香村健臣という少年の事を同級生たちはだいたい優等生であるとか、クラス委員であるとか、何を考えているのか良くわからない影の薄い男として認識している。ただ、その印象は高校二年生になってから少し変化してきているようだった。
「うわ、マジじゃんコ―ムラのノートすげー見やすい」
テストの準備期間に入った放課後は部活動も休止されるため教室に残っている生徒は多く無い。同じクラスの廣川七瀬に勉強を教えて欲しいと言われていた香村が自分の数学のノートを開くと、何故か机と一緒ににじり寄って来た榊原奈美が声を上げた。
「榊原さんも一緒にやる? 勉強会」
「やるやる! アタシ真面目に今回赤だとやべーの。バイト禁止の危機」
「バイトしてるんだ」
「駅前のラーメン屋」
「頭ピンクでも雇ってくれんだな」
そう言って前の席の椅子を勝手に拝借して教科書と参考書を広げた廣川に対し、榊原は自信満々に「地毛だし」と言った。
「いや、無理がある……」
思わずツッコミを入れてしまった香村に、彼女はばさばさと音がしそうな付け睫毛の大きな目でじとりと見やる。くっきりと縁どられた彼女の目に睨まれるのはちょっと怖い。
「香村はノートも綺麗だよなあ。めちゃくちゃわかりやすいし」
話を切り替えた廣川に内心感謝しながら香村はそうだろうかと首を傾げた。板書を書き写しただけでなく後から見返した時に自分でわかりやすいよう書いているのは確かだが、カラフルなマーカーを多用しているわけでもない地味なノートだと自分では思っている。
「そうかな、赤ペンのほかは黄色とピンクのマーカーしか使って無いけど」
「色分けしてるだけ偉い」
「いや色分けくらいしろよ」
廣川のノートを見せて貰うと確かに殆ど色分けされておらず、シャープペンシルで板書を写しただけという印象だ。因みに榊原のノートは色とりどりのペンやマスキングテープが使われていたが板書の内容は殆ど写されていなかった。
「ノートは板書をとりあえず写すより、自分でわかりやすい言葉に直して書いた方が頭に入ってくると思うよ。そのまま写すより効率が良いし」
「はーその発想は無かったわ」
「いやでも授業中にセンセーの板書噛み砕いて書き写すとか、頭柔らかすぎね?」
二人とも驚いた様子で目を丸くするので、香村は妙に気恥ずかしくなってくる。ノートひとつでここまで褒められた覚えが無かったからだ。
小学生の頃から勉強は特に苦だと思った事が無かった。自分の知らない知識を得られる、というだけで楽しかったからだ。中学生になってからはもちろん楽しいだけでは無く、同じ勉強であっても教科によって得て不得手も出てきたがテストの点数や成績で教師や親に叱られた経験も無い。ただ勉強ばかりしていたせいか仲の良い友人は殆どおらず、幼馴染の吉野立花くらいしか話す相手もいなかった為ノートを誰かに見せるという行為が単純に新鮮なのだ。
「つーか何で奈美がいるんだよ、せっかく俺が香村からマンツーマンで教えて貰えるチャンスなんだから邪魔すんなよ」
「ツッコミが遅いんだよなあ。マンツーマンとか下心見え見えでキモイよ七瀬」
「うっせ! 下心なきゃ勉強なんかしないの」
「え、そうなの?」
本気でテスト勉強がしたいわけではなかったのか、と目の前の廣川を観た香村に対し彼は慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。
「勉強を教えて欲しいのはガチ」
「……だけど?」
「下心があるのも、ガチ」
色素の薄い瞳……おそらくカラーコンタクト……が目の前の香村を真っすぐ見つめてキリリと気合を入れた表情で頷く。なるほど、いっそ清々しいほどに素直だ。
「そ、その下心とはいったい……」
「そりゃあ、あんなことやこんなことを……」
「コームラも乘ってんじゃねーよ」
榊原の容赦のないツッコミが飛んできた。まだ教室に残っている数人のクラスメイトたちが賑やかな三人を遠巻きに眺めたり小さく笑ったりしている様子が見えて、香村はなんともいえない面映ゆさを感じてしまう。彼らと一緒にいる事が増えて、なんだか最近妙にクラス内で目立ってしまっているような気がするのだ。
「だから奈美には辞退していただいて」
「尚更駄目だね。それならアタシにはコームラのソーテーを守ってやらんとな」
「貞操」
「それ!」
いや貞操を守るとか途端に生々しいなと香村はやや身構えてしまうが、廣川と榊原は何故か睨みあいを始めてしまった。相変わらず仲が良い。
「もう何でも良いから始めるぞ。終わらなくなりそうだ」
身構えてしまったのが馬鹿々々しくなり、香村はため息交じりに教科書を開いたのだった。
勉強会……と言っても香村のノートを二人が書き写しながらテスト範囲の確認程度だが……を終える頃にはすっかり陽が西へ隠れようとしていて、見慣れた街が燃え上がるような茜色に染まっている。車通りも人通りも少ない細い道を廣川と並んで歩いた。
思えば香村が彼と一緒に下校するのは初めてのことだ。ダンス部に所属している廣川とはいつも下校のタイミングが合うことは無く、そもそも友人の多い彼があえて香村と肩を並べて帰るという選択肢を持っているとも、香村は思っていなかった。
教室では賑やかな廣川七瀬という男は、こうして二人で歩いていると意外な程に静かだ。何か話した方が良いのではないかと隣を見やれば、夕陽にキラキラと透かされた髪と黙って前を向く横顔が目に入った。
「綺麗だな」
突然自分の唇からぽろりと零れた声に驚いた。
声に出すつもりなど無かったというのに、彼の輪郭を縁取る白い線を眺めていたらつい、口が開いていたのだ。
「……もしかして、今香村に口説かれた?」
「口説いて無い」
「うわー即答!」
ショック、と言いながらも笑う廣川はいつものように賑やかで、黙っていた横顔など何かの見間違えだったのではと思ってしまう。だが、柔らかそうな明るい色の髪に見え隠れする形の良い耳が赤らんでいるような気もして、それが夕陽のせいだけでは無いように思えて、香村はじわりと掌に汗をかいた。
心臓が煩い。不整脈かもしれない。顔が熱いのはきっと西日が当たっているせいだ。
「廣川君は、なんで」
と、そこまで口にして香村は慌てて唇を閉じる。今日はなんだか不用意な言葉が出てきてしまう日のようで、自分で自分を制御するのが難しかった。それもこれも彼が下心などという妙な言葉を使ったせいだ。榊原が貞操などとわけのわからない単語を発したせいだ。
急に言葉を途切れさせた香村に隣を歩く廣川が押している自転車ごと距離を詰めてくる。何、と問われ頭を振って視線を逸らす。
「……いや、なんでもない」
「えーなになに、気になる」
「本当に、気にしないで」
廣川の興味を引いてしまったようで、逸らされた視線を追うように覗き込んでくる彼の顔が近い。しかし彼にしてみれば友人との距離感などこのあたりが普通なのかも知れず、そうだとすれば意識している自分がおかしい気がして視線がぐるぐると泳いだ。それでも追ってくる廣川の、夕陽を受けて琥珀色に見える瞳とバチリと視線が噛み合う。
「っ……」
廣川の大きな瞳が細められ、あまりにも柔らかく笑うものだから、やはり綺麗だと香村は思った。だが今度は口に出すような失態はしない。
口を開いたのは廣川の方だった。
「……可愛い」
「う、れしくない」
「なんで?」
「からかってるから」
「からかって無いよ。俺は香村の事ずっと、かっこいいし可愛いって思ってる」
「ずっとって、いつから」
「お、やっと聞いてくれた? 俺がいつから香村の事が大好きかって」
俺の事いつから好きなんだ、なんて香村が先ほど勇気が出ずに口を噤んだ問いかけを廣川はいとも簡単に口にしてみせた。
「やっと聞いてくれた? 俺がいつから香村の事が大好きかって」
そう言った廣川七瀬は夕陽を背に楽し気に笑った。茜色の夕陽は明るい色の彼の髪を透かしてきて、表情は逆光となっているものの笑っているのはわかる。そも、記憶の中にある廣川という男はいつだって笑っているような気がする。
「じゃあ、当ててみてよ。俺がいつから香村の事が好きなのか」
「……え、じゃあって何」
「そこまで気になるなら? 教えてあげなくもない、って感じ?」
「いや、そこまでってわけでは」
嘘だ、気になる。
香村健臣は自分自身を平々凡々などこにでもいる高校二年生だと思っている。実際のところ中学生時代からあらゆる教科のテストで学年三位内を取り続けている男が平凡なわけがないのだが、それは香村を客観的に見ての印象であり香村自身の自己評価は平均して低めに設定されていた。
「えー気になってよ俺のこと」
彼の腕が伸びて来て香村の手を取る。思いのほか熱く、少し汗ばんでいて香村は驚いた。
気になって、なんて言われなくとも香村にとって廣川という男はやけに気になる男ではあるのだ。彼が声高に香村への好意を伝えてくるようになったのは確か二年生へ進学し同じクラスになった頃で、それまではクラスも違えば中学も違った為接点らしい接点は無かった筈だ。
「もっと俺のこと意識してね」
そう言ってのける廣川はやはり策士なのだろうと、香村は思った。
それは確かに策士かも、と言って苦笑を浮かべたのは隣の席の中津祐輔だった。
中間テスト期間中であるためこの日は午後から休みとなる。このまま同じ塾へ向かう香村と中津は一緒に昼食の為ハンバーガーチェーン店でハンバーガーにかぶりついていた。賑やかな店内には二人と同じく一日目の中間テストを終えた同じ制服の生徒たちでやや混雑している。
「香村君は廣川が言う事に心当たりはないわけ?」
ダブルチーズバーガーをぺろりと食べた中津はナゲットにバーベキューソースをたっぷりとつけながら尋ねる。テリヤキバーガーをもそもそと食べていた香村は少し考えてみるが、やはり二年生で同じクラスになる以前の廣川との接点は思いだすことが出来なかった。
「廣川君って中学はどこだっけ?」
「この辺じゃ無いらしいよ。親の転勤か何かで中学卒業と同時にこっちに越して来たみたいだから中学からの友達っていないのかも」
中津は相変わらずのリサーチ能力だ。人の噂話が大好きだと言って憚らない彼は将来的に興信所の探偵あたりが向いているのではないかと、人の噂話には殆ど興味の無い香村にしてみれば特殊技能にも近いその情報収集能力に脱帽してしまう。
「それなら尚更、どこで会ったんだろうな」
もぐもぐとポテトを摘まみながら首をかしげる香村に、中津はLサイズのダイエットコーラをストローで飲みながらくつくつと笑う。
「案外ただの一目惚れだったりして」
「……俺に? なんで?」
「いや、なんでって俺に聞かれても……人の好みは色々だし」
「だって一年の頃は榊原さんと付き合ってたんだろ? ってことは、俺と榊原さんに何か共通点が」
「なさそー」
確かに香村自身、ピンク色の髪がトレードマークの榊原奈美との共通点はあまり無さそうだと思っている。性別すら共通しない上に、香村は彼女ほど社交的な人間では無いし素直な性格でもない。
まだ半分も食べていないテリヤキバーガーを片手に頭を悩ませていると、目の前に座る中津は心なしか興味深そうな視線を送ってきていることに気づき、香村はぱちぱちと瞬きをした。
「なに」
「んー? いやあ、なるほど廣川は策士だなあと思って」
「どういうこと?」
「まあまあ、何か思いだしたら俺にも教えてよ。面白そうだし」
面白がらないで欲しいと思いつつ、香村は残りのバーガーにかぶりついた。腕時計を見ると午後からの塾での授業までまだ少し時間がありそうだ。どこかで時間でも潰すか、それとも早めに行って今日のテストの復習をしようかと考えていると不意に店内の騒めきの中から声を拾った。
「廣川って、B組の廣川七瀬でしょ? 良いよね~」
女の子の声だ。恐らく同じ学校の生徒だろうと思ったがさすがに声の方向へ視線をやるのは気が引けて、目の前のテリヤキバーガーを黙々と咀嚼して誤魔化す。しかし香村の耳はしっかりと彼女たちの会話を拾おうと欹ててしまっていた。
「ユウコ一年の時同じクラスだっけ?」
「そうそう、めっちゃ良い奴だよ。面白いしセンス良いし。あーでもギャルのナミと付き合ってたけどね」
「ギャル好きかー」
「いや、それがさ、二年に上がってから男に行ったらしくて」
「ハァ?」
「同じクラスの男子と付き合ってるらしいよ」
ごほっと思わず飲んでいた烏龍茶で噎せてしまった。ゲホゲホと咳込むと、目の前に座り恐らく同じ会話を聞いていたであろう中津が心底可笑しそうに腹を抱えて笑っている。笑い事では無い、と睨もうにも咳込んだせいで涙目になってしまった。
「付き合って無い」
紙ナプキンで口を拭いながらようやく復活した香村が不服とばかりに唸ると、中津はまだどこか半笑いの様子で俺に言うなよと言う。尤もな意見ではあるが友人同士話していたであろう声の主に直接抗議するのも憚られ、また彼女たちの声も賑やかな子どもの泣き声にかき消され聞こえなくなっていた。
「いっそのこと付き合っちゃえば?」
中津の無責任な一言に香村は丸めた紙ナプキンを投げつける。難なくそれをキャッチした彼は楽し気に眦を下げたまま香村を見やった。
「廣川と香村君が付き合ってくれて、香村君が俺に吉野さんを紹介してくれればウィンウィンでは?」
「全然俺はウィンじゃないし、そもそもそういうのは誠実じゃないから駄目」
「駄目かー!」
大げさに肩を落とす中津をしり目に、香村は残りのポテトを口に放り込み烏龍茶で飲み下した。
食べ終わった二人はトレイを片付けて店を出る事にする。結局廣川の話をしていた女子生徒らが誰だったのかはわからず仕舞いであったがきっと誰かが訂正してくれただろうと願うしかない。交際してもいないのに交際しているなどと噂されれば当の廣川とて困るに違いない。
……いや、困らないのかもしれないが。
「はー……なんで俺なんだろう」
自転車を押しながら塾までの道を歩きつつ、思わずため息が零れた。
「そんなに迷惑なら、正直にガツンと言った方が良いんじゃない?」
隣を歩く中津の言葉が、香村の痛いところを的確に突いてくる。彼の言う通り、廣川の言動が本当に嫌で迷惑であればやめてくれと言うべきなのだ。しかし、香村はこれまでずっと彼の真っすぐで純粋な好意を軽くいなし、見て見ぬふりをし続けている。
「迷惑じゃないなら、一回ちゃんと考えてみても良いと思うよ。じゃないと、廣川がちょっと可哀想だから」
口を挟んでごめんねとへらりと笑った中津に、自転車を押す香村は何も言い返すことが出来なかった。
中間テストも無事に終わった五月後半、通常ならば六月から衣替えとなる予定が年々季節が前倒しされるかのように夏の暑さとなっている五月、既に生徒の大半は半袖で登校していた。香村健臣も例に漏れず五月の連休明けから既に半袖で、母が毎日作ってくれている弁当も底に保冷剤を敷いてきている。蝉の声はさすがにまだ聞こえはしないが、もうすっかり初夏というより夏本番といった気温だ。ただ、梅雨前故にからりと乾いた暑さはそれほど不快ではない。
担任の教師に呼び出された放課後、香村は一人職員室へと入っていった。そこには何故か、廣川七瀬の姿もあった。
「おー香村、悪いな来てもらって」
五十代半ばあたりであろうと思われる担任の男性教師は職員室へ入って来た香村に気づくと軽く手を挙げた。廣川も顔を上げて嬉しそうに笑う。先ほどまで同じ教室内で顔を合わせていたというのにどうしてそうも嬉しそうなのか。
「いえ、スピーチコンテストの事ですか?」
「話が早くて助かるよ、あと二週間も無いからな」
スピーチコンテストというのは来月開催される高校生英語スピーチコンテストの県大会のことだ。この大会で県の代表に選ばれれば全国大会へ出場出来る。これまでこの高校で英語スピーチコンテストの県大会へ進んだ事は無いようで、教師陣が妙に張り切っているのを香村はひしひしと感じていた。主に筆頭はこの担任兼英語教諭なのだが。
「他の高校はさー基本的には英語弁論部的な部活があって部活単位で出場することが多いんだよね。でも香村は単独で地区予選突破しちゃったから大したもんだよ」
真正面から褒められるのはさすがに気恥ずかしい。香村は口の中でもごもごと「いえ」とか「そんな」などと意味のない言葉を転がしていたが、廣川が感嘆の声を上げた。
「よくわからんけど香村が凄いってことはわかった。ところで英語ベンロン部って何すんの?」
「別に凄く無いよ。弁論は……こういうスピーチコンテストに向けて練習する部活じゃないかな。運動部とか吹奏楽部もそうだろ、大会を目標にして練習するって」
「あー、ね。じゃあやっぱ凄いじゃん香村」
そうなんだよ凄いんだよ、と担任教師が鼻息を荒くする。顔が熱くなってきて、やめてくださいと苦笑を浮かべるしかなかった。
「そこで、香村にひとつ提案がある。君の英語で書かれた文章も発音もとても素晴らしいことはわかっているんだが、スピーチってのはそれだけじゃないんだよ」
提案、という言葉に香村は担任教師の方へ体を向け直した。彼は大げさに身振り手振りを加えながら説明を続ける。
「香村はなんていうか、感情の起伏が少ない」
「……はあ。そう、ですか?」
「あれ、自覚無い?」
教師は隣に立つ廣川を見上げる。彼は教師の言葉にうんうんと力強く頷いた。というか、未だに何故彼がここにいるのかわからない。
「英語弁論に関してはただすらすらとスピーチ出来れば良いってだけじゃなくてね、見ている人に伝える伝達力というか、演出も必要になって来るわけだ。去年の全国大会の様子が動画であるから後で見ておいてね」
伝達力や演出と言われて香村は腕組みをしながら唸り声をあげてしまう。自分が感情の起伏が少ないタイプであるという自覚はこれまでまるで無かったが、担任の言うようないわゆるパフォーマンス的な分野が得意かと言われると全く得意ではない。
「それで俺の出番ってワケ」
そう言いだしたのは、先ほどから何故か隣で話を聞いていた廣川だった。いったいどういうことかと香村は彼と担任教師の間で視線を行ったり来たりさせる。
「お前ら最近仲良いみたいだから廣川に頼んだんだよ」
「え、何をですか?」
「そりゃあ感情を表に出す練習をな。ほら、コイツダンス部だろ?」
そういえば廣川は陽キャと言えばお馴染みのダンス部だった。
「それなら演劇部の方が良いんじゃ……」
「演劇部は夏の高校演劇祭に向けて頑張ってるからなあ」
確かにこの高校の演劇部は高校演劇界隈ではそこそこ名が知れているらしく、香村ひとりの為に部員を割いてもらうわけにもいかない。香村自身演劇にはさして興味が無いのだが幼馴染の吉野立花が演劇部員であるため、ここ最近部活動の為帰宅が遅いことはよくわかっていた。
「俺はありがたいですが……廣川君だって忙しいだろ?」
「全然暇だから気にすんなって! 困ったときはお互い様だろ~」
「廣川もこう言ってるし、LL教室使って構わないから放課後空いてる時に練習しておいてくれ」
なんという丸投げ……と香村は若干遠い目をしてしまうが、担任がそう言うのであればやらないという選択肢は無いのだ。香村はそういったところで生真面目さを発揮してしまうのが常だった。
LL教室は基本的に英語のリスニングの授業が行われる教室である。長机には生徒が三人横並びで座る事が出来、生徒ひとり一人に対してモニターとヘッドセットが準備されている。
「せっかくの放課後なのに、本当に良かったのか?」
去年の英語スピーチコンテスト全国大会の動画を見る為、教師側の席でDVDをセットしながら顔を上げた香村に対し廣川は手持無沙汰な様子で席のヘッドセットをつけたり外したりしながらにこりと笑う。
「別に良いって、俺らダンス部は別に大会に出る予定とかは無いしさ。毎年文化祭目指して練習するくらいなんだから実質暇部」
「暇部って……でも毎日活動はあるだろ?」
「まあね、動画見ながら練習したり。踊ったのを撮影してアップしたり」
香村自身運動神経が悪いわけでは無いが、ダンスはまったく未知の領域だ。体育の授業の一環として少しやったことがある程度で楽しいと思った事は無かった。
「見てすぐ覚えられるもん?」
「ものによるとしか言えないかも。一回見れば覚えられるものもあるし、頭では理解してても体が全然ついて行かない時もある」
「へえ……結構奥が深いんだな」
香村は廣川がどのようなダンスを踊るのか知らない。彼の言う通りこの学校のダンス部は大会出場を目指すような部活動ではなく、学校の文化祭や近所の夏祭り等で披露するような類の部活動だ。昨今のダンス人気に肖って五年程前に新設された部活動らしく、本職のコーチが就いているわけでもなく生徒たちが自主的に活動している同好会の延長のようなものであり、その緩さからとりあえずで籍を置いている幽霊部員も多いらしい。ただ、香村の知る限り廣川は殆ど毎日部活動へ顔を出しているようだった。
DVDをセットし、教室前方の大きなモニターに映像を映し出す。どこかのホールのステージだろう、上部には全国高校生英語スピーチコンテストという大きな横断幕が掲げられた中でそれぞれの学校制服を身に纏った少年少女たちがステージ上のマイクで英語スピーチを披露してゆく。
「げ、字幕って無いの?」
廣川が苦虫をかみつぶしたような顔で隣に座る香村に文句を言った。確かに全文英語のスピーチに字幕が無いのは英語が苦手な廣川にとって苦痛かもしれない。だが恐らく記録用と思われる映像に対しさすがに日本語字幕を付けてくれとは言えまい。
「なんか……凄いな」
一人三分という持ち時間で披露されるスピーチは、確かにただ紙面を読み上げるというだけではなくいかに短い時間の中で言いたいことを審査員に伝えるかという創意工夫と熱量に満ちていた。また決まったテーマが定められていない為スピーチ内容も様々で、地球の環境問題を切々と訴える者から推しアイドルの素晴らしさを全力で伝える者、好きな人へのラブレターのようなものまであった。
時間にしてみれば約二時間程の映像であったものの、香村も廣川も圧倒されるばかりであった。さすが全国から選ばれた者たちだけのことはある。
「英語全然わかんないけど、こりゃあ確かにセンセーが演出が必要だって言うものわかる」
おそらくスピーチの内容を殆ど聞き取れていないであろう廣川だが、映像の中から迸る熱量のようなものは伝わったらしい。香村もスピーチ原稿自体は自身があったものの、全国から集った代表たちのスピーチを前にしてなるほど自分には圧倒的に伝達能力が足りていないようだと自覚させられることとなった。
「うーん、とりあえず……どこから手をつけたら良いかな廣川君」
「そこは廣川センセーって呼んで?」
「えっ……じゃあ、廣川先生どうしたら良いですか?」
「最高」
満面の笑みを浮かべる廣川に思わずため息をつきながら、香村はひとまず用意してきたスピーチ原稿に目を通す。地区大会の際に担任からの修正も入って何度も書き直した原稿だ。
「じゃあ、まずは香村が思うように一回スピーチして見せてよ。目の前にいる俺に伝わるように」
廣川はそう言うと椅子にどっかりと座り直して香村に対し前でスピーチをするように促す。確かに改善点を見つけて貰うのなら今の香村の実力を見て貰うしかないだろう。促されるまま前に出た香村は、教卓に原稿を置いた。
「廣川君聞いてわかる?」
「おっ、煽るじゃん~」
「煽って無いです先生」
「正直全然わかんないと思うけど、そんな俺にも伝わるように喋ってみてよ」
致し方ない、と香村は原稿に目を落とし口を開いた。
「……以上です」
パチパチパチ、と大げさな拍手が二人しかいないLL教室に響く。
香村がスピーチのテーマに選んだのは現在の若者が抱える漠然とした将来への不安についてだった。若者らしいテーマであり、理路整然とした文章に担任の評価は上々で、地区大会でも審査員から高評価を受けて県大会へと進んだ自信作だ。
香村自身、自分の将来に対して説明のし難い不安を抱えている。とりあえず勉強を頑張り、可能な限り良い大学へ行く事で将来の選択肢を広げたいと考えているが、実際のところ大学へ行って何を学びたいのかこれといった展望があるわけでは無かった。どちらかと言えば文系の方が得意ではあるので文系の国公立大学を目指している、ただそれだけに過ぎない。しかし、自分と同じ年齢で将来のヴィジョンを明確に捉えている者などどれだけいるだろうか。
「やっぱ香村の話してる事全然わかんなかったんだけどさ」
教卓の上の原稿用紙に目を落としていた香村は、かけられた言葉に我に返って顔を上げる。彼の目は真っすぐ香村を見ていて、それがあまりに真っすぐすぎて思わず視線を逸らしてしまった。
「香村の言いたいのってさ、一緒に考えようって訴えたいの? それとも、俺の意見を聞けー! って感じ?」
「……いや、そこはあんまり考えた事無かったかも」
「あーじゃあそれかも。そこを意識しないとどう演出すれば良いのかわからないかな」
「難しいな」
「そう? そんなに難しく考える事無いんじゃない? 例えば……俺、香村が好きだよ」
唐突とも思える言葉に驚いて、逸らしていた視線を廣川へ向けた。
彼は相変わらず真っすぐに香村を見つめたまま、ふわりとその双眸を柔らかく解して笑う。ぎゅうっと心臓の辺りを鈍い痛みのような、苦しみのような、それでいてどこかふわふわと足元がおぼつかなくなるような感情が湧き出してきて目が逸らせなくなる。
彼が香村への好意を惜しげもなく曝け出すのはいつもの事だ。けれど、ここまで直接的な言葉を目を見ながら言われたのは初めてだった。
「……ほら、伝わって欲しいって願いながら言えば伝わるでしょ?」
そう言って廣川はいつものようにからりと笑う。
窓が閉め切られた教室はやけに暑くて、香村は額に滲む汗を拭い頷く事しか出来ない。
「なんで……そんなに俺のこと」
「こんなに好きかって? 香村はそれ、考えてくれたんだ」
――じゃあ、当ててみてよ。俺がいつから香村の事が好きなのか。
そう言われたあの日からいつも常に頭の片隅に廣川の存在があった。いつ、どこで、どんなタイミングで彼は香村に好意を抱く事になったのか、考えてみたところで香村自身全く身に覚えがない。
「……わからないよ、だって二年になるまで全然喋ったこと無かったし」
「そうだね、中学は別だったしね」
「気になって、集中出来ない」
困る、と言いながら汗でずり下がってきた眼鏡を直す香村に対し廣川は何度かぱちぱちと瞬きをした後本当に楽し気に笑う。夕陽ではなく白色LEDの下であるにも関わらず、彼の耳は赤く染まっていた。
「うん、じゃあ……香村の県大会が終わったら教えてあげる」
「え、そんなの何も手に着かなくなっちゃうだろ」
頬杖をつきながら目を細めた廣川は、策士の顔で言ってのけた。
「何も手に着かなくなっちゃえば良いよ」
中学三年生の二学期から三学期にかけて廣川は少し不登校気味になっていた。特に虐められていたとか、そういった直接的な事があったわけでは無い。
きっかけははっきりと覚えている。両親が離婚し、母親の旧姓を名乗るようになってからだ。中学三年生で家庭の事情で今日から廣川になります、と担任教師から説明を受けて意味を理解出来ない子どもはいない。呼び方ひとつ変わるだけで小さな違和感は生まれ、両親が離婚した可哀想な子どもという認識は廣川を孤立させた。誰も酷い言葉を浴びせたわけでは無く、逆に皆気を遣ってくれていることがよくわかって、思春期真っただ中の廣川はそれが耐えられなかったのだ。
そんなことがあったから、高校は中学から離れた学校にしたかった。自分を知っている人が誰もいない環境で心機一転出来ればと思い、息子の不登校に頭を悩ませていた母親もそれを快く承諾してくれた。ちょうど母親の転職も決まったところであり、二人で再始動という気持ちでこの街へ越して来たのだ。
廣川七瀬という人間を誰も知らない、そんな環境は居心地が良かった。元々人との関わりを好むタイプであった廣川はようやく息がしやすくなったような気がしたのだ。
そうして新しい生活に馴染み、一緒にいれば楽しい彼女も出来て順風満帆に青春を謳歌しようとしていた廣川の前に現れたのが隣のクラスだった香村健臣という男だった。
放課後、掃除当番だった廣川は教室のゴミ箱を抱え渡り廊下を通って外のゴミ置き場まで歩いていた。放課後は友人たちとカラオケに行く予定で、早く掃除を終えてしまいたくて早足になっていたように思う。
「ねえ聞いた? B組の村山さん、お父さんが亡くなって苗字が変わるらしいよ」
不意に聞こえて来た声に廣川の脚は止まった。ドキリ、と心臓が大きく脈打って掌に嫌な汗がどっと滲む。
「可哀想だよね、帰りは暫く誘わない方が良いかも」
――違う、そうじゃないんだ。
廣川は無意識に渡り廊下の柱に身を隠していた。自分の事を言われているわけでは無い。わかっているのに指先が震えて来てゴミ箱を抱えていられなくなる。同じ一年生だろうか、そもそも廣川は会話の中の村山という生徒の事は全く知らない。それなのに、キンと耳鳴りがするほど体が動揺している。
可哀想だと思われたいわけじゃない、距離を置く優しさを欲しているわけじゃない、突然放り込まれた非日常の中でこれまでとけして変わらぬ日常が欲しいだけだ。村山という生徒がどう思っているのかはわからないが、少なくとも廣川はそうだった。今まで通りで良いよと言うと、友人たちには「でも大変でしょう?」「気を遣わなくても大丈夫だよ」と言われて酷くショックを受けたのだ。彼らが善意でそう言ってくれていたのだとしても、距離を取られるのが耐えがたかった。
「誘っても良いと思うよ」
澄んだ声が響き、廣川は顔を上げた。耳に馴染むような、低く穏やかな声だった。
「香村君。でも、悪くないかな」
「無理だったら村山さんが断るだけだよ。村山さんだってお父さんが亡くなって環境の変化で大変だと思うから、尚更いつも通りに大変だったねって声掛けて一緒に遊べばいいと思うよ」
廣川の視線の先にいたのは、黒髪に眼鏡の真面目そうな少年だった。
彼の、恐らく何気なく言ったであろう一言に廣川の心は軽くなった。
あの瞬間、言葉を交わしたわけでも目が合ったわけでもないというのに廣川七瀬は香村健臣という男に救われてしまったのだった。
だからきっと、彼は廣川が恋に落ちた瞬間を覚えてすらいない。それは廣川が勝手に香村という男に救われてしまった瞬間なのだから。
スピーチコンテストへ参加することになったのは、英語教師であるクラス担任の推薦があったからだ。香村が自分から積極的に応募したいと言ったわけでは無い。そのようなコンテストが存在することすら知らなかった。
そもそも香村健臣は自分から行動する、といった積極的なタイプでは無い。保育園児のころはヒーローごっこをしてもだいたい敵構成員役であったし、イベントの実行委員などに立候補したことも無かった。ただ、昔から勉強だけは得意なタイプだったので推薦されて委員長的な立場になる事はある。現在二年B組でクラス委員をやっているのも他薦であり、香村は部活動にも入っていないからまあ良いかとそれを受けただけである。頼まれると断れない性格と言えばなんだか優しい人間のようであるが、実際の所はただ自分で何かを決められない決断力の無い人間というだけだ。香村は自分のことをそう分析している。
「うーん、まず香村の場合は自己アピールが課題な気がする」
自己アピール……と香村は廣川の言葉を鸚鵡返しに口にする。
英語スピーチコンテストの県大会に向けて担任教師直々に香村へのアドバイザーを任された廣川はやる気に満ち溢れているようだ。本当に廣川と香村は仲が良いなと担任教師に満面の笑みで言われたが、香村にしてみれば何故か懐かれているという感覚が正しい。
ただ、つい先日廣川が香村に向ける感情が所謂恋愛感情であるとはっきり確信してしまった。もちろん高校生にもなってあからさまに寄せられる好意の意味を理解出来ないほど初心ではないつもりだが、面と向かって好きだと言われるとどうして良いのかわからない。付き合って欲しいと言われたわけでも、同じだけの気持ちを要求されたわけでもない為なおさらどうしたら良いのかわからなくなってしまうのだ。確かに、何においても自己アピールが課題なのかもしれない。
「ボディランゲージ……みたいなこと?」
スピーチ練習の為宛がわれた放課後のLL教室は開いた窓から心地いい風が入り込み、西日を遮る為に引かれたカーテンが膨らんだり萎んだりしている。同じ階にある音楽室からは吹奏楽部の練習の音が漏れ聞こえてくる中で、教室にいるのは香村と廣川の二人だけだった。
「確かにボディランゲージしてる人もいたね」
廣川はそう言って手元のスマートフォンを見た。
教壇側に立っているのが香村で、廣川は手元でスマートフォンで去年のスピーチコンテストの動画を確認している。ダンス部だから、香村と仲が良いからという理由で練習の手伝いを申し付けられてしまった廣川だったが彼は随分と楽しそうだ。
「俺はそういうの苦手なんだよなあ」
身振り手振りといった表現は確かにスピーチの内容を伝えるのに効果的だとは思うが、どんなことでも人には向き不向きというものがある。
廣川の手元にあるスマートフォンを覗き込めば、確かに昨年の全国大会出場者の中には身振り手振りを使って大胆なパフォーマンスを取り入れたスピーチもあった。香村にはとても出来そうに無い。
下を向いていたためずれた眼鏡を直しながら顔を上げると、思いのほか至近距離に廣川の顔があって驚く。
「……近いな」
「近づけてるし。俺香村の顔が好きだから」
「真面目にやって」
「やってるやってる」
本当かなあ、と思いつつ協力してくれていることにはとても感謝しているのでわかったからと言って廣川の頭を押しやる。以前から距離感が近いとは思っていたが、先日面と向かって自分が香村を好きになったのはいつからなのかスピーチコンテストが終わってから教えると言われて以来どうにもその近さが気になってしまうようになっていた。
「香村はボディランゲージは苦手だけど、人の目を見て話すのは得意だよな」
先ほどより少し廣川との距離が開いて内心ほっとする。
「まあ……目を見て会話しろって昔から親に言われてたから。ただコンテストだと審査員はひとりじゃないからな」
「でも目の前にいるわけじゃん? だったらその人たちの目を見ながらスピーチするのは大事な気もするけど……試しに俺の目を見ながら言ってみてよ」
そう言って廣川は自分の色素の薄い目元を指差す。彼との身長差はあまり無いが、今は彼が座っていて香村はその傍らに立っている為見下ろす視線が少し新鮮だった。
「言うって、何を?」
「廣川君大好きって」
「……」
「すみません調子に乗りました」
浮かれているなあ、と思う。廣川は先日から明らかに言動が浮かれきっている。その原因は恐らく自分なのだろうと、自惚れで無くそう思うので香村はなんとも面映ゆさを感じてしまう。同級生だけでもこんなにたくさんの人がいるのにどうして自分なのだろうと、最近よく考えてしまうのだ。
以前隣の席の中津に言われてしまった。廣川の好意を迷惑と思っていないのなら一度きちんと考えてみるべきだと。きっぱりと断るのなら断らないと廣川が可哀想だと言われてそれは確かにとも思ったが、香村にしてみれば何故彼が自分をそこまで好いてくれているのかがわからない以上受け入れるのか断るのかといった話へ進むことが出来ないでいた。
「廣川君の言う好きって、恋愛感情って意味だろ?」
香村は真っすぐに廣川を見据えて尋ねる。廣川は面食らった様子で大きな目をぱちぱちと瞬かせたあと、そうだよと言って柔らかく笑った。その笑みに何故か喉の奥がぐっと詰まったような気がして咄嗟に視線を下に落としてしまう。先ほど目を見て話せるという話をしたばかりなのに、何故だか急に真っすぐに彼の明るい茶色の瞳を見る事が出来なくなってしまった。
「別に、俺の事嫌だったら振って良いよ」
優しい声音に落とした視線が揺れてしまう。
「……いや、ではないけど」
狡い言い方をしているという自覚はあった。彼の好意をわかっていて嫌では無いなんて、逃げも同然だ。
「なんで、いつから」
拘るじゃん、と廣川の笑い声が教室に響く。いつの間にか吹奏楽部の騒がしい楽器の音が止んでいる事に気づいた。窓から吹き込んでくる風が少しひんやりとしていて、カーテン越しに空の赤さがわかる。窓の外からは僅かに運動部の声が聞こえていた。
「きっかけなんて、なんでも良いじゃん。俺は香村の事良い奴だなー好きだなーって思った、それだけ」
かたん、と廣川が机にスマートフォンを伏せて置いた。それだけ、なんて簡単に言ってくれるじゃないかと思う。人を好きになって、それを口に出す事に躊躇が無くて、まんまと香村の頭の中を自分でいっぱいにすることに成功した廣川はやっぱり強力な策士なのだろう。自分だったらきっとそんな事は怖くて出来ないだろうと、香村は思うのだ。
「好きになるって、そんな簡単なこと?」
「好きだなーって思うのは簡単じゃない? でも、俺の事を好きになって貰うのはすげー難しいけどね」
そういうものだろうか、と香村は考える。
「廣川君はいつもそんな感じなのか」
「えっ待ってそれは誤解! 好きになるきっかけは単純だけど、誰でも簡単に好きになるわけじゃなくって……えーっと、難しいなこれ」
――その言い方だとまるで、俺のことが特別だって言ってるみたいじゃないか。
「それに、言ったでしょ? 大会が終わったら教えるって。まあ……聞いても香村は覚えて無いと思うけど」
「……どういうこと?」
「だから、まだ秘密」
いまいち良くわからない。人を好きになる程の何かなら、香村が覚えていないわけが無いと思うのだが。
「それじゃあ、香村が俺のうっすーい話を聞く為にも練習に戻りますか」
ぽん、と廣川が軽く机を叩いた。薄いのかよ、と少し笑ってしまい香村は漸く顔を上げる。彼はどこか、ほんの少し、ほっとしたような顔をして笑った。
高校生英語スピーチコンテストの県大会は、県庁所在地にある文化会館の大ホールで行われる。県内の地区大会を勝ち抜いた高校生が七名出場し、ここで優勝した生徒が冬に行われる全国大会へ行く事になる。
基本的に観客はおらず、ステージに上がった出場者の前には数人の審査員しかいないとう状況だ。だが、動画配信サイトでの中継があるためライブカメラが二台観客席に入っていた。
廣川は自分もついて行きたいと子供のようにごねたのだが当然許可されるわけがない。中継の動画を見ると宣言していたが担任教師から授業中だと怒られもしていた。それを思い出し、香村は舞台袖でふふっと笑ってしまう。
「お、余裕だな。先生なんてもう、手汗がやばいぞ」
付き添いの担任教師が傍らでずっとそわそわしている。スピーチを読み上げる香村よりよほど緊張しているようで、自信を持てよお前なら出来るぞと先ほどから何度も声をかけられている。
「傍にめちゃくちゃ緊張してる人がいると逆に冷静になります」
「えっ」
香村は程よい緊張感はあるもののガチガチになるほどでは無かった。もうここまで来てしまったら、なるようにしかならない。
手元の原稿用紙に目を落とす。すべて暗記してあるので文字を目で追うわけでは無いが、要所要所に赤ペンで書き込みが加えられている。それは香村自身が書いたものもあれば、廣川が書き込んでくれたものもある。
今、ステージではひとりの女子生徒が滑らかな発音の英語で環境問題をテーマとしたスピーチを行っている。彼女の次が香村の番だった。
一応確認しておこうと原稿の束を見返す。ここで審査員の目を見る、この箇所は少し大げさになどというアドバイスは廣川がしてくれたことを香村が書き込んだものだ。約二週間、放課後にほぼ毎日二人はLL教室に通っていた。廣川と二人きりであんなに密に話したのは初めてで、時折ふざけたりはしたものの彼は真面目に香村に付き合ってくれた。ダンス部は遊びだと言っていたわりに指導も適格で意外に思ったものだ。それは香村にとって、廣川七瀬という男の新たな一面を垣間見ることが出来た時間だった。
原稿用紙の最後の一枚を捲って香村は手を止めた。余白部分に赤いペンで書かれた見慣れない文字。いつの間に書かれたのだろうか。
〝香村の情熱的なスピーチ、楽しみにしてるからな!〟
英語なんて全然わからないくせに、と唇に思わず笑みが浮かんだ。
スピーチコンテストを終えた翌日、いつものように学校へ登校する。教室に入るとクラスメイト達が口々にお疲れ様と言って労ってくれた。思わぬ反応に香村は面食らう。
「昨日、ちょうど現代文の時間だったんだけど廣川が先生に掛け合って香村のスピーチの時だけライブ動画見せて貰ったんだよ」
「だからみんなで見てたぞ」
現代文の授業はそれで良いのかと一瞬頭を過ったが、予想外の展開にだんだんと顔が熱くなってくるのを感じた。そこまで皆を巻き込んでいるとは思ってもみなかったのだ。
「あー……なんか、ちょっと照れる」
つい、声が小さくなってしまった。
「おは……あっ! 香村ー!」
朝の挨拶もそこそこに大きく元気な声が教室内に響く。来た来た、とクラス中の生徒たちが苦笑いのような含み笑いのような表情を浮かべていて、香村はその声が誰であるかわかり切っていながら教室の入り口を振り返る。
「昨日のアレ、すげー良かったじゃん! 次全国じゃんマジ惚れ直した!」
わふわふと全力で尻尾を振る大型犬のように満面の笑みで教室内を突進してきた廣川はその場で思いきり香村を両腕で抱き締める。驚いて固まる香村を余所に自分の席から中津がヒュウと口笛を吹き、他のクラスメイトもイチャイチャすんなと野次を飛ばしている。
廣川が言うように昨日のコンテストでなんと香村は審査員特別賞などという賞を貰ってしまい晴れて全国大会への出場を勝ち取ったのだった。
「廣川君、色々ありがとう」
固まっていた香村だったが、ふと体の力を抜いて自分をぎゅうぎゅうと抱き締める彼の腰のあたりをぽんぽんと軽く叩く。
廣川がなぜ自分の事を好きになったのか、そのきっかけを知りたいと思っていた。人を好きになる程の何か理由があるはずで、それを知らなければ彼の気持ちにどう返せば良いのかわからないと思っていた。
けれど確かにきっかけなんて些細な事だったりするのかもしれない。例えば、そう、たった一言の手書きのメッセージで気持ちが綻ぶようなこともある。そのおかげで、ひとりの人間を強く意識して、彼ならどうするだろうと思い浮かべれば自然と苦手な自己アピールを乗り切る事も出来たのだから。
顔を上げた廣川は本当に嬉しそうに笑って、言った。
「やっぱり俺、香村のこと好きだなあ」
面と向かってそんな笑顔でしみじみと口にした廣川に対し、香村は一瞬全ての音がざあっと自分から遠のくような感覚を覚える。
そんな顔、そんな声、そんな言葉はあまりにも狡い。
――ああ、やっぱりこの男は策士だ。策士に違いない。
教室中がどよめいた中で、香村は自分の体温が一気に上がっていくのを感じながらそう確信するのだった。
一般的に高校の文化祭は九月から十一月にかけて開催されることが多いようだが、香村たちが通う高校では九月の下旬に開催された。香村はどの部活動にも参加していない所謂帰宅部であったため部活動での出し物は無かったが、代わりに二年B組の教室で開催されている喫茶店の模擬店に駆り出されていた。
二年B組の喫茶店は机と椅子を並び替えて客席を用意し、カーテンで仕切った先を作業場兼バックヤードにしただけの殆ど手間の掛かっていないつくりになっている。A組は教室から廊下の端までをレールで繋いだ簡易ジェットコースターなる大作を披露しているし、C組はかなり凝ったお化け屋敷らしいのでB組のやる気のなさは顕著であったが、クラス委員である香村もやる気の見られないクラスメイトを鼓舞して良い出し物をしようと声を大きくするような熱血タイプとは程遠いこともあり当日もまったりとした時間が過ぎていた。
せめてもの賑やかしとして希望者のみ激安量販店で仕入れてきたメイド服や執事服を身に着けており、要望があれば冷凍食品を温めたオムライスに謎の呪文と共にケチャップでハートを描くくらいのサービスはしている。
「榊原さんってハート描くの上手いよね」
ピンクの髪の上にちょこんと白いヘッドドレス……ホワイトブリムと呼ぶらしい……を乗せた榊原奈美は明らかに安物だとわかるテラテラとした水色のメイド服を翻しながら香村を振り返った。彼女が今提供してきたのはまさにメイドさん特製オムライスという名の冷凍オムライスを温めたもので、中学生くらいの少年たちのために綺麗なハートをケチャップで描いてバックヤードに戻ってきたばかりだった。
「三回目くらいで慣れてきたかも。オプションで名前とか書けっかもよ」
「いや、そういうシステムじゃないから……」
クラスメイトの女子の中では身長が高めで腰の位置も高い榊原が着ると安物のメイド服はスカート丈が膝よりやや上になってしまっている。今更寸法を直すわけにもいかないので、普段から派手な外見のため生活指導の教師に目を付けられやすい彼女は仕方なく中に学校指定のハーフパンツを履いていた。なかなかに妙な組み合わせである。
「つか、コームラってそういうカッコ似合うじゃん。マゴにも衣装っつーんだっけ?」
「それ誉め言葉じゃないけど……まあ、ありがとう」
クラス委員として逃げるわけにもいかず、香村は同じく量販店で購入した執事服を身にまとっていた。黒いベストに黒い燕尾服と、生地は薄いが形は思いのほか綺麗な作りとなっている。
「いやーでもさあ、シツジってんならもっと髪型変えたほうがぽいって」
榊原は何か思いついた様子で机の下に置いてあった自分のバッグを手繰り寄せると、中から丸い物を取り出してくる。
「え、何?」
「ワックス。コームラちょっと眼鏡外して」
「なんで?」
「いーからいーから、言うこと聞きな」
午前中という時間のためか客の入りはまだ少なく、店番をしているほかの生徒たちは暇そうにバックヤードでスマートフォンを弄っている。そのせいか榊原にバックヤードの隅へと追いやられていく香村を面白そうに眺めている者が多かった。少しは助けてくれてもいいものを。
榊原はネイルを施した長い爪にも関わらず慣れた様子で器用に丸いケースからワックスを掬い取って両手になじませ、渋々眼鏡を外した香村の髪に無遠慮にその両手を突っ込んでくる。思わずぎゅっと目を瞑ってしまった香村を尻目に彼女は容赦なく香村の少し前髪が長めの黒い髪をぐいぐいと後方へ撫で付けた。
「おー良いじゃん良いじゃん」
「え、なに、なに?!」
「眼鏡邪魔だから外せよ」
「無理だよ近眼なんだから見えないよっ」
無茶を言う榊原に困惑する香村だったが、満足したのか彼女は好き勝手弄っていた髪から手を離した。
「よし!じゃあアタシ手洗ってくんね」
そう言ってさっさと教室を出て行ってしまった榊原の背中を呆然と見送った香村は、教室の隅に掛けられている鏡の前に立ち外していた眼鏡を掛ける。すると鏡の中には、長めの前髪を後ろへと撫で付けられ所謂オールバックと呼ばれる髪型になった見慣れた顔があった。
やや混雑した昼を過ぎ、ようやく店番を交代した香村はどこへ行こうかと考えあぐねている。喫茶店の店番は交代制だったが、クラス委員である香村は撤収間際にもう一度接客に入ることが決まっていた為着替えるのも面倒で執事服のまま教室から出て来ていた。そのせいか、何度か廊下ですれ違い様に振り返られて少し気まずい。もっと奇抜な格好で呼び込みをしている生徒もいるのだからあまり見ないでもらいたいと思いつつ、ひとまず中庭に出店している焼きそばの屋台へと向かった。この屋台はサッカー部が運営しており、この時間帯はサッカー部員の中津祐輔が店に出ていると聞いていたからだ。
中庭は普段の様子と一変しており、いくつかの食べ物屋台のテントが張られて飲食できるスペースも確保されていた。昼を過ぎた時間帯だからだろう、それほど混雑はしていないが普段学校で見ることのない小学生くらいの子供たちや生徒の保護者であろう大人、制服を着ていないことから他校の生徒であろうと思われる少年少女たちが思い思いに楽しんでいるようだった。
焼きそばの屋台の前に立つと、本格的な鉄板から漂う熱とソースの良い香りがする。仕込みをしているらしい中津が顔を上げ、いらっしゃいと元気な声を上げたあとに何故か二度見をしてきた。
「びっくりしたー、誰かと思ったら香村君か」
「着替えるの面倒で。焼きそばひとつください」
「お、サンキュー! いや、服装もそうだけど髪型どうした?」
中津はそう尋ねながらもテキパキとした動きで刻まれたキャベツを熱せられた鉄板に乗せ、そのあとに豚バラ肉を投入する。ジュウ、と肉が焼ける音がして彼は両手で持ったヘラで器用にそれらを炒めてから焼きそばの麺を解しながら更に鉄板に乗せ、焦げ付かないように勢いよく混ぜてゆく。肉にしっかりと火が通ったのを確認し、市販のソースを麺の上からかければ更に大きな音でジュウジュウとソースが焼けて香ばしい食欲をそそる香りが立ち上った。
手際よく発泡スチロール製の容器に盛り付け、最後に紅ショウガを添えると割り箸と一緒に差し出される。香村は書かれていた値段の三百円を彼に手渡した。
「手際良いね。職人みたいだった」
素直に感嘆の声をあげた香村に対し、中津は自信ありげに胸を張る。所謂どや顔、というやつだ。
「さっきめちゃくちゃ作ってたからね。料理も嫌いじゃないし?」
「へえ、意外かも」
「いや、意外といえば香村君の髪型もだいぶ意外だけど。めちゃくちゃ目立たなかった?」
榊原には悪いが、やはりあまり似合っていないらしい。榊原に無理やり弄られたと言えば、中津は可笑しそうに声を上げて笑った。
「この後は体育館でダンス部だっけ?」
中津がポケットから取り出したスマートフォンで時間を確認する。香村も腕時計をちらりと見れば、時刻は午後一時半を少し過ぎたところだった。体育館でダンス部のパフォーマンスがあるのは午後二時からだ。
「廣川君に絶対に来てって言われてるから行くつもりだけど、俺ダンスとか全然わからないよ」
廣川七瀬はダンス部に所属している。部活動のある日は基本的に出ているようだが、香村は彼のダンスを一度も見たことがなかった。そもそも、香村の人生においてダンスは体育の授業で習わなければならない苦手なものの上位に位置している。リズム感というものが理解出来ないのだ。
「良いの良いの、香村君が行ってあげれば廣川も張り切るから」
「まあ……そうかもしれないけど」
ステージの上で香村を見つけ、はしゃいだ犬のように喜ぶ彼の姿が目に浮かんだ。
昼食として焼きそばと、同じく中庭に出店していた柔道部の作る具材たっぷりの豚汁とおにぎりで腹ごしらえをしてから香村は体育館へと向かう。既に大音量の音楽がかけられていて、照明にも色がつけられているようで日常とはかけ離れた空間となっている。ステージの前には制服を着た生徒のほか、様々な人々が五十人ほど体を揺らしていて香村は彼らの中へ入って行くのを躊躇していた。空気を震わせる低音のリズムの中、何故思い思いにリズムを取れるのか香村としては不思議でしかない。若干の場違い感を覚えつつ、彼らの外側でぼんやりと立ち尽くす謎の執事という良くわからない光景になってしまっていた。
二時を少し過ぎた辺りで流れていた音楽が急に切り替わる。ステージ上には学校指定のものとは違う揃いのジャージに身を包んだダンス部が登場すると、観客たちが待っていましたとばかりに歓声を上げた。廣川を最前列の左端に見つけた香村は、普段と違い真剣な面持ちの彼の表情に目を見張る。柔らかな明るい色の髪を太いターバンで上げた様子は、なんだか知らない男のように見えた。
音楽が流れる。流行にあまり関心の無い香村でも聞いたことのある、韓国の男性アイドルグループの曲だった。軽快なリズムの中速いテンポで彼らは自分の体を自在に使って滑らかに、時に大胆に、そして繊細に体育館のステージをエンターテインメントの舞台に作り替えてゆく。何か難しい技をしているのだろうか、時折観客が歓声を上げるが香村にはダンスの難易度などわからない。むしろ、彼らの動き全てが香村にとっては新鮮な驚きの連続であった。
廣川の長い脚が軽やかなステップを踏む。指先が力強く握られる。その身体がバネのように跳ねて、波のようにうねるさまから目を離せなくなっていた。
その時、廣川の鋭い視線が香村の視線と交わった。彼は一瞬だけ確かに笑って、すぐに立ち位置を移動させてゆく。
あんな表情の廣川七瀬を香村は知らない。いつだってにこにこと陽気な男の視線ひとつで熱せられた矢に射抜かれたような衝撃に、香村は心臓がバクバクと煩く暴れているのを感じていた。
二曲を踊り終えたダンス部は、その後アンコールによりフリースタイルのダンスを披露した後ステージを飛び入りダンサーたちに譲って降りていった。香村には結局ダンスの良し悪しは全くわからなかったし、音楽に乗れたわけでもなかったけれど初めて見る廣川の一面にまるで短距離を走り終えたばかりのように心臓が煩く跳ねたままだ。
「あ、いたいた! 香村!」
声に顔を上げる。ターバンを外し、髪がぐしゃりと乱れたまま廣川がステージ脇から走り寄ってきた。その姿は先に想像していた通り、しっぽをぶんぶんと振って駆け寄ってくる大型犬のように見え、ステージ上とのギャップに香村の頭は少し混乱する。
「良かったー来てくれて。っていうかその髪型どうしたの、めっちゃかっこいいじゃん」
いつもと変わらず笑顔で声を弾ませる廣川は首にかけたタオルで顔の汗を拭いながら尋ねる。様子はいつもと変わらないが、先ほどまで太めのターバンをつけていたせいで乱れ汗で貼りついた前髪は香村にとって見慣れぬ姿だ。自分の知らない姿の廣川七瀬がいることなど当たり前のはずなのに、不思議と香村の胸の中はざわざわと煩い。
「え、っと……榊原さんが。こっちの方が似合うって言って、変えられた」
「はは、ナミにやられたんだ? 確かにめちゃくちゃ似合ってる。香村はおでこまで綺麗だね」
「そんなこと初めて言われたんだけど」
おでこまで綺麗、という彼の言葉の意味がわからない。思わず眉間にしわを寄せると廣川はくつくつと笑って廣川の眉間のしわにそっと親指の腹を触れさせた。その指の熱さに驚いてぱちぱちと瞬きをする。
「似合ってるけど、ちょーっと複雑かも。俺の香村の良さがみんなにバレちゃう」
複雑、と言いつつも彼は笑って指を話す。触れられた眉間がまだじんわりと熱を持っているような気がした。
「別に廣川君のじゃないけど」
「えー良いじゃん俺のになってよ。お買い得だよ」
お買い得ってなんだよ、と香村は思わず笑ってしまう。ドキドキと駆け足で急かすように跳ねていた鼓動は、まるで何事も無かったかのように平穏に落ち着いてきていた。きっと、少しだけ動揺していただけなのだ。
笑った香村に、廣川は猫のように大きな目を細めてじっと香村の顔を見つめる。何、と問う前に彼はその表情をいつもの人懐こい笑顔に変えた。
「俺着替えてくるから、そしたら一緒に文化祭デートしようよ」
「いや、俺また戻って喫茶店の仕事あるから」
「えーうそー! せっかくこの後ラブラブデート出来ると思ったのに!」
彼の大きな嘆きの声が体育館に響き、振り返った観客たちが香村と廣川を見てクスクスと笑っている。香村は呆れたため息をつきつつも、いつもの調子の廣川にどこかほっとしていたのだった。
修学旅行というものは学生生活において特別大きなイベントのひとつだ。
香村健臣が通う高校の修学旅行は二年生の十月に二泊三日で行われる。行き先は定番中の定番ではあるが、京都と奈良を巡るコースとなっていた。中には中学校時代に行ったからもう行く場所も無いなどと文句を言う者もあったが、ほとんどの生徒が楽しみにしていただろう。
修学旅行初日は京都の大定番観光スポットである清水寺からスタートとなった。
各クラスに分かれ、ガイドに案内されながら事前に配られた旅のしおりを捲りつつ初秋の清水の舞台を観光する。残念ながら紅葉の季節にはまだ早く大舞台から見えるもみじの葉は未だ青々としていたが、暑すぎた夏を思えば抜けるような青空の下で心地よい風が吹き抜ける中で清水の舞台から見える景色は、まるで時間が止まったかのような静寂と、歴史の重みが染み込んだ空間が広がっていた。
眼下には、緑豊かな山々が連なり、季節ごとに異なる彩りを見せるのだろう。きっと十一月に入れば紅葉が山を染め上げ、まるで錦織のような美しい風景が広がるに違いない。
遠くには、京都の街並みが広がり、その中に古い寺院の屋根や、近代的な建物が調和するように並んでいる。
清水の舞台に立つと、その高さと広さに圧倒される。木製の柱と床板がしっかりと組まれ、長い年月を経てもなお、力強く支えている。その場に立つだけで、まるで歴史の一部になったような感覚に包まれた。
風が頬を撫でると清々しい気持ちが広がる。その風は、遠い昔から多くの人々が感じてきた風と同じなのかもしれない。
舞台からの眺めを楽しんでいると、不意にパシャリとシャッターが切られる音がして香村はそちらへと振り返った。明るい色に染め上げた柔らかそうな髪を風に靡かせて、廣川七瀬がなにやら本格的な一眼レフカメラを構えてレンズを香村へと向けていた。
「廣川君、なにしてんの」
「深緑と香村が絵になるな~って思って」
廣川が覗いていたファインダーから顔を上げてへらりと笑う。
「そうじゃなくて、カメラ。自前?」
「まさか! 学校新聞用にって新聞部の奴に頼まれた。うちってほら、写真部って無いからカメラ構ったことある奴あんまいないんだって」
そう言って彼が掲げて見せたのはミラーレスのデジタル一眼レフカメラだ。首からかけたストラップにはしっかりと学校名が書かれており、学校の持ち物らしいことがわかる。
「カメラ、詳しいんだ?」
「詳しいって程じゃないけどな。父親が趣味でやってて、ちょっと中学生の頃触った事あったってだけ」
確か廣川は市外の中学校に通っていたが、卒業と同時に親の都合で引っ越してきて今の高校へ進学したと聞いた。そのため彼の中学時代を知っているクラスメイトは殆どいない。
「紅葉してればもっと綺麗なんだろうけどなーさすがにその時期に修学旅行ってのは現実的じゃないか」
廣川が大勢の観光客と、自分たちのように修学旅行生であろう見知らぬ制服姿の高校生たちを見やる。随分と外国人観光客が多い。
「この時期でさえこれだけの観光客がいるからね。清水寺の紅葉は確か海外向けのガイドブックでも取り上げられたりしているらしいから、来月なんて今以上に凄い人になると思うよ」
「そんなに人数が乗って大丈夫なのか、ここって」
廣川がそう言いながら自分の足元……清水の舞台の床板へ視線を落とす。
舞台自体は広く、緩やかに反り返る屋根がその上を覆っている。屋根の端には優美な装飾が施され、京都の伝統的な建築美を余すところなく伝えている。柱の下を覗き込むと、その高さと規模の大きさに驚かされる。まるで巨木の森がそこに存在するかのような錯覚を覚えるほどだ。
「柱が太いから大丈夫だとは思うけどね」
「うわ、思った以上に高いねこれ! 昔はここから人が飛び降りて願掛けしたって言うけど、よくやるよ」
清水の舞台から飛び降りる、とは思い切って大きな決断をするといった意味で使われることわざだが、実際に大願成就を願ってこの舞台から飛び降りて願掛けする者が昔は後を絶たなかった、という話を先ほどガイドの男性が説明していたところだった。廣川はそういった話をよく聞いているタイプなのだな、と香村は意外に思った。
「実際に二百人近く飛び降りたらしいよ」
「ゲッ、じゃあここめちゃくちゃ人死んでるって事?」
廣川は周りに配慮してか、やや声を潜めてそう聞いてくる。香村は少し可笑しくなって、笑みを含みながら首を横に振った。
「実際のところ、この下って木が生い茂っていたりして生還率は八割くらいだったって……聞いてる?」
修学旅行前に見たガイドブックに掲載されていた話を披露していれば、廣川が何故か自分の顔をじっと見つめてきていることに気づき、香村は訝しげに眉を顰める。すると廣川はにっこりと猫のように大きな目を細めた。
「今日も香村は綺麗だなーって思って」
「……話聞いてないなこれ」
「眼鏡を外したら美人がバレちゃうから一生取らないで欲しい」
「無茶言うなよ、俺だって風呂とか寝るときとか眼鏡外すよ」
「えっ! 待ってよ今夜の宿って大浴場あるらしいじゃん! やばいでしょ!」
何がだよ、と思っていると廣川はその形の良い頭を背後から思い切り叩かれた。
「声がデケーよ七瀬」
相変わらずピンク色の髪をゆるく巻いて、大胆に短くした制服のプリーツスカートからスタイルの良い脚を覗かせている同じクラスの女子生徒、榊原奈美だった。
「コームラ、こいつ変な事言ってきたら殴って良いから」
「良くねーよ! お前の凶器みたいな爪が頭皮に刺さったんだけど?!」
「凶器……」
見れば榊原の両手は全ての爪が綺麗なグラデーションで塗られており、キラキラとした小さな石が付けられていて艶やかに光っていた。
「凄いね、榊原さんの爪」
「だろ~? アタシ結構器用なんだよね~」
「えっ、これ自分でやったの?」
「そうそう、サロンも金かかるしさあ、ジェルネイルの道具とか機材揃えてセルフネイルしてんの。たまに友達にもやってあげてる」
予想外に豊かな才能の持ち主であった榊原に驚嘆する。ネイルといったものにこれまで興味を持ったことは無かったが、これだけ細かく美しく仕上げられる人はそう多くは無いのではないだろうか。
「ナミってこういうとこ器用だよなあ」
後頭部を擦りながら廣川が言った。
「前は七瀬にもネイルしてやったよね。また塗ってあげよっか?」
そう言って榊原は廣川の両手を取る。爪の形綺麗だよね、などと言いながら彼女はどの色が似あうだろうかと言っているが廣川は特にそれを振り払うでもなくされるがままになりながら派手なのは嫌だよと苦笑を浮かべた。
おや、と香村は思う。
廣川は何故彼女の手を振りほどかないのか。何故榊原はこうも簡単に廣川の手に触れるのか。その答えは簡単で、半年ほど前まで彼らは彼氏と彼女という関係にあったからだろう。何故別れたのかは香村は知らないが、険悪な別れ方をしたわけではなさそうだということはわかる。
――それでも、今廣川君が好きなのは俺なんじゃないのか。
香村は握られた二人の手から視線を逸らしながら、もやもやとした不明瞭な感情の芽生えに戸惑っていた。