特別なにかがあったわけじゃない。

突然、身体が締めあげられたみたいに窮屈になった。耳が重たくなって、周りの声もよく聞こえない。聞こえるのは自分の心臓の音ばかり。それが余計に恐怖を煽った。息の仕方も忘れた。

――逃げたい、今すぐ、早く、怖い、逃げたい逃げたい逃げたい

『っ、出してっ!!今すぐ出してっ!!』

そう叫んだ小五の遠足。あの日を境に、南晴人(みなみはると)にトモダチはいなくなった。その衝動と恐怖は、あっという間に晴人の人格を作り変え、とうとう十五の冬が終わる頃。

『南って誰だっけ』
クラスメイトは数学のノートを片手に、そう呟いた。





「よーっす、晴人」
「おー。今日も寝癖やべーな」
「だからこれ湿気なの、寝癖じゃないの!」
「湿気~?こんな晴れてるのに?」
「そうだよ、サラスト男には一生わかんねーだろうけどな」

ぶすくれたユウダイの背に、いい香りをまとった小柄な女の子が抱きつく。

「犬みたいでかわいーっていつも言ってんじゃんっ」
「アスカぁぁ~。そんなこと言ってくれんのアスカだけだよ…」
「えー?かわいいよ、ねえ、晴人?」

アスカはきゅるっとした顔を、晴人に向ける。

「アスカのがかわいーよ」
「なっ、もう~!晴人ほんとそーゆうとこさ~!」
「おいお前っ…!それやめろって、アスカも期待して聞いてんじゃねーよ!」

「なに~?また晴人のホストムーブ?」
「お前まじでそういうとこだぞ」
「ほんと晴人さ~。女の子なら誰でもいーんでしょ?」

ぞくぞくと集まりだす、いつもの顔ぶれ。マナミの最後の言葉に、晴人は微笑んだ。

「だって女の子ってみんなかわいーじゃん!」

最低~なんて言葉を浴びせられながら、晴人は三年F組の教室のドアを開ける。窓側の一番前、晴人の特等席。

「晴人、おはよ」

隣の席のアイは、晴人にとって、とびきりかわいく映る。気の強そうな猫目とは裏腹に、甘い声でゆっくりと喋るところが数多の男を沼らせる、学年で一番の美女だ。

「おはよ!ねえ聞いて、今日も朝からディスられてんの。どうしたらい?」
「晴人のそれは自業自得だからね~」
「えっアイちゃんまでそんなこと言うのっ!」
「あはははは、うそうそ。どんまいどんまい」
「虚無じゃん!」

――かんわいい~~。席隣になってから、まじでよく絡んでくれるんだよな~。最近は冗談とかも言ってくれるようになったし、ちょっと距離縮んだ感あるよ…!

高校三年生、春。晴人の周りには、大勢のトモダチがいる。

小中の黒歴史を払拭するべく一念発起して、片道一時間半のこの高校へ入学した晴人は、見事デビューに成功していた。今や校内で一番目立つグループが晴人の居場所で、そこは見た目以上に居心地がいい。なんといっても、女の子とのこの距離感。

「晴人ぉ~購買行こ~」
「あい」

「晴人のジャージおっきすぎた~」
「かわい、一生着てていーよ」

「晴人っ。一緒かえろ~」
「帰る帰る~」

真っ直ぐ前を見ていたら、視界に入るかどうかも危ういくらいの小ささ。決まっていい匂いを漂わせて、華奢な腕を巻きつけ、笑うたびに花びらが舞うみたい。

――んでシンプルに、やわらかくて気持ちいー。

「あ、本屋寄ってもい?」
「いーよ~」

ユウダイたちには『ホストムーブ』と揶揄される晴人のそれは、好かれたいがための下心だけではなかった。ただ単に今までは閉じ込めていた本音が、口を突いて出るようになっただけ。それが許される立場にいることが、嬉しいだけなのだ。

アイドル誌をぱらぱらとめくりながら、アオイは晴人に「どの子がタイプ?」なんて質問を投げかけた。最近ユウダイにもそう聞かれた、話題のK-POPアイドルだ。

「んー…?しいて言えばこの子?」
「あは、晴人こーゆう子が好きなんだあ」
「でもアオイのがいい、いい匂いするし」

アオイはその大きな瞳を晴人へと移し、引きつった顔を見せた。

「ほんとに、それ、見境ないのやめな?」
「だって普通にアオイのがいいもん、やわらかいし」
「最低~」
「なんでっ」
「もうダイエットする、今日から」
「しないでしないで!俺の癒しだから!」

べっとほんの少し出した舌が、想像よりもずっと薄っぺらでかわいかった。晴人はレジへと向かうアオイの頭を気の済むまで撫で回し、アオイもされるがまま、最悪、最低、とうわ言のように繰り返している。

――なんだって女の子ってこんなにちっちゃいんだろ。守りたくなるっていうかさ~。いいよなぁ。

「あれ?椋井(むくい)くん?」
「げっ」

漏れた声はどうも奴に届いていないのか、端正な顔立ちのこの男は、アオイにだけ「どうも」と返事を返した。

「えっ椋井くん、ここでバイトしてるの?」
「……ああ、はい」
「えーっそうなんだ!みんな知ったらびっくりするよ!」
「いや…どうすかね」

――……おいおいおい。アオイさんよ。その目のハート、俺にも一つくらい分けてくれませんかね。

ついさっきまで自分に頭を撫でまわされていたくせに、目の前にこの男が現れるや否や、すっかりアオイの視界から晴人は消えたようだ。

――だから嫌なんだよ、この天性のモテ男。すかしやがって。

恨めしい目線にようやく気付いたのか、椋井は晴人をちらりと見やって、ほんのわずかに頭を下げた…ように見えた。

「椋井くん、また明日ねっ」
「……ハイ」

――なんだこいつ、女の子に手振ってもらってんのに、その態度!

「椋井クン、また明日ね?」

晴人はわざとらしく、椋井の顔の目の前で手のひらを振って見せた。

「……」
「無視!?」
「いや後ろ。お客さん並んでるから」
「はっ…!」

アオイにシャツをつままれ強制連行された晴人は、釈然としなかった。自分だって椋井のことを気に入ってるわけでもなければ、トモダチでもない。一年のとき出席番号が前後で、三年でもまた同じクラスで、また後ろの席に座っているだけの、ただのクラスメイト。それ以上でも以下でもないはずだ。

――俺、あいつになんかしたっけ……??

大して話したこともないのに、どうやら嫌われていそうな態度が、晴人には気がかりで仕方なかった。





とうとう、この日が来てしまった。

「晴人どっちがいい?」

ユウダイに肩を組まれたかと思えば、タイチに腕を掴まれる。

「晴人は俺らと一緒だから」
「いーや、晴人は俺と一緒がいいって言うね」
「晴人!どっちにすんだよ?」

――ええええ……。

「ん、てかさ、俺……、」

晴人が口ごもった瞬間、アオイが晴人の膝の上にちょこんと座ってみせた。

「晴人はうちらと一緒がいーよね?」
「えー晴人いないとつまんない!ユウダイもっとちゃんと勧誘して!」

高校三年生、春。周りの学校よりも少し遅くにやってくる、ビッグイベント。

「班行動って言っても大体みんな同じとこ周るんだから!はよ決め!」

担任が晴人たちの集団にそう声を掛けた。班が決まっていないのは、もうこの一行だけなのだ。

「だって最後の修旅だぜ!?妥協したくねーって!」

【修学旅行】、それは晴人にとって最大の難関。絶対にそれに参加するわけにはいかないのだ。

――そもそも俺、行く予定ないんすよね~…。ああどうしよ、なんか言い出せない感じになってきちゃったよ…。

「先生ぇ~どうして九人で同じ班じゃだめなんですかぁ」
「いいから早く半分に別れろって。形だけだから!な!」

晴人は困り果てていた。だってそうだ。行けるわけがないのだから。飛行機で二時間半、南の島・沖縄。生涯足を踏み入れるはずもない場所。

「……ぐっぱーする?」

なのに晴人は、この空気に逆らえなかった。まさかここで「行きません、病欠する予定です」だなんて言えなかった。

「っしゃ!晴人よろー!!」
「ねえでも班行動一緒にしよ?ね、アイもそう思うよね?」

ぐっぱーの末、同じ班になったアイと視線が交わる。

「そうしよ。みんな一緒の方がたのしーよ」

――ぐっ…!!行かないのに!!行かないのに楽しみになっちゃったよ一瞬!!

にんまりしていたのだろう、周囲から「やらしい!」と野次が飛んだのがその証拠。

小五のあの日からずっと、こういうイベントは欠席してきた。高校デビューした今だって、それは同じだ。いくら楽しそうだからって、晴人はそこへ行くことができない。

「……南。」
「……んあ?」
「プリント。回せよ」
「あっわり」

後ろから突かれた背中が、じんわりと痛んだ。

――力強くね…?そんなに俺のこと嫌いなんかな。

プリントを回したついで、椋井の端正な顔をぼーっと眺めていたようだ。珍しく目が合った。
光は感じられないのに、どうしてかキラキラを詰め込んだようなその瞳が、羨ましかった。

――いいよな、こいつは。なんにもしなくたって、なんだって手に入りそう。

「おい、前向けよ」
「はぁ~い」

晴人には手に入らないものばかりだ。まばゆい瞳も、クールな出で立ちも。トモダチも、恋人も、自由も、普通の生活だって。





「えー……、真城が入院することになった」

――……はっ!?

明後日に控えた修学旅行目前、ユウダイはクラブチームでの練習中に大けがをして、数週間入院する羽目になった。誰よりも高校最後の修学旅行を楽しみにしていたっていうのに…。しかもそれだけじゃない。インターハイに向けてユウダイが努力を重ねていたことを、晴人はよく知っていた。

「ユウダイのお見舞い行きたいんすけど」

晴人がそう担任に意見したが、相当ショックが大きいらしく、面会謝絶なのだと言う。

――ユウダイ、大丈夫かよ…。インハイもたぶん……。

晴人は心底願った。自分が代わってあげられたらいいのに、と。行く気もないくせに、国際通りで古着を見ようなんて約束をしていた。宿泊施設のホームページを見て、女子部屋に行くルートを考えたりもしていた。

「……俺がユウダイになれればいいのに」

そうしたら、誰も悲しまずに済むのに。

「なれるってさ」
「……へ」

隣の席のアイが、こつんと机を優しく叩いた。

「実行委員の代打、やってあげたら?」

――えっ。ええええ!?

「いや俺…」
「そうだな、南なら真城も安心だろうな」
「いや先生、」
「えー晴人かっこい~ちょっと泣きそう」
「愛だね、愛」
「お前らほんっとずっと一緒だもんな~」

そうしてどんどん話は進み、あっという間に晴人はユウダイの代打として、修学旅行実行委員に祭り上げられた。

――だから俺、行かないんだって!!どうすんだこれ…!

引くに引けなくなった晴人は、とうとう当日の朝。キャリーケースを転がして、電車に乗り込んでいたのだ。





『当機は間もなく出発いたします。シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください。那覇空港まで……』

――大丈夫、大丈夫。みんないる。笑ってる。なにもない。大丈夫。吸って、吐いて。

「晴人、ちゃんとスマホ機内モードにしたぁ?」

――大丈夫。吸って、吐いて。何度もイメージした。薬だって飲んできただろ。大丈夫だ。

「晴人?」
「あっ、うん。したした」
「たのしみだねぇ~」
「……ね」

隣に座ったのは同じ班になったアオイだった。アオイの向こう側、一番窓側にはタイチが座っている。後ろにはアイやアスカ、タツキたちだっている。

――なにも怖くない。みんな一緒だ。みんななんてことない顔してる。大丈夫、大丈夫、大丈夫……

「……はあっ…はあっ…」

――大丈夫。怖くない。

――逃げたい。怖い。逃げたい。出して。今すぐここから出して、早く。早く…!

「晴人、手繋ご?あたし離陸ちょっと苦手なんだよね」
「……ん、いいよ。はい」

アオイのちっちゃな手のひらが、晴人の右手に重なる。守ってあげなきゃ。自分よりもずっと小さくてか弱い女の子。

――逃げたい。苦しい。逃げたい、逃げたい。

ごおっという轟音が機内に響く。窓の外の景色が加速して流れていく。

――もう戻れない。怖い。怖い。出して。出たい。出して…っ

ぎゅうっと握りしめた手のひら。アオイは目を瞑って、苦手なそれに耐えているようだった。

――怖い。目、瞑れない。暗い。狭い。狭い。

まただ。自分の心臓の音以外、なにも聞こえない。バクバクと脈打つ心臓。その鼓動の速さが、より一層恐怖心を煽る。自分はおかしい。おかしいんだ。

――逃げたい。やっぱりだめだった。怖い。怖い。怖い。苦しい……

シートベルトに手をかけてしまいそうになった、その瞬間だった。

――これ……LOWだ。なんで…?

左耳から聴こえてきた、自分の心臓以外の音。晴人の好きなバンドの新譜。

「大丈夫か?」

通路を挟んだ左側。長い腕を伸ばして晴人の左耳にイヤホンを突っ込んだのは、あの椋井だった。

「椋井…?」
「あー…LOW好きっしょ?たまに後ろから見えるから」

――こいつ、なんで…。

「……っはあっ…うん…好き、椋井も…?」
「うん。この間ライブ行った」

――それ、俺がはずれたやつ……

「Zeppのだろ……っはぁ…俺…はずれた…」
「まじ?セトリ見た?」
「……ん、見た…ダブルアンコ…」
「そうそう。インディーズの頃の曲やったのはアツすぎた」

椋井は晴人から目を逸らすことなく、シートベルト解除のアナウンスがあるまでずっと、晴人と話し続けていてくれた。

――シートベルト…外せる。けど……。

アオイはとっくに元気そうに、タイチと話し込んでいる。その手はまだ繋がれたままで、晴人はそれをそっと離して、こめかみを伝う汗を拭った。

「……南、こっちくれば」
「え?」
「俺の隣いないし」

鳴りやまない鼓動。いくらか息がしやすくはなったものの、いまだ止まらない身体の震え。気を抜いたら襲ってくる、どうしようもない恐怖。

「……行く」

――アオイたちに、ばれたくない。こんなおかしな奴だってばれたら、またきっと……。

晴人はおぼつかない足取りで、椋井の隣の空席に腰を下ろした。





椋井蓮(むくいれん)という男の声を、こうもたくさん浴びたのは今日が初めてだ。一年の頃、席が前後だったが、大して会話した記憶がない。晴人は初めてこの男を見たとき、咄嗟に感じた。

――こいつとつるんだら、俺の高校生活詰みだ…!!

入学当初からずば抜けて目立っていた容姿。それに加えて、必要最低限しか喋らない大人びた余裕。漂う大物感。

そうして晴人の方から話しかけなければ、特に言葉を交わすこともなかったのだ。

「LOWの他にも好きなバンドとかいんの?」
「んと、ファジーとかもよく聴く。あとモノノケとか」
「まじか。俺もファジー好き。てかLOWとよく対バンやってるもんな」
「な!俺も最初さ、LOW目当てでライブ行ったんだけど~…、」

――なんか、椋井って…、

「あとなんだっけ、モノノケ?俺あんまわかんない。なんか前アニメのOPやってた?」
「やってた!椋井、あのアニメ見てたの!?」
「うん、見てた。原作読んでて」
「俺も!え本誌追ってる?」
「追ってる追ってる。南は?」
「俺もだよ!えまじか~!」

――なんか、なんかさ…、

「今日の読んだ?」
「そっか、今日発売日じゃん!全然忘れてたわ」
「あるけど、読む?」
「いいの!?」
「ん」

――なんか、すっごい、話合うんだが……!?

晴人は椋井の貸してくれた漫画に視線を落とした。その間もずっと、左耳で流れているLOWの曲。右隣には、引くほど綺麗に整った顔面。その男の右耳にも、同じ音楽が流れているわけだ。

「……あのさ」
「ん?」
「まじでありがと」
「どういたしまして?」

晴人は妙に照れ臭くなって、漫画から視線を上げることはできなかった。椋井はといえば、そんな晴人の様子を覗おうとしているのか、珍しく顔をこちらへ向けている。それがわかるから、余計に照れ臭いのだ。

「なんだよ…!」
「漫画見てんだよ」
「もう読んだんじゃねーの」
「…それ、今度映画化すんでしょ」
「!?そうなんだよ!椋井も好きなん?」

ぱっと顔を上げたとき、椋井のキラキラした瞳に、自分が映っているのがわかった。今この瞳には、自分が映っている。いつ会ったってなんにも映していなさそうだったこの男の瞳に、だ。

「……椋井の目ってなんかすんげーな」
「は…?」
「吸い込まれそう」

――こんな人並みの生活もままならない俺ですら、まるで綺麗になったみたいに思える。椋井の瞳に映ってる自分は、いつもの自分よりずっと輝いて見えるから不思議だ。

「南の目の方がすげーよ」
「え?」
「色。カラコンみたい。茶色くて綺麗じゃん」

家族のなかで晴人だけが、色素の薄い明るい茶色の瞳をしていた。晴人はそれを気に入っていたが、コレを発症してからは、自分だけが人と違うことの証明に思えて、なんとなく見ないようにしてきたのだ。

「……なんか、もったいないことしてたな~もっと早く椋井と話しとけばよかった!」

気が付いた時にはもう、晴人の鼓動は耳に響いていなかった。





「でさ、妹が言うわけ。お兄ちゃんが家にいると邪魔!夕方まで帰ってこないで!って」
「…はは、普通に傷つくだろそれ」
「そう。だから俺の存在、たぶん都市伝説みたいになってると思う」
「幻の椋井兄?」
「そうそう。それかイマジナリーブラザー」
「ふっははは、うける」

――大丈夫。大丈夫。さっきも大丈夫だった。あと少しの辛抱だ。……大丈夫。

電子音とともに点灯したシートベルトサイン。それにやっぱり冷や汗をかいてしまう晴人は、気付かないフリを続けてくれている椋井の隣で、ぎゅっと縮こまっていた。

「晴人~?帰っといで?」
「あー…うん。そうな」

アオイがひょこっと顔を覗かせた。怪訝な顔で晴人を見つめている。

「てかなんで椋井くんと晴人?仲よかったんだ?」
「一年のとき同クラだったよ」
「えっそうなの?あんまりイメージない~」
「な。晴人うるさいっしょ?椋井に迷惑掛けてない?」

小馬鹿にしたようにタイチが言った。それに反論する余裕を、あいにく今の晴人は持ち合わせていない。

「そんなことないよ」

だから、そう椋井が言ってくれたことが、晴人にとって救いだった。どう考えても迷惑しか掛けていないのに、だ。この男、相当に懐が深いらしい。出会った頃に感じた大物感は、こんなところから漂っていたのかもしれない。

「椋井くんかっこいい〜。タイチも少しは見習いな?」
「はあ?アオイはどうせ顔だろ」

不機嫌そうなタイチの顔が見えた。同時に少し反応した椋井の顔もだ。

「お前…それはない。椋井に謝れ」
「ほんとだよ、失礼すぎ〜」

気に食わないと顔に書いたタイチが、形式上の謝罪を済ませると、ちょうど担任が座席を確認しに晴人たちの元へ訪れようとしていた。

ちょいちょいと手招きするアオイ。ふうっと一息吐いて、晴人が席を立ちあがろうとしたときだ。

「別にここでもいいんじゃん?」
「……え?」
「先生に言えばいいでしょ」
「でも…、」

――そりゃ俺だって、椋井の隣がいい。でもアオイたちになんて言い訳したらいいんだ…?

「白崎さん。南のことちょっと借りていい?」
「えっうん、いいよ?なになに!?」
「南にプレイリスト作ってもらってんの。終わったら返すから」

椋井はそう言ったあと、担任のところへ行きその了承を得たようだった。

「大丈夫。先生にはあとでちゃんと話した方がいいよ」
「うん…なんか、なにからなにまでごめんな」
「別に。ほら、プレイリスト。早く早く」

そう急かす椋井の長い指に、目を奪われた。綺麗な手だ。顔面だけじゃなく手まで綺麗なのかよ、と晴人はいささかの不満を胸に、最近自分がよく聴く曲を椋井のプレイリストに追加していく。

――大丈夫、大丈夫。吸って、吐いて。吸って、吐いて。

「……っはあ……ん、できた…」

――大丈夫。怖くない。あとちょっと。あと少し。がんばれ、がんばれ。

――怖い。逃げたい。狭い。怖い。逃げたい…っ

作ったばかりのそのプレイリストから一曲、自分が一番好きな曲。それを左耳から流し込んで、深呼吸。吸って、吐いて、吸って、吐いて…

「南、息ゆっくり吐いて」
「…っはあ、えっ?…っ」
「大丈夫。ふーっふーっ」
「ふぅ…っはあ、はあ」
「ゆっくりゆっくり」

椋井の綺麗な手が、小刻みに震える晴人の手を包み込んだ。晴人はそれをぎゅうっと握り返す。さっきアオイと繋いだ手よりもずっと強く、一切の遠慮なしに。

「いいかんじ。大丈夫、ゆっくりゆっくり」
「ん…ごめ…っはあ…ふうーっ…」
「いいから。寄りかかっていいよ」

強く引かれた手。椋井の肩に自分の頭が乗っかったのがわかる。

――…怖い。出たい。今すぐここから出たい。

――大丈夫。椋井がいる。大丈夫、大丈夫…

晴人は椋井の腕にしがみつき、ゆっくりと呼吸を促してくれるその声だけに耳を傾けた。
自分の心臓の音が時折それを邪魔して、その度に、気のふれた自分に嫌気が差す。

――俺、なんでこんななんだろう。どうしてみんなができること、普通にできないんだろう。飛行機に乗ることくらい、普通はなんてことないんだろ?

「……南さ。それ、話したら楽になるってことはないの?」
「へ…?」
「お化け屋敷とか絶叫系みたいなさ。ギャー!って声出した方が怖くないみたいな」
「なっ…はっ…はあ…?お前……」

こんな状況なのに、おかしくって笑えてしまった。この椋井という男は、どこまでも底が知れない。そんな提案、今まで誰にもされたことがなかった。いつだって「大袈裟だって」「気にしすぎ」「もっと気楽に」そう笑われ……いや、励まされてきた。あの人たちに悪気がないことはわかっている。けれど晴人にとっては、そう明るく笑い飛ばされるたび、まるでお前の努力次第なんだと言われているような気がして、たまらなかった。

「……小五んとき…ふう…遠足のバスでさっ…はあ…」
「うん」
「渋滞でトンネルんなか…で、バスが止まったんだよなっ……」
「うん」
「そんとき……はあっ……急に」
「こうなったの?」

こくりと頷く晴人。椋井の腕とシートのわずかな隙間におでこを挟むと、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。

「出してって…叫んだんだって…俺」
「うん」
「よく覚えてない…けど。叫んで過呼吸みたいな…なって…」
「そっか」
「それからずっと……ずっと、こういう閉じ込められたみたいな場所が、無理」
「うん」
「……怖い。逃げたくなる。苦しくてっ…なにも聞こえなくなって」
「ん」
「心臓っ、バクバクする。変なんだ俺っ……はあ…っ…」

――変なんだ。もうずっと。なにやっても、薬飲んでも、気休め程度でしかなくて。何度も変わりたい克服したいって思った。みんなと……当たり前に、普通に過ごしたいって思ってた。

「……っ怖い…っ怖い」

そう言葉にした次の瞬間、椋井の手のひらが、晴人の髪を撫でた。それがあんまりにも優しかったせいだ。

「……髪の毛も、地毛でしょ?」
「……ん…」
「栗色、綺麗。羨ましいわ。俺なんて漆黒じゃん?」

晴人はその手のひらに甘えるように、声を押し殺して、唇を噛んで、誰にも…椋井以外の誰にもばれないように、ひっそりと泣いた。

そんな晴人に気が付いたのか、椋井は晴人の頭を自分の腕に押し付けて、最後までその手を離すことはなかった。





なんともいえない、微妙な空気が流れていた。

――いや…俺…泣いてたよな…?椋井のシャツ、びっしょだもん…。

「ごっごめん…!!降りたら俺の着替え、貸す!!」
「ふっ。いいよ別に。すぐ乾くでしょ」
「いやでも…!」
「それよりその顔。たぶん突っ込まれるから言い訳考えとけよ」
「え!?」

案の定、空港について班で集合すれば、みんなが口を揃えてその理由を知りたがった。

「いや~…LOWの新曲がさ…泣けるんだわ…?」
「まじかよ、大号泣じゃん」
「うける、晴人かわい~~」
「たしかに、前一緒にライブ行ったときも泣いてたよな」

タツキの言葉のおかげで信憑性が増したのか、それ以上の追及は免れた。助かったとほっと胸を撫で下ろすも、真実は揺るがない。晴人が椋井の腕にすがって泣いたこと。そしてあの時間、晴人のあの衝動が、ほんのわずかに和らいでいたこと。

少し離れたところにいても、すぐに見つけられる華やかなオーラを纏った男。なのにそれを、自分の影で消そうとしているみたいな男。妬ましいほど綺麗な手をした男。

――…そうなんだよ。男なんだよ。

晴人はきゅっと手を結んだあと、その男の元へ足を進めた。

「椋井」
「あ、南」
「さっき…ありがと」
「うん?わざわざ言いに来たの?」
「ちゃんと言えてなかったと思って」

晴人はリュックから取り出したイチゴミルク味の飴を、椋井に半ば無理矢理握らせた。

「えっなにこれ…」
「やる!おわび!!」

――くっそ、顔がいい…!!

アオイや他の女の子たちが、椋井にハートを飛ばす意味がわかってしまった。改めて真正面で向かい合ったら、昨日までなんなく直視できていた自分が、信じられない気持ちだ。あの顔の一体どこに焦点を合わせたら、普通に話ができるっていうんだ?

「やばいって俺……」
「ん~?どしたの?」
「あ、アイちゃん…」
「バス、乗らないと置いてかれるよ?」

晴人はキャリーケースを手にしたまま、移動のバスの前で立ちすくんでいた。それはただただ、いよいよおかしくなってしまった自分の気持ちに戸惑っていただけだったのだが、あの男…やけに周りを見ているあの優しい男を心配させるのには、十分な時間だったらしい。

「隣いい?」
「はっ…!おう…!」

乗り物酔いするから、と移動のバスはあらかじめ視界のいい一番前の席を予約していた。それにトンネルさえなければ、車やバスであの衝動は起きない。しかし椋井は、晴人がまた困っていると思ったのだろう。乗り込んですぐ、あの綺麗な顔が隣に座った。

――なんだなんだこれ…椋井ってこんな優しいの…?いっつも俺には冷たい視線しか送ってこなかったくせにさ~…?

「椋井って、面倒見いいのな…」
「え、そう?初めて言われた」
「お兄ちゃんだからかな…」
「南は兄弟いるの?」
「ひとりっ子だよ。でも隣に従姉住んでて、ほぼそんなかんじ」
「へえ~。いとこって年上でしょ?」
「なんでわかんの!」
「なんとなく。南は末っ子っぽいから」

――……っくうっ…!!なんだこれ、なんだこれ。なんでこんなにうるさいんだ…っ!

晴人の胸はもうずっと、飛行機を降りてからもずっと、うるさくって壊れてしまいそうだった。極度の緊張状態のせいだ、そのせいでおかしくなっているのだ。何度も何度もそう言い聞かせる。椋井の柔らかな声が耳に響くたび、何度もそう言い聞かせていた。

「ってかさ、なんか騙してるみたいで嫌だから言うけど、」
「ん?」
「俺、車とかバスはトンネルさえなければ平気だから…。心配してくれてありがとな」

椋井は一瞬、不思議そうな顔を見せたのち、そのまばゆい瞳を若干細めて言った。

「別に、俺が話したかっただけだけど」

――っ、はあぁぁぁ~~!?

自分でも頬が熱くなっていくのがわかる。恥ずかしい。だって相手は男だ。どれだけ麗しい見た目をしていたって、紛れもなく男なのだ。

「お前、それ素?いっつも黙ってるのはなに…?」
「黙ってるっていうか……余計なこと言うみたいだから、俺」

まあ確かに、余計と言えば余計だ。晴人と話したかっただなんてお世辞、言う必要はないのだから。けれど少なくとも自分は、椋井のその余計な言葉に頬を熱くさせられたのに。さっきから何度も、助けられているのに。

「椋井と話すの普通に楽しいけどな。お前が話しかけてくれなかったら、俺まじでやばかったし」

――もっと、話して欲しい。椋井のこと、もっと知りたい。もっと、近づきたい。

「あ~…あれ、班行動、どこまわんの?」

黙りこくった椋井に、まさか自分の心の声が聞こえているなんてことはないだろうが、それでも急に黙られると不安だ。慌てて別の話題を振った。

「……国際通り。南もでしょ」
「なんで知ってんだ」
「聞こえるもん。お宅の班、終始声のボリューム狂ってるから」
「さーせんっ!!」
「だあっ!ほらそれ!!」

晴人はそのとき初めて見たのだ。椋井が、歯をみせて笑ったのを。





宿泊一日目の夜。実行委員の報告会が終わって、消灯時間まであと三十分を切った頃だ。

「いくぞ…!」

晴人たちは、果敢にも上階の女子部屋への突入を試みようとしていた。

――疲れてっけど、みんな楽しみにしてたからな~。ユウダイ……には、このこと話していいかわかんないけど。少しは元気になってるかな…。

ユウダイと一緒に考えたルートを使って、晴人たちはアイたちの部屋へと向かっていた。実行委員が反省文なんてのはまっぴらごめんだ。入念に辺りを見回す晴人の目に、人影が映った。

「おいっ誰かいる!」
「は!?まじか隠れるとこねえよ」
「やべえやべえ」

慌てふためく晴人たちは、奥の手『フロア間違えちゃいました』を使うことを決意していた。

「……えっなにしてんの」

しかしそこに現れた人物は、あろうことかあの男だ。

「椋井じゃーんっ!!びびらせんなって!」

タイチが大袈裟に椋井の肩を叩いた。椋井の表情は、またいつもの仏頂面だ。

「消灯時間なるよ」
「や、そうなんだけどさ~」
「てか椋井はなんでここいんの?まさか…彼女…?」

タツキの言葉に一瞬、喉を鳴らした椋井。晴人はその姿から、咄嗟に目を背けていた。なんとなく気恥ずかしいような、言い知れぬ感情。例えるなら、従姉のムツミが初めて男と手を繋いで歩いているのを目撃してしまった、あのときに似ている。

「違う。呼ばれたから。小山内さんに」
「はあ~?お前それぜったい…」
「もーいいから行こうぜ。先生来たらまじ俺終わる」

晴人は話を遮り、足早に椋井の横を通り過ぎた。ふわりと香った甘い香りは、きっと奴のものではない。

――そりゃそうだろ。あんな、立ってるだけで絵になる男。話してみたらあんなに優しい男。女の子が好きにならないわけがない。女の子なんて特に、ギャップが大好物じゃんか。

「晴人たちきたぁ~」
「見つからなかった?すごいね?」
「…ユウダイが考えたから」
「あっは、さすがユウダイだわ!」

こうして女の子に囲まれて、いい香りに包まれて、楽しいことだけしているのが、晴人の理想の高校生活だ。もっと高望みするなら、たとえば今隣に座っている学年一の美女が彼女だったりすれば、なお言うことはないのかもしれない。

「はい、アイちゃん負け~」
「なんそれ、もう一回!やだやだ!」
「だめだよ~初恋の話してくださーい」

ダウトにめっぽう弱いアイが、小学生の頃の初恋について渋々語り出そうとしたときだった。部屋のドアが二回、ノックされた。晴人たちはびくっと飛び上がったあとすぐに、慌てて近くのベッドへ潜り込む。誰が消したか定かでないが、部屋の照明もきちんと真っ暗に消えていた。

「ちょっと~?笑い声、廊下まで響いてるわよ」
「……」

くすくすとかすかな声を漏らし、肩を震わす女の子。

――…っ!!アイちゃんかよ…近っ…!!

ちょうど晴人の脇のくぼみに、すっぽり収まったアイの小さな頭。布団の中に充満する甘いバニラの香り。胸に感じる吐息。晴人にとってはそれらすべてが、初めての経験だった。

――!?

「ちょっと…!」
「しーっ」

暗闇の中、その表情は一切わからなかった。けれどそれがたちの悪い悪戯だということはわかるくらいの軽い感じで、アイの指先が晴人の指先を絡めとる。それを握り返すことだって、容易いはずだ。学校中の憧れの的、そんな女の子が今、自らの指に指を絡めている。またとないラッキーチャンスだろう。

それなのにだ。晴人はどうしたってそれができない。できずにいる。確かに鼓動は速まっているはずなのに。

――……椋井と小山内さんも、こんなふうにくっついたり、したんだろうな。じゃなきゃあんなふうに匂い、うつったりしないよな。

晴人の頭にあるのは、なぜかあの男のあの仏頂面と、たしかに朝には隣にあったはずのその体温だった。

「まったく寝たフリね…。ほどほどにしなさいよ」

ぱたんっとドアが閉められた。がもう晴人たちはわかっている。それがフェイクだという可能性。しばらくの間、誰もが動きを止めたままだった。

「……しぶといっ。早く寝なさいよ!!」

そして今度こそ本当にドアが閉められ、足音が遠ざかっていく。

「やっばかったな!?一回目俺顔出しそうになっちゃった」
「あんなの絶対フェイクなんだから!本当タイチって単純」
「うるさっ!ほら続きやろーぜ」
「いやもう帰れ?」
「なんでっ!」
「しーっ!」

タイチとアオイのテンポの良い掛け合いに静かに笑って、その間も晴人とアイの指は絡まったままで、絡まる指先とは裏腹に、一度だって交わらない視線が、その意味が、晴人には到底わかるはずもなかった。

――だから俺、一か月足らずで振られることばっかりなんだろうな…。女の子って難解…。





二日目は班行動の時間が大半だ。晴人とタイチとケンタは、班の人数分のアイスクリームを両手に、蒸し暑い国際通りを足早に歩く。歩道の隅の方でバテているアオイのところへと急いでいた。

「アオイ寝不足なんだろ」
「てかさ、お前ら…」
「ちょっ!まだ言わないで!それ以上聞かないで!」

――いやもうそれ、答えだろーよ…。

昨晩、見回りがあってしばらくしてから、晴人たちは大人しく自分たちの部屋へと撤退したわけだが、そのあとすぐにまた部屋を飛び出したタイチは、今朝方まで戻ってこなかったのだ。朝一番に顔を合わせたアスカが、昨晩のタイチの行方を尋ねてきたのだから、おそらくあちらでも、すでに話題になっているだろうに。

「へえ…いつから…」
「だから聞くなって!答えたくなっちゃうだろ」

そしてタイチは「ユウダイがきたら話すから」と続けたのだ。

「ユウダイ、返事こねーよな」
「な。晴人にも?」
「……うん。こない」

自分が実行委員の代打を務めること、連絡しようか迷った。迷ったあげく、下北沢の有名らしい古着屋のURLを送ることしかできなかった。なんと声をかけたって、かけなくたって、結局自分たちの存在がユウダイを苦しめることになるような気がするから。

「アオイ~アイス買ってきたよ」
「あ~~ありがと…」

顔色の悪いアオイが、タイチの肩にもたれかかっていた。力なく笑うその顔があまりにも綺麗で、晴人は目を疑った。

「あれが両思いってやつか…」
「なに言ってんだ、晴人だって彼女とっかえひっかえ…」
「いや俺のはさ」

――変えたくて変えてるわけじゃねーんだよな…。

「告られて振られるからね、不可抗力だよね」
「晴人ってどこまで本気なのか、よくわかんないもんね」
「え?」

ケンタとの会話に、アイがそう割り込む。見たこともない顔だ。ほんの少し前に突き出した唇がかわいくて、思わずその横顔に見とれていた。

「晴人のあれ。ホストムーブはさ、ただの脳天直下なんでしょ?」
「おわ、アイちゃん辛辣〜」

――ほんっとだよ…!!なに急に!!

「こっちはああいうこと言われて、悪い気しないもん。本気になっちゃう子だっているよ」
「それはいいことでは…?」
「でも晴人は恋してないんだよ、たぶん。ね?」

ね?といくらその猫目で尋ねられたって、うんとは頷けない。たしかに晴人だって、これまでの元カノたちをかわいいと思い……

――かわいい、でいいんだよな…?

確かにこれまでの元カノたちとも、かわいいと思って付き合ってきた。かわいい子に好きだと言われて、頷かない男なわけがなかった。けれどそれが恋だったのかと問われると、なんだか今更その答えに自信が持てない。そもそも、だ。

「恋ってなんだっけ…!?」

「えなに。なんでそれで俺んとこ来るんだよ」

気付いたときには、目の前にあの男。それもどうやら、自分から出向いたらしい。

――いや、ほんとにそうだよ。なんで俺、椋井んとこに来てんだ…!?

椋井は班のやつらに断りを入れて、悩める晴人に時間を割いてくれるようだった。自分の方へと向かってくる椋井の姿が、いやに眩しい。

「……なにその犬みたいな顔」
「え!?」

ふわっとほどけた笑顔。今までこんな顔で笑うこと、知らなかった。知れる時間なんて腐るほどあったはずなのに。

「で、恋ってなんすか、先輩」
「先輩じゃねーけどな」
「だってお前、経験値えぐそうじゃん。昨日だって…」
「南が言ってんのって、両思いのやつでしょ?俺そういうのわかんないよ」

――えっと、どの口が…?

「椋井がわかんないなら、俺にもわかるわけねーわなぁ」
「南は女の子なら誰でもいいんじゃないんだ?」
「いやお前までそのイメージなの?俺そんな見境ない?」

はははっ、と、また椋井が歯をみせて笑った。すっと通った鼻筋がくしゃっとなるのも、わずかに猫のひげみたいなえくぼができることも。

――……俺しか知らなきゃいーのに。

「はっ……?」
「どした?」

――いや、今俺、なんて思った?

昨日と今日、たったの二日にも満たない時間だ。晴人と椋井がまともに会話を交わすようになったのは。それなのに、晴人は自分に芽生えた独占欲のようなものを心底軽蔑した。さながら長年の親友気取りか、と。

「それよりどっか行こうぜ」
「どっか?」
「勿体ないだろ。せっかく、あんな思いしてまで来たんだから」

椋井はそう言って晴人の腕を掴んで引っ張った。

「おわっ」
「どこ行く?」

――綺麗、だな。本当に作り物みたいだ。造形が完っ璧。それでいてこの性格。こいつなんで今まであんな……むすっとした態度。勿体ねえなぁ。

「…シーサー作りたい」
「シーサー!?」

椋井といると、まるで時間が溶けてくみたいだった。晴人はそれがたまらなくて、もっとずっと、いやほんの少しでいいから、一緒にいたくなっていたのだ。





「南、隣座ろ」
「ん!あんがと!」

――っしゃー!椋井の隣ゲット!

三日目の自由行動も一緒に周った。一緒にシーサーの絵付けもしたし、その夜は晴人の部屋で椋井の班と一緒にトランプ大会もした。そのおかげなのだろうか、あの椋井の方から声を掛けてくれるだなんて。

――いやまぁ、心配してくれてんだよな。本当面倒見のいい奴。

椋井の隣に腰を掛けようとしたその時だった。

「椋井くん。私隣じゃだめかな…?」

隣のクラスの小山内が、おずおずと声を掛けてきたのだ。晴人の脳裏を過るのは、一日目の夜の出来事。ふわっと香った甘い香り。

小山内はちらりと晴人の方を見やった。

――どけ、ってことだよな…。

「あー…じゃあ俺、自分の班のとこ行くよ」
「えっ」
「小山内さん?お前と一緒に座りたいんだろ」

本当は自分だって。瞬間的に胸に渦巻いたその不満を、口に出すわけはなかった。そう言ったら椋井が自分を選ぶだろうことは、なぜだか揺るぎなく信じてしまっていたからだ。

「……いや、ごめん。小山内さん」
「はっお前…」
「俺、南と座る約束してたから。ごめんね」

そのときの椋井の横顔が、あんまりにも凛々しかったのだ。晴人の目にはたしかにそう映っていたのだ。そしてたしかに感じたこの胸の鼓動は、あの衝動とは別物だった。

帰りの機内、晴人は相も変わらず、うまく息を吐けなかったし幾度も逃げ出したいあの衝動に駆られていた。けれど隣に椋井がいた。椋井の綺麗な手が晴人の手を握りしめていた。
優しい声がずっとそばにあった。左耳からはLOWの曲が流れ、椋井の右耳にも同じ音楽が流れていた。たったそれだけのことなのに、晴人は行きとは比べ物にならないくらい、落ち着いていられたのだ。

椋井の少し高い体温のせいなのか。どんなトモダチよりも近い距離のせいなのか。ふとした瞬間に交わるようになった、優しい視線のせいなのか。

飛行機が空港へ到着すると、ゆっくりと、でも確実に、椋井の体温が離れていく。

――いやだ。まだ、もっと……、

「なあっ」
「ん?」
「あのさ…えっと…」
「大丈夫か?まだ座っといたら?」
「いや違くて、えっと…あのさ…!」

――うまく言葉が出ねえ。ってかなんて言えばいいんだ?なんて言ったら、椋井は明日からも俺の隣にいてくれる…?

「南、なんか飲むか」
「……」

見上げた顔に、手を伸ばしたいと思った。もうそれが答えじゃないのか。晴人はごくんっとつばを飲み込んだすぐあと、その決心が揺らぐよりも前に言わなければと慌てていた。

「お前のこと、好き…っかも」

慌てていたのだ。つい、その予防線を張ってしまったのだって、慌てていたせいなのだ。

「……勘違いじゃね?」
「え?」
「あれだろ、吊り橋効果?」

――吊り橋効果…?ドキドキ共有すると錯覚しちゃうって、あれのこと…?

「いや……えー…?」

椋井はぱっと顔を背けて先に立ち上がり、せっせと晴人の荷物まで下してくれていた。

「ほら。いこ」

吊り橋効果、そう言われてしまったら、もう晴人の自信はどこか遠くへ吹き飛ばされてしまっていた。そもそも恋の概念すらよくわかっていないのだ。それがここ数日仲良くなった、しかも同性相手に、まだ揺らがないほどの自信は抱けていない。

――錯覚、なのか?こんなに触れたいと思うのも、もっと話していたいと思うのも、全部?

とうとう帰りの電車、晴人は一人キャリーケースを転がして、ぼんやりと空なんて眺める始末だ。

――かわいい、気持ちいい、触れたい、好き。それって全部、イコールじゃないのかよ。

これが錯覚だって言うなら、やっぱり、恋なんてちっともわからない。





ユウダイが右手を吊ったままの姿で、学校へ来るようになった。とはいえ今までの根っからの明るさはなく、どこかぼーっとしていて、晴人たちはそれに胸を痛める日々を過ごしている。

「ユウダイ、昼は?」
「あー、いいや。あんま腹減ってない。朝食い過ぎたわ~」
「…そっか。じゃあ俺ここで食っていい?」
「えっ?……いや食堂行けや」
「めんどいし」
「おい~~」

その声色すら、覇気がない。元気出せよだなんて言えるわけもないし、気にするなとか次があるとか、薄っぺらな言葉が余計に相手を追いつめてしまうことも、晴人は知っていた。

――俺がしてもらって嬉しかったこと。

教室の一番窓側、前から二番目。晴人の後ろの席。単行本片手に、ストローをくわえている椋井の姿を目に入れる。

――そばにいてくれた。あいつはあのとき、ずっと。

修学旅行が終わり、また代わり映えのない日常が始まった。それからというもの、椋井とはあまり言葉を交わすことはない。そもそも今までがそうだったのだから、がらりと関係を変えることは難しいのかもしれなかった。けれど晴人は、後ろに感じる椋井の気配に相変わらず胸は高鳴るし、プリントを回すだけでも一呼吸おいて何食わぬ顔を作っている。

それでもこれは、恋ではないらしいのだ。

「なあ。タイチのことどう思う?」
晴人は目の前でぼけっとスマホを眺めて暇そうなユウダイに問いかけた。

「は?どうって?」
「なんか思わねえ?」
「え…?なに怖いんだけど」
「タイチがなんか変わったなーとか思わねえ?って」
「あー…?バイト始めたこととか?」

――まあ、それも関係あるっちゃあるけどさ…

「よし、タイチ呼ぼう」
「は?」
「放課後ファミレス集合」

そうして半ば無理矢理、利き手の骨が折れているユウダイと、いつもの顔ぶれがファミレスに揃った。

「ええっ…私、佐島タイチより、ご報告がございますっ」

案外乗り気なタイチが、わざとらしくそう改まる。ここでなにが発表されるかわかっていないのは、ユウダイくらいなものなのだが。

「私と、こちらの…やわこくて可愛らしい絶世の美女、白崎アオイさんは、このたび…っ」
「もータイチうざい。普通に言ってよ」
「えっなんでっ」

「付き合ってまーす。修学旅行の日からでーす」

「いいとこ取りすんなー!」とタイチが泣き真似している最中、晴人たちはやっと本人の口から聞くことができたその報告に、拍手喝采であった。

隣に座らせたユウダイは、目を丸くして「はあああ!?」と案の定驚きの声をあげている。恐らく、退院後一番覇気のある声だ。

「なに?なんでそことそこ?だってアオイは…」

ユウダイがぱっと晴人の方を振り向いた。

「ん?」
「ちょっとそこ!天然ホストに余計なこと言わないっ」

――天然ホスト…!?

「いらねえよ、その異名!」
「どこまでいってもホストはホスト」
「なに?髪切ればいい?ん??」
「いやもう晴人はさ、根がね」
「そうそう。根っからの陽キャじゃん」

――根っからの陽キャ……?俺が?そんなわけねーじゃん。

「俺高校デビューだって話、前したじゃん」
「見た目の話でしょ?」
「いやいや、卒アル見せたいわ。寄せ書きんとこ真っ白だから」
「うけんだけど!」
「晴人がぼっちとか想像つかねーよな」

――そんなの、地元のやつらが聞いたら鼻で笑うだろうな。ド陰キャ根暗野郎だったのに、って。

そのとき、視線を感じた。晴人をじっと見つめるのは、アイだ。修学旅行の夜から、アイは時折じっと晴人を見つめてくる瞬間がある。その試されているような視線は、あまり居心地の良いものではなかった。

「でもなんでぼっちだったの?」
「え?」
「晴人がハブられる理由、全然思いつかないんだけど」

厳密に言えば、仲間外れにされていたわけではなかった。ただ一緒に遊んでくれるトモダチがいなかっただけだ。他愛ない話をしてくれるトモダチがいなかっただけだ。

「……なんでだろ。俺もよくわかんないや〜」

今こうして人に囲まれていたって、時折感じる。自分だけが普通じゃない、疎外感。その気持ちのやり場が、あの頃はわからなかったのだ。普通のみんなが、妬ましくてしかたなかったのだ。

――ってか、アイちゃんまじなに……!?

晴人はそのときまた交わったその視線に、妙に胸がざわついていた。





「アスカと付き合うわ」

――……はあ!?!?

「え、なに!?なんなの!?」
「昨日のタイチとアオイの話聞いて、なんか」
「なんか、なんだよ」
「俺も大事にしたいなって思って、告った。昨日の帰り」

――行動はえーな!?

ユウダイの顔に、ほんの少し明るさが戻っていた。それは紛れもなくアスカのおかげなのだろう。ただ、ユウダイがアスカを好きだったなんて話、晴人は知らなかったのだ。

――そういえばタイチもそうだよ。いつからアオイのこと好きだったんだ?

結局今も変わらないのかもしれない。本当に大切なことは、誰にも話してもらえない。晴人の思い描くトモダチは、なんでも話せる関係だった。

「おめでとな」
「ありがと。晴人のおかげだよ」
「俺ぇ?なんでよ」
「昨日、誘ってくれた。絶対触れにくかったろ、俺こんなんなっててさ」

ユウダイは眉を八の字にしたまま、「俺また頑張るから」と言ったのだ。

「お前はやっぱすげーなぁ」
「そうだろそうだろ」
「で、いつからアスカのこと好きなの」
「え?……まあ、あれだ。見ててたまんなかったから?」
「なんっだそれ!俺にもわかるように言えよ!」

――あっちでもこっちでも恋。恋恋恋。見ててたまんないってなんだ?タイチはタイチでそばにいたくなったとかかっこつけてるしよぉ。俺にもわかるように具体的に言えよ~~…!!

「それで晴人は?どうすんの?」
「どうするって?」
「結局誰を選ぶのって」

誰、そう問われて頭に浮かぶのは、たった一人だ。薙ぎ払っても何度でも頭に浮かんでくる。自分の後ろの席の、あの男。

「……俺おかしいのかなぁ」
「え!?やっぱいんじゃん!」
「お前カマかけたな!?」

大口開けて無邪気に笑ったユウダイの顔に、晴人は救われていた。こんなままならない自分が、わずかでも力になれたような気にしてくれたからだ。ユウダイのそういうところに、晴人は一年生のときから何度も助けられてきた。

そんな晴人の気持ちを知る由もないユウダイは「やっぱりアイちゃんかぁ~」と、にやりと晴人を見やる。そう言われてやっと気が付いたのだ。特別かわいいと思っていたアイのこと。距離が縮んだような気がするたびに舞い上がっていたアイのことを。

――俺、なんでアイちゃんじゃねえの…?

「晴人、今日一緒に帰ろうよ」

まるで見透かされているかのようなタイミングだ。アイが晴人をそう誘った。

「ん!?いいけど珍しいね?」
「ちょっと話したいことあって」

――話したいこと……!?

咄嗟に晴人が思い描いたシナリオは、あの修学旅行の夜のことだ。絡められた指を離さなかったことを怒られるのだろうか。それとも逆に手を繋がなかったことを罵られるのだろうか。いずれにせよ、あまりいい話ではない予感はしていた。

そうした不安に苛まれるとき、やっぱり晴人が目に入れたくなってしまうのは、この男。椋井蓮なのだ。

「……最近どう?」
「なにその質問」
「いやぁ……どうなのかなって」
「普通だよ。テス勉だるい」
「な!!それ!!でも椋井って成績上位だよな?」
「南はいつも赤点だよね」
「なんで知ってんの!?」
「見えるから。後ろだもん。あと声のボリュームがバグってるし」
「俺そんなに声でかいの?」
「たぶんクラス中が知ってるよ、南が赤点ばっかりだってこと」
「まーじかよ~!!」
「だからそれだって」

――ふふ、楽しいんだよな。なんだろ、会話のテンポ?温度感?なんかわかんないけど、合うんだよな~。ずっと話していられそう。

そのとき、窓から強い風が吹き抜けた。椋井の漆黒の髪が、ぶわっとそれになびいたのだ。

「ふは、前みえねーだろ」

自然と手が伸びていた。椋井の前髪をそっとかきわけるように。そしてそれは、晴人だけじゃなかった。

「……南も。髪そよそよしてる」

まったく同じことを、椋井もしていたのだ。晴人の柔らかな栗色の髪を、さも大切なものに触れるかのように、優しくくすぐっていた。

互いの目に、互いの姿しか映っていないほんの数秒。

――……だから、錯覚なんだよな?これ。

「晴人~?委員会終わったからかえろ」

アイの声ではっと我に返った。

「お、おうよっ!」
「なにその返事?」

教室の後ろのドアから顔を覗かせたアイが、くすくすと笑った。きっとその顔が、すごくかわいく見えたんだ。もしくは一緒に帰るのが初めてだからかもしれない。浮かれているんだ。

――じゃなきゃおかしい、これは恋じゃないんだから。こんなに心臓が痛いのも、顔があっついのも、全部、椋井のせいなんかじゃないんだろ?

「じゃっ…じゃあな」

ぎこちなく椋井にそう手を振ってみせた。どうせまた無視されるか、謎に頷かれるか、きっとそんな感じだろうと思っていた。

「……ばいばい」

――ん?ばいばい……って言ったな、今。ちゃんと挨拶知ってたんだな。なんていうか、カタカナのバイバイじゃなくなかったか?ひらがなだよあれ。椋井が言うと、ひらがなのばいばい、になるんだなぁ……。

「かわい……」

口から溢れた言葉を「またホストムーブだ」とアイはからかった。





「あたしね、晴人のこと知ってるんだ」

おもむろに口を開いたアイが、至極当然のことを言った。

「え、そうだよね。席隣だもんね」
「違う!小学生の時、同じクラスだったんだよ」

――っはあ!?俺と?アイちゃんが?いやいや、まったく心当たりないですよ?

「え~?人違いじゃない?」
「真島アイだよ、本当に覚えてない?五、六年のときだよ。四組だったでしょ?」
「………え、まじ?真島さん?」

真島アイという名前にはなんとなく憶えがあったし、たしかにクラスも四組だった。あの忌まわしい発作が起きたときのクラスだ。忘れるわけがない。

「親が離婚して名字変わったの。でもいくら名字が違ってもさ、晴人ぜんっぜん思い出してくれないじゃん。出席番号前後だったよね?遠足の班だって…」

遠足、というワードを聞くと、いまだに胸がぐっと押しつぶされたように痛む。あのとき、あの瞬間、それからのことも。アイは自分の黒歴史を余すことなく知っているというわけだ。

「気付かなくてごめんね」

アイの言葉を遮るように、晴人は頭を下げた。

「……そうじゃなくて。あたしの初恋なの、晴人は」
「はっ?」
「いつも周りに人がいて、足が速くて、サッカーうまくて、調子に乗ってよく先生に怒られてるところも、好きだった。覚えてないだろうけど、ドロケーするときね、いつもあたしのこと助けてくれてたんだよ、晴人」

およそ自分の幼少期とは思えない言葉の数々だ。けれどたしかに、ドロケーはよくしていたし、サッカーも好きだった。長距離移動ができなくなるまでは。

「あたしあのとき…晴人のこと避けちゃったの、ずっと後悔してた。中学の同窓会でね、友達に晴人のこと聞いて、やっぱりあのとき声掛けるべきだったんだって思ってて」

アイが気に病むことなど、何ひとつだってない。晴人は自分の意思で周りを遠ざけたのだ。心の奥底でずっと思っていた。

「俺が悪いんだよ。普通の人に俺の気持ちなんてわかるわけないって、思っちゃってたから」

――だから、遠ざけた。本当は、わかってもらえないことがつらいのと同じくらい、わからないでいられることが羨ましかったんだ。

「なんか、ごめんね。ずっとアイちゃん気に掛けてくれてたんだね」
「……ちがう」
「またまた~」

それまでずっと晴人のシャツのボタンあたりに目をやっていたアイが、ふと顔を上げた。

「あたしじゃ、だめ?わからせてくれない?」

甘い声に甘い香り。きっとふわふわで気持ちよさそうな真っ白な肌。少し上向きに波打つ上唇。晴人と同じ、薄茶色の瞳。きっとこれ以上ない女の子だ。誰もが目を奪われるような。それでいて、あんな幼い頃のことを今でも気に掛けてくれている、優しい女の子。

「……ごめん」

――どうして俺、あいつには話せるって思ったんだろう。面と向かって理解しようとしてくれる人が、今までいなかったから?じゃあ今は?どうしてアイちゃんじゃだめなんだ?

「俺たぶん、好きな人いる」

――結局、これが答えなんじゃねーの?





あれから一週間が経った。隣の席のアイとは普通にこれまで通り言葉を交わすし、タイチとアオイも、ユウダイとアスカも、なんだかずっと楽しそうである。

そして晴人は、いまだ椋井への気持ちの答えに戸惑っていた。それをもう一度伝える勇気が、なかった。

「アイちゃん休み?」
「あー早退。具合悪かったみたいよ」
「まじか。お前、送ってかなくていいの?」

――そうだった。ユウダイはまだ、俺がアイちゃんのこと好きだって勘違いしてんだ。

「いや俺さ」
「あ!」
「……なんだよ…?」
「放課後、資料室こいって村センが言ってたよ」
「はあ?なんで俺?」
「シンプルに成績悪いからじゃね?」

――だからって、なんでパシられなきゃいけねーんだ…!

「はあ、わかった。だりーなぁ」

今日こそはテスト勉強をしようと息巻いていたのだが、都合がいいやら悪いやら。晴人は言われた通り、その日の放課後、第二棟の資料室へ赴いた。

「しつれいしまーす」

そう引き戸をあけて、足を踏み入れた瞬間だった。

ガシャンっ。

「うお!?え、なに!?」

背後のドアがぴしゃりと閉められ、開けようと力を込めてみても、びくともしない。

怪奇現象さながらの出来事に腰を抜かしそうになったが、すぐにそれがあいつらの仕業であることがわかった。ぱっと手にしたスマホの液晶に、ユウダイの名前が映し出されたからだ。

「もしもし…!?」
「あ、でた!晴人ぉ!ビデオ通話にして~」
「なんでっ。てか開けろよ、なにこれ」
「ドアに書いたじゃん、告白しないと出られない部屋で~す」

――はあっ!?あいつらほんっと悪趣味だな…!!

「いいから開けろよ、つまんねーことすんな」
「ぎゃはははっ」

晴人はその通話をビデオにすることはなく、スピーカーにしたまま、床にうずくまっていた。窓が一つあるだけの小さな部屋。その窓だって、半分くらいは物置と化した資料室の分厚い本やらなんやらに埋められている。自分が、この雑然とした空間に覆われているかのような感覚。晴人の苦手なあの感覚だ。

「まじで…勘弁して……」

――怖い。嘘だろ、出して。早く、出してくれ…。

「じゃあ早く言えよ~。告白したらそこから出れんぞ~」

――ユウダイっ……!!あいつ一生許さねえぞ、大体告白って…

「好きな人いないから…早くあけろ」
「またまた~。俺には言ったようなもんじゃん」
「いないって…まじであけて…」

――……苦しい。息、できない。怖い、逃げたい、逃げたい……っ

「はあっ……はあっ…」

晴人のあの衝動がどんどんと肥大化していく。そんなことに気が付きもしないユウダイたちは、電話口の向こうでやいのやいのと騒ぎ立てるばかりだ。

――これだから陽キャはよぉぉ…!!

しかしこんな悪ふざけを思いつくほど、この状況は普通の人にとっては、なんてことないことなのだろう。晴人にとっては想像もしたくない、地獄のような状況なのだが。

「はあっ…はあっ…ふうーっ…」

――息、ゆっくり。吐く。ゆっくり、吐く。

――怖い、早く出してくれ、逃げたい、逃げたい、狭い…

自分の心臓の音しか聞こえなくなった晴人が脳裏に思い浮かべていたのは、あのときの椋井の声と体温だった。ゆっくり、と囁くような小さな声は、きっと晴人がそれを隠したがっているのに気が付いていたからだろう。どこまでも気の利く奴だ。それに、じんわり汗を滲ませた手を嫌がらずに握っていてくれたことだって、嬉しかった。

――あいつ、あれから小山内さんと付き合ったりしてんのかな……。

「はあっはあっ……っいやだ…」

――そんなの、嫌だ。

――助けて、逃げたい、出して、出して、出して…っ

「……っ椋井…!椋井…っはあっ…」

晴人がその男の名前を呟いたときだった。

「南っ!!」

乱暴に開けられたドアの向こうにいたんだ。

――俺の、好きな人。





目を疑うような光景だ。さながら少女漫画のワンシーンみたいな。

「南、ゆっくり息吐ける?」
「はあっはあっはっ…ふう…っ」
「大丈夫、ゆっくり」
「っ……はあ……ふうーっ……」

椋井の腕の中で、少しずつ呼吸が落ち着いてきていた。けれど晴人は、その腕に甘えたままだ。この体温からまだ離れたくはなかった。けれども、だ。

「……はあっ…椋井…」
「無理して喋んなくていいよ」
「ちがくて…っ…電話…繋がってんの…っ」

――こんなところユウダイたちに聞かれたら、椋井が誤解される……。

「だいじょぶだからっ…ありがとな…」

名残惜しいその体温から離れようとした。が、椋井は腕の力をぎゅっと強めて、それを許さずにいてくれたのだ。

「なんで今、そんな無理すんの」
「いやっ…だって…」
「大丈夫。大丈夫だから」

たとえば、様子がおかしいとユウダイたちがここへ来る可能性だってあるわけだ。なのに晴人は、椋井のニットベストをぎゅうっと握りしめていた。自分のものじゃなくなったみたいに言うこと聞かずに震える身体を、そのまんま預けてしまっていた。

――落ち着く。気持ちいい。全然柔らかくないのにな。

「よかった。気付けて」
「へ……?」
「真城たちが声量バグってて助かったわ」

――こいつ、ユウダイたちに聞き出して、わざわざ来てくれたのか?だってお前、俺らのグループ毛嫌いしてるし、大人数のなかで喋るの苦手だってこの前言ってたじゃんか……?

「はっ…はあーっ……だめだ…」
「あ、保健室連れてこか?」
「ちげーわ…」

――もうこれでファイナルアンサー間違いなしだろ。

晴人は確信していた。これだって吊り橋効果だと言われれば、そうなのかもしれない。そうじゃないと言える根拠を、用意できているわけでもなかった。

「好きだ、椋井」

ただ、椋井の隣に特別な誰かがいるのが嫌だと思う。その綺麗な手が自分以外の頭を撫でていたら嫌だと思う。際限なく椋井のことが知りたくなるし、もっと近くにいきたいと思う。自分の鼓動しか聞こえないあの衝動の中、思い出す声なんてこれまで一つもなかった。

「その…、錯覚じゃないって俺の中では答えでてるけど、お前のこと納得させるのはまだ…うまくまとまんないっていうか」

――今、どんな顔してるんだろ。怖くてみれねーけどさ……。

「でも、錯覚じゃないって、証明させて!俺がんばるから……だから…普通に話したい。もっとお前のこと知りたいし、俺のこと知ってほしい」

友達だって別にかまわなかった。いや本音では、特別な存在になりたいのだが。けれどそれが容易いことじゃないのは、さすがの晴人だって理解していた。

椋井は大きな溜息を一つ吐いて、その腕の力がふと弱まる。なんだか不吉な予感だ。

「……えっ」

しかし恐る恐る見上げたその異様に整った顔は、予想に反して、真っ赤に染まっていた。

「お前、なんかタイミングおかしくね…?今?今なの??」

晴人の大好きな椋井の綺麗な指先が、それを覆い隠そうとする。隙間からちらりと覗く顔が、あまりに幼げだったものだから、晴人はたまらない気持ちにさせられた。

――これじゃん!?ユウダイが言ってた、たまらないって、これじゃね…!?

「俺も、好き」
「………ん?」
「え?好きなんでしょ?え、どゆこと?」
「え!?好きなの!?お前が?」
「は!?待ってわかんない、なに?好きなんでしょ?」
「好きだよ!椋井大好き!」
「……っ、だから俺も!南が好きだよって」

――……は…?こいつ、俺のこと好きなの…?

「お前さぁ…!だったら、普通に話せよ、なんで話しかけてこねーんだよ…っ!!」
「いや無理だろ、そもそも仲良くないんだし」
「だからって…」
「大体、南の言うタイミングが悪いんだよ。あんな非常事態のあとすぐ告られたって、弱みに付け入るみたいで気が引けるもん」
「はああ??」

――なんだよ、じゃあずっと……。

晴人はまた自然に、椋井の頬に手を伸ばしていた。

「全然、やわらかくない」
「悪かったな」

――なのに、なんでだろうな。どうして、触りたいって思うんだろうな。

「好きでいいの」
「うん」
「わかってる?付き合うってことだよ?」
「わかってるよ。南こそちゃんとわかってんの?」
「当たり前だろ!」

椋井は「どうだか。一か月も続かないんだもんな」と嫌味たっぷりに呟いた。そんなことさえ仲がいいわけでもない椋井に知れているのだ、晴人はこれまでの自分の行いを悔いて悔いてしかたなかった。

「お前とは違う気がするんだけど?」
「そうなの?」
「俺いっつも振られる」
「じゃあ俺次第だ」
「そう。でももしお前が別れたいって言っても…」

そのとき晴人は想像した。このキラキラまばゆい光が、自分を照らさなくなってしまう、その瞬間を。今まで何度も経験してきた、『お付き合い』の終わりの光景を。

「……えっ嫌すぎる」
「ふはっ」
「無理だ!別れてやんないよ!ほんとにいいのか!?」

椋井が自分の頬に添えられていた晴人の手をそっと握る。そのときに見せた微笑みは、晴人がこれまで瞳に映してきたどんなものよりも、儚く尊いものに思えた。一生閉じ込めておきたいとさえ思った。

「いいよ。俺も別れる気ない」

そして悶える晴人に、追い打ちの一言だ。

「ずっと守らせて」

――……うわ、なにこれ。

守りたい、そう思ってきたはずだ。自分よりもずっと小さくて、か弱くて、健気な女の子のことを守りたい、と。こんなに人としてままならない自分でも、女の子のことは守らなきゃいけないと、どうしてだかずっと思っていた。それは病気がちだった従姉の存在もあったかもしれないし、周りの普通の男たちが、みんなそうしているように見えていたからかもしれない。

でも本当はずっと、たぶん、ずっと。

「…よろしく」

きっとずっと、誰かに守られたかった。大丈夫だと抱き締めて欲しかったんだ。





「晴人はなんでいつもそうなんだよっ!!」
「……はあ…!?逆ギレかよ…」

色々と…そう、色々と落ち着いてから。晴人は椋井とともに、ユウダイたちに本当のことを話した。小学五年生から患っている、閉所恐怖症という病気のこと。衝動的にパニックになってしまうこと。この関係性がたとえどうなったとしても、もう話さざるを得なかった。

「まじでごめん、そんなことになってるとは思わなかった」
「それで許されるわけじゃないけど、本当ごめん」
「……なんで言わないんだよ。言ってくれないんだよ」

タイチたちが頭を下げてくれる傍ら、ユウダイだけがいつになくぶすくれた顔で仁王立ちしていた。晴人はその姿に若干の苛立ちを覚えていたが、隣にいるこの男の存在が、晴人を自暴自棄に走らせるようなことはしなかったのだ。

「言えないだろ…俺がぼっちだったの、これのせいみたいなとこあるから」
「中学の頃の話だろ」
「それはそうだけど。でもお前らにも避けられたら……ていうか対等でいられなくなるのが。普通に嫌だったんだよ」

ユウダイは晴人のその言葉を聞いてか、頭をぐしゃぐしゃとかき乱していた。癖毛がふわんと立ち上がったりしている様は、たしかにアスカの言う通り犬を彷彿とさせる。

「っは!?」
「ほんっとごめん。ごめんな」
「やめろよ、土下座とかきもいわ」

そしてついには、床にひざまずいたのだ。まったくいちいち大袈裟な奴だ。

「その気持ちは、俺も知ってる。ごめん、普通に俺には言って欲しかったってだけ」
「うん。……俺も、話さなくてごめん」

ユウダイがやっと頭をあげたとき、土下座を咎めようとしていた晴人の顎に、それが見事ヒットした。

「いってー!!この石頭!!」
「晴人がそんなとこに顔出してっから!」

晴人はまさかこんなふうに、今まで通りの時間が戻ってくるとは思っていなかった。大抵の場合、面倒だなという顔をされたり、なんとなく遠巻きに見られるようになったり。そうしているうちに、晴人もそれ以上近づくことが怖くなったりするのが、これまでのお決まりだったからだ。

――本当に、いいのかな。こいつらには言っても、離れていかないのかな。

ちらりと椋井の顔を見やった。すると椋井は、黙ったまま晴人とユウダイに近づき、ユウダイの頭を押さえつけていた晴人の腕をぐっと引っ張り上げたのだ。

「もういいでしょ」
「……もう、いいです…?」

――えっ、えっ…?これってまさか…、

「嫉妬……??」
「そうです」
「だあっ!!そこ一発で認めんだ!!」
「声うるさっ。ねえなんで?なんで陽キャってそんな声通るの?」
「俺別に陽キャじゃねーもん」
「どこが!?」

椋井と並んで歩く通学路。二年ちょっとの間、ほぼ毎日通ったなんてことない道。それがどうしたって特別に見えてしまうし、今日を一生忘れたくないとか思ってしまうわけだから、つまりこれが恋なんだろう。紛れもなく、もちろん錯覚なんかでもなく。

「俺が言ったら凍るようなことでも、南が言うと明るくなるじゃん」
「たとえば?」
「かわいーとか」
「……いや、お前が言ったら女の子が固まるの間違いだろ」
「南が言うと笑いになってていいなって思ってた」
「ばかにしてんだろ!!」
「ばかといえば、テス勉しなきゃな。一緒にやろう」
「おっ…おう?え、ばか?」
「ふふっ。かわいー」

――この男……確信犯なら重罪だぞまったく、大体顔がいいんだ、かわいいとか…かわいいとか…!!

「ほら、凍ってる」

――固まってんの!!!

にひひ、といたずらっぽく笑った顔も、晴人は今の今まで知らなかった。ずっと後ろの席に座っていたはずなのに。あんなに近くにいたっていうのにだ。

ちっともよかっただなんて思えやしない。できるなら普通に、みんなと同じように生活したい。晴人のその思いは決して変わることはない。けれど、そんなままならない自分を、受け入れてくれた人たちがいる。その出会いだけには、感謝できるようになった。

「俺もがんばるから」
椋井が急に真面目な顔してそう言った。

「南がやっぱ違うってならないように、頑張るから」

――キラキラ、綺麗だ。椋井の目、好きだ。こんなになにもかも好きなのに、なんで違うとかなんだよ。この後に及んで?俺の気持ち、こいつに全然伝わってなくない…?

「椋井」

どうやったって、視界に入ってくる。大体同じくらいの背丈。

――こんくらいって、キスしやすいんだな。

全然小さくないし、か弱くないし、柔らかくもないけれど、自分でも不思議な想いだった。真っ赤に頬を染めて、少し悔しそうな表情を浮かべた椋井のことを、かわいいと思うこと。

「不意打ちずるい。卑怯」
「卑怯は言い過ぎだろ」
「……だからホストムーブって言われるんじゃん」
「椋井までそれ言う!?」
「南が気付いてないだけで、みんなそれに落ちてんだよ」
「落ちてる?」
「だからもうだめ。ホスト禁止。退職願出してきて」
「お前なぁ!!彼氏に向かってそれはねーだろが」

珍しくはにかんだその頬に、触れたいと思うこと。それを独り占めにしたいと思うこと。

晴人は自分のなかに初めて芽生えたそれを、慈しむようにそっと抱き締めた。