深い竹藪を抜けた先に、ひっそりとした原風景の広がる集落がある。山間にあるこの里は行き着くまでが遠く、住民は数少ない。農民たちの住むそれぞれの屋敷の周辺には田畑があり、その奥には、墓所やもう壊れた神社がある。
 他の多くの村と同様、この村も地方三役を中心に百姓が自治的に運営しており、小さな村だが、皆互いに協力しながら暮らしていた。
 今年十八歳になる一石小珠(いっせきこたま)はこの村に住む専業農家だ。親がいないという理由で少し浮いている。年貢・諸役がかなりの負担ではあるが、共に住む祖母を支えるため、必死に農業を営み生計を立てていた。


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 青く澄み渡る晴れた空から、ぱらぱらと小雨が降る日のこと。
 その日、里では小さな祭りが行われる予定だった。消えつつある人の少ない集落で、唯一残された一年に一度の祭り――瑞狐(ずいこ)祭りという、里の豊作を祈る祭りだ。農作物の物々交換を頼りに生活しているこの里では重要な祭りである。
 しかし、こう雨が続いては今年は中止だろう。今日だって日が照っているのに雨が降っている。狐の嫁入りだ。

「おばあちゃん、今年はお祭りやらないかも」

 空の様子をじっと見ていた小珠は古びた戸を閉め、囲炉裏のそばに横たわっている祖母――キヨを振り返った。ここ数年で足腰が弱り、生きがいだった散歩もできなくなったことで急速に元気を失っていったキヨからの返事はない。この様子ではどのみち今年は一緒に行けなかったであろうが、キヨとの思い出が詰まった祭り自体が中止であるというのは小珠としても悲しかった。

 小珠の両親は、キヨが言うには、小珠の物心がつく前に小珠を置いて何処かへ行ってしまったらしく、小珠にとっての家族は実質キヨだけのようなものである。
 幼い頃からキヨとこの集落で過ごした小珠は、一年に一度の祭りに毎年キヨと出向いていた。汁粉屋や天麩羅屋、蕎麦屋、唐辛子屋、大道芸が懐かしい。しかし三年前、小珠が十五歳になる頃に、キヨはうまく歩けなくなってしまった。
 それからは、小珠は積極的に洗濯や炊事など家のことを手伝い、畑仕事も完全に引き受け、何とか生計を立てていた。農作物を集落にいる他の住民に売りつけることもした。

「あの家のおばあさん、ついに元気がなくなってきたそうよ」
「狐の子なんて預かるからでしょう。不吉な」

 ――〝狐の子〟。集落にいる百姓たちは、時折小珠をそう呼んだ。親のいない子はそう呼ばれるらしい。
 この集落の山の向こうには〝きつね町〟という妖怪の住む町があり、まれに妖怪が子どもを近くの村に預けに来るという言い伝えがある。そのため、親のいない小珠は妖怪の子として噂されていた。
 〝きつね町〟は、妖狐が統治しているから〝きつね町〟らしい。妖怪の存在は昔からキヨから教えられてきたが、小珠は未だ妖怪を見たことがないため半信半疑だ。そもそも妖怪は、人間が住む場所を拡張したせいで大昔に皆きつね町へ逃げ込んだと聞く。今更人里へやってくることなどなく、実在するのかさえ怪しかった。


 いつものように近くの百姓に自分が育てた野菜や果物、米を提供し、代わりの物を受け取ってからすぐにキヨの待つ家屋に帰った。
 一日のほとんどの時間を寝て過ごすようになったキヨの体を支えて起こし、軽く潰した食べ物を何とか口に含ませる。キヨはその後すぐにまた眠ってしまった。小珠はじっとその寝顔を見つめた。
 キヨはきっともう、長くない。

 キヨがぐっすりと眠っているのを確認した後、雨の中もう一度外へ出た。ぱしゃりぱしゃりと薄く水を張った地面の上を踏み、歩いていく。
 例年瑞狐(ずいこ)祭りが開催されていたのは、小珠の家から歩いて十分、とある神社の分祀があったと記されている場所だ。大昔の戦で本殿が燃やされたようだがその跡は残っている。朽ち果てた木材と苔むした石垣。周囲を囲む厳かな木々が密集しており太陽の光がほとんど届かず暗く、薄気味悪い雰囲気が漂っている。この場所が灯りで照らされるのは一年に一度の瑞狐祭りの日のみだ。
 奥には古びた絵馬やお守りが散乱した状態で放置されたまま。絵馬に書かれた文字は剥がれ落ち、願い事が見えづらくなっている。小珠は屈んでその絵馬の一つを手に取った。

(ここも随分寂れちゃったな……)

 小珠が幼い頃であれば、この神社はまだ管理されていた。しかし、いつしか見捨てられたようだ。集落の人口は急速に減る一方である。長年人口増減を記録している名主も嘆いていた。
 小珠は、手を合わせ本殿の跡地に向かってせめてもの祈りを捧げる。

(おばあちゃんの調子が少しでも良くなりますように。健康で長生きしますように)

 目を瞑ってそう何度も願った後、立ち上がって空を見上げた。風が吹くたびに木々のざわめきが聞こえる。そのざわめきは、小珠にある思い出を想起させた。


 幼い頃一度だけ、祭りでキヨとはぐれたことがあった。確か、本殿の裏側に回り、暗い暗い林の中へ入っていってしまったのだ。本殿の裏は出店が出ている場所とは反対方向で、向かえば向かうほどどんどん暗くなっていった。道の分からない小珠は途中で泣きながら座り込んだ。
 ――その時、ある光が幼い小珠の元へ現れた。その人は月白色の髪と琥珀色の瞳をした、上質な着物を身に纏った男性だった。小珠には彼が光り輝いて見えた。彼は小珠よりもかなり身長が高く、顔の作りまでははっきりとは見えなかったが、泣き続ける小珠の手を握り、祭りの中心部まで連れて行ってくれた。

 神社の裏の林。あの頃は怖くて仕方がなかったが、十八歳となった今となればそうは感じない。小珠は何だか懐かしくなり、その林の中へと進んでいった。

(あの人と会ったのは、この辺りだっけ……)

 思い出の場所を探しながら歩き続けていたその時、後ろから軽快な音楽が聞こえてきた。空気感が変わった気がして振り返る。

 すると――道の両端に、音もなく土下座している人々がいた。
 同じようなお面を付けた同じような背丈の人々が、全く同じ白い着物を着て、綺麗な角度で土下座している。
 その不気味さに思わず固まってしまった小珠に向かって、正面からゆっくりと近付いてくる背の高い男性がいた。年は見たところ二十代後半の、琥珀色の瞳をした、着物の似合う男。
 そう、ちょうど、あの幼い日に出会った男の人のような――。

「迎えに上がりました。小珠様」

 紅の傘を上げて小珠にそう微笑みかけてくるその男性は、酷く端正な顔立ちをしていた。

 彼らの後ろから、真っ白な牛二頭が引く立派な牛車が近付いてくる。
 瑞狐祭りは雨天中止のはずだったが、何らかの見世物は行う予定なのだろうか。小珠は驚き慌て、道の端に寄った。しかし、美しい男性はその琥珀色の瞳で不思議そうに小珠を見つめ、軽く首を傾げる。

「小珠様、ですよね? 僕が間違うはずがないのですが」
「小珠ではあります……」

 男のあまりの美しさに動揺し、肯定する声がものすごく小さいものになってしまった。
 村にこのような若い男は滅多にいない。そのうえこの美貌、いるとしたらすぐに有名になり噂になっているはずだ。おそらくよそ者だろう。

 男がゆるりと口角を上げた。

「僕は空狐《くうこ》と申します。山を越えた先にある、きつね町というところから貴女を迎えに来ました」

 〝きつね町〟。妖狐が統治しているという、妖怪の町の名だ。作り話か現実の話か、半信半疑で聞いていたあの言い伝えが、目の前にいる美しい男のせいで現実味を帯びてきた。

「私に何の御用で……?」

 おそるおそる聞いてみた。目の前の彼らがあのきつね町から来たというのが本当だとしても、何故自分に会いに来たのか分からない。
 空狐と名乗った男は、小珠の問いに優しい声音で答えた。


「貴女には、我ら一族の長、天狐《てんこ》様と結婚して頂きます」