翌日、屋敷に一泊したからかさ小僧は楽しそうに帰っていった。

「また遊ぼうな、空狐様!」

 上機嫌なからかさ小僧の馴れ馴れしい物言いに、空狐の片側の口角がひくりと釣り上がる。やはりこのような態度を取られることには慣れていないらしい。その様子を見てひやひやしていると、からかさ小僧がこちらに手を振ってくる。

「小珠も、また後で市で会おうな」
「うん。また昼過ぎに」

 門から出ていくからかさ小僧は、今日も市へ向かうらしい。からかさ小僧の手には、空狐が用意してくれた土産の袋がある。

「空狐さん、私の我が儘を聞いてくださりありがとうございました」

 からかさ小僧が見えなくなってから、改めて空狐に礼を言った。今回は空狐が特にからかさ小僧の歓迎に力を入れてくれたように思うからだ。

「お礼なら天狐様に言ってください。今回許可を出したのは天狐様ですので」

 勿論天狐にも礼は伝えてある。しかし、元々町の妖怪たちと深く関わるべきではないという考えだったはずの空狐にも言いたい。今回のことはきっと、慣れないことの連続だっただろう。なのに空狐はこの歓迎会を最後まで主導してくれた。

「でも、空狐さんも努力してくれましたよね。元々ある価値観を取っ払って、今までとは違うことをするってなかなか大変なことだと思うのです。だから、ありがとうございました」

 深々と頭を下げると、すかさず空狐が小珠の頬に触れて顔を上げさせてくる。

「小珠様に喜んでほしくてしたことです。小珠様の笑顔が見られたら十分ですよ」

 触れられたところからじわじわと熱が広がっていく。心臓の音が空狐に届くのではないかと心配になり、思わずその手を払いそうになった。
 その時、庭の方で畑仕事をするキヨの声がした。好機だと思い、「私、畑に行ってきます!」と走り出す。不自然なほど大きな声になってしまった。

(やっぱり駄目だ……私、空狐さんへの恋心を全然手放せない)

 瑞狐祭りの時も、空狐は小珠のためを思って秘密裏に動いてくれた。空狐が自分のために何かしてくれる度、嬉しさと期待が膨らみそうになるのを抑えるので必死だ。

「おばあちゃん、凄いよ。このきゅうり凄く大きい」

 どうにか意識を他に持っていきたくて、庭でできたきゅうりの中でも最も大きく成長したものを指さして言う。しかしキヨは小珠の様子がいつもと違うことにすぐに気付いたのか、じぃっと小珠の顔を見つめてきた。

「昨日は楽しかったかい。友達が来ていたんだろう」
「う、うん。ごめんね、ちょっとうるさかったよね」
「太鼓の音がわしの部屋まで聞こえていたよ。何だか祭りを思い出して良い気分だった」

 くっくっと笑って顔に皺を刻んだキヨは、「ところで」と話を切り出す。

「お前、その友達とやらに懸想しているんじゃないだろうね」
「ええっ!? 違うよ! からかさ小僧はただの友達!」
「なら、この屋敷の他の誰かかい」
「…………」
「そうなら言いなさい。わしの目は誤魔化せないよ」

 ぎらりとキヨの目が光る。故郷の村では色恋沙汰とは無縁だった小珠が色気づいているのが珍しく、面白いのだろう。

「………………空狐さん……」
「なんじゃって!? ほう、ほほう、あいつか」

 キヨが凄い勢いで食いついてくる。反対に、小珠の態度は弱々しいものになっていく。

「誰にも言わないでね……。私の結婚相手は天狐様だし、こんな気持ちはすぐに忘れるつもりだから」
「道ならぬ恋か。なかなか厳しいぞ」
「別に、成就させたいなんて思ってないの。できるだけ早く忘れられたらって……」

 もにょもにょと口を動かす小珠の頭を、キヨが嬉しそうに撫でる。

「おやおや。何故忘れたいと思うんだい。折角生まれた大事な感情だろう」
「だって私は、天狐様と結婚するっていう約束でここへ来たから。天狐様と結婚するっていう前提の元でおばあちゃんの薬を頂いてるし、治療もしてもらってる。今更やめたいだなんて、そんなの不義理じゃない」
「なんだい、わしのことか。そんなのいいんだよ、小珠。小珠くらいの年齢の娘はね、もっと他人のことなんて気にせず、図太くならないといけないよ。迷惑くらいかけてなんぼのもんだ。そうでないと生きていけない世界じゃ。世の中はなかなか思う通りにはならん。だから、悪足掻きくらいしとかにゃ損だ。自分の気持ちは自分で守るんだ」

 キヨはかつての旦那と早くに死別している。小珠は彼と会ったことがない。しかし、昔聞いた話では、その相手とキヨは自由恋愛だったそうだ。更に当時、キヨには直前まで進んでいる縁談があったのだとか。その話を捨てて、周りの反対を押し切って結婚したらしい。
 何だか今の自分と状況が重なる部分があるように思えて、勇気を出して聞いてみた。

「おばあちゃんは、おじいちゃんと結婚してよかった?」
「狭い村だったからねえ。周りから色々言われることも多くて、大変なこともあったよ。そのくせあの人は早くに逝っちまって、長いこと一人にさせられた」

 キヨがからりと晴れた空を見上げて笑う。

「でもなあ、わしが好きになる人は、この世でもあの世でもきっとあの人だけじゃ」

 これがキヨの答えなのだろうと思った。


 ◆

 昼過ぎになると、小珠はいつものように野狐たちを連れて市へ向かった。
 しばらく歩いているとようやくからかさ小僧を見つけた。今日は場所を取られていたらしく、いつもとは違う位置だ。手を振って話しかけようとした――その時、からかさ小僧の前に見知った女性がいるのに気付く。咄嗟にばっと物陰に身を隠した。
 ――二口女だ。避けられている自分が行っては話を中断させてしまうと思い、時が過ぎるのをその場で待った。

「これは、妖狐の一族の屋敷でもらった餅でい」
「……あのお狐様が、この町の妖怪を屋敷に招いたっていうの?」

 僅かだが、からかさ小僧と二口女の会話が聞こえてくる。

「おう。その……こんなこと言われてもおめえにとっちゃ腹立つだけだと思うけどよ。妖狐の一族、そんな悪い奴らでもなかったぞ」
「…………」
「小珠のおかげで、変わろうとしてる」

 どうやら小珠たちの話をしているらしい。出ていくのが余計に気まずくなり、息を潜めて二口女がどこかへ行くのを待った。
 しかし、直後にどたーん! と小珠の隣に立っていた天狗姿の野狐が道に倒れる。足元を見ると、一匹の蜘蛛がいた。どうやら突然這ってきた虫に驚いて倒れてしまったらしい。野狐たちは虫が苦手だ。

「……小珠、いるの?」

 二口女が低い声で問いかけてくる。もう隠れてはいられないことを悟り、ゆっくりと物陰から姿を出した。
 ようやく出てきた小珠を、二口女は冷たい目で見つめてくる。

「今年の瑞狐祭りで、瑠狐花を用意したのは、貴女たちでしょう」

 二口女はその視線を小珠から小珠の両脇にいる野狐たちに向けた。

「……あんなことされたところで、何も変わらないわ。わたし、妖狐の一族はずっと嫌いよ」

 その目は憎悪に満ちている。
 きっと狐の一族によって、数えきれない程悔しい思いをしてきたのだろう。

「花降らしをしたのは、わたしの話を聞いたから?」
「……はい」
「余計なお世話よ」
「……ごめんなさい」
「わたしはずっとあの一族を恨んでる。狐の一族の悪政さえなければ、わたしの恋人はまだここにっ……なのに」

 今度は小珠を睨み付けた二口女が、泣いていた。
 市を行き交う人々が立ち止まり、驚いたようにちらちらと二口女を見ている。

「今更、こんなことしないでよ。誰を憎んでいいか分からないじゃない。小珠のことだって、わたしもう、友達だって思ってしまっていたのに。それが、あの妖狐の一族だったなんて! 今更……っ」

 小珠は二口女の元へ駆け寄り、その細い体を勢いよく抱き締める。
 二口女は怒っているのではない。悲しんでいたのだ。

「本当にごめんなさい。そう思って当然ですよね。何回もお茶を入れてくれたのに、お団子作ってくれたのに、騙すような真似したのは私です」

 二口女の嗚咽が聞こえる。小珠はただ必死に謝ることしかできない。

「私、元々こことは離れたところで暮らしてたんです。だから、状況も何も知らずに二口女さんの茶店へ行ったんです。無神経だったと思います。結果、ずっと言えなくて……私たちを嫌ってる二口女さんに言うのが怖くて、騙してしまった。二口女さんと友達でいたかったんです。身勝手でごめんなさい」

 二口女は優しい。
 初めて出会った時も、人間と見た目が変わらない小珠を心配して『暗くなる前に帰りなさいね』と忠告してくれた。
 この町のことを何も知らない小珠を面倒がらずに、一つ一つ丁寧に教えてくれた。
 本当は暑さが苦手なのに、小珠や河童が川へ誘うと付いてきてくれた。

「私、二口女さんの話を聞いてこの町を変えたいと思いました」

 過去、あの茶店に、二口女と二口女の恋人との間に何があったのか、詳しくはまだ分からない。でも、これが小珠の真摯な気持ちだ。

「どうか、償いをさせてください」

 きつね町の妖怪たちは、元気で優しくて、楽しそうに暮らしている。小珠は彼らの笑顔が大好きだ。
 二口女が啜り泣く。そしてその手が小珠の背に回った。弱々しい力だが、おそるおそるといった様子で小珠の服を掴んでくる。

「妖狐の一族は、嫌い」
「……はい」
「……でも、小珠は好きよ」
「…………」
「小珠がくれた野菜、全部美味しかった。大事に食べてた」
「……はい」
「わたし、言葉は信じていないの。ずっと傍にいると言ってくれたはずの恋人も、朝起きた時にこの町から消えていたから。……でも、小珠は行動で示してくれた。わたしの些細な言葉を覚えててくれていて、花降らしをしてくれたんでしょう」
「はい、そうです。二口女さんがこの町のことを教えてくれたおかげです」

 二口女は小珠から離れ、指で涙を拭いた。

「本当にこの町を変えてくれるつもりでいるのね?」
「はい。きっと変えます」
「……分かった。わたしも、見方を変えるわ。呑み込むのに時間はかかると思うけど……小珠と、妖狐の一族をもう一度信じてみる。ずっと避け続けていてごめんなさい」

 二口女が頭を下げる。小珠も慌てて頭を下げた。

(おばあちゃん、できたよ)

 また二口女と話せるようになって、嬉しい気持ちで一杯だ。
 誠実なところを見せなさい、という言葉を胸に頑張った。騙してしまった相手に話しかけるのは怖かったけれど、キヨのおかげで二口女に思いを伝えることができた。
 こうして小珠は無事、二口女と仲直りできたのだった。