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 六月二十日。
 少し湿った空気が籠る季節。湿気を感じない幽霊がほんの少し羨ましい。
 日が落ちるのが遅くなったせいで、冬には真っ暗になってしまう時間帯でもそこそこ明るい。だからというわけではないが、午後六時を過ぎたこの時間でもそこまで空が黒くなることはなかった。
「暗くないからって帰るのが遅くなるのはダメだよ。レイは女の子なんだから、危ないよ」
「別にわざとじゃないってば。今日はたまたま寝過ごしちゃっただけなんだから」
 そう、放課後、屋上で一休みしようと思っていたら、思いの外長く眠ってしまっていたのだ。わざとじゃないんだから許してくれてもいいと思う。
というか、茜ならいざ知らず、私に危険が及ぶなんてことは万が一、いや、億が一にもないだろう。多少童顔な顔立ちとはいえ、一応ちゃんと美少女の枠に入る茜に比べ、素の顔で不愛想だとか目つきが怖いだとか言われる私はどう考えても変質者に襲われるタイプではない。むしろお化けか妖怪に間違われて悲鳴を上げられかけたことなら何度もある。私は幽霊じゃないんだがな。
 そう脳内で独り言を呟きながら帰り道を歩いていたその時。
「……ん?」
 怪しい動きをする人影が視界に入り、私は足を止めた。
 その人影は電柱に身を隠し、その陰からこそこそと前方を覗いている。
「何してるのかな、あの人」
茜が不思議そうに首を傾げた。
「さあね。取り敢えず私には関係な──」
関係ない、そう言って横を通りすぎようとした時、私は目を見開いた。
「……いや、関係あるな」
素早く手の平返しをしてその人影に近付く。
「あんた、何してんの?」
私の声に明らかにびくりと反応したその女は、振り返った顔を驚愕の色に染めた。
「あんたたち、私が見えるの⁉」
──先程まで視界に入っていた彼女の背中には、『19』という半透明の数字が浮かんでいたのだ。

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「私は小松怜香。幽霊は見えるけど、一応人間」
「西村茜です。あ、ちなみに私はあなたと同じく幽霊です」
簡単に自己紹介をすると、彼女──二十代後半くらいの茶髪ロングの女──は口を開いた。
「私は、伊藤(いとう)美紗(みさ)。ここの近くの会社でOLやってたんだけど、ブラック企業で社畜やってたせいで身体に無理が祟ったんでしょうね。気付いたらポックリ逝っちゃってたわ」
あっけらかんと自らの死因を話した彼女は、どうもサバサバとした気質らしい。自分が既に死んでいることもあまり気にしていなさそうだ。
「じゃあ、何であんたはまだ成仏してないの? しかも、さっきやってたのって、ストーカーなんじゃない?」
そう。あの時彼女の視線の先にいたのは、一人のサラリーマン風の男。そいつの後を追いかけ、彼女は幽霊にも関わらず律儀に身を隠しながら、その男のことをこそこそと見つめていたのだ。
伊藤美紗はぎくりと身体を強張らせた後、何だか後ろめたそうに視線を逸らせた。
「え、えーっと、あの、その、だね……。あいつは元カレで、その、見てたのに深い意味はないっていうか、悪気はなかったっていうか……」
その割には目が泳ぎすぎている。何かあると言っているようなものだ。
「つまり、あの男があんたの未練ってわけか。……くっだらない」
「な、何よ! どうせあんたらみたいなお子ちゃまには大人の恋愛事情なんて理解できないのよ‼」
「お子ちゃま? いい歳して別れた男に未練がある方がよっぽどじゃないの、オバさん」
そう切り返すと「なんじゃとこのクソガキぃっ」と詰め寄ろうとしてきた。
「まあまあ二人とも、落ち着いてぇ」
すんでの所で茜が間に割って入る。どちらにせよ彼女は霊なのだから、私には触れられなかったと思うが。
「それで、何で美紗さんはあの男の人のことをストーカ……いや、見ていたんですか?」
ストーカーと言いかけたが何とか軌道修正(できていないが)した茜の質問に、伊藤美紗は言いにくそうに答えた。
「……元カレ──修吾とは、高校時代から付き合っててさ、一番長く続いて、結婚のことまで考えてた仲だったんだけどさ。就職先がブラックで、会う時間もとれないうちに気持ちまですれ違うようになって、それで別れたの。それから他の人とも付き合ってみたけど修吾ほど長くは続かなくて、付き合ってみてもすぐに別れてを繰り返して、結局最期は独り身のまま死んじゃったんだけどさ」
伊藤美紗は努めて明るく話そうとしているが、その元カレに向ける感情だけは、ほんの少し湿っているような気がした。
「私……、知りたかったのかもしれない。修吾が今どうしてて、元気でやってるのか。──修吾が、私のことをどう思っていたのか」
「美紗さん……」
「じゃあ、聞いてみればいいじゃん」
「はあ⁉」
伊藤美紗はすっとんきょうな声を上げた。
「どうやって聞くっていうのよ! 私、今幽霊なのよ⁉ 喋れるわけないじゃないっ」
「いや、だからさ、私がその修吾って奴に聞いてあげようかって話だよ。私は生きてるから、そいつとも喋れるし」
そう口にすると、「あっ、そっか。あんたは生きてるのか……」と思い出したように呟いた。
「いや、でもそれは無理でしょ。幽霊なんて、そんなの信じるわけない。それに、多分修吾は私が死んだことを知らない。だったら、知らないままでいさせてあげたいのよ」
修吾は、元カノみたいな終わった相手でも、死んだことを悲しむ優しい男だから。
少しだけ切なそうに、だけど心底懐かしむように彼女は微笑んだ。
「そういう、ものなのかね……」
恋なんて、私にはわからない。自分よりも相手のことを想う気持ちもわからない。だからこそ不可思議な彼女の気持ちを、私は理解はできないけれど。
「ま、あんたがいいなら、それでいいけど」
「──よくない、ですよ」
え、と伊藤美紗が目を見開く。今までずっと黙っていた茜が、彼女を見つめていた。
「確かに、大切な人に傷付いて欲しくない気持ちは私にもわかります。でもそれは、本当に修吾さんを傷付けたくないっていう理由だけですか? 本当は、修吾さんの気持ちを知るのが怖いんじゃないんですか? 怖いから、ストーカーなんてするほど知りたくて堪らないのに、いざ知れるチャンスが来ても体のいい理由をつけて逃げ出そうとしてるんじゃないんですか⁉」
その叫びに、今度は私が目を見開いた。
驚いた。茜がこんなに感情的になるなんて。滅多に怒らない茜が、今は確かに怒りと呼べる感情を宿しているように思えた。
「……気を悪くしたら、ごめんなさい。でも、美紗さんには後悔はしてほしくないんです。──私は、今もずっと、逃げたことを後悔しているから」
「……え?」
最後に茜がぼそりと呟いた言葉に私は眉を潜めた。
──後悔している? 茜が、何に?
その疑問を口に出す前に、茜の言葉を反論もせずに黙って聞いていた彼女がふふっと笑った。まるで何かが吹っ切れたような、そんなすっきりとした笑い方だった。
「まさか、高校生の女の子に教えられるとはねぇ。でも、確かにそうだわ。私は修吾の気持ちを知りたいくせに、修吾の気持ちを知ることが怖くて逃げ出そうとしていたのかもしれない。でも、そんなの格好悪いわよね。……私、決めたわ。修吾の気持ちを、聞こうと思う」
覚悟の決まった瞳で、伊藤美紗は顔を上げた。迷いのない、澄んだ眦で元カレの消えていったアパートを見据えた。