車に戻って彼がエンジンをかける。

 車内の設定温度と屋外の気温の差を埋めようとして、吹き出し口からすごい勢いで風が放たれる。

 私は助手席でシートベルトを締めたが、望月さんはシートベルトを締めずに、ニコニコしながら吹き出し口の向きを上げたり下げたりして調整していた。

「シートベルト、締めないんですか?」
 不思議に思って彼にたずねる。
「うん、邪魔だからね」
「え、何の邪魔……」

 になるんですか、と聞こうとしたとき、風向きの調整が終わった彼がこちらを向いて、私のシートベルトのボタンをカチリと押した。

 シュルリとベルトが左上の所定の位置に戻っていく。

 困惑していると、望月さんが助手席側に身を乗り出してきたので、反射的に窓側に仰け反りそうになる。

 しかし、彼の腕がそれを許さない。

 彼の左手が伸びてきて私の腰に回され、運転席側に身体を引き戻される。

 視線がぶつかり、絡まる。

 望月さんは、右手で私の顔に触れ、今にもとろけそうなうっとりした表情で囁いた。



「好きだよ」



 私のリアクションを待たずに彼は自分の唇を私の唇に重ねた。

 最初はついばむような、徐々に激しく貪り食べられているような感覚に襲われる。
 お互いの鼻呼吸が荒くなる。
 自分が食べ物にでもなった気分だ。

 彼の右手が私の後頭部に回り、強く頭を引き寄せられていた。

 彼がもっと深く私の中に入ってくる。
 止められない。
 受け入れる。
 でも逃れようとする。
 それでも絡みつかれて逃げ場を失う。

 いつの間にか彼にしがみついている自分がいた。

 違う、苦しかったから。
 仕方がなかったから。
 そんな自分への言い訳ほど無駄なものはない。

 イタリアンのお店に向かう道すがら、上機嫌で車を運転する望月さんの横顔に向かって、息絶え絶えの私は、やっぱりシャチじゃんという気持ちを心の中でぶつけた。

 肉食獰猛のシャチはおそらく、私のファーストキスがさっきの瞬間だったという事実に気づいていない。

「あー、やばい」

 運転中、望月さんが前触れなくつぶやくので、何かまずいことが起きたのかとドキリとする。

「何ですか?」
 おそるおそる聞く。

「また雨宮さんとキスしたくなっちゃった」

 ハンドルを片手だけで器用に操縦しながら、もう一方の手を口元にやりつつ、私の方をちらりと見て言う。

 彼がキスしたいという気持ちをその視線に全力で込めて投げてくるので、その気持ちがあまりにも重すぎて受け止めきれそうになかった。

「いやいや、前見て。
 ちゃんと運転してください」

「じゃあ、後でまたキスしていい?」

 甘えたような口調で言われて断れるわけがない。

「……さっきみたいに激しいのは息ができないので」

「ごめん。
 俺もさっきは余裕なかった。
 今度は優しくするから大丈夫」

 本当に大丈夫なのかと思ったがうなずいた。
 望月さんにうまく乗せられてしまっている感が否めない。

 イタリアンのお店は専用駐車場がないので、近隣の有料立体駐車場に入る。
 望月さんは、両隣の車が後ろ向きで駐車していた間のスペースに、車の頭からスッと突っ込んで前向きで駐車した。
 目の前は壁だ。
 シートベルトを外す。

 再び、望月さんの腕が伸びてきたが、私の身体はビクリと反応してしまう。

「嫌?」
「嫌じゃないです。
 でも、恥ずかしい」

 人に見られるから、ではない。

「ほら、ここなら誰にも見られないから恥ずかしくないよ?」

 甘い視線を交わして、自然に寄り添って唇を重ねた。

 さっきよりはゆっくりと優しいけれど、やはり長く、深い場所で絡みつかれて逃げることは許されない濃厚な時間になる。
 ただ、短時間でも人間は慣れる生き物で、息苦しさは感じない。
 水の中で息を止めて泳ぐことに慣れた感覚に似ているかもしれない。

 ふとした唇の隙間から、自分の艶っぽい声が漏れたことに、私自身が最も驚いたけれど。

 立体駐車場のエレベーターに二人きりで乗り込んで扉が閉まった後、望月さんが困ったような顔をして
「さっきの雨宮さんの声は反則だから」
 と私をたしなめる。

 そんなこと言われてもなぁと思いながら、とりあえず
「ごめんなさい」
 と謝った。
 自分でコントロールできるなら私もしたい。

 望月さんの両親が行きつけにしているというそのイタリアンのお店は、少し薄暗い雰囲気で大人の行くお店だった。
 私と望月さんは正方形のテーブルに隣り合って座る。

 私が真剣にメニューを見て料理を選択している隣で、彼はうっとりしながら私の頬を撫でて、しっとりした柔らかい感触を楽しんでいる。

「あの、望月さん、他の人も見てます」
「他人なんて自分のことしか興味ないから、こっちなんて見てないよ」
「お店のスタッフは見てると思うんですけど」
「赤の他人だからどうでもいいかな」
 そこは徹底している。

 いざ料理が運ばれてくると、お腹が空いているはずなのになぜか食欲が湧かない。

 それよりも、と、ピザを美味しそうに頬張る望月さんの口元を、私はピンクグレープフルーツの炭酸水をストローで飲みながら上目遣いでじっと見つめる。

 もっとキスがしたい。

 彼が私の視線に気づき、ニヤリとして小声で答えた。

「そっちは、また後でね」

 食事もそこそこに車に戻る。
 食べることが趣味の私が、お腹が空いているにもかかわらずそれを満たさずに他のことを優先する日が来ようとは。
 まぁ、後で絶対にお腹が空いてくるのは目に見えているけど。

「さっきみたいに優しくしてくださいね」
「分かってる」

 というやり取りをして、助手席から望月さんの胸の中に私から飛び込む。

 彼は待ち構えていて、その両手が私の腰に回される。
 私も両腕を彼の首に回す。

 彼の唇が私の唇に重なり、お互い口を開けて深い場所に入っていく。
 約束されていたかのように、ねっとりと絡みついて離れない。
 逃げる気はさらさらなく、むしろもっと絡み合いたいとさえ思う。
 今この瞬間は私と彼の二人だけの世界だという感覚がたまらない。

 私は自分でコントロールしようとしたけれど空しい努力に終わり、出さないようにしようとすればするほど声が出てしまうのだった。

 彼は余裕のない表情のまま、私の唇から自分の唇を離し、私の耳元で

「ごめん、止められない」

と呟いて、私の首筋に幾度か唇を這わせた。

 くすぐったいような気持ちいいような感覚が身体中をかけ回り、艶やかさを増した声が自分の口から漏れた。
 私も彼も、何かを抑えようとして身体を離した。

「雨宮さん、だめ、それは、本当に。
 俺、危なかった」

 荒い息をしながら望月さんが運転席に座り直す。

「あの、コントロールしようとしたんですけど無理でした」

 私も助手席に戻り、シートベルトをカチリと締める。

「お願い、俺を煽らないで。
 こっちも我慢してるから」

 ハンドルに両腕を乗せて顔を埋めていた彼が、視線だけこちらに投げて牽制しながらそう言った。

「すみません」
 再び私が謝る。

 しかし、どう考えても私だけが謝らないといけないことをしたつもりはない。

「よし、急いで帰るぞ」
 彼は気合を入れて車を発進させ、駐車スペースからバックで車を出し始めた。

 夜遅めの時間帯は高速道路も空いていて、車はスムーズな走りで移動した。
 予想していたより大分早く、家近くまで帰ってくる。

 帰りは行きの待ち合わせ場所だった店の駐車場ではなく、私の家近くまで送ってくれた。
 その気遣いがじんわり嬉しい。
 車は道路上に静かに駐車した。
 ハザードランプがチカチカと灯っている。

「今日は一日お疲れさま。
 楽しかったね」

 望月さんはそう言って微笑み、シートベルトをしたまま、私に軽いキスをした。

 でも、ごめんなさい。
 私は我慢できなかった。

 今日の一日の終わりを彩るキスが唇が触れるだけのキスなんて、そんなの耐えられなかった。

 彼が意図したのかどうかは定かではないが、今日一日でしっかりキスの虜になっていた。

 後で望月さんに怒られるのは覚悟の上だった。
 私はまず、彼に笑顔を返し、シートベルトをカチリと外す。

 帰ると見せかけておいて、両手を伸ばして、シートベルトをしたままの彼の顔を両掌で包み、彼にキスをした。

 でも軽いキスだ。
 残念ながら経験値がないので、それ以上のことは自分からはできない。

「もっとキスしたい、です」

 唇を離した後、驚いて瞳孔が開きそうになっている彼の大きな目をまっすぐ見て私は言った。

 望月さんは、やっぱりちょっと怒りながら自分のシートベルトを外し、

「家の近所だから、せっかく軽めで留めてたのに」

 と言いつつ、あっという間に私から優勢を取り戻し、最初にしたときみたいに、私の後頭部を左手で引き寄せ唇を重ねたかと思うと、激しく貪るように深い場所で絡んできて、しばらく離してくれなかった。

 強引なキスは息が苦しい。
 望月さんに降参するしかなかった。

「申し訳ございませんでした」
 敗北を喫した私は、助手席でぐったりしながら深く謝罪する。
「分かればよろしい」
 運転手からようやく許してもらう。

「今日はありがとうございました。
 おやすみなさい」
 今度こそ本当に車を降りるため、助手席のドアを開けた。
 私はドアの外で車が発進してその後ろ姿が見えなくなるまで見送る。

 家に着くまでにポーカーフェイスを作り込むため、両頬をぺちぺちと手で叩きながら帰宅した。
 頬は熱を持っていて、全然醒めそうになかった。

 上空に移動した大きな月の光が、まっすぐ私に降り注いでいる。


 身体は疲れ切って眠たいはずなのに眠れない。
 ベッドの上で寝返りを何度も打って、もぞもぞと動く。

 一日のうちにありとあらゆることが詰め込まれ、大渋滞していて、思い出すと目が回りそうになる。

 枕元に置いていたベルーガのぬいぐるみを取って、そのつぶらな瞳のあどけない顔をまじまじと見つめながら、頭を撫でてみる。

 私と望月さん、付き合うことになったのか。

 夢のようで信じられないけど正しく事実だった。
 望月さんに振られましたと言った方がよっぽど信ぴょう性が高い。

 あんなに、今日一日を思い出にしてこれからひとりで生きていこうと考えていたのに、そんな自分が他人のように遠かった。

 今日のお昼までそう思って生きていた自分とは、もう細胞レベルでまったくの別人になってしまっていることに戸惑いを隠せない。

 目を閉じる。

 一日中見続けた様々な望月さんが走馬灯のように浮かんでくる。

 サングラスをした横顔。
 近距離で見る少し緊張した大きな瞳。
 とろけそうに緩んだ恍惚の表情。
 キスをする直前の少し伏せられた目元と形のいい唇。
 感情を抑えられなくなって上気した頬。

 どれも今まで見たことはなくて、簡単に見ようとすることは叶わなくて、その事実に気づいた私の心は大きく揺さぶられた。

 そして初めての世界を知る。

 キスというものがあれほどまでに気持ちのいいものだとは知らなかった。

 自分の唇にそっと触れる。
 この唇は、あの薄くて瑞々しい望月さんの唇を知っている。

 ただその事実だけで、この世界にある大きな秘密の鍵を握りしめているような気持ちになる。

 私のファーストキス。
 嵐のようだった。
 大人ってすごいな。

 子どもには分からないその世界の深さをキスをするというたったひとつの行為から感じられて、胸がいっぱいになる。

 望月さんの私に対する気持ちがそのまま今日のキスに表れているようで、恥ずかしさより嬉しさが勝った。

 何度も何度も彼とのキスをぎこちなく思い出しては、身体の中心と唇の触感で反芻する。
 ベルーガを彼の代わりに抱きしめながら。

 西から台風が近づいているそんな夜明け前だった。
 風が強くなってきて、窓の外から木々がざわざわと揺れる音が聞こえている。