*    *     *

 ここではあれだから、ということで、西村茜と共に向かったのは、学校の屋上だった。
 屋上は、立ち入り禁止のはずだ。扉にも鍵がかかっているから、開くはずもない。
 だけど、開かないはずのその扉を、彼女はいとも簡単に開けてみせた。
「なんで扉、開けれるの」
 単純に疑問に思ってそう聞くと、彼女は「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。
「ここを開けるのにはちょっとしたコツがあるの。前に、ある人から教えてもらったんだ! キュッとやってカチッてすればガシャンって開くの」
 答えた言葉は、ほぼほぼ擬音で意味がわからなかった。その〝教えてくれた人〟とやらが彼女の言った通りそのまま教えたのだとしたら、どうしてそんな擬音を理解できたのかひたすらに謎だ。
 キキィーッと軋んだ音を立てながら開かれた扉の先には、透けるような薄い青の空が広がっていた。
 心地よい風を感じながら屋上のコンクリートを踏みしめる。
「……で、あんたも本当に幽霊が見えるの?」
 半信半疑のその問いに、彼女は即答した。
「うん、見えるよ」
 ビシッとフェンスの向こうを指差して、彼女は言った。
「あそこに、昨日まで幽霊がいた。……今日になって、もう消えちゃったみたいだけど」
 その言葉に、彼女も見える人間なのだと確信する。西村茜の言った通り、昨日まで屋上のフェンスの向こう側には、セーラー服を着た少女の霊がいた。屋上は立ち入り禁止だったから、未練を聞くことはできなかったけれど、大方ここから飛び降りた霊だったのだろう。
 今朝登校した時に見上げて確認したら、もうその姿はなかった。成仏したのかもしれないし、それ以外の何らかの理由でいなくなったのかもしれない。どちらにせよそれは私にとってたいしたことではなかった。人が死ぬのも、幽霊を見るのも、その幽霊がいつしか姿を消すのも、私にとってはずっと日常だったから。
 でも、そのことを西村茜が知っているということは、彼女が幽霊を見ることができる人間であることの証明になりうる。つまり、彼女と私は、同じである、ということだ。
「……でも、なんで幽霊が見えることを私に話したんだ? あんたも知ってるでしょ、私が変人扱いされてんの。そんな奴に見えるってバラしても、何のメリットもないじゃん」
「メリットなんて、どうでもいいよ」
 西村茜は即座に断言した。そして、私に手を差し出した。
「──私と、友達になってくれませんか」
「…………は?」
 出会い頭に言われた、単なる話しかけるための口実だと思っていた言葉をもう一度繰り返され、思わず声が漏れた。
「私ね、今まで、皆に変だって言われるのが怖くて、幽霊が見えること、誰にも言ってこなかったの。だから、怜香ちゃんのことを知ってびっくりしたんだ。見えない人がいても幽霊に話しかけに行って、皆に避けられても堂々としてて、すっごく格好いいなって、そう思ったんだ」
 格好いい、の言葉に目を丸くした。私としては避けられたところで見えない人間には興味がないから、どうでもよかっただけなのだが。
「私ね、怜香ちゃん。──君に出逢えたのは、運命だと思ったんだ」
 運命、そんな臭い台詞を吐いた彼女は、その台詞には似合わないほど真剣な表情をしていた。風が、彼女のミルクティー色の髪の毛を攫って行く。
「幽霊が見える私たちなら、きっといい友達になれると思うんだ。わかりあえるし、助け合えるし、──何より、同じ世界を見れるでしょ?」
 わかってほしいとも、助けてほしいとも思ったことはない。だけど──同じ世界を見れる、その言葉だけは心に刺さった。
『──僕と、同じなんだね』
 昔、幽霊のことを教えてくれた人に、言われた言葉を思い出した。その時、自分が普通じゃないとわかってからずっと感じていた心細さと疎外感が、ほんの少し薄らいだことも。
「私と、友達になってください」
吹き付ける風の中で、彼女はもう一度繰り返した。その言葉に、差し出されたその手に、私は。
「──べつに、いいよ。あんたも幽霊が見えるなら、友達になってあげても」
 気付けば、手を握っていた。久々に人に触れあった温もりに僅かに動揺しながら、それをどこか心地良く感じていた。
「……っ、ありがとう──これからよろしくね、怜香ちゃん!」
 一瞬息を呑んだかのように思えた彼女は、だけどすぐに笑顔になった。
「その〝ちゃん〟付けやめてくれる? 気持ち悪くて虫唾が走るから」
「えぇ~、可愛いのに……」
 残念そうにそう呟いた彼女は、何かを閃いたような顔つきになった。
「──それなら、〝レイ〟って呼んでもいい?」
 レイ。その呼び名に、思わず目を見開いた。それは、かつて祖母だけが使っていた呼び名だったから。なんだか懐かしくて、擽ったくて、知らず知らず頬が弛んでいた。
「……あっ、初めて笑ったの見た! じゃあレイで決定ね! 私のことは茜でいいからね‼」
「は⁉ 笑ってないし、勝手に進めんな!」
「わー、照れてる照れてる。可愛いなあレイは」
「ふざけんな!」
 揶揄うような彼女の言葉に、柄にもなく翻弄される。……誰かとこんな風に、まるで友達みたいに言葉を交わし合うのは、随分と久しぶりだった。
「──ははっ」
 なんだか可笑しくなって、笑い声が零れていた。
「ねえ、レイ」
 彼女が微笑み、隣で不意に空を見上げた。
「ここ、気持ちいいでしょ。私、ここから見る空が大好きなんだ。今までは屋上のこと誰にも言わずに自分だけの特等席にしてたんだけどさ、これからはこうやってレイと二人で見たいな、この空を」
 その横顔は笑っているのに、ほんの少しだけ、どこか寂しそうに見えた。
 ……だから、かもしれない。
「じゃあこれからは、ここは二人の特等席ってことか──私と、茜の」
 私は、らしくない言葉を返していた。彼女──茜は、驚いたようにこちらを見る。
「……何か、言いたいことでも」
 照れ臭くなって私は茜から目を逸らすと、頭上に広がる空を見上げる。青く澄んだ空は、眩しく目に焼き付いた。
「……ううん、何でもないよ」
 言葉を返してきた茜の声は、どことなく嬉しそうに上擦っていた。
 そして、隣でまた顔を上げて空を見上げる。晴れやかなその顔から、先程の陰りはすっかり消えていた。
それからしばらくの間、私たちは何を喋るでもなく、ただ黙って同じ空を見上げていた。
──それが、私と茜が友達になった日だ。

*    *     *

 それからの日々は、私にとって、今までにないことの連続だった。
「レイ、普通の(見えない)人がいるところで幽霊に話しかけに行かないの!」
 格好いい、そう言ったくせに、茜は私が人前で幽霊と話すことを止めさせようとした。
「格好いいって言ってなかったっけ?」
「それとこれとはべ・つ・な・の! 世の中で生きていくにはTPOってものが大切なんだよ。だから幽霊に話しかけるのは人前以外で、話すんだとしても気付かれないように‼」
「えー……」
「えーもだってもありません!」
 茜にそうしつこく言われるものだから、私は幽霊と話す時に人目を気にするようになった。そうすると、私は誰もいないところで独り言を離す変人から、ただとっつきにくい人間になった。

「人に話しかけられたらちゃんと答える! 読んでもいない本で相手を威嚇しないの! そして私を無視しないで~‼」
「え、めんどうくさ……」
「面倒臭いとか言わないの! 無視されたら私、泣いちゃうからね⁉」
「うざ……」
「レイ、口悪い!」
 茜の口煩さに観念して、最低限の返事くらいはするようになった。私が言葉を返したことに驚いたのか、誰からも人気があった茜が仲良く話しているからか、クラスの女王様を怖がっていたクラスメイトたちも、徐々に話しかけてくるようになった。

 まるで普通の人間みたいな、そんな日々に変わっていく。茜と一緒に屋上で空を見たり、教室で昼ご飯を食べたり、人のいない場所でこっそりと霊の話をしたり、何もせずにただ一緒に居たり。そんな風に過ごすうちに、私たちは段々と本物の友達らしくなっていったのかもしれない。普通じゃない私が、まるで普通の女子高生のような、そんな毎日を過ごしていた。
 幽霊が見える(自分と同じ)、だけど私とは正反対の茜に、苛々したりうざったくなったりする時もあったけれど、茜と過ごす日々のことを、どこかで気に入っている自分がいた。
 自分の見えているものを、何も隠し立てせずに話せるのは楽だった。自分が見ている世界と同じものを見ている仲間がいるというのは、案外心強いものだった。一人きりじゃないというのは、思ったよりも心地いいものだった。
 そんな、茜に出逢うまでは知ることもなかった感情に、一つ一つ気付かされていく。それが茜によるものだと思うと少し癪で、でも、こんな気持ちを知ることも悪くないと、そんな風にも思えるようになった、そんなある日。
 ──茜は、死んだのだ。