起きたら次の日の夕方になっていた。

 部屋の中は薄暗くなっていて、近くの木々に留まっている蝉が思考に入り込みそうなほど大声で鳴いている。
 
 ベッドの上で起き上がる。
 視界が狭い。
 こんなときは決まって両目がパンパンにむくんでいる。
 案の定、目の周りを触るとぶよぶよしていた。

 泣きすぎた。
 泣いたって仕方ないのに。

 自分にツッコミを入れ、顔を洗うために部屋を出た。

 家には私ひとりだった。
 目のむくみは残ったが、顔を洗ってさっぱりした気分でリビングへ行くと、机の上に母が用意してくれていた朝ご飯とおやつが視界に入る。

 食欲はない。
 昨日の焼きそばとりんご飴がまだ胃の辺りで消化しきれていない。

 用意されたおやつではなく、冷蔵庫に常備してあるフルーツゼリーを取り出して、立ったまま口に運ぶ。
 冷たくつるりとしてほんのり甘かった。

 ゼリーみたいに滑るように生きていけたらよかったな。

 食べ終えて部屋に戻り、スマホの着信をチェックする。
 葉山君からのメッセージが入っていた。

『昨日はごめん。
 僕が言ったことは忘れてほしい』

 返信はすぐに返せなかった。

 思いついて、理絵ちゃんに昨日起きた出来事をメッセージで送る。
 ひとりでぐちゃぐちゃの頭で考えるより、第三者の意見を聞いた方が早い。

 ただ、それでも葉山君に告白されたことは言えなくて、葉山君と手を繋いでいた花火大会の帰り道に望月さんと遭遇したことだけを伝える。

『香世ちゃんが今できることなんて何もないんじゃない?
 望月さんがどう思うかは、こっちがコントロールすることなんてできないわけだし』

 そうだよね。
 彼女の返事にほっとする。

 こんなことになってしまった以上、いっそすぐに気持ちを伝えた方がいいのか悩んだが、それを実行するだけの気力はどのみち残っていなかった。

 どうせ何とも思われていないのだ、望月さんには。
 私が勝手にパニックになって胸を痛めているだけで。

 そう考えたら、望月さんを好きな気持ちが私からするりと離れて、遠くへ消えて行った。

 こんなときは、そうだ、ピアノを弾こう。

 すごくいいことを思いついたような気がして急いでアップライトピアノの前に座り、蓋を開けた。
 弾きたい曲を頭の中で検索し、ひとりうなずいて、パッヘルベルの「カノン」を弾き始める。

 どこまでも輪唱のように同じ音を追いかけていく。
 どこかに行ってしまった私の気持ちを追いかけて、六分間の旅に出た。


 次のアルバイトのシフトは望月さんと同じだったが、なんと珍しいことに彼はオーダーミスをした。
 しかも二回も、だ。

「嘘でしょ……」

 誰にも聞こえないように小さくつぶやく。
 アルバイト初日すらオーダーミスをしなかったのに、ここへ来て一度のシフトで二回もミスをするなんて、望月さん的にはあり得ない。

「いや、ひとつ前のシフトのときも、あいつミスしてたぞ」
 キャプテンシェフが私と同じくらいの声量で教えてくれる。

「雨宮さんごめん、ストロベリーパフェお願いします」

 彼が申し訳なさそうにカウンターからキッチンをのぞき込み、訂正後のオーダーを入れた。
「はーい」と返事をしながら、心配になって望月さんの方をちらりと見た。

 彼は、名残惜しそうな、困ったような視線を私に向けていた。

 目が合ってしまい、慌てて視線を逸らす。

 望月さんの視線の意味がさっぱり分からず、こっちまで混乱する。

 もしかしてミスしたことが恥ずかしかったのかなと思い至り、完璧主義の人は大変だな、帰りに慰めてあげようと他人事のように考えていた。
 

 帰り際、店から少し離れたところで望月さんを待った。

「雨宮さん、よかった、まだいた」

 店から急いで出てきた望月さんが、私を見つけて胸をなでおろしたかのような顔をした。

「お疲れさまです」
 会釈をして、追いついた彼と一緒に歩き出す。

「望月さん、今日のことですけど、気にすることないと思いますよ」
「何の話?」
「オーダーミスの話です。
 今日二回もしてたじゃないですか」
「ああ、あれね。
 次から気をつけるよ」

 望月さんはどうも上の空で、いまいち話が噛み合わない。

 様子がおかしいな、どうしたんだろうなと思っていたら、急に彼が立ち止まった。

「雨宮さん」
「はい」

「あの……こないだお見舞いに来てくれたお礼に、今度ご飯をごちそうさせてほしい」

 ふり絞るように声を出した望月さんの意図がよく分からない。

「ありがとうございます。
 わかりました」

 ご飯をごちそうしてくれる……望月さんの自宅で手料理を振る舞ってくれるということだろうか。
 自炊しているようだったし、もしかして料理が得意なのか?

「よかった。三日後はどう?」
「いいですよ」
 夏休みでどうせ暇なのだ。

「じゃあ、午前十時に店の駐車場で待ち合わせね」

 彼の自宅に直接呼ばれず、なぜアルバイト先の店の駐車場で待ち合わせなのだろうと首をひねりながら帰宅した。

 嬉しかったので、お見舞いに行ったことも含めて理絵ちゃんに電話で報告する。

「それさ、本当に自宅で手料理なの?」
 彼女が疑問を挟む。
「でも、『ごちそうさせて』って言われたけど」

「香世ちゃん、それ違うと思う。
 どっかにご飯食べに行くんだよ。
 単にデートのお誘いだから」
「マジか」

 私は日本語ができないらしい。
 来年受験生なのにまずい。

「しかも店の駐車場で待ち合わせでしょ。
 望月さん、車で来るんじゃないかな。
 いいなあ、ドライブデート」

 のんきな理絵ちゃんにはうらやましがられたが、こっちはそれどころじゃない。

「うわあ、どうしよう。
 デートだと思ってなかった。
 本当どうしよう。
 てか、デートとか行ったことないし」

 全身から血の気が引いていく。
 何をどうすればいいのかまったく分からない。

「香世ちゃん、ワンピース着て行ったらいいと思うよ」
「いや、持ってないから!」

 理絵ちゃんにツッコミを入れてしまうなんて、いよいよ非常事態だ。