ある日、いつも通りアルバイト先に出勤した私は、最初にやるべきこととしてタイムカードラックから自分のタイムカードを探していた。
この店では、カードラックの定位置に自分のカードを入れるのではなく、タイムスタンプを押した人から順に上から入れていく。
そのため、自分のカードがどこにあるのか、毎回探すのに苦労する。
その途中、望月さんのカードを見つけ、それを見て彼のフルネームを知った。
望月優雨。
私の名字に入っている「雨」という同じ漢字が名前に入っていた。
「雨」が使われている下の名前を実際に見たのはこのときが最初で、急に望月さんに対して「雨」仲間のような親近感を覚えた。
この漢字が名前で被ることは名字を含めても滅多になかった。
カードラックの近くに誰もいないことを確認して、そっと望月さんのカードを引き出し、彼のタイムスタンプを眺めた。
望月さんの行動を監視しているような気持ちになり、背徳感が背中をじわじわ這いあがってくる。
素早くカードラックに彼のカードを戻そうとした。
そのとき、彼の名前が書かれた部分にうっかり指が触れてしまい、毒があるから触ってはいけないとされているものを触ってしまったかのように、無意識に手を引っ込めた。
動揺している自分に驚く。
誰もいなかったことが幸いだった。
時間をかけて何とか平静を装い、ようやく探し出した自分のカードをタイムレコーダーに押し込んだ。
帰り道、一緒に帰っていた望月さんに、下の名前のことをたずねてみる。
「望月さんの下の名前って『ゆう』と読むんですか?」
「そう。
『優しい雨』って、ポエムっぽいでしょ」
彼にしては珍しい自虐的な発言だった。
「このドリーミーな名前がずっと嫌いだった。
でも、小学生のときに名前の由来を親に聞く宿題が出てさ。
母が
『優雨が生まれたときは天気雨が降っていて、まるであなたの誕生を天から祝福されているように感じて、優しい気持ちになれた。
だから、この日の雨のように、人を優しい気持ちにする子になってほしいと願ってつけた』
って教えてくれてね。
その親の願いを知ることで、ようやく自分の名前を好きになることができたかな」
名前の由来を幸せそうに語る望月さんを羨望の眼差しで見つめる。
「私にはそんな親の願いが込められた由来もないです。
姓名判断で決めたって言われて。
極めつけは女優のあまかよのせいで、自分の名前が大嫌い」
言ってみて気づく。
嫌いなものを嫌いと人前で断言するのは気持ちのいいことではないのだと。
「いい名前だと思うけどな」
お世辞なのか分からないことを望月さんが言う。
「じゃあ、どこがいいですか?」
どうせなら、いいところを知っている人に教えてもらいたい。
そう考えて問いかけてみた。
自分と望月さんの靴先を眺めながら答えを待つ。
「親の愛を感じるよね。
雨宮さんの未来がいいものになるようにって、姓名判断でいい運気の名前を選んでるから」
彼は、考え込むこともなく、すらすらとそう答えた。
「そうは思わなかったです」
姓名判断で決めるのは親の想いが込められていない気がしてずっと適当だと思ってきた。
だから女優とも被ってしまうのだと。
もし、名前の選び方に望月さんの親のような想いが込められていたら、それで女優と被ったとしてもこんなに卑屈な気持ちにはなっていなかったかもしれない。
かといってキラキラネームのような一見して読めない名前にされても困るのだけど。
もっと音や漢字の選び方に愛を感じたかった。
親に望んでいたのは、おやつを与えて甘やかされることじゃなくて、目に見える形での愛情だ。
切なさが水分という形で目に溜まっていき、乾いた地面に垂直にぽとりと落ちた。
望月さんには気づかれないように彼と反対方向に顔を向ける。
それでも涙は止まらない。
「ちょっとそこの公園に寄って行こう」
私のただならぬ様子を感じ取ったのか、表情の見えない彼にそう提案され、黙ってうなずき、後ろをついていく。
そこはベンチと鳥の形をした遊具がひとつずつしかない、この時間にまず人は来ないだろうと思われる、とても小さくて狭い公園だった。
ベンチに座ると少し落ち着いた。
この公園に来たのは久しぶりで、土の匂いが懐かしかった。
「雨宮さんは、自分の名前の中でどの漢字が一番好き?
ちなみに俺は、なかなか人と被らない『雨』の字が気に入ってる」
そう言って望月さんが私の顔をのぞき込んだ。
彼の慈愛に満ちた彫刻のような顔が近づき、夜なのにまぶしさを感じて反射的に顔を背けた。
ひとまず聞かれた質問に答えようと思考を巡らせる。
それは今まで考えたこともない質問だった。
私は五つの漢字の中で、どれが好きなのだろう?
ひとつひとつの漢字に対する自分の気持ちを心に聞いて、丁寧に確かめてみる。
「香世子の『世』の字です。
世界の『世』だから、広がりを感じるところが好き」
私の答えを聞いて、望月さんは満面の笑みを見せた。
「ほら、自分の名前の好きなところ、探せば出てくるじゃん。
親の想いがどうとかじゃなくて、自分はこういうところが好きっていうのさえあれば、もうそれでいいんじゃないのかな」
急にトンネルを抜けたみたいに、目の前に世界が拓けた気がした。
彼に聞かれるまで、自分の名前に好きなところがあるという事実にすら気づかなかったけれど、その事実に触れられたことに心が浮き立った。
胸の奥に温かな色のランプがぽっと灯る。
全身に力がみなぎってくるようだった。
そっか、私、自分の名前好きなんじゃん。
親の愛情を名前に求めすぎて見えなくなっていた。
親にどんなに気持ちをぶつけたって、彼らが姓名判断で私に名前をつけた事実は変わらない。
それでも、自分でなら、意味づけを変えることはいくらでもできる。
だって、私だけの名前なのだから。
「そうですよね。
何か、大丈夫な気がしてきました」
私の涙の意味は変わったが、しばらく止められそうになかった。
「俺が泣かせちゃったかな。
ごめんね。
もう泣かないでよ」
隣から困ったような声が聞こえる。
すみません、でも止めたくても止まらないんです、と心の中で返事をした瞬間、望月さんに横から抱きしめられた。
彼の体温がおりてくる。
ぴたりと涙が止まる。
「涙止まった?」
濡れた私の頬に自分の頬を押しつけてきた彼にそうたずねられ、「ふぁ、ふぁい!」と謎の返事をして、壊れたおもちゃみたいにうなずいた。
嗅いだこともないようないい香りがしてきて、意識が飛びそうになる。
彼が「よかった」と言いながら顔と腕を離し、私の身体にこもっていた熱がすうっと引いた。
何これ。
ちょっとよく分からない。
イケメンって誰にでもこういうことができる人種なのか、どうなのか。
それとも望月さん固有の話なのか。
まったく分からん。
理解しがたい。
新たに知ったイケメンの生態(?)に混乱していると、彼は笑って言った。
「さ、帰りましょうか」
それはあまりにも爽やかな笑顔で、有無を言わせない力を持っていた。
ふらふらしながらようやく自宅に辿り着くと、途端にどっと汗が噴き出した。
クーラーが効いているはずなのに、自分の周りだけ無効化されている。
勢いよくベッドに倒れ込んだ反動で身体が少し浮いた後、ベッドの上で落ち着く。
あれは、一体、何だったのだ。
いま一度考えてみるものの、答えなんて出るわけがなかった。
それでも考えずにはいられない。
その直前まで、自分が名前のことでうじうじ悩んでいたことも瞬時に吹っ飛んでしまうような衝撃だった。
そのときのことを思い出そうとしたが、脳内のキャパシティを超えてしまい、自動的にストップがかかる。
だめだ。
考えるの、やめよう。
無駄すぎる。
とりあえず、記憶の倉庫の奥の方にある隠れてよく見えない棚に、さっきの出来事をしまっておくことにした。
今は処理できない。
少なくとも今日の私には。
気持ちと洋服を何とか切り替え、リビングに向かった。
結局、その後も、あの出来事を振り返ることはできなかった。
そもそも理絵ちゃんにも言えずじまいだ。
思い出しそうになるだけで身震いがしてくる。
イケメンと男子慣れしていない私にとっては刺激の強すぎる出来事だった。
このまま倉庫の奥で眠ることになるかもなと思い、それでもいいや、否、その方がいいかもしれないと考えるくらいに強烈な爆弾だったことは間違いなかった。
この店では、カードラックの定位置に自分のカードを入れるのではなく、タイムスタンプを押した人から順に上から入れていく。
そのため、自分のカードがどこにあるのか、毎回探すのに苦労する。
その途中、望月さんのカードを見つけ、それを見て彼のフルネームを知った。
望月優雨。
私の名字に入っている「雨」という同じ漢字が名前に入っていた。
「雨」が使われている下の名前を実際に見たのはこのときが最初で、急に望月さんに対して「雨」仲間のような親近感を覚えた。
この漢字が名前で被ることは名字を含めても滅多になかった。
カードラックの近くに誰もいないことを確認して、そっと望月さんのカードを引き出し、彼のタイムスタンプを眺めた。
望月さんの行動を監視しているような気持ちになり、背徳感が背中をじわじわ這いあがってくる。
素早くカードラックに彼のカードを戻そうとした。
そのとき、彼の名前が書かれた部分にうっかり指が触れてしまい、毒があるから触ってはいけないとされているものを触ってしまったかのように、無意識に手を引っ込めた。
動揺している自分に驚く。
誰もいなかったことが幸いだった。
時間をかけて何とか平静を装い、ようやく探し出した自分のカードをタイムレコーダーに押し込んだ。
帰り道、一緒に帰っていた望月さんに、下の名前のことをたずねてみる。
「望月さんの下の名前って『ゆう』と読むんですか?」
「そう。
『優しい雨』って、ポエムっぽいでしょ」
彼にしては珍しい自虐的な発言だった。
「このドリーミーな名前がずっと嫌いだった。
でも、小学生のときに名前の由来を親に聞く宿題が出てさ。
母が
『優雨が生まれたときは天気雨が降っていて、まるであなたの誕生を天から祝福されているように感じて、優しい気持ちになれた。
だから、この日の雨のように、人を優しい気持ちにする子になってほしいと願ってつけた』
って教えてくれてね。
その親の願いを知ることで、ようやく自分の名前を好きになることができたかな」
名前の由来を幸せそうに語る望月さんを羨望の眼差しで見つめる。
「私にはそんな親の願いが込められた由来もないです。
姓名判断で決めたって言われて。
極めつけは女優のあまかよのせいで、自分の名前が大嫌い」
言ってみて気づく。
嫌いなものを嫌いと人前で断言するのは気持ちのいいことではないのだと。
「いい名前だと思うけどな」
お世辞なのか分からないことを望月さんが言う。
「じゃあ、どこがいいですか?」
どうせなら、いいところを知っている人に教えてもらいたい。
そう考えて問いかけてみた。
自分と望月さんの靴先を眺めながら答えを待つ。
「親の愛を感じるよね。
雨宮さんの未来がいいものになるようにって、姓名判断でいい運気の名前を選んでるから」
彼は、考え込むこともなく、すらすらとそう答えた。
「そうは思わなかったです」
姓名判断で決めるのは親の想いが込められていない気がしてずっと適当だと思ってきた。
だから女優とも被ってしまうのだと。
もし、名前の選び方に望月さんの親のような想いが込められていたら、それで女優と被ったとしてもこんなに卑屈な気持ちにはなっていなかったかもしれない。
かといってキラキラネームのような一見して読めない名前にされても困るのだけど。
もっと音や漢字の選び方に愛を感じたかった。
親に望んでいたのは、おやつを与えて甘やかされることじゃなくて、目に見える形での愛情だ。
切なさが水分という形で目に溜まっていき、乾いた地面に垂直にぽとりと落ちた。
望月さんには気づかれないように彼と反対方向に顔を向ける。
それでも涙は止まらない。
「ちょっとそこの公園に寄って行こう」
私のただならぬ様子を感じ取ったのか、表情の見えない彼にそう提案され、黙ってうなずき、後ろをついていく。
そこはベンチと鳥の形をした遊具がひとつずつしかない、この時間にまず人は来ないだろうと思われる、とても小さくて狭い公園だった。
ベンチに座ると少し落ち着いた。
この公園に来たのは久しぶりで、土の匂いが懐かしかった。
「雨宮さんは、自分の名前の中でどの漢字が一番好き?
ちなみに俺は、なかなか人と被らない『雨』の字が気に入ってる」
そう言って望月さんが私の顔をのぞき込んだ。
彼の慈愛に満ちた彫刻のような顔が近づき、夜なのにまぶしさを感じて反射的に顔を背けた。
ひとまず聞かれた質問に答えようと思考を巡らせる。
それは今まで考えたこともない質問だった。
私は五つの漢字の中で、どれが好きなのだろう?
ひとつひとつの漢字に対する自分の気持ちを心に聞いて、丁寧に確かめてみる。
「香世子の『世』の字です。
世界の『世』だから、広がりを感じるところが好き」
私の答えを聞いて、望月さんは満面の笑みを見せた。
「ほら、自分の名前の好きなところ、探せば出てくるじゃん。
親の想いがどうとかじゃなくて、自分はこういうところが好きっていうのさえあれば、もうそれでいいんじゃないのかな」
急にトンネルを抜けたみたいに、目の前に世界が拓けた気がした。
彼に聞かれるまで、自分の名前に好きなところがあるという事実にすら気づかなかったけれど、その事実に触れられたことに心が浮き立った。
胸の奥に温かな色のランプがぽっと灯る。
全身に力がみなぎってくるようだった。
そっか、私、自分の名前好きなんじゃん。
親の愛情を名前に求めすぎて見えなくなっていた。
親にどんなに気持ちをぶつけたって、彼らが姓名判断で私に名前をつけた事実は変わらない。
それでも、自分でなら、意味づけを変えることはいくらでもできる。
だって、私だけの名前なのだから。
「そうですよね。
何か、大丈夫な気がしてきました」
私の涙の意味は変わったが、しばらく止められそうになかった。
「俺が泣かせちゃったかな。
ごめんね。
もう泣かないでよ」
隣から困ったような声が聞こえる。
すみません、でも止めたくても止まらないんです、と心の中で返事をした瞬間、望月さんに横から抱きしめられた。
彼の体温がおりてくる。
ぴたりと涙が止まる。
「涙止まった?」
濡れた私の頬に自分の頬を押しつけてきた彼にそうたずねられ、「ふぁ、ふぁい!」と謎の返事をして、壊れたおもちゃみたいにうなずいた。
嗅いだこともないようないい香りがしてきて、意識が飛びそうになる。
彼が「よかった」と言いながら顔と腕を離し、私の身体にこもっていた熱がすうっと引いた。
何これ。
ちょっとよく分からない。
イケメンって誰にでもこういうことができる人種なのか、どうなのか。
それとも望月さん固有の話なのか。
まったく分からん。
理解しがたい。
新たに知ったイケメンの生態(?)に混乱していると、彼は笑って言った。
「さ、帰りましょうか」
それはあまりにも爽やかな笑顔で、有無を言わせない力を持っていた。
ふらふらしながらようやく自宅に辿り着くと、途端にどっと汗が噴き出した。
クーラーが効いているはずなのに、自分の周りだけ無効化されている。
勢いよくベッドに倒れ込んだ反動で身体が少し浮いた後、ベッドの上で落ち着く。
あれは、一体、何だったのだ。
いま一度考えてみるものの、答えなんて出るわけがなかった。
それでも考えずにはいられない。
その直前まで、自分が名前のことでうじうじ悩んでいたことも瞬時に吹っ飛んでしまうような衝撃だった。
そのときのことを思い出そうとしたが、脳内のキャパシティを超えてしまい、自動的にストップがかかる。
だめだ。
考えるの、やめよう。
無駄すぎる。
とりあえず、記憶の倉庫の奥の方にある隠れてよく見えない棚に、さっきの出来事をしまっておくことにした。
今は処理できない。
少なくとも今日の私には。
気持ちと洋服を何とか切り替え、リビングに向かった。
結局、その後も、あの出来事を振り返ることはできなかった。
そもそも理絵ちゃんにも言えずじまいだ。
思い出しそうになるだけで身震いがしてくる。
イケメンと男子慣れしていない私にとっては刺激の強すぎる出来事だった。
このまま倉庫の奥で眠ることになるかもなと思い、それでもいいや、否、その方がいいかもしれないと考えるくらいに強烈な爆弾だったことは間違いなかった。