翌日、侑は登校してすぐに紗枝のクラスを訪れた。本当ならば当日中に謝るべきだったのだが、紗枝が電話に出なかったのだ。『今日はひどいこと言ってごめん』と送ったメッセージにも、既読の文字はついたが返信はなかった。
 紗枝は不機嫌そうな顔で侑の呼びかけに応じた。廊下まで出てきてくれたが、侑と目を合わせようとはしない。どうやらかなり怒っているらしい。言い過ぎてしまった自覚があるので、侑は素直に謝罪の言葉を口にした。

「紗枝、昨日はごめん。言い過ぎた」
「…………」

 無言で侑を見上げる紗枝は、強い目力で怒りを訴えてきた。付き合い始めてから一年経つが、紗枝とはあまりケンカをしたことがない。たまに意見がぶつかることはあっても、いつも紗枝が折れてくれていたのだ。

「好きなものがないとか、何かに真剣になったことがないとか、そんなの俺の勝手な思い込みだ。本当にごめん」

 高校に入ってから紗枝が部活に入っていなかったことを、侑は知っている。でも部活動をしていなくても、何かに打ち込んでいる人だっているはずだ。
 表面的なところだけを見て紗枝を否定し、傷つけてしまったことは間違いない。侑が謝罪の言葉とともに頭を下げると、紗枝の冷たい声が降ってくる。

「侑って私の話、覚えてもいないんだね」

 紗枝の言葉に侑は思わず顔を上げた。表情の欠けた顔で、紗枝は話を続ける。

「私、何回か侑に話したよ。中学のとき、周りのみんなが楽しそうに部活をやってたけど、私は毎日ピアノの練習をしてた、って」

 話題にされてようやく侑も思い出した。確か紗枝は、ピアノの先生になりたいと言っていたはずだ。だから友達との遊びも断って、ずっとピアノの練習をしているのだ、と。高校に入ってからはアルバイトを始めたせいで、練習時間が減ってしまっている、とも言っていた。
 どうして忘れていたのか不思議なくらいだ。ピアノは紗枝のことを語る上で欠かせない大事なものだったはずなのに。
 侑が言葉を失っていると、紗枝は悲しそうに笑った。

「侑はたぶん、あんまり私のこと、興味ないんだよ」
「そんなこと……」
「ないって言い切れる? 怪我してしんどいのは想像できるよ。でも侑はいつも自分のことばっかりじゃん。私だって悩みとか相談したいときもあるし、話を聞いてもらいたいこともあるんだよ」

 指摘されて初めて気がついた。紗枝はいつだって侑の話を聞いてくれていた。それなのに侑は、紗枝の表情が暗くても「何かあったの」と訊くことすらしなかった。どうせ友達とケンカしたとか、そんなくだらない理由だろう、と勝手に決めつけていた。
 無意識に思っていたのかもしれない。
 怪我をしてサッカーをできなくなった自分の方が可哀想だ、と。侑の苦しさに比べたら、紗枝の抱く悩みなんて大したことはないに違いない、と。

 ちょっと距離を置こう、と紗枝は言った。侑は項垂れて、頷くことしかできなかった。本当にごめん、と紗枝の背中に投げかけた言葉は、届いたのか分からない。紗枝は立ち止まることのないまま、教室の中へと戻っていった。


 自分の教室に戻った侑は、机に頬杖をつきながらぼんやりとしていた。
 紗枝を傷つけてしまったことが、侑の胸に重くのしかかっていた。昨日の発言が原因だと思っていたのに、紗枝はもっと前から不満を抱えていたのだ。それでも怪我をして自分のことで精一杯の侑を気遣い、我慢してくれていた。

「………………悲劇のヒーローぶって、かっこ悪いな」

 ぼそりと呟いた言葉は、教室の喧騒にかき消された。

 授業なんて受ける気分ではなかったが、侑は何とかその日の授業を全て乗り切った。早く帰りたいという思いが強かったのに思いとどまれたのは、紗枝への罪悪感のせいかもしれない。侑が逃げ帰ったら、紗枝が悪者になってしまう気がしたのだ。二人のケンカ事情を詳しく知っている人なんているはずがないので、結局は侑の自己満足に過ぎないのだが。
 帰りのホームルームまで終えると、早々に侑はカバンを持って立ち上がった。しかし教室を出ようとする侑を、担任の瀬川が呼び止める。

「真島くん、部活動のことなんだけどね」
「あー…………」

 あからさまに嫌そうな声が出てしまったが、侑の反応に気づきもせず、瀬川は言葉を続ける。

「昨日文化部の見学に行ったんでしょう? どうかしら、気なる部活はあった?」
「いや……」

 瀬川が心配してくれているのは分かる。でも今は放っておいてほしかった。侑の気持ちを知るはずもなく、瀬川は熱心に天文学部の良さを語っている。いつも通り右から左へ聞き流そうとしたが、侑はすぐに我慢の限界を迎えた。
 朝から気持ちが落ち込んでいて、早く一人になりたいのだ。そんな状態で、ひとかけらも興味のない部活の話を聞かされるのは、耐えられなかった。

「あの、もう天文学部の良さは分かりました」
「本当? じゃあ天文学部に入部してくれるのね?」
「いえ。それは……」
「どうして? 部員もみんないい子ばかりだし、途中入部も歓迎するわよ」

 きっと瀬川の言う通り、天文学部はいい環境なのだろう。何より顧問の瀬川がお節介ではあるけれど面倒見も良いので、何かあれば頼ることもできる。しかしどんなに活動環境が良かったとしても、肝心の活動内容に興味が持てないのだからどうしようもない。
 侑はいい断り文句はないだろうか、と考えを巡らせ、そして思い出した。

『もしも真島くんが困っているなら……文芸部に籍だけ置くのもありだと思いますよ』

 昨日文芸部で提案されたこと。朝日紬のやわらかい声が脳内で再生され、侑は無意識に言葉を紡いでいた。

「文芸部に入ることにしたんです……!」
「……文芸部?」
「そ、そうです……」
「あら、いいじゃない。文芸部で楽しく活動できるといいわね」

 瀬川の声には安堵の色が滲んでいて、心から侑のことを心配してくれていたことが伝わってきた。
 せっかく心配してくれたのに、侑は適当な嘘を吐いてしまった。罪悪感を抱きながら、侑は失礼します、と瀬川に頭を下げた。
 幽霊部員になることは間違いないが、入部すると言ってしまったので、文芸部に入部届を出さなければいけない。
 侑は瀬川の視線から逃げるように、文芸部の部室の方へと足を向けた。


 まさか二日続けて文芸部に足を踏み入れることになるとは。
 昨日と同じように、侑は文芸部のドアをノックした。昨日とは違い、小さな返事の後にドアが開かれる。ドアの隙間からちょこんと顔を出したのは、紬だった。

「あれ……真島くん」
「えーっと、成り行きで文芸部に入ることになって……その、一応挨拶というか、顔出しというか」
「そうなんですね。よかった」

 紬がふわりと笑うので、侑は思わず首を傾げる。よかった、と紬に言われた理由が分からなかったからだ。部員数でも足りないの? と侑が訊ねると、紬は小さく首を横に振ってみせた。

「うちの文芸部出身で、作家になった人がいるんです。その人が寄付をしてくれるから、人数が少なくても廃部になったりはしないんですけど」

 でも、いつも私一人だからちょっと寂しくて。
 続いた言葉に、侑はどう反応していいか分からなかった。確かに昨日紬が説明してくれた通りなら、他にも部員は三人いるが、全員自宅で執筆をしている、という話だった。学校の課題以外で文章を書いたことのない侑には分からないが、執筆しやすい環境などが人それぞれ違うのかもしれない。
 しかし、一人で活動するのが寂しいという紬の悩みを、侑が解決してあげられるわけではない。侑は瀬川のお節介から逃れるために、文芸部に籍を置ければそれでいいのだから。

「あー、えっと、朝日さんには悪いんだけど、俺、文章とか書いたことなくて」
「うん、いいんです。真島くんが何かを書くつもりはなくても、文芸部に来てくれただけで嬉しいですから」

 侑が全てを言葉にしなくても、紬は侑の考えを察してくれたようだった。
 幽霊部員でもいいですよ、と笑って、それから部室は好きに使ってくださいと言ってくれた。
 文芸部の部室は広いとは言えないが、とても静かだった。部室棟の中でも端に位置しているからかもしれない。教室の騒がしさが伝わってこないのは、侑にとっても心地良かった。
 それに昨日は気づかなかったが、サッカー部の活動しているグラウンドは、文芸部の部室からは見えない。サッカーに関するものが視界に入ったり、音として聞こえてくるだけで、侑の心は乱されてしまう。そういう意味では、俗世から切り離されたような文芸部の部室は、侑の避難場所としては最適なのかもしれない。

「朝日さん。俺はたぶん、文章とか書けないけどさ。部室には、たまに来てもいいかな……?」

 自分勝手な申し出だとは分かっていた。部室を好きに使っていい、と紬は言ってくれたが、本当は一人の方が作業に集中できるかもしれない。
 絶対に朝日さんの邪魔はしないから、と侑が言葉を付け足すと、紬は両手で口元を押さえながら小さな声で笑った。

「ふふ、もちろんです。それに私、こう見えても集中力には自信があるので。真島くんに声をかけられたくらいじゃ手は止めないですよ」
「何それ。変なの」
「はい。変なんです、私」

 くすくすと楽しそうに笑いながら、紬が侑を見上げた。小さな左手が侑の前に差し出される。侑が首を傾げると、紬はやわらかい声で言った。

「ようこそ、文芸部へ」
「あ、ああ、なるほど。よろしくね、朝日さん」
「はい、よろしくお願いします。真島くん」

 手の汗を拭い、侑は紬の手を取った。侑よりもずっと小さい紬の手は、夏だからだろうか。とてもあたたかく感じた。