ある日の昼休み、理絵ちゃんの左薬指にシルバーの指輪が光っているのを発見した。

「それ、山本さんとのペアリング?」
「うん、そうなの」

 珍しく彼女が見るからに浮かれていて、幸せオーラに満ちあふれていた。
 ひどくまぶしい。

「いいなあ」

 こちらは名前すら呼んでもらえないのが現状だ。
 ペアリングなんて夢のまた夢でしかなかった。

 偶然にもそのとき私の左薬指には、一枚一円もしないであろう安っぽい絆創膏が貼られていた。
 前日、指のムダ毛をカミソリで剃ろうとして失敗し、うっかり皮膚まで削ってしまったのだ。

 彼女との落差に笑うしかなかった。

 指の傷口がひりひりと痛む。
 私は左薬指の重みと共に訪れる、幸せや愛しさや満足感をまだ知らない。

「香世ちゃんだって、前にドライブデートしてたじゃない」
「あのときだけだよ」
 投げやりに返す。

 何もかもが恐ろしく完璧だったあの日のことが、恐ろしく昔のことに感じる。
 当時もあまり実感はなかったし、どこか現実味がなかった。

 やはりあれは幻だったのかもしれない。


 私のクラスのホームルームが長引き、やや急いで理絵ちゃんの教室に向かう途中で、廊下を歩いてくる葉山君とすれ違う。

「葉山君、お疲れ」
「お疲れ」

 これまでと同じように挨拶して、夏休み前と同じ笑顔をお互い交わしあう。

 夏休み明け、彼は何事もなかったかのようにこれまでどおり話しかけてきてくれたので、そのまま以前のように友達として付き合っている。

 その対応が正解なのかは分からないけど、優雨と付き合うことになった手前、彼を自分から特別遠ざける理由も私にはなかった。

「香世ちゃん、今日は遠回りして帰ろう」
 理絵ちゃんからそう声を掛けられ、内緒で話したいことがあるのだとピンときた。

 普段通らない、閑静な住宅街を二人で歩きながら、彼女が話し始める。

「誰にも言わないでね。
 私、山本さんと最後までしたの」
「どうだった?」
「うん、まあ、痛い。
 でも、やっとひとつになれたって気持ちの方が強かったかな。
 あと、腹圧がすごい」
「そうなんだ」

 かなり生々しい感想で、聞いたことを後悔した。

 恋愛面でどんどん先に進んでいく彼女の後ろ姿を見ながら、必死についていく私。
 それでも彼女との差は開いていって、その後ろ姿も見えなくなりそうだった。

「いいなあ。
 私も早く望月さんと先に進みたいよ」

 夏休み中は圧迫するように近かった空も、日を追うごとに少しずつ高くなりはじめていた。

 日々遠のいていく空を見上げながら、置いていかれないようにしなければと焦りを感じていたのが顔に出ていたかもしれない。

「香世ちゃんは、望月さんと山本さんの大学に行ったことある?」
「ないよ」
「私、前に行ったことあるんだ。
 香世ちゃん、今度一緒に行ってみようよ。
 二人にサプライズで会いに行こう」

 彼女が心の躍る提案をしてくれた。
「わぁ、行きたい」
 その誘いに乗ることにする。

 彼女の心遣いが優しすぎて逆に胸が痛いくらいだった。
 大学に行ってみたら、それだけで少しは大人に近づけそうな気がした。


 優雨とアルバイトが被っていないシフトの日、ロッカールームで女子高生のアルバイト仲間の会話をロッカー越しに再び聞く機会があった。

「望月さん、彼女できちゃったんだって。
 まじショック」
「相手はどんな人?」

 ドキリとする。

「教えてくれなかった」
「やっぱ、同じ大学生じゃない?
 じゃないと釣り合わないもんね」
「だよね。
 テーマパークの夢の国に行きませんか?って誘ったら、そう言って断られた」
「でも、麻由が本気で好きなら略奪愛もアリじゃん」

「そっか。
 そうだよね。
 また勉強教えてくれますか?って聞いたら、いいよって返事くれたし。
 つけ入るチャンス、全然あるよね」

「そうだよ。
 まだまだイケるって」

 キャッキャと楽しそうに会話しているホール担当の彼女たちがロッカールームを出て行き、私ひとりが残された。

 おいおい、どういうことだよ。
 優雨に突っ込まざるを得ない。
 怒りが沸き上がってくる。

 テーマパークの誘いを断っておきながら、勉強は教える約束をするってどういう心境なのだろう。

 確かに私と付き合っていることは隠しているが、それとこれとは話が別だ。
 ただ、何かしら彼なりの考えがあってのことかもしれないと思うと、そうむやみに非難もできない。

 それに、あんなに私のことを好きだと全身で伝えてくれている彼がそんな二股みたいなことをするようにはとても思えなかった。

 麻由のことが好きだという感じでもないし(もしそうなら断っていないだろう)、彼のことを信じたかった。

 もしかして私は彼に試されているのだろうか。

 だったら受けて立とうじゃないか。
 大学に内緒で行って驚かせてやる。

 待ってろ、望月優雨。

 彼に戦いを挑むかのように、ロッカーの扉を握りこぶしで軽く叩いた。


 理絵ちゃんが調べたところによると、山本さんと優雨は同じ法学部の同じ学年で、どうやらほとんど時間割が一緒のようだった。
 そして一週間のうち、私たち高校生の終業時間が大学生の二人より早く終わる日が一日だけあった。

 木曜日だ。

 私たちの終業時間は午後三時。
 彼らの終業時間が午後四時十分。
 F駅までどんなに長くかかっても二十分。
 F駅から電車で三十分くらいのところに二人の通う大学があり、最寄り駅から大学は五分程度なので、余裕を持って大学に辿り着けるという算段だ。

 私と理絵ちゃんはその日、素晴らしく早く学校を飛び出し、駅までの道のりを小走りに歩いた。

 二人とも時間を気にしすぎて無言になる。
 予定どおりの電車に飛び乗る。
 車内の座席に座って、安堵の息を吐いた。

 緊張を紛らわせるために、窓の外を流れる景色を眺める。
 ワクワクするというより戦いに行く気分だ。

 この日のために買った、普段は使ったことのない色つきリップクリームをスカートのポケットから取り出してささっと塗った。

 唇がピンク色に染まる。
 ちょっとした心の鎧のつもりだった。

 大学の最寄り駅に降り立ったことはこれまでになかった。
 ホームに降りた時点でそこから大学が少し見える。
 大きな建物と緑が多い。
 高校とは比べ物にならないくらい敷地が広く、遊園地みたいだった。

 正門をくぐると、私服の大学生の中で制服の私と理絵ちゃんは恐ろしく目立ち、行きかう大学生の視線を集めていた。

 でも理絵ちゃんが一緒なら怖くない。
 もともと戦いに挑みに来ただけなのだ。
 敵地に入って注目を集めるのもやむをえないだろう。

 大学はだだっ広い空間だった。
 この敷地の解放感から、大学という場所の自由な空気を感じ取る。
 自分の立つ場所が変わるだけで気持ちに余裕が出てくる。

 大学生ってこんなに余裕があるんだと、改めて高校生との落差を痛感した。

「あの建物が法学部棟だよ」
 理絵ちゃんが教えてくれる。
 その棟から少し離れた、森のように緑が生い茂った休憩場で私たちは二人を待つことにした。
 その棟の入り口からすぐには見えないベンチに隠れて座る。

 チャイムが鳴って、それぞれの学部棟から人がばらばらと出てくる。

 様子を伺っていると、ついに山本さんと優雨、他にも数人の男子が連れ立って法学部棟から出てくるのが見えた。

 緊張が高まる。

 私たちが彼らに近づこうとベンチを立ち上がり歩き始めたときだった。

 法学部棟の奥から、
「優雨ー!」
 というソプラノの声が彼を呼び止めるのが聞こえて、私はその場に立ちすくんだ。

 呼び止められた本人は後ろを振り返り、そして

「ひなみ!」

 と笑顔で応えた。

 ひなみと呼ばれたショートカットの活発そうな女性が、走ってきて彼の腕に抱きつき
「もうっ、帰るの早いよぉ」
 と甘える。

 彼女の目鼻立ちは整っており、優雨と同じく目の醒めるような可愛さと美しさを併せ持つ女性だった。

「優雨とひなみってお似合いだよな」

 周囲にいた男子たちがと二人をひやかす。
 それを山本さんと優雨は顔を見合わせて苦笑いをしながら見ているけれど、それだけだった。

「なんであの二人、望月さんに彼女がいるってこと言わないんだろ……」

 静かな怒りを込めて理絵ちゃんがそうつぶやいたのが聞こえたけど、私は無表情で何とかそこに立っているのがやっとで、一言も声を出せなかった。

 山本さんと優雨、ひなみさんを含んだその法学部生の集団は、私たちのいる方向に向かって歩いてくる。

「やば、こっち来る!
 香世ちゃん隠れよう」

 私たちは木の陰に隠れる。
 この小さな休憩場は、そこら中に緑豊かな木々が立ち並んでおり、ありがたいことに死角には困らなかった。

 私と理絵ちゃんがいることも知らずに、目の前を通り過ぎていく集団。

 楽しそうな笑い声。
 知らない女性と、知らない人に見えた私の恋人が交わしていた笑顔。
 お互い、下の名前を呼び捨てで呼び合う二人。

 その何もかもがこの世で最も遠くに感じ、瞬く間にセピア色に色褪せた。
 このときほど自分が高校生であることを呪ったことはない。

 届かない。
 あまりにも遠すぎる。

 どれだけ手を伸ばしたとしても、今の彼が私を認識することは絶対にできない。
 心は完全に凍りつき、涙すら出なかった。

 私は手の甲でピンク色に染まっていた唇をごしごしと力任せに擦った。

 ひどく掠れた声で「帰ろう」とだけ小声で言い、すっかり姿の見えなくなった彼らが歩いた駅までの道を、なぞるようにひとりで歩き出した。

 帰りの電車の中でも私と理絵ちゃんは何も話さなかった。

 家の近くまで帰ってきて、ようやく彼女が「香世ちゃん、一緒にいようか?」と言ってくれたが、黙って首を振り、自宅への道を歩いた。

 誰もいない家に帰り、自分の部屋に入ってドアを閉めた瞬間、ベッドに飛び込んで枕を口に思いっきり押し当て、「うわあああああ」と泣き叫んで慟哭した。

 感情が膨れ上がりすぎて声は出ないのに、身体はえづいているようにどす黒いものを外へと吐き出そうとしている。

 私は彼にとってどんな存在なのだろう。

 誰かに言えないくらい恥ずかしい存在なのだろうか。

 ひなみさんは呼べて、私を呼べない理由って何だろう。

 でももう、知りたいとも理解したいとも思わなかった。

 ギリギリのところで自分を支えていたものがぽきりと折れた。

 とても疲れた。
 とてもとても疲れた。
 身体が鉛のように重い。

 もう何もかもがどうでもいい。
 何も考えたくない。

 今まで自分の心や身体の中にあった何かが、すべて自分の外にするりと流れ出て行ってしまったのを感じる。

 そして最後にとてつもなく重い疲労感だけが残った。
 戦いに負けたのだと悟る。
 いっそひと思いに私も消えてしまえたらよかった。