その日の夕方、小珠はキヨと一緒に屋敷の中にある大きな湯殿に入らされた。その後は、白い狐の耳が生えた美しい女性の使用人たちに髪の毛や体を丁寧に洗われた。彼女たちは、気狐《きこ》と言うらしい。湯から上がると、上質な着物が用意されており、てきぱきと着付けられ、今度は夕食の時間だった。
料理の間には、人生で食べたことがないほどの豪華な食事が用意されていた。野狐たちや金狐銀狐、天狐と空狐、その他にも沢山の妖狐――おそらくこの屋敷にいる全ての妖狐たちが揃い、ずらりと並んでいる。部屋の中心では狐耳の生えた少年少女たちが弦楽器での演奏を行っている。小珠はその非現実的な空間に驚くばかりで、折角用意された食事をゆっくりと味わう余裕がなかった。
ふと隣のキヨの様子を窺う。固形の食べ物はほとんど口にしなかったキヨがうまいうまいと沢山食べている様子なのが何より嬉しかった。
夕食後は寝間としてだだっ広い畳の部屋を与えられた。キヨは小珠の隣の部屋で休むことになっている。様子を見に行ったが、キヨの部屋も小珠と同程度に広く、ちゃぶ台や暇を潰せそうな書物なども揃えられていた。「何かあったらすぐ呼んでね」とキヨに声を掛け、自室へ戻った。
部屋には月明かりが差し込んでいる。屋敷は静かだ。他の妖狐たちは皆もう寝たのだろう。できるだけ音を立てないようにそろりそろりと縁側に座る。
庭園を流れる川の音が心地良かった。
「小珠様?」
月を眺めていると突然声を掛けられ、反射的に顔を上げた。そこにいたのは空狐だった。昼間とは違って絹の白生地で仕立てられた寝間着を身に纏っている。
「眠れないのですか? 寝心地が悪いのであれば敷布団を替えさせますが」
「いえ……。今日一日で信じられないことがいくつも起こったので、まだびっくりしていてなかなか眠れなくて」
小珠はそう答えた後、おそるおそる空狐を見上げて誘ってみる。
「少しお話しませんか?」
これからこの屋敷に身を置く以上は、この屋敷にいる妖狐たちとも親睦を深めておきたい。
空狐は少し驚いたように目を見開くと、無言で小珠の隣に座ってきた。断られなかったことにほっとした。
小珠の方から誘ったにも拘らず、話す内容が思い付かない。しばらく無言で月を眺めてしまった。何か言わねば、と思って無理やり話題を絞り出す。
「私とおばあちゃんが住んでいた家はどうなるのでしょう……。まだ収穫していない作物があるので気になります」
「空き家になるでしょう。畑が気になるのであれば野狐たちに向かわせます」
「何から何まですみません……。あの、もしあの家を欲しがる方がいたら譲ってあげてください。〝狐の子〟の私が住んでいた家など誰も欲しがらないかもしれませんが、家屋が小さくて困っているという声もいくらか耳にしたので」
もう戻ることができないのであればせめて誰かに譲りたい。キヨとの思い出の詰まった場所なので、使われずにぼろぼろになっていくのはあまりに悲しかった。
「貴女はあんな村の連中を気遣うのですか? 一石様と貴女を見下し見捨てた場所でしょう」
空狐が冷たい目をして言い放つ。
確かに、あの村の住民たちはキヨの体が悪くなっても誰も手を貸そうとはしなかった。小珠も酷い言われようだった。嫁にもらってくれる家も友達になってくれる者も居なかった。外に出れば嫌な噂ばかりされた。
……それでも。
「あの方々は、私の作った野菜だけは買ってくれていたんです」
村の中で協力し合って生活しているあの村で孤立することは命に関わる。しかし、それでも小珠とキヨが生きていけたのは、野菜の取り引きだけはしてくれる家がいくつかあったからだ。
「おばあちゃんは私が来る前、元々あの村で一番おいしい野菜を作ると有名で。その時代からの根強い愛好者がいたといいますか……隠れて応援してくださる方が一定数いました」
皆小珠を疎んでいたが、その中にも一部、小珠やキヨの作った農作物のことだけは認めてくれた老人たちもあの村には居た。そんな人達に支えられながら、あの村以外に行き場のない小珠は何とか生き長らえたのだ。
「確かに疎まれていましたし、酷いことも沢山言われました。でも、私はあの集落で一人で生きていたわけではないのです」
小珠が言い切ると、文句ありげだった空狐もそれ以上何も言わず、感情の読めない瞳でじっと小珠を見つめてくる。その目があまりに澄んでいて綺麗で、少しどきりとした。慌てて大きく首を横に振って邪念を振り払う。
(嫁入り前なのに他の男の人に見惚れてちゃだめでしょう……)
若い男性と関わる機会など滅多になかった。慣れていないが故のことだ、と自分を落ち着かせる。
「本当にあの玉藻前様の生まれ変わりかと疑うほどに似ていませんね」
ぽつりと空狐が呟いた。
何だか悪いことのような気がして「すみません……」と謝ると、「いえ、褒めています」と即答される。
玉藻前と違うという発言が何故褒めたことになるのか。違和感を覚えた。
「玉藻前様はどのようなお方だったのですか?」
「一言で言うならば冷酷無慈悲。横暴で我が儘なお方でした。僕の心と体を蹂躙し、酷く傷付け、最低な振る舞いをしてきたお方です。良いところは見た目だけですね。顔だけは國中を探してもなかなか居ないであろう絶世の美女でした」
それを聞き、身なりを気にせず化粧もしていない自分を恥ずかしく思った。小珠はお世辞にも絶世の美女とは言えない。村の他の若い女たちが嫁入りしていく中、早々にそのようなことは諦め畑仕事ばかりしていた身だ。
「そんなに美人だったなら、金狐さんや銀狐さんにがっかりされて当然ですね」
昼間この屋敷へ来た時のあの失礼な妖狐たちの反応を思い出し、がくりと項垂れる。すると、すかさず空狐が言った。
「心の美しさは見た目にも現れます。今の貴女の方が美しいと僕は思いますが」
不覚にもまたどきりとさせられてしまった。
――ただ異性に慣れていないからではない。あまりにも似ている。小さい頃祭りでキヨとはぐれた時、手を引いて正しい場所まで戻してくれた着物のあの人に。
「今の貴女であれば天狐様にも相応しいかと思います」
続けてそう言われ、はっと正気を取り戻す。小珠の結婚相手は天狐である。同じ屋敷で生活を共にする空狐に心を奪われてしまってはいけない。
「……何だか実感が湧きません。私、本当に嫁入りするのですね」
それも相手は人間ではない。自分よりも何倍も大きな狐の姿をした妖怪だ。
「ご不安ですか?」
「生活が大きく変わってしまうので。それにこのきつね町のこともよく知りませんし」
「では、明日の日中僕が案内しましょう。行きたい場所はありますか。高級な甘味処などどうでしょう」
甘味処と聞いても小珠はぴんと来なかった。
それよりも、今日ここへ来る時に通った市。数々の妖怪たちが楽しげに売り買いをしていたあの場所がやけに頭に残っている。小珠のいた村にあのような賑やかな場所はなかったのだ。
「甘味処……もいいのですが、今日通った市も気になります」
「しかし、あそこは身分の低い妖怪が集まる場所です。小珠様のような方が行くところではありません」
「……どうしてですか?」
「妖狐の一族はこの町を統治する存在です。威厳を保たねばなりません」
空狐は小珠が市へ行くことには反対であるようだった。妖狐の一族にとっては威厳というものが大事らしい。
「私が玉藻前の生まれ変わりであることって、他の妖怪から見ても分かるのですか」
「外見だけでは分かりません。この町の食べ物を摂取したことで少しだけ妖力が戻ったようですが、今はまだ微量です。気配はその辺の低級妖怪と変わらないでしょう」
「では、私が妖狐の一族ということは隠して市へ行くというのはどうでしょう……?」
折角初めて訪れる町へ来たのに、屋敷に引き籠もってばかりいるのは気が引けた。それに、色々と探索してみて面白い場所があればキヨにも紹介できる。
空狐は小珠の要求を聞いて少し考えるような素振りを見せたが、小珠が前言を撤回せずに期待しながらじっと見つめているとようやく納得してくれたようで、
「大胆な行動に出るところは玉藻前様に似ているようですね」
と苦笑した。