「お母さん、今日お昼ご飯と夕ご飯いらない。
 帰りは夜遅いと思う」

 三日後。

 何とか入手したのは、紺地に小花柄のマキシワンピース。
 ウエストは乙女の味方・ゴム使用で、寸胴なのが目立たないよう心を砕いた。

 夕ご飯を望月さんと一緒に食べるのかはまったく分からなかったけど、デート経験者の理絵ちゃんから「ディナーもありうるから空けておくこと」というお達しがあり、素直に従う。

 それに、もし昼だけだったとしても十分で、望月さんと別れた後、その余韻をどこかひとりで噛みしめて夕飯を食べるつもりだった。

 親の前ではきっと変な顔しかできない。
 怪しまれるのは面倒だった。

「香世ちゃん、行ってらっしゃい。頑張ってね」
 母がウインクして玄関で見送ってくれる。
 ワンピースを買いに行ったときからおそらくバレていたのだろう。
「行ってきます」
 小さなリボンのついたバレエシューズで玄関から飛び出した。

 ドキドキしながら店の駐車場に向かう。

 今日もとても暑い。
 数メートル先が陽炎でゆらゆら揺れている。
 母が気を利かせて浴衣のときみたいなヘアアレンジをしてくれたが、やっぱり普段と違う髪型は慣れない。
 歩きながら崩れていないか気になってしまう。

 小さなことに気を取られながら店に辿り着き、それらしい人影はいなかったので、瞬間的に気が緩む。

 店の前に立ててある幟が生ぬるい風ではためているのを見ていたら、そわそわしてきて落ち着かなくなった。

 いっそ逃げたくなってくる。
 このまま望月さんが来なければいいのに。

 そのとき、スルリと駐車場に紺色のステーションワゴンが入ってきた。
 駐車スペースに止まったその車の運転席から降りてきたのは、紛れもなく望月さんだった。

 理絵ちゃんの読みどおりだった。

 ああ、ちゃんと用意してきてよかったと安堵する。
 あのとき理絵ちゃんに報告していなかったら、どんなことになっていたかは考えたくない。

「雨宮さん、お待たせ。
 はい、どうぞ」

 望月さんが助手席のドアを開けてくれる。
 今日の彼は、いつものTシャツとジーパン姿ではなくて、見慣れない黒い七分丈のジャケットにベージュのサマーニット、黒いスキニーパンツ姿だった。

 男の人は、なぜ、着ているものが違うだけで、こんなに別人みたいに見えるのだろう。

「ありがとうございます」

 望月さんから視線を逸らしながら車に乗り込む。
 車内は新車の匂いがした。
 冷房がよく効いていて気持ちいい。
 汗がすうっと引いていく。

「さてと、出発しますか」

 運転席に乗り込んだ彼がそう言い、ふわりと彼の香りが助手席に流れてきて、二人きりの隣り合った狭い空間で心臓がどくりと跳ねた。

 サングラスをかけた望月さんがハンドルを握り、車を発進させる。

 私は運転席を盗み見ながら、この横顔をずっと見ていたいと願った。

「ごめん、本当はベンツとかの車もあったんだけど」
 運転しながら、彼が言い訳めいたことを話し始める。

「えっ、そんなに車たくさん持ってるんですか?」
「いやいや、これも全部父の車」
 横顔が笑う。

「俺はこの車しか運転したことがなくて、父に許してもらえなかった」

 望月さんは苦笑いだったけど、車のことはよくわからないし、そこまで興味はなかった。

「うちには車がないんで、私が車に乗る機会はほとんどないですし、なので車にこだわりとか全然ないですし、この車もすごく乗り心地いいと思います。
 高級そうだし」

 内装を見ながら、申し訳なさそうな望月さんを一生懸命フォローする。
「ありがと」
 彼が照れていた。

「この車、最近父が買ったんだけど、車の色を選ぶときに家族ですっごく揉めてさ。
 父は車が好きなんだけど、これは母も乗る予定だったのね。
 それで、父は黒かグレーがいいと言って、母は赤か白がいいってお互い譲らないの」

 思い出し笑いをしながら家族のことを話す望月さんは楽しそうだった。

「それでどうして紺色になったんですか?」
 先を促すと、ふふっと笑って言う。

「二人が俺に意見を求めてきた。
 困るよね。
 丸投げされた。
 二人の意見を分析すると、母は可愛い色がよくて、父はカッコいい色がよかったみたいだったから、紺色を選んだ」
「二人は納得されたんですか?」

 車が赤信号で止まる。

「したね。
 その手があったか、って即決だったわ。
 本当、人の視野なんて狭いもんだなあってそのとき思ったよ。
 最初から紺色の選択肢はあったはずなのに。
 二人が意見を擦り合わせる気持ちで話し合えてたら、簡単に気づけたのにね」

 青信号に変わり、ハンドルを回した望月さんの左手に巻かれている丸いような四角い時計が、陽の光をキラリと反射した。

 車は東京方面の高速道路に入っていく。
 私はハッとして、大事なことを聞いていなかったことを思い出した。

「今からどこに行くんですか?」
「うん、今日も暑いからね。
 涼しげなところに行きます」

 涼しげなところ。

 海かと思ったが、そうだとしたら、事前に水着の準備を指示するはずだ。
 となると、そこではない。

「そして、本当は陸から行くのが早いけど、涼しい見た目を求めて、海を渡って行きます」

 ますます言っている意味が分からなかった。
 悔しい。

「どこですか?」
「それは着いてからのお楽しみ」

 高速道路に入った車は、急激に加速した。
 周りの景色が飛ぶように後ろに過ぎ去っていく。
 身体にかかる重力を体感する。
 標識にUの文字が見えた。
 涼しいところ。

「夢の国の海版はどうです?」
「残念! 違いまーす」

 運転手が子どもみたいに不正解を宣言する。

「もう、なんで教えてくれないんですか」
「分からない方が楽しいでしょ。
 サプライズだと思ってよ」
「わーかーりーまーしーた」

 やけくその気分になり、あえて子どもじみて返す。

「雨宮さんが子どもみたいだ」
 運転席でくすくす笑われてしまう。
「実際、子どもですし」
 助手席でむくれてみる。

 高校生は子どもで、無力だ。
 十七歳では車も運転できない。

「そんな風に思ったことないよ。
 高校生スタッフの中で、松本さんと雨宮さんはすごく大人っぽいなと前から思ってた」
「私はそんなことないです。
 理絵ちゃんは確かに大人っぽいですけど」

 高速道路がトンネルに入ったので、望月さんがサングラスを頭上にずらしてカチューシャのように着ける。

 少し前髪がかき上げられたようになり、彼の美しい形の額が露わになった。

 トンネルは断続的だったが、その距離はトンネルをひとつ過ぎるたびに、少しずつ長くなっている気がした。

「雨宮さんも大人だよ。
 今日は特に大人っぽいと思う。
 髪を上げてるの、いいね」

 ちらりとこちらに視線を向けて、彼が言った。

「望月さんこそ、今日はいつもと違う感じで、大人っぽいですね」
 私も負けじと彼の横顔を見つめながら「大人」返しをした。

「そうなんです。
 今日の私は大人全開ですよ」
「なんですか、それ」
 二人で笑う。

「大人だから、片手で運転できますし」
 そう言って、望月さんは、左手で私の右手を取り、自然に手を繋いだ。

 息が止まりそうになる。

「でも、トンネルの中だけね」
 彼が大切なことを後から付け足したので、「安全運転してください」とお願いして、そっと手を離した。

 長い長い最後のトンネルが終わり、光の中に車が飛び出した。
 視界が開ける。
 望月さんが、再びサングラスをかける。

 まぶしいと思ったら、高速道路の周りが見渡す限り海だった。

「うわぁ、すごい!
 海だ!
 確かに冷房が効いている車の中だと、見た目も感覚も涼しいですね」
 思わずはしゃいでしまう。

「でしょう?」
 望月さんも得意げだ。

「でも、日焼けしそうです」
 日差しが海面で乱反射して車の中に差し込んでくる。
「その対策は考えてなかった。
 もう手遅れだから勘弁して」
 車は海の上で、さらに気持ちよく加速した。

 今日は天気もよくて、絵に描いたような青い空と海が眼前に広がっている。

 輝いているのは陽の光だと分かっているけど、隣にいるのが望月さんじゃなかったら、こんなに心の中までキラキラした光で満たされていない。

 助手席から海と空と望月さんを交互に見ながら、高揚感であふれていた。

 海の上から陸上に戻ると、標識はC市方面に進んでいく。
 高速道路をK市で降り、今度はひたすら山の中に入っていった。
 さっきまで海の上だったのに、見渡す限り緑の山だらけの景色になる。
 今日は視界が海に山にと贅沢な一日だ。

 K方面という文字を見てようやく思い至る。

「望月さん、分かりました」
「でも言わないでね」

 いつの間にかサングラスを外した運転手から釘を刺される。
 黙ってうなずく。
 目的地は、着くまで言葉にしない方がワクワクする。


 水族館と海の動物のパフォーマンスが楽しめる場所が、今日の目的地だった。
 チケット売り場に着いてお金を払おうとしたら、既に望月さんが前払いで購入していたらしい。

「払います」
 と言うと、
「だからサプライズって言ったでしょ。
 今日はこないだのお礼なんだから、一日俺にエスコートさせて。
 男のメンツを立ててほしいな」
 と返されたので、従うことにした。
 また今度、違う形でお礼を必ず返そうと決意する。

 入口のゲートを抜けると、「まずはお昼ご飯を食べよう」と彼が言ったので、レストランへ向かう。
 園内は屋外なので暑かった。

「暑いねー」
 望月さんがそう言いながら、私と手を繋ぐ。

「手を繋いでいる方が熱くないですか?」
 自分の性格がひねくれていることは自覚しつつも、あまのじゃくみたいなことを言ってみる。

「いいの。
 この熱さは俺にとって必要な熱さだから」

 私の目を見て軽く微笑む彼のすべてがまぶしすぎた。

 いつも誰に対しても優しいけれど、特に今日の望月さんは優しさが全開で、どうにかなりそうだった。

 こないだの介抱のお礼だということはもちろん理解している。
 彼の隣にいるのが私でなかったとしても、おそらく同じだということも分かっている。

 それでも、今日だけは二度とない思い出のために勘違いさせてください、この思い出を胸にこの先ひとりで生きていきますから、と何かに向かって心の中でつぶやいた。

 歩いていると、園内の女性客が望月さんをあからさまに見てヒソヒソと話をしているのが目についた。

 きっと私と彼が釣り合わないとか思われているんだろうなと急に気持ちが尻込みしてしまい、手を離して望月さんの少し後ろを歩こうとする。

「何で俺から離れるの」

 悲しそうな目をして当然の疑問を彼がぶつけてきた。

「いえ、他のお客さんが望月さんのことを見てますし。
 いつもの帰り道の癖と言いますか」
 自分で言葉にしてみると、大したことない理由だなと我ながら呆れる。

「知らない赤の他人のことなんてどうでもいいでしょ。
 気にしたら負けだよ」
 望月さんは、そんな私に呆れたりすることなく再び手を繋いで隣を歩いてくれた。


 レストランは一転して海の中のような青い内装で統一されており、ひんやりと涼しかった。

「雨宮さん、何でも頼んでね。
 ほら、これなんかどう?
 ステーキ&ハンバーグ」

 メニューを見ながら、望月さんがボリューミーなメニューをわざと勧めてくる。
 やだやだ、何か星野さんみたい。

「望月さん、人のことなんだと思ってるんですか。
 ここ水族館ですよ。
 なんでお肉なんですか。
 それ頼んじゃいますよ?」
 
 仕方ないので彼のボケに乗ってあげた。

「頼むんだ」
 大笑いする彼を軽く睨む。
「もう、全然大人じゃないし」
 私は唇をとがらせた。

 レストランのホールスタッフの動きを鋭い目つきで観察して、望月さんが「俺の方がもっとうまくやれるな」と言う。
「本当そうですね」と心の底から思ったことを返す。

 彼の方が、もっとキレのある動きでサーブをするし、常に笑顔を振りまける。
 なんと言ってもファンが殺到するし、勘違いしたファンが事件を起こすくらい素晴らしいのだから(もちろん褒めている)。

 運ばれてきたステーキとハンバーグを見て、私は「うちのキャプテンシェフの方がもっと美味しそうに焼きますね」と言った。
 彼も「確かにそうだね」と返す。
 
 望月さんが「デザートも頼もうよ」と言ったので、一番高いパンケーキを頼んでみる。
 フルーツや生クリームの装飾が贅沢でその分美味しかったけど、どうしても言いたかったことがあった。
「私の方が、もっと綺麗な形でパンケーキを焼けます」
 彼は「間違いない」と私の言葉に深くうなずいた。

 食後のコーヒーを飲みながら我に返ってつぶやく。

「私たち、何しに来たんでしょう」
「他店の覆面調査?」
「絶対違うでしょ」

 二人でくすくす笑いが止まらず、ついには笑いを前屈みで堪える。
 同じ飲食店スタッフと同業他社に行く楽しさを知ってしまった夏だった。
 様々な満足を得てレストランを後にした。

「何から見ようか」
「一番見たいのはベルーガです」
「ちょうどショーが始まるみたい。急ごう」

 私と望月さんはどちらからともなく手を繋いで、ショーの場所へ走って移動した。

 心が躍って飛び跳ねる。

 ベルーガのショーを見た後、そのままイルカ、シャチ、アシカのパフォーマンスを見たり、室内の展示で幻想的なクラゲを見たり、存分に海の動物を楽しんだ。

 満喫したなぁと思ったころ、陽が傾き始め、空がオレンジ色に染まり始めていた。
 日本列島の最も東側の海岸線は夕暮れが早い。

 お土産コーナーをうろつき、理絵ちゃんに可愛いベルーガの缶に入ったお菓子をお土産に購入する。
 デートの先輩にお礼は必須だ。

 会計レジを離れて望月さんを探していると、背後から左肩に白っぽいものが乗せられた。
 振り向くと、ベルーガのぬいぐるみがこちらを見ていた。

「雨宮さんにプレゼント。
 あげる」
「可愛い。
 ありがとうございます」

 嬉しくて顔がにやける。
 欲しくて買おうか迷っていたのだ。
 ベルーガが白くてつるんとしていて可愛いと言っていたのを覚えていてくれていたのだろう。

「俺はこっち。
 今日の記念に」

 望月さんがシャチのぬいぐるみを持っている。

「望月さん、シャチに似てますよね。
 可愛い顔して獰猛そうだし」

 モテるイケメンが草食の訳がない。

「そんなことない。
 俺は中身も可愛いよ?」

 営業スマイルで可愛くそう言ってのけた望月さんは正直あざとい。
 私にもその可愛さが欲しかった。

「そろそろ次の場所に移動しよう」
 彼が腕時計で時間を確認して、私たちは出口のゲートをくぐった。