彼はさらに続ける。
「松本さんから聞いたよ。
二人で大学に来てくれたこと。
俺、後から聞いて、すごく嬉しかったのに、雨宮さんを深く傷つけてしまう結果になってしまった。
日菜実のことをこう呼んでいるのは、彼女の名字の『佐藤』姓が同じ学年に何人もいて、区別のためだけだよ。
みんなが呼んでいるのに合わせただけ。
日菜実に彼女がいるっていうことを言っていないのは、どこかでただの女友達にも嫌われたくないって考えてる俺がいるからだと思う。
それに、日菜実は女子から嫌われているし、かわいそうと思っちゃって。
……自分で言ってて、俺って本当最低な人間だね」
彼が力なくうなだれる。
日菜実さんがそういう女子だということは何となく私にも分かった。
可愛くて美人だったけれど、女子から見てあざとい印象が強く残っていた。
それにしても、と思う。
理絵ちゃんのおかげなのだろう。
きっと彼女が、私の代わりに彼にあらゆることをぶつけてくれたのだ。
私としてもせっかくの機会なので、彼女にも言っていなかったことを彼に問いただすことにした。
「麻由ちゃんの誘いを断っておきながら、また勉強教えてと言われていいよと言ったのは?」
「それも知っているのか。
って、こういう言い方は良くないね。
そもそも俺が雨宮さんの知らないところで八方美人に愛想を振りまいていることが大問題なだけだよね。
俺が単に最低なだけなのにね。
情けない。
君和田さんの件も日菜実と同じだよ。
テーマパークの誘いを断った手前、嫌われたくないって考えてどうしても拒否できなかった。
でも何を言っても言い訳にしか聞こえないね。
はあ、やっぱり雨宮さんに合わせる顔がないな。
結局彼女たちにいい顔をすることで、一番大切な雨宮さんを思いっきり傷つけて嫌われてしまったら全然意味がない。
俺がこの世から消えることで雨宮さんにお詫びしたいくらい反省してる。
申し訳ありません……」
彼が唇を噛み締めてうつむく。
あらら……追い詰めすぎたかなと思い、話題を変える。
「バイト中のあの事件のことも、お父さんの影響がありますか?」
「そう。愛に歪む人を助けたかった。
父を見ているようだったからね。
結果はダメだったけど」
彼が苦しそうに笑った。
今でも父親のDVの後遺症やトラウマに苦しんでいる彼が痛々しくて、私も何だか辛くなってきてしまう。
そんな中、優雨が私の目をまっすぐ見て、言葉に力を込めて言った。
「忘れないでほしいのは、俺は今でもちゃんと雨宮さんのことが好きだし、君を一番大切に思っていて、これからもずっと君のことを大事にしたいと思ってる。
でもごめん。
思ってることにやってることが伴ってなかった。
恥ずかしい話なんだけど、俺、自分から人を好きになったのって初めてなんだよね。
そのことを言い訳に使うつもりは全然ないけど、うまく立ち回れなくて、自分で自分にがっかりしてる部分も正直ある。
そういう意味で俺の初恋は雨宮さんだよ」
レモンの炭酸水のように、酸っぱくてしゅわっと炭酸が弾けるような爽やかな気持ちが身体中に染みわたっていく。
嬉しさをゆっくり噛みしめる。
「私からのお願いを聞いてもらっていいですか?」
「うん」
彼が身を固くする。
「まず日菜実さんに、彼女がいることを伝えてください」
「わかった。
ベタベタ触られるのも断る。
もう、今後に備えてわざわざ言わなくても分かるように、宏樹たちみたいなペアリングを今度一緒に買いに行こう」
「はい、嬉しいです。
それと、麻由ちゃんのことも断ってください」
「もちろんそうするよ。
これからは女性からのお誘いとかお願いとか一切断る」
話の流れで急に思い出し、不安になったので念のため付け加える。
「そういえば付き合う前、私が泣いているのを止めるために望月さんが私を抱きしめて顔をくっつけたことがありましたよね?
ああいうことを八方美人に振る舞う中で他の子にもしているのであれば、今後はやめてほしいです」
彼が私の話を聞きながら、たちまち顔を真っ赤にして否定した。
「あれはっ……、後にも先にも雨宮さんにしかしてない。
当然、他の人にしないから」
ひとまず否定してもらえてほっと胸をなで下ろしたものの、なぜ彼がそんなに照れたのか分からなかった。
イケメンの生態でも彼固有の生態でもなかったことは理解したが、詳しい話はまた今度聞くことにしよう。
「それから、私のことは『かよこちゃん』と呼んでください。
私も『優雨さん』って呼びますから」
「……うん」
彼が涙を浮かべた。
「好きと言ってくれない理由は分かりました。
でも、私がどうしても聞きたいときは聞いてもいいですか?」
「喜んで」
「カウンセリングと治療は、問題なければ私も一緒に行きたいです」
「……ありがとう。
一緒に行こう」
彼の目から涙がこぼれ落ちた。
彼のご両親が車の色で揉めたときと同じように、二人で意見を擦り合わせようとする気落ちがあれば、そしてそれを話し合って解決しようとするのであれば、落としどころなんて簡単に見つかるのだ。
二人の未来のことなのだから、ひとりで勝手に判断したって意味がない。
二人で考えて乗り越えていこうとする気持ちが重要になってくる。
優雨さんに向き合って、彼と一緒に頑張ろうと思った。
私は彼の、人に嫌われたくない、という強い気持ちから生まれた言動にむしろ救われた人間なのだ。
今度は私がこの小さな男の子を、大丈夫だよ、といつでも母性で包んで救ってあげたかった。
私が大人じゃなくても大丈夫。
子どもでも守りたい気持ちや母性は持っている。
幼かった彼のように。
私は席を立って、座っている優雨さんを抱きしめた。
「大丈夫です。
私がついています」
ぽろぽろと涙をこぼす彼の姿が美しかった。
私は慈しむように胸元で彼の頭を優しく何度も撫で続けた。
彼も立ち上がり、私を抱きしめ返す。
「かよこちゃん、大好きだよ」
頭を撫でてくれて、私もとうとう堪えきれずに泣いた。
「あ、泣いてる」と彼が言い、「そっちだって」と私も返した。
彼が白くすらりとした長い指で、後から後からこぼれる私の頬の涙をその都度拭ってくれ、顔がゆらりと近づいてきて唇を重ねた。
涙の味がする。
ああ、いつぶりのキスだろう、と思っている合間にその深度はどんどん深くなっていって、もう息ができないくらいで、それでも触れ足りなくて、お互い柔らかくしっとりとした唇をしばらく貪るように吸いあった。
声が漏れる。
呼吸が荒くなる。
「かよこちゃん……」
一度唇を離した後、うっとりした表情の彼からそう名前を呼ばれて心臓を鷲掴みにされた。
体勢を変えてダイニングテーブルにもたれかかり、さらに深く唇を重ねていく。
彼が私の首筋に唇を移したので艶っぽい声になり、慌てて声を抑えようと手で口元を隠そうとしたら
「抑えなくていいよ」
と耳元で囁かれ、手首を掴まれたまま首筋を激しく吸われ続けた。
「ごめん。
キスマークを付けてしまった」
つけた後に彼が申し訳なさげにそう言うのがおかしくて、私は嬉しくて恥ずかしくて心の底から笑った。
「そうだ。あの」
何かを言いかける彼から真剣な眼差しで見つめられ、何だろうと首をひねる。
「俺、かよこちゃんとは、もちろん次の段階の関係に進みたいと思っているけど、十八歳になるまでは待つから」
「……え、何でですか?」
我ながら間の抜けた問いだった。
これではこちらが急かしているように聞こえる、と後で気づく。
ちょっと恥ずかしい。
「県の青少年健全育成条例というのがあってね。
簡単に説明するのが難しいんだけど、十八歳未満の子どもは判断能力が未熟だから、子どもに対して二十歳以上の大人がだましたり、困らせたり、脅迫して行う性行為等が禁止されているんだ。
それから、大人が自分の性的欲望を満たすだけの対象として十八歳未満の子どもを扱っているようにしか見えない性行為等も禁止されているんだよね。
って、もちろん俺、そんなことをかよこちゃんにするつもりは一切ないけど!」
最後の方は叫ぶように彼が説明した。
「大丈夫です、わかりますから」
「ただ、父のこともあって、もしかしたらそういうかよこちゃんを傷つけるような行為を無意識にしてしまうこともあるかもしれない。
この先、俺がかよこちゃんのことを今よりもっともっと好きになって、その気持ちが加速していったら、君が嫌だと言っても勢いのままに何かしてしまう可能性だって否定できない。
だから、それだけは絶対に避けたいと思ってる。
この条例のキモは『十八歳未満の子ども』っていう部分だから、俺の個人的なこだわりだけど、やっぱりその点はクリアしておきたい。
当然、十八歳になったからといって、かよこちゃんが嫌がることに気をつけないわけじゃないよ。
もちろん、他人の考えは分からないから、同じ立場にある人でもすぐにそういう行為をする人たちもこの世の中にはいると思う。
でも、とにかく俺は、かよこちゃんの十八歳の誕生日まで待ちますから」
彼は力強く宣言した。
その話している内容と真剣な面持ちのギャップが大きくて、思わずくすくす笑ってしまう。
「なるほど、そしたらお預けですね」
「そう、お預けよ」
自分で決めたくせに彼が寂しそうに言うのがまたおかしい。
ただ、彼から大切に思われていることはとてもよく理解できて、私ってお姫さまのように扱われているな、なんて珍しく自惚れてみる。
グランドピアノが視界に飛び込んできた。
「ピアノ、弾きましょうか?」
途端に優雨さんがぱあっと笑顔になる。
「こないだ最初に弾いてた曲が好きだな」
「『主よ、人の望みの喜びよ』ですね。
前に弾かなかった曲も弾きますね」
私は、ドビュッシーの「月の光」を彼に聴かせてあげたいと思った。
その日は空気が澄んでいた。
帰り道に空を見上げると、満月に向かって膨らんでいく月が檸檬の形のようで、その陰になっている部分までが透けて見える夜だった。
「松本さんから聞いたよ。
二人で大学に来てくれたこと。
俺、後から聞いて、すごく嬉しかったのに、雨宮さんを深く傷つけてしまう結果になってしまった。
日菜実のことをこう呼んでいるのは、彼女の名字の『佐藤』姓が同じ学年に何人もいて、区別のためだけだよ。
みんなが呼んでいるのに合わせただけ。
日菜実に彼女がいるっていうことを言っていないのは、どこかでただの女友達にも嫌われたくないって考えてる俺がいるからだと思う。
それに、日菜実は女子から嫌われているし、かわいそうと思っちゃって。
……自分で言ってて、俺って本当最低な人間だね」
彼が力なくうなだれる。
日菜実さんがそういう女子だということは何となく私にも分かった。
可愛くて美人だったけれど、女子から見てあざとい印象が強く残っていた。
それにしても、と思う。
理絵ちゃんのおかげなのだろう。
きっと彼女が、私の代わりに彼にあらゆることをぶつけてくれたのだ。
私としてもせっかくの機会なので、彼女にも言っていなかったことを彼に問いただすことにした。
「麻由ちゃんの誘いを断っておきながら、また勉強教えてと言われていいよと言ったのは?」
「それも知っているのか。
って、こういう言い方は良くないね。
そもそも俺が雨宮さんの知らないところで八方美人に愛想を振りまいていることが大問題なだけだよね。
俺が単に最低なだけなのにね。
情けない。
君和田さんの件も日菜実と同じだよ。
テーマパークの誘いを断った手前、嫌われたくないって考えてどうしても拒否できなかった。
でも何を言っても言い訳にしか聞こえないね。
はあ、やっぱり雨宮さんに合わせる顔がないな。
結局彼女たちにいい顔をすることで、一番大切な雨宮さんを思いっきり傷つけて嫌われてしまったら全然意味がない。
俺がこの世から消えることで雨宮さんにお詫びしたいくらい反省してる。
申し訳ありません……」
彼が唇を噛み締めてうつむく。
あらら……追い詰めすぎたかなと思い、話題を変える。
「バイト中のあの事件のことも、お父さんの影響がありますか?」
「そう。愛に歪む人を助けたかった。
父を見ているようだったからね。
結果はダメだったけど」
彼が苦しそうに笑った。
今でも父親のDVの後遺症やトラウマに苦しんでいる彼が痛々しくて、私も何だか辛くなってきてしまう。
そんな中、優雨が私の目をまっすぐ見て、言葉に力を込めて言った。
「忘れないでほしいのは、俺は今でもちゃんと雨宮さんのことが好きだし、君を一番大切に思っていて、これからもずっと君のことを大事にしたいと思ってる。
でもごめん。
思ってることにやってることが伴ってなかった。
恥ずかしい話なんだけど、俺、自分から人を好きになったのって初めてなんだよね。
そのことを言い訳に使うつもりは全然ないけど、うまく立ち回れなくて、自分で自分にがっかりしてる部分も正直ある。
そういう意味で俺の初恋は雨宮さんだよ」
レモンの炭酸水のように、酸っぱくてしゅわっと炭酸が弾けるような爽やかな気持ちが身体中に染みわたっていく。
嬉しさをゆっくり噛みしめる。
「私からのお願いを聞いてもらっていいですか?」
「うん」
彼が身を固くする。
「まず日菜実さんに、彼女がいることを伝えてください」
「わかった。
ベタベタ触られるのも断る。
もう、今後に備えてわざわざ言わなくても分かるように、宏樹たちみたいなペアリングを今度一緒に買いに行こう」
「はい、嬉しいです。
それと、麻由ちゃんのことも断ってください」
「もちろんそうするよ。
これからは女性からのお誘いとかお願いとか一切断る」
話の流れで急に思い出し、不安になったので念のため付け加える。
「そういえば付き合う前、私が泣いているのを止めるために望月さんが私を抱きしめて顔をくっつけたことがありましたよね?
ああいうことを八方美人に振る舞う中で他の子にもしているのであれば、今後はやめてほしいです」
彼が私の話を聞きながら、たちまち顔を真っ赤にして否定した。
「あれはっ……、後にも先にも雨宮さんにしかしてない。
当然、他の人にしないから」
ひとまず否定してもらえてほっと胸をなで下ろしたものの、なぜ彼がそんなに照れたのか分からなかった。
イケメンの生態でも彼固有の生態でもなかったことは理解したが、詳しい話はまた今度聞くことにしよう。
「それから、私のことは『かよこちゃん』と呼んでください。
私も『優雨さん』って呼びますから」
「……うん」
彼が涙を浮かべた。
「好きと言ってくれない理由は分かりました。
でも、私がどうしても聞きたいときは聞いてもいいですか?」
「喜んで」
「カウンセリングと治療は、問題なければ私も一緒に行きたいです」
「……ありがとう。
一緒に行こう」
彼の目から涙がこぼれ落ちた。
彼のご両親が車の色で揉めたときと同じように、二人で意見を擦り合わせようとする気落ちがあれば、そしてそれを話し合って解決しようとするのであれば、落としどころなんて簡単に見つかるのだ。
二人の未来のことなのだから、ひとりで勝手に判断したって意味がない。
二人で考えて乗り越えていこうとする気持ちが重要になってくる。
優雨さんに向き合って、彼と一緒に頑張ろうと思った。
私は彼の、人に嫌われたくない、という強い気持ちから生まれた言動にむしろ救われた人間なのだ。
今度は私がこの小さな男の子を、大丈夫だよ、といつでも母性で包んで救ってあげたかった。
私が大人じゃなくても大丈夫。
子どもでも守りたい気持ちや母性は持っている。
幼かった彼のように。
私は席を立って、座っている優雨さんを抱きしめた。
「大丈夫です。
私がついています」
ぽろぽろと涙をこぼす彼の姿が美しかった。
私は慈しむように胸元で彼の頭を優しく何度も撫で続けた。
彼も立ち上がり、私を抱きしめ返す。
「かよこちゃん、大好きだよ」
頭を撫でてくれて、私もとうとう堪えきれずに泣いた。
「あ、泣いてる」と彼が言い、「そっちだって」と私も返した。
彼が白くすらりとした長い指で、後から後からこぼれる私の頬の涙をその都度拭ってくれ、顔がゆらりと近づいてきて唇を重ねた。
涙の味がする。
ああ、いつぶりのキスだろう、と思っている合間にその深度はどんどん深くなっていって、もう息ができないくらいで、それでも触れ足りなくて、お互い柔らかくしっとりとした唇をしばらく貪るように吸いあった。
声が漏れる。
呼吸が荒くなる。
「かよこちゃん……」
一度唇を離した後、うっとりした表情の彼からそう名前を呼ばれて心臓を鷲掴みにされた。
体勢を変えてダイニングテーブルにもたれかかり、さらに深く唇を重ねていく。
彼が私の首筋に唇を移したので艶っぽい声になり、慌てて声を抑えようと手で口元を隠そうとしたら
「抑えなくていいよ」
と耳元で囁かれ、手首を掴まれたまま首筋を激しく吸われ続けた。
「ごめん。
キスマークを付けてしまった」
つけた後に彼が申し訳なさげにそう言うのがおかしくて、私は嬉しくて恥ずかしくて心の底から笑った。
「そうだ。あの」
何かを言いかける彼から真剣な眼差しで見つめられ、何だろうと首をひねる。
「俺、かよこちゃんとは、もちろん次の段階の関係に進みたいと思っているけど、十八歳になるまでは待つから」
「……え、何でですか?」
我ながら間の抜けた問いだった。
これではこちらが急かしているように聞こえる、と後で気づく。
ちょっと恥ずかしい。
「県の青少年健全育成条例というのがあってね。
簡単に説明するのが難しいんだけど、十八歳未満の子どもは判断能力が未熟だから、子どもに対して二十歳以上の大人がだましたり、困らせたり、脅迫して行う性行為等が禁止されているんだ。
それから、大人が自分の性的欲望を満たすだけの対象として十八歳未満の子どもを扱っているようにしか見えない性行為等も禁止されているんだよね。
って、もちろん俺、そんなことをかよこちゃんにするつもりは一切ないけど!」
最後の方は叫ぶように彼が説明した。
「大丈夫です、わかりますから」
「ただ、父のこともあって、もしかしたらそういうかよこちゃんを傷つけるような行為を無意識にしてしまうこともあるかもしれない。
この先、俺がかよこちゃんのことを今よりもっともっと好きになって、その気持ちが加速していったら、君が嫌だと言っても勢いのままに何かしてしまう可能性だって否定できない。
だから、それだけは絶対に避けたいと思ってる。
この条例のキモは『十八歳未満の子ども』っていう部分だから、俺の個人的なこだわりだけど、やっぱりその点はクリアしておきたい。
当然、十八歳になったからといって、かよこちゃんが嫌がることに気をつけないわけじゃないよ。
もちろん、他人の考えは分からないから、同じ立場にある人でもすぐにそういう行為をする人たちもこの世の中にはいると思う。
でも、とにかく俺は、かよこちゃんの十八歳の誕生日まで待ちますから」
彼は力強く宣言した。
その話している内容と真剣な面持ちのギャップが大きくて、思わずくすくす笑ってしまう。
「なるほど、そしたらお預けですね」
「そう、お預けよ」
自分で決めたくせに彼が寂しそうに言うのがまたおかしい。
ただ、彼から大切に思われていることはとてもよく理解できて、私ってお姫さまのように扱われているな、なんて珍しく自惚れてみる。
グランドピアノが視界に飛び込んできた。
「ピアノ、弾きましょうか?」
途端に優雨さんがぱあっと笑顔になる。
「こないだ最初に弾いてた曲が好きだな」
「『主よ、人の望みの喜びよ』ですね。
前に弾かなかった曲も弾きますね」
私は、ドビュッシーの「月の光」を彼に聴かせてあげたいと思った。
その日は空気が澄んでいた。
帰り道に空を見上げると、満月に向かって膨らんでいく月が檸檬の形のようで、その陰になっている部分までが透けて見える夜だった。