二泊三日の修学旅行を終え、吉野立花はスーツケースをガラガラと引きながら駅から家への帰路を歩いている。京都は一度演劇部の大会のために訪れたことがあったが、あの時は夏でとにかく暑くて良い印象が無かった。しかし十月下旬という初秋に改めて訪れた京都も奈良も空気が心地よく、観光地の為さすがに人は多かったが寺社仏閣も思いのほか楽しめて充実した三日間だった。
 吉野は美人と言って差し支えない容姿をしている。きめ細かな白い肌に紅を引いたような赤い唇。ややつり目の黒い瞳は長いまつ毛に縁取られ、黒く真っすぐな髪は背中まで伸ばしていた。日本人形のようだと言われることも良くあったが、吉野自身日本人形と言うとひとりでに髪が伸びそうで少し怖さを感じてしまいあまり好きでは無かった。
 吉野の家は駅から十数分ほど歩いた住宅街にある、ごく普通の一軒家だ。学校へは自転車で通学しているが、今日は修学旅行帰りであり大きな荷物もあるため徒歩での帰宅だった。帰ったらまだ両親は仕事中で家には誰もいないはずなので、ひとまず溜まった洗濯物を片付けなければならないなと思いながら住宅街の角を曲がれば、吉野の家の隣家の前で立ち尽くしている見覚えのある男がいた。
「何をしているの健臣、鍵でも忘れた?」
 吉野家の隣家は香村健臣の一家が暮らす香村家だ。香村の家とは吉野が生まれる以前からの付き合いがあるらしく、物心ついたころには既に彼と面識があったらしい。らしい、というのはさすがに幼稚園に上がる前のことは覚えていないからで、吉野と香村は同じ幼稚園に通うようになってから高校までずっと一緒の、所謂幼馴染と呼ばれる関係だ。
 自分の家の前で立ち尽くしていた香村は、吉野に声をかけられるとびくりと肩を揺らして振り返った。どうやら、心ここにあらずといった状態だったらしい。
「え、あ、いや……鍵はあるよ」
「そう。旅行で疲れたんじゃない? ぼうっとしてるみたいだし」
 同じ学年であってもクラスが違う為、基本的にクラス単位で行動する修学旅行では彼とはほとんど顔を合わさなかった。……いや、一日目の夜にホテルの廊下でばったりと顔を合わせてオレンジジュースを奢って貰ったか。
「べ、つに……ぼーっとなんかしてない」
「嘘。顔も赤いし、風邪でも引いたんじゃないの?」
 吉野の知る香村健臣という男は昔から物静かで勉強が好きな子供だった。そして吉野に負けず劣らずにとても整った顔立ちをしているが、香村自身自らの容姿というものにまるで関心が無いらしく自分の容姿が整っていると認識していないようだ。小学生のころから眼鏡をかけ、前髪を重く垂らしているせいで彼の容姿に気づいている者は少ないのかもしれず、吉野は内心もったいないなと感じていた。
 そんな香村はずれてもいない眼鏡をしきりと触りながらもごもごと口の中で曖昧に言葉を転がしている。目尻から耳にかけてじんわりと赤く染まった肌に気づき、吉野は目まぐるしく思考を回転させた。
「……何かあったでしょ、廣川君と」
 これはただの勘である。女の勘などというものが本当にあるのかは知らないが、ここ最近香村の様子がおかしい時はだいたいの原因は廣川七瀬なのだ。
 廣川七瀬は二年生に進級した際に香村と同じクラスになった男子生徒だ。吉野自身はしっかりとした面識は無いが、明るい髪色で交友関係の広い彼はクラスを超えて目立つ存在だった。そんな彼に口説かれるのだと香村が吉野に相談してきたのは確か五月の半ば頃の話だったと記憶している。口説かれるとはどういう意味だろうかと香村の話をよく聞いてみれば、確かに廣川は香村を熱心に口説いているのだろうと確信した。
 香村健臣は基本的にごくごく一般的な常識と感性を持っている人だと吉野は思っている。真面目で時折融通の利かないことはあるが、考え方は思いのほか柔軟で感情の起伏も周りが思うよりずっと激しい。幼稚園の頃、友達にひどいからかわれ方をして傷ついた吉野のために代わりに喧嘩をしてくれたのは香村だった。彼は真面目が故かもしれないが、理不尽が許せない性格なのだろう。だとしたら、あまりに廣川がしつこいようなら香村は真正面からやめてほしいと声を上げる。吉野は彼がそういう人間であることを良く知っていた。
 吉野自身、恋愛というものに興味がない。いや、興味がないというよりも恋愛感情を理解することが出来ないのだ。友人たちの恋愛話や少女漫画、ドラマの恋愛ものは嫌いでは無いしむしろ好きな方だが、こと自分自身が誰かに恋愛感情を持つかといったらそれは否だった。もちろん十代で自分のセクシャリティについて決定づけてしまうのは時期尚早ではないか、とも思うので特段自分の恋愛観を口にすることは無いのだが、そんな吉野であっても……逆に、そんな吉野であるからだろうか、きっと話したこともない廣川という男は香村のことが本当に好きなのだろうと思ったし、廣川は香村を振り向かせたくて必死なのだろうとも思った。
「……何かあったのは、確かだけど」
 ぽつり、と香村がやけに小さな声で呟いて視線をさ迷わせる。何度も唇に指先で触れ、それに気づいて手を下ろす仕草に吉野は名探偵さながらに閃いた。
「健臣、ひとつ聞かせて? ちゃんと合意?」
 気は強いタイプだが押しに強いとは言えない香村が途端に心配になる。実際に話したことは無い物の廣川はそれほど悪い男には見えなかったが、ことと次第によっては放っておくわけにはいかないかもしれない。
 香村は勢いよく顔を上げ、首から上をみるみる赤くしていった。おや、と吉野は内心思う。
「合意っていうか、いや、違う。あ、違うっていうのはその、そうじゃなくて」
「じゃあ、好きになったんだ。彼のこと」
 幼稚園からの付き合いの中でも見たことのない動揺の仕方をする香村に、吉野はじんわりとした僅かな寂しさを感じる。
 彼もまた、吉野が知らない感情を抱いて、誰かに惹かれていくのだ。それが羨ましくもあり、少しだけ遠くに感じる。吉野が知らない感情を誰かに向けて、こうして動揺したり喜んだり傷ついたりするのだろう。少しだけ羨ましくて、けれど自分の先を行かれたような小さな憎らしさもある。
「好きかは、まだわからない。でも……付き合うことになった」
 香村はまだ赤い顔を上げ、眼鏡の奥から真っすぐに吉野を見て言う。真面目過ぎるんじゃない、と思いつつも、彼が真剣であることはよくわかった。
 吉野立花は恋愛感情というものがわからない。好きかどうかわからないけれど付き合ってみると言い、おそらくキスをしたであろうに嫌悪感を抱く様子もなく顔を赤くした幼馴染のその感情が恋愛に基づいたものであるのか、それとも友情の延長にあるものなのかもわからない。それでも、真面目な彼が真剣に考えてそうすると決めたのならそれで良いのかもしれないと思うのだ。
「そう」
 一度だけ、香村相手ならば恋愛が出来るのではないかと思ったことがあった。人並みに誰かを好きになるという経験をしてみたかったのだ。しかし、結局その試みが上手くいくことは無かった。だからやはり、少しだけ悔しい。
「健臣が廣川君に泣かされるようなことがあれば、私が彼を殴ってあげるから」
 そう言えば香村は一度驚いた様子で目を丸くし、しかしすぐにその整った容貌は笑みの形に崩れる。
「泣かないよ。それに、廣川君はそんなことはしないよ」
 失恋したわけでもないのに、なんだか話したことも無い廣川のことが憎らしくなりそうだった。