* * *
翌日、午後六時半。
待ち合わせ場所であるアパート前に着くと、既に伊藤美紗は待ち構えていた。
「修吾はあと少しで帰ってくるわ。だから、その時はよろしく」
律儀に頭を下げた彼女に、「全力は尽くす」と素っ気なく返した。
これは、かけだ。上手くいくかなんて誰にもわからないから、確証めいた返答なんてできない。けど、やれるだけのことはやろうと思う。それが、彼女の未練を教えてもらったことへの私からの対価だ。
「じゃあ、打ち合わせ通りにね! 間違っても幽霊が見えるとか、美紗さんが亡くなったとかは言わないようにね、レイ」
念押しするように茜に確認される。流石にそれくらいはわかってるのに、どこまでも心配性だ。
「あ、来た!」
伊藤美紗の強張った声が夜の静寂に響いた。月明かりに照らされながら、一人のスーツ姿の男がこちらに歩いてきていた。中肉中背、これといって特徴のない顔立ちだが、その優しげな瞳が人柄を表しているようだった。
「あの、木崎修吾さん、ですか?」
打ち合わせ通り、私は彼の名前を呼んだ。男は驚いたように目を丸くすると、少し訝しげに眉を潜めた。
「君は、誰だい? どうして僕の名前を知っているのかな」
「私、あなたの元カノの伊藤美紗の従姉妹なんですけど」
伊藤美紗、その名前を聞いた瞬間、彼は目を見開く。彼女のことを忘れてはいないようだ。
「美紗さんが持ってたイヤリング、知りませんか? 銀色の花の形の、イヤリングなんですけど。見た覚えがないかな~って、聞いておきたくて」
……これは、真っ赤な嘘だ。銀色の花の形のイヤリングは、少し離れた所に立つ伊藤美紗の耳もとで揺れていた。死ぬ時まで付けていたそれが彼の元にあるわけがないけれど、彼と話をするための口実にさせてもらった。
「ううん……もしかして、僕が昔あげた奴かな……。だけど、知らないな。それは僕が美紗と別れてから見てないから」
美紗、と彼女の名前を呼んだその声には、少しの懐かしさと優しさが滲んでいた。まるで、大切な宝物に触れる時みたいな、優しい優しい声だった。
「でも、どうして美紗じゃなくて従姉妹の君がわざわざ聞きに来たんだい? それに、どうして今さらそんなイヤリングなんて……」
「美紗さんは、自分が忙しかったせいで別れることになったあなたに合わせる顔がないからって、私に頼んだんです。それに、急に海外に単身赴任することになって、もう中々帰ってこれないかもしれないから、あなたに聞いてきてって。そのイヤリング、美紗さんにとって大切なものだったらしいから……」
事前に考えていた言い訳をすると、「そうだったんだね……」と彼はあっさりと納得してくれた。木崎修吾、チョロいな。
「ごめんね、力になれなくて。……美紗にも、ごめんって伝えておいて。あと、イヤリング、大切に思ってくれていて嬉しかったって」
柔らかく彼は微笑んだ。その言葉と笑顔に伊藤美紗が顔を真っ赤にしていた。……思春期なのか、あのアラサーは。
「いえ、こちらこそお手数かけてすみません。……あの、少し聞いてもいいですか」
ここからが本題だ。私は茜が用意してくれた台本通りの台詞を口にする。
「美紗さんのこと、どう思っていたか、教えてもらってもいいですか?」
「え? なんで、そんなこと……」
「いや、私今高校生なんで、もっと大人の人の恋がどんな感じなのか知りたくって……。美紗さんはそういうこと教えてくれないから、修吾さんが美紗さんと付き合っていた時はどんな風に美紗さんのことを思っていたのか知りたいな~って」
言わされてる感満載の棒読み台詞だったが、人のいい木崎修吾は気が付かなかったらしい。「んー、なんか、恥ずかしいなぁ」とか言いながら照れたように頬を掻いた。
「……うん、好きだったよ、凄く」
静かな声で、彼は呟く。どこか懐かしむように、その瞳は遠くを見つめていた。
「今も、彼女のことは忘れられない。そのくらい、僕は美紗のことが好きだった」
「え、でも、美紗さんのことが嫌いになったから別れたんじゃないですか?」
伊藤美紗と木崎修吾の破局の原因は、伊藤美紗の忙しさのせいで会えない時間が続き、気持ちまですれ違っていったから。でも、彼女によると、別れを切り出したのは木崎修吾の方だったという。ならば、木崎修吾が伊藤美紗のことを嫌いになったというのが妥当なのではないだろうか。
そんな私の疑問を、彼は「違うよ」と否定した。
「僕が美紗と別れたのは、美紗のことが、好きだったからだ」
その言葉に、伊藤美紗が目を見開いた。
ありえない、なら、どうして。
そんな風に独り言を漏らす彼女は一先ず茜に任せ、私は彼の言葉の続きを促した。
「それは、どういうことですか?」
「うん、まあ、簡単に言ってしまうと、僕が意気地無しだったのが悪いんだけどね」
そう言って、木崎修吾は語りだした。
──僕はいつもみそっかすで、おっちょこちょいで、何をやるにもぱっとしないような奴でさ。だけど、美紗は僕とは正反対だった。何でもできて、しっかりしてて、誰からも頼られるような、そんな格好いい女の子だったんだ、昔から。そんな格好いい彼女のことが、僕はずっと好きだった。奇跡的に彼女と付き合えることになってからも、彼女はずっと格好いい女性のままで、そんな所が好きだったけど、お互い社会人になってからその思いが変わっていったんだ。彼女の就職先は所謂ブラック企業だった。彼女はいつも働き詰めで、仕事仕事って忙しそうだった。そんな彼女は仕事のできる格好いい人だったけど、でも、何か嫌だって思った。あの時、二人で会う時間も減って、それが寂しかったっていうのもある。
「それは、所謂、『仕事と俺、どっちが大事なんだ⁉』みたいな奴ですか?」
思わず話の腰を折って訊ねると、「はは、似たようなものかもね」と軽く笑った。
「でも、僕が美紗に言いたかったのは、『仕事と俺』じゃなくて、『仕事と自分、どっちが大事なんだ』ってことだよ」
「──っ!」
伊藤美紗が息を呑む音が聞こえた。しかしそれが聞こえない木崎修吾はそのまま話し続ける。
「あの頃の僕は、日に日に疲れていく美紗を見るのが辛かったんだ。どうしてもっと自分を大切にしないのか、そう言っても美紗は『大丈夫だ』って笑うばっかりでさ。ああ、僕では彼女を支えることもできない、だから弱音一つも吐いてくれないんだって落ち込んで。それで、いつかこのまま美紗が壊れてしまうんじゃないかって、そんな彼女を見るのが怖くて僕は別れることを決めた。結局は、僕が頼りなかったのがいけなかったんだよ」
木崎修吾は寂しそうに笑った。その笑顔に滲む後悔は、きっと今も彼の心に残っているのだろう。
「そん、なの、知らない。修吾は、仕事ばっかりの私に愛想尽かしたんだって、そう、思っていたのに……」
今にも泣き出しそうな震えた声。聴こえていれば確実に彼の心を揺さぶったであろうそれも、彼の耳には届かないのだ。
「好きだったんだ、本当に。……でも今は後悔してる。彼女と別れるより、傍にいて止めるべきだった。君が心配なんだって、ちゃんと伝えるべきだった。──なんて、今さら後悔しても仕方がないんだけどね。魅力的な人だから、僕なんかよりずっと頼れる新しい彼氏が出来ているかもしれないし。彼女はもう、僕のことなんて忘れているだろうから。……でも、そうだな」
伊藤美紗は、先程まで気丈に振る舞っていたその顔を涙で歪ませていた。堪えきれない嗚咽が、彼女の喉から漏れ出した。
「忘れてなんか、ないよ……。私、まだ修吾のことが好きだよ。ねえ、修吾、」
届かない慟哭は、彼をすり抜けて。
「「もっと一緒に、いたかった」」
同時に、同じ言葉が零れ落ちた。
「叶うことなら、もっと彼女の傍で過ごしていたかったと、そう思うよ」
彼は、もう終わってしまった過去への憧憬を秘めて。
「……私だって本当は、修吾と一緒に生きていたかったのに──」
彼女は、諦めきれない現在への絶望を籠めて。
それでも、彼と彼女の視線は交わらない。
──奇跡なんて、そうそう起こらないものなのだ。