日、俺はどこかへ向かってたんだ。何か大切なことがあって、そのためにどこかに行こうとしていたんだけど……。それがどこだったのか、何をしようとしていたのかは、あんまり思い出せなくて……」
はあ、と柿本信次は深く溜め息を吐いた。
「記憶喪失、なのかな……」
気遣わしげに茜は柿本信次を見遣る。私は首を傾げた。
「んー、このタイプの幽霊には初めて逢ったからな、私にもよくわからん」
死んだ時のショックで記憶が飛んだのか、それとも死んでから時間が経ったことで徐々に忘れていったのか。謎が多すぎる。
「でも、この臙脂色のユニフォーム、うちの学校の男子バレー部の奴だと思うんだよね。てことはさ、今やってる球技大会見れば、何か思い出すんじゃない⁉」
確かに、彼のスポーツ刈りの頭も、筋肉のついた鍛えられた腕も、見上げるような背の高さも、いかにもスポーツマンだと言わんばかりの出で立ちだ。
正直、茜の提案は『ただ球技大会を観戦したい』という欲望が大部分を占めている気もするが。
「……ま、でも、それもいいかもね」
そうと決まれば、ともう少し見易い手前の席に三人で移動する。観覧席の一番前の手摺りに身体を預け、下で繰り広げられている試合を視界に映した。
「あっ、見て見てレイ! レイのクラスの男子勝ってるみたいだよ! 小久保君のおかげかな」
ちょうどクラスの男子が他のクラスと試合を行っているようだった。得点は18対10でうちのクラスの方が優勢のようだ。
「ふーん……」
正直私はあまり興味がないが、他にやることもないので試合の行方を見つめた。
「次は小久保君のサーブみたい」
隣の茜を含め、多くの女子が熱い視線を送る先にいたのは、腐れ縁の男だった。
小久保一樹は相手のコートを見据え、サーブの構えを取った。切れ長の瞳が真剣な光を宿していた。
ピッー。
ホイッスルが鳴ると同時に、奴はフワッとボールを浮かせた。刹那、ボールに合わせて、たたんっと飛び上がり、長い腕の先のゴツゴツした掌がそれを捉える。
バンッ。
小気味いい音と共に放たれたそのボールは、綺麗な放物線を描いて敵陣地のコートへと吸い込まれていく。
ピッ。
短くホイッスルが鳴らされ、点が入ったのだと気付いた。
「……ふーん」
あいつ、なかなかやるじゃん。
そう思ったのは私だけではなかったようで、一瞬で周りがわっと沸いた。
「凄い、凄いよ! 小久保君、めっちゃ格好いい!」
キラキラと目を輝かせて興奮する茜に呆れる──と、その時だった。
「──?」
何だか強い悪寒がした。嫌な予感というか、凄く、不快な感情をぶつけられているような、そんな背筋の凍る気配。はっとしてその気配の出所を探ると、それはすぐ隣から出されているものだと気付いた。
すぐさま横を向いた。
「──っ⁉」
その瞬間、私は目を見開いた。隣に立つ柿本信次から、禍々しい黒い靄のようなものが立ち上っていた。
「……なん、で、俺はあそこにいない? どうして、俺、は、死んでる? なんで、どうして」
壊れたように呟く柿本信次に、予感は確信に変わる。
──これは、悪霊化の兆候だ。
気付いたその時に私はすぐさまコートに目を戻した。そして、不自然に動き出したボールに目が止まった。
──向かう先には、アタックを打とうと飛び上がった小久保一樹の姿があった。
瞬間、私は叫んでいた。
「カズっ、避けろ!」
その大声に、周りから一斉に視線が集まるが、そんなことはどうでもよかった。
飛び上がった小久保一樹は、私の声に気付いたのか、器用に少しだけ着地点をずらした。
奴が降り立ったのは、転がってきたボールの、ほんの少し右側だった。
ピピっと主審のホイッスルが鳴らされ、試合が中断される。
「ちょっと、あんた何やって──」
それを見た後、振り返って柿本信次に怒鳴ろうとしたその言葉は、途中で途切れた。
──柿本信次が、そこから消えていた。
* * *
「ねぇ、さっきの何だったの? 柿本君、一体どうしちゃったの⁉」
私の後ろを歩きながら茜が甲高い声を出した。
「ああ、あいつは多分全部思い出したんだ。それで、バレーができる小久保一樹に嫉妬して怪我をさせるためにボールを奴の着地点に動かしたんだ。所謂ポルターガイストだよ。あいつは悪霊化しかけてる。だから物を動かせたんだよ」
言いながら私は辺りを見回し、柿本信次の姿を捜した。
別に、柿本信次が悪霊化しようが、生きている人間に危害を加えようがどうでもいい。どうでもいい、はずなのに、数分前の怪我をさせられる寸前だった小久保一樹の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「何とかして柿本信次を見つけないと。私は上の階から捜すから、茜は下の階から捜して。それで、ここで落ち合おう」
三階へと上がる階段前でそう言うと、茜は少し暗い顔をしながら「わかった」と頷いた。それを見て私は歩き出す。階段を一目散に上り、一番上の四階まで到達すると、球技大会で普段より人の少ない教室の中を順繰りに見て回っていく。
「……いない」
上の学年の三年生や同学年の生徒にギョッとされながらも、柿本信次の姿を捜す。あの黒いオーラがどこかに漂っていないかと、目を皿のようにして捜した。
「……あれ、小松さん?」
四階を捜し終わり、三階に降りる。空になっていた無人の自分のクラスを覗いていると、後ろから声をかけられた。
振り向くと、知らない体操服姿の男が立っていた。
「えっと、誰?」
「ええー、そんなぁ~。覚えてない? オレ、同じクラスでカズの友達の赤下大輔! 同じクラスになってから結構経ってるのに、覚えられていなかったとは……。ちょっとショックだなあ」
残念がるその顔を見て、ああ、小久保一樹とよくつるんでいるクラスメイトだ、と気が付いた。言われるまでわからなかったが。
「俺、一試合終わって一端飲み物取りに来たんだ。で、どーしたん? 女子もう終わったらしいから、休憩でもしに来たの?」
「いや、ちょっと人を捜しているだけ。じゃあ、急ぐから」
どうやらうちのクラスの男子はあの試合に勝ったらしい。私は言葉を濁してそう立ち去ろうとした。すると、後ろから声が追いかけてきた。
「あっ、そう言えば、カズが小松さんのこと捜してたんだった……ってあれっ⁉ 小松さん、ちょっと待っ──」
引き留められないうちにそそくさとその場を後にし、私は三階から二階へと降りる階段へと辿り着いた。
──柿本信次は、いったいどこにいるのだろう。
悪霊化しかけているあいつは、次に誰に危害を加えようとするのか。それさえわかれば、奴の居場所がわかるかもしれない。
そんなことを考えながら階下へと降りていく。
「レイ!」
二階へと降りる踊り場で、廊下から茜の声が聞こえてきた。大方一階と二階を調べ終わったんだろう。
駆け寄ってくる茜を見つけ、降りようとした、その時だった。
近付こうとした茜の目が大きく見開かれ、その顔が恐怖の色に染まる。
「──レイっ、後ろっ‼」
茜の叫んだその言葉にはっとして後ろを振り向いたその瞬間。
「消えろ」
憎悪の籠った声と共に、ドンッと強く突き飛ばされた。身体が宙を浮き、仰向けのまま下へと落ちていくのがわかる。……最後に見えたのは、憎しみに染まった柿本信次の顔だった。
──ヤバい、落ちる。
直感的にそう思い、目を閉じる。
「怜香っ!」
誰かの声が聞こえた、と思った次の瞬間、身体に鈍い衝撃が走った。
「痛っ」
痛みが背中を襲ったけれど、思っていたほど強くなかった。それに仰向けで落ちたはずなのに、頭を打った気もしない。
なぜだ、と思いながら目を開けると、誰かの腕が私の身体を抱き締めていた。その腕を解くと、それはすぐに力なく床へと落っこちる。下敷きにしていた誰かから身体を起こすと、目に飛び込んできたものに私は息を呑んだ。
「なん、で──」
無駄に整っている顔立ち、日焼けした肌、無造作に床に散らばった黒髪。
何で、どうして。
そいつの身体からする汗の匂いも、汗ばんだ体操服も、閉じられたままの切れ長の瞳も、薄い唇も。
まるで、死んでいるかのように、ピクリとも動かない。
「何であんたが私を庇うんだよ、小久保一樹……」
──小久保一樹が、私の下敷きになって倒れていた。
落ちた時の音で何かがあったのかと気付いたのだろう。
「おいっ、君たち、大丈夫か⁉」
近くにいたのであろう教師が駆け寄ってくる。教室内に残っていた生徒たちも何事かと周りに集まり出した。
「レイ、大丈夫……?」
いつの間にか近寄ってきていた茜のそんな囁き声にすら、私は返答できなかった。
騒音が大きくなっていく。そんな中で私は小久保一樹を見つめたまま、救急車のサイレンが聞こえてくるまで、地面に縫い留められたかのように動けなかった。